『甘い焼き菓子と甘くないお話』


 

「……ずいぶんと、お早いお帰りでしたのね」

 

屋敷の正門を開き、帰還したスバルを出迎えた長身のメイドは、その鋭い目を丸くしながらそう呟いていた。

 

「ちょっととんぼ返りせざるを得ない状況に陥ってな。二日……いや、三日ぶりか?早い再会で連絡もなしだったけど、受け入れてくれい」

 

息を切らすパトラッシュの背の上で、半日分の移動の疲労感を抱えるスバルが答える。竜上のスバルを見上げて、軽口を叩く一方で顔色の優れない様子にメイド――フレデリカはその牙がうっすら覗く口元を手で覆い、

 

「構いませんわ。いついかなるとき、どのような来客があろうとも万全のおもてなしができなくては、旦那様の従者として名折れです。地竜の方は厩舎へ戻しておきますので、スバル様はお屋敷の方へ。ペトラにお世話させます」

 

「そこまで気ぃ遣ってもらわなくても……ああ、いや、頼むわ」

 

パトラッシュの上から下りて応じると、着地のときに膝が崩れそうになる。とっさに手綱を掴んで事なきを得たが、思った以上の負担が体にかかっていたようだ。

それも当然――不眠不休で『聖域』からここまで飛ばしてきた上、そもそも『聖域』を出た時点でスバルの肉体は徹夜明けの状態だったのだ。

『風除けの加護』と、騎乗者に負担をかけないようこっそり配慮していたパトラッシュの気遣いがあっても、六時間以上の道のりがスバルの肉体に与えた負担は大きい。

 

思った以上にガタのきている自分の体に気付き、スバルはフレデリカの提案を素直に受け入れる。手綱をフレデリカへ預け、心配げなパトラッシュの背を撫でて、

 

「大丈夫、大丈夫だって。お前の方こそ、俺のわがままに付き合ってくれてありがとうな。あとで厩舎いったとき、ブラッシングして労ってやるから」

 

馬などと違って豊かな体毛があるわけではないが、硬質の肌を擦るようにブラシ掛けされるブラッシングを地竜は好む。パトラッシュも例外ではなく、スバルの確約に興奮したように勢いよく鼻面を寄せてきて、正面からノーズアタックを食らったスバルが「ぐはっ」とのけ反った。

 

「あらあら、元気ですわね。それでは参りましょう、パトラッシュちゃん。藁を敷き直して寝床を整えて差し上げますから」

 

「ああ、頼む。――そうだ、フレデリカ」

 

「はい?」

 

パトラッシュの手綱を引き、フレデリカが厩舎の方へ地竜を連れ立ってゆく。その背中をスバルが呼び止めると、足を止めた彼女が首だけで振り向いた。

長い金髪を揺らす、凶悪な面構えの心優しいメイド。その彼女にスバルは首の骨を鳴らしてから、

 

「――今日は、山小屋に行く予定はないのか?」

 

「……?ありませんけれど、それがどうかしましたの?」

 

スバルの低い声の問いかけに、フレデリカは不思議そうな声で答えた。彼女の答え方、表情、視線の全てに気を配り、スバルは「いや」と首を横に振って、

 

「いかないんならいいんだ。パトラッシュの世話が終わったら、悪いんだけどすぐ屋敷に戻ってもらっていいか?『聖域』のこと含めて、ちょっと話したいことがある」

 

「わかりました。すぐに戻りますわ」

 

丁寧にお辞儀して、フレデリカが今度こそパトラッシュとその場を去る。

彼女が屋敷の前庭から見えなくなるのを見届けて、スバルはその場で伸びをしながら屋敷を見上げる。――変わらない威容、二日目の夕方に戻った最短の屋敷。

 

もっとも遅いタイミングで六日目の夜、それより早い場合四日目の夜。

いずれにせよ、終焉は刃の形をまとって訪れる。

その前に――。

 

「終わりがやってくる前に、終わりを終わらせる方法を見つけ出さないとな」

 

そのために犠牲にしてきたものが今回は多すぎる。

消える世界へ置き去りにする悲しみに対しても、報いるためのものをスバルは手にする必要があるのだ。

 

ガーフィールの慟哭が、見えないエミリアの悲しみが。

ナツキ・スバルに、痛みから目を背けて戦い続ける覚悟を与えるのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「わあ!ずいぶん、早いお帰りだったんですね!」

 

屋敷に戻ったスバルを出迎えたペトラが、顔を輝かせて愛らしさ満載で言い放った最初の一言だ。

内容と文面がほとんどフレデリカと変わらないにも拘わらず、込められた親愛の情が積み重ねた絆の分だけ違うという、わかりやすい好例である。

 

「お疲れのようですね、大丈夫?ううん、大丈夫ですか?今なら、浴場の方の準備もすぐできますから、入浴を先に済まされても……どうしたの?」

 

「いや、ペトラ見てると癒されるなぁと真面目に思って。思い返すと今回、表とか裏とか小難しいこととか何にも考えないで接せられるのってペトラだけなんだよな」

 

敬語と普段の言葉づかいが入り乱れつつ、スバルの周りをぴょこぴょこと忙しなく駆け回る元気いっぱいのペトラ。

彼女の栗色の髪に手を差し入れて頭を撫でてやると、喉を鳴らして嬉しそうに擦り寄ってくるのが実に可愛らしい。前言通り、癒される。

それと同時に、スバルの脳裏を過るのは前回の屋敷での出来事と、その際に訪れたペトラのあまりに無残な終焉だった。

 

「ペトラ、突然だけど……俺の頼みを、聞いてくれる気があるか?」

 

「……?うん。いいえ、はい。スバル様のお願いなら、なんでも」

 

「たはは、何でもは心強いな。そだな。ちょっと大事な話だ。このあと、フレデリカもすぐ戻ってくるはずだから、談話室で話がしたい。お茶だけ貰えるか?」

 

「フレデリカ姉様もですか?」

 

「ああ。今後を左右するかもしんない話だし、ペトラも無関係どころか関係者ってレベルの話じゃないからな。その場にいてほしいんだよ」

 

「無関係じゃ、ない……」

 

口元に手を当てて、考え込む姿勢のペトラ。それから彼女は何かに思い当たったようにハッと顔を上げて、それから少し頬を赤く染めると、

 

「それって、私とスバル様にとって大事なお話ですか?」

 

「んー、そうとも言えるか?ペトラにとっても、俺にとっても大事な話には間違いない。なんせ、二人だけで完結していい話じゃないから」

 

「でも、そういうのって当人たちの気持ちが大事ですよね」

 

「気持ち?気持ちか?気持ちも……まぁ、大事か?意に沿わないことならしたくないってのは事実だし、間違いじゃ……ないのかな?」

 

ペトラの念押しに首を傾げつつ肯定の意味合いで答えると、少女がパーっと顔を輝かせてその場でくるりと一回転。踊るような足取りで屋敷の中へと駆け出し、

 

「すぐ!すぐに戻ります!逃げちゃダメだからね!」

 

「逃げやしねぇけど、ペトラこそ急ぎすぎて転ぶなよ?」

 

テンション高めで屋敷の二階、給仕室へと飛び込んでいきそうなペトラ。ふと、スバルは思い出したことがあってその背に「ペトラ!」と呼びかける。

 

「ペトラ、ハンカチありがとう。なんだ、たぶんペトラの意図したのとは違う形だったけど、助かったよ」

 

「ホントに?私、スバルのお役に立った?」

 

「ああ、命拾い……正しくないけど、そんな感じで」

 

懐から取り出した白いハンカチは、ペトラの刺繍が入った彼女からの贈り物だ。

そして前回、『嫉妬』の魔女との邂逅の際、魔女に呑み込まれる寸前だったスバルが自害するために用いた凶器でもあった。もっとも、その点に関してはエキドナの意図が働いていた感が否めないが、始まりはペトラの想いからだ。

 

考えてみると、エキドナの意思が働いている限り、今でもこのハンカチは凶器としての役割を果たすのだろうか。トリガーに関しては前回のことを踏襲すると、スバルが命の危機に陥るか、あるいは魔法を使う要領でマナを注ぎ込むか。後者の場合、難易度が高すぎてスバルには無理なのだが。

 

「ともあれ、ペトラのおかげだよ。このお礼も、どっかでしないとな」

 

「じゃ、でーと!でーと一回!」

 

「それ、エミリアから聞き出したのか?」

 

魔獣騒ぎの際のご褒美、エミリアとの初デートがあったのはアーラム村でのことだ。

気を利かせた村人や子どもたちはスバルとエミリアを二人きりにしてくれたが、そのときのことをペトラは覚えていたらしい。

 

「わかった。エスコート、させていただこう。ペトラの初デートの相手が俺ってのも、まぁなかなか贅沢で光栄な話でもあるしな」

 

「約束だからね!」

 

「ういうい」

 

軽い口調で手を掲げると、花のように微笑むペトラが今度こそ通路の向こうへ。

その小さな背中を見送って、ペトラの未来にスバルは思いを馳せる。今でも未来が楽しみになる、愛らしい容姿の女の子だ。あと五年、いや三年もすれば手足も伸びきり、見違えるほど美しい少女へと成長するだろう。

そうなったとき、スバルに対して抱いている思慕の念も消えているとは思うが、そうなる彼女が最初のデートの相手にスバルを選んだという事実は、きっとスバルに罪深い満足感をもたらしてくれることだろう。だから、

 

「また必ず、その約束をしような、ペトラ」

 

きっと消えてしまうこの世界で交わした約束は、彼女の中には残らない。

けれど、その約束を交わしたことをスバルは覚え続けているから。

 

正しい未来を選べるときがきたとき、また同じ約束を交わそう。

ペトラの笑顔を思い浮かべながら、スバルはそう考えて、談話室へと足を踏み出した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

談話室で向かい合うようにソファに腰掛けながら、正面に座るペトラがその赤い頬を不機嫌に膨らませているのをスバルは苦笑して見ていた。

 

ソファの上で膝から下を揺らし、話を聞き終えたペトラは不満を欠片も隠さない。そんな少女の子供っぽさがスバルには微笑ましく見えたが、その隣に座っている先輩メイドにはお気に召さなかったようで、

 

「その顔はなんですか、ペトラ。スバル様の前で失礼ではありませんの」

 

「でもでも、フレデリカ姉様……」

 

「でもではありませんわ。普段の、親しい間柄のお相手であっても振舞いは正さなくてはなりません。日頃から意識していないで、どうして肝心なときにできると考えますの。あなたは物覚えのいい子ですけれど、そういうところはまだまだいけませんわ」

 

「うぅ~」

 

悔しそうに唇を噛んで俯くペトラ。

あまりに正論で言い包められる少女が不憫になり、スバルは「まぁまぁそのあたりで……」と落ち着かせようとしたが、逆にキッと睨まれて黙らされる始末。

厩舎から戻ったフレデリカと、お茶の準備を終えたペトラと合流し、談話室で三人落ち着いてお茶に喉を通し、肝心の話し合いに入った場面だ。

今は、スバルが最初に振った話でペトラが不機嫌になったところである。その内容というのが、

 

「どうして、私がお屋敷を離れなくちゃいけないんですか?まだ、お屋敷で働けるようになって、一週間とちょっとなのに……」

 

泣きそうな顔で縋るペトラに、罪悪感を掻き毟られるスバル。が、この先、屋敷で起きる事態を考えると、罪悪感に負けて甘やかしてしまうのは良くない。

スバルは心を鬼にして首を横に振り、

 

「なにもずっと離れてろって話じゃない。解雇とかってわけじゃなくて、一週間ぐらいはアーラム村……っていうか、家に戻っててほしいんだよ」

 

「理由は話せない、そうでしたわね?」

 

「……詳細はな。ただ、この屋敷に危険が迫ってるってのは本当の話だ。つい最近、魔女教に狙われたって話はフレデリカにもしたよな?」

 

魔女教、という単語を耳にしたフレデリカの表情が変わる。

彼女が不在のタイミングではあったが、ペテルギウス率いる魔女教徒が屋敷とアーラム村を襲撃したのはおよそ二週間前のことだ。

『聖域』で育ったフレデリカは、エミリアの素性も絡めて異端であるということがどういう事態を招くか、聡くわかってくれているはずだ。

 

スバルの思惑通り、フレデリカは難しい顔つきながらも顎を引き、

 

「それが本当なら、スバル様の判断も妥当かと思いますわ。ペトラにはまだ、自衛の手段がありませんもの」

 

「大丈夫です!スバルが守ってくれますからっ!」

 

「男らしく任せろよって言ってやりたいとこなんだけど、俺は俺で自分の力不足というか能力不足というか、そのあたりを自覚してるから勝手なこと言えねぇんだよ」

 

フレデリカに立ち上がったペトラが反論するが、幼い反論はスバル自身の無能さによって遮られてしまう。ペトラはスバルの答えにがっくりと肩を落とすが、フレデリカはそんな少女の頭を慰めるように撫でて、

 

「ペトラ、落ち込んではいけませんわ。スバル様が、ご自身の能力の不足を口にするのがどれほど悔しいことなのか、わからないほどあなたは愚かではないでしょう?」

 

「……はい、フレデリカ姉様」

 

「力不足を嘆くのは誰であっても同じこと。それはスバル様も、あなたもです。スバル様はそれを認めた上で、自分のできることを探していらしますの。ペトラ、あなたはどうするんですの?」

 

「うぅ~」

 

再度、涙目になりながら悔しさを噛み殺すペトラ。彼女はその涙目でスバルの方をキッと見ると、上目遣いになりながら、

 

「わ、私ができること……お屋敷では、ありませんか?」

 

「……ん、ごめん。今回は、ペトラにできることは屋敷には何もない。俺の方が力不足で、ペトラにまで気を配ってやれる余裕がないんだ。その方が、ごめん」

 

頭を下げるスバルに、ペトラはギュッと目をつむって瞼を袖で擦る。

そして、それから上げた顔にはもう涙の名残は見えない。ただ、赤い眦をきりりとさせて、ペトラは丁寧にスカートの端を摘んでお辞儀すると、

 

「承りました、スバル様。ペトラは今日の夜から、しばしお暇をいただきます。問題が無事に片付き次第、すぐに呼び戻してくださいまし」

 

「ああ、そうさせてもらうよ。問題が解決したときには……」

 

その場に屋敷のメンバー全員と、可能なら『聖域』の主要人物も交えて、そこに笑顔が溢れ返っていれば最高だ。

ペトラがスバルの提案を受け入れて、まずは最初の話がひと段落だ。

 

――飲み干した茶の片付けと、軽く私物を整理する役割を与えられたペトラが談話室を離れると、部屋の中に残ったのはスバルとフレデリカの二人だけになった。

音を立てて扉が閉まるのを見届け、廊下を行くペトラの足音が遠ざかるのを感じながら、スバルは茶請けの焼き菓子に手を伸ばし、甘さを舌で味わいながら、

 

「聞いてもいいか、フレデリカ」

 

「内容によりますわね、スバル様」

 

当然といえば当然の受け答えにスバルは苦笑。フレデリカは平然とした顔つきで、スバルが口火を切るのを待っている。

一度、深呼吸して最初の一言を何にすべきか思い悩む。だが、スバルの口から彼女に問い質したいことの一番は、一つしかない。

 

「ガーフィールは、『聖域』をどうしたいんだと思う?」

 

「――不肖の弟と、何かありましたの?」

 

「色々と、ぶつかり合う機会が多くてな。それでそのぶつかり合いが、絶対にわかり合えない結果なのか、それとも話せばわかる類のものなのか見極めたいんだ」

 

それによって、スバルの行動方針も変わってくる。

ガーフィールが打倒すべき敵なのか、あるいは恭順させる価値のある味方なのかが。

 

「驚かれないということは、弟から私と弟の関係をお聞きになりましたのね」

 

「リューズさんも否定しなかったしな。リューズさん、知ってるよな」

 

「もちろんですわ。『聖域』においては、身よりのなかった私や弟の育ての親……生きてきた年月を思えば、お母様というよりお婆様というべきなのでしょうけれど」

 

「ガーフィールもババアババア言ってやがったしな」

 

別れ際の、悲痛な『婆ちゃん』という呼び名での叫び声が頭から離れない。

ひょっとすると、ガーフィールは昔はリューズをそう呼んでいたのかもしれない。悪ぶっている今は口さがない呼び方だが、あれが素であったとすれば、

 

「ガーフィールってひょっとして、かなりのお婆ちゃん子だったりする?」

 

「お婆様に対して、という意味でしたら……そうですわね。弟はあれで情が深い性質ですので、お婆様への親愛はとても強いと思いますわ。本人は隠しているつもりなのかもしれませんけれど」

 

姉の目から見ても、ガーフィールのリューズへの家族愛は突出しているらしい。

それがどこをどう間違えると、『聖域』を守ることへ直結し、そしてあの蛮行に及ぶ結果になるのかわかりかねるが。

 

「あれを許せるかどうかって部分と、あいつの行動様式は別の話だからな」

 

「スバル様?」

 

「何でもない。ちょっと思い出し敵意が湧いてきただけ。先入観なしに、物事を判断しなきゃって思ってはいるんだけどな」

 

ガーフィールが何を思って村人大虐殺の惨劇を引き起こしたのか、その根本の部分に対する理解はまだ及んでいない。

だが、『聖域』で行われていた不老不死実験の副産物である、リューズ・メイエルを従える指揮権と、施設の管理を彼が行っていたことは間違いない。

その彼がどうして施設を破壊するのか。そもそも、どうして彼が指揮権を持っているのかなど、わからないことが多いが――。

 

「フレデリカ。お前が『聖域』の住人だったってことは知ってる。クォーターのお前が結界に引っかからず、外に出ることができたってことも」

 

「もうすでにそこまで……」

 

「ガーフィールが同じ立場で、本当なら外に出られるのに中に残ったってこともな。なぁ、フレデリカ。お前は……『聖域』が何の目的のために作られた場所なのか、知ってるのか?」

 

スバルが『聖域』へ向かってから、この時間軸では四日しか経っていない。その間に得たというにはやや無理がある情報量にフレデリカが驚いているが、その後の問いかけに彼女はさらに目を見開く。そして、

 

「いいえ、詳しいことは存じ上げておりません。『聖域』がかつての『強欲』の魔女の実験目的で作られた場所である、とは理解していますけれど……」

 

「知らない?本当に?答えは変わらないか?」

 

「何を疑われているのかわかりませんけれど、私の答えは変わりませんわ。『聖域』が魔女の実験場で、今は魔女の張った結界だけが残り、『試練』を越えなければそれが解かれることはない。私が知るのは、それだけですの」

 

ゆるゆると首を振って締めくくるフレデリカ。言葉の真偽を確かめる方法などないが、スバルには彼女が嘘を口にしているようには見えなかった。

つまり、フレデリカは不老不死の実験の実態を知らないということになる。それはそのまま、その実験で生じた副産物への理解の乏しさも意味していて、

 

「ちょっと待て。じゃあ、フレデリカ……お前は、複製体の指揮権に関しては何も知らないってことか?」

 

「フクセータイ……ですの?いえ、聞いたことがありませんけれど」

 

否定の言葉には先ほどまでのものと同じニュアンスが含まれている。

その答えにスバルは唖然とし、それから力なくソファの背もたれに体重を預けた。

 

「申し訳ありません。何か、ご期待に背く答えをしてしまったようですわね」

 

「いや、いいんだ。お前が悪いわけじゃない。……フレデリカが『聖域』を出たのって、何年ぐらい前だっけ?俺、聞いたことあったか?」

 

「私が『聖域』を出て屋敷のお世話になったのは、もう七年ほど前になりますわ。ラムがきたのがその少し後ですから、私は最古参ということになりますわね」

 

過去を回想する彼女の言葉にレムの名が出なかったことと、『聖域』を語るフレデリカの持つ情報量が以前のループと変わらなかったことにスバルはため息。

これでフレデリカが、持っている情報を理由あってスバルに隠しているという可能性はほとんどゼロになった。切り口を変えて踏み込んで、応答が変わらないということはそれが事実だということだ。

フレデリカは不老不死の実験のことも、おそらくリューズの複製体のことも知らない。リューズがよほどうまく日々の交代をこなしていたのか、あるいは今は毅然と振舞っているフレデリカも、幼い頃は抜けたところのある少女だったのか。

 

「しかしそうなると、わからねぇのはガーフィールだ。あいつは、いったいいつから『聖域』の真実を知ってやがったんだ……?」

 

複製体への指揮権を持つということは、ガーフィールはあの施設を知っていたということになる。それでなくとも、後々にあの施設を破壊するのはおそらく彼なのだ。

ガーフィールはリューズ・メイエルを使った実験を知っている。姉が知らない真実を彼が知ったのは、姉が『聖域』を出た後なのか。あるいは知っていたからこそ、彼は『聖域』の中に残ったのだろうか。

 

「――あ」

 

そして考えながらスバルはふと、あまりに自分が重大な見落としをしていた事実に気付いた。気付いた途端、自分の馬鹿さ加減に本気で呆れ返るほどの。

 

「あいつが複製体の指揮権を持ってたってことは、俺と同じ条件をクリアしてるってことじゃねぇか。それってつまり、強欲の使徒とかいうわけのわからないステータスをあいつも持ってるってことで……」

 

それはつまり、ガーフィールも『強欲』の魔女に、エキドナに会ったことがあるという事実の証左ではないか。

なぜ気付かなかったのか、とスバルは頭を抱える。ガーフィールがエキドナと会ったことがあるとしたら、指揮権の所有には説明がつく。彼が『試練』に対して偏見めいた見方を持っていたことも、『試練』に挑んでは折られるエミリアに同情的だったことも。

 

「フレデリカ。――ガーフィールの奴は、『試練』に挑んだことがあるだろ?」

 

「――!どうしてそれを」

 

「色んな条件を複合して考えた結果、そこに結び付いた。もちろん、失敗したんだとは思うけど……詳細はどういう流れだったんだ?」

 

フレデリカの肯定にスバルは核心の一端を掴んだと拳を握る。

逸るスバルにフレデリカは吐息し、それから過去を手繰り寄せるように瞑目した。

 

「……『聖域』の解放を望んだのは、何も私だけではありません。弟も、同じように外の世界をお婆様たちに見せたいと躍起になっていた頃がありましたの。まだ幼かった弟は、墓所に忍び込んで『試練』に挑みました。その無鉄砲さが、羨ましかったことを覚えていますわ」

 

「フレデリカは、入ったことがない?」

 

「私には、勇気がありませんでしたわ。その中で行われる『試練』を越えれば、『聖域』を解放できるとわかっていても、私には。入ってはいけないとずっと言い聞かせられてきた場所です。そこに真っ直ぐ飛び込んでいける弟が、私には羨ましかった」

 

想像のつく姿だった。

今の性格をさらに無鉄砲にして、幼いガーフィールは墓所の『試練』に意気揚々と挑んだのだろう。ただ真っ直ぐに、大好きな家族に外の世界を見せてやりたいとその一心で。

しかし、

 

「墓所に入った弟が出てこなくて、私は止めなかったことを後悔して、そしてお婆様を呼んで……お婆様も躊躇していましたけれど、すぐに意を決して中へ。それから少し経って、祈っている私の下に弟を連れて戻ってきてくださいましたの。でも」

 

――二度と、墓所の中には入ってはいけない。今日のことも、忘れて誰にも話してはいけないよ。

 

そう、フレデリカはリューズの口から固く言われていたらしい。

今の一連の話を聞いて、スバルは以前に発生したリューズの発言の矛盾を思い出す。墓所に入ったことがあるといったリューズと、入ったことがないと断言したリューズ。

複数のリューズがいて、嘘がつけないという縛りがあることを知っている今だから納得することができる、経験済みと未経験のリューズがいる矛盾の解決だ。

そして今の話からわかったことは、

 

「ガーフィールは一度、『試練』を受けてる。そして、そこで『強欲』の魔女とも顔を合わせてるはずだ。それでようやく、色んな辻褄が合ってくる」

 

ガーフィールが『試練』に対して抱く感情。指揮権を持つ理由。

問題は彼が『過去』に何を見たのか。どうして『聖域』を解放しようとするスバルを拒むのか。そして、エキドナは何故、ガーフィールのことをスバルに語らずにいるのか。全ては墓所の中に、答えがあった。

 

「最低でもあと一回は絶対に、エキドナに会う必要がある」

 

全てを知る魔女から、隠している全てを暴き出すために。

静かな決意を固めるスバルの前で、フレデリカは黙ってこちらを見上げている。

視線に気付いたスバルは頬を掻き、それから「悪い」と呟いて、

 

「色々と、な。聞かれたくないことも、聞いたと思うし」

 

「いいえ、必要なことですもの。旦那様からも命じられておりますから。こうして話したことが、エミリア様の……ひいては『聖域』を解放する助けになるのでしたら、私にとってもなんら問題はありません」

 

「『聖域』は、必ず解放するよ。それをしなきゃいけない理由があるから、どんな手を使ってでも解放する。ただ、そこにガーフィールの願望をどれほど反映させてやれるかは正直、二の次だ」

 

「…………」

 

「ガーフィールが何を思ってるのか、俺にはさっぱりわからねぇ。最悪、あいつが何を思ってても、それが俺の意図した行動に沿わないんだとしたら、ぶっ潰してでも俺は俺の考えを通す。最大多数の幸福を選ぶぜ。悪いけどな」

 

屋敷と『聖域』のどちらに対しても訪れる災厄。それを回避するために行動するスバルの邪魔をするのなら、弾き飛ばされる覚悟はしてもらう。

スバルの答えにフレデリカは一度、強く瞼を閉じてから、

 

「不肖の弟を、よろしくお願いいたします」

 

――そう、頭を下げることで答えとしたのだった。