『賓客は去り』


 

「あんな風に行かせて、はぁ。よかったのかね、ふぅ」

 

「彼の決断で、選択だ。ワタシはそれを尊重したい。……あれの手を取って出ていったことにだけは、思うところがないではないけどね」

 

気だるげなセクメトの声に応じて、エキドナはその場で肩をすくめる。

彼女らがいるのは変わらず夢の城の中であり、草原と青空には何の変化もない。涼風が吹き抜け、魔女たちの髪を優しく撫でていくのも。

 

――ひび割れた世界がスバルとサテラを呑み込み、二人を夢の中から解放してすぐ、世界は再び修繕された。

 

当然だ。滅びることのできないエキドナの魂と繋がった空間は、エキドナが存在する限りはこの状態を維持し続ける。過剰演出で、退場者を追い払ったにすぎない。

 

「とはいえ、ああも君に乱発されるとワタシも疲労感を覚えずにはいられないよ。もう少し、節度を持って治療行為に奔走してくれると助かるんだが」

 

「あたしはあたしの流儀に従って、目の届くところにある傷を癒すだけよ。人間も魔女も動物も鳥も魚も虫も魔獣も区別なく、命あるものの傷はあたしの敵だわ!」

 

「それでも、生前と違ってここでの君の行いの負担はワタシにくるからね。生きていた頃は世界に肩代わりさせていたんだから、それだけの負担がワタシ一人にかかるというのは君の想像力でも厳しいのがわからないかい?」

 

「疲労感とか、目に見えないものってどうでもいいと思うのよね。あたしは傷を癒す。世界の寿命が縮もうがなんだろうが、知ったこっちゃないわ」

 

腕を組み、豊かな胸を強調するミネルヴァの断言に魔女たちが苦笑する。

『憤怒の魔女』ミネルヴァは、一見すれば大罪の名を冠する魔女たちの中でもっとも親しみやすい――言ってしまえば無害な魔女に思われがちだ。

事実、彼女の行いは全て治療行為でしかなく、当時の世界で彼女の手によって救われた命の数は五桁では収まらないのではないだろうか。

 

――ただし、それと同じぐらい間接的に被害をもたらしたのもミネルヴァだ。

 

殴る、蹴る、噛みつくなどの破壊エネルギーの全てが、彼女の手から発されれば癒しのエネルギーへと変換される。その術式は『憤怒』の権能であるが故に、彼女以外の誰にも真似できるものではない。エキドナにすら、構造は理解できても再現は不可能だ。

ミネルヴァの癒しの打撃はあらゆる生き物の生命を脅かす脅威から遠ざける。――ある種、万能に思える権能だが、それは間違いだ。

 

彼女の拳が起こす癒しの力は、因果を捻じ曲げる強力な術式の結果であり、発動するたびに莫大なマナを消費する。それはとても人間一人にまかなえる量ではなく、魔女であるミネルヴァの魔法的素養をもってしても不可能な量。

ならば、彼女の打撃はどこからマナを持ってきているのか――答えは単純に、世界の中核から根こそぎ奪ってくるのだ。

 

通常、人間が魔法を使う場合、大気中にあるマナをゲートから吸収し、それを魔法エネルギーへ変換して再びゲートから放出することで魔法を行使したことになる。

このゲートが、ミネルヴァの場合は大気ではなく、世界の中枢に直結している。この世界の中枢という表現は難しく、超自然的なマナの集合体――言ってしまえば、マナの生まれる場所というべき部分に繋がっているのだ。

ミネルヴァの打撃はそこからマナを抽出し、癒しの打撃へと変換させている。

 

これを繰り返すと、本来、供給されるべき場所へとマナが行き渡らない事象が発生し、世界を構成する重要な要素であるマナの枯渇は、届かなかった地域に天災や天変地異を引き起こす極めて危険な可能性を生じさせるのだ。

彼女が直接的に、殴って癒した人々の数は五桁を越える。

――だが、彼女が間接的に引き起こした天変地異で、命を落とした数もまたそれに匹敵する。

 

故に『憤怒の魔女』ミネルヴァは、大罪の名を冠する魔女たちの中でもっとも危険視され、あらゆる国家から敵対視されたのだから。

 

「ここでなら、あたしが引っ張り出すマナはエキドナが持ってる分だけだもの。あんたが日干しになる寸前までぐらいしか、治すのも癒すのもできないから不服だわ」

 

「そもそもここでなら本来は怪我人が発生する理由がないはずなんだがね。しばらく、ここが騒がしすぎたから勘違いしそうになるけど」

 

「そう……ね。しばらく、騒がしかったものね」

 

エキドナの言葉に、それまでの勢いを消沈させるミネルヴァ。愛らしい面にわかりやすい気落ちの色を浮かべて、金髪の魔女は青空を仰ぐと、

 

「あの子、うまくやれると思う?あたし、すっごく心配」

 

「間違いなくうまくやれるはずの、ワタシの手は拒絶したんだ。どうあれ、必死でうまくやろうとは足掻くはずだよ。まだ、答えは出せていないみたいだけどね」

 

「何よ、その言い方。自分からあの子に手を振り払われるように誘導しておいて、真意がばれてるあたしたちにまで本心隠そうとするわけ?意味ないじゃない!」

 

「別に、拒まれようとしたわけじゃないさ。――拒まれたとしても、受け入れられたとしても、どちらでもよかったってだけのことだからね」

 

肩を怒らせるミネルヴァに応じて、エキドナは再出現させたテーブルに腰掛ける。それから指を鳴らしてティーカップを生じさせると、湯気立つそれを口へと傾けた。

 

「ワタシは選択を、そして選択の結果を肯定する。結果如何はあまり問題だとは思っていない。選んだという事実、選ばなかったという事実、いずれかが大事だ。結果が良かろうと悪かろうと、どちらでも楽しめる性分だと自負しているからね」

 

「でもぉ、別に望みがないってわけじゃぁないんですよねぇ」

 

ドナ茶を口に運ぶエキドナの隣に、黒塗りの棺桶がゆっくりと並び立つ。いつの間にか棺に収まり直したダフネは、テーブルの上に並んだ茶菓子を犬のように貪り、

 

「結果を尊重するっって言いますけどぉ、ドナドナはドナドナで見たい結果に誘導するのは躊躇いませんもんねぇ。どっちでもよかったってのは本音でしょうけどぉ、こっちでよかったっていうのも本音なんじゃないですかぁ?」

 

「君は他人に興味関心が薄いくせに、いちいち核心を突く子だね、ダフネ」

 

「常日頃、ダフネを悩ませている空腹感に比べたらぁ、考えるまでもないってだけのことですよぅ。はぁはぁ、ふもふも」

 

茶菓子を通り越し、皿までしゃぶり出すダフネに吐息をこぼし、エキドナは残りの席に腰掛け始める他の魔女たちを見やる。

気だるげに、憤りを隠さず、おっかなびっくり――そして、一人だけやけに険のこもった目で。

 

「テュフォンは、ずいぶんと怒っているようだね」

 

「ドナがすなおじゃないからなー。すなおじゃないってことは、ウソツキってことか?ウソツキはアクニンだよな?ドナ、アクニンかー?」

 

「ワタシは自分の欲するところに対して正直に動いている。嘘をついた覚えは、今のところはないね」

 

無邪気なテュフォンの真っ直ぐな物言いに、エキドナは濁すことなく答える。

幼いテュフォンにはエキドナの持って回した言い回しは通用しない。そして彼女の機嫌を損ねてしまえば、それはこの場にいる全員の身が危うくなることをエキドナは知っている。

咎人の断罪も、罪人への裁きも、テュフォンの『傲慢』の権能の一端に過ぎないのだ。

 

ただ、そんな精神的な綱渡りをするエキドナの言葉にテュフォンが納得したように膨れるのを見て、次に低い声を出すのは毛玉に埋もれた魔女だ。

 

「真意を隠して話すってのは、はぁ。嘘にはならない、方便じゃないさね、ふぅ」

 

「え、キドナちゃんって、本当に……め、面倒くさい、子だ、よね……」

 

「君たちは……」

 

集中砲火を浴びるエキドナが顔をしかめて、それを見た魔女たちが口元を緩める。

唯一、その状況を見ながら目尻をつり上げているのはミネルヴァだけだ。

 

「ミネルヴァも、いつまでつんけんしてるんさね、はぁ。全員で話し合って決めたことじゃないさ、ふぅ。賢人候補がくればこうなるのはわかっていた……はぁ」

 

「うっさいわね、わかってるわよ。ちゃんと話し合いには合意してるってば。ただ、あたしはあんたたちと違って割り切れる立場にないだけ。それも、わかってほしいわね」

 

「テュテュと一緒にいるのが当たり前のぉ、メトメトにはわかんないんですよぉ。誰もかれも、生きるために食べる以外のことにぃ、命を費やしすぎじゃぁないですかぁ?」

 

ダフネの横槍に、ミネルヴァとセクメトが揃って不服そうに鼻を鳴らす。

それなりに均衡が取れている魔女同士の茶会ではあるが、もともとが我の強い性質のものの集まりだ。意見がかみ合わないことの方が多く、こうして言い合いになることも珍しいものではない。

特に誰に対しても突っかかるミネルヴァと、衝突を嫌うセクメトとが小競り合いになることは少なくなかった。そのたびに、空気を読まずに核心を突くダフネが邪魔をする。そうして言い合いが有耶無耶に終わるのも、いつものことだ。

 

ミネルヴァが怒り、セクメトが相手をしてやり、ダフネが茶々を入れて、カーミラがテュフォンが爆発しないようにあやしていて、エキドナがそれらを楽しげに傍観し、――サテラが、六人が無事でいるのを微笑んで見守っている。

それが、四百年前にかつてあったことで、もう二度とこない日々のことだ。

 

サテラが魔女因子に狂い、ミネルヴァが罠にかけられ狂死し、カーミラは大火の中で焼き尽くされ、ダフネは砂の海で枯れ死しに、テュフォンが大水の中に沈められ、セクメトが龍を屠って大瀑布へ落ち、エキドナが彼女らの魂だけを蒐集して自らもまた魂だけで現世に繋ぎ止められた。

 

もう帰ってこない、あの日々の不完全な再現だ。

 

「エキド、ナちゃん……かな、悲しい顔、してる?してる、ね?」

 

「どうしてだい?ワタシが悲しむ理由なんて何もない。君たちはここにいて、ワタシはそれなりに外とも触れ合う機会がある。――何も、必要ない」

 

「それ、で、いいの?わ、私たち、は……た、魂だけだ、から、本当の私たちじゃ、な、ないでしょ?私、たちは……ん、もう、死んじゃって、るから。誰、もエキドナちゃんとは、本当、に一緒に、はいられないんだ、よ……?」

 

カーミラの途切れ途切れの言葉に、エキドナは一瞬だけ口ごもる。

 

――肉体を失い、魂だけの存在になった彼女らに、精神体という形で仮初の体を与えているのはエキドナの力だ。

 

器を用意し、魂はそこに宿らせている。

だが、魂は彼女らが死した時間で凍結していて、その後の変化はない。果たして今、こうしてエキドナを見つめるカーミラの姿は、本当のカーミラのものなのか。

魂から生前の反応を引き出して、肉体を操って演じさせている――エキドナ自身の願望が引き起こす、人形遊びのようなものなのではないのか。

 

事実、彼女らはエキドナの見知った知識を共有している。

それが彼女らの存在が、エキドナの内から生じているからではないとどうして言い切れるだろうか。――こんなこと、すでに何度も考え尽した後の話だが。

 

「自己愛の塊である君が、友人とはいえワタシの心配とは珍しい。……君も、彼の騒がしさやお人好しさに感化されてしまったのかな?」

 

「も、う……知ら、ない……エキドナ、ちゃんの……バカ」

 

内心を誤魔化したエキドナの答えに、カーミラは失望した顔つきでそう言った。

その返答に思わず、喉を鳴らしてエキドナは笑う。

 

エキドナの態度に、それまでこちらを意識していなかった魔女たちの視線がこちらを向いたのがわかった。

それらの視線を一身に浴びて、エキドナは両手を広げると、

 

「さて、また茶会はしばらく魔女たちだけのものとなるだろう。彼――ナツキ・スバルがここに足を踏み入れることは、おそらくはもうないだろうからね」

 

「あんたは、それでいいわけ?別に寂しがるかどうとかそういうこと気にしたいわけじゃないけど、そもそも最後になんか言ってたじゃない。あれの対価とか、そのあたりのことってあんたはうるさいはずでしょ」

 

「対価……ああ、それもあったね。苦難が予想される彼への餞別――と言ったら、君たちはワタシを笑うかな?」

 

顎に手を当てて、思案しながらのエキドナに魔女たちが顔を見合わせる。

それから彼女らは頷くと、一斉に口を開いて、

 

「――全然」

 

「へえ、思ったよりワタシも見直されていたもの……」

 

「だって、あんたが対価もらわないで助太刀だけするとか、ありえないもん」

 

腕を組んで言い切るミネルヴァに、魔女たちも同意するように頷いた。

その息の揃った彼女らにエキドナは目をつむり、それから咳払いすると、

 

「非常に君たちに対して、色々と話し合わなきゃいけない案件が多いとワタシは思ったよ。本当に、君たちはワタシをどう思っているんだか」

 

「――――」

 

「ただ、まあ」

 

沈黙する魔女たちの前で、エキドナはカップの中身を飲み干し、その赤い舌で己の唇を艶めかしく舐めて、

 

「――まったく、間違っちゃいないけどね?」