『言葉にはできない』


 

「――――!!」

 

意識が戻った瞬間を知覚できない。

豪雨が耳元で降り続いているような耳鳴り、視界は赤と白に交互に明滅を繰り返し、世界は歪で不愉快なほど傾いでいる。

 

四肢の感覚は伝わらず、臓腑が絞り上げられるような苦痛に喉が考えられないほど太い絶叫を張り上げている。

言うことを聞かない体をよじり、跳ねさせ、全身の動く部分全てを使って胸の内に込み上げてくるわけのわからない激情を破壊に変換する。

 

なにがなんだかわからない。

痛みはどこへ消えた。どうして意識は判然としない。あれほど全身を侵していた傷口はどこだ。血が抜けていく、命が抜けていく、自分が死んでいく。

 

死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。

痛いのも辛いのも苦しいのも悲しいのも恐いのもなにもかもが嫌だ。

全てを遠ざけたいのに、それしか手の届く位置に見当たらない。だから衝動に任せるままに、手当たり次第にそれらの負感情を叩き、潰し、引き裂き、投げ捨て、打ち捨てて己の心を守ろうとする。

 

「――――!」

 

なにかが聞こえる。誰かの声が聞こえる。

獣のような雄叫びの中にまじって、必死に縋る誰かの声が聞こえる。

 

意味は通じない。意味はわからない。意味をわかりたくない。

聞いたところで無駄だ。聞いても傷付けられるだけだ。聞いたところでなにかが変わったりするわけじゃない。聞いてもなにも変わらない。

 

それでも徐々に、徐々に世界の色が明快になっていく。

手足の先に血が通い、振り乱す全身の感覚が神経に正しく伝わる。

暴れに暴れた腕は何度も固いものを打ったのか、爪が割れ、手の甲が裂け、ひどい出血をしているようだった。

 

鋭い痛みが脳を突き刺し、慟哭がほんのわずかに勢いをゆるめる。

そして気付く。痛む腕、その右の二の腕あたりを、なにか温かいものが包み込むようにしがみついていることに。

似たような感触は足にもあった。何度も何度も床を打とうと振り上げた両足を、真上から小さななにかが覆いかぶさって動きを封じている。

 

視界に色が戻る。目の前、広がるのは何度か見た覚えのある白い天井だ。

血の巡りと背中にかかる重みから、自分が仰向けに寝ているのだと気付く。柔らかな感触は寝台のもので、四肢を投げ出して寝ていたのだ。

そして、その姿勢で暴れる自分の手足を体を張って制していたのは、

 

「お客様、お客様。もう、落ち着いていただけましたか?」

「お客様、お客様。もう、完全にトチ狂うのは終わった?」

 

二つの聞き慣れた声が耳朶を打った瞬間、スバルの脳は思考を止めてただひとつ、絶叫を選択していた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

スバルにとって通算四度目となるロズワール邸の初日の朝は、これまでにない最悪の形で幕を開けた。

 

すでに六度、スバルはこの世界で命を落として舞い戻っている。

死に方はいずれも決して楽ではなかったし、そのたびに得たものを再び手の中からこぼれ落とす苦悩を味わってきた。

痛みも苦しみも決して慣れはしないし、戻るたびに巻き起こる寂寥感と喪失感は誰に分かち合ってもらえるものでもない。

 

それでもひたすらに歯を食いしばり、スバルは懸命に前を向いて生きてきたつもりだ。膝だけは屈すまいと、気構えだけは負けるまいと決意してきた。

だが、今回の事例は今までのものとは比較になりはしない。

 

喪失感も、寂寥感も、痛みも、苦しみも、全てがこれまでの日々の絆の分だけスバルの心を深く鋭く抉っていった。

立てるはずがない。立とうという気力すらわかない。立たなければならない理由すら思い浮かばない。そんな状況だ。

 

「――はい、おしまい。傷、塞がったはずだけど、あまり乱暴にしちゃダメだからね。万一、また出血したりしたら呼ぶこと」

 

スバルの右手、その甲を優しく撫でて、寝台の横の椅子に腰掛ける少女がそう笑いかける。

銀髪をひとつに束ね、淡い青の光を掌にまとうのはエミリアだ。

目覚めの直後、暴れて手に裂傷を負ったスバルを、駆けつけた彼女が治癒魔法で癒してくれていたところだ。

 

部屋の中にいるのは、スバルとエミリアの二人きりだ。

目覚めた瞬間に居合わせた他の二人は、自分たちに気付いた直後のスバルの醜態を前に、頭を下げて姿を消したきり。

 

「ラムとレムに聞いたけど、二人にひどいこと……言ったんだって?」

 

聞きたくない名前が出されて、スバルは弾かれたように顔を上げる。

その過剰反応にエミリアはわずかに目を見開いたが、動揺の走るスバルの表情を認めるとその唇を尖らせ、

 

「なにか失礼なことをしてしまったかも、って珍しく落ち込んでたんだから。次に会ったら、なにか一声かけてあげてね」

 

「なにか失礼なこと、ね。いや、なーんもなかったよ。……俺と、あの二人の間には、なーんにもなかった」

 

どこか投げやりな声は掠れていて、そこに込められた悪感情の余波にエミリアの形のいい眉がそっと寄せられる。

それを目にしていながら、スバルの口からは謝罪も慰めも出てこない。

代わりに口をついて出たのは、皮肉ともつかない問いかけだった。

 

「なあ、エミリアたんは……俺のこと、邪魔だと思わねぇのか?」

 

「たんって、あなた……」

 

呼び方に一瞬、毎回のような拒否反応を見せかけるエミリアだが、問いかけを行うスバルの態度自体は真剣さを片時も失っていない。

彼女はしばし黙考し、「別に」と前置きしてから指を立てて、

 

「邪魔だなんて、思うわけないじゃない。それにスバルは私の命の恩人よ?恩人にその恩も返さず、勝手にいなくなられたら私の夢見が悪いじゃない。だから、私の意地でも恩を返すまではいなくなられちゃ困ります」

 

早口で、なにがしかの感情を誤魔化すようにエミリアは言い切る。

ジッとそれを聞きながら、彼女の一挙一動をスバルは見ていた。そこに偽りはないか、なにかを隠すような反応、仕草は含まれていないか。

 

「おいおい、マジかよ……」

 

そうして疑いの眼差しで彼女の反応をうかがう自分に気付き、スバルは自身への落胆と失望を隠し切れずに音にして呟く。

図らずも、今しがたエミリアが言ったばかりではないか。恩人すらそうと思えなくなったなら、それはもう最低の行いなのだと。

 

エミリアはスバルにとって、この頼るもののいない異世界でゆいいつ心を預けることができるオアシスだったはずだ。

本来、彼女ほどでなくともそう思えたはずの可能性たちは、今やスバルの前から無慈悲な形で消え去ってしまっている。

 

ことここに至って彼女への絶対的な信頼すら失ってしまえば、それはスバルにとって、真っ暗闇の中を手探りだけで歩いていくことに他ならない。

 

ふと、脳裏をかすめた思いがあった。

この胸中を占める絶望を、何度も何度もやり直し繰り返し挑み続けてきた状況を、他でもない彼女に打ち明けてしまえれば、と。

 

思えばスバルはこれまで、幾度となく訪れた致死の危機を全て、自分ひとりの手でどうにかしようと足掻き続けてきた。

だが事態は困窮を極め、すでに進むも戻るもスバルに安直な選択を許しはしないところまできている。

ならば第三者――信頼できる人物に事を打ち明け、助力を乞うことこそ最善に至るために打てる妙手なのではないだろうか。

 

まるで霧が晴れるかのように、スバルの頭の中に立ち込めていた不安や戸惑いといった感情が吹き散らされていく。

一度気付いてしまえば、何故これまでその選択肢を候補から外していたのかがわからないほど、それは当たり前に納得できる手段だった。

 

「――エミリアたん、聞いてほしいことがある」

 

声の調子を落とし、スバルはエミリアに向き直る。

雰囲気が変わったことを察したのだろう。エミリアもまた、その憂い顔に緊張を浮かべると、椅子に座る己の居住まいを正し、こちらを真正面から見た。

 

紫紺の双眸に自分が映り込むのを見ながら、スバルはゆっくりと最初の一言を選ぶことから始める。

なにから話すべきか。『死に戻り』について。あるいは、そもそもスバルがこの世界の存在ではない、という点から赤裸々に語るべきか。

 

一笑に付されそうな話であり、冗談と受け止められる公算もずっと高い。それでも彼女だけは、スバルの真剣な訴えを無碍にはしないのではないか。

そんな期待が、希望が、今のスバルを支える全てだった。

 

――『死に戻り』から語ろう。そして、できるなら君の力を、俺に貸してほしい。

 

恩を受けた相手に、再びそれを求める己の浅ましさを恥じながら、スバルは息を呑んで最初の一声を作る。そこから事態は動き出す。

混迷を極め、どうしようもないと匙を投げざるを得ない。そう諦めかけていた事態への、光明はそこから開くのだ。

 

――そう、思っていた。

 

「――――」

 

言葉にしようと、声を作ろうと、そう思った瞬間、それは訪れた。

 

違和感、それを得てスバルは戸惑いに最初の一言を躊躇う。

なにかがおかしい、と思い、その理由にすぐ気付いた。音だ。音が消えたのだ。世界から、ふいに音が消失していた。つい先ほどまで聞こえていた、高鳴る自分の拍動。正面のエミリアのほんのささやかな息遣い。わずかに開いた窓から忍び込む、朝の涼風が室内を巡る静寂の彩り。

 

その全てが、世界から完全に消え去っていた。

音のない世界、それは静寂といった単語すら生ぬるいほどの隔絶された空間だ。耳鳴りの音すら掻き消え、体内を流れる血の音すら聞き取れぬ問答無用の絶対無音状態。

ただそうされたというだけで、全身を悪寒が駆け巡り、堪え難い不快感が臓腑を掻き乱すように暴れ回る。

そして、それは異変の始まりに過ぎなかった。

 

――なん、だ?

 

音が消えた世界から、次は全ての存在の動きが消えた。

時間が引き延ばされ、刹那は永遠となり、一秒後ははるか時間の彼方へと到達点を大きく変える。

眼前、エミリアの表情は真剣な面差しのまま動かない。瞼はぴくりとも動かず、唇は固く引き結ばれたままだ。

凛とした佇まいのまま、次なる動きを永遠に遠ざけられるエミリア。そしてそれはスバルもまた同様で、本来ならば口にするはずだった思いの丈は、今のままなら永久に誰かへ届けられることはないだろう。

 

音が消え、時間が止まり、スバルの念願は遠ざけられる。

ふいにやってきた理解を越えた現象。神経の通わない体は欠片も動かすことができず、スバルはただ混乱を抱えたまま思考だけを走らせ続ける。

 

理解不能。理解不能。理解不能。理解不能。理解不能――。

 

なにが理由でこうなったのか。それを推し量る精神的な余裕すらない。

ただ、畳みかけるようにやってくる無理解の領域に、打ちのめされるようにスバルは嘆きを脳内で叫び続けるしかできない。

 

そして、その感覚の終焉は唐突にその姿を現した。

 

――なんだ?

 

疑念の声が脳裏に浮かび、スバルはイメージだけで首を傾げるアクション。

視線の先、固定された動かない視界の中、それはふいに生じたとしか思えなかった。

 

黒い靄だ。瞬きする自由すらないスバルにとって、それの出現は本当の意味で唐突としか言いようがなかった。

意識に割り込むようにして、その場にソレは漂っていたのだ。

 

たださらに特異だったのは、その黒い靄だけがゆっくりと形を変えたことだ。

 

なにもかもが停滞した世界の中で、黒い靄だけが緩やかな速度で形を変える。両手の上に抱えられる程度、そんな質量の靄はその輪郭を少しずつはっきりとさせていき、体感時間で十数秒もかけてようやく目的の形状へ辿り着く。

 

――スバルにはそれが、黒い掌のように見えた。

 

形を変えた靄は腕の形状を取っていた。

五指を備え、肘の先ほどまでの長さしかない浮遊する黒い腕。

そしてソレは確かめるように指先を震わせると、明確な意思を伴ってスバルの方へ迫る。

為す術もなくそれを見送り、スバルは感覚だけで思わず息を呑んだ。

 

黒い指先は遮るものがないかのように、するりとスバルの胸へ忍び込む。そして、はっきりとその指先が内臓を撫でる感覚がスバルには伝わったのだ。

内腑に触り、肋骨を撫で、さらに奥へと掌は進み、やがて人体においてもっとも重要な器官へとその指先を届かせる。

 

――おい、待て。

 

声にならない声。逆らうことのできない体。身じろぎひとつできず、黒い掌の思惑もなにもわからないまま、スバルの全身を恐怖が駆け巡る。

 

――それは本気で、洒落にならな

 

胸中で言い切るよりも先に、衝撃がスバルの存在を根底から揺るがした。

内臓を傷付けられることが何故痛いのか、説明できる人間はいるだろうか。それの答えは簡単で、そんなことは考える必要はない、の一言で済む。

その瞬間、スバルを襲った激痛には理由付けの必要性など欠片もない。

ただひたすらシンプルに、心臓を容赦なく握り潰される痛みがスバルを殴りつけ続けた。

 

声を上げることはできない。痛みに身を震わすことすら禁じられている。

痛みを誤魔化す手段もなく、ただ痛いとしか感じられないことの痛みが、この瞬間のスバルを置いて他の誰にわかるだろうか。

ただ苦痛だけがそこにあった。そしてそれは苦痛だけでないものを引き連れて、スバルに対して涙が出るほどありがたい警告を残していった。

 

痛みにスバルという存在が引き裂かれ、意識が乱雑に扱われたように歪み、思考は元の形すら思い出せないほどズタズタに切り裂かれ――。

 

「――スバル?」

 

「――あ?」

 

「スバル、大丈夫?急に黙り込んで、心配するじゃない」

 

こちらの膝に手を置き、銀色の美貌が憂いを宿した瞳でスバルを見つめていた。

それを意識した瞬間、スバルは抜けるような長い息を漏らす。それから手指が自分の意思通りに動くのを確認し、遅れて己の胸に触れて、その心臓が静かな鼓動を刻んでいるのを外側から確かめた。

 

体は動く。声も出る。心臓にも痛みなど感じない。

 

だが、恐怖は刻まれた。

指先が震え、声は外に出ることを拒み、体は竦んで小さくなったままだ。

 

生じていた希望の分だけ、ソレのもたらした事実はスバルを絶望させた。

再度、勇気を振り絞ってソレに挑もうと、そう頭の片隅で思っただけで、スバルの目の端を黒い靄が過るような錯覚が浮かぶ。

 

そして、スバルはついに認めざるを得ない。

込み上げる絶望感、それに屈するように掌で顔を覆い、寝台の上で小さくなるスバルに、エミリアは戸惑いを浮かべて口を開き、

 

「ど、どうしたの?さっきから、ホントに変よ?なにかあるなら……」

 

「――頼みがあるんだ」

 

こちらを案じる声を遮って、スバルは彼女に掌を向ける。

顔は上げられない。きっと、ひどい顔をしている。そんな精神状態のまま彼女を見てしまえば、自分がなにを口走るか自分で自分が信用できない。

 

自制心を総動員して、スバルはたった一言を作り出す。

言おうと思っていた言葉も、聞いてほしいと思っていた気持ちも、打ち明けたいと心底願っていた激情も、なにもかもを放り出して。

 

「エミリアたん」

 

「う、うん。なんでも言って」

 

「俺に、構わないでくれ」

 

力なくそれだけを伝えて、彼女の反応も見ずにベッドに倒れ込む。

無意識に掌は胸に触れ、その下の拍動を薄皮越しに感じながら、押しつけられた現実を、スバルははっきりと自覚する。

 

――打ち明けることは、許されない。

 

――スバルはひとりで足掻き続けるしかないのだ、と。