『――俺を選べ』


 

――今でも、あの瞬間のことを思い出して、後悔に襲われることがある。

 

差し伸べた指を振りほどかれて、愛おしむように名前を呼ばれた。

別れの言葉には慈愛と、微笑む眦には涙と決意と、こちらの声を封じ込めるには十分すぎるほどのものが込められていて、

 

「――――」

 

何を言えばよかったのか、今でもわからない。

何を思っていたのか、今では思い出せない。

何をするべきだったのか、今でもその答えは見つからない。

 

――だから今も、ベアトリスは一人、禁書庫から動けずに蹲ったままでいる。

 

「……リューズ」

 

唇からこぼれ出たのは、音にするのも懐かしいと思えるほど古い記憶の一片だ。

感情が爆発し、その名前を口にしたとき、ベアトリスの中で停滞していた時間が、空虚な四百年という時間が一気に溢れ出してきた。

 

ベアトリスが禁書庫にこもり、いずれ訪れる『その人』という誰かを待つようになったのは、リューズ・メイエルという少女が失われて、彼女の存在と引き換えに『聖域』という場所が確立され、魔人ヘクトールを撃退した後のことだった。

 

唯一親しくしていたと、そう言っていいほどの近しい存在の喪失。

目の前で、自身の力不足でそれを失ったベアトリスの憔悴は誰の目にも明らかで、その傷付いた心を癒すのは時間しかないことを誰もが知っていた。

故に、母の結論は単純明快なものだった。

 

「いずれ、あの魔人は再びこの身を滅ぼしに再来することだろう。それまでに対抗する手立ては整えておくつもりだが……それも万全とはいえない」

 

「はい、母様」

 

「もう一度、相まみえることがあればそのときこそ死力を尽くした決戦になる。敵の強大さを思えば、ワタシが生き残れる可能性は五分五分……やや分が悪いぐらいかな?残念なことに、ゲートの損耗したロズワールでは戦いの役に立たないからね」

 

目を伏せるエキドナに、ベアトリスはあくまで淡々とした態度を崩さない。

堪えているわけではないが、感情はあの日を境にほとんどが表出しなくなっていた。大きすぎる喪失感が、感情の揺り戻しを受けたときにどれほど影響を及ぼすのか。

あるいはそれを心が理解していたからこその、感情の凍結だったのかもしれない。

 

表情一つ変えないベアトリスを見て、エキドナは自身の白い髪に指を通し、

 

「もともと、ワタシは魔女の中でも戦闘には不向きな方だ。魔導の鬼才であるロズワールの力すら借りれないとわかれば、万策を尽くしてようやく勝利の目が見えてくる」

 

「……ベティーは、どうしたらいいかしら」

 

『聖域』の機能を成立させる戦いで、ロズワールが半死半生へ追い込まれたのは周知の事実だ。ゲートのことごとくを壊滅させられ、魔法使いとしての道は断たれたも同然。

ベッドに横たわり、生死の境を今もさまよう同輩の姿を思い浮かべて、ベアトリスはどこか自棄になったような声でエキドナへ問いを投げかけた。

 

「ロズワールと同じように、母様の術式が成り立つまで時間稼ぎを?それとも、強力なオドの塊であるこの身を捧げて術式の核になればいいのかしら?母様のためなら、惜しむものなんて何もないのよ。……どうぞ、好きに使ってくださいかしら」

 

スカートの端を摘まんでお辞儀して、ベアトリスは母親へ最大の信頼を示す。

実際のところ、それは『信頼』と呼ぶにはあまりに脆く儚い感情の代物だった。ただ、ベアトリスには自分の今の精神状態が把握できていなかったし、仮に自分のことを理解していたとしても、出す答えは変わらなかったことだろう。

 

投げやりな復讐心、無力さへの憤慨――それを、自覚しているかいないかだけの違いしかそこにはなかったのだから。

 

「――そうか。そう言ってくれると、ワタシとしても呵責なく頼み事ができると言うものだよ。やはり、君は良くできた子だ。ベアトリス」

 

「……はい。ベティーは母様の娘なのよ」

 

普段ならば、母親にそう評されることには無類の喜びがあったはずだ。

エキドナもそれを知っていてか、殊更に言葉に出してベアトリスを褒めるようなことは少なかった。その魔法の言葉が、今はひどく空しい音を立てて空っぽの胸に落ちる。

何を言われても、この心には二度と熱は灯らないのかもしれない。

 

そんな風に思っていたから、次のエキドナの言葉にはとっさの反応ができなかった。

 

「ベアトリス。君にワタシの知識の書庫の管理を任せる。来るべき時がくるその時まで、書庫の番人として知識を守り続けたまえ。――誰にも、それを奪われないように」

 

「……ぇ」

 

「幸い、君には陰魔法の無類の適性がある。『扉渡り』の力を応用し、隔絶した空間と親しんだ場所を繋げる。……そうだね、『禁書庫』とでも呼ぼう。そこにワタシが有する知識の限りを、書にしてまとめたものを保管して守ってほしい」

 

動揺に目を見開くベアトリスを置き去りに、エキドナはつらつらと何事か語る。

てっきり、エキドナが挑む戦いへの、命を賭した随伴を命じられると思っていたベアトリスは、想像もしていなかった役割を振られることに目を白黒させるしかない。

その娘の動揺を目にしながらも、エキドナは澱みなく言葉を並べ立て、

 

「禁書庫は、ロズワールの屋敷に繋げるのが一番だろう。ワタシの研究施設はことごとくを処分し、最後の戦いに備えることとする。悪いが、書の持ち出しには人員を割けない。書棚の準備や人足に関してはロズワールを頼ってほしい」

 

「ま、待って……」

 

「期限はいつまで、とは定めない。ワタシも君も、すでに定命の頸木からは解放された身だ。季節の巡りの長短はそれほど意味をなさない。とはいえ、ワタシが失われる可能性も考えれば、無期限というのも無責任な話だ。となると……」

 

「待って、ほしいかしら!」

 

息を吸い、声を大にして叫ぶ。

目の前で、母親が何を言っているのかが、ベアトリスには理解できなかった。

否、理解してはならないのだと本能が叫んでいた。エキドナの考えは深淵で、只人に理解できる領域を常に軽々と上回る。故に彼女の発言は絶対的な最適解であり、これまでにその言葉を遮ることなど考えたこともなかった。

 

だが、今は違う。違うのだ。

今ここで、エキドナに全ての言葉を言わせてしまえばきっと後悔する。

彼女の意見が全て言い尽くされてしまえば、それは反論の余地もない最適解だ。世界はその意見を肯定する流れに乗り、ベアトリスはそれに逆らうことはできない。

だから、それを妨げるためには、言い切られる前に言葉を遮る他にない。

 

「母様……何を、言い出しているのよ。き、禁書庫がどうとか、全然意味がわからないかしら。ベティーは!母様と一緒に!」

 

「君がいたところで、残念ながら魔人との相対においてはさほどの影響はない。無論、いないよりいてくれた方が勝算は高まるはずだが……微々たるものだよ。誤差の範囲、といってもいい」

 

「そ、それでもいないよりマシなら、ベティーは母様を手伝うのよ!その方が」

 

「それはいけない。あるかないかのささやかな勝算の水増しに対して、ワタシと君が揃って滅ぼされるリスクの方が大きい。戦いの後、ワタシが生き残れる可能性が五分より低い以上は、ワタシはワタシの知識を後世に残す努力をしなくてはならないと考える」

 

その後世に残すための行いというのが、ベアトリスに任せたい禁書庫の管理。

ベアトリスは自分が持つ『扉渡り』の力と、固有空間の創造の力をこのとき呪った。こんな力がなければ、母にこんな役割を求められることも――。

 

「ま、さか……ベティーの、力はこのときの、ために?」

 

「――――」

 

「母様は、最初からこうなるって、そうわかってて……だとしたら、禁書庫なんて場所だけでなく、せ、『聖域』のことも……」

 

「見通す方法を持つことと、それを行使することとは話が違う。確かにワタシにはこうなる道筋を見る手段も、それを辿らずに済ませる方法もあった。しかし、ワタシはワタシの生き方に誓って、その力を利用していない。それだけは、信じてもらいたいね」

 

引きつったベアトリスの問いかけを、エキドナは首を横に振って否定する。

それから唇を噛みしめるベアトリスに歩み寄ると、エキドナは一冊の本を書棚から抜き出し、娘へとそっと差し出した。

 

「これ、は……?」

 

「ワタシの持つ『叡智の書』の、不完全ではあるが複製だよ。叡智の書の術式は高度な上に複雑で、全てを解明しきることはできていないが……持ち主の未来の、簡単な道しるべぐらいの効果は期待できるはずだ」

 

差し出された本を受け取り、ベアトリスは震える手で表紙をなぜる。

顔を上げてエキドナを見ると、母は普段と変わらず遠くを見るような眼差しのままでベアトリスを見つめていた。

 

「本は二冊。一冊を君に、もう一冊をロズワールへ贈ってある。後のことはロズワールが書を読めば取り計らってくれるだろう。勝手な願いで済まないが、聞き届けてほしい」

 

「――――」

 

震える瞳で本を見下ろし、ベアトリスは自分が遅すぎたことに今さら気付いた。

言わせなければ、言葉にさせなければ、そんな考えでは足りなかった。

 

エキドナは、母はすでに全ての答えを決めてしまっている。

今さら、ベアトリスが泣いて縋って懇願したところで、答えを変えるはずもない。

『強欲の魔女』エキドナはそういう人で、そういう魔女なのだから。

 

「期限の話に戻ろう。ワタシが戻らなくとも、いずれは書庫は誰かに開かれなければならない。そうなったとき、君がそれとわかるようにする。ワタシの知識を、継ぐに相応しいものが君を迎えにくるはずだ」

 

「ベティーを、迎えに……」

 

「仮に『その人』としておこうか。期限は、『その人』が禁書庫の扉を開けて、君に役目の終わりを告げたときまでとしよう。――ワタシからの最後の願いだ」

 

最後の願い。

その言葉にベアトリスは息を呑み、再び自分を見るエキドナの顔を見上げた。

 

母の、普段から変わらない表情。

その表情に、今この瞬間だけは、知らない感情が交えられている気がして。

 

「ベティー。――せめて、健やかに」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

エキドナと別れて、ベアトリスは母親の言葉通りにロズワールの屋敷に厄介になり、自らの陰魔法の粋を尽くして『禁書庫』を作り出し、そこに母の知識の書を詰め込んだ。

エキドナが、その生涯を費やして集め、書き出した知識の海。本という形にそれを詰め込んだ部屋にこもっていれば、母に抱かれているような錯覚を味わえる。

 

当時の自分がそう思っていたかは別として、ベアトリスはエキドナの言いつけを守った。

その役目に没頭していなければ、小さな胸を変わらず苛む喪失感に耐え切れなかったのだ。そしてそれは、時を忘れて過ごす禁書庫の中でも延々と少女を蝕み続けた。

 

「魂を、複製し……器に、上書きして……」

 

どのぐらいの時間を空虚に過ごし始めたのか、正しくは把握していない。

ただ、まともに会話したのがどれほど前のことなのか忘れるぐらいに時が経った頃、大人になったロズワールが禁書庫に足を踏み入れるようになった。

 

「今日も、ちょーぉっと邪魔するよ」

 

痩せこけ、無精髭を生やした青年が足を引きずりながら部屋に入ってくる。

杖をつき、億劫そうに歩く姿――魔人との戦いで全身を破壊され、そのゲートの機能の大半を損耗したロズワールは、日常生活を送ることすら困難な体になっていた。

にも拘らず、ある程度の体力が戻ってからは、その不便な肉体を酷使して、命を削るような有様をさらしながら書棚に向かい合っている。

 

肉を失い、骨と皮だけになった顔と体。美丈夫として知られた整った容姿はとうに輝きをなくし、落ちくぼんだ黄色い双眸だけが爛々と狂気に濡れ光っていた。

 

「――勝手に、すればいいのよ」

 

本来ならば、この禁書庫には誰であっても足を踏み入れさせたくなどはない。

エキドナの語った、いずれ来る『その人』がくるまで、この場所は誰の目にも触れさせない、ベアトリスの『聖域』であるべきなのだ。

しかし、それでもロズワールだけは別だった。彼だけは、ベアトリスと同じようにエキドナの望みに力を貸し、共に短くない時間を過ごした同輩だ。

 

そのロズワールの望みにだけは、禁書庫を開くことも心が許せた。

あるいはベアトリスのそのささやかな仲間意識こそが、ロズワール・L・メイザースという人物と、その一族のその後の運命を決定づけたのかもしれない。

 

「――――」

 

禁書庫に足を運び、エキドナの知識の海に溺れながら、ロズワールはその生涯を賭して何かを見つけ出そうともがいていた。

その結果が実を結んだのかどうか、それについてベアトリスの知るところではない。

 

ただ、ベアトリスと共にエキドナの下で学んだロズワール・L・メイザースという人物は、エキドナとベアトリスが別れて十数年――三十代に差し掛かるかどうかというところで命を落とし、次代へと屋敷の管理を引き継ぐこととなった。

 

「これはこーぉれは、初めまして、ベアトリス様。先代より、お話だけはうかがっておりました」

 

「……ロズワールの奴は、死んだのかしら」

 

「先代ロズワールは、亡くなりました。ですが、ご安心ください。当代のロズワール・L・メイザースである私が、あなたのお役目と母君への恩義は引き継いでまいります」

 

そう言って、ベアトリスに笑いかけた二代目のロズワール。

 

――微笑む彼の瞳は、黄色と青とのオッドアイだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

その後のことで、記載するべき事柄はほとんどありはしない。

 

次代に引き継がれてなお、ロズワールを名乗り続ける一族。

メイザースのその在り方が、亡き母親であるエキドナへの敬意を忘れないためのものであるとわかっていながら、ベアトリスは次代以降のロズワールを禁書庫へと無制限に立ち入らせることはしなかった。

当然のことだ。ベアトリスにとって、特別扱いできるのはあくまで初代のロズワール一人だけ。思いを共にしたロズワール以外は、ロズワールを名乗る紛い物だ。

禁書庫という場所を維持するための、ロズワール邸という屋敷を提供してもらっている分、多少の便宜こそ図ってもそれ以上のことはない。

 

ベアトリスが今後、禁書庫を積極的に開くとすれば、それは『その人』ただ一人。

待ち人は、母に渡された道しるべは、長い長い時間、少女に孤独を強いた。

 

「あなたの力は素晴らしい。ぜひ、その精霊としての力を私に」

 

――うるさい。どこかへいってしまえ。

 

「長く、孤独な時間をこんな場所で。あまりに酷な運命だ。誰に命じられたのだとしても、そんなことは許されてはならない」

 

――お前に何がわかるというの。母様の、求めてくれた大切なお役目を。

 

「知識は開かれるべきなんじゃないのか?ここにある知識が広まれば、どれだけ多くが救われると思う?それを、お前も自分で理解するべきだ」

 

――どれだけ多くがなんて、関係ない。ベティーが救いたいのは、たった一握り。ベティーを救うことができるのも、もうたった一人だけ。

 

四百年の時間だ。

求めていないのに、許してもいないのに、禁書庫へ辿り着く輩も少なからずいた。

彼らは、彼女らは、禁書庫の番人を務めるベアトリスに対して、それぞれの言葉を投げかけながら、最後には決まってこの書庫を開くようにと求めてきた。

 

その申し出が、提案が、命令が、正しいのではと心を揺らされたことはある。

扉が押し開かれたとき、差し込む外の日差しに気付いたとき、今度こそ『その人』が現れたのではないのかと、そう思ったことは何度もあった。

 

だが、ベアトリスの期待を余所に、彼らは誰一人『その人』の役目を知らず、手の中の書も彼らを『その人』であると示すことはなかった。

だからベアトリスは、言葉を、手を、差し伸べてくれた全てを振り払い、拒絶し、母の言葉だけを寄る辺にして今日までを過ごしてきた。

 

そうした時間を過ごすうちに、ベアトリスの心は諦念と失望に支配されていく。

 

初代ロズワールと、もっと言葉を交わしておけばよかった。

唯一、エキドナとの思い出を共有できる彼の存在が失われたときから、ベアトリスはたった一人で、膨大な時間という概念に抗い続けなくてはならなくなった。

そうなったとき、頼るもののないベアトリスは心を頑ななものにして、どんな風にも負けない、孤独の防壁に閉じこもる他に方法を持たなかった。

 

その結果、四百年という長い時間をかけて、少女の檻は形成される。

それが外から鍵をかけたものなのか、内から鍵をかけたものなのか。

――もう、ベアトリス本人にもわからなくなりかけていた。

 

「やあ、ベティー。本当に久しぶりだね。ボクだよ、パックだ」

 

そう言って、ありえない再会が果たされたときが、ベアトリスの凍りついていた心をわずかに溶かした唯一の出来事だったかもしれない。

 

「に、にーちゃ?どうして、ここに……」

 

「ボクの愛娘が、ここのお屋敷のロズワールにたぶらかされてね。それで一緒にお世話になりにきたんだよ。まさか、ベティーがいるなんて思わなかった。会えて嬉しいよ」

 

小さな手で顔を洗い、はにかんだ小猫の精霊の名はパック。

ベアトリスと同じように、エキドナの手で生み出された人工精霊であり、ベアトリスにとっては生まれと境遇を同じくするたった一人の同族といってもいい存在だった。

 

四百年前、ベアトリスがパックと過ごした時間は長いようで短い。

ベアトリスより先に生み出されていたパックは、魔人との戦いが始まる以前にベアトリスたちの前を離れており、その目的に従って世界を放浪していたはずだ。

あるいは再会は叶わないものと、半ばベアトリスにとっては死んだも同然と思っていた存在であり、そのパックとの再会に何十年かぶりに心が湧いたのを実感する。

しかし、そんな喜びも束の間――、

 

「ボクも、ベティーと別れてから三百年ぐらい世界をさまよって、ようやくリアを見つけ出したんだ。ベティーが何を待っているのかわからないけど、きっと願いは叶うよ」

 

「そう、そうかしら。でも、にーちゃが羨ましいのよ。ベティーは、母様からのお役目を……」

 

「母様?それって誰のことだっけ?」

 

「――――」

 

冗談でもなんでもなく、不思議そうに首を傾げるパックの姿にベアトリスは思い出す。

エキドナの傍を離れる際に、パックとエキドナの間で交わされたいくつかの契約。条文の詳しい内容までは知らなかったものの、そのパックのエキドナを忘却した姿にこそ、その一端がありありと隠されている。

 

「……ううん、何でもないのよ。またにーちゃに会えて、嬉しいかしら」

 

「うん、よかったよ、ベティー」

 

目的を果たし、生まれた意味を全うするパックの姿はベアトリスには眩しかった。そして自分の語りたがる言葉が、その道筋の邪魔にしかならないこともわかっていた。

故に少女は口をつぐみ、兄と慕う存在の前途を悲しい微笑みで祝う。

 

思いがけない同族との再会は、ベアトリスにささやかな喜びと、それ以上の苦悩をもたらして、四百年という日々の終焉に少女の心を押しやった。

 

役割を果たしたパックと自分を見比べて、その落差にベアトリスは愕然としたのだ。

そして思ってしまった。

 

「……きっともう、ベティーはにーちゃのように笑うことなんてできない」

 

パックが愛情を注ぐハーフエルフの娘に、ベアトリスは極力関わらないことにした。

そうしなくては、きっとベアトリスはいつか心のわだかまりを少女にぶつけてしまう。何の落ち度もない、敬愛する兄が世界一大事にしている娘に対して、きっと取り返しのつかない過ちをぶつけてしまう。

 

心に自制を呼びかけ、感情を殺すのは得意だった。

四百年間、世界が朝日を迎え、夕日を送り出し、月光に沈む中を延々と繰り返してきたのだ。

お手の物。慣れた行い。わかりきった諦観。そんなものだった。

そんな日々に――異物は唐突に割り込んできた。

 

「い、痛くしないでね」

 

「軽口もここまで徹底してると感心するのよ」

 

許可も得ずに、禁書庫に入り込んできた人間は本当に久しぶりだった。

体からマナを強制的に徴収したことで昏倒する少年を見下ろし、ベアトリスは吐息をこぼして己の髪を撫でつける。

 

部屋を出た少年を、空間同士を繋ぐ力で迷宮に放り込んだのは単なる腹いせだった。

前日のうちに、怪我をして担ぎ込まれた少年の治療を手伝わされた腹いせ。少年に救われたというハーフエルフの娘の願いを、パック経由で叶えさせられた腹いせだ。

文句も言えない出来事への溜飲を、少年を困らせることで少しでも下げようという腹積もりだった。

 

そのつもりが、『扉渡り』の効力を一発で看破された。

内心、ベアトリスがどれほど動揺していたか、少年は気付きもしなかったろう。

 

「もう、関わり合いになりたくない奴かしら」

 

少年を禁書庫から追い出して、ベアトリスはそう述懐した。

彼が一度で禁書庫へ辿り着けた理由は、ベアトリスにも判然としない。おそらくは彼の魔力適正が陰属性に特化していて、たまたまあの日のベアトリスと波長が合ったことが要因ではないかと考えられる。

ただ、少年には陰属性の適性はあっても、そもそも魔法使いとしての適性がない。

 

屋敷に滞在するのもほんの数日、そう思えばこそ、わずかに胸の奥に芽生えたしこりを無視することがベアトリスにもできた。

 

「ベティー。あの子に悪さしたんだって?ダメだよー、もう。あの子はリアの恩人でもあるんだから、ちゃんと謝らなきゃだからね」

 

翌朝、禁書庫に顔を出したパックに前日の行いを叱られて、ベアトリスは関わるまいと決めたはずの少年と早くも顔を合わせなくてはならなくなった。

 

「会って早々、なにを言いやがるんだこのロリ」

 

「なにかしらその単語。聞いたことないのに、不快な感覚だけはするのよ」

 

「攻略対象外に幼いって意味だ。俺、年下属性あんまりないし」

 

「……ベティーにここまで無礼な口を叩けるのも、かえって可哀想なのね」

 

売り言葉に買い言葉。

もともと謝るつもりなど毛頭なかったのが、この会話が理由で完全に消失する。

 

朝食の場を無言でやり過ごし、パックの仕方なさそうな顔を見て、どうにか許されたと思って一息ついたベアトリス。

ただその代わりに、今度は少年の屋敷への長期滞在が決まろうとしていた。

 

いよいよ本格的に状況を呪いたくなるベアトリスは、朝食の席を辞して禁書庫へこもろうと判断する。どうせ、この屋敷は曰く付きで、しかも今は非常事態だ。

根性のなさそうな少年など、すぐに音を上げていなくなる。

それまでの時間、我慢してやり過ごせばいい。

 

「よぉ、ベアトリス。仕事が終わって暇になったから遊びにきたぞ」

 

そう思っているこっちの気も知らず、腑抜けた顔の少年は当たり前のように禁書庫に押し入り、頼んでもいないのにベアトリスにちょっかいをかけ、しかもそれを空いた時間が見つかるたびに繰り返していったのだった。

 

この図々しさには、さすがのベアトリスも絶句する他にない。

これまでにも禁書庫に、ベアトリスの許可を得ずに入り込める資格の持ち主は何人か存在していた。だが、そのいずれもが禁書庫の中の知識を目当てに、あるいは強大な力を持つ精霊であるベアトリスの存在を目当てにやってくるものばかり。

口を開けば、知識の解放を求める。あるいはベアトリスとの契約を求める。そんな輩ばかりだった。

 

「ベアトリス。――お前のその縦ロール、引っ張ってビヨンビヨンしていいか?」

 

「死にたいのかしら、お前」

 

真剣な顔で何を言うのかと思えば、少年は万事が万事その調子だ。

目覚めて、屋敷で働くことになり、最初の一日二日はどこか委縮していた様子があったものの、それ以降からの馴れ馴れしさは尋常ではない。

 

そうかと思えば、彼は急に言い出した。

 

「切羽詰まって八方ふさがりだ。ぶっちゃけ、お前の手が借りたい」

 

――屋敷の周囲を取り囲む森の、魔獣騒ぎの発端を少年が掴んだのだ。

 

魔獣の『呪い』をその身に浴び、ベアトリスに解呪と原因究明を相談する彼の姿に、ベアトリスはこれまでの少年とはどこか違うものを感じていた。

そして同時に気付く。

 

少年の体から感じる陰属性の力の、どこか歪な高まり方に。

 

魔獣騒ぎ自体はベアトリスの関知するところなく終わり、少年は騒動の中で給仕の姉妹との溝を埋めたらしく、屋敷に確かな一員として迎え入れられたようだった。

その後、回復した少年のはしゃぎようと、当初以上に馴れ馴れしくちょっかいをかけてくる姿勢、彼の作った謎の調味料マヨネーズに舌鼓を打つ一幕などを交えながら、ベアトリスは「ひょっとしたら」とありえない夢想を描く。

 

――知識にも、ベアトリスの力にも、大した興味を示さない少年。

 

あるいは彼こそが、ベアトリスが待ち続けた存在なのではないのか。

何の根拠もなく、ただ疑い続ける日々に疲れ切ったベアトリスはそう結論付けようとする自分を、しかし何も記さない預言書を開くことで押さえつけた。

 

預言書に何も描かれない以上、あの少年がベアトリスの待つ『その人』であるはずがない。

 

そもそも、少年にはベアトリスの待ち人に期待する要素の多くが欠落している。

まず、目つきが悪い。態度も悪い。教養もなっていないし、足も短い。ベアトリスよりも大事にしようとする何かがあるし、ベアトリスに優しくない。

逆にいいところが見当たらないぐらいだ。ハーフエルフの娘や、青い髪のメイド姉妹の妹は、あれの何がいいのか本気で理解に苦しむ。

 

いいところなんて何もないんだから、誰にも好まれずに一人でいればいいのに。

そうしたら、禁書庫に顔を出すときに、もう少し対応を変えてやるのもやぶさかではない。

 

そんな風に、思うこともあったのに。

 

「ベアトリス。『聖域』に、エミリア様やスバルくんを招こうと思う」

 

王都から戻ったロズワールが、ベアトリスに告げたのはそんな言葉だった。

 

目を見開くベアトリスの心中を、様々な形で疑問が駆け巡る。だが、ロズワールはそのベアトリスの疑問の数々を、たった一つの行動で黙らせた。

すなわち、彼は手にした自分の預言書の表紙を撫ぜてみせたのだ。

 

「……わかるね?ベアトリス」

 

「わ、かったのよ。……好きに、したらいい、かしら」

 

そう答える他に、ベアトリスには言葉がなかった。

ベアトリスに背を向けて、ロズワールが一足先に『聖域』へ立ったことを聞いて、ベアトリスは誰とも顔を合わせずに禁書庫に閉じこもることを決めた。

 

『聖域』に触れる結果を呼び込む、ロズワールの預言書の記述。

それを聞いて、あるいは自分の預言書もと期待を抱いたのは事実だ。しかし、ベアトリスの預言書には変わらぬ白紙のページだけが続き、少女の心は荒野に取り残された。

 

『聖域』がリューズ・メイエルの犠牲の結果、どうなったのかは知っている。

あの場所の解放がならないまま、四百年の時間が過ぎたことも知っている。その内側に亜人族から外れたものたちを抱え込み、解放の時を待っていることも知っている。

ハーフエルフの娘が王位を目指す上で、越えなくてはならない壁であることも。

 

――だが、あの場所が解き放たれるなら、リューズ・メイエルの犠牲はどうなる。

 

あのとき、リューズ・メイエルを救えなかったベアトリスの無力感は。

エキドナに別れを告げられる切っ掛けになった、あの堪え切れない喪失感は。

 

行き先を失った感情は、凍りついていたはずのそれが再び脈動するのを感じて、ベアトリスは今度こそ自分の運命の終点を悟った。

 

屋敷の外で、何が起きたのか詳しいことはベアトリスにはわからない。

王都から戻った少年は、記憶に残る懐かしい誰かの形見を持っていた。それを見て、また一つ世界に置き去りにされた実感を得ながら、ベアトリスは少年たちを『聖域』へと送り出した。

彼らが『聖域』から持ち帰るものこそが、きっと自分の答えなのだと諦めて。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「だから、ベティーは決めたのよ……!」

 

答えが持ち帰られる前に、屋敷の中を『死』を伴う暴力が吹き荒れるのを感じた。

そして、その原因がどこにあるのかを悟ったとき、今度こそベアトリスは自分が運命に見放されたことを理解したのだ。

 

「母様との、約束は破らない。……でも、これ以上、空っぽの時間を過ごすことなんて何の意味もないかしら!」

 

『その人』は絶対に訪れない。でも、待つことはやめられない。

それならば、ベアトリスが『待つ』という選択肢を、誰かに奪われる他にない。

 

そのためになら命を奪いにくる誰かにそれを差し出すことも厭わない。

できるのならば、その役目を、ほんの僅かばかりでも託そうと思える誰かであったのなら、最後の最後でささやかな願いは叶ったと信じることもできる。

 

だから、少年が――ナツキ・スバルがこの夜、禁書庫の扉を開け放ったとき、ベアトリスの心には言葉にし難い感動が吹き荒れていた。

 

何一つ、ベアトリスの心を救おうとしてこなかった運命というものが、ベアトリスに対して初めて何かを報いてくれた瞬間に思えたからだ。

 

彼の手で、命を奪われて約束を反故にされるのなら、それも――。

 

「お前を連れ出すぜ、ベアトリス。――今度こそ、お前は俺の手で太陽の下に引きずり出されて、そのドレスを泥だらけにして真っ黒になるまで遊ぶんだ」

 

――彼は急に、何を言い出したのだろうか。

 

「余計なお世話かしら。誰もそんなことお前に頼んじゃいないのよ」

 

意味がわからない。何を言っているのか。

だって少年はこれまでに一度だって、『その人』らしい振舞いなんてしてこなかった。ベアトリスの預言書を奪って、「待たせたな」なんて声をかけてくれたことはなかった。

 

「白紙の本と、四百年前の口約束にいつまでも振り回されてんじゃねぇ。――お前のやりたいことは、お前が選べ、ベアトリス」

 

「――――」

 

――なのにどうして今さら、少年は覚悟を決めたベアトリスの心を掻き乱すのか。

 

終わりを迎えるのだと、そのことばかりを考えていた。

戻ってきた少年を見て、彼の手で終わらせるのだと、そんな期待を抱いていた。

 

それなのに少年は、ベアトリスの抱いた希望とは違う形の未来を見せようとする。

そんなことは、望んでいない。

そんなものを望む心は、四百年という時間の中でとっくに擦り切れた。

 

「お、前が……『その人』だったら……」

 

そうであったはずなのに、憤慨を隠さない少年の声を聞くうちに、ベアトリスの心の中に変化が生まれてしまった。

雪解けの季節に花々が芽吹くように、眠っていた感情が震えながら顔を出す。

 

それを言ってしまえば、取り返しのつかないことになる。

四百年間、ベアトリスを縛り続けてきた母親の言葉への執着をなくして、今度はまったく別の新しいものに縋りついてしまう。

そうわかっていながら、ベアトリスは、決定的な言葉を――、

 

「ベティーの、『その人』に、なってくれるの?」

 

「馬鹿か、お前。――俺がお前の『その人』なんてわけのわからない奴のわけねぇだろ」

 

口にした瞬間、馬鹿にするような顔をした少年に芽吹いた期待が裏切られた。

 

その後は、怒りに任せて少年を部屋から追い出してしまい、よく覚えていない。

しかし、自分が取り返しのつかないことを口にして、取り返しのつかないことになる前に鎮火したことだけは自覚があった。

 

「――――」

 

あれでは、自分は何という道化なのか。

あれでは、ただ守り続けてきた母の言いつけを裏切っただけだ。裏切りはしかも実を結ばずに拒絶されて、ベアトリスの誓いはひどく安っぽいものへ成り下がった。

 

「もう、疲れたかしら」

 

ならばもう、後のことは決めていた通りになればいい。

あの少年の手にかかろうなどと、考えたことがそもそもの間違いだ。あれは誰かのために手を汚せるような、そんな潔い心の持ち主ではない。

ベアトリスと同じように、うじうじとつまらないことに悩んで、優柔不断に何も決めることができず、散々言い訳を重ね続ける弱い心の持ち主だ。

 

だから、ベアトリスを終わらせる『死』は、もっと別の形で――。

 

「やっと戻れた!おい、馬鹿。話の途中で追い出すんじゃねぇよ。いいからちゃんと最後まで……!」

 

「――――っ!」

 

「ぷろっと!?」

 

考え事に割り込むように、少年が再び乱暴に禁書庫に飛び込んできた。

何事か口にしようとする少年を見た瞬間、感情を沸騰させてベアトリスは魔力波を放って少年を吹き飛ばす。

耐え切れずに禁書庫の外へ飛び出し、音を立てて扉が閉まるのを見届ける。

 

完全に話し合いは決裂、それも向こうの致命的な一言で終わったというのに、なんという図々しい精神性なのか。

あんな発言をしておいて、ぬけぬけと顔を出せる根性がベアトリスには理解できない。

苛立ちを堪えるように小さな胸に手を当て、ベアトリスは吐息をこぼし――、

 

「いい加減にしろ!ガキの癇癪か!すぐ暴力に訴えてたら話が進まね……」

 

「お前がいい加減にするのよ!」

 

「どぅわぅ!」

 

手加減抜きに頭を撃ち抜き、そのまま胴体にぶち込む魔力波の二段構え。

悲鳴を上げて転がり、扉の外の壁に頭をぶつけて少年が悶絶するのを確認して、再び禁書庫と通路は隔絶される。

 

信じられないしつこさだった。

諦めることを知らないのか、それとも自分の無神経な言葉がどれだけベアトリスの心を抉ったのかに自覚がないのか、とにかく少年は『扉渡り』の別れを拒み続ける。

 

「……冗談じゃ、ないかしら」

 

忌々しげに呟いて、ベアトリスは部屋の奥から脚立を引きずり、扉の正面にいつものように陣取って、預言書を抱きながら扉を睨みつける。

 

――あの少年はまた、あの扉を押し開きにくるだろう。

 

身勝手な理屈と、こちらの気持ちを考えない感情の押し売りに、必ず現れる。

何度でも、何度でも、拒絶を重ねて追い払おう。

 

お前は、『その人』ではないのだから。

ベアトリスを連れ出す権利を、彼は自ら放棄したのだから。

 

だからベアトリスは決して、連れ出されてなどやらないのだ。

 

自分はここで、果たされない約束と共に終わればいい。

そうすることが、今のベアトリスにとって唯一の救いなのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

吹っ飛ばされて部屋から追い出され、壁に激突して息が詰まる。

 

ベアトリスの説得が失敗してから、禁書庫へアタックを仕掛けて拒絶されること都合六度目。短期間でぶちのめされ続けたおかげで、見えない攻撃に対する受け身の取り方が上達している気がする。

代わりにベアトリスの方の魔力波の一撃も、スバルが大事に至らない限界を見極めつつあるようで、決して油断ならない状況ではあった。

 

「なんて、馬鹿な技術磨いてる場合じゃねぇよ、クソ!話が通じねぇ……っ」

 

袖で汗を拭い、スバルは膝を叱咤して立ち上がる。

前日から走りっぱなしの上、血を流したり折れた骨を継いだりなどで体力も浪費している。疲労困憊で目が霞み、気力だけを支えに体を動かしているのが実情だ。

 

「そろそろ、本格的に火の回りがやべぇ……」

 

姿勢を低くして、首を巡らせるスバルは視界が悪い理由が疲労だけでないことに舌打ちする。

巨大な魔獣を始末する際の出火が原因で、屋敷全体が炎に包まれつつあった。

すでに本棟の階下はほとんどが火の手に覆われており、西棟と東棟の方からも黒煙がたなびいているのが見える。

 

延焼する炎のおかげで屋敷の中にいた魔獣の多くが逃亡したらしく、駆け回るスバルの道を妨げる化け物の存在はない。ただ、建物の中の温度は加熱の始まった焼き窯のような有様で、流れ出る汗が端から蒸発し、炙られる肌が今にも焦げそうな状態だった。

遠からず建物の崩壊が始まり、スバルの命運も炎の中に尽きる。

 

そうなる前に、目的を果たしてベアトリスとここから逃げ出さなくてはならない。

それなのに、肝心要のベアトリスの心は頑なに閉ざされたままだ。

 

「屋敷が燃えてるおかげで、ドアの候補が減ってるのは助かるっちゃ助かるが……」

 

大火の影響でプラスに考えられるのは、せいぜいがその部分ぐらいか。

禁書庫と繋がる『扉渡り』の効果は、屋敷の中の機能する扉にのみ発揮される。つまるところ、開かれた扉や焼け落ちた扉は『扉渡り』の対象外。

屋敷の焼失が進めば進むほどに、禁書庫へ通じる扉の候補は少なくなる算段だ。

 

「そうは言っても、扉が減る前に俺が蒸し焼きになる方が早ぇ」

 

それに、屋敷の扉が全て焼け落ちてしまった場合のことも考えたくない。

ベアトリスの『扉渡り』が、具体的にどういった形で空間と空間を繋げているのかは把握していない。あるいは屋敷の焼失は、ベアトリスの禁書庫を永遠に亜空間へ切り離すことに繋がるのやもしれなかった。

唯一、屋敷以外にも繋がる可能性がある場所で心当たりがあるのは、『聖域』にあったリューズ・メイエルの眠るクリスタルのある研究所だが――、

 

「今の精神状態で、あいつがあそこと屋敷を繋ぐことが、あるのか……?」

 

以前、ベアトリスの『扉渡り』でスバルが『聖域』へ飛ばされたことがあった。

イレギュラーなあの事態がなぜ起きたのか、スバルの中には一つの推論がある。

 

あのとき、ベアトリスは感情を爆発させ、スバルを禁書庫から無理やり追い出した。

意思を違えて、強烈に『別れ』を意識したベアトリスの『扉渡り』――その結果、スバルがあの場所へ送られたのだとしたら、どうだろうか。

あの場所は、ベアトリスにとっては辛く悲しい別れの象徴のような場所だ。それ故にスバルはあのとき、『聖域』へと送られたのではあるまいか。

 

それならば今回、ベアトリスの『扉渡り』があの場所に通じることは考え難い。

ベアトリスは別れを意識することより、今は終わりを意識している。

屋敷という世界との繋がりを失えば、ベアトリスは今度こそ終わりに辿り着く。

 

今のスバルには、彼女の決断がそうなるように思えてならなかった。

 

「そんな風に、お前を終わらせてなんて絶対にやらねぇ……!」

 

息を大きく吸い、スバルは地面を這うような低い姿勢で走り出す。

弾き出された扉は開けたまま、次なる扉を求めて、黒煙を払いながら屋敷の奥へ。

 

建材が焼け、燃え盛る炎の中で何かが弾ける音が鼓膜を叩き続ける。

肌が炙られ、高温の大気が目を焼こうとするのに顔をしかめて耐える。

 

鼻から忍び込む煙に咳き込みそうになりながら、まだ開かれていない扉を見つけて飛びつくようにドアノブを掴んだ。

熱されたドアノブは高温を発し、掴んだスバルの掌を容赦なく焦がす。すでに掌の皮は幾度もの火傷でべろんべろんだ。苦痛に奥歯を噛みしめるのも慣れたもの。

痛みにこめかみを鋭く貫かれる感覚を味わいながら、蹴り破るように扉を開けた。

 

「――――」

 

飛び込み、古い本の臭いに包まれる部屋へと転がり込む。

大きく口を開けて息を吸い、仰向けの状態で暗がりの天井を睨みつけた。

 

慣れた大気と、肌を刺す怒りの気配――他でもない、禁書庫だ。

 

「またお前は、性懲りもなく……!」

 

「はぁっ!当たり前、だろうが!何度でも、俺はお前をさらいにくる。それが嫌なら今度こそ連れ出されろ!そうすりゃ、このやり取りもこれが最後だ!」

 

「減らず口はもうたくさんかしら!屋敷が燃えてるのは知っているのよ!今すぐに外へ逃げなくちゃ、お前も火にくるまれて焼け死ぬだけかしら!」

 

跳ねるように体を起こし、荒い息をつきながらベアトリスを睨みつける。

少女は脚立に座ったまま、丸い瞳を精一杯つり上げてスバルへの激情を露わにしていた。

 

一瞬、その瞳の端にささやかな感情が走り、ベアトリスは唇を震わせる。

 

「それとも……お前は屋敷やベティーと一緒に、焼け死ぬことを選ぶというの?」

 

「馬鹿か!これだけ言ってもまだわからねぇのか!俺はお前と一緒に死んでやるつもりなんか欠片もねぇ!俺は、お前を死なせずに連れ出しにきてんだよ!」

 

「――ッ!どこまでも、本当に勝手な奴かしら!とっとと、出ていけ!」

 

立ち上がり、スバルは書棚に飛びついて魔力波の最初の一発をやり過ごす。

全身に暴風が叩きつけられる感覚と、生気をごっそりと奪われるような第二波。見ればベアトリスは左手を天井へ向け、苦しげに顔を歪めて無理やりに笑みを作っていた。

 

「強制的にマナを奪ってやったのよ。この感覚、お前も久しぶりじゃないかしら」

 

「て、め……っ」

 

「棚を掴む指が緩めば、それでしまいなのよ。もう、ベティーに構うんじゃないかしら!」

 

膝が落ちかけた瞬間、魔力波の第三波がスバルの体を正面から殴りつけた。

見えない空気の壁に激突されたような衝撃を受け、体を支え切れずにスバルは再び扉の方へと押しやられる。そのまま転がり、部屋の外へ飛び出しかけるのを、

 

「ぬ、んぐ!」

 

転がる体の手足を伸ばして突っ張り、弾き出されかけた体を扉へ引っ掛ける。

激突した手足に激痛が走り、特に腕は折れるかヒビの入った感覚があったのが経験則から理解できた。それを、歯を食いしばって強引に無視。

 

「な――っ」

 

「こんだけ繰り返しやられてりゃぁ、俺でもちったぁしのぎ方を学ぶってもんだ。俺の努力に免じて、そろそろ話を聞く気になってきたかよ?」

 

「お前とベティーの話す機会は終わったのよ。お前が自分で、お前の方から踏みにじったかしら……それが、どうしてわからないのよ!」

 

「わからねぇさ。実際のところ、そう仕組んでるのはお前の方でもあるんじゃねぇか?」

 

扉に手をかけて立ち上がる、切った唇から滴る血を拭いてスバルは言い捨てる。

その言葉にベアトリスが無理解を示すように眉を寄せるのを見て、苦笑が出た。

 

「何が、おかしいっていうのかしら」

 

「俺の連続アタックも、どうやら無駄じゃねぇみたいだってのが確認できたからな。本気で俺を拒絶するなら、生易しい真似しないで俺を吹き飛ばせよ。その力がお前にはあるだろうが。その方がずっと、手っ取り早いぜ」

 

「……ベティーに、お前を殺せだなんて」

 

「できないよな。今のは俺が意地悪かった。悪い。でも、お前が本当に俺を拒絶するっていうなら、もっと簡単な方法がお前にはあるはずだ」

 

以前にも、ベアトリスは泣きそうな顔でスバルを殺すことを拒否した。

彼女のそのときの心情や理由まで、スバルは触れられる段階に至っていない。だから推測するだけだ。そうできなかった理由を、スバルの知る彼女の過去の断片と掛け合わせて。

その上で今の問いかけを行うのだから、本当に自分の底意地の悪さには呆れが出る。

 

でも、そうでもしなければベアトリスは気付いてくれないだろう。

自分の行いと思いと、スバルがここにいることの矛盾に。

 

「本気で俺の顔が見たくないなら、禁書庫にこもれよ、ベアトリス」

 

「何を……お前は……っ。現に、ベティーはこうして禁書庫から一歩も出ちゃいないのよ。それなのに、お前が勝手に押し入ってくるから……!」

 

「いいや、違うね。お前が本気でここに一人でこもるつもりがあったら、俺が短期間でこんなに何回もここに辿り着けるもんかよ。お前の拒絶は、上っ面だけだ」

 

「それは!お前が……そう、お前が『扉渡り』の破り方を実践してるからかしら。それに屋敷が燃えてて、扉の数も減ってるから……」

 

口ごもり、ベアトリスの拒否の言葉が徐々に尻すぼみになる。

スバルの言葉を受けて、彼女も自分の心を疑い出しているのだ。それでなくても今のベアトリスは、四百年もの時間を耐え抜いてきた支柱を失い、揺らいでいる状態だ。

もはやスバルの言葉が正しいのか、自分の感情が正しいのかわからなくなっている。

 

「――――」

 

スバルにだって、実際のところはわからない。

自分がこうして、ベアトリスの禁書庫に躊躇いなく短期間で辿り着ける理由など。

 

屋敷の扉が焼失し、選択肢が減っているからかもしれない。

あるいはスバルの秘められた陰属性の力が火事場の馬鹿力を発揮して、ベアトリスの『扉渡り』をことごとく看破しているのかもしれない。

 

本当にスバルの言う通り、ベアトリスが本心ではスバルを拒絶しきれていないから、『扉渡り』の門戸がスバルに開かれているのかもしれない。

 

最後であればいいなと、スバルは期待し願っている。

だが、事実がどうであっても関係ない。今ここに、ベアトリスを連れ出せるかもしれない可能性に、ナツキ・スバルが届いていることが必要なのだ。

 

「お前は……お前は!ベティーの『その人』じゃない!」

 

耐えかねたように、ベアトリスはスカートの裾を掴んで声を張り上げた。

頭の中を駆け巡る思考を放棄し、ベアトリスは泣くようにスバルに訴えかける。

 

「お前が違うとそう言ったのよ!お前が……お前が違うって、そう言ったかしら。お前が『その人』だったら……嘘でもそうだって言ってくれたら、きっとベティーはそれを信じられた。嘘だとわかっていても、信じるしかなかったのよ」

 

「ベアトリス……」

 

「でも、お前は違うって言ったかしら。違うって、馬鹿かってそう言ったのよ。ええ、そうかしら。その通りなのよ。ベティーは馬鹿で、大馬鹿で、四百年も前に交わした口約束が今も忘れられないから……だから!何を言われてももう終わりかしら!」

 

拒絶を選び、叫ぶベアトリスの周囲を見えない風が取り巻いている。

魔力の奔流が少女のドレスを、長い髪を風に乗せ、不穏の空気が禁書庫に張り詰める。これまでで、最大の風が吹き付ける前兆をスバルは感じ、手加減抜きの一撃を浴びることへの恐怖が総身を震わせた。

 

後ずさり、扉の向こうに逃げてしまいたくなる怯える心。

それをどうにかねじ伏せて、切れた唇をさらに噛み切ってスバルは前を向く。

 

伝えなくてはならないことを、伝えるために。

 

「俺は……」

 

「――――」

 

「俺は、お前の『その人』なんかじゃない。何度だって言ってやる。お前が待ってた白馬の王子様なんてきやしない。最後の瞬間までここにいても、絶対に!」

 

「――ッ!それなら!ベティーはここで、朽ちるだけなのよ!」

 

「それはダメだ。その選択は選ばせねぇ。お前が心変わりするまで、俺が何度でも言いにきてやる。『その人』はこない。約束は、守れない。――でも、お前は死なせない」

 

「お前なんか……大嫌いかしら!!」

 

言い切った直後、ベアトリスの感情が爆発する。

 

その瞬間、練り上げられていた魔力の奔流が一つの目的に従って姿を変え、白い光がスバルの目に映る世界を染め上げた。

風を浴びたと、そう感じる隙間すらない。

 

突き抜ける衝撃波がスバルの体の正面から背中までを打ち据え、臓器という臓器が掻き回される。全身の血液が逆流し、毛穴から何もかもが絞り出されるような痛苦。

目が回り、平衡感覚がなくなり、圧倒的な浮遊感を味わい、音も臭いも光も感じられなくなる。あるいはこれを人は臨死の感覚というのかもしれない。

 

――しかし、ナツキ・スバルは知っている。

 

「――どうしたよ」

 

内臓が口からはみ出しそうな嘔吐感を堪えて、弱気を悟られないよう声を出す。

足裏に世界があり、それを意識した途端に体の感覚が徐々に戻ってきた。手足があり、頭があり、内臓は口からはみ出ていないし、魂が器を抜け落ちてもいない。

つまりはなんだ。いつも通り、死にかけただけだ。

 

これが『死』でないことぐらい、ナツキ・スバルは熟知していた。

 

「嘘、なのよ……」

 

ぼやけて、定まらずに揺れ動く視界。

どうにか書庫の中だと把握できる程度に焦点の合いつつある世界で、正面にいる少女が自分の両手を信じられないものでも見るように見つめていた。

 

ベアトリスだ。

彼女にも、スバルが死なず、原形を留めていることが不可解でならないのだろう。

 

何も不思議なことはない。スバルには、こうなることはわかっていた。

ベアトリスに、スバルを殺せるはずがない。

 

「ベアトリス……」

 

「――――」

 

朦朧としている意識。どうにか、途切れかけの精神を根性で繋ぎ止める。

目の前で少女が揺れている。だけど、拒絶しきれなかった自分を理解できない顔で、ボロボロのスバルを見て怯えている。

だから、今なら声が届くと思ったから、なけなしの意識を掻き集めて、言う。

 

「俺、は……お前の……『その人』じゃ、ない……」

 

「…………」

 

「でも」

 

何度も重ねた否定の言葉に、ベアトリスが泣きそうな顔をする。

そのまま、話が終わってはこれまでの繰り返しだ。そうなる前にスバルは、ベアトリスが感情を膨らませ切る前に、言葉を吐き出す。

 

「俺は……お前と一緒にいてやりたいよ、ベアトリス」

 

「――――!」

 

「優しいお前が、悲しくないように、傍にいてやりたいよ」

 

「ぁ……う、ぐ……っ」

 

ベアトリスの表情が歪む。

それは怒りを堪えているようでも、涙を流すのを堪えているようでも、何か例えようのない感情を表に出さないようにしているようでもあった。

ただ、ベアトリスは言葉を呑み込み、荒い息を吐き、脚立に置いていた本をとる。ページをめくり、乱暴にめくり、指先が紙をくしゃくしゃにして、小さく唸る。

そして、

 

「――なん、だ?」

 

ベアトリスが何かの行動を起こす前に、ふいにスバルの視界が歪んだ。

それは朦朧とする意識とも、血が足りないこととも関係ない、現実的な問題だ。

 

事実として、スバルの前で禁書庫という世界が歪み始めていたのだ。

足元がうねり、書棚がバランスを崩して次々に倒れ込む。並べられていた本が乱雑に床に落ちて、あっという間に地面が本の海に覆い尽くされた。

 

それでもなお、世界の歪みは止まらない。

やがてスバルの足元すらも、蛇腹のように大きくうねってバランスを保てなくなる。

 

「こんな……これは……!?」

 

「――――」

 

必死に扉にしがみついて、スバルはベアトリスの方を見る。

見れば、うねり続ける部屋の中、ベアトリスの周りだけが形を保ち続けている。彼女が座り続けた脚立は微動だにせずあり、ベアトリスは寄りかかるように体重をそれに預けてスバルを見た。

 

「――――ぁ」

 

何事か、口にする前にスバルの足元が大きく傾いだ。

まるで紙を破くような音を立てて、スバルが立っていた床に亀裂が走る。床板の下は黒い空間が広がっており、『扉渡り』とはまた別のどこかへ飛ばされるのは間違いない。

あるいは、亜空間のような存在しない場所に閉じ込められるのかもしれない。

 

「――しまっ」

 

その穴を意識し、足を一歩引いた瞬間だった。

本当の意味で世界が斜めに傾き、スバルは重力の法則に負けて後ろへ倒れる。口を開ける扉はスバルを呑み込み、その体を『扉渡り』を経由して再び炎の屋敷の中へ。

 

「あづっ!」

 

放り出された直後、スバルはぶつかった壁の熱に悲鳴を上げた。

顔を上げてみれば、スバルが投げ出されたのはもはや完全に炎に包まれた屋敷の通路だ。かろうじて、本棟であること以外には確認できるものが何もない。

炎に全身を炙られながら、スバルは今しがた飛び出した扉に目をやり、その扉がすでに下半分を炎に呑まれていることに気付いて絶句した。

この状態で、『扉渡り』が成立したことがすでに奇跡だ。もう一度飛びついたところで、ここが再び禁書庫に繋がるとは到底思えない。

 

「く、そ……ここが、本棟だって言うなら……っ」

 

最上階であるなら、まだ原形を留めている扉も見つかるかもしれない。

扉の数からぼんやりとここが最上階でないことを意識し、スバルは火の手の中をどうにか階段を目指すことを決める。

 

煙が目に沁み、涙がとめどなく溢れ出す。呼吸するたびに肺が焼かれ、黒煙に意識が奪われかけるのを上着を口元に当ててどうにか堪える。

数分ももたない。禁書庫へ辿り着けるものか――否、弱気はここでは許されない。

 

何より、ベアトリスの最後の表情が忘れられない。

 

「あの馬鹿、またあんな顔しやがって……」

 

ベアトリスの魔力波を受けた体の、手足の痺れがどうにか抜ける。

何とか意思に従う体を引きずって、スバルは通路の端を目指して魂を削って走った。

 

脳裏にちらつく、ベアトリスの表情。

あれは以前のループでも見たことのある顔だ。

 

スバルがベアトリスと共にエルザと相対し、そして倒したはずのエルザによってベアトリスの命が奪われたときの顔。

スバルを庇い、突き飛ばした状態で腹を破られたベアトリス。

彼女は無事なスバルを見て、何も言わずにその肉体を光の粒子へと変えた。

 

だが、あのときの最後の顔を、スバルは忘れてはいない。

彼女はスバルを庇えたことに安堵するでも、与えられたがっていた『死』を目の当たりにして喜ぶでもなく、ただただ顔を歪めた。

 

――寂しいのは嫌だと、誰にでもわかるような顔をしていた。

 

「だから俺が……お前を一人になんて、してやるもんかよ……!」

 

吐き捨て、炎に飛び込んで活路を見出す。

何か蠢く良からぬものを体内に感じながら、しかし炙られる熱さと皮膚の焼けただれる痛みがそれを意識させない。

 

このとき、もしもスバルを客観的に目にするものがいれば、そのおぞましさに思わず身を引いたかもしれない。

炎の中、少女を連れ出すことを誓って走るスバルの姿は、おびただしい量の黒い瘴気に取り巻かれ、まるで影の衣に守られるように抱かれていたのだから。

 

そうとも知らず、スバルは一際大きな炎の壁を突き破り、階段へ辿り着いた。

荒い息を吐き、上階への階段を見てここが二階であることを理解する。そのまま階段に足をかけて、最上階へ一気に駆け上ろうと――そう思ったときだ。

 

「――――」

 

何か、濡れたものを引きずるような音がするのに気付いて、スバルは下を見た。

音の発生源は階下だが、そんなはずがないと理性は告げている。

 

周囲から聞こえる音は、建物が燃える音と炎が爆ぜる音ばかり。

崩壊寸前の屋敷で、それも本棟の一階はこの火災の火元でもある。そんな場所で、何かが動いていることなどありえない。

 

屋敷の中を散々、奔走したスバルは魔獣すら逃げ出した火災のことを理解している。

だから、この何かを引きずる音は幻聴に他ならない。

 

――それならば、あれはなんだ?

 

「……まさか」

 

ずりずりと、何かを引きずりながら影が炎の中から抜け出してくる。

上階を目指し、スバルと同じように階段に足をかけ、その影は一階から二階への途中の踊り場で足を止めると、すぐ上にいるスバルの気配に気付いて上を見た。

 

その影は、黒い服を着て、黒い刃を片手に下げた、黒い髪の女だった。

 

「エルザ、か……?」

 

「――――」

 

影は答えない。だが、その姿かたちはスバルの知る黒衣の女に相違ない。

なぜ、彼女がここにいるのか。まさか、ガーフィールは敗れたということなのか。だとしたら、スバルの戦いは、全てを救うスバルの戦いは完敗に終わることに――。

 

「いや、違う……」

 

そう思い込みそうになり、スバルは首を横に振った。

ガーフィールの強さを、スバルはここで信じなくてはならない。敵が強大であったとしても、彼が勝つことにスバルは賭けたのだ。

 

オットーも、フレデリカも、ペトラとレムを連れ出すのに尽力してくれた。

ガーフィールもまた、最善を尽くすと断言した。

 

仲間を信じずして、どうしてナツキ・スバルがここまでこれようか。

 

「ガーフィールは、負けないはずだ。なら、どうしてお前はここに……」

 

ガーフィールの奮戦を信じて、スバルは眼下の影へ向けて言葉を放り投げる。

いるはずのない女。彼女の行動の裏に、何があるのか。

 

しかし、それを問い質そうとして、スバルは気付いた。

否、気付かされた。

 

「――お前、もうエルザじゃないな?」

 

スバルを見上げる黒い双眸には、意思の光が一片も残っていない。

眼球が収まっているのが信じられないほど、空虚ながらんどうがそこにある。

 

何かを引きずる音は、影が潰れているとしか思えない下半身を引きずっているからだ。それでもなお生きているように振舞うことが、スバルにはあまりにおぞましい。

死なない生命力がある女とは思っていたが、あれほど破壊されても死ねないのか。

 

「けど、憐れんでやってる暇がねぇ……!」

 

あれが死ねないのだとしても、スバルから同情する言葉はない。

死にかける前にエルザのやってきたことを思えば、あれでも手緩いぐらいだ。かといって殊更に、歩く死体を痛めつける趣味などスバルにはない。

 

せめて屋敷の崩落に巻き込まれて、そのまま火葬されてしまえばいいと割り切る。

 

「そのまま、火の中に呑まれろ。俺はベアトリスを……」

 

首を横に振り、眼下の影を振り切って上へ行こうとしたときだ。

 

「――あ?」

 

軽い音を立てて、眼下で影が跳ねた。

そして口をポカンと開けるスバル目掛けて、凶悪な形をした刃が振られる。

 

「――――」

 

鼻先を掠める刃の風に、スバルは呼吸も拍動も忘れた。

それほど、まるで歩み寄るような自然さで影はスバルの命を奪いにきた。

 

だが、斬撃はかろうじてスバルに届かず、爪先の手前の床を砕くに留まる。

それは相手の手加減ではなく、跳躍する下半身が死んでいたが故の脚力不足。それがなければ今の一撃で、スバルは間違いなく死んでいた。

 

「冗談じゃ、ねぇ――!」

 

前のめりに倒れ込む体をとっさに蹴りつけ、スバルは階段へ足をかけた。

息をするのも忘れて一気に駆け上がり、首だけで振り返って影を見やる。蹴りつけられた影は首を揺らし、まるで操り人形のような不格好な動きで四肢を床につき、スバルを追って階段を蜘蛛の動きで這い上がって追いかけてくる。

 

「嘘だろ……!?」

 

蜘蛛女、と揶揄したことがあっても、実際にそうあれと思ったわけではない。

影の人を捨てた動きに絶句して、スバルは階段を最上階まで飛ぶように駆けた。そのまま影が追いかけてくるのを想像し、火の手に包まれる三階通路へ飛び込む。

通路のど真ん中、そこに位置する部屋が執務室だ。屋敷の中で最も頑丈なその部屋ならば、少なくとも扉の原形は残って――。

 

「――ォォォ!!」

 

「っだぁ!?」

 

炎の中に飛び込むスバルを迎え撃つように、獅子の頭を持つ魔獣が咆哮する。

鬣を失い、その体の半分を焼けただれさせるその姿は、間違いなくスバルたちが食堂で焼き殺したはずの魔獣に他ならない。

かろうじて息のあった魔獣が、主人の命令を遵守するために再びこの扉の前まで舞い戻ったとでもいうのか。

 

だとしたら、スバルはまさしく飛んで火に入る夏の虫という状態だ。

炎の中での邂逅など、冗談抜きに洒落が利きすぎている。

 

半身を火傷に引きつらせる魔獣が、その太い爪を備えた腕を振るう。壁を削り、首元に迫る一撃は瀕死の状態でもスバルの命ぐらいならば雑草よりも容易く刈り取る。

 

「ワンパなんだよ、お前らは――!」

 

だが、その一撃に対してスバルは身を低くし、頭から飛び込むことで回避。

魔獣たちの習性として、奴らが獲物の急所を狙ってくることは学習済みだ。間違いなく首から上を狙うと判断し、スバルは飛び込み前転で魔獣の脇の下をくぐった。

 

まんまとスバルに一杯食わされた魔獣は、怒りに喉を震わせてスバルの方へと向き直ろうとする。だが、そうは問屋が卸さない。

 

「――――」

 

「――ァォォォ!!」

 

スバルを追い、這い上がってきた影が半死の魔獣へと牙を剥いた。

背を向けていた魔獣は反応が遅れて、影が振り上げる黒刃の一撃をまともに浴びる。巨体を支えていた左の後ろ足が根本から叩き斬られ、歪な傷口をさらして鮮血をぶちまけながら絶叫が通路に響き渡る。

 

蛇のような尾が振るわれ、地面を這う影へ激突。

影は悪夢のような、人体の限界を超えた挙動でそれを避け、黒刃で尾を打ち払い、切り落とされた獣の足の傷口に黒刃の先端を突き込み、傷口を抉る。

 

聞くに堪えない絶叫が木霊するのを聞きながら、スバルはこの機を逃すまいと執務室の扉を目指す。

途中、資料室の扉を蹴破ったが、禁書庫とは通じておらず、単なる時間ロス。背後では魔獣と影の戦いが続いているが、聞こえるのは魔獣の悲鳴ばかりで形勢は完全に傾き切っている。

 

「ベアトリス……!」

 

執務室に辿り着き、スバルは祈るような気持ちで扉を開け放つ。

そのまま、スバルの目の前に禁書庫が広がっていれば、怪物大決戦ともお別れだ。

しかし、無常にもスバルの眼前にあったのは、荒らされた執務室の姿だけで。

 

「クソ……ここは、ダメか……!」

 

ベアトリスの拒絶の強さを示すように、執務室はスバルの願いを遠ざけた。

他の扉を探そうにも、火に呑まれつつある屋敷の階下へはもう戻れない。いずれにせよ、他の扉がある可能性は――。

 

「隠し通路は……」

 

仕掛けで開く隠し通路は、扉と呼ぶのは概念的に難しい。

本棚がスライドして開かれるタイプの通路が口を開けているが、そこを通って禁書庫へ辿り着ける可能性はかなり低いだろう。

他に、扉があるとすれば、隠し通路のさらに奥。

 

「道の途中に、小部屋に通じる扉があったはず……だけど」

 

以前のループで、エルザの奇襲を受けた扉がそこにあるはずだ。

しかし、そこがベアトリスの『扉渡り』の範囲内に含まれるのかは未知数だ。何よりスバルにはこの扉から扉への誘導が、隠し通路からスバルを屋敷の外へと追いやろうとするベアトリスの意思に思えてならなかった。

 

あるいは彼女は屋敷の今の状態がわかっていて、スバルを生かすために道を示してくれているのではないのか。

だとしたら、隠し通路へと入っても禁書庫へは通じないのではないだろうか。

そのまま屋敷の外、避難路の先にある山小屋まで誘導されて、スバルはベアトリスを助け出す機会を永遠に失うのではないか。

 

「――考えてる時間も、与えちゃくれねぇのか!」

 

思考するスバルの背後で、決定的な一撃を浴びた獣の断末魔が聞こえた。

意図せず時間稼ぎに奮闘してくれていた魔獣が、エルザの影によって今度こそ命を奪われたのだろう。

 

頭を振り、スバルは隠し通路へと体を飛び込ませる。

屋敷の地下まで通じるほど長い螺旋階段がスバルを出迎えるが、屋敷の火災の手はどうやらここにまで届いていたらしく、熱気と煙で人が活動できる状態ではない。

胸の疼きを堪えるように手を当てて、スバルは覚悟を決めると階段を一気に駆け下る。上った直後に再び階下へ。こもった熱に煽られながら、もはやスバルは自分の露出した肌が何色になっているのかを想像するのも恐ろしい。

 

やがて階下へ辿り着き、スバルは息を荒くしながら通路の奥の暗がりを覗き込む。

煙はどうやら螺旋階段の途中、壁の隙間から流れ込んでいたらしく、熱気の残る地下通路には火の手は見当たらない。

焼かれる心配のない代わりに、光源も失った闇の中を手探りにスバルは押し進む。

 

そして、そのまま十数メートルほど歩いたところで、わずかに広さのある空間に辿り着き、目指していた小部屋への扉を見つけて足が止まった。

 

「こ、こが……」

 

この隠し通路において、スバルはこの扉より先へと辿り着いたことがない。それだけに扉の向こうに、別の扉が存在するかどうかは未知数だ。

つまりスバルにとって、ベアトリスと通じる可能性のある扉はここが最後の候補である可能性がある。もしも、ここが正しく隠し通路として機能するのであれば――。

 

「――――」

 

弱気を忘れるように首を振り、スバルは扉の取っ手に手を伸ばす。

ベアトリスのスバルを生かそうとする意思が、スバルをここへ導いたのだとしたら分の悪い賭けになる。それを恐れながら取っ手に触れたスバルは、

 

「づぁっ!またこの扉は……っ!」

 

掌を焼かれる感触に苦鳴を上げ、スバルは顔をしかめてドアを睨みつけた。

まるで結果が出るスバルの心を反映したような扉の対応に、焦燥感のようなものが一気に込み上げ――気付いた。

 

「ドアノブが、熱い……?」

 

熱気がこもっているとはいえ、地下通路には炎の気配がない。

煙も熱も、おそらくは階段を形作る石材の隙間から流れ込んだものだ。そのスバルの推測が正しいのであれば、部屋の扉がここまで熱を持つことは考え難い。

 

これでは扉が実際に、炎に炙られでもしていたかのような熱さで。

 

「……ベアトリス。もしも聞こえてるなら、聞いてくれ」

 

扉に手を触れないようにしながら、スバルはかすかに首を上へ向けて呟く。

ここにはいない少女に、声が届いているのだと信じながら。

 

「お前が、俺をここまで誘導したのか?隠し通路以外に外に逃げる道がないってわかっててそうしたんなら、お前の策士ぶりに正直なとこ声もねぇよ」

 

ここまでスバルを誘導した打ち筋は、なるほど大したものだと思う。

道中のエルザの影や魔獣はさすがにベアトリスとは無関係だろうが、スバルはなし崩し的にここへ誘われる他になかった。

このまま扉を開けて山小屋へ辿り着けば、ベアトリスの思惑は成就するだろう。

 

「でも、どうやらそううまくは話が運ばないらしい。……この扉を開けても、俺はお前の望み通りに逃げてはやれない。根性論とかの問題で逃げたくないって言い張るのとは違うぜ?確かにその気持ちは半分ぐらいあるが……もっと切実な事情だ」

 

聞いてくれているかもわからない相手に対し、スバルは昏々と言葉を続ける。

正面を塞ぐ扉を軽く爪先で蹴りつけ、スバルはため息をこぼした。

 

「この扉を開けたら、たぶん俺は死ぬ。お前や他のみんなにはわからないかもしれないけど、この扉の向こうは今、そういう状況になってるんだ。口で説明するのは難しいけど……科学の真髄を知る俺にはわかる」

 

食堂での不発の件はさておき、スバルの中の現代知識が唸っている。

今、スバルの目の前にある扉は、火災現場で多発する触れてはいけない扉の状態だ。

冗談抜きに、スバルの命は危機にさらされている。

 

後のことは、この声がベアトリスに届いているのか。そして届いていたとして、ベアトリスはスバルの言葉を信じてくれるのかどうか。

 

「ベアトリス。これから、扉を開ける。――俺の言葉をどう判断するかは、お前に任せることにするよ」

 

目の前に命を脅かすものがあるとわかっていて、スバルの心はどこか穏やかだった。

肝が据わったのとも、覚悟が決まったのとも違う。

ただひたすらに、穏やかに自分の命を預けることができる。

 

だって、そうだろう。

 

「――ベアトリス。お前を、信じてる」

 

言いながら、スバルは掌を焼かれる痛みを感じながら扉を開け放った。

そして――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

螺旋階段を下るというより、転落するような形で影は地下へ到達した。

 

「――――」

 

流れ出す血は汚泥のように濁り、潰れた足を引きずる姿はこの世のものとは思えぬ魔貌。右腕には凶悪な黒い刃を、左腕には殺した魔獣の心臓を掴み、感触を確かめるように握り潰しながら影は通路を奥へと進む。

 

這いずる影は人の形をしていたが、もはやそこに人の意思があるかどうかは影自身にもわかっていない。

ただ、活動不能になるほど肉体を破壊されて、蘇生不可能になるほど命を削られ続けて、影としての生命力はすでに底を尽いている。

それでもなお動き続けられるのはなぜなのかと言われれば、影がこうして影になる前の人格が、それほど強烈な執着心を支えにしていたからだろうか。

 

やがて影は、無言のままに通路の最奥へ辿り着いた。

意思もなく、動くものを追い詰めて命を奪う以外の目的を持たない影。追い求めた気配がこの先にあるのを感じて、影が緩やかな動きで凶悪な刃を閃かせた。

 

「――――」

 

鈍い音を立てて、影の目の前で扉が裁断される。

蹴るようにその扉の残骸を端へ転がし、影は扉の向こうの闇を覗こうと動き、

 

「――――」

 

風がかすかに吹き抜け、影は眼前の闇に吸い込まれそうな錯覚を味わった。

闇に奥から白煙が溢れて、影の正面がわずかにけぶる。

 

その直後――不完全燃焼を起こしていた部屋の中に酸素が流れ込み、火の気と結びついたそれが一気に灼熱となって噴出する。

 

バックドラフト。

その爆発現象を、理性をなくした破壊衝動の塊である影が察知できるはずもない。

 

「――――」

 

噴き出す炎の魔手が影を呑み込み、その肉体を業火が焼き尽くす。

蘇生力も回復力も失い、朽ちるだけだった肉体は全てを灰と化す炎に包まれて、炭化を通り越して一気に燃え上がり――焼失する。

 

炎の勢いは影を呑み込んだだけでは止まらず、そのまま地下通路を駆け抜け、螺旋階段を灼熱の海へ変え、そして執務室を吹き飛ばして爆発炎上する。

 

――今度こそロズワール邸は崩落し、終焉の時を迎えようとしていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

招き入れられた禁書庫の変わりようを見て、スバルは思わず息を呑んだ。

 

入口付近の床には亀裂が走り、亜空間へ通じていそうな穴は健在。倒れ込んだ書棚の数々は復旧の目途など立たず、それどころから部屋の一部からは火の手が上がっていた。

ロズワール邸の最後の状況が、ついに禁書庫にも影響を与え出したのだ。

 

「――――」

 

しかし、部屋に入ったスバルを見つめる一対の視線に気付き、その驚愕を押し殺して意識を切り替える。

今はただ、一人の少女に集中しよう。

 

――きっとこれが、最後の機会だろうから。

 

「お前は、馬鹿なのよ……」

 

「開口一番にそれかよ」

 

「だって、そうかしら。ベティーがどうにかして逃がしてやろうって手を尽くしたのに、その機会を全部無駄にして、戻ってきやがったのよ。……もう、屋敷のどこにも扉は残ってないかしら。禁書庫にも、火が入り始めてるのよ」

 

事実だった。

倒れた書棚の一部に炎が燃え移り、大事にしていた本が一つずつ灰になる。

 

ここには燃えやすいものばかりだから、それはそれはあっさりと燃え尽きるだろう。

 

「それならこのままじゃ、俺もお前も終わりか」

 

「……そうよ。終わりかしら。ベティーは、もう多くは望まない。『その人』へ渡すはずの知識に火が移って、約束は完全に違えてしまったかしら」

 

「そうか。それなら、最後の俺の話を聞いてくれ」

 

「…………」

 

ベアトリスの虚ろな瞳がスバルを見やる。

肯定も否定の言葉もなかったが、その反応は少なくとも耳を傾けるという意思表示だろう。ベアトリスのその様子に顎を引き、スバルは小さく息を吸った。

 

さっきの別れのときに、伝えきれなかった言葉を。

そして今、伝えたい言葉を、伝え切ろう。

 

「ベアトリス。――俺を、助けてくれ」

 

「……は、ぁ?」

 

胸を張り、断言した。

煤だらけの顔で言い切るスバルに、ベアトリスの瞳を驚愕の色が走り抜ける。

 

きっと、何を言われるのか想像を働かせていたはずだ。

避けられない終わりを迎えるにあたり、きっとベアトリスはスバルがかけるだろう言葉の多くをシミュレーションしていたに違いない。

 

助けたい。一人でいさせない。そんな、男らしい言葉の数々を、『その人』に期待した格好いい迎えの言葉を、待っていたかもしれない。

 

でも、偽らざる気持ちを伝えようとすれば、それはスバルには無理だった。

 

「お前を孤独から連れ出してやるとか、お前を助け出してやるとか。そういう格好いいこと言ってやろうって色々考えてたんだけどさ。……どれも、その場しのぎの勢い任せにしか思えなくてよ。本音のところで考えたんだ。俺はお前を、どう思ってるんだろうって。どう思ってるから、何を伝えたいんだろうって」

 

言葉もないベアトリスに、スバルはありのままの本心を投げ渡す。

それをどう受け取るのか、ベアトリスに任せるという卑怯な自分を棚に上げて。

 

「助けてやるもなにも、ホントのところ、お前には俺の力なんて必要ねぇんだ。お前は強くて、賢くて、可愛くて……やろうと思えば何でもやれたし、なろうと思えば何にだってなれたはずなんだ」

 

「――――」

 

「一人で生きるのに十分な力がお前にはあった。当たり前だ。じゃなきゃ四百年もやってられないもんな。だから力を貸すとか助けてやるとか、そんなこと言ったってお前には何にも届きゃしなかったんだ」

 

「――――」

 

「でも、強くて賢くて色々できるお前でも、一人で生きるのは恐かった。辛かった。寂しかったよな。だから、『その人』って存在に縋るお前を、誰も責められない」

 

「勝手に……ベティーの気持ちを……拒絶したお前に、ベティーの何が……!」

 

唇を噛みしめて、ベアトリスが憎悪に似た感情を宿してスバルを睨みつける。

しかし、震えるそれは憎悪になりきれていない。すぐに霧散してしまいそうな激情を抱え込み、必死にそれを保とうとするベアトリスにスバルは首を横に振った。

 

「俺は、知ってるよ。お前が優しいことを。悪夢にうなされてる奴がいたら、その手を取って安心させようとしてくれることを。どうにもならない困難にぶち当たった奴がいたら、手を差し伸べて道を開いてくれることを。嫌いで仕方ない奴でも、近しい間柄の奴が失われたら悲しんでくれることを」

 

「知ったような、口を……」

 

「力のない俺は、お前の助けになってやれない。それでもお前を一人にしたくない俺ができることっつったら、もう縋りついて頼み込むしかない」

 

目を見開くベアトリスの前で、スバルは右手を前に差し出した。

火傷でただれて、見るも無残な右手。それでも、たび重なるダメージで目も当てられない左手よりはマシだ。

拭って、整えて、少女の手を取るのに相応しいぐらいには綺麗にして、

 

「ベアトリス。俺を助けてくれ」

 

「――――」

 

「お前がいなくちゃ、寂しくて生きていけない俺を、助けてくれ」

 

傍で聞いていたとしたら、それは何とみっともなくて情けない脅迫なのだろうか。

お前がいないと生きていけないから、この手を取ってくれと脅している。

自分が相手のために何ができるかわからないから、相手が自分のために何かができるのだと教えて、それを理由に生きることを強要している。

 

それはあまりにも身勝手で、理不尽で、どうしようもない脅迫だった。

 

「ずる、い……ずるい、のよ」

 

「…………」

 

「そんな、言い方……そうして、そんな風に……今さら、ベティーを……だって、お前は『その人』じゃないって……ベティーを拒絶して、なのに……っ」

 

口ごもり、言葉に迷い、言葉を躊躇い、気持ちを絡ませて、ベアトリスは懊悩する。

差し出された手から目を離せないまま、ベアトリスは腕の中の本を強く抱いた。

 

その眦から涙がこぼれる。

 

「四百年、ずっと一人だった……!孤独の時間を過ごしてきて、今ここでお前の手を取ったところで……どうせ、お前はすぐに死んでしまう!人間の寿命なんて、ベティーにとっては瞬きみたいに一瞬で……今さら!そんなものに縋って……!」

 

「お前が過ごした四百年は、俺には想像することもできねぇよ。わかったような口も叩いてやれねぇ。四百年どころか、俺はまだその二十分の一も生きちゃいねぇから。お前が、俺が死んだ後の時間を恐がる気持ちも、きっと全部はわかってやれねぇ」

 

「それなら!それなら……お前の言葉は、何の解決にも……!」

 

「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」

 

「――――」

 

「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」

 

「――――ッ」

 

「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」

 

スバルは、すでに選んでいる。

そして選択肢はベアトリスに提示した。あとは、ベアトリスの決断次第だ。

 

母の言葉を忠実に守り、ここで火に呑まれて四百年に終止符を打つのか。

母と交わした約束を忘れて、『その人』と巡り合うことを放棄して、ナツキ・スバルの手を取るのか。

 

「お、前は……『その人』じゃ……」

 

「ない。俺をそんな、お前が思い描いてた他の男と一緒にすんな。俺は俺だ。ナツキ・スバルだ。四百年の、顔も知らない野郎への片思いなんて全部、忘れちまえ」

 

「――――」

 

「いずれくるかもしれない別れの時間を恐がるより、必ずくる明日って日々を俺と一緒に生きよう。俺は弱くて、なのに望みが高いから……俺と一緒にいれば、世話焼きのお前はきっと忙しくって、退屈だの寂しいだの考えてる暇なんてなくなっちまう」

 

「……う、っく」

 

「俺を選べ、ベアトリス」

 

何度でも、伝わるまで言葉を重ねよう。

揺れている少女の気持ちが、心が理解できるから。

 

彼女が迷うことに感じる罪悪感を、約束を反故にすることへの慙愧の念を、ナツキ・スバルという人間の身勝手さが肩代わりしてやれるように。

 

この少女が一人で泣くようなことが、もう二度とないように。

 

「いなく、なるくせに……」

 

「永遠なんてない。お前が恐がってる未来は、いつか必ずやってくる。永遠を生きるお前を置き去りにしちまうときが、きっときちまうだろう。でも、別れの恐さばっかりを考えて、一緒にいる楽しさを捨てちまうような真似をするには、俺もお前も人生味わってない部分が多すぎだ」

 

「置いていく、くせに……」

 

「一緒にいよう。一緒に生きてみよう。一緒にやっていこう。別れの恐さを吹っ飛ばせるぐらい、楽しかったんだって胸張って笑えるぐらい、思い出を積み重ねていこう。お前がここで過ごした、寂しい四百年を取り返して、お釣りがくるぐらいに」

 

「そんなこと……したって……っ!いつか、一人に!」

 

前に出る。距離が詰まる。

震える少女の瞳に、自分の姿が映っている。

 

みっともなくて、みすぼらしくて、四百年待たせた白馬の王子には程遠い。

ただの、いつものナツキ・スバルがそこにいる。

 

「永遠を生きるお前にとって、俺と一緒に過ごす時間なんて刹那の一瞬かもしれない。なら、お前の魂に刻み込んでやるよ。俺の一瞬を」

 

「――――」

 

「――ナツキ・スバルって男が、永遠って時間の中でもセピア色にならないぐらい、鮮烈な男だったんだってことを!」

 

ガラスがひび割れるような音を立てて、禁書庫という世界が崩壊していく。

 

いつの間にか、スバルとベアトリスの周囲は空間の亀裂と炎に包まれていた。

だが熱も、恐怖も、今は何も感じない。

 

スバルの中には今、ベアトリスしかいない。

そして、ベアトリスの中にも、今はスバルの存在しかない。

 

震えるベアトリスの腕が、母から渡された本を握りしめている。

その指先を解くことが、四百年の孤独を癒すことだとスバルは信じて、手を伸ばす。

 

叫んだ。

 

「俺を選べ!ベアトリス!!」

 

「――ぁ」

 

「誰かに外に連れ出してほしいから!お前はいつも!扉の前に座ってたんじゃないのか!!」

 

決定的な音を立てて、世界が本当の終わりを迎える。

禁書庫という少女の孤独な檻が、世界の剥離と炎の中に包まれて消える。

その、直前だった。

 

――音を立てて一冊の本が、禁書庫の床の上に落ちたのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

隠し通路を抜けて山小屋へ到達し、小高い丘の上からオットーたちは焼け落ちる屋敷の様子を眺めていた。

 

「――――」

 

オットーとペトラとフレデリカ。そしてフレデリカに背負われるレムの四人は、無事に隠し通路から裏山へと避難を完了していた。

裏山、特に山小屋付近は入念に魔獣を遠ざける結界が張り巡らされているらしく、周囲には野生の魔獣も、襲撃に用いられた魔獣の姿も見当たらない。

 

しかし、命を拾ったことを喜び、言葉を弾ませる余裕は誰にもなかった。

 

全員が祈るような気持ちで屋敷を眺めて、そこに目に見える変化が生まれるのを待っている。中に残ったスバルと、ガーフィールの無事を信じて。

 

「――――」

 

傷の治療も後回しに、オットーは瞬きすら惜しんで屋敷を見ている。すぐ隣にいるペトラが、幼さからは想像できない力で自分の腕を掴んでいるのがわかった。

心配で心配で、心配でたまらないのだろう。幼い少女がスバルに対して、強い好意を抱いているのは周知の事実だ。彼女の憂いを思えば、無事を祈らずにはいられない。

 

「――――」

 

ペトラを安心させるように、その茶色の髪にそっと手を載せる。

驚いたように自分を見る少女に微笑みかけ、オットーは改めて屋敷に視線をやった。

 

そして、気付く。

 

「……あれは」

 

燃える屋敷の、本棟の真ん中だろうか。

オットーたちが抜けてきた隠し通路のあった執務室のあったあたりから、すさまじい勢いで炎が噴き出した。

窓が爆ぜて、溢れ出る炎がみるみるうちに周囲へ伝搬し、やがて屋敷の形がついに原形を失い、倒壊する。

 

「ぁ……」

 

それを目の当たりにしたペトラが、絶望的な声を漏らすのが聞こえた。

オットーもまた、ペトラの悟ったものと同じ現実を直視し、嘘だと叫びたい気持ちを懸命に堪える。ここで自分が取り乱しては、自分より泣きたい気持ちになるだろう少女の心に水を差すことになる。

 

しかし、そんなオットーの考えはすぐに否定された。

 

「オットーさん、あれ!」

 

「あだぁ!?」

 

目を伏せそうになるオットーの横っ面を、ペトラの小さい掌が叩いた。

目の前を火花が散る衝撃に驚き、オットーは目を白黒させる。が、すぐにペトラが歓喜の表情で屋敷を指差すのを見て、慌ててそちらを向き、理解した。

 

「は、はは……」

 

――倒壊する屋敷から、一本の白い光が天に向かって伸び上がる。

 

その光はまるで虹のように、空の高い場所で角度を変えて、はるか東の方へと光の先端を伸ばしていく。目的地が、そちらにあるのだと言わんばかりに。

 

その方向に何があるのか、オットーは知っていた。

だから、ペトラが「今の!今のって!」と喜ぶ様子に頬を緩めながら、

 

「あとは任せましたからね。――ホントに、疲れましたよ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

同時刻、オットーが安堵に肩を落としたのと同じ光を、腰に布を巻き付けただけの半裸のガーフィールも見上げて、牙を噛み鳴らしていた。

 

「ハッ!やったみてェじゃァねェかよォ、大将!それでッこそだ!『ホーシンは口約束を死んでも守った』ってなァ!」

 

燃える屋敷から脱出し、森に駆け込んだガーフィールは腰に手を当てて馬鹿笑い。

そのガーフィールの傍らには、腰巻きと同じ布で手足を拘束された少女――メィリィが意識をなくして転がされている。

戦利品、などとうそぶくつもりはないが、この襲撃に携わった生き証人として、色々と聞き出さなくてはならないことが多い。

 

それに何より、少女を殺すことなどガーフィールの信念が許さない。

 

「とは言っても、あの黒女ァいい塩梅に焦げちまっただろうがよォ」

 

倒壊する屋敷を眺めて、ガーフィールは吐息をこぼす。

魔獣を投げつけて押し潰す――手に感触の残らない、間接的な行いとはいえ、ガーフィールが自ら選んで、人族に類する存在を屠ったことは事実だ。

 

かすかに指が震えて、胃が絞られる痛みがあるのを感じる。

だが、ガーフィールはそれを首振り一つで押さえ込み、眠るメィリィの隣に腰を下ろして木に寄りかかった。

 

「勝ちの余韻も殺しの感触も、今ァ全部後回しッだ。もう、俺様の手じゃァどう頑張っても届きゃァしねェ。……頼んだぜ、大将」

 

拳を突き出し、ガーフィールは伸びる白い光の尾を睨みつけて、言った。

 

「全部片付いッたら、一緒に横っ面弾かなきゃァなんねェ野郎がいんだからよォ!」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――捕まってしまった。

 

わかっていたのに、掴んでしまった。

 

この手を取ってしまったら、その温もりに縋ってしまったら、もう一人の孤独な夜には戻れないことなんて、ずっと前からわかっていたのに。

いずれ失われる温もりを頼りに生きることなんて、狂おしいほどに愚かなことだと自分を戒めていたはずだったのに。

 

あの声で、呼び掛けられて。

あの目で、見つめられて。

あの手に、必要とされて。

 

拒むことなんて、できるわけないと知っていたはずだったのに。

 

――スバル。

 

「ああ、そうだよ」

 

――スバル、スバル。

 

「そうだ。俺の名前だ」

 

――スバル、スバル、スバル。

 

――スバル!!

 

「やっと、呼んでくれたな」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――猛吹雪が吹き荒れていた。

 

視界が塞がるほどの白い幕が展開され、吐き出す息は外気に触れた瞬間に凍結していくような極寒の世界。

 

浴びる風は冷たく、吹き付ける雪の欠片は身を切るような鋭さを伴う。

それほどの猛威にさらされていながらも、銀髪をたなびかせる少女は紫紺の瞳に強い意思の力を宿して前を見ていた。

 

「絶対の、絶対に……誰も、失わせたりなんてしない!!」

 

淡い輝きをまとう両手を伸ばし、銀髪の少女は膨大な量の魔法力を解放する。

猛吹雪の中で増大される氷結の魔法が光を帯び、青白い輝きがまるで光の剣のように世界を横断し、途上を行き交う白い魔獣を次々と切り裂いた。

 

きちきちと、短い牙を噛み合わせる不快な音が連鎖している。

食欲の権化――獲物を、ただ食らうということのみに特化した救い難く、共存することなどできるはずもない古よりの災厄。

 

次から次へと数を増す食欲という殺意を前に、一歩も引かない銀髪の少女。

しかし、少女の呼吸は荒く、いまだ扱いきれない莫大なマナの一部が制御を失い、少女の半身を白い結晶が覆い始めてた。

 

このままでは遠からず、自らの魔力によって少女は氷像へと姿を変える。

だが、それがわかっていても、少女は引くことができない。

 

「――――」

 

ちらと、少女は背後を振り返る。

そこには白い魔獣たちの猛威から彼女が守らなくてはならない、全てがあった。

 

朽ちかけの遺跡と、少女の小さな背中に願いを託すいくつもの命。

そしてその遺跡の中に入らず、茫然とした様子で少女の戦いを傍観している男と、その男の腕の中で死んだように動かない桃色の髪の少女。

 

凍りつきそうな半身。それでも、少女の心には消えない火が灯った。

 

あれを目にして弱音など、誰がここで吐けるものか。

自分が何のために、誰に託されて、こうしてここに立っているのか。

 

「誰にも……誰の終わりも決めさせない!みんながああして、手を取り合ってくれたんだもの……私は、それを守る!母様と、それを約束したんだから――!」

 

青白い光の奔流が、正面から押し寄せる魔獣の群れへとぶち当たる。

断末魔の悲鳴すら上げず、白い輝きの中で動かなくなる魔獣。仲間の哀れな死に様を目の当たりにして、魔獣はすぐに共食いの姿勢に入って氷に齧りつき出す。

 

見るに堪えない姿だ。

だが、ややもすれば、希望に縋りつく人の姿もああして見えるのかもしれない。

だとしても、だとしてもだ。

 

「母様やジュースのことと、今日の日のみんなのことと……あの人の書いてくれた言葉を忘れないでいられる限り、私は諦めたりしない」

 

だからたとえ、この体が氷に包まれたとしても、後悔だけは絶対にしない。

 

吹雪をかき分け、魔獣の猛威は徐々に徐々に範囲を狭め、少女と少女を頼る人々を追い詰めつつある。

いざというときは、この命をなげうってでもという覚悟が少女にはある。

 

だけど、そんな風に少女が思い詰めたとき、聞こえる声があった。

 

「そんな無理しなくても大丈夫だよ、エミリアたん」

 

「――――」

 

音を立てて、誰かが高いところから自分の隣に着地したのがわかった。

隣を見る。吹雪が強すぎて、白い幕が邪魔してその誰かの顔が見えない。

 

だけど、少女にはそれが誰なのかはっきりとわかった。

 

声も、態度も、そして何より、一番いてほしいときにきてくれないはずがない。

 

「後は任せて、下がっててもいいぜ。――初陣補正があるからね」

 

「ごめん。ちょっと何言ってるのかわかんない」

 

苦笑する気配。

歩み出るその人影は、すぐ傍らにもう一つ、小さな別の影を連れていた。

 

そして、聞こえる声は二つ。

それはずっとずっと、このときを待ち望んでいたようにどこか弾む声で――。

 

「もう、どうなっても知らないのよ」

 

「ああ、どうにかしてやろうぜ。――俺と、お前で!!」

 

精霊ベアトリスと、契約者ナツキ・スバルの、これから何度も何度も手を繋ぎながら戦っていくことになる二人の、初陣の火蓋が切って落とされた。