『忍び寄る凶気』


 

「――――」

 

信じ難い事実を噛みしめ、スバルは全身を冷たい汗が濡らしていくのを感じる。

これはスバルの知る限り、最も恐ろしい事態の一つだった。

 

見覚えのある光景、聞いたことのある会話、それはデジャブの次元ではない。

あったような気がする出来事ではなく、実際にあった出来事を繰り返している。それが意味するところは一つ――『死に戻り』したのだ。

 

「でも、なんで……?」

 

前触れは全くなかった。

それこそ、スバルにとっては瞬きをした直後に世界が切り替わったような感覚だ。

あまりにも実感がなさすぎて、我が身に宿った権能の誤作動を疑うほどだった。何らかの理由で、『死に戻り』の『死に』部分が抜けて、『戻り』だけ発動したのではと。

 

「馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は」

 

この期に及んで、直面した状況を楽観視しようとする己をスバルは自制する。

馬鹿げた言い方だが、『死に戻り』を信用しなくてはならない。これまで、スバルに宿った時を遡る力が、『死』以外をトリガーに発動したことは一度もない。

時を遡った以上、スバルは命を落とした。それは、絶対なのだと。

 

「――OK、それは呑み込んだ。呑み込んで、次はどうする、俺」

 

額に拳を押し当てて、スバルは動揺の激しい自分に冷静であれと訴えかける。

『死に戻り』したことを受け入れたなら、次に焦点を当てるべきは死因だ。直前の、ほんの十数秒前のことを振り返って、何が起きたのかと思い出す。

 

「……何も出てこねぇ」

 

しかし、自分が死を迎えただろう瞬間を思い返しても、何も浮かばない。

ほんのわずかな取っ掛かり、それを求めて記憶を手探りしても何も出てこなかった。

 

目的の酒場、会話していたフロップ、大通りの喧騒がやや遠く、ほんのりと香る路地特有の日陰の臭い、微かに聞こえた硬い音――拾えたのは、そのぐらいだ。

そのどれもが、スバルの命を危うくする理由と繋がらない。

 

「クソ、なんで俺はいつもこうなんだ……!」

 

常日頃、自分の周囲の変化に敏感に構えていれば、こんな醜態は晒さなかったはずと、スバルは自分の不用心さを呪い、罵る。

だが、それがどれだけ無茶な要求なのか、理性の一部は白けた目を自分に向ける。

監視カメラではないのだ。四六時中、自分の身辺に気を張り続けることはできない。周囲の些細な変化を汲み取り、即座に対応できるほど達人でもない。

 

ナツキ・スバルは、紛うことなき凡人だ。

それは自分自身の『記憶』を追体験し、己を見つめ直した今でも変わらない評価。

 

だからこそ、考えることと行動することをやめてはならないのだ。

 

「――状況は、シャウラに最初に殺されたときに近い」

 

プレアデス監視塔への道のり、アウグリア砂丘の『砂風』に挑んだスバルたちは、監視塔から砂海の防衛を行っていたシャウラの一撃に壊滅した。

その砂海の洗礼の初撃は、反応すらできない白い光にスバルが消し飛ばされたことから始まった地獄のような戦いだった。

 

何が起きたのか、何が死因だったのか、死んだことしか確かでない状況というのは、まさしくあの砂海の最初の死のリフレインと言えるだろう。

ただし、あのときとは違い、今は街中だ。

命の危機と隣り合わせの覚悟ができた砂海とは、根本から環境が違っている。

 

「この状況で、何が俺の命を持っていくってんだ……?」

 

前触れのない『死』で思い当たるのは、やはりシャウラの狙撃の印象が強い。

となると、今回も狙撃されたのかと思われるが、スバルが死亡したのは路地の中――高いというわけではないが、左右を建物に挟まれた見通しの悪い場所だ。

狙撃するなら射線は前後にしか通っていないが、狙い撃つのに適した地形だったとは考えにくい。もちろん、スバルの記憶がどこまで正しいかがわからない以上、ひょっとしたら綺麗に射線が通ったスナイパー垂涎の狙撃地点だった可能性も――、

 

「――旦那くん?さっきから、より眉間に皺を寄せてどうしたんだい?」

 

「あ……」

 

「僕の助言を聞いていなかったのかな?眉間に皺を寄せていては幸いが逃げる!逃げたものを追うのは至難の業だ!僕は基本、牛車の上だからね!」

 

自分の胸に手を当てて、スバルの前で大げさに身振りするフロップ。

それがしかめ面のスバルを励ますためのオーバーアクションだと感じていながら、スバルはその身振り手振りに身を固くせずにはいられない。

 

死因を探るなら、同時並行して下手人のことも探ることになる。

その場合、スバルの死因が狙撃でないとしたら、最も濃い容疑者はフロップ――スバルと行動を共にし、一番近くにいた彼ということになる。

ただ、スバルが死んだ瞬間、フロップはスバルの視界の中にいたし、彼がこちらに攻撃を仕掛けるような素振りは全く窺えなかった。

無論、この世界にはスバルに何も気付かせず、一撃の下に命を奪う技量を持つものが大勢いることはわかっている。が、フロップがそれとは思えない。

第一――、

 

「フロップさんに、俺を殺す理由があるか?」

 

一番高い可能性は、善良を装ってスバルを追いはぎするといったものか。だが、わざわざ街中で仕掛ける理由が乏しいように思える。

元々、オコーネル兄妹と出会ったのは門の外、行列でのことだ。

露見せずに事を済ませたいなら、衛兵が存在するグァラルの中に入る前に、門の外でどうとでも言いくるめて誘い出せば済むことだろう。『魔獣の角』を換金した金銭目当てだったとしても、結局、スバルが買い手に足元を見られずに済んだのは、他ならぬフロップの口添えあってのこと。――間にスバルを挟む意味がない。

外でスバルたちを騙して角を奪い、都市の中で換金すれば済むことだ。

 

動機に合理的な説明がつかない。

スバルを殺したものはこれまで大勢いたが、皆、何かしら合理的な理由があった。言葉の通じない魔獣でもない限り、それは絶対のルールのはずだ。

だから――、

 

「フロップさんは、なんで俺たちにこんなに良くしてくれるんだ?」

 

「うん?それはまた唐突な質問だね」

 

「ああ、いきなりでごめん。ただ、ちょっと不安になったんだ」

 

唐突に思えるスバルの質問に、フロップが形のいい眉を上げて驚いた。

その反応に苦笑を装いながら、スバルはフロップの返答を固唾を呑んで待つ。――合理的な疑いはない。だからあとは、信じられるかどうかだ。

 

ここまで親身になって、色々と世話を焼いてくれたフロップ。

彼と妹のミディアムに二心がなく、信じてもいいのだという、安心感が欲しい。

 

「――ふむ」

 

そんなスバルの心中が瞳に出たのか、フロップが端正な面持ちの目を細める。

彼自身の語る、根拠のない自信と余裕に満ち溢れた表情が消えると、そこにあるのは理知的な風貌の美男子が一人だ。

そして彼は、身を固くするスバルの前で首を横に振ると、

 

「難しい話じゃない。簡単なことだよ。僕と妹が、君や奥さん、姪っ子ちゃんに良かれと思ってしていることは……」

 

「していることは?」

 

「――復讐だとも!」

 

「……え?」

 

両手を広げ、声高らかにフロップがスバルにそう言い放った。

その勢いある朗らかな発言と、発言内容の物騒さの齟齬がすごくて、一瞬、スバルはそれを受け止められない。唖然と、目を丸くしてしまう。

そうして硬直するスバルの前で、フロップは「いいかい?」と前髪で撫でて、

 

「僕と妹は昔、そりゃもう生き死にもギリギリという生活をしていてね!親に捨てられ、みなしごを引き取る施設で育ったんだが……そこがなかなかひどい環境だった!」

 

「みなしごの施設……」

 

ぼんやりと、スバルの脳裏に孤児院のような施設のイメージが思い浮かぶ。

ただし、この世界の孤児院の環境や設備が、スバルのイメージする現代社会のそれと大きく異なる場所であろうことは想像に難くない。

劣悪な環境とは、おそらくスバルの想像を絶する世界が展開されているはずだ。

そこで育ったのだと、フロップは身振りを交えてスバルに明かし、

 

「毎夜、同じ境遇の子らと肩を寄せ合い、その状況から脱すると心に決めていたものさ。そして、僕や妹は機会を得て、そこから逃げ出すことができた。初めて、殴られることなく越えられる夜を迎えて、僕は誓ったんだよ。――復讐をね」

 

「復讐って……その、みなしごの施設の人に?」

 

「いいや、違う。――世界にだよ」

 

先ほどの、復讐と声高に言い放ったときと同じ顔で、フロップはそう拳を固めた。

鼻白むスバルに対し、彼は熱を帯びた表情で前のめりになり、

 

「僕や妹は、施設の大人に殴られて育った。だが、僕を殴った大人たちは、僕を殴りながら幸せだっただろうか?違うんだ。彼らも不幸なんだよ。不幸な大人が、不幸な子どもを殴っていたんだ。こんな救われないことがあるだろうか」

 

「――――」

 

「暴力を振るう大人たちでさえ、幸せではない。僕は商人となり、自分と妹を不幸から抜け出させることにした。そしてできるだけ、多くの人にも不幸から抜け出してほしいと思っている。あの夜、僕たちを連れ出してくれた人のように」

 

「それが、世界への復讐?」

 

「そうだとも。僕と妹は、不幸を押し付ける世界に復讐するために足掻いている。君や奥さんたちを助けたのも、その一環さ」

 

言い切ったあと、フロップは少しだけ照れ臭そうに自分の鼻をこすった。

その仕草と、フロップの言葉の熱量を受け、スバルは言葉を失う。ゆっくりと、その熱が脳に浸透していけば、スバルは腹は即座に決まった。

 

「ありがとう、フロップさん。行列で出会ったのが、フロップさんとミディアムさんの兄妹でよかった」

 

信じられるのかどうか、その指針が欲しいと考えて答えを求めた。

そして、提示された答えはスバルの求めた以上のものだった。ならば、決まりだ。

 

スバルは、フロップ・オコーネルの善意を疑わない。

世界の不条理に抗うと決めた、その尊い復讐心を信じ抜くと決断する。

ならばあとは――、

 

「フロップさん、この道は風水的にあまりよくない卦が出てるんだ。だから、違う道を使わせてくれないか?」

 

「ケ?ケとはなんなんだい?もしか、旦那くんの眉間の皺と目つきはそれが理由?」

 

「吉兆を占う的なアイテムだけど、目つきは関係ねぇかな!でも、この道はよくない。遠回りになってもいいから、頼む」

 

フロップの善意に甘える形で、かなり強引にスバルは話を進める。

下手人はフロップではないと決めたなら、次なる問題は迫る『死』の回避だ。これが狙撃であれ何であれ、攻撃であることには違いない。

その、攻撃の発生条件を回避できれば、『死』を避けられることに繋がる。

そのためにはまず、先ほどと同じ行動をなぞらないことが肝要だ。

 

道を変え、タイミングをずらし、我が身に降りかかる被害を未然に回避する。

それができれば、望まぬ『死』を躱すことができるはずだ。

 

「そもそも、望んだ『死』なんていっぺんも……一回か二回しかないけども」

 

それも、状況が差し迫ったが故の仕方なしの選択肢だ。

死ぬことでしか救えない状況に追い込まれなければ、そのときだってスバルは『死』を選んだりしなかった。ええい、スバルも世界に復讐したい気持ちだ。

 

「そのケについてはわからないが、君の真剣な表情は気に入った。少々遠回りになるが、違う道を使って向かおうじゃないか」

 

「そうしてくれると助かる!なるべく人の多い、大通りを通っていこう」

 

「心得たとも」

 

幸い、フロップは不自然なスバルの言葉に食い下がらず、話を聞き入れてくれた。

その彼の案内に従い、酒場までの道のりを予定のものと変更する。進むはずだった道を引き返し、大通りから酒場まで路地は最低限しか通らないルートだ。

結局、酒場の前に射線が通っていたのだとしたら、それでもスバルが狙われることに変わりはないかもしれない。しかし、酒場の前の路地で襲われるとわかっていれば、対処のしようはいくらでもある。

最悪、警戒するスバルの姿を見れば、相手の方から手を引く可能性も――、

 

「では旦那くん、こっちの道から――」

 

スバルの隣を通り過ぎて、フロップが違う道からの案内を始めようとした。

その瞬間だった。――ちらとスバルを振り向いたフロップが、何かに気付いたようにその目を見張ったのは。

 

「――ぉ」

 

何を、とフロップの反応を確かめようとして、それは叶わなかった。

何故ならスバルの口はフロップへの問いかけの言葉ではなく、溢れ返る血を吐き出すために全開放されてしまっていたからだ。

 

「ぁ、か!?」

 

一瞬の早業だった。

何かがスバルの後頭部を掴んだ感触があり、強引に上を向かされた。そして、剥き出しになった喉を熱い感触が通り過ぎ、血が弾けた。

溢れる血と痛みに溺れながら、スバルは喉を裂かれたのだと理解する。

 

「がぶ……ッ」

 

首の傷を両手で押さえ、スバルは激痛と失血の中、打開策を探る。

傷は深く広く、重要な血管が切られて血が噴出している。脱いだ上着を首に巻いて止血を――否、まずこの場から、背後の敵から逃げることを優先しなくては。

それに、フロップがこの場にいる。疑って悪かった。そのあと信じ直しても、許してもらえないかもしれないが、この場に、フロップが。

 

「ぇ、む……」

 

宿にレムがいる。何とかして、首から血を流しながらでも彼女の下へ戻らなくては。

戻って、連れ出して、危ないから、手を引いて。嫌がられても、引っ張って。レムが生きててくれれば。生きてもらわないと。そのために、首の血を、止めて。

 

血を、血を、ちちちちちち、血を、止め、止めて、とめとめとめめめ――、

 

「――ぅ」

 

め。

 

△▼△▼△▼△

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

「――――」

 

「笑顔と余裕のないものの下には、幸運は訪れない。これから、旦那くんは自分たちの旅の同行者を探すんだろう?だったら、良縁を探さなくては」

 

正面、自分の眉間に指をぐりぐりと当てながら、フロップがそう力説する。

その彼の仕草を見ながら、スバルはとっさに自分の首に両手を当てた。熱い感触と、流れ出していく命の熱を感じない。鼓動のたび、噴出する血の感触を。

自分の命が流れ出し、『死』へと近付いていく絶望の拍動を。

 

「だったら、眉間の皺は消して……どうしたね、旦那くん、青ざめた顔をして」

 

黙りこくったスバルを見て、フロップが驚いたようにこちらを気遣ってくる。

彼のその真剣な眼差しが、スバルに直前の、喉を裂かれた瞬間のことを思い出させた。

 

そう、喉を切られた。

喉を切られ、血が噴出し、逃げなくてはならないと本能が警鐘を鳴らして、しかし、その警鐘すらも聞こえなくなって、この瞬間に戻ってきた。

つまり、死んだのだ。またしても『死に戻り』した。

それも、今度は最初の即死とは違う。もっと明確な、敵意を形にされて。

 

「……ぶはっ」

 

自分の喉に触れながら、スバルは忘れていた呼吸を慌てて思い出す。肩を上下しながら呼吸するスバルの肩に触れ、フロップが「大丈夫かい?」と言ってくれるが、それに応じる余裕がない。

ただ、この場に留まり続けることもできなかった。

 

「ふ、フロップさん、今日は、その、風水的にマズい日だ。いったん戻ろう……!」

 

「フースイ?しかし、その顔色では少し休んだ方が……」

 

「いや、休んでも無駄だ!レムに手を握ってもらわなきゃ収まらない発作なんだ!」

 

「そ、そうなのか……それは難儀だな!」

 

焦燥感と切迫感に心を焼かれて意味不明なことを口走ってしまったが、人の好いフロップは言葉の内容ではなく、雰囲気の方を重要視してくれたようだ。

肩を掴んだ手を逆に掴まれ、驚きながらも頷いてくれる。そのフロップの手を引いて、スバルは前後、どちらへ進むか判断に迷う。

 

前に進めばルート通り、しかし後ろへ進めば先ほど首を切られた側だ。

どちらへ進んでも命の危うい袋小路へ呑まれる気がして、スバルは前後のどちらでもない、別の路地を通って大通りへ戻ろうとする。

先ほどは失敗したが、相手も人目のあるところでスバルたちを――否、スバルを殺そうとはするまい。相手を警戒させるなら、大通りへ向かうのが急務だ。

 

「旦那くん!手がものすごく冷たいぞ!早く奥さんに温めてもらった方がいい!」

 

「ああ、一刻も早く、レムの顔が見たい」

 

その結果、目的を果たさず帰ったことを罵られても構わない。

とにかく、この場はレムの下へ――、

 

「――いや」

 

戻っていいのか、とスバルの脳裏に疑問が渦巻いた。

まだ、相手の正体が掴めていない状況で、レムの下へ戻ることの危険性を考える。相手がどこから自分たちを狙っていたのかわからないが、このまま宿へ戻れば、敵にまんまと拠点を教えることになるのではないか。

 

「――――」

 

自分の考え不足を呪い、スバルが唇を噛んだのと同時、視界が開ける。

路地を抜け、スバルとフロップは都市の大通りへと出ていた。左右、行き交う人の数は大都市と比べるべくもないが、隠れ家的酒場のある路地よりずっとマシだ。

とはいえ、人込みに飛び込むのは勇気がいる。それを避けつつ、次なる行動の指針を決めなくてはならない。

 

「通りのここということは、宿は向こうになるはずだ。では、そちらへ……」

 

「ダメだ、フロップさん!宿には戻れない。レムと会うなんて言語道断だ!」

 

「さっきと言っていることが違わないかい!?」

 

情緒不安定な人間そのものの言動になってしまっているが、先の懸念がスバルをレムの下へと戻らせない。かといって、フロップに情報を与えないまま振り回すのも不義理。

しかし、なんと言って彼を納得させればいいのか。

エミリア陣営の仲間や、長旅を共にしたアナスタシアやユリウスではないのだ。スバルの意見に真剣に耳を傾けさせるだけの、説得力や根拠がない。

これすらも、フロップの善性に期待を寄せるのは虫が良すぎる。

 

「クソ……!」

 

状況を打開するための手札が、今のスバルにはあまりにも足りない。

大事な存在であるレムと離れ離れの状態で、襲われている場所は見知らぬ街。一緒にいるのは善良だが、戦闘力のないフロップ。スバル自身、発揮できる強みがない。

誰に狙われているのかがわからなくては、警戒すべき相手もわからないのだ。

 

「まさか、狩人……!?」

 

目には見えない刺客、と相手のことを定義したとき、スバルの脳裏に最初に浮かび上がる可能性は『狩人』だ。

バドハイム密林で一度はスバルを殺害し、その後も一度、レムと一緒にいるところを狙ってきた危険人物。結局、あれ以降は一度も出くわしていなかったが、なおも周到にスバルを狙い続けていたとしたらどうだ。

 

バドハイム密林や帝国の陣地、『シュドラクの民』の集落では常に誰かしらがスバルと共に行動していた。戦闘力のある相手と構えるのを避けるため、スバルが非力なフロップといるタイミングで行動に移したのでは。

 

「だとしたら、まるで獲物を横取りされた熊みたいな執着心だ。なんで、ここまで俺を狙ってくる?俺の何が理由で……」

 

「旦那くん?大丈夫か?いったい何に思い悩んでいる?僕が力になれることであれば、まず話してみるといい。様子が変だぞ」

 

「フロップさん……」

 

通りの左右を窺いながら、神経をすり減らすスバルにフロップがそう声をかける。

真正面から両肩を掴んだフロップ、その真剣な眼差しと縋りたくなる申し出に、スバルはいっそ彼の善性に賭けてみるべきか真面目に考慮する。

フロップであれば、あるいはスバルを信じて力を貸してくれるかもしれない。

 

「フロップさん、頼りっ放しで情けねぇんだが、聞いてもらっていいか?」

 

「ああ、もちろんだとも!なあに、僕で力になれないことでも、妹ならば力になれるかもしれない。僕と妹は互いの弱点を補い合っている関係だからね」

 

「実際、どっちかっていうとミディアムさん案件かもしれねぇんだけども……」

 

相手が容赦のない暴力をぶつけてくるのなら、より強い力をぶつけるしかないのかもしれない。スバルやフロップより明確に強い、ミディアムの力を。

それも含めて、スバルはフロップに事情を説明しようとする。まず、『死に戻り』のことを伏せつつ、誰かが自分を執拗に狙っていると。

 

「実は誰かが俺たちを追って……」

 

「――なんだ?」

 

「え?」

 

意を決し、スバルは『死に戻り』のペナルティに触れないよう、注意しながら事情をフロップに説明しようとする。

しかし、いざ話し始めた途端、フロップの視線が明後日の方向を向いた。彼は形のいい眉を寄せ、目を細めて通りの方を見ている。

何かに気付いたらしい彼の反応に、スバルも遅れて同じものに気付く。

 

「――っ」

 

遠く、誰かが悲鳴を上げているのだ。

それも一人ではなく、複数の人が悲鳴や怒号、大きな声を上げている。そして、その声は徐々に切迫感と、悲鳴とは異なる音を乗算して――、

 

「な――っ!?」

 

目を見開いたフロップの喉が詰まり、スバルも同じ方に振り向く。

直後、フロップが何を見たのか、同じ光景を目にしてスバルも絶句した。

 

――巨大な車輪が、スバルとフロップ目掛けて迫りくるところだったのだ。

 

「旦那くん、あぶな――」

 

い、とフロップの声が言い切るより早く、衝撃がスバルの全身を強烈に呑み込む。体が大きく吹き飛ばされ、硬い土の上を幾度も跳ねて転がった。

勢いは止まらず、壁に激突する。だが、それで終わらない。――続けざま、倒れるスバルへと重なる衝撃が襲いかかり、再び体が吹っ飛んだ。

 

「――ぁ、く」

 

もんどりうって転がり、地面に寝転がりながらスバルの視界が黒く染まる。

急に空が曇ったわけではない。もっと他の、異なる理由が視界を潰したのだ。その原因はわからないし、真相を突き止めても碌なことにならないとわかる。

ただ、言えることがあるとすれば――、

 

「し、し……」

 

死ぬ、と全身の細胞がスバルの本能に訴えかけていることだ。

これまで、三十回以上の『死』を経験してきたナツキ・スバルには、自分の肉体がどこまでのダメージを受ければ命を取り落とすか、何となくわかっている。

今回は、食い縛れる限界を明らかにオーバーしていた。

 

「――――」

 

じくじくと、痛む。

だが、それは体のどこが痛むとかいう次元の話ではなかった。痛むのは、全身だ。スバルという存在が、『痛み』という現象と同化している。

どこが痛むのではない。ナツキ・スバルこそが『痛み』なのだ。『痛み』なのだから痛いのは当然のことだ。どこもかしこも、痛い。痛みは、消えない。

 

遠く、頭の中に鳴り響いている耳鳴りや、汽車の汽笛のような音。

それに紛れて聞こえてくるのは、飛び交う人々の悲喜こもごも――否、喜びはない。阿鼻叫喚の方が適切だ。阿鼻叫喚、笑える。なんて四字熟語なのか。

音の響きに反して、起きている出来事が重くて硬すぎる。

 

「あひ、おう、あ……」

 

発音ができない。

言葉を発しようとした口がズタズタだ。歯がなくなり、口の風通しがいい。どこかが裂けて空気が漏れている。血と、音と、『痛み』がある。

何かが、何かが、何かが――、

 

「あぃ、あ」

 

何かが、またナツキ・スバルを殺したのだ。

 

△▼△▼△▼△

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

「――――」

 

「笑顔と余裕のないものの下には、幸運は訪れない。これから、旦那くんは自分たちの旅の同行者を探すんだろう?だったら、良縁を探さなくては」

 

自分の眉間に指を当てて、ぐりぐりと皮と肉をほぐすフロップ。

その彼のパフォーマンスを目の当たりにしながら、スバルは自分の両肩を抱いた。そして、空気漏れしない口と、掻き消えた『痛み』について思いを馳せる。

――また、死んだのだと。

 

「しかも……しかも今度は、あれは、竜車、か……?」

 

衝撃に噛み砕かれ、吹き飛んで動けなくなり、細くなるに任せて消えた命の蝋燭。

全身が訴える『痛み』に支配されたまま、スバルは殺された。命を落とした。

 

「――――」

 

がくがくと、掴んだ両肩が震え、膝が笑い始める。

我が身に降りかかった災難を体が覚えていなくても、魂が覚えている。全身が引き裂かれるような衝撃と痛みが、掻き消えた今も魂を蝕んでいた。

 

いよいよ、スバルは自分の身に降りかかる凶気に怖気を隠せない。

最初の即死、二度目の首切り、そして三度目の竜車による轢死――いずれも偶然ではありえない。紛れもなく、ナツキ・スバルを殺す意思だ。

それが、容赦なくスバルを殺した。そして最も恐ろしいのは、三度も『死に戻り』したにも拘らず、未だスバルは『敵がいる』以上の情報を得ていない。

相手は死亡するスバルに、情報を何一つ残さないのだ。

 

「だったら、眉間の皺は消して……どうした、旦那くん。ひどい顔色だぞ」

 

「フロップ、さん……」

 

またしても、スバルの顔色の変化を気遣ってくれるフロップ。

直前の、大通りの狂乱は竜車が暴走したことへの反応だったのだろう。そして、激突の瞬間、フロップはスバルを助けようと手を伸ばしていた。

間に合わず、スバルは死ぬほどの衝撃を受けたが、傍らにいたフロップが無事だったとはとても思えない。――彼も、あの被害に巻き込まれたはずだ。

 

「そもそも、これまでだって……」

 

敵が、スバルを殺してそれで満足して引き上げるとは限らない。

一回目と二回目、どちらの現場もフロップは目撃している。相手が慎重な人物なら、目撃者であるフロップの口を封じるのが自然な成り行きだ。

つまりこれまでも、スバルの死と合わせてフロップは殺されているのではないか。

すでにフロップは、スバルの置かれた状況に巻き込まれてしまったのでは。

それは許されないと、スバルは奥歯を噛みしめた。

 

「――っ!フロップさん!」

 

「な、なんだね!?」

 

噛みしめた奥歯で臆病を噛み殺し、スバルは強く前を向いた。

そして、その意気込みのままにフロップの手を掴み、彼を大いに驚かせる。だが、フロップの驚きに斟酌する余裕はない。

これまでのことを考えるなら、すでに死へのカウントダウンは始まっている。

 

行くも地獄、戻るも地獄、避けるの地獄の三重苦。

だとしても、生存への道を探らなくてはならない。――スバルとレムだけではなく、手助けしてくれた善良な兄を、妹の下へ返さなくては。

だから――、

 

「――フロップさん、走ろう!」

 

「急な話だな!?どうしたんだ!?」

 

「どうもこうもない、人生は限られてるんだ!一秒も無駄にできないだろ!」

 

足を止め、懇々と説得するのはここでは悪手だ。

スバルはそう判断し、これまで同様、強引な理屈でフロップの抵抗を崩しにかかる。案の定、勢いに呑まれたフロップは「それは確かに!」と頷く。

 

「人生は短い。僕や妹の目標を達するためにも、時間は大事にすべきだが……」

 

「走ろう!すぐに酒場に駆け込むんだ!細かいことは後回しでいい!」

 

「わ、わかった!わかったから引っ張らないでくれたまえ!前髪が乱れる!」

 

無理やり腕を引っ張られ、足のもつれるフロップが悲鳴を上げる。

そのフロップの悲鳴のような声を聞きながら、スバルは一度は通った道を前進――当初の目的通り、護衛を雇うために酒場へと急ぐ。

ただし、目的は旅の道程の護衛をしてもらうためではない。

 

この、どうしようもない『死』の連続から救い出してもらうため、今すぐにでも必要な助力を得るために、走るのだ。

 

△▼△▼△▼△

 

「――ここで一番の腕利きを雇いたい?」

 

ようやく辿り着いた酒場の主は、息せき切って問い詰めたスバルに眉を上げた。

髪に白いものが目立ち始めた壮年の店主は、肩を上下させるスバルを上から下まで眺めて、どことなく胡散臭いものを見るような目をする。

スバルも、自分の姿かたちや年齢が、相手への説得力に欠ける自覚はあった。ましてや酒場に飛び込んでくるなり、いきなりこんな話を持ちかけたのだ。

冷やかしだと判断されなかっただけ、有情と言えるのかもしれない。

 

現在、スバルとフロップは元々の目的地だった酒場の店内にいた。

最初は酒場を目前とした路地で、何らかの方法で即死させられたスバル。それだけにかなりの不安があったが、道を急いだのが功を奏したのか、足を止めずに酒場へ駆け込んだスバルたちを止める魔の手は現れなかった。

ただ、それを理由に窮地を逃れたと判断するのは早計もいいところだろう。

 

「だから、腕利きの力を借りなきゃいけないんだ」

 

「……ここらで一番の腕利きっていや、ロウアンのことだろうよ」

 

息を整えながら、重ねて問いかけるスバルに店主が肩をすくめる。そして、店主はスバルの隣、同じように息を弾ませているフロップの方に目をやった。

 

「フロップ、お前はお前で久々に顔見せたと思ったら、また人助けか。どうせお前さんには一文にもならんのだろうに」

 

「僕はしたいと思った取引をしているだけさ。取引相手は人だけに留まらない。時には世界そのものに対して、釣り合わない取引を持ちかけることもある」

 

「それを得がないって言うんだよ、お人好し」

 

店主とは馴染みの間柄なのか、彼はフロップの行いを呆れながらそう評する。

フロップがスバルたちを助けてくれた理由は直接聞いたものの、どうやら彼を知るものにとってはその善良さは周知の事実であったらしい。

店主はグラスを拭きながら、じろりと鋭い視線をスバルへ向けて、

 

「聞いての通りのお人好しだ。だが、あまり都合よく考えるなよ?この馬鹿と妹は誰彼構わず助けるお人好しだが、その分、こいつらに恩のある奴は多い」

 

「……俺も、恩知らずになるつもりはねぇよ。甘えた分は甘やかすつもりだ」

 

「ははは、それはそれは楽しみにしておこう!甘やかされるその日をね!」

 

乱れた前髪を懐から出した櫛で直しつつ、フロップはあけすけな答えを返す。

そのフロップの大らかさと器に救われながら、スバルは店内に振り向いて、「誰がロウアンだ?」と尋ねた。

 

「ああ、ロウアンならそこの、端っこで潰れてるのがそうだよ」

 

「端で潰れてる……?あんまり聞きたくない表現なんだが」

 

言いながら、スバルがおずおずと店主の指差した方を見る。すると、薄暗い店内、複数の男たちが管を巻く中、端のテーブル席で突っ伏している男を見つけた。

長いざんばらの髪を適当に括り、腰に得物――刀を差した五十がらみの男だ。

彼の突っ伏したテーブルには空いたグラスがいくつも並んでおり、まだ明るいうちからずいぶんと派手に飲んだのだとわかる。

 

「……あれが腕利き、なのか?」

 

「酒癖が悪いのは間違いないが、腕は立つ。酒癖は悪いがな」

 

「二回言われると、不安しか立ち込めてこねぇ」

 

酒場の店主に酒癖が悪いと、二度も重ねて注意を受けたのだ。

よほどの酔客と考えられるが、背に腹は代えられない。今、必要なのは人間性や肝臓の強さではなく、腕っ節が立つこと。

差し迫ったスバルの窮地を救うだけの実力があることなのだから。

 

「なぁ、ロウアンさん、ちょっと話を聞いてくれないか」

 

「んあ?」

 

フロップを伴い、スバルは意を決してロウアンの突っ伏すテーブルへ。潰れた男の肩を揺すって声をかけると、間抜けな声で応じるロウアンが顔を上げた。

赤ら顔にとろんと眠たげな目つき、それなりに見れるはずの顔立ちが、すっかりと赤くなった鼻に台無しにされている。

 

「なんでえ、兄さん。某に何の御用でございぃ……?」

 

「べろべろじゃねぇか……とにかく聞いてくれ。あんたに仕事を……酒くさっ!!」

 

「おいおい、失礼な奴らなぁ……」

 

ふらふらと体を起こし、長い息を吐いたロウアンにスバルは顔を背ける。

凄まじい酒の臭気が漂い、視界が歪んだようにすら錯覚した。昼間から飲んでいるどころの話ではない。大酒飲みにも限度があるだろう。

 

「そういや、身近に大酒を飲むって奴がいなかったから、この手合いは初めてだ……ロズワールとかオットーも、嗜むぐらいしか飲まねぇし……」

 

エミリア陣営で飲酒の習慣があるのは、ロズワールとオットー。それにラムとフレデリカが付き合いで飲む程度のもので、それ以外は酒を飲まない。

スバルも、異世界では飲んでもいい年齢らしいのだが、何となく飲もうと思わないまま今日に至っている。

 

「だから正直、酔っ払いにはいい印象がないんだが……おい、本当にこの人が一番の腕利きなんだよな!?こっちは遊びじゃないんだ」

 

「奇遇だな。俺も遊びで店を開いてるわけじゃない。間違いなくそいつだよ」

 

「クソ、本気かよ……」

 

改めて店主の保証があって、スバルは苦々しい顔でロウアンに向き直る、

ロウアンはだらしなく椅子に座ったまま、空になったグラスを顔の上で逆さに振り、滴る酒の雫を何とか舌で味わおうとしていた。

 

「ちっ、酒が足りねえや。おい、兄さんら、一杯奢ってくれよぉ」

 

「む、酒が欲しいのか。わかった。店主、彼に酒を一杯……」

 

「待ってくれ待ってくれ、フロップさん!あんたの優しさに救われてる俺が言うのもなんだけど、ちょっと今は善意を財布にしまってくれ!」

 

求められるままに酒を奢りそうだったフロップを黙らせ、スバルは唇を尖らせているロウアンの正面へ。そして、強くテーブルに手をついて、

 

「ロウアンさん、単刀直入でいこう。俺たちはあんたに酒は奢らない。ただ、あんたが酒を買うための報酬を支払える。仕事を引き受けてほしいんだ」

 

「ああん、仕事らとぉ……?」

 

「そうだ。頼みたいのは護衛だ。それも、今この瞬間から」

 

酒の臭気を間近にしながら、スバルは堂々とそう条件を提示する。

その話を聞いて、ロウアンは眠たげな目のまま、じっとスバルを見つめ返した。

 

「……やけに語気が荒い。兄さんたち、さては結構危うい立場かぁ?」

 

「ああ、笑い事じゃなくな。どうだ?払えるのは、これが限度額いっぱいだが」

 

「旦那くん、それは……」

 

目を丸くして、フロップがスバルの行動を止めようとする。しかし、制止するフロップを逆に引き止め、スバルはテーブルの上に袋――『魔獣の角』を売り、手に入った金子の全部が入ったものをドンと置く。

 

用心のため、レムにいくらか分けて渡していたりしない。

これは正真正銘、スバルたち一行が持ち合わせている全財産だ。支払える金額は、これ以上にはならない。

 

「おいおい、こいつは……」

 

「こいつが、俺の支払える手札だ。どうだ、引き受けてくれるか?」

 

「――――」

 

袋の口を開け、中をちらっと確認したロウアンが黙り込む。相変わらずの赤ら顔ではあるが、直前の酒にやられた目つきは消え、真剣な吟味が窺えた。

もちろん、酒場で雇える護衛――傭兵紛いの仕事をしているロウアンに、スバルが持ち歩く全財産を見せるのはかなりの賭けだ。

国境を跨いだ現状、帝国の物価にさほど詳しいわけではないが、ルグニカ王国と貨幣価値に大きな差は感じられない。

スバルが差し出した金額があれば、容易に一年は遊んで暮らせるはずだ。

 

「某の腕は高い……と言おうと思ったところが、初手でこれとあっちゃなぁ」

 

「言っとくが、賃上げ交渉には応じられないぜ」

 

「疑っちゃいない。遊びじゃないって話も、本気らしい」

 

赤くなった鼻を指でこすり、ゆっくりとロウアンがその場に立ち上がった。彼はスバルの出した金貨袋を拾い上げ、そっと自分の懐に仕舞い込む。

 

「返せと言われても、返せやしねえぜ?」

 

「惜しいけど、返せとは言わない。ちゃんと仕事をしてくれたら」

 

「ふはっ」

 

酒臭い息で笑い、ロウアンがスバルの仕事を引き受ける。

その答えを聞いて、スバルはずっと肩に入りっ放しだった力が抜けた。緊張が解けず、延々と不安が胸中を支配していたが――、

 

「旦那くん、よかったのかい?あのお金は……」

 

「いいんだ。今、この瞬間の安全には代えられない。フロップさんを驚かせたのはごめんなさいなのと、紹介してくれてありがとうございます」

 

「――。君がいいと言うなら僕はいいさ。幸い、宿代は先に支払っているしね!」

 

宿代に関しては、同部屋となったフロップとミディアムの分も、スバルたち持ちという形ですでに支払いが済んでいる。

後先考えずにロウアンを雇い、宿代を肩代わりしてもらう不義理はしない形だ。

 

「それで、雇い主殿。まだ某はそちらの名前もお伺いしてませんが?」

 

「あ、そうか。悪い。つい、急いでたから。俺の名前は――」

 

「――待て」

 

名前を聞かれて、さっそくロウアンに不義理を働いていたとスバルは慌てる。それから名前を名乗り直そうとしたところへ、ロウアンが待ったをかけた。

彼はスバルの顔の前に手を突き付け、鋭い視線をこちらの背後――酒場の窓の方へと向けていた。

 

「ロウアン、さん?」

 

「……妙な気配だ。さては兄さん、つけられてやがったな?」

 

「――っ」

 

低く、潜めたロウアンの声にスバルは息を呑む。

隣でフロップが「どういうことだ?」と困惑しているが、ロウアンの気付いた気配の存在にスバルだけは心当たりがあった。

まさかではなく、やはりというべきだろう。ロウアンが感じ取った妙な気配、スバルをつけてきた存在というのは、路地でスバルを襲った敵だ。

三度、スバルを殺害した敵は、今回もスバルを諦めてなどいなかった。

 

「いったい、誰に追われてる?」

 

「……冗談抜きに、相手はわからない。ただ、外にいたら仕掛けてくると思った。だから急いであんたを雇ったんだよ」

 

「なるほどなぁ。もうちょっと吹っ掛けてもよかったかもしれんわけだ」

 

逆さにしても振る袖がないのが実情だが、ロウアンは軽い調子でそう言った。

しかし、ロウアンの口調には微かな緊張と真剣味はあっても、不安はない。それは自分の技量に相応の自信があることの表れだろう。

実際、瞳から酒気の薄れたロウアンの佇まいは、強者特有のそれが感じられた。

 

「――――」

 

ロウアンの得物は、その左腰に差している一振りの刀だ。

今さらだが、刀剣として刀を目にする機会は異世界では珍しい。基本は西洋剣が目立つ中で、ロウアンのそれは明確な異質さだった。

よくよく見れば、ざんばら髪の雰囲気も相まって、ロウアンの姿かたちはどことなく侍を思わせる。ただ、精悍さに欠けるので浪人がいいところだろうが。

 

「ロウアンさん、相手は……」

 

「ビクビクする必要はねえさ。相手が何者だろうと、某の正面に立つなら真っ二つにするのみ。酒も入って、某の剣は絶好調だ」

 

「酔拳ならぬ酔剣ってか?聞いたことねぇよ」

 

しかし、それがハッタリとも聞こえず、スバルはロウアンの自信を信じる。

彼が睨みつける窓と反対へ回り、状況が呑み込めていないフロップの袖を引いた。

 

「フロップさん、ロウアンさんに任せよう」

 

「任せるも何も、僕は状況がよくわかっていないのだがね!旦那くんと護衛くんは、いったい何と戦っているんだ?」

 

「それは俺も――」

 

よくわかっていない、とフロップの不安を掻き立てるだけの答えを返そうとしたところで、それより早く状況が動いた。

ただし、相手が真っ向から乗り込んできたり、迎え撃つためにロウアンが外へ飛び出していったりといった展開ではない。

 

「ぶべっ……」

 

そう、苦鳴をこぼしながら、酒場の入口を潜って大柄な男が店内に倒れ込んだのだ。

その突然の出来事に、スバルは文字通り飛び跳ねるほど驚く。しかし、店内の他の面々はそれを見ても、見慣れているとばかりに淡々とした反応だ。

 

ロウアン以外の酔客――おそらく、彼らも傭兵じみた活動をしているのだろうが、そんな彼らは小さな反応で倒れる男を眺めるばかり。

倒れた男に駆け寄ろうとしたのは、フロップと酒場の店主だけだった。

もっとも、男を心配したのはフロップだけで、店主は床が汚れるのを嫌がる様子がありありと顔に表れていたが。

 

「おい、君!大丈夫か、しっかりしたまえ!」

 

「ふ、ふが、ふが……」

 

「ふがふが!?それが君の名前なのか?しっかりしたまえ、フガフガくん!」

 

「い、いや、フロップさん、その人は……」

 

倒れた男を抱き起こそうとするフロップだが、男の受け答えは呻き声であって、折り目正しく初対面の相手に名乗ったわけではあるまい。

それに加え、この状況で酒場へ乗り込んでくる男というのは――、

 

「ふが……」

 

「――っ!フロップさん!離れろ!」

 

うつ伏せに倒れた男が、屈み込んだフロップの腕を掴んで体を起こそうとした。

瞬間、嫌な予感がしたスバルはフロップを後ろへ引き倒し、男から遠ざける。

 

――その直後だ。

 

「――ッッ!」

 

ふがふがと、呻いていた男の体が膨張し、刹那、真っ赤に光り輝く。

そして、膨張した男の体が破裂し、凄まじい爆発が店内を荒れ狂う。

 

「ぐあ――っ!?」

 

悲鳴が店内に木霊し、真っ赤な光があちこちへ乗り移る。すぐ、それが燃え広がる炎であり、吹き飛んだ男の体が人間爆弾だったのだと合点がいった。

 

「フロップさん!」

 

「ぶ、無事だ、旦那くん!だが、これは……」

 

爆風で揉み合ったスバルとフロップは、阿鼻叫喚となる店内の様子に目を見張る。

男の体が吹き飛んだカラクリは、おそらく火の魔石を持たされていたためだ。――あの苦しみ方を見ると、火の魔石は男の体内にあったのかもしれない。

それが爆発し、火があちこちに燃え移った。しかも、それだけではなく――、

 

「げほっ!な、なんだこりゃ!?目が、目がぁぁぁ!」

 

炎が溢れ返る中、店内の騒ぎに巻き込まれた酔客の一人が顔を覆って叫んだ。見れば、叫び声を上げているのは彼だけでなく、周りの男たちもそうだ。

消し飛び、爆心地となった店の中央、そこからたなびく煙を浴びた男たちが、その目や鼻を覆い、凄まじい苦痛を味わった絶叫を上げている。

そして――、

 

「み、店の中にいたらダメだ!全員、早く外に出ろ!」

 

「ま――」

 

おびただしい涙を流す男が叫び、顔を覆った男たちが一斉に入口へ殺到する。その押し合う男たちを見て、スバルはとっさに制止の声を上げようとした。

爆発した男と、その後の痛みを伴う煙。そのどちらも、店内の混乱を助長し、店外へ逃げるのを誘導しているように感じられたからだ。

しかし、スバルが必死に声を上げたところで、痛みに背中を押される男たちの足を止めることはできない。

その結果――、

 

「――ッ!?」

 

二つ目の爆発が発生し、入口に殺到した男たちがまとめて吹き飛ばされる。

二度目のそれは一度目の爆発よりも大きく、巻き込んだ男たちは互いを庇い合うこともできないまま、爆炎に正面から焼かれ、黒焦げになった。

 

その爆熱と爆風が押し寄せ、スバルは凄惨な現場に硬直してしまう。

次から次へと起こる悪夢のような光景、それが現実のものと思えなくて。

 

「こん、な……」

 

「しっかりしろい、雇い主!ここで倒れられちゃ、某も困るんだよ!」

 

「――っ」

 

硬直し、呆然とするスバルの襟首が掴まれ、無理やり引き起こされる。スバルをそうしたのは、顔を服の袖で覆っているロウアンだ。

彼は男たちを苦しめた煙を吸わないよう、姿勢を低くしろと手で示し、

 

「店長!裏口から出るぞ!正面は見張られてる!」

 

「わ、わかった!こっちだ……!」

 

ロウアンの指示を聞いて、額から血を流した店主が素直に頷く。

そのまま、床を這うように移動する店主の後ろを手で示し、ロウアンが「いけ!」とスバルの背中を叩いた。

 

「雇い主と、そっちの兄さんも!死にたくなきゃ、今すぐ動け!」

 

「し、死ぬわけにはいかないとも!まだ、僕も妹も道の途上だ……!」

 

「クソ……!」

 

ロウアンの叱咤を受け、スバルとフロップも先をゆく店主の後ろを追った。追いかけながら、スバルの頭は混乱と、自分と敵への怒りでいっぱいになっていた。

これだけの所業を重ねた敵への怒りはもちろんある。だが、敵がいるとわかっていながら、その危険度を見誤った自分にもスバルは怒りを覚えていた。

 

そもそも敵は、大通りで竜車を暴走させるような真似をしたのだ。

あれだって、相当数の人間が巻き込まれていたはずだ。ならば、周囲の被害を顧みない手合いであると、もっと真剣に考えるべきだった。

そのせいで、酒場にいただけの男たちが巻き込まれて――、

 

「――!裏口が開かない!」

 

自分を責めるスバルの前、先に裏口へ到達した店主が悲鳴を上げる。

彼は扉を開けようと必死だが、肝心の扉がその呼びかけに答えようとしないのだ。爆発の被害が扉を歪めたのか、あるいは――、

 

「マズいぞ!正面の入口は潰れてしまっている!このままでは……」

 

「ええい、どいてろい!このぐらいの扉――」

 

赤い炎が勢いを増す店内、黒い煙に呑まれかける状況で、フロップの叫びを塗り潰すようにロウアンが飛び出した。そして彼は腰の刀に手をかけると、開かない扉へと向けて勢いよく刀を抜き放ち、一閃――、

 

「――ぉ」

 

走った銀色の光が、閉ざされた扉を一刀の下に切り捨てた。

それは、スバルの知る居合に近い剣技。思わず見惚れるほどの一刀を放ちながら、しかしロウアンはそれを誇らず、扉の残りを蹴破る。

 

「ようし!開いたぞ!全員、姿勢を低くしろい!」

 

閉じた裏口を開放し、ロウアンが後ろのスバルたちへそう叫ぶ。

広がる混乱はとんでもないものだったが、燃える酒場という絶体絶命の状況から、ひとまず逃れることはできそうだ。

ロウアンの戦況判断と技量が確かなこともわかった。あとは、すぐにこの場を離れて、この凶気の相手を――、

 

「――――」

 

そこでふと、スバルは息を詰めた。

何かが引っかかったのだ。――この、周到で容赦のない敵の考えを予測する。

 

人間爆弾と化した男を店内に放り込み、刺激物を孕んだ煙で店内の人間を誘き出し、入口に仕掛けた魔石で一気に吹き飛ばす。

そして入口を塞ぎ、裏口も何らかの方法で封鎖。その封鎖を突破して、スバルたちは裏口から逃れるわけだが――、

 

「ロウアンさ――」

 

おかしいと、そうスバルはわずかな違和感を口にしようとした。

周到な相手であれば、攻撃の手を緩めることなどありえないのではないかと。その違和感を伝えるべく、スバルはロウアンを呼んだ。返事はなかった。

 

「――――」

 

ぐらっと、裏口から身を乗り出したロウアンの体が後ろへ傾いて、倒れる。

スバルとフロップ、店主が唖然と、倒れたロウアンを見た。そのロウアンの頭が、額から上が潰れ、押し出された眼球が垂れ下がっていた。

誰が見ても、頭を潰されてロウアンは死んでいた。

 

「ひ」

 

壮絶な死に様を見て、店主が目を見開き、絶叫しようとした。

だが、それもできなかった。炎の向こうから振るわれた一撃が、大きく息を吸った店主の胸に突き刺さり、その上半身を容赦なくひっぺがす。胸が強引にめくられ、内側の骨や内臓をばらまいて転がった店主が、炎の中にゴロゴロと転がった。

すぐに肉の焼ける臭いがするが、店主の悲鳴は上がらない。即死だ。

 

「――――」

 

立ち込める黒煙、炎の向こうからゆっくりと何かが姿を見せる。

切り裂かれ、蹴破られた扉を乗り越えて姿を見せたのは、その顔に濡らした布を巻きつけた男の人影だった。

男はその手に長柄の斧を握りしめており、それがロウアンの頭を砕き、店主を即死させたのだとスバルは理解する。だが、理解はそこまでだ。

 

「き、君はいったい、何者なんだ。どうしてこんなことを」

 

愕然と、動けないスバルの隣で、同じようにロウアンと店主の死を見届けたフロップが声を震わせる。彼は恐怖に呑まれながら、真剣な目で炎の中の人影を睨んでいた。

容赦なく、次々と酒場の人間を惨殺した悪しき輩を憎むように。

だが――、

 

「こんなことが許されると――ぉ」

 

「――――」

 

毅然と、その悪事を糾弾しようとしたフロップの頭が、男の斧の直撃を受ける。

刃を立てず、峰で殴るなんて無意味なことをしない。刃を立て、男はフロップの長い前髪のかかった額を打ち据え、その中身を外へぶちまけた。

 

脳漿が飛び散り、血の赤を炎の赤に混じらせながら、フロップが死んだ。

耳障りな水音を立てて、フロップの体が崩れ落ちる。じわじわと流れる血が、床にへたり込んだスバルの尻を汚していく。――否、スバルのズボンは、すでにもっと違うもので汚れていた。恐怖に、失禁する。

 

炎の中、血濡れの斧を下げた男の恐ろしい姿に、スバルは恐怖した。

その執念に、執拗さに、恐ろしさに、魂が震える。

 

「なん、で……」

 

それは、ひどく間抜けな問いかけだった。

同じような問いかけをしたフロップが容赦なく殺された。当然、スバルにだけ男が慈悲をかける理由なんてない。スバルも死ぬ。殺される。

後ずさる力も、這いずる勇気もない。今、目を男から離せない。

 

男を見ているのが怖くても、目を離すことも怖くてそれができない。

 

「なんで……なんで!」

 

ただ、馬鹿の一つ覚えのように、スバルは必死でそう叫んだ。

その叫び声を聞いても、男は何も答えない。顔を隠したまま、ゆっくりとその斧を持ち上げて、へたり込むスバルの頭上に真っ直ぐ掲げた。

そして――、

 

「なんでぇ!」

 

「――お前さんにゃ何も教えないぜ?また逃げられたら困るだろ?」

 

と、血を吐くようなスバルの絶叫に、最後に男が応じる。

その、当然のことを告げるような声音と声の調子を聞いて、スバルは息を詰めた。

その声を、どこかで聞いたものと照合しようとして。

 

「ぶ」

 

それより早く、振り下ろされる斧の一撃がスバルの頭蓋を割った。

小さな硬い音が、した。

 

した。