『楽士ナツミ・シュバルツ』


「――――」

粗末な鏡の中、映し出されるものを見て、ナツキ・スバル――否、かつてはそう名乗っていた存在は目を細め、何度となく入念にチェックする。

濃い目のアイシャドウと、丁寧にカールさせた睫毛。男女の差が最も大きく出るポイントでもある肌の質感を白粉を使って整え、唇を瑞々しく見せる朱色を差す。

衣装がなかなか難題だったが、ひらひらした布を多めに纏うことで体格を誤魔化し、一方で南方の気候と合わせたスタイルの実現にも苦心する。

なにせ、今回は貴族の令嬢という肩書きではなく、もっと足場の緩いふわふわした立ち位置――そう、旅芸人として振る舞わなくてはならないのだ。故に仕草はともかく、外見は『女性』をもっと押し出していかなくてはコンセプトと合わない。

「あとは詰め物をしつつ、限界まで体の肉を胸に集めてくる……」

ありとあらゆる技術を駆使し、頭の中にこれまでの出会いを思い描く。

エミリアから始まり、フェルトや憎たらしいエルザ、ラムとレムとの出会いに加えてベアトリスとペトラ、メィリィはいったん脇に置く。その後はプリシラとクルシュ、アナスタシア、この場は心の師と仰ぐべきフェリスに手を合わせ、さらにフレデリカと、外見だけは忌々しく整った魔女たち――これまでの、異世界で出会った美少女や美女、美少女風の存在から、『美』というイマジネーションをかき集める。

――イメージするのは、常に最も美しい自分だ。

余計なことは考えなくていい。その先に、思い描く答えがある。

そして、現状の手札で打てる最善手を打ち、辿り着くべき場所へ辿り着いた。

故に――、

「――これが、わたくし」

鏡の前を離れ、ゆっくりと深呼吸を重ねると、振り返る。

一人、孤独の戦いに挑んでいた時間を終えて、ついに扉を押し開いた。その先に、この作戦の成否を握る成否を待って、息を呑む仲間たちがいる。

彼女らが、扉を開けて出てきた自分へと視線を向けた。

「――――」

沈黙が生まれ、空気が張り詰めたのがわかる。

それが如何なる感情による沈黙なのか、とっさの不安が理解を拒む。確かに、勝負するための手札は何枚も欠けていた。あれがあればこれがあれば、後悔は後を絶たない。

だが、それがどうしたと、そう開き直ったのではないか。

いつだって、万全の状態で戦いに臨めるわけじゃない。どんなときだって、配られたカードで勝負するしかないのが人生というものではないか。

そう、まるで敗戦したかのような言い訳が自分の中に連なっていたときだ。

「――見事ダ」

微かな空気の破裂する音、それがしてとっさに顔を上げる。

見れば、破裂音の正体は何のことはない。それは手と手が合わさり、奏でられる音。拍手の音だ。祝福と感服、尊敬の入り混じった音だった。

「み……」

その拍手する相手を見て、声を投げかけようとする寸前、思いとどまった。

まだ不完全だった。軽く喉に手をやり、小さく空気をそこで弾ませる。そうして、自分の中で歯車が噛み合ったところで微笑み、

「ミゼルダさん」

「――っ、まさカ、声まデ?いったイ、いったイ、どこまデ……!」

「やると決めた以上、全力を尽くすのが務めというもの。わたくしが手を抜かないことで守られる命がある。だとしたら、わたくしのすべきことは一つ」

「おオ……!」

微笑みを消して、指を一本立てながら天へ向ける。

生い茂る木々に阻まれて太陽は覗かれないが、見せつけるべきは天上の存在ではなく、この場に集まっている大勢の仲間たちだ。

見るがいい、頭から足の先まで。

前から後ろから右から左から、いずこからでも問題ない。

――イメージするのは、常に最も美しい自分だ。

そして、そのイメージをトレースすることに成功したなら、理想を再現することができたのならば、もはや恐れるものはない。

ここに、権限せり――、

「――ナツミ・シュバルツ、再臨ですわ」

そう、雄々しく――否、淑やかに宣言したナツミ・シュバルツ。

それを前にして、拍手する手を止めた女性、ミゼルダが深々と頷く。それから彼女はナツミの隣に並び、こちらの背を手で支えながら、

「私の世界は狭かったらしイ。お前の言った通りだっタ、スバル……いいヤ、ナツミ」

「わかってくださったんですのね、ミゼルダさん」

「あア、悔しいガ、わかっタ。――美ハ、作れル」

目尻を下げ、優しく微笑んだミゼルダにナツミも微笑み返す。

その美しい光景を目の当たりにして、その場に集ったシュドラクたちも顔を見合わせた。それから、遅れてやってきた祝福として、拍手が降り注ぐ。

降り注ぐ拍手が鳴りやまず、ナツミの顕現を祝福していた。

そして――、

「なんだこレ」

「なノー」

イマイチ乗り切れないものたちが、頬を引きつかせてその光景を眺めていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「そんなわけで、ナツミ・シュバルツ爆誕ですの。ずいぶんとお化粧道具の勝手が違って戸惑いましたけれど、何とかこのぐらいは」

「ふざけてるんですか?」

「え!?」

集会場に戻り、改めて会議の場を設けたナツミ――否、スバルの言葉に、レムが絶対零度の視線と声音でそう応じる。

成果を見せても翻らないレムの態度、そこにスバルは自分の顔を指差し、

「やっぱり、付け睫毛が必要ですわよね……ウィッグは、シュドラクの皆様の黒髪をお借りしてどうにかあつらえましたけれど……」

「そんな話はしていません。化粧やかつらは、よくできていると思います。ただ、いつまでも女性のような話し方をする必要はないはずです」

「そうなんですけれど……気持ちが大事でしょう?常日頃から気を付けていないと、どこでボロが出るかわかったものではありませんもの。それに……」

「それに?」

「自分が男であることに甘えていると、美の女神にそっぽ向かれ……痛い痛い痛い!」

真剣に話していたところだったのに、レムにかなり強く耳を引っ張られた。

思わず涙目になり、そそくさとその場を離れる。そして、スバルは成り行きを見守っていたミゼルダの下へすり寄ると、

「ミゼルダ姉様、レムさんが怖いですわ……」

「うム、泣くナ、ナツミ。……不思議ト、スバルとわかっていても可愛く見えル。タリッタも見習エ」

「姉上!?」

スバルの頭を撫でながら、ミゼルダの非情な要求にタリッタが目を丸くする。

ただ、そう応じるタリッタの顔つきも、平時と比べるとずいぶんと柔らかい。それもそのはず、普段から施している『シュドラクの民』の戦化粧とも言える強めのメイク、それをスバルがアレンジし、可愛く見えるよう調整したのだ。

シュドラクとしては勇ましさとたくましさの方面から美しさを魅せるが、今回求められるのは華やかさと危うさを両立した、男を狂わせる魔性。

美の方針をそちらへ寄せると決めれば、タリッタやクーナの化粧は楽しかった。

「タリッタ姉様ったら、思ったよりずっと幼い顔立ちなんですもの。お化粧のノリもよかったですし、たまには可愛さを推すのも素敵でしてよ」

「か、からかわないでくだイ。第一、あなたのように可愛くはなれませン……」

「まあ、自信がないところもお可愛らしい。ねえ、ミゼルダ姉様」

「そうだナ、愛い奴メ」

寄り添い、密やかに話すスバルにミゼルダが頬を緩める。そんな二人の様子にたじたじのタリッタは、微かに頬を赤らめながら俯くばかり。

褐色の地肌は赤面がわかりにくいが、ほんのりと赤らんだ頬を目や唇の化粧が印象付けるため、見た目にも愛らしい変化がよくわかり――、

「いつまでふざけているんですか!」

と、そんな花園の風景を、レムが一喝で粉砕する。

突風を浴びたようにスバルとタリッタが小さくなり、そんな二人をレムは薄青の瞳で睨みつけてから、部屋の端にいるクーナの方を見た。

タリッタと同じく、化粧と髪を整えられたクーナが身じろぎし、

「な、なんだヨ、言っとくがアタイは何モ……」

「クーナさん、あなたが頼りなんです。この二人は見ての通りなんですから、正気なのはあなただけ……本気で、この作戦を実行するんですか?」

「正気なのはアタイだけってのはわかっけどヨ……」

髪をツインテールにしたクーナが、やる気のない目つきでスバルとタリッタを見る。

何とも心外な評価だが、スバルには成り行きを見守る余裕があった。正気ではないと言われ、ショックで震えているタリッタとは違う。

そんなスバルたちの反応に、クーナは小さく吐息をこぼし、

「作戦ができねーっテ、その理由が消えちまったのはレムもわかんだロ?ナツミ……スバルの奴は問題ねーヨ。ありャ、族長より女だゼ」

「それはミゼルダさんに失礼すぎると思いますけど……」

「ともかク、アタイは問題と思ってねーヨ。あとハ、あっちの成果ヲ――」

そう、クーナがレムとの問答を〆にかかったところだった。

「――揃っているようだな」

「オ、噂をすれバ……」

尊大な、誤魔化すつもりのない声色が集会場を包み、新たな人影が現れる。

クーナの視線がそちらへ向くと、レムも仕方なしに同じ方を向いた。当然、スバルやミゼルダ、他の面々の視線もそちらに集まり――、

「――――」

瞬間、全員の時が止まった。

――否、正確には現れた人影と、それに化粧を施したスバル以外の時が、だ。

「微調整は任せましたけれど……嫌味なぐらい、お上手ですのね」

「粉飾の手際を称賛されて嬉しいものか。とはいえ、貴様の技能には目を見張った。完成形も化けるものだな。想像していたよりも見れるではないか」

「くっ、勝者の余裕……!」

言いながら、スバルは悔しさにそっと自分の小指を噛んだ。

もちろん、美は作れるという信念に疑いはない。それ自体は、少ない手札を駆使してスバルが自らの肉体で証明してみせたと自負してもいる。

しかし、それでもやはり素材の差というものは存在するのだ。

それが――、

「あ、アベルさん、ですか?」

「他に誰がいる。たわけた問いを投げかけるな。いや、それほど変わったということであるなら、貴様の驚きは参考として適切ということか」

震えるレムの言葉にそう応じて、白く細い五指を握りしめるのはアベル――否、化粧とかつら、そして衣装チェンジの末に生まれた存在、ビアンカだ。

鴉の濡れ羽色の黒髪は長く艶やかで、切れ長の瞳を擁した美しいかんばせと至上の調和を生み出している。決して過剰ではないが、人目を惹きつけて然るべき露わになった肌は白く、踊り子の衣装は腹部と足の根本までを剥き出していた。

そこに立っていたのは、極限の美貌を再現した美しき舞姫――この計画に欠かせない、最高のジョーカーの手札であった。

「――――」

あまりのビアンカの完成度に、ミゼルダたちも声を失った。

それは変化の大きさが衝撃として強かったスバル=ナツミとは異なる、美貌の完成度がもたらした純粋な衝撃、アベル=ビアンカにはそれがあった。

踊り子の衣装や長い髪を飾ったシュドラクの宝飾品の数々も、まさしく本物の美貌を際立たせるための添え物の役割にとどまっている。

とっておきだと、ミゼルダが貸し出してくれたときの笑顔が思い出された。

その笑顔が思い出されると、どうしてかスバルの胸がしくしくと痛む。しかし、スバルにはミゼルダたちを気遣い、手を抜くという選択肢がなかった。

どうして、この完成を自ら台無しにできようか。

そんなことはスバルの、ナツミ・シュバルツとしての自我が許さなかった。

「化粧に抵抗感がなかったのも、わたくし的には意外でしたけれど……」

「なんだ、婦女子を装うのを恥辱と思うとでも?言っておくが、こうしたことは初めてではない。それこそ、幼少の頃に幾度も経験した」

「子どもの頃、ですの?」

「ああ。俺の立場を思えば、身を守る術は広く持ち合わせておくものだ」

可愛げなく腕を組む美女、そんなビアンカならぬアベルの態度にスバルは唇を曲げる。

おそらく、彼が過去にした経験というのは、まだ皇帝の座に収まる前の、それこそ皇帝候補だった頃の暗闘の話だったのだろう。

どうやら、ルグニカと比べてはるかに物騒な王位継承が行われるらしいヴォラキアでは、次代の皇帝の座を巡った暗殺合戦が繰り広げられていた可能性が容易に想像できる。

そうした過酷な日々を生き延びるため、自らの姿を偽り、時には性別さえも誤魔化して行動することもあった。

アベルの、己自身を含めた犠牲を厭わぬ姿勢は、彼が皇帝の座を勝ち取る以前、幼い日々からの積み重ねによって形作られたものらしい。

それが巡り巡って今、こうして女装したアベル=ビアンカに現れている。

「それでも、自分が美人だと自覚があるのはなんだか腹が立ちますわ……!」

「それこそ馬鹿げた話だ。広く自国を見渡さなければならぬ立場で、自分自身さえ客観視できなくてどうして頂が務まる。貴様はその客観的な評価を技術によって覆したようだが、そのような小細工、俺には必要ない」

「ぐ……っ」

「虎が何故強いのかわかるか。虎は強いから強いのだ」

ガーフィールからも聞いたことのある理論、それにスバルは打ちのめされる。

虎が強いのは虎だから理論、それは裏を返せば、アベルが美しいのはアベルだからという説明で全てが片付いてしまう。もはや、論理の暴力だった。

ラインハルトが強いのはラインハルトだから、と言ってしまうのと同じだ。

つまり、身も蓋もない意見なのである。

「どうせ、どうせ……フローラも同じこと考えているんですのね!」

「そこで僕に飛び火するのかい、旦那くん!?」

そのアベルの後ろ、一緒にやってきていたフローラ=フロップが仰天する。

彼女に扮した彼も、素材の味わいを十分に活かすだけで仕上がりの完成度が高いとわかっていたタイプの美貌だ。実際、スバルやアベルと違い、元々長かった髪のいじり方を多少変えている程度なので、素材の味が最も出ているのは彼と言える。

実際、並び立てば大きく見劣りするわけではない自信はある。あるが――、

「手間暇の、手間暇のかけ方が違いますのよ……神の贔屓……!」

「何やら遠大に嘆いているところあれなんだが、しかし、旦那くんはすごいな!見違えてしまった!もはや旦那くんではなく、旦那さんだ!」

「……もう、そのぐらいの誉め言葉では満足しなくってですわよ」

「今の褒めてたのカ?アタイにはわかんなかっタ」

フローラとなっても率直なところが変わらないフロップ。ともあれ、彼の場合はそれでいい。多少、計画の方針に沿った演技指導が必要にはなるだろうが。

この場において、一番それが重要になってくるのはアベルなのだ。

「わたくしとフローラは楽器ができる。ですから、あなたの役目は……」

「舞だろう。言われずとも、計画は頭に入っている。俺の役回りの重要性もだ。それに」

「それに?」

「死んだ妹ほどではないが、俺も舞は得意でな」

頬を歪め、勝ち誇った尊大な笑みさえも美しい。

自信に満ち溢れたアベルの姿勢は心強いと同時に、スバルの胸を期待で焼いた。実際、アベルはその魔性を遺憾なく発揮し、ビアンカを完成させた。

その自己認識が正しいなら、舞にも期待を寄せられる。

「――。いいですわ。そこまで仰るなら、その実力を見せていただきます。せいぜい、ご自分の吐いた唾は呑み込まれないことですわね」

「吐いた唾……ふん、雲に唾を落とされるということか。持って回った言い回しだが、よかろう。貴様に教えてやろう」

「――――」

「それが、この策を献策した貴様への、せめてもの褒美というもの」

自分を疑うことがないのか、女装した状態でもアベルの不遜さは衰えない。

そのことに心強さと脅威を感じながら、スバルはそっとレムを見た。残念ながら、彼女を計画に同行させることはできない。

だが、それでも――、

「無事を祈っていてくださいまし。あなたのために、わたくし、励んでまいりますわ」

「――。――――。――――――――。――――――――――。はい」

「祈るのに時間がかかりましたわね!?」

心底、神妙な顔をしたレムからの遅い返事に、スバルがそう声を上げる。

それを聞きながら、レムの傍らのルイがひょいと頭を引っ込めた。どうやら彼女にも、ナツミがスバルであると認識できなかったらしい。

ひとまずはその反応で、作戦の弾みをつけたと納得するのが吉だった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――『クマソタケル作戦』。

それが『女好き』、帝国二将であるズィクル・オスマンを狙い撃ちにする作戦名だ。

古事記に倣った作戦名はスバルの提案だが、幸い、誰からも異論はなかった。

そこは立案者のスバルを尊重してくれたのか、そもそも作戦名に誰も拘っていないのかは定かではないが、揉めずに済んだのは幸先がいい。

なにせ、計画にはどうしても運の要素が絡まざるを得ないポイントがある。

もちろん、その勝算を上げる苦労は惜しまずするが、幸運の積み立ては難しい。ならば小さなことでも、追い風を実感するのは悪いことではなかった。

――バドハイム密林を離れ、一行はグァラルへと進路を定める。

実働班はスバル=ナツミ、アベル=ビアンカ、フロップ=フローラ、タリッタとクーナの五名と確定し、残りのミゼルダ率いる『シュドラクの民』は別動隊だ。レムやルイ、ミディアムもこちらに含まれることとなる。

都市から離れた場所に潜伏する彼女らには、いざとなれば城郭都市の壁を攻撃し、陽動を引き受けてもらう必要がある。ただし、あくまでそれは保険だ。

計画が失敗した場合の、あまり効果の期待できない保険。仮に計画が失敗すれば、そのときにはスバルたちもかなりの危機的状況に陥っているだろう。

ともあれ――、

「個人的には、最初の検問が一番の山場ですわね」

堂々と正面から、高々と眼下を睥睨している大正門を見上げてスバルは呟く。

一度は強引に突破した正門へ、日数を開けたとはいえ再び挑むのだ。当然、先日のことがあり、検問の警戒レベルは前回よりも上昇している。

不逞の輩の再侵入に備え、特に重点的に調べられているのが竜車や牛車、積み荷に人を隠すことができる乗り物の類だ。積み荷をひっくり返され、藁は丁寧に剣でつつかれるなど、商売道具を乱雑にされる商人や旅人たちの悲鳴が聞こえてくる。

正直、彼らには悪いと思う気持ちはかなり大きい。ただ、この先に都市で起こる混乱を思えば、あるいはここで引き返すのが賢明かもしれないとも思った。

もちろん、そんなアドバイスを彼らにするようなことはできないが――、

「――次、お前たちは?」

と、考え事をするスバルの鼓膜を、厳つい男の野太い声が打った。

顔を上げれば、こちらを手招きしているのは屈強な体格をした禿頭の衛兵だ。彼に呼ばれて進み出る一行、その先頭でスバルは恭しく頭を垂れた。

「わたくしたちは、旅芸人の一座でございます。北から流れ、この都市へ参りました」

「ほう、旅芸人の……」

物珍しさに眉を上げ、衛兵がスバルの背後の一行にも目を向ける。

楽器を背負ったフローラが手を振り、荷物を背負ったタリッタがお辞儀、クーナは隣の人物に日傘をかけ、当の相手はヴェールで顔を覆い、表情も窺わせない。

なかなか雰囲気のある一団だと、衛兵が感心する様子が感じられた。

「――――」

一方、愛想笑いを維持しながら、スバルの内心は緊張が張り詰めている。

相手の衛兵、彼には見覚えがあった。それこそ前回、スバルがフロップたちと初めて出会い、グァラルへ入ったときにも正門を担当していた一人だ。

つまり、最初の関門としてこれ以上ないほどうってつけの相手と言える。

「しかし、北からとは大変だったろう。向こうじゃ『灼熱公』の領地が賑やかになってるって噂だ。飛竜の群れが飛び交うぞ」

「ええ、ええ、そうなんですの。ですから、あまり長居もできなくて……その点、こちらは立派な壁に守られた都市、きっと安全ですわよね?」

「あ~っと、それは……」

しなを作り、微笑むスバルに衛兵が気まずそうな顔をする。

その反応の理由は、彼らも都市に陣を焼かれた帝国兵が逃げ込んできていることを把握していることだろう。その上、先日のスバルたちの起こした騒ぎもあったため、おそらく都市内の帝国兵は警戒を高め、雰囲気もピリピリしていると考えられる。

そうしたことが、衛兵の言葉を濁させた原因に相違あるまい。

ならば、それを利用しない手はない。

「……もしかして、この都市でも何か不安がおありですの?」

「……いや、うん、隠してもすぐわかることだな。実は、今この街には帝国軍が駐留してるんだが、東の部族と揉めてるらしいんだ。それで……」

「まあ!それでは街の皆様も、息が詰まってしまうでしょう」

「そうなんだよ」

どうやら鬱憤が溜まっていたらしく、スバルの言葉に衛兵が前のめりになる。

接点のない立場だと区別がつかないが、基本的に衛兵と兵士では立場の異なるものだ。都市における衛兵の所属は、あくまでその都市に帰属している。一方、兵士の所属は国であり、この場合は帝国。その指揮系統も根本から違う。

目の前の衛兵も、この街の人間として街を守る役職に就いている。

しかし、現状は帝国軍に都市庁舎を占拠され、あれこれと命令される立場なのだから面白くはないだろう。帝国兵に顎で使われる謂れはないわけだ。

「挙句、連中は夜の見回りなんて称して、街の酒場を自分たちで占拠しちまう。金払いも悪いとなっちゃ、店だって商売上がったりさ。やってられねえよ」

「まあ、まあ、なんてひどい!心中お察しいたしますわ。ここだけの話、わたくしたちも帝国兵の横柄さには、それはそれは散々な目に遭ってきましたのよ」

「へえ、そうなのかい。あんたみたいな美人さんも……」

深く相槌を打ち、声を大きくして賛同するこちらの態度に、衛兵の対応も一気に軟化する。それどころかかなり親しみを感じてくれている男に、スバルは「ええ」とわずかに声の調子を落とし、視線を逸らして俯いた。

その意味深な仕草を見て、衛兵が「お、お嬢さん?」と動揺する。

「大丈夫かい?話したくないってんなら、わざわざ話さなくても……」

「いいえ、大丈夫です。古い、古い話ですから。ただ以前、帝国兵の方々に無理やり捕まって檻に入れられたり、奴隷のように扱われたことが」

「そりゃあ……」

「わざと足をかけて転ばされたり、ひどいときには刃物で脅されて……」

「ゆ、許せねえな……!」

涙ながらに過去を語るスバルに、義憤に駆られた様子で衛兵が拳を固める。

怒りに耳を赤くした男を見て、スバルは「優しいんですのね」と小さく呟いた。

「い、いや、優しいわけじゃねえ。誰でも、あんたと同じ気持ちになるさ」

「だったら、ねえ、衛兵様。もし、わたくしを哀れに思ってくださるなら、ぜひとも中へ入れてくださいな。そうしたら……」

「そうしたら?」

「この、帝国兵の方々が殺伐とさせた空気、一新してみせますわ」

声は小さく、しかし、声に込められた熱意は熱く。

それを聞いて、衛兵が厳つい顔を驚きに染める。その視線が向くのは、スバルの後ろに並んでいる旅芸人の一座だ。

「……お嬢さん方、芸事はいったい何を見せてくれるんだ?」

「もちろん、各地を巡って様々な芸事を身につけてまいりました。わたくしも歌と演奏、ちょっとした奇術など嗜んでおります。ですけれど……」

「……ごくり」

「一番の見物は、なんといっても一座の華、舞姫の舞でしてよ」

そう言ってスバルが指し示したのは、一行の中心に立つ日傘に守られた人物。その顔をヴェールで隠し、悠然とした立ち姿を晒した一座の大本命。

そのヴェールの向こうからの眼差しを浴びて、衛兵が目を見開いて硬直する。

全てが露わになっていないにも拘らず、彼の喉は凍りついていた。

「――――」

目を奪われ、動けなくなるのも当然だろう。

それはスバルも悔しくなるような最高傑作、『美は作れる』と豪語したものの、やはり本物の美とは神なるものの造物なのだ。

所詮、スバルはそれに対してひと手間加えた程度に過ぎない。

だが、そのひと手間でも、さらに魔性を研ぎ澄ませるには十分だった。

「舞姫に加え、わたくしたちも歌い、奏でさせていただきますわ。ぜひとも、グァラルへの滞在をお許しくださいまし」

「――――」

「衛兵様?」

「……あ、ああ、そうだな。特に、怪しい持ち物もないみたいだし……」

ちょんちょんと肩をつつかれ、我に返った衛兵がそう呟く。それから彼は自分の胸に手をやり、心の臓の拍動を確かめるように呼吸しながら一座を見渡した。

そして極力、魔貌に魅入られまいと意識して視線を外しながら、

「入っていいぞ。どこかで芸をやるなら、正門からは離れた方がいい。街の真ん中の大通りなんかがおススメだ。都市庁舎は、兵士が多いから候補から外しな」

「まあ、ご親切に。……時に、衛兵様はいつ手が空きますの?」

「お、俺?俺は、夕暮れになったら交代して飯を食うが……」

「では、そのお店を教えてくださいな。きっと、同僚の方々も連れてきてくださると、わたくしたちによくしてくださったお礼ができると思いますわ」

そっと身を寄せて、衛兵の耳元に囁きかける。

衛兵が驚いて目を丸くすると、スバルは彼に微笑みかけ、距離を取った。それから、検問を待ち焦がれる一座の仲間に振り向き、

「さ、いきますわよ、皆様。この街の、荒れた空気を晴らして差し上げに」

そう言って、足を止めていた面々を引き連れ、スバルは衛兵の傍らを抜ける。

耳を押さえ、呆然としている衛兵がその背を見送り、スバルたちは堂々と、何の問題もなく正門を抜けて都市の中へと入った。

それを見届けながら、衛兵は静かに息を吐いて、

「……今日は、さっさと仕事片付けよう」

と、そうこぼしたのだった。

「いやはや、見事なものだったね、旦那さん!僕はひょっとして、僕より君の方が商人の才能があるんじゃないかと思ってしまったよ!」

正門を抜けてしばらく、それぞれ少ない荷物だけを持った一行の中、フローラことフロップが目を輝かせ、検問でのスバルの振る舞いを称賛した。

あけすけな彼の言葉には嘘がなく、スバルも上機嫌で「ええ」と頷く。

「お褒めに与り光栄ですわ。でも、わたくしが商人なんてとんでもありません。わたくしには、やるべきことがありますもの」

「やるべきことかい?それは?」

「もちろん、淑女としての……ではなく、大切な人の力になることですの」

「――――」

スバルの言葉を聞いて、フロップは微かに目を見開いた。しかし、彼はすぐに口元を緩めると、「そうか、そうだね」と頷く。

「では、一刻も早く、この計画を成功させて奥さんを安心させてあげなくてはだ」

「フローラも、ミディアムさんを不安がらせてはいけませんものね」

「はははは!妹が心配なんてするはずないさ。僕も妹はそれはそれは、心も体もタフな子だからね。凹むところなんて想像がつかないな!」

淑女らしさはないが、朗らかに笑うフロップにスバルも同感だ。

フロップもそうだが、ミディアムにも凹むなんて姿は想像がつかない。兄妹二人で助け合い、様々な荒波を共に乗り越えてきたのだろう。

だからこそ、巻き込んでしまった二人に対する責任がスバルにはある。

「ますます、しくじれませんわね」

「ま、待ってくださイ、スバル……いエ、ナツミ」

気を引き締めるスバルの背に、どこか弱々しい声がかかる。

見れば、それは一行の荷物を持ってくれているタリッタだった。常の彼女と違い、密林を出たタリッタは化粧を変え、衣装も変えている。

アマゾネス感の溢れるシュドラクの装いではなく、ひらひらした布を増やし、イメージ的にはエキゾチックなエスニック系の踊り子ファッションだ。

むしろ、普段の格好よりも露出は減っているのだが、タリッタは恥ずかし気に頬を染めながら、ちらちらと周囲に目を配り、

「な、なんだか注目されていませんカ?私やクーナに変なところがあるのでハ……」

「アタイまで巻き込まねーでくれヨ。大体、変って言い出したらナツミより変な奴なんかいねーだロ。なんだヨ、さっきの検問。男の扱いがうますぎただロ」

おろおろするタリッタの傍ら、クーナが常のローテンションで先ほどのスバルに触れる。そう言われると、スバルは「あら」と頬に手を当てて、

「殿方のお相手をするのは初めてではありませんもの。それに、安心なさい、タリッタさん。あなたやクーナが目立っているわけではないわ。目立っているのはわたくしたち全員ですもの。……だって、美しいから」

「美しいからだね!」

深々と頷いて、フロップもスバルも意見に同意する。

その答えにタリッタは「うつく、しい……」と信じられない顔をした。

「そ、そういう言葉なラ、姉上ニ……」

「何を言うんだい、タリッタ嬢!君の姉上と君の魅力はまた異なるものさ。第一、君への賛辞を用いたところで、ミゼルダ嬢への賛辞が尽きるわけじゃない。それは別物、別腹というやつだよ!」

「――っ!」

パッとフロップがタリッタの手を取り、輝く笑顔でそう言ってのけた。

その勢いに目を剥いて、タリッタがパクパクと口を開閉させる。見る見るうちにその頬の赤みが増していくので、スバルは「あらまあ」と口に手を当てた。

「勘弁してくレ。タリッタは特に族長べったりだかラ、ほとんど森からも出たことねーんだヨ。そのせいデ、耐性がねーんダ」

「まあ、微笑ましい。でも、あなたは落ち着いていますのね」

「アタイはわりとちょくちょく森から抜け出してたシ、立派でおっかない姉なんてのもいなかったからナ。……手のかかる妹みてーなのがいるガ」

閉口するクーナの脳裏、浮かんでいるのはおそらくホーリィだろう。

姉妹のような親友のような、あるいは親と子のような微笑ましい距離感の二人だった。とはいえ、タリッタの言葉も無視できるものではない。

「――――」

周囲、確かに検問を抜け、通りを歩く異装のスバルたちへ注目が集まっている。

物珍しい格好な上、都市中が帝国兵の警戒につられてピリピリしている状況だ。当然、その市民の目も余所者に厳しいと考えられる。

となればそれは――、

「――好機だな」

「好奇の目だけに、ですわね」

日傘の下、ヴェールに包まれた鋭い視線がスバルの横顔に突き刺さる。

くだらないことを言うなと釘を刺され、スバルは「はぁい」と拗ねて回答。しかし、これが好機という判断は、スバルも舞姫に同感だった。

故に――、

「衛兵様のアドバイスに従って、大通りにて初披露と参りましょう!」

「よしきた、旦那さ……いいや、ナツミ嬢!」

バッとその場での興行を決意し、そう宣言したスバルにフロップが続く。

二人は纏っていた衣装の一部を脱ぐと、肩や腹、背中を露わにしながら進み出て、それぞれ楽器を手にしながら大通りの横へ構えた。

そして――、

「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!これよりお見せいたしまするは、はるか東の大瀑布、大水の彼方より、時を超え、世界を跨いで受け継がれし、歌と舞!披露いたしますは、本日より都市へ参りました旅の一座でございます!」

声高らかにスバルが謳い文句を口ずさみ、アイコンタクトを受けたフロップが手にした弦楽器――リュリーレを奏で始める。

軽やかな音が結び付いて音楽となり、それを聞いた人々の注目がさらに高まった。

「お、何が始まった?」

「旅芸人だって!音楽、音楽!」

「へえ、こりゃ別嬪揃いじゃないか……」

ぞろぞろと、スバルの口上とフロップの音楽に誘われて、通りを歩く人々が足を止め、あるいは建物の中から顔を出し、一行の様子に注目が集まる。

なお、スバルとフロップの二人が主な楽器を担当し、タリッタとクーナは簡単な打楽器の演奏、カスタネット的なポジションでの参加だ。

それでも十分ありがたいし、フロップの腕前が思った以上に達者だったので、音楽に関しては問題ない。何より、勝算は真ん中に控えているのだ。

「これより歌い、舞わせていただきますのは、遠い遠い異なる世界の物語!人と人、龍や鬼、あるいは言の葉にし得ぬ異様の輩、それらが織り成す物語でございます!どうぞ皆様、最後までごゆるりと、心行くまで堪能あれ!」

笑顔と胸躍らせる口上で期待を膨れ上がらせながら、スバルの傍らで弾き語るフロップの演奏が最初の山場へ差しかかる。

皆、その演奏技術と楽士の美しさに惚れ惚れしているが、本命はこの直後だ。

そして、音楽が最高潮へ高まったところで――、

「――――」

ゆったりと、纏っていた薄絹を脱ぎ、通りへ進み出る黒髪の踊り子。

ヴェールを手で持ち上げ、その顔貌が露わになると、音楽に聞き惚れていた人々の視線がそちらへ向いて、殴られたような衝撃が彼らを突き抜ける。

そう、そうだ。その反応が、その顔が、その動揺が欲しかった。

「まったく、悔しいですこと」

楽器を演奏しながら、スバルは内心のしてやられた感をそう言葉にする。

胸の奥には敗北感がある。だが、ここまでやられればいっそ気持ちがいいぐらいだ。嘘だ。敗北感は敗北感なので悔しいの一言。

しかし、この熱狂へと変わる直前の静けさこそが、今回の計画の要となる。

ならば存分に、その舞でもってグァラルの人々を魅了するがいい。

「さあ、出番ですわよ、ビアンカ――!」

「――――」

ちらとこちらを流し目で見たあと、ゆっくりとビアンカ――アベルが腕を上げる。

ただ腕を上げただけの一動作。にも拘わらず、その仕草には存在の奥底から滲み出る品があった。それは空気に溶け出し、一瞬で大通りを支配する。

流麗な、美しく厳かな舞が始まる。

奏でられる曲に合わせたその踊りは、アベルが元々習得していたものにスバルなりのアレンジを加えたもので、誰の目にも初めて映る代物だろう。

もっとも、そうして小手先の小細工は必要なかった。

スバルの小細工で、盤石だったものがより上位のものへ仕上がっただけだ。

「――――」

麗しの舞に目を奪われ、観客たちが呼吸を忘れる。

一瞬たりとも目を離してはならないと、それは本能に訴えかける美の慟哭だ。大げさに言えば、眼球とはこのためにあったのだと知れ。

アベルの舞は傲慢に尊大に、そうした考えを相手に突き付ける。

――俺を見ろ、と。

魅了され、呆けた観衆の姿にスバルも発案者ながら恐ろしいものを覚える。

もしもここに盗人がいれば、立ち尽くす人々は自分の懐を堂々とまさぐられ、財布を持ち逃げされたとしてもちっとも気付けないに違いない。――否、その前提は成立しない。何故なら盗人さえも、アベルの舞から目を離せなくなるだろうから。

「――――」

ほんの一曲、時間にしてみれば五分足らずの舞が終わる。

演奏する側は失敗しないように集中していたが、はたしてとちったところで誰かがそれに気付いてくれたものか。正直、疑わしいというのがスバルの本音だ。

演奏が終わり、アベルの両足の踵と爪先が地べたにつく。

その姿勢を見て、ようやく観衆は舞がすでに終わっていて、ただアベルがそこに立っているだけだと気付いたらしい。

わっと、直後に割れるような拍手と歓声が大通りを包み込んだ。

期待通り、狙い通り、まさしくしてやったりの大反響。

しかし、楽器を掲げて歓声に応えているフロップと違い、スバルは観衆向けの笑顔を作りながら、何とも複雑な心地だった。

なにせ――、

「――ふん」

と、そう勝ち誇った笑みを浮かべるアベルに、何一つ反論が浮かばなかったから。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

城郭都市グァラルにおける一座の評判は、最初の舞の大成功が決定付けた。

大通りを舞台とした一種のデモンストレーションだったが、期待をはるかに超える反響があり、その後の一座の活動はずいぶんと楽になった。

もっとも――、

「あくまで、物珍しさが先立った脚光であることを忘れてはなりませんわよ。所詮、わたくしたちの芸事は付け焼刃……今は飛び道具がウケているに過ぎませんもの」

「なるほど!つまり、地道な技術の研鑽が求められるというわけだね、旦那くん」

「ええ。だからこそ、日々のたゆまぬ努力と意識が必要ですのよ!」

そう力強く拳を固めるスバルに、律義に正座するフロップが笑顔で頷く。

声が大きく、はきはきと対応してくれるフロップは実に聞き上手だ。おかげでついついスバルの話も勢いを増してしまうが、そこはご愛敬。

ともあれ、真にスバルが話をすべきなのはフロップではない。

「聞いておりますの、そこの二人!気を抜いてはいけませんわよ」

「うオ、飛び火しタ」

「わ、私たちですカ……!?」

ビシッとスバルに指差され、心外そうな顔をするのはタリッタとクーナの二人だ。

宿の中、二人はおめかしした服を脱ぎ捨てて、ほとんど下着姿も同然なシュドラクスタイルへと戻っている。街中、一座として活動するときはちゃんと装ってくれているが、こうして人目のない宿の入るとすぐこれだ。

「たるんでいますわね」

「たるんでねーとは言わねーけド、逆にアンタはなんなんだヨ……」

「なんだ、とは何の話ですの?主語のない会話は気持ち悪くてよ」

「どうしてナツミハ、誰も見てないところでも自分を偽っているのカ、私やクーナにはわかりませン。必要ないのでハ?」

「自分を偽る……?」

心当たりがない、とスバルが声に疑問を交えると、タリッタたちがギョッとする。

さすがに、それは「冗談ですわ」とスバルは彼女らの驚きを躱し、

「とはいえ、その考えはいただけませんわね。いいですこと?神は細部に宿ると申しまして、一見無駄にも思える細かな拘りこそが、それにリアリティというものをもたらすのです。ですから、人目のないところでこそ……」

「手を抜かない姿勢が大事、そういう話なわけだね。うんうん、さすがは旦那くん……いやさ、ナツミ嬢!僕も大いに勉強になるよ!」

教え甲斐のある生徒のフロップ、その回答は百点満点だ。

もっとも、いくら直そうとしても「僕」という一人称が直らない点について、クーナが抗議の目をスバルに向けてくるが、それは微笑みで受け流した。

――現在、スバルたち旅芸人一座はグァラルの宿屋に滞在している。

すでにグァラルへの潜入を始めて三日が経過しており、その間、合計で十回の興行を行い、それなり以上の反響をもらっている。

元々、エルギーナの角を売った際の代金があるので金に困ってはいなかったが、興業のたびに結構な金額のおひねりが飛び込んでくるため、それでも十分やっていけそうな手応えだった。

「ただ、そろそろ次のアクションが欲しいですわね」

そっと顎に指を這わせながら、スバルは停滞した状況の変化を望む。

実際、現状はうまくいきすぎなぐらいうまくいっている。毎回の興行は大盛況だし、衛兵を含めた市民たちの好感度も上々だ。

そこはビアンカの舞の完成度と、ナツミやフローラの会話技能がモノを言っている。

ミステリアスさも売りであるビアンカは、舞を踊る以外はほとんど人前に顔を出さないため、自然と情報収集はナツミたちの役割となった。

元より、女性の声が出せないビアンカ=アベルに喋らせるわけにはいかないため、そこはナツミ=スバルやフローラ=フロップが引き受ける予定だったが。

「不思議と、フローラは誰にも怪しまれませんのよね。声も変えてないのに」

「ははは、ナツミ嬢みたいな特殊技能は持ち合わせていないからね。でも、妹とずっと二人旅をしてきたんだ。もしかしたら、妹の癖とかがうつって、それが女性らしさに繋がっていたりするのかもしれないよ」

「ミディアムさんから、ですの……」

楽しげに新説を提唱するフロップだが、スバルの脳内に浮かび上がったミディアムは、その外見こそ美人で、コロコロと変わる表情も愛らしく魅力的だが、フローラの完成度に彼女の存在が影響しているという説は眉唾だった。

「――無駄話とは、ずいぶんと余裕のあることよな」

「む」

と、そんな会話を交わすスバルたちへと、冷たく凍えた声音が投げられる。

それは窓辺の椅子に腰掛け、こちらの会話に一度も混ざってこなかった一座の舞姫、その頭にかつらを被っていないアベルだった。

連日、興行の主役として各所で舞い踊るアベル、その横顔には気丈として見せまいとしているが、微かな疲れの色が覗かれた。

当人は決して認めないだろうが、グァラルで過ごすことは心身に大きな負担がかかる。常に敵陣の中で気を張っているのだ。スバルだって、こうしてナツミとして自らを戒める言動を重ねているのは、気が抜けるのを避けるため。

敵中で気が抜ければ、どんな悲劇が待ち受けるかわかったものではない。

レムにも、ミゼルダにも、最初は悪ふざけとみなされた作戦だ。

だが、スバルは真剣にこの策を提案し、成功率を高めるために議論を重ねた。これにしくじって、残念でしたと諦められるほど物分かりはよくない。

だからこそ――、

「ビアンカ、あなたこそ少しは休んだらどうですの?今さらですけれど、わたくし、あなたが寝ているところを見たことがありませんわ」

「ええ、何を言い出すんだい、ナツミ嬢。そんないくら何でも……あれ?あれれ?言われてみると、僕もビアンカ嬢が寝ているところを見た覚えが?」

スバルの指摘を笑おうとして、笑えないと気付いたフロップが瞠目する。そんなフロップの様子に目も向けず、アベルは鼻を鳴らして取り合おうともしない。

アベルの強い警戒心は継続中で、彼はスバルたちにすら心を許していなかった。

もちろん、彼の立場で他人に心を許すのが容易いはずがないことはわかる。

だが、こうして命懸けの作戦に共に挑んでいる仲間にさえ、気を緩めるところを見せられないというのは気疲れするどころの話ではないだろう。

相変わらず、瞬きすら両目同時にすることもしない。両目を一度に閉じたぐらいで、ここの誰かが何かをするはずもないのに。

「疲れませんの?その生き方」

「――。それを貴様が言うのか?」

率直に、思ったことを伝えたスバルにアベルが眉を顰めて言い返した。

それを聞いて、スバルは何を言われたのかがわからない。アベルの生き方が息苦しいのは確実で、スバルの方はそうではないというだけの話なのだが。

「自覚がないというのも殊更憐れなものよな。だが、許そう。せいぜい続けよ」

「言われなくとも、生き続けますわよ。あなたの方は……」

「両の目を閉じるということは、生殺与奪の権利を相手に委ねるということだ。それを刹那でも許すほど、俺は俺を軽く見ていない」

「――――」

「緊張感を損なうな、とは貴様の言でもあったはずだがな」

ああ言えばこう言うと、そう言い返したい口さえも封じられた。

苦々しい気持ちでアベルの横顔を睨むスバルだが、もはや相手にされていない。

かつらと宝飾品を外したアベルは、何かあればすぐにビアンカへ化けられるよう、宿での衣装も女性用で統一している。故に、現状はウィッグを外した不均衡な状態であるはずなのに、ウィッグなしでも様になっている。

それこそ、スバルがフロップを含めた他の面々に言い聞かせている、『常在戦場』の心構えが完成されているからこその、張り詰めた美しさなのだろう。

と、アベルの冷たい横顔にそんな心象を抱いていると――、

「――動きがあったな」

「へ?」

そう呟くと、椅子から立ち上がるアベルが寝台へ向かう。そこに置いてあった自分用のかつらを手早く被り直す彼に、スバルは呆気に取られる。

しかし、彼の行動の意味はすぐにわかった。

階下から派手な、そして遠慮のない足音が上がってきて、スバルたちの部屋の扉を乱暴に叩く音が響いたからだ。

「旅の一座がいるのはここか。開けろ。都市庁舎の使いだ」

「あ、ちょっ、ちょっと待ってくださいまし!」

「はっ、笑わせるな、待つかよ。こっちは兵隊様だぞ」

粗野な声が慌てるスバルを嘲笑い、部屋の扉が無遠慮に開かれる。すると、ずかずかと部屋に上がり込んでくるのは、赤と黒が特徴的な兵士の制服に身を包んだ男。

その背中に二本の剣を背負い、暴力的な衝動を隠さない面貌を喜悦に歪ませるのは、スバルも見た顔――ジャマルだった。

「――っ」

「そうびくつくな、取って喰いやしねえよ」

思わず息を詰め、身を硬くするスバルにジャマルが歯を鳴らす。右目に眼帯をした彼は隻眼で室内を睥睨、「へえへえ」と品のない態度を隠さない。彼の視線の先には、反応の遅れたタリッタたちが下着同然の姿でいて、痛恨の極みだった。

その彼の背後には、ジャマル以外にも四人の兵士の姿がある。どうやら、彼らを率いているのがジャマルらしく、誰も彼の粗暴な態度に口を挟まない。

身内を後ろに従えたまま、ジャマルは納得したようにうんうんと頷くと、

「なるほど、綺麗どころが揃ってやがる。参謀官の話を聞いたときは、ずいぶんと大げさな話をしやがると思ったもんだが……」

「へ、兵隊様、何の御用で……うっ」

「――今、オレが喋ってるとこだろ、女ぁ」

張り詰める緊張感から口を挟んだスバル、その首をジャマルが素早く手で掴む。

へし折る、という目的ではなく、あくまで言葉を封じるためのソフトタッチ――それでも、彼の動きと握力には隔絶した力の差を感じさせられる。

やはり、ジャマルはその見た目と態度の悪さと裏腹に、腕が立つ。

現時点の話だが、少なくともスバルが見た帝国の人間の中で、一番腕が立つのは彼ということになるだろう。――もっとも、怖いと強いは話が別だが。

「お前、反抗的でいい目してるな。目つきが悪いのもいい。オレ好みだ」

「お、褒めに与り、光栄、です、わね……っ」

「口の減らねえところもいい。どうだ、今夜はお前を寝所に呼んで……」

顔を近付け、ジャマルが舐めるような目でスバルを眺める。

これだけ至近距離でも、彼がスバルの正体に気付いた様子はない。それ自体は歓迎すべきことだが、逆の意味で彼の琴線には触れたらしい。

その手の誘いは当然あったが、これまでには笑顔と話術で躱してきた。ただ、相手が帝国兵となると、それを躱すのは難しく――、

――強い風が吹いたのはそのときだった。

「――お」

思いがけず、強風が室内に吹き込み、舞い上がるスバルの黒髪がジャマルの頬をくすぐる。一瞬、煩わしげにしたジャマルは窓辺に目を向け、そこに佇む人影を見た。

ウィッグを被り直し、悠然と肘を抱いて立つのはグァラルを騒がす黒髪の舞姫だ。その姿を真正面に捉え、ジャマルは驚くべきことに口笛を吹いた。

大部分の人間が見惚れて動けなくなる中、大した胆力だ。

「ははぁ、こいつが噂の舞姫か。道理で、絶対に引っ張ってこいってわけだ」

「んなっ」

驚きと感心を含んだ吐息をこぼし、ジャマルがスバルを解放すると、その足でずんずんとアベルへ接近。あろうことか、その顔を掌で掴み、正面を向かせた。

知らずとはいえ、皇帝の尊顔を掴み、粗野な笑みを向けている状態だ。

まさに、知らぬが仏とはこのことと、スバルは思わず絶句してしまった。

「――――」

「あっちと違って、肝の太い女だな。まぁ、いいさ」

顎を掴まれたまま、静かに相手を見据えているアベル。ハラハラするスバルを余所に、ジャマルは帝国至上トップレベルの不敬を働きながら鼻を鳴らした。

そして、ジャマルはアベルの顎を掴んだまま振り向き、

「喜べ、旅芸人!てめえら揃って、都市庁舎の酒宴に呼んでやる。この街を仕切ってるズィクル・オスマン二将がそれをご所望だ」

「ズィクル二将が……!」

「ああ、光栄な話だろ?一介の旅芸人が帝国二将に招かれるなんてのは、な」

――かかった、とスバルは内心で拳を固める。

もったいぶったジャマルの言葉は、その光景の不敬さを飛び越し、スバルに驚きと喜びの衝撃をもたらした。

ズィクル・オスマン二将、まさしく狙いの魚を釣り上げたという報告だ。

「まさか、断らねえよな、旅芸人」

「そ……」

「それはもちろん!我々はぜひとも、帝国兵の方々に歌と踊りを届けたいと思っていたのだよ!まさしく、本懐というやつさ!」

「いい返事だ!気に入ったぜ」

スバルのとっさの反応は、それ以上にとっさに答えたフロップに塗り潰される。

だが、どんな相手に対しても胸襟を開かせるフロップの愛嬌は、この場でジャマルに対しても発揮された。

はきはきとしたフロップの答えに気を良くしたジャマルは、パッと乱暴にアベルの顔を解放すると、ずかずかと部屋の入口に陣取る。

そして――、

「とっとと準備しろ。都市庁舎に連れていく」

「え!?お、お呼びいただけたのでしたら、わたくしたちから足を……」

「はっはっは、気にすんな。絶対に連れてこいって言われてるんでな。これもオレたちの仕事だ。なに、好きに着替えてくれ。荷物も後ろの奴らに運ばせる」

「――――」

「今夜は『将』だけの酒宴なんだ。オレたち下っ端の兵士たちは、明日以降のおこぼれに期待するしかないんだよ。だから……」

手放すつもりはない、とジャマルの下卑た眼差しが室内の面々を撫でる。

どうやら、彼の機嫌を損ねるわけにはいかないらしい。幸い、スバルとアベル、それにフロップも全員、最低限の女装は完了した状態だった。

一番危うかったタリッタとクーナはれっきとした女性なので、準備不足でも作戦を瓦解させる心配はない。とはいえ――、

「ゆっくりでいいぞー」

と、堂々と着替えや荷物をまとめるのを見られながら、部屋の片付けをしなくてはならない屈辱はそうそう拭えるものではない。

しかし――、

「了解した!さあさ、みんな準備をしよう!兵士の皆さんをお待たせしてはいけない!てきぱきと進めよう!」

「フローラ……」

「君らしくもないな、ナツミ嬢!君には、血も涙も似合わないよ」

「――――」

沸々とした怒りの感情が、そう微笑むフロップの言葉に霧散する。

わざわざ最後に付け加えた彼の一言は、スバルにあえて『無血開城』を思い起こさせるために用いられた言葉と、そう受け止められた。

「――。ええ、そうですわね。ほら、ビアンカと二人もご準備を!特に、ビアンカは踊り以外は何にもできないポンコツなんですから!」

「――――」

アベルが声を出せないのをいいことに、スバルが散々なビアンカ評価を告げる。それを受け、アベルの視線がこちらへ突き刺さるが、スバルはそれを受け流す。

そして、てきぱきと部屋の荷物を片付け、都市庁舎へ上がるための着替えを行い、あえてジャマルの望み通りに振る舞ってやる。

せいぜい、口笛でも吹きながら、こちらの着替えを堪能するがいい。

作戦がうまくいったあかつきには、人生最大級の衝撃と後悔が待っているはずだ。

だからこそ――、

「いや!あえてお尻は振らなくていいんじゃないかな、ナツミ嬢!」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

素人目で見ても、都市庁舎には軍備らしい軍備は何も見当たらなかった。

平時は都市の運営のために使われている建物なのだから、ここに防衛設備が用意されていないのは当然だろう。それでも、現在は都市内に帝国兵が三百以上、衛兵と合わせれば五百人以上の戦力がいると考えられるため、防衛戦力は十分だ。

もっとも――、

「――こちらは無事、相手の懐へ潜り込むことに成功しましたけれど」

建物の中、ちらと地図を頭に描きながら、スバルはそうほくそ笑む。

オペレーション『クマソタケル』は、思いの外順調に進行している。都市内で綺麗どころばかりの旅芸人が話題になれば、『女好き』と周知される『将』が興味を抱いてくれるという期待――究極的には酒宴に招かれ、身柄を押さえる目的だ。

それが、こうして直接都市庁舎に招かれたことで、一気に実現の機会が見えた。

ただそれと同時に、別の問題も浮上する。

「今夜、作戦を決行するのに……」

そのことを、別動隊であるミゼルダたちへ伝える隙がなかった。

宿へスバルたちを迎えにきたジャマルは、警戒心ではなく、そのスケベ心によってこちらが外と連絡を取り合うタイミングを作らせなかった。

勘は悪いが腕は立つ、とかくジャマルも厄介な人物には違いない。

都市庁舎の中でもスバルたちの行動は縛られており、途中、何か理由をつけて別行動することもできなかったため、いまだに別動隊に今夜の決行を伝えられていない。

それ故に――、

「都市庁舎の中から、外へ連絡をつけなくてはなりません」

失敗した場合の保険の意味もあるが、仮にスバルたちの作戦が成功した場合、都市内にいる帝国兵たちを武装解除させる必要もある。

そうなると当然、ある程度の戦力がなくては成り立たないため、『クマソタケル作戦』の成否に拘らず、外と連携できる状態でなくては話にならない。

そのために、色々と試行錯誤しているのだが。

「何を考えているのやら、ビアンカは当てになりませんものね……」

夜の酒宴に備え、集中力を高めているといえば聞こえはいいが、都市庁舎へ招かれ、控室という名の監禁部屋に隔離されてから、アベルは沈黙が続いている。

無論、彼も計画の成否を分ける条件として、外との連携が満たされていないことに理解はあるはずだが、スバルの相談に対しても梨の礫だ。

フロップも、ものすごく協力的で正直助けられてばかりなのだが、都市庁舎を落とすための作戦で議論を交わす相手としては不適切に過ぎる。第一、これ以上、彼に心労をかける方法を選ぶのは、スバルも望みではない。

つまり――、

「――わたくしが何とかしなくては」

ぐっと拳を固めて、スバルは案内されたトイレの中で気合いを入れる。

控室から出るなと命じられたスバルたちだが、さすがにトイレまでは妨害される謂れはない。とはいえ、怪しい行動を見せれば即座に帝国兵が殺到してくる恐ろしさがあるのが現在の都市庁舎、無謀な行動は起こせない。

ちらと窓を確認したが、生憎と鉄格子の嵌め込み式な上、控室の階層自体が建物の三階に位置しているため、迂闊に外にも出られない。

特別、スバルたちを警戒しているわけではあるまい。ただ、全くの無警戒で置いておくという発想もない。それが帝国主義の現れなのだろう。

最悪、今夜の酒宴は作戦の決行を見直すという線も頭に浮かぶが、

「……仮に酒宴を病欠できても、その後の誘いは回避できませんわよね」

綺麗どころを集めた旅芸人の一座だ。

そもそも、『女好き』と呼ばれる相手を陥落させるために乗り込んできた時点で、向こうの目的が踊りや芸事、その先にある夜のお楽しみなのは想像がつく。

市民からの誘いは躱せても、さすがに帝国兵、それも『将』の誘いを拒否することは難しい。そして、寝所に連れ込まれた場合の対処法はない。

所詮、女装は女装、そこから先の攻略情報に万能なものは存在しないのだ。

「というか、そうなったら選択ミスのゲームオーバーですわよ」

なので、なんとしてでも今夜決める必要がある。

それに、何かの奇跡で今夜の誘いを回避できたとしても、ジャマルの言い分が確かだとしたら、明日には『将』以外の一般兵が参加する宴席が開かれる見通しだ。

一般兵――当然、そこにはスバルの一番会いたくない相手が含まれる。

「――――」

正直、宿にジャマルが乗り込んできたときは心臓が止まるかと思った。

彼がナツミ=スバルに気付かなかったことには安堵したが、それで危険の全部が掻き消えたわけではない。――矢を受け、彼が死んだ可能性もなくはないが。

「それを高望みと、そう言いたくはありませんわね」

難しい、心境だった。

二度と会いたくはない。だが、死んでいてほしいとも思えない。複雑だ。

スバルだって、この世に生かしてはおけない邪悪があることを知っている。大罪司教がそうであり、彼らは全員が許し難い悪徳を是とする輩だ。

だから、大罪司教であれば、スバルは躊躇いなく死を望める。

しかし、彼はそうではない。スバルの恐怖の対象というだけで、邪悪ではない。

第一、それを言うなら、なし崩しに見逃し続けている大罪司教は、ルイはどうなる。

「――。ダメですわね。今は、目の前の計画に集中しなくては」

今さら、自分の足下がボロボロなことを思い悩むなんて馬鹿げている。

大体、言い始めたらスバルがボロボロなのなんて足下だけではない。今は化粧で身も心も装えているが、どこもかしこもボロボロのボロボロだ。

なけなしの手札を駆使するのがうまい、それがスバルの取り柄なのだから。

「これ以上、長居はできませんわね」

トイレの中をくまなく調べ、残念ながら使えそうなものは見当たらないという結論を得た。外と連絡を取るためには、もっと他の手法を探る必要がある。

トイレの前で待たせている見張り役――都市庁舎の中をうろつかせないための監視係、それに不審がられるのも避けたい。

いったん、仕切り直しだ。状況が差し迫れば、あるいはアベルも多少はこちらに歩み寄る姿勢を見せるかもしれないし。

「ごめんなさい、お待たせしましたわ。少々、緊張してしまいまして」

「ん、ああ、心配はいらん。ちょうど話し相手がいたからな」

「話し相手?」

静々とトイレから出ると、待っていた見張り役の兵士がそう応じる。誰か、通りがかった相手と話していたらしく、顎をしゃくった彼に従い、そちらを見て――、

「――へえ、お前さんが夜の余興に呼ばれた踊り子か」

――そこに、絶対に見たくない顔があって、スバルの心臓が凍り付いた。

「ぁ、く……」

「うん?どうした。そんな驚いた顔して。おいおい、取って喰いやしないぞ」

とっさに喉が震えるスバルを見て、笑いながら冗談めかした相手。

それが口にした冗談は、ほんの少し前に宿でジャマルの口から聞いたものだ。だが、ただのスケベ心と聞き流せたジャマルと違い、今度のそれは聞き流せない。

本当に取って喰う気がないのかと、そう問い返したくなるから。

「なんだ、何かしたのか、トッド」

「俺が?馬鹿言え、何もできるわけないだろ。傷が重くて、ずっと寝たきりだったってのに。ようやく歩き回れるようになったとこなんだぞ」

「それもそうか。じゃあ、生理的に顔が嫌いだったってやつか」

「それもわりと傷付くんだがなぁ……」

頭を掻きながら、見張りの兵士と和気藹々とした会話を重ねる男――トッド。

ナツキ・スバルを最も警戒させ、大罪司教以外でその死を望ませるところへ指をかけた恐怖の対象、それが目の前で談笑している悪夢。

「――ぁ」

何か、何か言わなくてはならないと、スバルの脳が高速で回転する。

沈黙はよくない。怪しまれる要素を一欠片でも出してはいけない。トッドはそれを目ざとく見つけ出し、それを理由に攻撃を仕掛けてくる。

証拠や確証なんて必要としない。彼は、疑惑があれば潰そうとするのだ。

だから――、

「お前さん、本気でどうした?どこかで俺と……」

「も、申し訳ありません……ただ、その……」

「ただ?」

静かに、同じ言葉を繰り返されただけなのに心臓がひっくり返りそうだ。

ただ気分が悪くて、と続けて会話を終わらせたい。しかし、それを口にする直前で、本当にそれでいいのかと疑念が湧いた。

気分が悪くて、は言い訳として常道だが、嘘だ。嘘を、見抜く気がする。

『死に戻り』したスバルが、その知識を利用しようとしただけで、トッドはその心中の動きを察してナイフを突き立ててきた。嘘は、バレる。バレる。

嘘は、避けなくてはならない。

気分が悪いわけではない。スバルが、今、息苦しいのは――、

「少し、その、怖くて……」

「怖い?俺が?」

「あなたも、です。こんなこと、言いたくはないのですが……少し強引に連れてこられたものですから」

視線を逸らし、トッドに目を見られないようにする、

一個一個の動作が、スバルの中に常に成否を確かめようと疑問を渦巻かせる。目を見られたら嘘がバレる気がする。嘘をついたら、見破られる気がする。

嘘じゃない。トッドが怖いのは事実、それを捻じ曲げていない。

そのスバルの必死の答えを聞いて、トッドは片目をつむり、

「強引に連れてこられたって、この子ら連れてきたのって誰なんだ?」

「あー、オーレリー上等兵だったと思ったが」

「あ、ジャマルか。だったら納得だ。そりゃ、怖がらせて悪かったな、お前さん」

「え……」

見張りとのやり取りで納得を得たトッドが、そう言ってスバルに謝罪した。

その予想外の態度にスバルが目を剥くと、トッドは指で頬を掻きながら、

「悪い奴じゃない……とは言わないな。ジャマルは口も性格も悪いし、あまり頭もよくない。けど、悪気はない。あれ、素なだけなんだ」

「は、はぁ……」

「できれば、広い心で許してやってくれないか?ああ見えて、あいつは俺の義理の兄貴になるんだ。全く似てない、天使みたいな妹が俺の婚約者でね」

苦笑しながらのトッドの言葉に、スバルはいちいち困惑してしまう。

見たところ、トッドがスバルの言動に不信感を抱いた様子はない。むしろ、ジャマルに絡まれたスバルに同情し、心配してくれている素振りさえあった。

ここにきて、スバルは自分の習得した女装のための技量の高さと、普段から粗野で問題行動の多いジャマルに救われたことに驚愕を隠せない。

何の意味もないとわかっていて美を追求した日々は無駄ではなかった。

ジャマルから受けたセクハラも、ここで役立つとは想定外。

「――あ、いやがった!おい、トッド、なんで出歩いてやがる!」

と、そんなスバルの心境を余所に、怒声が通路に響き渡った。

声を上げ、のしのしと粗雑な足音を立ててやってくるのはジャマルだ。そのジャマルの接近に気付いて、トッドが「あちゃ」と額に手をやる。

「見つかったか……」

「見つかったかじゃねえ!腹に穴空いた奴は安静にしてろ!てめえ、さては自分の目で見ないと信じられねえとか思ってやがるな」

「いやいや、信用してるって。意外とお前はマメだから、仕事はちゃんとする。けど、真面目に仕事しても、ヘマする奴はヘマするだろ?」

「それを信用してねえって言うんだよ……!」

両手を上げ、肩をすくめたトッドの返事にジャマルが舌打ちする。

だが、鼻息荒く近付いてきたジャマルは、トッドの傍らにスバルがいるのに気付くと、「お」とその表情を怒りから笑みへと変えて、

「余興する女じゃねえか。あの中じゃ、お前が一番オレの好みだったからな。おい、お前は今夜呼ばれなかったら……」

「あー、はいはい、よせよせ」

好色な目をしたジャマルが手を伸ばし、スバルの肩を掴もうとする。が、そのジャマルの手を止めてくれたのは、こともあろうにトッドだった。

トッドはジャマルの手首を掴み、頬を歪めた彼に「よせ」ともう一度重ねて、

「お前、そんな態度だから怖がらせてるじゃないか。初対面の娘さんにいきなり怖がられて俺が傷付いた。どうしてくれる」

「どうするもこうするもねえだろ。大体、なんでお前が割って入るんだよ。……まさか、お前、その女と……!」

「冗談はやめろよ、ジャマル。俺はお前の妹一筋だよ。知ってるだろ?」

「妹に一筋って言われると、兄貴的に複雑だな……」

毒気が抜かれたような顔で呟いて、ジャマルがトッドの手を振りほどく。

それから、ちらとスバルの方を見たが、頬を引きつらせるこちらの様子に、それ以上はちょっかいを出す気はなくしたようだ。

意外にも、ジャマルにも分別はあったらしい。あるいは、ちょっといいなと思った相手に怖がられて傷付く心があったというべきか。

いずれにせよ――、

「なんにせよ、もういこうや。どのみち、今日の酒宴とやらには俺たちは参加できないんだから」

「だからって、抜け道潰しに腐心するのも飽きてきてんだよ」

「飽きるとかじゃないだろ。保険、保険。――絶対に、そこからくるから」

へらへらと笑いながら、トッドの鋭い一言がスバルの胸を掻き毟った。

やはり、抜け道を使う案は見抜かれていたと、そう胸の内で己の選択を褒める。そうして、褒めたところで、

「ところで、お前さん、なんて名前だ?」

「――――」

気を、抜いたのが見抜かれたのか。

フェイント気味の質問に、スバルは意識が飛ぶかと本気で思った。

名前を、聞かれた。何故、どうして、疑問が吹き荒れる。

名前ぐらい、聞くだろう。――否、トッドは聞かない。興味がないはずだ。レムは、それが理由で最初からトッドを警戒していた。今回、彼との関係が悪かったから、スバルも名前を交換していない。名乗るべきか、否か、どうすべきか。

「頼むよ、教えてくれ」

重ねて言われ、スバルは息を呑んだ。

答えを引っ張れないと覚悟し、可能な限り、平静を装って笑みを浮かべ、

「――ナツミ・シュバルツと、そう申しますわ」

そう、名乗った。

ここは、こうする以外の選択が浮かばなかった。あとは、これが正解であることを祈り願い奉り、とにかく相手の反応を待つ。

その答えを聞いて、トッドは「ほーん」と己の顎を撫でながら頷いて、

「だとさ、ジャマル。名前が聞けてよかったな」

「うるせえ!とっとといくぞ!」

「わかったわかった。……あ、俺も外についてっていいか?」

「本当に信用のねえ奴だな……勝手にしろ!」

と、顔を赤くしたジャマルの怒声を聞いて、肩をすくめたトッドが続く。

それきり、二人は一度も振り返ることなく、スバルの前から姿を消した。廊下の角を曲がり、見えなくなる。見えなく、なった。なった。

「……ほ、んとうに?」

「だ、大丈夫か、お前、顔色がすごいぞ」

もう戻ってこないのかとそれを見送り、スバルは息を吐く。それがどれだけ必死だったのか、唯一残った見張りの兵士がスバルの顔色を気遣った。

それに応える余裕は、もはやスバルには一欠片も残っていなかった。

ただ、見張りの兵士にどうにか取り繕い、彼を伴って控室へ戻って、中で待っていたフロップたちと合流する。

「ずいぶんと時間がかかったね、ナツミ嬢!……大丈夫かい?顔色が」

「そのくだりなら、もうやりましたから……ひとまず、嵐は、潜り抜けました。でも、問題は残ったままで」

控室に戻り、心配してくれるフロップの顔を見て、ようやく心臓の鼓動と呼吸の乱れを気にする余裕が戻ってきた。

ゆっくりと、深呼吸で荒れた生理反応を修正して、スバルは己を落ち着ける。

そう、突如遭遇した嵐からは逃れた、はずだ。

まだ最後の最後まで油断はできないが、ひとまずは嵐は去ったはず。

しかし、当初の問題であった大きな壁は越えられていない。

「外との連絡をつけなくては、せっかく計画が成功しても……」

「あァ、それなら安心してくださイ、ナツミ。私とクーナの二人デ、姉上たちにわかるように合図は放っておきましタ」

「うえ?」

あっさりと、抱えていた問題の解決を告げられ、スバルが目を見張る。

その反応に申し訳なさそうにするタリッタと、我関せずな様子のクーナ。どういうことなのか、と二人に視線で問い詰めると、

「それがそノ……ナツミが見張りを連れ出したあト、残りの見張りを惹きつけておくから仕事を済ませろト、そうビアンカに言われテ」

「な、な、な……」

目を見開いて、スバルが部屋の隅にいるアベルを見やる。

すると、その視線に気付いたアベルが目を細め、ゆるゆると首を横に振り、

「貴様に伝えて不自然に動かれるより、天然の囮として使ったまでだ。幸い、適度に仕事を果たしたと見える。褒めて遣わす」

「うるさいですわよ!こっちが、こっちがどんな怖い目に……!」

「お、落ち着くんだ、ナツミ嬢!ほら、可愛い顔が台無しだよ!」

「うるせぇですわ!」

無体なアベルの態度に掴みかかろうとして、それを後ろからフロップに羽交い絞めにされて止められる。

この尊大な魔貌をぶん殴ってやりたいと本気で思うが、この顔がなくては成立しない作戦なのもあり、スバルも冷静になるしかない。

自分の顔を人質にしてくるとは、信じられない凶悪さだ。

「あなた、絶対に終わったら殴りますわよ……!」

「終わったあとのことを考えているとは、ずいぶんと余裕があるようで結構だ。ならば、落ち度なく演奏もこなすのだろうよ」

「フローラ!時間までおさらいしますわよ!」

「わ、わかったわかった」

ああ言えばこう言うの極致だと、スバルは怒りを露わに歯噛みした。

どうあれ、外と連絡をつけたのであれば、あとは問題の時間を待つだけだ。

せいぜい、そう、せいぜい――、

「――計画が成功しなかったら、ひどいですわよ」

負け惜しみのように呟いて、しかし、それが本当に負け惜しみで終わることを、スバルはこれまでの数日で確信していた。

本当に悔しい話だが、この傲慢な舞姫に見惚れないものなど、それこそ大罪司教でもない限りは存在しないだろうと思えているから。