『膝枕の恩返し』
眠りから目覚める感覚は、水面から顔を出す感覚に似ているとスバルは思う。
瞼を開ければ傾いた陽光が瞳を焼き、眩しさに顔をしかめながら目をこする。寝起きはいい方で、一度目が覚めればすぐに意識が覚醒するのがスバルの体質だった。
「あ、目が覚めた?」
声は真上、寝ているスバルの頭上から聞こえた。
その声に顔を向けて、スバルは自分が地べたに寝転がり、何か柔らかいものに寄りかかりながらまどろんでいた事実に気付く。
「まだ動かないで。頭も打ってるから、安心できないの」
こちらの身を案じる声は優しく、さらに頭の下には尋常でない至福の感触。
スバルは自分が意識を失う寸前の出来事を思い返し、今、自分が男の子的にもの凄く恵まれた展開にいるのではという推測に即座に辿り着いた。
――すわ、これぞまさに美少女の膝枕か!!
天恵に従い、スバルは寝返りを打つ素振りでその太ももの感触を堪能しにかかる。
円運動で頬が至高の感触に辿り着き、想像以上にモッフモフの感触が顔全体を押し返した。
――なんか美少女って思ったより毛深いんだな、と思う。
「って、そんなわけあるか――!」
「起きて良かったですわですわ(裏声)」
突っ込みを入れながら上を向き、今度こそ覚醒した視力が世界を正しく映し出す。
スバルの眼前、逆さの視界の中にもの凄いでかい猫の顔があった。
猫はやたらと愛嬌のある顔で微笑みっぽい表情を作り、
「せめて覚醒までの瞬間を幸せに過ごさせてあげようという粋な計らいだよ(裏声)」
「とりあえず、その不快な裏声はやめてくれ」
人間大の猫に膝枕されるという尋常でないシチュエーションで、スバルは何とかそれだけを注文。あとはせっかくなので、モッフモフの感触を頬で楽しむことにする。
「モッフモフ……モッフモフやぁ。なんてもんを生み出してしもうたんやぁ、神よ」
「いやぁ、こんなに喜ばれるとボクもわざわざ巨大化した甲斐があるよ。ね?」
照れた仕草で頭を掻きながら、同意を求めるように片目をつむる巨大猫。その視線の先に立つのは、路地の入口で不満げに腕を組む銀髪の少女だ。
意識を失う直前、スバルの記憶と眼に鮮烈に焼きついた少女に間違いない。
「ということは、お前はさっきのミニマムサイズ猫?」
「ふふふ、大きさ自由で持ち運びに便利。さらにユーモアあふれるトークで退屈な日常を彩ったりしちゃう。ひとりに一匹!生活のお共に。詳しくは精霊議会に問い合わせてみてね」
器用に指を鳴らしてセールストークをかます猫。いまいち要領を得ない内容だったが、たぶんそういう芸風なのだろうとスバルは納得。
それから話題の焦点を歩み寄ってくる少女に移す。
「なんか、けっきょく目が覚めるまでいてもらって……」
「勘違いしないで。聞きたいことがあるから仕方なく残ったの。それがなかったらあなたのことなんて置き去りにしたわ。そう、してたの。だから勘違いしないこと」
念を押すように何度も言われれば、スバルもさすがにそれ以上は突っ込めない。
強い語調で美少女が迫るように言ってくるのだ。コミュレベル1な上に異性コミュレベルも1のスバルにとって、内容無視して頷くしかないほどの息苦しさ。
「だから私があなたの体の傷に治癒魔法をかけたのも、目覚めるまでパックの腹枕を堪能させてたのも、全部が全部、自分の都合のため。だから、その分に応えてもらうわ」
「なんか恩着せがましい感じを演出しつつも一周回って普通の要求だな」
情けは人のためならず、を地でいくような論法だ。
そんなスバルの返答に対し、少女は厳しい顔つきのままで首を横に振って、
「そんなことない、一方的よ。――それで、あなたは私の盗まれた徽章に心当たりがあるわね?」
おずおずと条件を受け入れたスバルに、少女はどことなく声をひそめて問いかけた。
その問いの内容にスバルは首を傾げざるを得ない。
正直、それとまったく同じ質問を、意識を失う寸前にも行った気がしてならないのだが。
「俺が意識のない短い間に、強く頭を打ったりとかした?」
「君が意識なかったのはせいぜい五分だけど、ボクの知るかぎりそんなことはなかったね」
「じゃデジャブか?あるいは俺の隠された異能が目覚めて、ほんの少しだけ先の未来の出来事を実体験しておくことができるようになったとか?」
能力名は『一昨日きやがれ』でどうだろうか。
質問に対して的確な答えを用意しておく、という意味では役立ちそうな気もする。あるいは試験前などに立ち返って気になる引っかけ問題対策も可能。夢が広がる。
「あ、俺、ひきこもりだった!」
「こっちの意図を無視して暴走しないでくれる?それで、質問の答え」
「えーっと、それでしたらあの……心当たりとか、ないかなぁなんて」
徽章、というといわゆる弁護士や検事、自衛官などが身份を証明するためにつけるバッジに当たるものだろう。
残念ながら、スバルはこの小一時間ほどの時間でそれっぽいものを見た記憶は皆無だ。
自宅に帰れれば子どもの頃に集めたオモチャのバッジが山ほどあるだろうが、帰る手段がわからない上にそれを差し出したら氷塊の餌食にされるだけだろう。
よって、スバルには彼女の求めているだろう期待に応えることはできない。
しかし、少女はそんなスバルの答えに対して落胆した様子もなく頷き、
「そう。それじゃ仕方ないわ。でも、あなたには何も知らないという情報をもらうことができたわけだから、ちゃんとケガを治した対価は貰っているわね」
と、詐欺師もびっくりな論法で自分の丸損を表明したのだった。
あっけにとられるスバルを置き去りに、少女は吹っ切るように大きく手を叩き、
「じゃあ、もう行くわね。悪いけど急いでるの。ケガは一通り治ってるはずだし、脅したから連中ももう関わってこないと思うけど、こんな時間に人気のない路地にひとりで入るなんて自殺志願者と一緒だから。あ、これは心配じゃなくて忠告よ。次に同じような現場に出くわしても、私があなたを助けるメリットがないから助けなんて期待されても困るから」
早口でメチャクチャ言いまくしたてて、押し黙るスバルの沈黙を肯定と受け止めたのか、少女は「よし」と満足そうに呟いて身をひるがえす。
長い銀髪が彼女の仕草に合わせて揺れ動き、薄暗い路地の中ですら幻想的にきらめいた。
ふいに体重を預けていた感触が消失し、スバルは慌てて落ちかける身を立て直す。
振り返ると、さっきまでそこにいたはずの巨大な猫の肥満体はなく、その姿は初見の掌サイズに戻っていた。猫はふよふよと、風に漂う風船のように浮遊して少女の背中へ向かう。
「ゴメンね。素直じゃないんだよ、うちの子。変に思わないであげて」
笑いを含んだ口調でフォローして、猫は少女の肩にやわらかに着地する。少女の手がその感触を確かめるように猫の背を一度撫で、その姿は銀髪の中にもぐるように消えた。
その颯爽とした背中を見送りながら、スバルは今の猫の言葉をひたすらに反芻する。
――素直じゃないらしい、あの少女の言動と行動の意図を。
物盗りにあったらしい彼女は、大切な物を盗んだ相手を追いかけていた。
その途中で暴行を受ける無関係のスバルを見つけて、盗んだ犯人を追う時間を削ってまで助けてくれたのだ。
その上、迷惑千万にも倒れたスバルを治療して、目を覚ますまで見張りとして立ち、聞いたはずの質問を繰り返してそれを代価とし、スバルに負い目を感じさせないようにした。
素直じゃないとかいうレベルの問題じゃない。
こんなに面倒くさい配慮ばかりを好んで実行する人物を、スバルは初めて見た。
少女にとって、スバルと関わって得た収穫は完全にゼロだ。
逃走犯を見失った上に、スバルの治療で時間まで取られたことを考えると、収支でいえばブッちぎってマイナスもいいところだろう。
少女にはスバルを責める権利があったし、スバルはどんな罵声も受ける義務があった。
しかし結果、少女はスバルを責めなかったし、謝罪の言葉も聞かなかった。
なぜなら少女にとって、スバルを助けたのは全て自分本位の目論見通りの結果なのだから。
「そんな生き方、メチャクチャ損するじゃねぇか」
言いながら立ち上がり、スバルは砂埃で汚れた己のジャージを叩く。
愛用のジャージは汚れこそ目立つものの、ほつれたりのダメージはほとんどない。それに何より、あれだけ蹴られ打たれた体の痛みが完全に消えている。
肩を回し、足腰を動かして健在ぶりを確認し、改めて魔法の非常識さを実感した。
そしてこれだけの恩を売っておいて、二束三文でよしとした少女の規格外さも。
「――おい、待ってくれよ!」
路地の入口、大通りへ繋がる場所で首をめぐらす少女、その背中に声をかける。
長い銀髪を手で撫でて、わずらわしげに彼女は振り返り、
「なに?話ならもう終わったわ。もう私とあなたは無関係の他人です。ほんの一瞬だけ人生が交わっただけの、赤の他人」
「そんな心にくる言い方すんなよ!?それにそっちは終わったつもりでも、こっちは全然まだまだ丸っきし終わったなんて思ってない」
冷めた視線の少女に縋るように駆け寄るスバル。
なんか振られた男が女に追い縋ってるみたいだな、なんて心の片隅で思いつつも、両手を広げて彼女の進路を阻み、
「大切なもんなんだろ?俺にも手伝わせてくれ」
「でも、あなたは何も……」
「確かに、盗んだ奴の名前も素姓も性癖もわからねぇけど、少なくとも姿かたちぐらいはわかる!八重歯が目立つ金髪のプリティーガール!身長は君より低くて胸も小さかったし、歳も二つ三つ下だと思うけどそんな感じでリアリー!?」
てんぱると早口でテンション上がってしまうのがスバルの悪い癖だった。
今回もその癖が存分に発揮されて、はっきり言って自分で自分の発言にドン引きである。
――性癖とか胸とかいらん情報入れすぎだろ。おまけにプリティーガールとかリアリーとか俺は自分で何人設定なんだ。英語なんて中一で投げ出したくせに。
中一の夏、初めての夏休みの最中に英語の教科書をなくし、以来スバルは外来語との関わりを一方的に断ってきた。プチ鎖国である。
そんな自分がどの面下げて日常会話で小粋に英語など――。
緊張と後悔で長ったらしい回顧録に入りそうになるスバル。
冷や汗で背中ぐしょぐしょ。脇汗と手汗で腕まわりがヤバい。動悸息切れと目眩に貧血、鼻づまりと偏頭痛で四面楚歌。
そのセルフ絶体絶命状態から彼を救ったのは、
「――変な人」
口元に手を当てて、珍獣でも見るように小首を傾けた少女の声だった。
彼女はスバルを値踏みするように見据えて、
「言っておくけど、なんのお礼もできません。こう見えて無一文なので」
「丸ごと持ってかれたからね」
「安心しろ。俺も無一文みたいなもんだ」
「安心できる要素が何もないね」
ちょくちょく入る合いの手を意識的に無視して、スバルはドンと自分の胸を叩いた。
「それにお礼なんていらない。そもそも、俺が礼をしたいから手伝いたいんだ」
「お礼をされるようなことしてない。傷のことなら、ちゃんと代価は貰ってるから」
あくまで頑なな姿勢を崩さない少女。
そんな彼女の頑固な態度にスバルは苦笑して、「それなら」と前置きし、
「俺も俺のために君を手伝う。俺の目的はそう、だな。そう、善行を積むことだ!」
「善行?」
「そう、それを積むと死んだあとに天国に行ける。そこでは夢のくっちゃね自堕落ライフが俺を待っているらしい。だからそのために、俺に君を手伝わせてくれ」
自分でも何を言っているやらわけがわからないが、言いたいことは言い切った。
やり切った顔のスバルに少女は思案顔。しかし、そんな彼女の頬を肩に乗る灰色猫がその肉球でつつき、
「邪気は感じないし、素直に受け入れておいた方がいいと思うよ?まったくの手がかりなしで探すなんて、王都の広さからしたら無謀としか言いようがないし」
「でも……私は」
「意地を張るのも可愛いと思うけど、意地を張って目標を見失うのは馬鹿馬鹿しいと思うよ。ボクはボクの娘が馬鹿な子だと思いたくないなぁ」
肩をすくめて挑発的にたしなめる小猫に少女の眉尻が上がる。
それから彼女は数秒、「あうー」「ううん」「でもっ」と変に色っぽく悩んだ挙句、
「――本当に、なんのお礼もできないからね」
そう言って、スバルの差し出した手を取ってくれたのだった。