『否定×否定×否定』


 

――瓦解していく、瓦解していく、足下から崩れ落ちていく。

 

確かにあったはずの足場を見失って、スバルは自分が高いところから転落しているような感覚を味わっていた。

実際のスバルは部屋の真ん中に立ち尽くし、目を見開いて硬直している。

にも拘わらずそんな錯覚を抱いたのは、それほどまでにロズワールの告白がもたらした衝撃がスバルにとって大きすぎたからだ。

 

「手の、届かないところって……」

 

「すでに答えは出ているだろう。大事なものと、大事なものと、二つが同時に危機に追いやられれば人は選択を迫られる。どちらがより大事なものなのかを選び、選ばれなかった方を取りこぼす生き方を。そうして、唯一、大事な一つのもの以外をそぎ落としていって完成するのが、君という選ばれた存在だ」

 

「馬鹿げてる!!完成された存在!?俺には傷だらけの大馬鹿野郎が、吹きっさらしの荒野に一人で立ってるようにしか見えねぇぞ!」

 

「だが、大事な存在は緑の溢れる場所に、無垢な美しさを保ったまま抱かれることができる。それは君自身が傷付かないことより、優先度が上なのかね?」

 

いくらか平静を取り戻しつつあるロズワールの問いかけに、スバルは口ごもる。

言い包められたわけでも、反論の言葉を見失ったわけでもない。

 

ただ、噴き出す感情の量が大きすぎて、言葉にすらならなかっただけだ。

――呆れて物が言えないという言い回しを、これ以上に実感したことはない。

 

そのわけのわからない理論に、勝手な事象を並べ立てる福音書に、思考を放棄して従った結果が、あの屋敷の惨劇だというのか。

 

フレデリカも、ペトラも、ベアトリスすらも、そんな身勝手が理由で死ぬのか。

スバルを完成させるという、そんなくだらない目的のためだけに、彼女らは信頼を寄せていたはずの主に裏切られて、命を落とすというのか。

 

「ロズワール……お前、本当に、どうかしてるぞ……?」

 

「……そうだとも、私はとっくにどうかしている。四百年前に、あの瞳に魅入られて以来ずっと、私はどうかし続けてきた」

 

「四百……ッ?」

 

放り投げられる言葉の意味が呑み込めず、オウム返しするスバルは困惑に顔をしかめる。

またしても四百年前――だが、ロズワールがそれを口にすることにはあまりにも不自然さが伴いすぎる。彼に、四百年前を知る方法などないはずだ。ましてや今の語り口は、自らが四百年前から存在し続けているような――、

 

「ナツキ・スバルくん」

 

戸惑いに瞳を揺らすスバルを、ふいに間近で声が呼んだ。

見れば、眼前にいつの間にか立ち上がったロズワールの存在がある。息がかかりそうな距離に立つ長身に、スバルは喘ぐように口を動かして足を後ろへ――襟首を掴まれて、下がることができない。引き寄せられ、額と額をぶつけられる。

 

「君は私をどうかしていると評した。私もそれに同意しよう。間違いなく、私はどうかしている。正気にない。とうの昔に、心を持っていかれてしまっている」

 

「あ、あぁ……」

 

「なぜ君は、どうかし足りていないのだろうねーぇ?私と同じように、いや私以上に君こそはどうかしているべきだ。どうかしていなくては、挑めない境地にあらなくてはならない。私の求めるところより、君が求めるところの方がはるか高く遠いのだから。誰にも理解されない、できない、孤独の道を行くのに人間の心なんて必要ない。心を強く、固く、鋼のようにして、そうあらなければならない――そうだろう?」

 

「あ、う……う、うるせぇよ!」

 

言葉の一つ一つが脳裏に沁み込むごとに、闇の底に引きずり込まれそうな力がロズワールの声にはあった。スバルはそれを振り払うように首を振り、触れ合う距離のロズワールの胸を突き飛ばす。

たたらを踏んで下がる長身に指を突きつけ、スバルは虚勢に震える声を隠せないまま、

 

「どうあろうと、どうだろうと、お前の目論見は俺から資格が取り上げられた時点で潰えてんだ!屋敷に仕掛けた思惑も何もかも、無駄な行いで意味のない犠牲だ!それがわかったら、今すぐに馬鹿な真似をやめさせろ!」

 

「断る。――君の覚悟が足りていないのを見て、ますます必要性を強く理解したよ。君は人間である必要などない。人間性など剥離してなくしてしまうほどに、君を追い詰め、傷付け、エミリア様に依存させよう。エミリア様もまた、君をなくてはならない存在だと依存でしかない愛に溺れさせよう。互いだけがあればいい関係に沈めて、がむしゃらに溺れる君たちの進路を私がとろう。それが、私の目的が成る唯一の道だ」

 

「そ、んなことに何の意味が……!俺がどれだけ削れたところで、なくなった資格は戻ってこない!骨折り損で、何も手に入らないんだぞ!」

 

「それが本当の本音かどうか、君自身が一番わかっているはずだ」

 

叫ぶスバルを凍てつくロズワールの声が打つ。

どくん、と強く心臓が跳ねたのは、ロズワールの言葉の真意がスバルにもわかったからだ。なんのことはない、単純な話だ。

先ほども考えた通り――エキドナは、スバルが本気の本気で考え直して助けを求めれば手を差し伸べてくる。本当の本当にどん詰まりに陥ったとき、ただ前に進むだけでいいのならその方法はスバルには残されているのだ。

そしてそのことは、

 

「君という存在が戻るなら、エキドナは喜んで資格でもなんでも再発行するだろう。彼女の性質を思えば当然のことで、それぐらいは私にだってわかっている」

 

「…………」

 

「自惚れるなよ、ナツキ・スバル。エキドナを理解しているのは、お前だけじゃーぁない」

 

それはロズワールらしくもなく、憎悪と怨念に満ち満ちた声色だった。

あまりにもストレートにぶつけられた悪感情の強さに、スバルは身を固くする。それから意味を咀嚼して初めて、ロズワールの目的がわかった気がした。

 

「お前が『聖域』の解放を優先するのは……エキドナの望みだからか」

 

「…………」

 

「あいつが仕組んだ墓所の『試練』をクリアさせて、『聖域』を解放させて……それがあいつの供養だかなんだかに繋がるとか、そういう風に思ってんのか」

 

「……生前、エキドナは自分の死後、ここがどういった終わりを迎えるのかを気にしていたよ。それがあって墓所に仕掛けを残し、魂を宿らせた。ただ、彼女が求めていた終わりは四百年たってもまだ、この場所に訪れていない」

 

『聖域』を取り囲む結界が張られて四百年、その間、一度も結界は破られていない。

エキドナの望む、見たがっていた終わりはいまだきていない。ロズワールが求めているのは、その終わりをエキドナに見せて、その魂を鎮魂することにあるというのか。

 

その考え自体は理解できないでもない。元の世界では霊魂の存在など信じたことは一度もなかったが、スバルはこの世界でエキドナや他の魔女たちと接してしまった。

彼女らと接して感じた思いがあり、そして彼女らの未練がこの地に残っているのだというのなら、叶えてやりたいと思う程度には感謝に近い思い入れもある。

だが、そのために今を生きる、他の大切な人たちを蔑ろにすることなど言語道断だ。

 

「それと、これとは話が別だ。ロズワール、エキドナの鎮魂は別の機会を用意してやる。そのために努力することは約束できる。――だから、今は屋敷から手を引け」

 

「断る。私は私の望みを、エキドナの願いを完遂する。必要な手は打つ。必要があるだけ他人を陥れ、君を傷付け、泥を被ろう」

 

「自己満足に他人巻き込んでんじゃねぇよ!あいつを引っ張り出して、言いたいことがあるってんなら自分でやれ!未来を創ろうとした奴を、まだまだ未来がある子を、未来を信じられずに閉じこもってる女の子を、犠牲にしようとしてんじゃねぇよ!」

 

フレデリカも、ペトラも、ベアトリスも、そんな計画の犠牲になる必要などない。

ロズワールの独りよがりに付き合わされる理由も、ましてやそれがスバルを傷付けるためなどという、彼女らの人間性と関わり合いのない理由だなんてあってはならない。

 

「断る。私が聞き入れるとしたら、それは『ロズワールの言う通りにする』という言い分だけだ。それ以外は全て遮断する。彼女らの、犠牲は必至だ」

 

「ふざけるな。お前が何を企んでて、その結果何が起こるのか暴露してやってもいいんだぞ」

 

「君こそ後先を考えて行動したまえよ。そんなことをして、何の意味がある?私の悪行を公にしたところで、『聖域』を取り巻く状況はいっこうに変わらない。エミリア様は王選に挑むための後ろ盾を失い、それ以上に避難民や『聖域』の住人たちとの関係も間違いなく悪化する。悪感情を孕んだ爆弾を背にしたまま、エミリア様が『試練』に挑んで結果を出せるとでも?君はその目で何度、崩れ落ちるエミリア様を見てきたんだい?」

 

「ガ、ガーフィールだってフレデリカが……姉貴がお前の計画の犠牲になるって聞いたら、絶対にタダじゃ済ませな……」

 

「アレに期待しているのだとすれば、ますます君の目は曇っている。ガーフィールが『聖域』の外へ、フレデリカを助けに飛び出すようなことは絶対にない。自分が不在の間に『聖域』に何かが起きたらと、ありもしない脅威に囚われて動けないのが哀れで愚かなガーフィールという存在だ。視野が狭く、意固地で、そのくせ腕力だけはある。中途半端に頭が回る分、私を失った場合の『聖域』がどうなるのか、リスクにも考えが及んでしまう。故に、アレは君の利になるようには動けない。――アレは、自分の弱く脆い世界を守ることだけに必死な、子どもなのだからね」

 

必死な子ども、という表現が胸を突く。

それは茶会で魔女たちが、ひたすらに我が身を犠牲にしようとしたスバルに下したものと同じ評価だ。そしてロズワールには、ガーフィールの姿がそう見えているらしい。

そう思われていることも知らず、あるいは知っていてなお、ガーフィールは己の根ざした目的に一心不乱に邁進し続けているのだろうか。

 

「ガーフィールは君に組しない。私は企てをやめるつもりはない。君は及ばない状況に心をすり減らし、研ぎ澄まされて、完成されるだけでいい。それ以上は不要だ。割り切ってしまいたまえよ、ナツキ・スバル。――エミリア様以外の誰が死んだところで、どうということはないと、割り切ってしまいたまえよ」

 

「ふざけるな!俺は!俺はお前みたいにはならねぇ!お前みたいな、お前みたいな考え方は……絶対にしねぇ!そんなのは、人間の考え方じゃねぇ!」

 

「…………」

 

「俺は、人間だ。どんなわけのわからない力が与えられて、どれだけ痛い思いや辛い気持ちを味わっても、それは損なわない。――俺は人間だ。人間で、あり続ける」

 

無言のロズワールに断言して、スバルは後ずさって長身から距離を置く。ロズワールはその端正な面持ちに複雑な感情を一瞬だけ過らせ、すぐに肩をすくめた。

 

「まーぁ、構わないとも。君に無限の機会がある限り、それは私にとっても同じことだ。今回、君の説得は諦めることにしようじゃーぁないの。次の私に、任せるとするさ」

 

「たとえ、今回がダメで……次の機会が、その次の次の機会があったとしても、俺はお前の提案に絶対に頷かない。お前には、ならない」

 

「――退室したまえ。私はもう、この生を生きる意味がない」

 

ベッドに戻り、布団を被るロズワールはそれだけ言い残し、スバルから意識を外す。目をつぶって眠ろうとする姿は、言葉通りにスバルとの意思疎通を拒否していた。

そのロズワールの態度に口を開きかけて、しかし言葉は何も出てこず、

 

「――――」

 

スバルは押し黙ったまま、敗北感を抱えて部屋を後にした。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ロズワールの寝所を出て、ふらふらと月明かりの下をスバルは歩いている。

 

「――どうしたらいい」

 

口から出るのは先の見えない問題への問いかけ、胸中で繰り返されるのもまったく同じ文章で、答えが木霊のように返ってくることだけはない。

投げ放たれた問いかけは誰に届くこともなく、虚空に消えて空しさだけをしこりのように喉に残すのだ。

 

文字通り、八方塞がりとしか言いようがない。

 

ロズワールの協力もエキドナの協力も、もう得られそうにない。

エキドナの協力は物理的に、ロズワールの協力は心情的に不可能だ。

 

可能性として、スバルの頭の中にはその考えはあった。

ロズワールがエルザの雇い主であり、エミリアに対する『試練』――この場合、『試練』はスバルに向けられたものだが、そのために屋敷を襲わせていたのではないかと。

 

スバルが屋敷に到着したのを見計らったように現れるエルザ。手引きできる可能性のあるフレデリカの死と、隠し通路やベアトリスの禁書庫の存在を知っていること。それらを整理して考えれば、容疑者として挙げられそうなのはラムかロズワールしかいなかった。

そして、ロズワールに心酔するラムがロズワールに不利になるような行いをする必要性がなく、消去法で残るのはロズワールのみ。――外れてほしい以上に、そうあってはならないという意味から、頭の片隅以外では考えないようにしていた可能性だったが。

 

「ロズワールがエルザの雇い主だってんなら……」

 

スバルが召喚された初日の、エミリアの徽章が盗まれた王都でのことも、ロズワールの手引きだったということなのだろうか。

福音書にスバルの存在が、『死に戻り』する権能を持つ存在が現れることが予知してあり、それがエミリアを勝たせるのに必要な存在であると記されていたのであれば、スバルを味方に引き込むためにあの日の騒動は必要だったことになる。

 

あの日の、懸命に走ったことも、エミリアを助けるために三度死んだことも、エミリアの笑顔とともに名前を聞き出したことも、全てはロズワールの掌の上だったのか。

 

「何もかもが予知の通り……それなら、レムが存在を奪われたことも、こうして『聖域』で八方塞がりになることも、全部、誰かの予定通りだってのかよ……」

 

だとしたら、スバルがこうして懸命になり続ける意思すらも、誰かの操る糸の延長線上にあるに過ぎないのだろうか。

未来の答えは、スバルがエミリア以外の全てを切り捨てて進む以外にはないのか。そこに至るための道筋が途絶えた今、もう手詰まりでしかないのか。

 

「馬鹿か俺は……いや、馬鹿だ俺は。その考えで、思考停止した結果がロズワールだろうが……俺まで、それに呑まれてどうする……」

 

福音書が絶対のものでないことは、ペテルギウスの所持していた福音書の内容を塗り替えたスバルが一番よくわかっている。

未来への道筋を示す福音書の記述も万能ではない。事実、その記述と違う内容が発生した場合、ロズワールは世界を諦めて、次の周回に期待を投げ――。

 

「――え?」

 

今、何か、おかしな点があった気がする。

ゆっくりと順序を経て、ロズワールの持つ福音書について思いを巡らせている最中、スバルは確かに違和感を得た。それが何なのか、引っかかりが形にならない。

 

「なんだ?なんだ……何がおかしい。でも、何かがおかしい……!」

 

答えの見えない謎かけを出された気分で、スバルは靄がかる中にある光を探す。

ロズワールの福音書。記述通りの行い。ベアトリスの福音書。魔女教の『福音』。所持者が死んで、先が記されない預言書。白紙のページ。予言通りの結果。予言通りにならない結果――記述と違ってしまった、今。

 

「駄目だ。――あと一歩、何かが出てこねぇ」

 

散らばるピースのいくつかに引っかかりを感じるものの、いずれも具体的な形を結ばずに霧散してしまう。ただ、この引っかかりは見過ごしてはならない類のものだ。

これまでに何度もあった手詰まりの状況は、いずれも小さな取っ掛かりから答えを引っ張り出して、道をこじ開けて通り抜けてきた。

今回のことも、その破片の一つ一つがきっと答えに結びついて――。

 

「――スバル?」

 

「え?」

 

ふいに名前を呼ばれて、思考の海に沈んでいたスバルの意識が引き上げられる。

現実の水面に顔を出せば、薄闇に降り注ぐ月明かりの中、きらめく銀髪を揺らすエミリアがスバルを見つめていた。

 

予期せぬ遭遇に胸が鋭く疼き、スバルはその驚きを隠しきれないまま手を上げ、

 

「あ、エミリア……たん。なんでこんなとこに。もう、ずいぶん遅い時間だぜ?」

 

「それはスバルの方も同じことでしょ。あんまり夜更かししすぎてると、背が伸びなくなっちゃうんだからね」

 

「俺、たぶんもう成長期終わった頃合いだからその心配遅いぐらいなんだけど……」

 

いつもの調子で、少し芯を外した話題を振ってくるエミリア。彼女の応答にいくらか平静を取り戻し、スバルは自然とエミリアの傍らまで足を運ぶ。

場所は『聖域』の中央で、ささやかな広場のようになっている場所だ。石造りの苔むした、涸れた噴水のようなオブジェの一部に腰を預け、エミリアは夜風に銀髪を揺らして隣に並ぶスバルの方へと流し目を送ってくる。

 

憂いを帯びた紫紺の瞳がどこか艶めいて見えて、今のスバルの弱った心に疼痛のような甘い衝動をもたらしてくる。

 

「私は寝付けなくて、ちょっとお散歩してるんだけど……スバルはどうしたの?」

 

「……いや、俺もそんなとこだよ。枕が変わるとなかなか寝付けないタイプだし、あとオットーのいびきが意外とうるさくて」

 

「スバルがそんな繊細な神経の持ち主だったなんて、すごーく意外」

 

口元に手を当てて小さく笑うエミリア。その横顔を眺めながら、スバルはこうして『死に戻り』した当日の夜に、エミリアと再会したのは初めてだなと思う。

基本的にスバルと関わらないところでは、ループしたとしても他の人々の行動はおおよそ一定の流れをなぞる。つまりエミリアは、『試練』に挑んだ初日の夜は必ず、こうして眠れない夜の散策に足を運んでいたということだ。

 

茶会に招かれたり、ガーフィールに暴力をふるわれたり、森の奥の施設でリューズたちの正体を知ったり、ロズワールが黒幕である事実を知ったり、スバルが色々なことをやらかしている間に、エミリアにも変化は訪れていた。

 

「……スバル、元気ないのね」

 

「そう、かな。そんなことは、ないつもりなんだけど」

 

「ううん、嘘。いつものスバルだったら、もっとこう……はちゃめちゃでしょ?」

 

「はちゃめちゃってきょうび聞かねぇな……」

 

このやり取りも久しぶりだと、どこか安堵に頬をゆるめながらスバルが応じると、エミリアは「ほら」とスバルの頬を指差して微笑み、

 

「やっと笑った。スバル、私にはいつも笑った顔を見せようとしてくれるのに、今はそんな風にもできてなかったから」

 

「――――」

 

「何か、辛いこと……あったの?悩みがあるなら……私で良かったら、聞くわよ?」

 

固くなっていた頬が緩んだことを指摘された上、心配する言葉を投げかけられてスバルは思わず、瞼の奥がじわりと熱くなるのを感じて必死で堪えた。

優しい、慈しむような言葉が体中に沁み渡ってくる。八方ふさがりで、手の打ちようがなくて、見えたはずの光明さえも途切れてしまった今の状況で、優しく差し伸べられる愛しい掌に、縋ってしまいそうになって。

そんな自分の、ほんの少し前に固めたばかりの意思さえも貫けない、ふらついた信念が情けなくて、悔しくて。

 

「これは……俺の問題だよ。エミリアに負担かけるような真似は、できねぇ」

 

「…………」

 

「俺のことなんかより、大変なのはそっちの方だろ。『試練』で、あんだけ取り乱して……今はその、大丈夫なのか?」

 

「うん、その節はご迷惑をおかけしました。みっともなく騒いで、ごめんね?……心の準備が、全然できてない問題とぶつけられたみたいだったから」

 

顔を背け、話題をそらすスバルにエミリアが息を抜くような力ない笑みで応じる。

それから彼女はオブジェに腰を預け、背をそらすように夜空を見上げると、

 

「本当に……全然、覚悟ができてなかったんだって、そう思わされたの。私、色々と向き合わなきゃいけないことから逃げて、ここまできてたんだーって」

 

「別に俺は、それが悪いことだとは思わないけどな。嫌なことから逃げ出して、何が悪いんだよ。嫌なことと向き合い続けてたら、いつかはそれを克服できるのか?克服しなきゃ、いけないもんなのか?逃げた先で違う道を見つけて、その道を行くことを決めたとしたら……それは後ろ指を指されなきゃいけないようなことか?」

 

「スバル……?」

 

早口に、何が言いたいのかまとまらないまま舌を滑らせるスバルにエミリアが形のいい眉を寄せる。困惑するエミリア、だがその反応に気付かないままスバルは、

 

「墓所に『試練』を仕込んだエキドナも、それがあるとわかっててここに引っ張りこんだロズワールも、乗り越えなきゃならないってわかってて邪魔するガーフィールも、どいつもこいつも身勝手なんだよ。お前らが好き勝手やってるのに付き合わされてんのに、どうして俺たちが振り回されなきゃいけねぇんだ。それで俺たちなりのやり方でどうにかしようとしたら、思い通りにならないって文句言われて……どうしろってんだよ」

 

「――――」

 

「頭がパンクしそうで、どうにかなっちまいそうなのに。まだまだまだまだ、積み重ねるみたいに問題が山積みになっていって……挙句の果てに、その理由が俺にあるとか、ふざけんなよ。ふざけんな。ふざけ――」

 

感情が昂り、わけのわからない憤りに眩暈さえ感じた瞬間だった。

後頭部に柔らかな掌が回り、ふいに頭を引かれる感覚に体を引き倒される。そのまま正面にある柔らかい感触に頭から突っ込み、スバルは思わず息を止めた。

 

ひどく熱く、柔らかい感触がスバルの顔を覆っている。

触れ合う温もりの向こうから心臓の鼓動が聞こえて、真っ白になった思考がゆっくりと今の状況を――エミリアの胸に抱かれているのだと、スバルに気付かせた。

 

「あ、あ――?」

 

「ゆっくり。静かに。ゆっくりでいいから、私の心臓の音を聞いていて」

 

「――ん」

 

「一定の鼓動に身を任せて、静かに息を吸って、吐いて……繰り返して。落ち着いたら、私の背中を叩いて。落ち着くまでは、このままでいいから」

 

耳元で囁かれる声に背筋をくすぐられるような快感が走り、スバルの呼吸が思わず上擦る。感情の昂りはそのショックで吹き飛んだものの、代わりにスバルの全身の血液が沸騰するほどの感覚に苛まれている。

何がどうして、この状況に陥っているのか。静かなエミリアの鼓動を聞きながら、それとはまるで違う激しく鋭いリズムで肋骨を叩く自分の心臓。

だが、そんな動揺を理由に喚いていた鼓動も、エミリアの息遣いと、柔らかに後頭部を撫でる掌に解きほぐされて、自然と緩やかになっていく。言われた通りに呼吸を深く、吸うと吐くとを繰り返し、スバルは己の息と心を整えた。

それから静かに、エミリアの背を叩く。それを合図に、後頭部に触れていた手がどけられて、スバルは体を名残惜しさを堪えて起こし、

 

「落ち着いた?」

 

「……なんとか」

 

すぐ目の前にある紫紺の輝きを前に、スバルは小さく吐息をこぼす。

そのスバルの答えに「よかった」と安堵の微笑みを浮かべるエミリア。そんな彼女の計らいに顔が赤くなりそうな気恥ずかしさを堪えて、スバルは小さく首を横に振り、

 

「取り乱して、ごめん。こんな風に迷惑、かけたくなかったのに」

 

「迷惑だなんて、そんな風に全然思わないわよ」

 

「でも、俺よりエミリアの方がずっと大変なはずだ。それは、ホントのことだろ。……俺はできたら、そうやって辛い目に遭ってる君を助けたいと……そう思ってたのに」

 

「スバル……」

 

エミリアの前では、常に格好良く自分を作っていたいと思っている自分がいる。

本当のところ、みっともなくて弱くて独りよがりで、何もかもが足りない自分の精いっぱいを常に張り上げて、隣にありたいといつも思っているのに。

 

「うまくいかないことばっかりで、ホントに俺は……今も、ロズワールとやり合ってきたとこだったんだよ。どうにか、『試練』なしで『聖域』を抜けられないかって」

 

「え?」

 

「ホントは俺が、『試練』を肩代わりできたらそれが一番良かったんだけど……でも、それはできそうになくて。だからせめて、抜け道でもないもんかって必死で探ったんだけどそれも難しくて。どうしたらいいのかって……役立たずでごめん」

 

「スバル――」

 

頭を下げる。何度、『死に戻り』でやり直す機会を得ていたとしても、たった一つの冴えたやり方を見つけられない自分の浅慮さが情けなかった。

もっとうまくやっていれば、第二の『試練』で思い知らされたような、悲しい世界だって生まれずに済んだケースがたくさんあったはずなのだ。

今回のような愁嘆場だって、きっとどうにかできる方法が見つかったはずで――。

 

「だけど、きっと俺がどうにかしてみせるから。エミリアに辛い思いも、嫌な思いもさせないようにどうにかしてみせる。だから、俺を信じてほしい」

 

「……スバル」

 

「ああ」

 

エミリアが瞳を潤ませてスバルを見上げる。

その濡れた瞳を見つめ返して、スバルは揺らぎつつある心の中、一番大事な部分だけはねじ曲がらないように覚悟を固める。

エミリアを守って、『聖域』を乗り越え、屋敷を救って、全てを取り戻す。

 

何一つ、光明の見えていない道だけど、きっと何とか――。

 

「スバルの気持ちは嬉しい。本当に嬉しい。――だけど、その優しさは受け取れない」

 

なのに、固まるはずだった覚悟は、強い信念を瞳に宿した愛しい少女の口に、真っ向から否定された。