『醜態の果てに』


 

――。

――――。

――――――――――――――あ。

 

揺れに、衝撃に、顔を打たれる感覚があった。

それが空白の中にあった意識を揺り起こし、スバルは現実に覚醒する。

 

顔を持ち上げ、上体を起こそうとしてそれは揺れに阻まれた。手が滑り、再び床に頭から落ちそうになる手前、腹のあたりを支える質量にそれは防がれた。

ずっしりと、固い感触が腹部に圧し掛かっている。手を当て、それが金貨の類を詰め込んだ袋であるのを確認し――記憶が、意識消失の寸前を思い出した。

 

「――レムは!?」

 

「ナツキさん!?目が覚めましたか!?」

 

抱え込んだままの金貨袋を横に投げ出し、スバルは四肢を着いたままの状態で周囲に視線を巡らせる。相変わらず闇の色は濃く、激しい揺れに振り回される現状は竜車の上で間違いない。

眼前、起きたスバルの叫びに応じ、首だけこちらを向いたのはオットーだ。彼はスバルが頭を振り、前に進み出ようとするのを見て、

 

「動かないでください。頭を打ってた上に加護が切れてるんです。地竜は全力疾走中で、ナツキさんに配慮してる余裕はないんですから!」

 

「んなことはどうでもいい!レムは、レムはどうした!?」

 

オットーの声に怒声で返して、スバルは御者台の上の隅々まで目を動かす。引いていた荷台を失い、御者台のみを残すアンバランスな形になってしまった竜車だ。人が乗り込んでいられるスペースなど限られており、必死で視線を行き来させる必要もないほど、彼女の存在がこの場にないことなど伝わってくる。

 

それでも、実際にその事実を確認するまで、認めるわけにはいかない。

 

「答えろ、オットー。レムは、どうした……!」

 

「あのお嬢さんは」

 

声を荒げ、自分に飛びかかってきそうなほどに興奮状態にあるスバルを見て、オットーはスバルに応じないことの危険性を理解したのだろう。

息を呑み、その後の言葉を告げることを苦渋の決断として、

 

「僕らの竜車を逃がすために……白鯨を迎え撃ちに降りました」

 

意識を失う寸前のやり取りが、そのまま実行されてしまった事実を伝えた。

 

「――――」

 

その言葉に、スバルは一度だけ息を呑むと、

 

「戻れ」

 

「は?」

 

「戻れっつってんだよ。レムを、レムを助けるんだ。今すぐに戻れ!」

 

狭い御者台の中、さらに距離を詰めたスバルがオットーに掴みかかる。

混乱の極みにある地竜を制御するのに手いっぱいなオットーは、そのスバルの乱暴な挙動に対応できず、襟首を掴まれて「ちょっと!」と慌て、

 

「ほ、本気ですか!?戻って……戻ってどうなるって言うんです!白鯨の、あの化け物の恐ろしさを見なかったんですか!?自殺行為ですよ!」

 

「あの化け物を間近で見たからこそ、レムを助けるために戻れっつってんだろうが!」

 

首を横に振り、指示を拒否するオットーにスバルは青筋を立てて声をぶつける。

白鯨の脅威はスバルのその目に焼き付けた。あの巨体で竜車をしのぐ速度で泳ぎ、尾の一振りで軽々と大型の車体を吹き飛ばす。おまけに霧の中だというのにこちらの位置をあっさりと捕捉し、レムの魔法を受けても大したダメージを受けていない。

 

間違いなく、この異世界に落ちてきて以来、最大の難敵だ。

あれと比較すれば、人型をしていたエルザに対処することも、無数のジャガーノートの群れに挑みかかることだって、ずっとずっと攻略法も見えるだろう。

だが、あれには勝てるビジョンがまるで思い浮かばない。

 

「だからこそ、この場にレムを置いていけるか……!」

 

鬼化したレムの強さは、スバルも良く知っている。

その理解が言っているのだ。彼女をもってしても、白鯨の前には無力な弱者に過ぎないのだと。

 

残していけば、彼女は確実に失われる。

それでは意味がない。それでは、スバルが生き残る意味などなにもない。スバルが舞い戻ったのは、救い出すためだ。助け出すためだ。

スバルが望む未来には、彼女の存在も欠かすことができないのだから。

 

レムがいなければ、スバルはスバル自身すら見失ってしまう。肯定できなくなってしまう。スバルには彼女が、肯定してくれる存在が必要なのだ。

 

「時間稼ぎなんてふざけた真似させてたまるか。逃げるならみんなで逃げる!オットー、戻れ!さもないと……」

 

「馬鹿じゃないんですか、あなたは!?」

 

しかし、スバルの声はそれを上回る怒声によって吹き飛ばされた。

襟首を掴んでいた手が滑るように上る逆手に握られ、一瞬のあとに足が床を離れて背中から御者台へ叩きつけられる。

 

「あがっ!」

 

「加護も切れた状態で、単独で街道を抜ける場合もある行商人を力ずくで言い聞かせられると思ってるなら大間違いですよ」

 

掴んだままの手首をひねり、うつ伏せに転がされるスバルの腕が極められる。それをするのはいまだ、片手は手綱を握るオットーの右腕だ。

思わぬ反撃に呻くスバルにオットーは荒い息を吐きながら、

 

「わかってください。それが今のあなたの状態です。そんな状態で戻って、なにができるって言うんですか。あの子の、残ってくれたあの子の気持ちを無駄にしますか!」

 

「お前がレムを語るんじゃねぇよ!レムを見捨てる……見殺すようなお前に、あいつのことを喋る資格なんざあるか!戻れ!今すぐに、レムを助けろぉ!!」

 

「ああ!話にならない!」

 

じたばたともがき、極められた腕を解こうと抗うスバルにオットーは舌打ち。そのまま彼は前を見据え、地竜に真っ直ぐに走らせたまま、

 

「白鯨がどれほど恐ろしいか、目にしてもまだわからないんですか!何十年も世界に君臨し、奴を殺そうって活動は何度もあった!それでもまだ殺されていないことが、奴の強さの証です!」

 

聞き分けのないスバルに上から言葉を浴びせ、「わかりますか!?」とオットーは激しい怒りと、やるせない感情を声に乗せ、

 

「何百人って武器を持った人間が挑んで、それでも奴を殺せない!そんなところに武器もない、戦う力もない僕らが行ってなんになるんです!奴の前に立った女の子を助け出す!?そんなことすら僕らにはできない!できるはずもない!」

 

「やる前から……!」

 

「わかりきったことだってあるんですよ!ルグニカ王国が編成した討伐隊が……先代の剣聖すら殺した化け物に、勝てる存在なんてあるわけがない……ッ!」

 

絞り出すような激白には、涙を堪えるような震えが込められていた。

オットー自身、奴に対しては決して消し去ることのできない憤怒を抱いているのだ。だがそれでも、その怒りをぶつけるには相手の存在が大きすぎる。

わからず屋のスバルにそれを教えるために、自らもまた相手の大きさを自覚させられるような言葉を吐き、心を折られる行いを繰り返しているのだ。

 

「剣、聖……を」

 

その中で、それまでなにひとつ聞き入れる姿勢になかったスバルの勢いが萎む。呆然とした彼の唇が紡ぐのは、オットーのこぼした言葉にあったひとつの単語。

 

『剣聖』――それは異世界に落ちたスバルが目にした、最強の人物に与えられている称号であり、スバルにとっては強さそのものの象徴だ。

 

先代の剣聖があのラインハルトと同一人物ではないにしても、彼と同じ称号を預かるだけの力を持っていたのだとすれば、

 

「それを殺した白鯨は……」

 

ラインハルト以上、ということになるのだろうか。

 

急速に、心を恐怖が支配していくのをスバルは感じ取る。

ラインハルトの存在は、その強さは、スバルにとってこうあれればと願わずにはいられない『強さ』そのものだ。そのラインハルトですら、あの強大な異貌を前には膝を屈し、命を潰えるしかないのだとしたら――それは、

 

「そんなの、ありかよ……どうしてこんな……」

 

レムを助けたい、救い出したい。今すぐに戻らなければそれは叶わない。

心はそれを理解しているのに、肝心の闘志が手足に、魂に伝わらない。

 

崩れるスバルを哀れむような目で見て、オットーは小さな声で、

 

「僕は弱く、あなたも弱い。だから僕らは、あの女の子を助けられない。――あの女の子の強さに、追いつけないんです」

 

――だけど、レムだって強くなんかないのだ。

 

そのことをスバルは知っていたはずなのに、知っているはずなのに、なにも口に出して反論することができない。

うなだれたまま竜車の揺れに身を委ね、地竜は闇の中を真っ直ぐに駆け抜ける。

 

背後に置き去りにしたレムは今も遠ざかる。

それを止めることもせずにスバルは彼女から遠ざかる。遠ざかり続ける。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

五分か、十分か、スバルが俯いてしまってから時間が経過した頃だった。

 

「ナツキさん、あれは……」

 

それまで無言で地竜を走らせていたオットーが、前方に見つけたなにかに目を凝らしながらスバルを呼んだ。

ゆっくりと、顔を上げたスバルはオットーの隣に這いずり、彼が目を向ける前方へと同じように目を向ける。――その先、ぼんやりと闇に紛れる光が見えた。

 

「霧で遮られてますが……人の光です!」

 

「霧を、抜けるのか……?」

 

「抜けたとしても外は夜のはずですから、明かりがあるのは不自然で……おそらくは僕らと同じで、霧に巻き込まれた人では……」

 

オットーの推測を裏付けるように、同じようにこちらに気付いただろう相手がまっしぐらに向かってくる。しばらくして隣に並んだそれはやはり竜車であり、御者台に座ってこちらに声を張り上げるのは、

 

「やっと……やっと人に……!なあ、これって、霧だよなぁ!?ってことは、白鯨が……はく、げいが出たって……!」

 

壮年の男性が口の端に泡を浮かべ、文字通りの恐慌状態に入りながら叫ぶ。

彼は夜霧に巻き込まれた中、ほんのわずかな光明を見つけたかのようにこちらの竜車に並びながら答えを求める。

 

その声に、自分の勘違いであってくれればという救いを求めるニュアンスが込められているのを知りながら、それでもオットーは首を横に振り、

 

「ええ、白鯨です。僕らはすでに遭遇しました。今は幸いにも逃げ切ったはずですが、霧を抜けるまではいつどこで出くわすか知れません」

 

「ほ、本当なのかよ……!ああ、最悪だ。なんで、なんでこんなことに……」

 

頭を抱えて悲嘆に暮れる男を見ながら、スバルは隣で説明をしたオットーの横顔を睨みつける。『幸いにも』などと口にしたそれがまるで、レムを置き去りにした事実を完全に失念しているかのようにすら感じられたからだ。

 

その怒りが正当なものなのか、それとも罪悪感をまぎらわすための手段であるのか自覚のないまま、スバルはオットーに「おい」と声をかけ、

 

「なんです、ナツキさん」

 

「ふざけた物言いをすんな、オットー。幸いにも、だなんて言い方しやがって……レムが、レムがどんな気持ちで俺たちを……」

 

置き去りにしたレムのことを口にするたび、心を茨で絞めつけられるような痛みが走る。残った彼女が白鯨を前に、知恵を駆使して生き延びている――そんな希望的な観測さえも、あの脅威を見たあとでは浮かべることもできない。

 

この場においてはスバルも認めるしかない。

レムはあの場に残り、またしてもスバルたちを、スバルを救うために死――。

 

「レムって、誰のことです?」

 

そんな悲壮な彼女の覚悟と想いを、

 

「――は?」

 

「いえ、ですからレムっていうのは?散った他の商人にもそんな名前の人はいませんでしたし……誰のお話をしてるんですか?」

 

スバルの発言の意図が掴めないと、首を傾げるオットー。

その仕草がはっきりと、レムの遺志を踏みにじる行いに思えて、

 

――振り上げた拳で思い切りに、その横っ面を殴りつけていた。

 

途端、激しい震動が竜車を襲い、支えを失うスバルは御者台の後ろへ倒れ込む。同じように御者台に横倒しになったオットーは顔を押さえ、倒れ込んだスバルの方へいち早く起き上がって視線を向け、

 

「な、なにをするんですか!?」

 

信じられない、とばかりにスバルの凶行に目を剥いているオットー。だが、その彼の言動が信じられないのはスバルもまた同じことだ。

後ろ倒しになった体を起こし、スバルは「ふざけるな」と唇を噛み切って、

 

「お前こそ、なにを言ってやがる……!俺たちを逃がすために残ったレムを指して、誰のことだだと、ふざけるな!てめぇ……殺されたいのか……っ」

 

「なにを言ってんだかわかんないっつってんですよぉ!なんだ、あんた、急におかしなこと言い出しやがって……白鯨を見て狂ったんじゃないんですか!?」

 

食い下がるスバルの言葉に、なおも白を切り続けるオットー。

堪え切れない激情に視界が真っ赤に染まる。時間がやけにゆっくりに感じ、噴き出す殺意が目の前の男の細い首をへし折れとスバルに命じてくる。

手を伸ばし、なにもかも忘れてその恩知らずの命を叩き潰してやろうとし――、

 

「な、なにやってんだあんたら!今はもめてる場合じゃねっだろ!?騒いでる暇があったら、とにかく霧を……」

 

怒鳴り合い、挙句の果てに殺し合いに発展しそうなほど剣呑な二人を見て、並走していた竜車の男が狼狽の声を上げる。

必死の制止を呼びかける男の声が、睨み合う二人に届くはずもない。男の声など耳に入ってこず、スバルは目の前のオットーへの敵意を行動に乗せようとしていた。

 

その行いがすんでのところで止まったのは、やはり隣の竜車のアクションからだ。

もっとも、男の懸命な説得が二人の和解を促したというわけではない。

 

「霧を抜けて、白鯨から逃げ――」

 

現実的な逃走プランを口にしていた男の体が、背後から地面ごと竜車を呑み込む白鯨の口腔内へと放り込まれた。

竜車を引く地竜ごと呑み込んだ口を真上に向け、咀嚼する白鯨の口からは盛大な破壊音と断末魔が響き渡った。

木材と鉄材が噛み砕かれ、肉を石臼のような歯ですり潰される地竜が絶叫。破壊の音に紛れて引き潰された男の声は届かず、現実の前に儚く消える。

 

「な、あ――」

 

その巨躯の音もない接近、そして蹂躙にスバルとオットーは言葉を失った。

オットーは再び迫った白鯨の威容、その脅威に対して瞳を揺らめかせ、そしてスバルは、

 

「なん、で……お前がここに、いんだよ……」

 

震える声で口走り、スバルは白鯨の横腹を見ながら膝を床に落とす。

いまだ健在の白鯨は、すぐ横にいる二人のちっぽけな存在の絶望になど欠片も興味がないとばかりに、口の中に広がる晩餐に舌鼓を打つのに夢中だ。

 

「お前が、ここにいるってことは……」

 

この巨体を引きつけるために、あの場に残った少女はどうなったというのか。

その圧倒的な存在を前に、答えの出ている問いを発さずにはいられなかった。

 

もちろん、目の前の異形がスバルのその問いに答えてくれるはずもない。ゆっくりと口内の餌を呑み込み、胃に下した白鯨は次なる獲物を品定めするように、その大きな瞳で並走する竜車を――スバルを見下ろしてきた。

 

「う、ああああああ――――!!」

 

と、そのプレッシャーに耐えかね、先に精神の平衡を失ったオットーが叫ぶ。

地竜も白鯨の存在を理解し、手綱を握る主の命に従ってさらに速度を上げた。一瞬だけ距離を引き離し、背後からついてくる圧倒的質量の気配に怯えながら、

 

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして……こんな執拗に僕らを……引き、離した……はずじゃぁ……っ」

 

加速する竜車にしがみつき、脱力するスバルはオットーの漏らす言葉を聞き流している。彼の叫びと嘆きを聞くことで、自身の絶望からは目を背けるように。

 

「なんだって、僕らばかりを……!こんな暗い中で……どうして……っ。なにか、なにか目印でも……あるって、んですかぁ……!」

 

泣きじゃくり、間近に迫る死を拒絶するオットーの叫びが胸に痛い。だが、そのオットーの叫びに、スバルは聞き逃せないイメージが湧いたのを感じ取った。

執拗にスバルたちに追いすがる白鯨。あの化け物がスバルたちに対し、まるで目印でもあるかのように迫ってくる実態。それは――、

 

「まさか……」

 

御者台の後ろに転がり込み、スバルは背後を泳ぐ白鯨の方へ目を凝らす。

闇深く、世界に落ちる漆黒はその巨体すらもおぼろげに隠して判然とさせない。しかし、その中でも巨躯の正面、こちらへ大口を開けて迫る化け物の前面だけはうっすらと覗き込むことができた。

 

その白鯨の頭部から突き出す、歪にねじくれた角の存在も。

 

――魔獣の森で群れをなしていたジャガーノートは、体格の大きな野犬に角を生やしたような見た目をしていた。

そして魔女の力で生み出されたという魔獣は、スバルの発する魔女の臭いに引きつけられて、襲いかかってくる習性がある。つまり、

 

「あの化け物も……白鯨も、魔獣……なのか……?」

 

信じ難い可能性を口にして、スバルは受け止められない現実に首を横に振った。

だが、そう考えればつじつまが合ってしまう。散り散りにばらけた複数の竜車の中、いち早くスバルたちの竜車に目をつけた理由も。オットーの竜車に飛び移ったあとにも、執拗にこの竜車を狙ってきた理由も。

レムが死を覚悟して大地に降り、時間を稼いだにも関わらず、この竜車目掛けて追いついてきた理由も。

 

暗闇の中を追いすがる白鯨の存在。その追跡してくる姿に、なにか気付いたことを言い淀んだ節があったレムの態度にも。

 

「俺の、せい……なのか……?」

 

スバルの存在があるから。その身にまとう魔女の臭いを追いかけて、白鯨は執拗にこの竜車を狙ってくるのか。

レムはそんな事実に誰よりも先に気付いたから、スバルを守るために自分から竜車を降りたというのか。スバルを守るために。スバルのために。

 

「そんな、レム……俺は……俺はそんな……俺のせいで……!」

 

押し寄せてくる支えきれない重圧と悲嘆に、スバルは顔を覆ってしゃがみ込む。

レムを失った事実が、レムを失わせた事実が、体の外と内側から同時にスバルを責め立てる。そんな絶望感に打ちのめされるスバルに、

 

「ナツキさん……」

 

後ろから近づいてきたオットーが、静かな声でこちらを呼びながら肩に触れる。

指先は震え、なんと声をかけていいのかわからないとでもいうように頼りない。そんな彼の手が弱々しくスバルの肩を握り、

 

「オット……」

 

「死んでください」

 

次の瞬間、力づくで前に押し出された体が支えを失い、まっさかさまに竜車から投げ落とされていた。

 

――は?

 

視界が逆さまになり、振り落とされる体が天地を見失って激しく回る。

ちょうどすっかり上下反転した世界に、こっちに向かって手を伸ばし、哄笑するオットーの姿が見えた。彼は白い歯が見えるほど大きく口を開け、涎を垂らし、

 

「あな、あなたが、あなたが悪いんですよ!あなた、あなたが、あなたのせいで追ってくるなら、せき、責任とってくらさいよぉ!あはは!死んで、死んでください!死んで、僕を、助けてぇ!」

 

狂乱し、笑い声を上げる姿が見えて、スバルは彼の精神がすり切れてしまったのだと気付いた。

スバルの弱々しい呟きを聞きつけ、それに縋ってこちらを突き落としてしまうぐらいには、追い詰められてしまったのだと。

 

その理解に達した瞬間、スバルの体もまた地面の上へと到達していた。

背中側から容赦なく地面に叩きつけられ、誇張なしに肺の中の空気が全て絞り出される。苦鳴には骨のへし折れる音が重なり、転がり続ける体は幾度も幾度もその負傷に追討ちをかけ、血反吐をぶちまけさせた。

 

落ちた先が柔らかい草の茂る地であったことすら、今の衝撃の前ではなんら慰めにならない。

地面に削られた額から血を流し、外れた左肩の痛みに声すら殺され、へし折れた肋骨の一部が腹の内側を圧迫する。押し寄せる嘔吐感のままに口を開けば、砕けた奥歯が溢れ出す血を一緒に草の上へとぶちまけられた。

 

痛みすら、自覚する機能を奪われるほどの衝撃。

盛大に何度も嘔吐を繰り返し、ゆるゆると首をもたげたスバルは、自分を振り落とした竜車の光が、はるかかなたまで逃げ去っていくのをぼんやりと見た。

 

恨みごとは不思議と湧いてこなかった。

痛みと苦しみでそれどころではないというのが事実だったが、それ以外にもどうしてかオットーを責める気になれない不可思議な感情があった。

あるいは巻き込まれただけの彼が、生き残るためにやった仕方のないことであったと心のどこかで許してしまったのかもしれないが。

 

「――えふっ、ごえぇ」

 

そんな感傷は口内に満ちた血の味と、思い出したように全身をつんざく激痛と、

 

「――――!」

 

落ちたスバルの眼前に姿を見せた、あまりに巨大な存在の前に吹き消されていた。

 

――それはあまりにも巨大で、抗うことの愚かしさを痛感させる異貌だった。

倒れたスバルのすぐ目の前、手を伸ばせば届くほどの距離にまで近寄り、白鯨はその大きすぎる口から生臭い息を吐き出し、スバルの存在を確かめている。

 

矮小な人の身からすれば、白鯨にとってのただの呼吸ですら暴風に等しい。ましてや負傷したその身で体を支えられるはずもなく、ただの吐息ひとつで地面を転がされ、折れた骨が複雑にひしゃげる痛みにスバルの喉が炸裂する。

 

そうして悶え苦しむスバルを見下ろし、まるで弄ぶかのように白鯨は動かない。

悠然と、揺らぐことのない圧倒的な優位を前にして、それを油断であるなどと呼ぶことは誰にもできない。生物としての格が、まったく違うのだ。

象に蟻が挑む事象にまさに等しい。鯨に人が、それも海の中で挑むようなものだ。ましてその人は満身創痍なのだから、勝負という図式すら成り立たない。

 

――死ぬ。殺される。

 

痛みと嘔吐感に支配される感覚の中で、スバルは間近に迫るそれを知覚する。

すでに何度となく味わってきた絶望感。自分が失われていく失望感。なにより道半ばでまたしてもなにもなせない己に対する無力感。

それらが親しげにスバルへとすり寄り、馴れ馴れしく肩に腕を回してきて、今回の無様な行いをせせら笑っているのがわかった。

 

なにがいけなかったのか、もうなにもかもがわからない。

ただ、レムを失ってしまった今、スバルの手の中にはなにも残っていない。ああして無様に生き延びようとしたことすら、馬鹿馬鹿しい抗いだったと思える。

 

くだらない、つまらない、なにもなせない最低の生き様だった。

 

目の前に、白鯨の鼻先が迫ってきているのを感じる。

開かれた口腔の中、固い鱗を持つ地竜すらも易々と引き潰す強靭な歯が、スバルの肉を骨を魂を、すり潰して咀嚼して食い散らかそうとしていた。

 

いっそ殺せと、早くその牙を、届かせろと、負け惜しみを口にしようとして、

 

「死に、たくない……」

 

それすらもできない己の弱さに、今度こそスバルは絶望する。

これまでにないほどの無力感が、胸の内側に冷たいものを送り込む。全身の血が凍てつき冷え切り、目の前が真っ暗になるほどの失望感の中、

 

「いやだ……死にたくない……助け……死にたく、ない!死にたくない、死にたくない死にたくない……嫌だ嫌だ嫌だあ……助けて、レム、助けて……」

 

泣き言が、弱音が、止まることのない薄汚い生への執着が、口から漏れ出す。

すでに失った命に、失わせた命に取り縋り、なにもできなかった弱者が、なにもなせなかった敗北者が、なにも守れない塵芥が、それでも命が惜しいと泣き叫ぶ。

 

這いずり、転がり、血の海を滑り、石にかじりつき、意地も矜持も全て投げ捨て、小便を漏らしながら、涙と涎に血の赤を入り混じらせ、命を惜しむ。

 

哀れだった。無残だった。醜態とはまさにこの姿のことをいうのだ。

誰もがその滑稽さに目を背け、嘲りの言葉をぶつけ、見るのも苦痛だと誹るだろう姿。そうまでして命に縋りつくことを、人間は美しいとは思えない。

 

惨めだった。虫けらの生き方ですらまだ可愛げがあった。自分惜しさに、尊く誇り高い存在の尊厳すら穢すそれは、まさに『豚の欲望』そのものだ。

 

「いや、だぁ……死に、たくな……助け……」

 

それでも這いずり、なおも逃げ惑い、命を繋ぐ可能性を求めて姑息に嘆く。

いつしか力を失った体は進まず、指先は草を撫で、土を削る力も残っていない。泣き喚く気力すらとうに絞り尽くし、身を横に転がすのが最後の力。

 

「しに、たくな、いよぉ……」

 

そうして、仰向けに転がったスバルの口から漏れる命乞い。

それが最後の抵抗だった。もうなにもできない。なにも考えられない。なにも起こすことができないし、されるがままになるしかない。

 

なのに、衝撃はいつまでたっても訪れなかった。

慣れ親しんだ死の気配が、噛み砕かれる恐怖の未来が、いつまでたってもやってこない。

 

いつ終わるのかわからない終わりを待ち続ける恐怖は、容易く人の心を壊す。

耐え切ることなどできない恐ろしさに身を悶え、スバルは震える体を苦心し、その絶望を探して視線をめぐらせ、

 

「……え」

 

――間近に迫っていたはずの白鯨が、どこにもいなくなっていることに気付いた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

それからのスバルはひたすらに、生への執着だけで走り続けた。

 

「死にたくない……死にたくない、死にたくない……」

 

息が切れ、足がふらつき、滴る血が目に入って視界を汚す。だが、それにすらいとわずにスバルは走る。もとより視界など闇の深さに紛れて、霧の深さに紛れてなにも見えていない。血が入った事実すら、今のスバルには理解できていなかった。

 

星も月も見えない夜の腕の中で、スバルは自分の手足すら見ることができない。地面を踏みしめて走っていても、本当に地面の上を走っているのかわからない。

あるいは気付いていないだけで、スバルはとっくに白鯨によって丸呑みにされて、今はその存在の内側を、胃袋に向かって自ら終わるように進んでいるだけなのかもしれなかった。

 

「ひぐっ」

 

脳裏を過った物騒な想像に自ら肝を冷やし、涙を流してスバルは走る。

流れる涙は痛みが理由か、絶望が理由か、それすらももうわからない。

 

暗闇の中、どこまでもスバルはひとりだった。

 

レムを失い、オットーに見捨てられ、白鯨すらもスバルを捨て置いた。

存在価値を失ったスバルに、そんな存在に、誰もかまってなどくれはしない。

 

「死にたくない」

 

なぜ、そう思うのかすらもうわからない。

生きていて、なんの意味があるというのだろうか。死なないことで、なにがあるというのだろうか。

 

誰も救えない守れない。なにもできないやれるはずもない。

そんな男が生きていて、いったいなんの意味があるというのか。

 

答えは出ない。なにもわからない。答えがあるのかどうかすら曖昧な命題だ。

その答えが出る日がくるのか。きたとして、それを掴むのは自分であるのか。

 

取りとめのない思考が走るのは、痛みと恐怖をまぎらわすための自己防衛のなせる業か。あるいはこんな場面でも、自分可愛さを発揮する己の精神がおぞましい。

 

なおも走る。逃げ続ける。

捨て置いたあの存在が、霧がある限りは泳ぎ続ける強大な魔獣が、いつまたスバルの臭いを嗅ぎつけて姿を見せるかわからない。

 

あるいはそんな恐怖すら、今のスバルに抱かせるにはもったいないものかもしれないが。

 

「――あ?」

 

自虐的な考えの限りを尽くし、罵倒する言葉すら思い浮かばなくなった頃、それは唐突に訪れた。

 

――霧の終端を抜け、ふいに視界に月明かりが差し込んだのだ。

 

終わりがないのではと思うほどの闇の突然の終わりに、信じ切れないままスバルの体は走り続ける。まるで走り続けなければ、この柔らかな月光が消えてしまうのではないかと疑うかのように。

 

しばらく走り続けて、スバルはこれが自分の都合のいい妄想でないことをようやくはっきりと認めた。

認めるに至り、手足に血が通う感覚が伝い、生き延びた事実が脳に浸透する。

 

だが、湧き上がったのは生を掴み取ったことへの歓喜ではなく、

 

「また……俺は……」

 

再びみっともなく足掻いた果てで、命を掴んでしまった自分への失望だけだった。

あれほど渇望した生が手の中にあるというのに、それがなんの感慨も今はもたらさない。それどころか、耐え切れないほどの罪悪感が胸の内側に噴き上がり、存在すら忘れていた恥の感情が全身を焼き尽くすかのように迫ってきた。

 

「レム……レム……!」

 

顔を覆い、堪え切れない熱い涙をこぼし続ける。

その資格が、価値が、自分にないことがわかっていても、スバルはその名を呼んで、自身の魂を慰め続けるより他にない。

 

腰を落とし、泣き続けて、どれぐらいの時間が経っただろうか。

それはゆっくりと軋んだ音を立てて、蹲るスバルの下へとやってきた。

 

「お、前は……」

 

それは血に塗れ、原型を失った車体を引き、ふらつきながら近づいてくる一台の竜車と地竜だった。

見覚えのあるそれは間違いなく、オットーの所有していた地竜であった。

だがしかし、その地竜が引く御者台の上には、スバルを突き落とした青年の姿が見当たらない。

 

「なんで、お前が……あいつは、オットーは?」

 

疑問が口をついて出たが、当然のようにそれに答える言葉はない。

ふらふらと、近づいてくる竜車に立ち上がったスバルもまた歩み寄り、その無残に破損した竜車を見上げて、気付く。

 

――御者台の周辺にいくつも突き立つ十字架を模した短剣と、血の痕跡に。

 

霧を抜けて、襲われたのだ。

あれほど狂乱し、命からがら逃げ延びたオットーが、その後に襲いかかってきた絶望を前にどんな風であったのかは想像もできない。

だがなにが起きたのかは、こうして単独で動く地竜を見れば明らかだった。

 

「……行こう」

 

ぼそりと呟き、スバルは痛む体を持ち上げて御者台に乗り込んだ。

突き立つ刃を足で蹴り落とし、千切れかけの手綱を動く方の右手で掴み、見よう見真似で振るって地竜に指示を出す。

 

主の振るう綱の感触と違い、地竜は戸惑うようにつぶらな瞳でスバルを見上げた。しかし、繰り返し繰り返し手綱を振る姿になにを思ったのか、地竜はゆっくりとその足を、街道に沿って進み始める。

 

――銀色の月の輝きの下で、竜車はゆっくりと走り始める。

 

共に大切な存在を失った同士、その傷口を舐め合うかのような組み合わせで、ゆっくりゆっくりと、星たちの嘲笑を受けながら。

 

ゆっくり、ゆっくりと、竜車は走り続けた。

 

走り続けた。