『水の都の帰途』
エミリアとキリタカ・ミューズとの商談は、これが意外なほど穏やかに進んだ。
キリタカとて一端の商人として、王選候補者という一大勢力の旗頭に覚えの悪いことをしたいわけではない。エミリア自身が出向いたというのは、ただそれだけでキリタカのような商人にとっては大いなる意味がある。
もちろん、出されたお茶をのほほんとした態度で啜っていたエミリアにその意思はない。その隣で菓子に手をつけるか迷っていたガーフィールも同様だ。
ミューズ商会の応接間で、そのキリタカの内心を理解していたのは向かい合うオットーだけだったといえるだろう。
「わざわざご足労いただき、申し訳ありません。不敬とはわかっていたのですが、私もこれで忙しい身份でして……あまり上がせかせかと動き回るべきではないとわかっているんですが、現場を見て回るのが癖になっているのですよ」
「ご立派な考えだと思います。こちらこそ、お忙しい中、時間を作っていただいて申し訳なく思っております。到着早々、お会いできるとは思っていませんでした」
「何事も拙速が大事ですよ。交渉事ともなれば特にそうです」
上辺を装飾した挨拶を交わしながら、オットーはキリタカの人となりを見やる。
対面に腰掛けるキリタカ・ミューズという商人は、なるほど都市プリステラでも有数の大商人というだけあって、貫録と風格のある立ち振舞いをしている。
年齢はまだ若い。おそらくは二十代の真ん中から後半に差しかかるあたり。
細身の長身を仕立てのいい服に包み、色素の薄い金髪を丁寧に後ろへ撫でつけている。嫌味にならない程度の装飾品が余裕と品を彼に与えており、語る言葉にも仕草にも高等な教育を受けたものの洗練さが垣間見えた。
エミリア陣営の内政官としてロズワールなどに同行し、あまり意図せず有力者や権力者との折衝の経験を積んだオットーは、キリタカの態度が無理なくそれに匹敵するものと判断する。
端的に言って、自分がついてきてよかったと内心でホッとしているところだ。
エミリアが単独で向かい合っていたら、なんかきっと色々といい感じに言い包められて、高い壺とか買って帰ってきていたに違いない。
この一年間で、オットーもそのぐらいにはエミリアのことを評価していた。
「それで御用件を伺っても?なんでもアナスタシア嬢の使者の方からは、私どもの商会の取り扱う商品で御所望のものがあると聞いていますが」
「でしたら話が早い。実はですね……」
本題に入ろうとするキリタカに、オットーは一度、言葉を切ってエミリアを見る。
基本、交渉はオットーに任せるというのがエミリアのスタンスだ。ちなみにガーフィールはガーフィールで、菓子を齧りながら部屋の片隅――そこに悠然と立つ、上から下まで白い格好をした男を鋭く睨みつけている。
従業員にしては自己主張の激しいその人物は、キリタカの話では護衛とのことだ。近頃、何かと物騒というのが同席の許可を求めた彼の言い分だった。
白い格好の人物にオットーは心当たりがある。
ミューズ商会がプリステラで重用していると聞く、傭兵部隊『白竜の鱗』の構成員だろう。ルグニカでも一部で有名な、歴史のある傭兵団だ。
何でも屋に近い集団と聞いているが、それが数年前からミューズ商会と懇意にしているというのは有名な話だった。こうしているところを見ると、その彼らを引き入れたのがキリタカの判断だったのだろう。
「こちらの要求は一つ。ミューズ商会で取り扱っている魔鉱石の中でも、際立って純度が高い無色の魔鉱石。これを譲っていただきたい」
油断ならない人物と評しながら、オットーはキリタカに真っ向から切り出す。
もとより遠回しな要求は意味を成さない。この交渉の場を用意された時点で、キリタカにはこちらの来訪の理由は筒抜けになっている。
そしてキリタカもまた、エミリアからの要求を断れないことはわかっているのだ。
「なるほど。確かに私どもの方では魔鉱石を……同業者と比較しても非常に品質の良好なものを取り扱っている自負があります。エミリア様の所望される無色の魔鉱石の方も、いくらでもご用意することが……」
「キリタカさん。迂遠な言い回しはやめましょう。こちらの要求はお伝えした通り、最高純度の無色の魔鉱石。それだけです」
「……これは失礼を」
往生際の悪い、というほどではない。単なる言葉のやり取りだ。
理解していながら愚鈍を踏んでみせたキリタカは、こちらの懐具合を探る手を次々と打ってくる。彼にとってこの交渉はすでに、商品の引き渡しは決定している。あとは付ける値札がいくらになるのか、そこだけの問題なのだから。
「こちらとしても、無理を言うわけですから相場よりも融通を利かせる用意はあります。ただ、エミリア様の後援者であるメイザース辺境伯はエリオール大森林での魔鉱石採掘権などをお持ちの御仁」
「相場を誤魔化す詐欺など、魔鉱石を単品で扱う取り引きではわりに合いません。我々の仕事は信用が全てだ。おわかりでしょう。オットー殿は」
こちらの素性まで知られているわけだ、とオットーは内心で吐息する。
スーウェン家は商家としてはミューズ家に遠く及ばないが、それでも素性を辿れないほど小規模というほどではない。国の趨勢を決める王選候補者の陣営で、主要な人物の素性は情報通なら調べ上げて当然だ。
もっとも、それでも辿れないものが多いのがエミリア陣営の恐ろしさだ。
『聖域』でずっと引きこもっていたガーフィールに、百年以上をエリオール大森林で過ごしたエミリア。さらには『幼女使い』は使う方も使われる方も素性不明。
はっきり身元が割れる、オットーの素性など好き放題だろう。
「オットー殿?顔色が優れませんが」
「ああ、いえ、お気になさらず。ちょっと色々と不条理に思いが巡って、変な気分になってしまっただけです」
キリタカの言葉に首を振り、オットーは益体のない思考を一時的に放棄。それから改めて、キリタカに本題の答えを促す。するとキリタカは考え込む仕草を見せ、
「私どもとしましても、手元にある商品を求められてお渡ししないのもおかしな話。無論、エミリア様のご要求には従わせていただく所存です」
「じゃあ……」
「ですが、ご所望される魔鉱石は特別なもの。というのも、こうして私がプリステラへミューズ商会の支店を任される際、商会主――父ですが、譲り受けたものでして。商品としての価値より、贈り物としての価値を見ている品になります」
「――――」
それが事実にせよ虚飾にせよ、うまい切り口だとオットーは唇を噛んだ。
キリタカ自身も語った通り、希少な魔鉱石とはいえ取り引きは単品だ。商会規模の取り引きと考えれば、さほどの利益が望めるものではない。
ならば金額以上の付加価値はどこに付けるか。商品価値ではなく、人情味の部分に付けるのだ。自分にとって大事な品を譲るのだから、そのことを付加価値として認めるようにと念を押すのだ。
「そうなんだ。……そんな大事なものを」
実際、今のキリタカの説明でエミリアがかなり激しくぐらついている。
罪悪感に打ちのめされた表情を見ると、本当に腹芸ができない人物だ。自分がしっかりせねば、とオットーは咳払い。
「お気持ち十分に。ですが、そこを曲げてお願いしたい」
「わかっております。私も魔鉱石を扱う商人です。こうしたものは棚に飾られているより、必要とされる方の手元でこそ輝くのが道理。お譲りいたします。――ただ、いくつか条件が」
「――条件。お聞きしましょう」
十分に値札をつり上げる準備をしてから、キリタカは本交渉へ踏み込む。オットーがそれを受けて立つと、キリタカは指を三つ立てた。
どんな無理難題が飛び出すものか、と胃を痛めるオットー。
「まず一つ。ミューズ商会が以前より、エミリア様がお探しになられていた無色の魔鉱石。これを徒に悪意を持ってひた隠しにしていたわけではないとご理解ください」
「……それはもちろん。都合を打ち明けていただいた今、疑うはずもありません」
最初に一つ、キリタカはこれまでのエミリア陣営への不明を打ち消しにかかる。円満にまとめるためにも、これは頷くより他にない。
「そして二つ目。証文は後で取り交わすとして、立ち合いにホーシン商会を挟み、正当な取り引きであった旨をわかる形で残していただく」
「それも承りましょう。……問題はありません」
どうやらキリタカは、ミューズ商会としてホーシン商会とも取り引きがあるらしい。エミリアがアナスタシアに借りを作ったことを、内外に知らしめるつもりだ。
いくらかの不安を誘うが、これも正当な要求だけに断れない。
だが、ここまでのものはいくらでも取り返しがつかない。三つ目の要求――最後に持ってこられるそれで、キリタカの立場がはっきりと知れよう。
息を呑むオットーの前で、キリタカは三本目の指を軽く振り、
「三つ目。――都市に滞在する『歌姫』リリアナと、接触しないでもらいたい」
「――は?」
唐突に飛び出した無関係な人物の名前に、オットーが呆気にとられる。
無論、それは同席するエミリアやガーフィールも同様――否、二人は先ほどから態度を変えていない。エミリアはお茶を啜り、ガーフィールは白服を睨む。交渉はオットーに投げているとはいえ、ぶれない姿勢がいっそ潔い。
「すみません。こちらの聞き間違いでなければ、『歌姫』と接触しないでほしいと聞こえたのですが……」
「ええ、それで間違っていません。私どもの方の要求はそれで以上です。何か問題がありましたら、この取り引きについては考えさせていただきたく……」
「別に構いやしないんですが、理由をお聞きしても?今のところ、我々の取り引きと『歌姫』は関係ないように思ったんですが」
「……それは別にお話する必要はないかと。承諾していただけるか、どうかです」
声の調子を落として、キリタカはそれまで見せなかった感情的な面を覗かせる。その腑に落ちない要求に、オットーはどうすべきか少し迷った。
はっきり言って、三つ目の要求は予想外だった上に、受け入れたところでエミリアの今後に差し障りがあるような内容でもない。
アナスタシアの話題に上がった『歌姫』と会えないことをエミリアは残念がるかもしれないが、そこは今回の目的を達成するためと割り切ってもらえばいい。
そう考えれば、驚くほどすんなりと答えが出た。
それで交渉がまとまるならば望むべくもない。途中で置き去りにしてきたスバルが合流して、ややこしくされる前に話をまとめてしまおう。
「エミリア様、構いませんか?」
「うん。ちょっと残念だけど、仕方ないもの」
確認の言葉にエミリアが顎を引き、オットーは承諾の返事をしようとする。キリタカが満足げにそれを受け入れ、ここに魔鉱石の取り引きの前哨戦は終了。あとは実際の値段と相談し、商品を引き取るだけだ。
「現物はこちらになります。いくつか、他にも品質の良いものをご用意していますが……ご覧になりますか?」
立ち上がるキリタカが、奥の棚から木箱を持ち出す。
テーブルの上に差し出されたそれは、開かれた途端に宝石箱のような輝きを放ち、目にするエミリアやオットーの目を瞬かせた。
色とりどりの魔鉱石が、クッションの上に丁寧に並べられている。その中でも一際異彩を放つのが、属性の色に染まらない透明な魔鉱石。
それこそが、エミリアの求める無色の魔鉱石そのものだろう。
「手にとって確認されますか?」
キリタカの言葉に、エミリアが顔を上げる。
キリタカが頷いてみせると、エミリアは小さく息をついてから魔鉱石にそっとその指を伸ばした。しかし、
「エミリア様」
「若旦那」
同時に、それぞれの主を呼んだのは室内にいた二人の武闘派だ。
彼らは互いに視線を交わすと、それから怪訝な顔をする主に顔を向け、
「何ッかうるせェのがきてやがんぜ」
「階下から急ぎ足で誰かが。確認します」
白服の男が音も立てずに部屋の入口へ向かい、ガーフィールが軽く腰を浮かせる。静かに緊張感が張り詰める応接間。そして、彼らが気付いた騒ぎはどうやらすぐ扉の近くにまできたようで――、
「お前らピーチクパーチクうるさいっての!いい加減にしろ!中じゃ今、エミリアたんたちが交渉してて……」
聞き慣れた声がしたと思った途端、白服の男が応接間の扉を開けた。
その向こうでぽかんとした顔をするのは、どこからどう見ても見知った男。右にも左にも小柄な少女を従えて、『幼女使い』の名前に相応しいナツキ・スバルだ。
「――スバル?」
エミリアに呼ばれて、スバルはやっとこちらの陣容に気付いて青い顔。
オットーは内心、全力でため息をつきたいところだったが、ひとまずは周囲の反応を顧みて声を上げないでおく。
すると、スバルは観念した顔で軽く手を挙げ、
「や、やあ、エミリアたん。奇遇だね」
「奇遇も何も、あんなにうるさくして……あれ、キリタカさん?」
エミリアの怪訝な声に、オットーもまた反応が遅れた。
見れば、先ほどの木箱の中に手を入れたキリタカが立ち上がり、その瞳に狂乱の輝きを宿してスバルを睨みつけていた。
その手には、純度の高い青い魔鉱石が握られており――、
「ぼ、ぼぼぼぼ、僕のリリアナに触るなぁ!!」
裏返った声と、投じられる魔鉱石の一撃。
誰が止めるまでもなく、その一投は吸い込まれるようにスバルに飛び込み――青い輝きを放って、その体を吹っ飛ばしていた。
※※※※※※※※※※※※※
「悪かったな。うちの若旦那は普段はキレッキレなんだが、リリアナ嬢ちゃんが拘るとまたさらにキレッキレになっちまってなあ……明日までにはどうにかなだめておくから、とりあえず今日のところは帰ってくれ」
ひと騒動があった後、どうにか場を落ち着けた両陣営を取り成して、白服の中年が申し訳なさそうに頭を下げた。
その背後の閉じた部屋の中では、今でもキリタカの金切り声が上がっている。とても余所の人には見せられない姿らしいので、今は完全に出入り禁止だ。
「ホントにキリタカさんにはお困りものですよぅ。私とエミリア様やナツキ・スバル様とのお話の機会を奪おうだなんて。ぷんすこですよ、ぷんすこっ!」
一方、自分のいないところで企みをされていたリリアナの憤慨は止まらない。
頬を膨らませて怒りの擬音を口にする彼女は、衝撃に呑まれて倒れたスバルの様子に『出オチ英雄伝』という新曲をプロデュースしようとし、ベアトリスの不興を買った直後である。
「リリアナ嬢ちゃんも、今日ばっかしは若旦那の気持ちを酌んでくれ」
「……………………………………………………………………わかりました」
わかるのにだいぶ時間がかかったが、リリアナもさすがにそこで折れた。
結果、エミリア陣営はスバルの大活躍によって、今回の交渉で見事に成果無しの結果を引っ提げて凱旋することになったわけである。
「つまりだ。あのリリアナって子がいわゆる有名人マニアで、ミーハー趣味がすごいからキリタカは俺たちを遠ざけておきたかったんだよ。魔鉱石を渡す条件の三つ目はそういうことだったわけだ」
「それでまとまりそうだったところを、ナツキさんがぶち壊しにしたわけですね。なるほどわかりました。本当に碌なことしませんねえ!?」
「俺も今回は悪いと思ってるけど、船酔いした先であんなフラグ拾ってくるなんて想像できねぇよ……不可抗力すぎるだろ……」
交渉が不発に終わったことで、オットーはどうにも不満が隠せない様子。
スバルの言い繕いにもキレがないのは、ダメージが残っているのもあるが、キリタカの狂乱ぶりから明日の交渉が難航しそうなのが窺えたからだ。
「ほらほら、そんなにオットーくんも目くじら立てないの。スバルだって悪気があったわけじゃないんだから、そんな風になっちゃうこともあるわよ」
「そうだよな。エミリアたん、もっと言ってやって」
「スバルはちゃんと反省して。リリアナさんのことは別にしても、人様の仕事場であんなに騒いだら迷惑じゃない。受付の人も困っちゃうんだから」
「はい、ごめんなさい」
素直にスバルが頭を下げると、エミリアは「よろしい」と頷く。
そんな毒気の抜かれる主従のやり取りを見ていたオットーはため息をこぼし、
「ともあれ、これで今日の交渉は打ち止めです。ひとまず『水の羽衣亭』に戻って方針を練り直したいところですが……ちょっと僕は用事があって一時、抜けます」
「用事?」
思わぬ一言に皆が首をひねると、オットーはミューズ商会の向こうを手で示し、
「せっかくプリステラまで遠出してきたわけですから、繋ぎを作れる部分は作っておかないといけませんからね。今日のところは僕が話をするだけですが、後々にエミリア様に足を運んでいただくことも出てくるかもしれません。そのときは」
「ええ、わかったわ。でも、今日は一緒に行かなくてもいいの?」
「前もって連絡しないでエミリア様がきたら、どこも満足なお出迎えができなくて大変なことになりますよ。迂闊に動かないことも配慮の内です」
「はーい。わかりました。覚えておくわね」
エミリアが良い返事をすると、オットーはそれで「真っ直ぐ帰ってくださいよ」と子どもに言い聞かせるように言い残して二番街の奥へ。
ガーフィールはオットーに同行する気配を見せたが、「エミリア様を無事に送り届ける方が優先です」と断られていた。
「それでスバルは、あのリリアナさんとどんなお話をしてたの?」
「お?エミリアたんてば俺が他の女の子と話してた内容が気になる感じ?なんだろう。そういうささやかな変化が俺にはすごく嬉しかったりして」
「ううん。歌姫さんがどんな人が気になるだけだから、誤解しないで大丈夫」
「誤解させてくれてた方が大丈夫だったんだけどね!?」
相変わらず、エミリアの天然バッサリは容赦なくスバルの心を切り裂く。
ともあれ、黙っている理由もないしいつものことだしで、スバルはすぐに復活してエミリアに道中のことを語って聞かせる。
「歌ってるとこを公園で最初に見つけたときは、そりゃすげぇもんを見たって思ったぜ。『歌姫』なんて言われてるのも納得の歌声だった。な、ベア子」
「それは否定はしないのよ。それは否定しないかしら。あくまで、それは」
「ベアトリスはこんな風にすごい念を押してるけど、何かあったの?」
「一つの才能が傑出するってことは、他の大事な要素を削り取ることなんじゃないかって難しい命題を、リリアナは俺たちに示してくれたってとこかな」
ベアトリスが何度も念押ししたくなる気持ちがスバルにもわかる。
リリアナは歌声に全振りした結果、あんな残念な少女に仕上がったに違いない。
「人は望んだ才能が得られるとは限らないけど、望んだ才能を得られても素晴らしい存在になれるかどうかは話が別だよね」
「おォ、ずいッぶんと哲学してんじゃァねェか、大将。そんなッ風に思わせてッくれるような歌だったのかよォ」
「それは否定しない。それはな。この答え、リリアナ関係だと万能だな」
汎用性に驚きながらの帰り道、行きとは違って全員が徒歩での帰途についている。水路ではスバルを置き去りにする問題が付きまとうのと、
「せっかく綺麗な街並みなんだし、ちゃんと歩いて見て回りたいの。オットーくんの話だと、今日はすることがなくなっちゃったみたいだから」
わがままを口にすることにエミリアは罪悪感があったようだが、こんなものはわがままなんて呼ぶのもおこがましいほど可愛い要求に過ぎない。
スバルはもとより、ガーフィールもベアトリスも反対などしなかった。
「あとは無事に、エミリアたんを案内しつつ宿まで戻れるかどうかが不安だな」
「心配ないのよ。いざとなれば、ベティーが左手で壁に触れてるかしら」
「その方法の欠陥については、しっかり話し合ったはずだぞ」
「二人揃って心配ァいらねェよ。俺様の鼻があらァ。きちっと宿の場所もちびっこの匂いも鼻が覚えてらァ」
「――へえ」
ガーフィールが挙げた匂いの候補に、ミミの存在があって思わずにやける。
あの小さい猫娘のガーフィールに対する反応は、ちょっと元気が有り余りすぎてわかりづらいが、好意の表明に他なるまい。年齢的にもちょうど釣り合いが取れているし、先々が楽しみな取り合わせではあった。
ちなみにガーフィールは相変わらず、本命のラムには延々と袖にされている。ラムもガーフィールに対しては、弟に接する以上の感情は持っていないようだ。
「なんにせよ、ガーフィール。俺は弟分のお前の幸せを、心から願ってるからな」
「あァ?急に気色ッ悪ィこと言い出すんじゃねェよ、大将。まァ、別に悪いッ気はしねェけどよォ……」
わかったような顔で肩を叩くスバルに、ガーフィールは首を傾げつつも歯を見せて笑う。素直で憎めない弟分に幸あれ。スバルは本心からそう願っている。
「それにしても、素敵な町。見る場所が全部新鮮で、落ち着かなくなっちゃう」
帰途の最中、めまぐるしく変化する景色にエミリアは上機嫌な様子だ。スバルは楽しげなエミリアの表情変化を見ているだけでも気分が弾むが、確かに彼女の言うことにも頷ける街並み。
計算され尽くした町の建築様式は、芸術品か工芸品のような精緻な出来栄えだ。都市の中央を流れゆく水路も、利便性だけでない美しさがそこにはある。
「都市の成り立ち自体は、どうも胡散臭い噂ばっかりだったけどな」
「当時の技術力の限界とか、悪い魔獣を閉じ込めようとしたとかね。でも、切っ掛けがなんでもここにあるものが綺麗だってことは変わらない。でしょ?」
橋の上で足を止めて、大水路を眺めるエミリアの微笑み。
それに見惚れながら、スバルは「そうだね」と晴れ晴れしい気持ちで頷く。
切っ掛けがどうあれ、今がここにあるものが全て。
結果に向かう気持ちと、手に入れる結果――そこに至れれば、始まりはいい。
大事なのは最初ではなく、最後なのだから。
「だよな、お母さん」
「今、何か言った?」
「世界一尊敬してる女の人の魔法の言葉を思い出してた」
思い出から時間が過ぎても、勇気づけられることは今でも多い。
忘れることは永遠にないし、忘れられないだけのものをもらい続けた。ナツキ・スバルは今日も、そのもらった思いを引きずって生きている。
スバルとエミリアがそうして笑みを交換するのを、ガーフィールとベアトリスは空気を読んで少し離れて待つ。
忙しく時間の取れない二人に、こうしたささやかな時間を用意するのは彼らの周囲の人々の共通した配慮だ。それについてはベアトリスすら素直に認めている。
「鼻の下が伸びてて、情けない顔なのよ」
「惚れた女といい雰囲気ならあんなもんだろ。俺様ァむしろ安心すんね。大将も素直に男なんだってェのがわかってよォ」
「それはどういう意味かしら」
「いや、大将の周りにいるのってなんか女は年下が多いし、それ以外だと男が多いし……エミリア様に擦り寄ってなきゃ疑われッかなァって」
「スバルは何の問題もなくスケベで男らしく変態なのよ!よく意味もなくベティーやペトラにべたべた触ってるかしら!」
「その保証もあんまッし嬉しかァねェんじゃねェか?」
往来でスバルの性癖談義を交わす二人。ちなみにスバルの名誉のために触れておくが、スバルの年下への接触には親愛表現以外の意図は一切ない。
そんな背後の不穏当な話にも気付かず、スバルはエミリアと水の都を堪能する。
「それじゃ、そろそろ戻ろっか。私、今日の宿もちゃんと見てみたいの。すごーく不思議な形をした建物だったから」
「ワフー建築な。俺も正直、興味がある。エミリアたんとは違う形でだけど」
「そうなの?ふふ、じゃ、急がなきゃ」
欄干から手を離して、エミリアは笑みを弾かせながら軽く後ろへ下がる。と、少しばかり気が急いていたからか、背後を確認せずに下がったエミリアは、
「あ」
「おっと」
ちょうど、そこに通りがかったフードを被った人物に背をぶつけてしまう。小さく声を上げるエミリアを、その人物はとっさに手で支えていた。
「ご、ごめんなさい。私、ちゃんと後ろを見てなくて……」
「俺からもすみません。この子、そそっかしいもんで。ちゃんと言い聞かせます」
慌てて振り返り、エミリアはそのフードの人物に謝罪する。スバルも急ぎ、エミリアの隣に並んでその相手に頭を下げた。
とっさにエミリアの名前を出さないのは、誰が彼女の正体に勘づくとも知れないためのちょっとした警戒だ。往来でエミリアの素性がわかると、騒ぎを引き寄せないとも限らない。当然、エミリアは認識阻害のコートを着用してもいる。
故にささやかな他者の接触が、大きな問題に発展するはずもない。
今回も、それと同じだ。
「今回は僕の方も不注意だったよ。一瞬、見惚れてしまっていたからね」
「えっと?」
「ぶつかったお嬢さんの綺麗な銀色の髪に、ね。昔、妻にしようとした人が同じぐらい美しい髪をした女性だったんだ。それを思い出して、避けそびれてしまった」
聞きようによっては口説いているような発言だが、陶酔した色が濃い声音だ。
フードの人物は細身の男性だが、声の調子からしてまだおそらく若い。妻を迎えようとした、という話がどのぐらい前のことなのか、スバルは怪訝に思う。
ただ、純粋に男心があまりエミリアに近付けておきたくない手合いと判断。
「じゃ、今回はお互いの不注意ってことで。とりあえずこっちの謝罪は伝わったみたいなんでこれで」
「ちょ、スバル。そんな誠意のない謝り方……」
「いいから、ね?」
「――――」
スバルが腕を引いてエミリアを下がらせると、エミリアも何かを感じ取ったのか黙り込む。その二人のやり取りを見て、フードの人物はゆるゆると首を横に振った。
「構わないよ。今のところ、僕は君たちに憤りも用事も抱いてない。行きたいなら行くといい。何かあれば、また勝手に運命がその場を用意するさ」
「ああ、そうだな。それじゃ、運命が導く明日の再会を願って」
詩的な表現を用いる相手に、中二的な返答をしてスバルはその場を辞する。
エミリアの腕を引きながら、スバルはちらと彼女の方を見る。すると、エミリアは何故かちらちらと今の人物の方を気にする素振りを見せていて、
「確かにちょっと態度が悪かったかもだけど、変な虫からエミリアたんを守るためだから割り切ってほしいなって」
「え?あ、違うわよ。確かにスバルの態度はよくないと思ったけど、そもそも私の不注意が悪かったんだし。でも、そうじゃないの。そうじゃなくて……」
そこで言葉を切って、エミリアは迷いを瞳に宿す。
しかし、黙ることができなかった顔で唇を震わせ、
「今の人、どこかで会ったことがあったような……そんな気がしたの。顔、ちゃんと見れなかったからわからなかったんだけど」
「エミリアたんが見知った相手?それだと、大体は俺も知ってるはずだけど」
「うん。……でも、わからなくて。誰、だったんだろ」
よほど気掛かりなのか、エミリアは再びちらと後ろを振り返る。が、すでにそこには先ほどの人物の姿はなく、答えが明かされることはどうやらなさそうだ。
「よォ、大将。ずいッぶんと慌てて引っ張ってきたが、色男に取られッそうになったのかよォ」
エミリアを連れて橋を渡ったスバルに、先で待っていたガーフィールがからかう口調。そのガーフィールにスバルは舌打ちして、
「馬鹿、遊んでる場合じゃねぇよ。変な奴に絡まれてるときにお前がこなくてどうすんだよ。俺で守りきれない相手だったら、エミリアたんが危ねぇだろ」
「そこは体を張ってでも守る、ってェ言うのが大将の男の見せ所ッだろがよォ」
「俺の肉の盾一枚で止まればいいけど、貫通したらどうすんだ。厚みに自信がねぇよ。盾としても人間性の意味でも」
スバルの卑下に近い自己評価に、ガーフィールは苦笑する。
ガーフィールはスバルのそれを謙虚な姿勢とでも思っている節があるが、スバルからすれば妥当な評価だ。むしろ、彼らがスバルを高く見過ぎなのである。
「安心しろや。俺様だって、相手がやべェ野郎って思えば飛んでいくぜ。さっきの野郎のことなら何の心配もいらねェよ。歩き方から視線の飛ばし方、何から何まで素人そのものだ。修羅場潜るどころか武道の嗜み一つねェよ」
「断言できんのかよ」
「見りゃァわかるって話だ。大将が剣振ってたことがあるのだって、俺様ァちゃんと見て気付いてたぜ。足の運び方と腕の振り方に特徴があっかんなァ」
「マジか。変態的な特技だな」
剣道経験者である点はガーフィールには話していない。
所詮は中学剣道で、こちらの世界で通用しない技術なのは証明済みだ。それでも身に沁みついた鍛錬の証は、見るものが見ればわかるということだろう。
ガーフィールがそうまでいうなら、この警戒は杞憂なのかもしれない。
「そういうわけだからいこうぜ、エミリアたん。それとも、まだ気になる?」
ひとまず、自分の方の思考を棚上げにして、スバルはエミリアに尋ねる。
エミリアはまだあたりを見回していたが、やがて諦めた様子で首を振った。
「ううん、大丈夫。変に気にしてごめんね?戻りましょう」
「そうしよう。戻って、ミミでも抱いて癒される方がいいよ。おっと、俺はベア子を抱っこして満足だから、拗ねる必要はねぇぞ」
「別にベティーはなんも言っちゃいないかしら!」
スバルの物言いにベアトリスがつんつんと反応し、エミリアが笑う。
それから彼女は口元に手を当てたまま、
「そうね。ミミちゃんを抱っこしたら、すごーく満足しそう。そうしましょ」
そう言って、不安を忘れるような顔で再び歩き出したのだった。
※※※※※※※※※※※※※
「――なるほどね。ここにくれば、の意味がようやくわかったよ」
ゆったりとしたコートの裾を揺らし、その人物は小さい声で呟いた。
フードを被った男だ。彼は先ほど接触した少女の姿を瞼の裏に描き、その口元に笑みを浮かべる。それはどこか、陰惨なものを感じさせる暗い微笑だった。
「わざわざ僕に足まで運ばせたんだ。つまらないことだったら容赦しないつもりでいたけど、あんなものがいるなら話は別だ」
淡々とした語り口だが、その声には粘つくような熱が込められている。
そこに窺えるのは、鍋に焦げ付くほどに煮詰め続け、月日を経てドロドロになってしまった執着心のなれの果て――おぞましい偏愛の一部だ。
「僕は僕のものを決して逃さない。僕は僕で完成されていなくてはいけない。完成から一部も欠け落ちないからこその僕だ。満たされているということは、満たされ続けていなくてはならない。だから、欠番が埋まるのも当然のことだ」
早口にそう並べて男が上を向く。
その途端、フードが外れた。そして、隠されていた白い髪が露わになる。
白髪を水を孕む風が揺らし、それに男は小さく不愉快げに舌を鳴らし、
「空席のままの七十九番目の妻を、娶りにいかせてもらわなきゃ」
そう言って、白髪の魔人は水の都で嘲笑を浮かべていた。