『絶縁状にサインを』
――星の名前から連想される『強欲』の権能、『無敵化』の正体。
スバルの知識の中にある星の名前と、大罪司教たちの名前の関連性。
ベテルギウスの呼び名の語源でもある『ジャウザーの手』は、狂人ペテルギウス・ロマネコンティの『見えざる手』と符合する部分が多い。
故にスバルは星の異名と、大罪司教の権能には密接な関わりがあると考えた。
そして『強欲』の大罪司教レグルス・コルニアス。その名であるレグルスはしし座を意味し、語源はラテン語の『小さな王』と――『獅子の心臓』である。
一度は一笑に付した考えであったが、スバルはこれが無意味な考察ではないとさらに発想を転換し、一つの仮説に結びつくに至った。
そもそも、『王』とはなんであるか。
現在のルグニカ王国では王選の真っ最中であり、候補者たちがそれぞれに己の『王道』を示さんと奮起している。各人の『王道』の在り方はいずれ、明白な形で示されるだろうが、ここでスバルが話題に挙げたいのはもっと普遍的な意味の『王』だ。
すなわち『王』とは国の代表であり、国家の頂点に立つもの。
言葉を選ばなければ国そのものといってもいいかもしれないが、ならばその存在単体で国が成り立つかといえばそうではない。
国家とは『王』と、それに従う『国民』がいてこそ国家たり得る。
その認識に沿って考えるのであれば、『小さな王』の名を戴くレグルス・コルニアスもまた、『国民』の存在があって自らを『王』と称せる器であろう。
「なら、レグルスを王様とした、『小さな王国』の『国民』ってどこの誰だ?」
考えるまでもない。
魔女教徒を引き連れることなく、都市プリステラに襲撃を仕掛けた大罪司教。
それぞれ単独でも、目を背けたくなるほど歪んだ悪意を孕んだ魔人揃いだが、わざわざ不必要な人員をぞろぞろと連れてきたのはレグルスただ一人。
なぜそうする必要があったのか。
レグルスの性格を鑑みれば、単純な自己顕示欲である可能性も捨てきれないが、もしもそうではなく、そうしなくてはならなかったのだとすれば。
「レグルスを『小さな王』にするためには、『国民』である奥さん連中が必要だったんだ。距離が関係あるのかどうかは知らねぇが、その縛りがあるからレグルスは五十人も花嫁を連れてこなきゃならなかった」
『無敵化』の条件は花嫁の人数か、それとも花嫁との距離か。
レグルスが『小さな王』であることが条件ならば、彼の『権力』のようなものが届く範囲、そういったものに限定されるのかもしれない。
いずれにせよ、レグルスを『無敵』たらしめるのに花嫁たちは無関係ではない。
「でも、それだけじゃまだ種明かしにはちょっと足りない」
今のスバルの推論で明かせるのは、あくまで『小さな王』の部分だけだ。
もう一つの異名である『獅子の心臓』が明かされていないし、『無敵化』に伴う圧倒的な攻防力とは別に、外部からの影響を受けない効果が説明できない。
単純な肉体の強化ならば、ラインハルトに突破できないはずがないのだ。レグルスの『無敵化』は、明らかにそういった強化の次元を超越している。
「超強力なバリアーとも違う。考えられる『無敵』な敵の破り方は一通り試した。それから、心臓が動いてないことと、体温がないことは確かめた。なら――」
『獅子の心臓』の異名から連想される、最後のピースは一つだけ。
レグルスの『強欲』の権能は『無敵化』ではない。
凶人の圧倒的な権能の正体は、『物体の時間の静止』だ。
満たされている、満足している、欠落していない。
事あるごとに口走ったレグルスの歪んだ自論、それは奴の在り方そのものであったが、同時に隠す必要のない自らの能力の暴露でもあったのだ。
「肉体の時間が止まってるから、攻撃どころか水に濡れることもない。投げた砂の時間が止まってるから、壁に弾かれることもなく突き抜けるみたいに素通りする」
漫画ではお馴染みの異能に、『空間の断裂』のような力がある。
文字通り空間そのものに亀裂を生じさせ、そこを通過するものの強度を問わずに切断する、といった力だが、レグルスは存在そのものがある種のそれだ。
時間の止まったレグルス・コルニアスは、空間の歪みそのものといっていい。
次元が違うとはまさに奴の言葉通り――『無敵化』は『物体の時間静止』という権能の副産物でしかない。
つまり――、
「――凍れる時の秘宝、それがお前の権能の正体だ!」
「意気込んで言われてもさぁ、知らないよそんなの!君ってアレかな?自分の知ってることは周りもみんな知ってるに違いないって思い込むタイプかな?傲慢にも程があるって自覚しろよ、わがまま野郎がさぁ!」
石壁に背を預けて、身を隠しながら声を上げるスバルにレグルスが吠える。
壁を突き破り、水路を突っ切り、街並みを文字通り横切ることをなんら躊躇わない破壊的行軍――その果てに、レグルスはスバルに追いついてきた。
スバルはそれを今、単独で迎え撃っている。もっとも、迎え撃つという言葉から想像できるほど、格好のいい立ち回りではないのは事実だが。
「ちょこまかとウザったいんだよ、お前。逃げ回るのをやめればいい度胸だ、なんて言うとでも思ったのか?僕とお前じゃ話にならない。剣聖が吹っ飛んだのを見てたくせに、そんなこともわかんないのかなぁ?どう考えても!それは僕を舐めてるってそういうことだよなぁ!?」
「嫌いな相手のやることは、良かれ悪しかれ何してもムカつくもんだろ。俺が逃げてても難癖つけられる未来しか見えねぇよ。それに……この選択が正解のはずだ」
「何が正解だよ。人選も戦略も全部が全部!ひん曲がってるとしか言いようがない結果じゃないか。まだ戦える、あの浮気女が残った方がマシだったはずだろ?間男の君に、人の花嫁を寝取る以外の芸当があるっていうのかなぁ?」
「ひでぇ言われようだ」
粘つくようなレグルスの舌鋒を浴びながら、スバルはしかし焦らない。
焦らず、急がず、嫌悪感は垂れ流しながらも、口先だけで場を支配する。
現在、スバルは教会から少し離れた区画にレグルスを誘い込み、エミリアと別れて単独で凶人と激突している。
激突、といえば語弊があるか。なにせスバルは身を隠し、ひたすらに挑発行動を繰り返して時間稼ぎに徹しているだけなのだから。
レグルスがその気になって、この区画丸ごと巻き込むような破壊行動を起こせば一瞬でスバルの目論見は崩壊する。だが、そうしないだろうという確信がある。
短時間、そして決して友好的ではない関わり合いの中で、スバルはレグルスの人間性をかなり正確に見取っていた。
単純に言えば、レグルスはクズだ。
単純に言いすぎて何の説明にもならなかった。
より具体的に言葉を選べば、レグルスは自らの価値観を何よりも最上に置いた上で、決して他人の存在を無視することができない類の人間だ。
端的な話、承認欲求と自己顕示欲の権化といっていい。
自らを無欲と称し、自分の存在は単体で完結しているなどとうそぶきながらも、レグルスは自身の存在価値を他人に誇示しなくては生きられない。
感性を押し付け、価値観を上塗りし、恐怖と暴力で自分が最上だと強要する。
それは花嫁たちに対する態度だけでなく、万象に対して同じスタンスだ。
だからレグルスはある種、真っ当なぐらい真っ正直に万事を迎え撃とうとする。
ラインハルトとの攻防がいい証拠だ。
レグルスがその気になれば、『無敵化』の権能の力でラインハルトの攻撃の全てを無視して、その上で小うるさいスバルやエミリアを殺しにかかることができた。
それでもレグルスがその短慮に移らなかったのは、ラインハルトの攻撃を馬鹿正直に真正面から受けて立っていたからに他ならない。
これはレグルスの、その精神性にまさかの高潔さを期待する事実ではない。
それどころか、もっと唾棄すべき性質こそを証明する事実だ。
――レグルスはその権能で、全てをねじ伏せずには気が済まない男なのだ。
だからちょっかいをかけてくるラインハルトをねじ伏せるし、挑発行為を繰り返すスバルの姿を見えないまま葬ろうという戦局的判断をしない。
自分が傷付き、敗北しないという前提条件に立った上で、相手の全てをねじ伏せて心をへし折ろうとする――そういう戦い方しかできない男なのだ。
その醜い人間性は、直視することすらおぞましい。
そう感じてしまうのはきっと、多かれ少なかれ、誰しもそういった悪辣な感情を抱えているからだ。スバルにだって、その醜い己の自覚がある。
それを直視させられている気分になるから、レグルスの存在はおぞましいのだ。
しかし、だからこそわずかな勝機が垣間見える。
「凍れる時の秘宝が伝わらないのは別にしても、俺の推測はまるきり的外れか?できればそのあたりだけでも、答え合わせしてほしいとこなんだが」
「なんで僕がそれに答えなきゃいけないわけ?そんな義理も義務もないし、自分の秘密を明かさないなんて権利以前の問題だろ。どこまで僕を小馬鹿にするんだよ。お前、爆ぜ飛び散らなきゃわからないのかなぁ!?」
スバルの挑発に乗って、レグルスが地面を蹴り上げる。
爪先が石畳に突き刺さり、プリンでもすくうようにあっさりと地面が削れた。放たれる散弾は声の方向だけを頼りに、無作為にスバルの潜伏地点を荒らしにくる。
それが着弾するより前に、レグルスの行動を読み切っていたスバルは壁を離れている。その逃走の途中で、街路の端にある石柱を押し倒す。
と、石柱に結ばれた縄が外れて、途端に軽やかな音が連鎖する。
何事かと上を見上げたレグルスの頭上に、襲いかかるのは無数の氷塊だ。エミリアの協力を得て、この街路はスバル謹製の即席トラップゾーンと化している。
無論、直撃したところでレグルスにはダメージなど皆無だが――、
「こういうのさぁ!馬鹿の一つ覚えって言うんだよぉ!」
降りかかる氷塊を避けもせず、腕を掲げて全身に浴びるレグルス。
当然、『無敵化』を抜くことができない氷塊は砕け散り、散り散りになってマナに還るばかりだ。体に当たらなかったものも含めて、レグルスは周囲に散らばった氷塊を見せびらかすように踏み砕き、破壊する。
「なんなのこれ?さっきの長ったらしいご高説が正しいとしたらさ、これなんて無意味な攻撃そのものだって自分で思わないの?それこそ、あの子の方がよっぽど攻撃できるじゃないか。遠回りして、何がしたいのかなぁ!」
「遠回りして何がしたいのかってのは、お前が質問に答えてくれたら代わりに答えてもいいぜ。交換条件なら対等だろ?」
「僕とお前が対等だなんて、それこそ自惚れるんじゃない!」
大きく飛びずさり、スバルはレグルスから距離を取る。
そのスバルに追いすがらんと、レグルスは軽く膝をたわめて一気に跳躍。爆発的な推進力を得て前進し、二人の距離が瞬く間に縮まる。
そのまま、死の指先がスバルに届く――直前、レグルスの足場が消えた。
「な!?」
「すげぇ意外な話だけど、真っ向勝負ばっかのお前は搦め手に超弱ぇよな」
古典的な落とし穴も、エミリアの魔法で地面を掘らせ、氷で蓋をして土をかけただけの簡易的なものだ。
しかし、歴戦ならば引っかかるはずもない単純な罠に、レグルスはことごとく引っかかる。皮肉にも、それはレグルスが真っ向勝負以外してこなかった証拠だ。
正々堂々、真正面からチート能力で押し潰す。
それ以外にやってこず、それ以外の戦法が取れない男の証拠。
「権能の抜き方とは別に、お前の抜き方ならいくらでも思いつくぜ。こんなことばっか繰り返してると、どっちが悪役だかわかんなくなりそうだけどさ」
教会までの道のりをショートカットし、稼いだ時間で作ったトラップゾーン。
エミリアはスバルが残ることを最後まで渋ったが、こういう性格の悪い戦い方は根が素直なエミリアにはできない。適材適所、正しい割り振りだ。
「――――」
レグルスが落とし穴から飛び出してくるまでの間に、スバルはちらと自分の右足を見下ろす。先ほど逃げおおせるときのパルクールでもそうだったが、右足の調子はすこぶるいい。千切れかけたことも、得体の知れない黒い模様に覆われていることも忘れてしまいそうになるぐらいだ。
仮にこれが本当に『龍の血』の影響であるとしたら、血がスバルに言っている。
相対する『王』を騙る不届き者に、親竜王国の威信を示せと。
「だったら、余計なお世話だよ。恩恵だけもらっとくけど」
「ちまちまと、ウザったいんだよ!!」
地面が土中から爆発し、石畳の破片や土塊があたりに盛大に飛び散る。
いずれもレグルスの権能の影響下にあり、凄まじい破壊が街路を蹂躙する。蹂躙するが、それらの届く範囲にスバルはいない。
地面から飛び出したレグルスが、はるかに距離を取ったスバルを見て忌々しげに目を見開いた。そのレグルスに見えるように中指を立ててやる。
「馬鹿の一つ覚えっておっしゃいましたけど、それってどっちのお話ですか?人の振り見て我が振り直せと申しますが、まずは鏡をしっかりご確認になっては?」
「こ、こまでぇ……僕を、コケにした奴はぁ……!」
丁寧に欠点を指摘してやると、レグルスの形相が凶相へと変わる。
スバルへの殺意は沸点を軽々と上回り、変化のないはずの凶人の内側を燃え上がる炎となって埋め尽くしていることだろう。
それがますますスバルの思惑通りだと、レグルスは欠片も気付けない。
殺意を研ぎ澄ませるのではなく、ささくれ立たせているうちは決して届かないと、レグルスには気付く切っ掛けを持ったことすらないのだから。
「つっても、俺の方が気ぃ抜いていいわけじゃまったくないけどな」
首筋を伝う汗を拭い、スバルもまた決死の覚悟を軽薄な笑みの裏に隠す。
時間稼ぎの意図をレグルスに見抜かれてはならない。仮に意図が見抜かれても、真意を見抜かれるわけにはいかない。
それがこの場で勝利条件を負い、エミリアを送り出したスバルの務め。
エミリアと互いに、自らの役割を果たすと誓ったスバルの覚悟だ。
だから――、
「頼むぜ、エミリア。――花嫁の本音、引っ張り出してくれよ」
※※※※※※※※※※※※※
エミリアが教会に辿り着いたとき、花嫁たちはその場所に変わらず在り続けていた。
「よかった。みんないてくれて――」
居並ぶ花嫁の顔ぶれを眺めて、エミリアの口からその感慨が漏れかける。
しかし、寸前でそれを躊躇ったのは、そうして居並ぶ花嫁たちの姿形が、本当の意味で変わらずに在ったこと。
エミリアの記憶に残る限り――彼女らは最後に教会を出たあの瞬間から、座る位置すら微動だにしていない。
「レグルスが、動くなって命令したから……?」
それが能力的な拘束力ではないと、エミリアはスバルから『強欲』の権能について聞かされて知っている。
スバルは何度も、「あくまで推論だけど」と注釈していたが、エミリアは彼の答えを信じて疑っていない。
凶人を撃破するために、スバルとエミリアがそれぞれにやらなくてはならないことも、また。
「全員、残ってくれてるなら……最初の関門は大丈夫」
もっとも恐るべき可能性は、花嫁たちが教会から離れて潜伏、あるいは散り散りに逃げていた場合。
手の打ちようがなくなる以前に、最後の手段を取らざるを得なくなる。スバルが苦々しく提案したそれを、エミリアはできるなら実行したくない。
だから、
「みんな、話し合いをしましょう」
時間はない。
聞いてもらえるかもわからない話を、今ここでやってのけなくてはならない。
「――旦那様はどうされましたか?」
半壊した教会、その中央へ進み出るエミリアに、最初に応じたのは金髪の女性――百八十四番だ。
整然と列をなし、沈黙を守り続ける他の花嫁たちと違い、彼女だけは崩壊した祭壇の前に座り込んでいる。
エミリアを着替えさせ、忠告をし、同時に未来の絶望を口にしたときと同じ冷めた目で、百八十四番は戻ってきたエミリアに無感情に問いかけてきた。
「レグルスは外よ。……ごめんなさい。まだ戦ってる途中で、倒せてないの」
「そうですか。……でしょうね」
百八十四番の唇が、ほんのかすかにゆるめられる。
微笑とわからないぐらい、ささやかな笑みだ。そしてそれが喜びでも悲しみでもなく、嘲笑に類するものであることぐらい、エミリアにもわかる。
その手の、他者を傷つけることが目的の笑みや言葉ならば、エミリアは過去に何度もぶつけられたのだから。
だから、
「寂しい顔で笑うのね。私、あなたには似合わないと思うの。そんな顔」
「……失礼しました。旦那様に笑顔は禁じられていますので、不細工な表情をお見せしてしまいました」
「謝らないで。私が言いたいこと、そんなことじゃない」
諦めきった百八十四番の言葉に、エミリアは首を振る。
胸の内側、心臓とは別の部分に熱が集まる。スバルの言っていた通りだ。本当にそう思う。
堪えられないぐらいに湧き上がる、もどかしいものへの劇的な感情。
目をつむり、渦巻く熱を呑み込んで、エミリアは教会の中を見回し、言った。
「レグルスを倒すわ。そのために、みんなにも協力してもらいたいの」
「――――」
「あなたたちがこれまで、レグルスにどんな目に遭わされてきたのか私にはわからない。でも、ほんの短い間だけ接した私でも、レグルスが間違ってることぐらいわかる」
意識のないまま連れ去られ、目覚めてすぐに求婚された。それから息をつく暇もなく結婚式が開かれて、レグルスの抱く結婚観と花嫁たちへの接し方を見聞きした。
それはエミリアの思い描く、幸せな結婚から程遠い。
「私はレグルスに負けたくない。戦って、その勝ち負けで何かが正しいなんて風にはならないことわかってる。でも、今日、今、レグルスに負けたくない。負けちゃったらきっと……大事なことが、踏みつけにされちゃう」
「大事なもの……ですか」
「――――」
「命をなくしたくないんなら、最初から旦那様に従っているか、死に物狂いで逃げた方がずっと可能性がありましたよ。あなたなら、そうすればよかったのに」
百八十四番が、暗い瞳でエミリアに応じる。
「一緒にいた、剣聖とあなたの騎士はどうしました?旦那様の逆鱗に触れて、負けてしまったんでしょう。だからあなた一人だけ、こうしてここに逃げ込んできた」
「違うわ。スバルもラインハルトも、まだレグルスと戦ってる。私が戻ってくるのを、信じて待ってくれてる」
「あなたが戻ってどうなります?それに、私たちに協力してほしいなんて……意味がわかりません」
「本当に、意味がわからないの?」
「――?」
エミリアの質問に、百八十四番が無言で眉をひそめる。
自然な反応で、何事か企んでいるようには見えない。諦念から達観こそしているが、ここまで百八十四番がエミリアを騙す目的で言葉を紡いだことはないように感じる。
つまり、少なくとも彼女は知らないのだ。
――レグルスの『心臓』が、彼女を含む花嫁たちの誰かに預けられていることを。
「他の人はどう?みんな本当に、こんなことでいいと思ってるの?どうにかしたいって、誰かどうにかしてって、思い続けてる人はいないの?」
「やめてください。話なら私が聞きます。話すなら私に話してください。私の答えが、全員の答えです」
周囲の意思を確かめようとするエミリアに、百八十四番がどこか硬い声で割り込んだ。
頑な、あるいは健気――エミリアのために、レグルスにすら意見して、危うく命を危険にさらした彼女の行動が思い出される。
それは確かに、献身的な行いであったけど――。
「大事なはずの、自分の命に投げやりな態度にも感じる」
「――――」
「本当はあなたが一番、納得してないんじゃないの?」
思えば最初から、百八十四番はずっとエミリアに言葉をかけ続けていた。
それはレグルスに、エミリアの世話係を命じられたからだけではない。エミリアに代わってレグルスに意見し、他の花嫁たちを代表して前に出て、そして今も彼女たちへの言葉を肩代わりして浴びようとする。
その姿勢はいっそ、彼女こそがレグルスの腹心であり――都合のいいようにエミリアや花嫁たちを誘導しようとしていると、そう疑うこともできる。
「でも、私はそうじゃないと思う。あなたがレグルスの『心臓』じゃないって、私はそう信じたい」
エミリアは百八十四番に、何度も命を救われた。
それは目に見える形で庇ってもらったり、手を引いてもらったりしたことではない。
ただわかりづらい悪意に対して、きっとそれを避けられるように前を歩いてもらった。
そんな風に誰かを配慮できる人間が――。
「あんな人の本当の花嫁だなんて、私は思いたくない」
「……そう思わせるために、あなたに接していたのかもしれませんよ?」
「そうね。私、あんまり頭が良くないから、もしもあなたが私を騙そうとしてるんなら、コロッと騙されちゃうのかもしれない。でも」
自分に見る目があるかどうかはわからない。
今、エミリアに味方をしてくれる人々は、エミリアが自分で選んで、一緒にいてほしいと望んだ結果、味方をしてくれているわけではない。
味方してくれるみんなが、エミリアを選んでくれた。
選ばれたことで、自分がすごいだなんて思えない。
いつだって不安で、のしかかる期待に負けそうだ。
だけど、かけられる期待に応えたいと、応えられる自分でありたいと、そう願いもするから。
「私はあなたを信じたい。それは、私が選んだことだから」
「――――」
「どうしてあなたは、黙ってしまうみんなの代わりに前に出るの?どうしてあなたは、諦めている目をしているのに私を助けてくれたの?どうしてあなたは」
「質問、ばっかりですね」
エミリアの問いかけを遮って、百八十四番が首を振る。
そして、彼女はこの場にきて初めて、ゆっくり顔を上げてエミリアを見つめた。
感情を凍り付かせた、硬い表情。
ひどく渇いた瞳と、引き結ばれた唇。
悲壮さがいっそう、そんな女性の張り詰めた美しさを際立たせている。けれど、と思う。
「早く、出ていってください。旦那様に見られれば、私たち全員の命がありません」
「聞かせて」
「質問に答える義理なんてないんです。あなたはもう、旦那様の花嫁ですらない。私たちとは違う」
「――私ね、ハーフエルフなの」
「は?」
エミリアの告白に、女性が呆気に取られる。
初めて意表を突けた気がして、薄く微笑むエミリア。一方で女性もまた、エミリアの告白の意味を理解した。
目の前に立つのが、銀髪の半魔であると理解した。
「銀色の……ハーフエルフ……」
「確かに、私とあなたたちは違うと思う。境遇も、出身も違うし、もっとずっと根本の部分で違う。でも、だからって何もかも違ってるから、何も通じないなんて思わない」
「――――」
「私とあなたで、見えるものはきっと同じ。悲しいときに泣いて、どうしようもないものに怒って、嬉しくて幸せなときには笑える。それは同じでしょ?」
「何が、言いたいんですか」
畳みかけるエミリアに、百八十四番が吐息する。
聞き返されて、エミリアも自分で戸惑った。何が言いたいのか、言いたかったのか、まとまらなくなっている。
感情のままに喋っている証拠だ。それで本筋を見失っては本末転倒だ。もっとスバルのように、伝えたい気持ちを真っ直ぐに伝えられるように――。
「ええと、だから私は……」
知りたいことがある。聞きたいことがある。
レグルスの『心臓』のこと。花嫁たちの先頭に立とうとすること。何もかも投げ出しそうな顔で、取りこぼしそうなエミリアを守ったこと。
それを全部ひっくるめて、聞かせてもらいたいから。
最初に知らなくてはいけないことがあって。
それはそう――。
「あなたの、名前を教えて?」
「――――」
「私はエミリア、ただのエミリア。あなたと色んなところが違うけど、きっと同じところもあるハーフエルフ」
「ふ……」
「同じものを見て、同じことを感じて、同じように願えるなら……きっと、話すことは無駄なんかじゃないわ」
いつか、そんな風に名前を聞かれたことがあった。
心細いときで、誰にも頼れないと思い込んでいたときで、色々な流れに呑み込まれてしまいそうなときで。
そんなときに、同じ言葉で心を掴まれてしまって。
――今さらになって、思う。
あのとき、自分は嬉しかったのだと。
目の前の素性も知れない少年に、ただ自分の存在を認めてもらえた気がして、嬉しかったのだ。
否定され続けてきたところに、そんな言葉を投げかけられてしまったら、もうどうしようもない。
「――――」
また、スバルの力を借りてしまった。
借り物だらけで、継ぎ接ぎだらけの自分。
でも、それでいいのだ。
「ふ、ざけないで……なんで、今さら……」
エミリアの目の前で、百八十四番――女性が頭を抱え込んで、嫌々と懸命に息を吐く。
その表情は苦々しく、その声は忌々しげで、その瞳には憎々しいものを睨む感情がみなぎっていた。
それは初めて、エミリアが彼女から引っ張り出した、生の感情で――。
「どうして今さら、私たちを人間に戻そうだなんてするんです!」
これまで押し込めていた感情の濁流、それに身を任せるように彼女は叫んだ。
「人じゃなくていい、人形でいい。あの男は、私たちが従順な人形であったらそれで満足する。人形遊びだけさせてあげれば、命はなくさずに済むんです。そう信じてきたから、これまで私たちは……なのに!」
自分たちの努力を台無しにしたと、彼女はエミリアに食ってかかる。
何もわかっていない部外者に、必死に生きようと足掻いた自分たちの日々の何がわかるのかと。
「私たちの何がわかるっていうの!」
「あなたが優しいことは知ってるわ」
「私たちの何がわかるっていうの!」
「あなたたちが、一生懸命頑張ってきたのもわかってる」
「私たちの、何が、わかって……!」
「あなたたちが、助けてほしいって叫んでるのがわかってる」
エミリアの言葉に、弾かれたように女性が顔を上げる。
凝然と見開かれた瞳と、喘ぐように震える唇。
一言だって、そんな言葉は口にしていない。
だってきっとこれまでの日々で、そんな言葉を口にしてしまったら、彼女たちの心は折れてしまった。
助けてほしいという絶望は、救いという希望を求める心と表裏一体だ。
そんな希望を抱くことは、これまでの彼女たちには許されなかった。心を壊されないために、心を押し殺しておかなくてはならなかった。
そうやって、わかりやすく助けを求める言葉を封じられた彼女たちだけど。
「助けてほしいって、あなたの全部がそう言ってた。だから私はあなたたちを助ける。あなたたちをレグルスから解放する。だからそのために――」
「――――」
「あなたたちの力を貸してください。私に、あなたたちと……今、戦ってくれてる人を助けさせてください」
頭を下げる。
エミリアは真摯に、願いを込めて頭を下げた。
ジッと、地面を睨みつける。
自分の心臓が痛いぐらい鳴っていて、かすかに聞こえる周りの息遣いを暴風雨のように感じてしまう。
今にも押し倒されてしまいそうで、ギュッと奥歯を噛んで心を奮い立たせる。
怖いのは、自分だけではない。
きっと、もっとずっと、彼女たちの方がずっと、覚めない悪夢と隣り合わせでいたはずなのだから。
そして――、
「……少し、待ってください」
「――――」
頭を下げ続けるエミリアに、唇を噛んでいた女性がそう言った。
そのまま彼女は長い息を吐くと、エミリアから視線を横へ向ける。そこにはずらりと無言を守り、話し合いを見ている花嫁たちの姿があって。
「聞きたいことが、あります。みんなに今まで、聞いてこれなかったこと」
女性がそう切り出し、花嫁たちは表情を凍らせたまま何も言わない。
エミリアもまた、何も口にできないまま彼女たちの結末を待つ。
息を呑む視線の海の中、ずっと花嫁たちの先頭を歩いてきた女性が、言った。
「あの男のこと、好きな人がいる?」
首を傾げて、女性が口にした質問が教会の中に広がる。
その内容にエミリアは驚き、そして沈黙を守り続ける花嫁たちも、視線だけで互いを見つめ合う。浮かび上がる困惑と、ささやかな感情。
それは波紋のように伝搬していき、
「……嫌い」
一言、絞り出すように掠れた声が溢れた。
言ったのはエミリアでも、花嫁の代表である女性でもない。列をなす花嫁たちの一人である、短い髪をした女性だ。
その絞り出すような一言に、衝撃を受けたのはエミリアだけではない。
「私も、嫌い」「嫌いだった」「ずっと嫌だった」「嫌い、本当に嫌い」「どうかしてる」「頭がおかしい」「誰が好きになるの」「自分が好きなだけ」「頭の中で何回も拒んだ」「泣きたかった」「でもダメだった」「嫌い」「死ねばいいのに」「大っ嫌い」「嫌だ嫌だ嫌だ、本当に嫌」「目つきが嫌」「喋り方が嫌」「歩き方が嫌」「性格が嫌」「人間性が愛せない」「昨日より嫌い」「明日の方が嫌い」「気持ち悪い」「変態」「頭が子ども」「子ども以下」「地竜の方がマシ」「比較対象がない」「生理的に無理」「嫌い嫌い嫌い」「いつも吐き気がしてた」「殴って死んでもって何回も思った」「最悪」「最低すぎる」「一緒にいると反吐が出る」「触られると腐りそう」「心が死んでいく」「家族の仇」「無理やり連れ出されてどうして好きになるの?」「無自覚な悪意が信じられない」「苦しんで死んでほしい」「話が長くて回りくどい。一文字余計に喋るたびに死んでほしい」「腸が腐ればいいのに」「私の恋人を返して」「帰りたい、帰りたい……」「助けなんていいから、あいつを殺して」「ゲス野郎」「もう嫌、永遠に嫌!」「あれを好きになる女なんていないでしょ?」「男でもいないわよ」「あれを愛せる人間なんていない」
堰を切ったように、これまで押し殺していた言葉を並べ立てる花嫁たち。
溢れ出す言葉は心からの憎悪と怨嗟、長年の苦痛と苦難に対する恨みつらみで満ち満ちていて、聞いていて心地いい言霊の数々では決してない。
――それなのに、それを口にする彼女たちの表情は気持ちがいいほど晴れやかで。
「全会一致してたのに、ずっと誰も言えなかった」
「あなたも、言いたいことがあるの?」
「ええ、あるわ」
花嫁たちの告白を聞いて、女性がエミリアに振り返った。
彼女は自分の長い金髪をさっと撫でつけ、そして満面の笑み――笑うなと命じられた言葉を破り捨てて、初めて見せる美しい笑顔を見せて。
「あんな男、大嫌いだったわ。――私たちを、どうか助けてちょうだい」
そう、絶縁状に微笑みのサインをくれたのだった。