『もう一つのやり残し』
「それにしても、あんな作戦でうまくいくのかねぇ……」
「そう?私はすごーくいい作戦だと思ったけど。アンネとリューズさんの演技に騙されて、ガーフィールとフレデリカもまんまと引っ掛かってたじゃない」
「そうかな。……俺はリューズさんの大根役者ぶりと、アンネローゼの土壇場の舞台度胸のなさに衝撃を覚えたぐらいだったんだけど」
「うるさいですわよ、スバル」
食堂で作戦の結果を待ちながら、先の回想をするスバルにアンネローゼが口を挟む。その頬は熱を帯びて赤く、恥じらいに頬を染める姿を見ていれば年相応の少女に見えるものだなぁとスバルは何となしに思っていた。
アンネローゼが提案した、姉弟関係修復作戦の概要は簡単なものだ。
エミリアが提案し、スバルが首をひねっていた問題部分――ガーフィールとフレデリカに共通の目的を持たせ、同じ場所に放り込むという問題。
それに関してアンネローゼは、フレデリカとガーフィールの間に共通する『思い出』を利用することで、問題を難なく突破してせしめた。
フレデリカが折につけて作っていたというミートパイは、なんでも『聖域』にいた頃からのフレデリカの十八番だったらしい。ただ、ガーフィールまでもがそれを作れるのは未知数だったはずだが、
「フレデリカはよくこぼしていましたもの。これはお婆様に作り方を教わって、お母様が作ってくださった思い出の料理って。当然、フレデリカだけでなく弟のガーフィールも食べて育ったでしょうし、リューズさんから受け継いだ可能性は高いと踏んでいましたわ。見てる限り、ガーフィールってかなりお婆ちゃん子でしたもの」
「それを見抜いた点に関しちゃ否定の言葉がねぇよ。俺が問題にしたいのは、それを見抜いた洞察力以外の部分だけど」
「むぅ」
アンネローゼが膨れ顔を作るが、それであの失態が消せるわけでもない。
首尾よくフレデリカを捕まえ、厨房へ送り込むための言い訳を述べたところまでは順調だった。問題はその動機付けと、疑うフレデリカの振り切り方だ。
「ミートパイ食べなきゃ即死するって、どういう奇病だよ。ミートパイに謝れ」
「ちょっと言い間違えただけですのよ。それでどうしてわたくしが謝る必要が……」
「確かにそこだけはちょっと。それならほら、私も一緒に謝ってあげるから」
「し、仕方ありませんわね。エミリーがそこまで言うなら仕方ありませんわねっ!」
顔を真っ赤にしたアンネローゼが、エミリアの誘いに全力で乗っかる。
そんな微笑ましく百合百合しい光景から視線を外して、スバルはテーブルの端っこで小さくなっているリューズの方を見た。
「リューズさん、ガーフィールを罠に嵌めて思うがままにすることに罪悪感とかあるみたいな顔してるね」
「そんなことは……いやいやいや、待て!なんじゃ、その儂の小さな罪悪感を膨らませて針で突くような言い方は。やめんか、心臓が痛くなるじゃろうが」
悪意あるスバルの物言いに、リューズは少しだけいつもの顔を取り戻す。
それから、今のスバルの言葉がその気力を引っ張り出すためだったと気付き、
「今さら、ではあるがな。儂はこれでよかったのか、今でも少し迷っておるんじゃよ。もちろん、あの二人が仲直りするのはいいことじゃ。じゃが……」
「それなら悩む必要なんかねぇよ。あの二人ならきっと、別に放っておいたって元通りになった。なら、結果は変わらない。変わらない結果をちょっと早く俺らでもたらしたってだけ。……でも、早いなら早い方がいいって俺は思うんだよ」
「なんでじゃ?」
「ウダウダしてる時間が無駄だし、楽しい時間がもったいない。人間、いつかは絶対に死んじゃうんだし、それなら砂時計の砂は多く残ってるときに動く方がいいぜ?」
「――――」
スバルの言葉にリューズは目を丸くし、それから力なく吐息をこぼした。
「スー坊は、あれじゃな。ずいぶんと迷いない生き方をしとるようじゃのう」
「そんなことねぇよ。俺ぐらいちっぽけなことで引っ掛かって迷いまくってる奴ってあんまいないんじゃねぇの?でも俺は、悩まなくてもいいことで悩んだことはないつもりでいるし、今後もそうはならないでいきたいと思ってるよ」
「悩まなくても、いいこと」
「そ。仲直りさせたい二人がいて、仲直りした方がみんなハッピー。なら、悩まないでいいから仲直りさせよう。一緒にいたい相手がいるなら、悩むのは後回しにしてとりあえず近づいて『EMT!』って声かける。それでいいかなって、最近は思う」
もちろん、全部に全部そうできるわけではない。
リューズに伝えた通り、スバルはちっぽけなことで大いに悩む弱い人間だ。なのに時間は限られていて、選べる選択肢だって狭くて少ない。
だから、せめて選ぶ選択肢にだけは迷いなくありたい。
そんなスバルの答えに、リューズは「そうじゃな」と応じて、
「この歳になって、学ぶことも教わることも多すぎるぐらいに多い。『聖域』だけで終わっていれば、こんなことは思えんかったじゃろうな」
「普通に生きてりゃ、生きるのに飽きることなんてそうそうこねぇよ。それぐらいはたぶん、俺の保障抜きでもみんな知ってると思うぜ?」
「なら、儂も時間の限りを楽しむことにするとしようかの。ひとまずは、可愛い孫二人が仲直りして、儂に甘えてくるのを楽しみにするとするわい」
「あの二人が素直に甘えてくる図は想像つかねぇけどね」
生真面目なフレデリカと、天の邪鬼のガーフィール。
どちらも祖母に素直に甘える性質ではない。その実、家族愛を何より求めている二人――いや、三人であるのだから微笑ましいというものだ。
「皆様、ご歓談中に失礼いたします。ご無礼」
と、そんな想像に口元を緩めていたスバルを耳朶を、音もなく室内に現れた執事の声が物静かに打った。
驚きにスバルが目を剥くと、クリンドはアンネローゼの傍らに立ち、
「どうしましたの、クリンド。今、わたくしはエミリーと幸せに過ごしてますのよ」
「そんなお時間のお邪魔をすること、心苦しく思っております。心痛。ですが、ロズワール様がお戻りになられまして、お嬢様にもお伝えせねばと。ご進言」
「小父様が……?また、あの方は機を測ったように戻られますわね」
クリンドの言葉に、アンネローゼが眉をひそめて不服そうに呟く。
親戚からもそんな評価を受けているのか、とロズワールの日頃の行いがしのびなくなる一方で、アンネローゼは席を立った。
「小父様が戻られたそうですので、わたくしは出迎えにいって参りますわ。エミリーとスバル、それにリューズさんはこちらで姉弟が戻るのをゆるりとお待ちになっていてくださいまし。……特にエミリーたちは、忙しくなりますわよ」
「えっと?わかったわ。ここで待ってるね」
素直に頷くエミリアに、アンネローゼは微笑と優しい視線を送る。それから少女はスバルを振り返り、スバルに突き刺さる視線と負のオーラを向けた。
待遇の違いにスバルが唇を曲げる間に、アンネローゼはクリンドを伴って部屋を出ていってしまう。その際、いつの間にか淹れられたお茶が残る三人の前に並べられていて、スバルは変な悲鳴が漏れそうになった。
「今、誰かクリンドさんがお茶置いてったとこ見てた?」
「ううん、気付かなかった。相変わらず、クリンドさんの手際ってすごいわね」
「うむ、匠の手腕じゃな。儂の舌に合わせて、程よく冷めておる」
「俺のも猫舌にちょうどいい熱さだけど……エミリアたんは?」
「私は熱いの好きだから、すごーく熱くしてあるわよ」
「クリンドさんなんなの?」
アンネローゼなどは『そういうもの』として受け入れろなどというが、スバルはなかなか受け入れられそうにない。これが異世界で暮らすものと、そこで生まれ育ったものの根源的な違いなのだろうか。
などと思ってエミリアとリューズを窺うと、二人もそれぞれなりの脅威をクリンドに感じている様子だ。なんだ、やっぱり規格外だ。と、
「んだァ、企んだ連中が揃ってこんなッとこにいやがってよォ」
アンネローゼたちが出ていって数分後、扉を開けて金髪の虎男が顔を出した。
すでにスバルたちに嵌められた、とわかりやすい罠の原因に気付いているらしく、その表情は複雑の色が濃い。ともあれ、
「その様子だと、俺たちが悪党だってことはばれてるみたいだな」
「まんまと引っかかっちまったってとこだなァ、ざまァねェぜ」
「それでそれで?ちゃんとお話はできたの?」
牙を噛み鳴らして歩み寄るガーフィールに、エミリアが興味津々の顔をする。その隣で居心地悪く首を縮めるリューズも、耳はガーフィールの言葉に集中していた。
そんな女性陣の態度を見て、ガーフィールはため息をつくと、
「あァ、でかくて余計なお世話をありがとうよォ。姉貴とは……まァ、ちゃんと話せたは話せた。だッから、もう心配ねェ」
「本当に?でも、それならどうして一緒に手を繋いでこなかったの?」
「んな小っ恥ずかしい真似ができっかよォ!仲直りッしても、姉貴と弟が手ェなんか簡単に繋げッもんか。笑わッせんじゃァねェ」
「そうかしら。別に恥ずかしがらなくても、素敵なことなのに」
からかう素振りではなく、本気で残念そうなエミリアにガーフィールもそれ以上の言葉を続けない。代わりに彼は、いまだ言葉に迷う様子のリューズを見て、
「ババア」
「……なんじゃ、ガー坊」
「心配かけて悪かった。俺様ァもう大丈夫だし、姉貴も大丈夫だ。心配ねェよ」
そう言って鼻の頭を指で擦るガーフィールに、リューズはしばし沈黙。それからふっと唇を緩めて、その幼い見た目に似合わない老成した笑みを浮かべる。
「そうか。なら、儂も一安心といったところじゃのう。あんまり年寄りの心身に負担をかけるもんでない。お迎えが早まってしまうからの」
「ババアがそれ言うと冗ッ談にならねェんだ、気ィつけろや」
砕けた態度になるリューズに、ガーフィールが鼻を鳴らした。
「それから、大将。それにエミリア様も、面倒ッかけて悪かったなァ」
「気にすんねい。俺とエミリアたんは暇潰しついでに屋敷の中の人間関係改善に乗り出しただけだ。感謝されるほどのことはしてねぇよ。ね?」
「スバル、暇潰しなんてそんなつもりだったの?二人の大事な問題なんだから、もっと真剣に考えてあげなきゃダメじゃない。めっ」
「あれ!?照れ隠しの謙遜が仇になるパターン!?」
スバルの遠回しな配慮にエミリアが気付いてくれないパターン。かと思いきや、ふいにエミリアはその口元に笑みを刻み、
「ふふー、冗談よ、冗談。ちゃんとわかってるって。スバル、素直じゃないもんね」
「なんてこった……EMK(エミリアたん・マジ・小悪魔)ってことかよ、魅力が増してる……俺を殺す気か……」
「俺様の感謝の言葉についてァどうなっちまったんだかなァ、オイ」
憮然とした顔のガーフィールに、スバルとエミリアは互いに顔を見合わせる。
それから揃ってガーフィールに向き直って、
「――どういたしまして」
と、感謝の言葉に対する応答を告げた。
ガーフィールが唇を曲げて不満げな顔をし、リューズがやれやれと言いたげに肩をすくめる。スバルはそんな二人を微笑ましげに見るエミリアに親指を立てて見せ、
「そうだ、ガーフィール。仲直りもそうだけど、その切っ掛けというか引き金になってくれたはずのミートパイはどうしたよ。結構、真面目に楽しみにしてんだけど」
「パイがそう簡単に焼き上がるッわけねェだろが。ゆっくりじっくり、窯の中で焼き上げッとこに旨さの秘訣があんだよ。『バームベームは寝かせるほど旨い』ってなァ至言だろうがよォ」
「なに、バームベームって。バームクーヘンみたいなもん?でも、バームクーヘンは時間置いたら旨くなる前に悪くなると思うよ?」
ガーフィールの話では、パイが焼き上がるのは二時間ほど後になるという。
そうなると、普通に夕食の時間とぶつかりかねず、その一品となりそうだ。
「――それならそれで、好都合というものじゃーぁないの」
空腹感を誤魔化す手段を失い、さてどうしたものかとスバルが二時間後までの時間潰しに意識を向けたときだ。
聞き覚えのある声に振り返る部屋の四人は、揃って渋い顔を声の主に向ける。
「おーぉやおや。しばらく屋敷を留守にして働いていた出迎えにしては、ずーぅいぶんと辛辣なご挨拶じゃーぁないの」
「労いの気持ちがないではないんだけどな。でも、条件反射的にこういう面になるのも自業自得で仕方ないって割り切ってほしいな。それに俺らはまだマシだよ。ガーフィールなんて青筋浮いてんだぜ」
額に青筋が浮かび、目が血走り始めるガーフィール。
彼の突き刺すような視線を浴びてなお、涼しげな表情を崩さない男――特徴的な喋り方からもわかりやすい、ロズワール・L・メイザースの登場だ。
『聖域』を含めた騒動の黒幕であり、それを自白したことで関係者の大半からの好感度がマイナスに落っこちたロズワール。中でもガーフィールの怒りの炎はまだまだ熱を持って燻っており、いつ赤々と燃え上がるかは予断を許さない。
スバルも当然、ロズワールに対しては複雑な念を抱いているのだが、その思いに関しては彼の自白の続きを耳にして混迷を極めている。
『聖域』と屋敷の騒動の全てを、彼が手引きしていたわけではないという事実だ。
どうやらロズワールはその事実を、スバルにしか開示していないらしい。その理由は知る由もないが、スバルも殊更にそれを周囲に打ち明けようとは思わなかった。
あの騒動の全てはロズワールの責任――少なくとも、九割方はそうなのだ。残りの一割に関しては、ロズワール以外の部分から埋める。
現状、スバルは余計な不安を広げるよりはとそう考えている。
「スバル、大丈夫?なんだか、すごーく変な顔してるけど」
「マジで?どんな顔してた?」
「えっとね、こうやってぎゅーって目つきが悪くなってたわよ」
「マジで?俺そんな可愛い顔してた?」
「可愛くなかったってば!」
自分の両目の目尻を指でつり上げて、エミリアはスバルの顔を真似てみせる。そうやって懸命に凶悪さを演出しても、可憐さが上回るのが彼女の魅力だ。
唇を尖らせているエミリアと、機嫌悪そうに席に腰を下ろすガーフィール。リューズがそんなガーフィール分のお茶を淹れるのを見ながら、スバルが一人立ち尽くすことになるロズワールへと言葉をかける。
「ともかく、おかえり。それで、出かけてた目的は果たせたのか?」
「あはーぁ、スバルくんの優しさだけが身に沁みるねーぇ。それに問題はないとも。出向いたのは領地の町村をいくつかと、私たちの新しい引っ越し先だからね」
「引っ越し先はともかく、領地を回ってきたのか。なんか目的があって?」
「そりゃーぁ、領主の屋敷が焼け落ちるなんて騒ぎがあったわけだしねーぇ。私の健在を周囲に報せて回らないと、良からぬことを企む輩もいないとも限らないじゃーぁないの。私、そのあたりの領地の治安維持なんかは手を抜かない主義でねーぇ」
「その領主が一番良からぬこと企んでた件について」
「手厳しいねーぇ。領民に被害は出てないんだし、アーラム村の住民にだって真相は隠してくれたんだ。そうやって刺々しい態度を取り続けるのも、今後に差し支えるんじゃーぁないかい?」
「ぐぎぎ」
ああ言えばこう言う。
チクチクと責めようにも、開き直ったロズワールは以前の余裕を取り戻している。実際、事件の裏で糸を引いていたのがロズワールであると公表するのは、王選においても領地経営においてもデメリットしかない。故にアーラム村の村民の間でも、ロズワールは昔と変わらず『よくできた領主様』という立場だ。
唯一、事情を知るペトラだけが違う評価なわけだが、彼女も自分の置かれている立場と、真実を伝えることで得られるものが自己満足だけだとわかっている。そのため、極端な行動に出ることはないだろう。賢すぎるのも、時に残酷な選択を強いる。
「けど、お前がそれをわかったように利用していいってことにはならねぇ。そのあたりを忘れると、エミリアたんが王様になった後でお前はギロチンだぜ」
「それは怖い。もーぉっとも、そのときはそのときでわーぁたしの目的は果たされている可能性があるんだけどねーぇ」
「目的ッさえ果たしゃァいいって話ッじゃァねェだろうがよォ。まだんなくっだらねェ考えだと、本気でラムが泣くぞ、クソ野郎」
なおも挑発的なロズワールを、意外にもガーフィールが割り込んで止める。ロズワールもその反応に意外そうに眉を上げ、それから両手を軽く挙げた。
「やれやれ、わーぁかったよ。私としても、べーぇつに君たちとケンカがしたいわけじゃーぁないんだ。ただ帰ってきたって説明をしただーぁけなのに、どうしてこんな言い合いになったやら。不毛でならないねーぇ」
「それはロズワールがスバルとガーフィールを怒らせるような言い方するからでしょ。わざとやってることぐらい、私にだってわかるんだから。もういい加減、そうやって他人の気を引くようなことしないの。子どもじゃないんだから」
「――――」
一段上から事を収めようとしたロズワールを、腰に手を当てたエミリアがさらに上から押さえつけた。ロズワールが驚いた顔をし、エミリアはなおも続ける。
「そうやっていちいち不安そうにしなくたって、私たちは誰もロズワールがしたことも約束も忘れたりしないわ。わざわざ悪ぶってみんなを困らせても仕方ないじゃない。本当にしょうがないんだから」
エミリアの言い分は、手間のかかる子どもを叱りつけるかのようだ。
しかし、勘違いの筋違いだと切り捨てられそうなエミリアの言葉に、ロズワールは沈黙したまま抗弁しない。それどころか目を細めて、気まずそうな表情のそれはまるで図星を突かれたようにすら思えた。
まさか本気でロズワールが、そんな子どもじみた感傷で動いていたとまでは思わないが。
「毒気抜かれちまったのは確かだな。さすがエミリアたん」
「……?うん、ありがと。あと、領地を見回ってきたのはそれだけが理由じゃないんでしょ?ロズワール、他に何をしてきたの?」
「ははーぁ、以前より目端が利くようになりましたね。今回の巡察はさっき言った通り、私の無事の報告と……あとは『聖域』の住人の移住の下準備ですよ」
「移住の準備……!」
その言葉に黙っていられないのは、頬杖をついていたガーフィールだ。リューズも慌てて戻ってくる傍ら、ガーフィールはテーブルを叩いて、
「そりゃ、受け入れ先って意味かよォ」
「そうだとも。避難民としての関わり合いから、アーラム村で受け入れるのが一番であるのは確かなんだけどねーぇ。村での受け入れにも限度がある。ましてや元々の住民の半分以上の数が増えるとなると、あの規模ではなかなかそれもままならない。もちろん村を広げてしまえばいいんだけど、あそこは結界の問題もあるからねーぇ」
「結界だァ?てめェ、性懲りもなく他の場所にもそんなもんを……」
「待て待て、ガーフィール。その結界は『聖域』のアレとはまた別物だ。あのあたりは山の中とかに結構、魔獣がうようよしてやがんだよ。それを避けるために、村の周囲にはちょくちょく結界が張ってあるんだ。ロズワールが言ってんのはそれだよ」
アーラム村と屋敷を巻き込む、魔獣騒動の原因にもなったのがその結界だ。
魔獣と共存共栄とはお世辞にも言えないが、互いに棲み分けしてそれなりにやっている関係上、アーラム村を拡大するのは難しいという話なのだろう。
「今のスバルくんの説明通り、そーぉいうわけ。だーぁから、『聖域』の住民はアーラム村の一部と、あとは他の候補地にも数名単位ずつで分かれてもらう必要があるだろーぉね。どこで迎えられるにせよ、いつまでも『聖域』の顔ぶれだけでまとまられても困るんだ。巣立ちを見守る私も、断腸の思いだーぁとも」
「よく言うわい、白々しい……」
泣き真似をするロズワールに、リューズが堪え切れずに悪態をこぼす。
ロズワールはそんな言葉に笑顔を作ると、「そーぉんなわけで」と言葉を継ぎ、
「領地をざっと巡察してきたわーぁけ。距離と時間の関係上、近場をぐるーっとしてきただけだーぁけどね。他の町々には使いを出して、処理しないといけない案件も溜まっていることだーぁもんね」
「ああ、そりゃ間違いない。早く執務室に戻ってやんないと、たぶんオットーが過労死すると思うんだ。重労働と責任感の板挟みで圧死する」
「斬新な死に方だ。興味深いねーぇ」
スバルもそう思うが、それはそれとしておく。
ロズワールも戻ったことだし、ラムの元気も戻ってくるだろう。と、そこまで考えたところで、スバルは違和感に首を傾げた。
「そういえば、ロズワールのお出迎えにアンネが行ったと思ったんだけど……一緒じゃなかったの?」
スバルが思い至ったものと同じ疑問にエミリアも行き当たったらしい。そのエミリアの言葉にロズワールは指を一つ立てて、
「それでしたら、アンネローゼには一つ頼み事をしましてねーぇ。そうそう、処理しないといけない案件の一つを片付けてしまおうと思いまして」
「処理しないといけない案件?」
「大広間を使う件ですよ。エミリア様も、ご準備されていたと思いましたが」
「――!」
そのロズワールの言葉に、エミリアの肩が驚きに跳ねる。
しかし、その驚きも一瞬のこと。すぐにエミリアの表情は真剣味を帯びると、紫紺の瞳が強い意志を帯びてスバルを横目にする。
その視線に背筋をなぞられた気分を味わい、スバルは何事かと首をひねる。
だが、そのスバルの疑問に明白な答えは与えられなかった。
「そう。でも、すぐに始めるの?」
「エミリア様の心の準備が大丈夫でしたら、すぐにでも。それにミートパイが焼き上がるまでまだ時間があります。ちょうどいいといえばちょうどいいでしょう」
「大事なことなのに、そういうところすごーく大雑把じゃない?」
「狙ってまとまった時間を取るのも、今は難しい立場なのですよ。エミリア様も明日以降が忙しくなることを考えれば、与えられた機会といっていいのでは?」
「そうね……わかった。乗せられてあげる」
エミリアが首肯すると、ロズワールも満足げに頷いてみせる。
両極の表情ながらも合意に至った二人の様子だが、スバルはちっとも話についていけていない。当然、ガーフィールやリューズも置き去りのはずだ。
「おい、二人だけで納得してんなよ。何の話?またぞろ、エミリアたんにおかしな真似させよーってんじゃねぇだろうな」
「そーぉれは酷い誤解というやつだよ、スバルくん。それに安心したまえ。これはエミリア様だけの問題じゃないどころか、君も大いに関係ある問題だからねーぇ」
「俺にも関係がある問題って……」
なんだ、と口にするより先に、ロズワールがずいとスバルに顔を寄せる。思わずスバルが後ずさり、壁に背中をぶつけると、その鼻先に指が突き付けられた。
そして、
「――君の待ち望んだ、騎士叙勲の儀式だーぁとも」
※※※※※※※※※※※※※
「普通さあ!そういう大事なイベントの内容を、直前まで当事者に内緒にしとくとかありえねぇだろ!新郎新婦にサプライズで結婚式するか?葬式で送られる奴にサプライズで葬式仕掛けるか?しねぇだろ?」
着替えに連れてこられた部屋の中で、スバルはジャージを脱ぎながら文句を垂れ続けていた。
食堂でロズワールに伝えられた内容は、まさにスバルにとっては寝耳に水だ。
――騎士叙勲。
いわゆる、君主に仕えることになる人物を、君主自ら騎士として認め、そして周囲にその人物が騎士となったことを知らしめるための儀式である。
その形式や作法などは多様にあって、国ごとはもちろん、世界観ごとにも当然違ってくるだろう。スバルも漫画やアニメなどで幾度か目にしたことがあるが、共通していた部分と違った部分など頭に入っているはずもない。
ましてやルグニカ王国における騎士叙勲の作法など、知識があるはずもない。
「なのに当たり前みたいに準備が淡々と進んでやがる。まさかアンネローゼの奴、普段は俺がエミリアたんにべったりなのに嫉妬して、恥かかせようって腹じゃねぇだろうな……!」
「そんなはずがないじゃありませんか。騎士叙勲の主役は当然叙勲される騎士側の方ではありますが、言い渡す君主の側にだって責任があります。アンネローゼ様がそんなつまらない意地を張って、恥をかくことになるのはナツキさんだけじゃなくてエミリア様だってそうですよ。そんなこと、あの賢い方がされると思いますか?」
更衣室でぶーたれるスバルに首を振るのは、同じ部屋で着替えを手伝っているオットーだった。着替えの何を手伝っているのかといえば、もちろん礼服の着方など諸々である。当たり前だが、スバルがそれを知る暇も理由もないのだから。
「ナツキ様。まずは最初にこちらの肌着に着替えていただき、その後で下を履き替えていただくのが正しい着方になります。忠言」
「おお、助かります。っていうか、気持ち悪いぐらいぴったり俺の体に合わせてある服なんですけど、この儀式って結構前から準備とかされてました?」
「少なくとも、皆様が当家へおいでになってすぐに提案されたお話ではありました。今回、ロズワール様がお戻りになられてから執り行うとのお話で……エミリア様はしっかり儀式の勉強と練習をされておりましたよ。ご報告」
「報告ちょっと遅いな!?エミリアたんもなんで内緒にしてたのかしら!?」
「照れ臭かったんじゃないですか?それより、本気でさっぱり作法を知らないんですか?だとしたら、それはそれで問題がありますが」
クリンドに渡される着替えに袖を通し、足を通しをしながらスバルは戸惑う。その表情にオットーは本気の焦りを感じ取り、さすがに進行に支障を来たすと考え始めた様子だ。
「だろ?やべぇよな?エミリアたんの気持ちは嬉しいし、騎士に任命してもらえるってのはめちゃくちゃ光栄だけど、せっかくの儀式がパーになるのはまずいよな?やっぱり土下座の一つでもぶち込んで、延期させてもらった方が……」
「呼び出されたら前に出て、エミリア様の前で膝をつく。んで、自分の持ってる剣を鞘から抜いてエミリア様に渡す。受け取ったエミリア様が剣を大将の首に当てて、誓約の言葉を言うから……それに誓いを立てりゃァいい。それッだけだ」
「……え、マジで?」
思わず、驚きの声が出た。
室内の視線を一身に集めたガーフィールは、腕を組みながら「あんだよ」と柄の悪い声で応じて、
「信用ならねェってか?」
「そうじゃなくて、なんでお前がそんなこと知ってんの的な驚きな。お前がこの手の礼儀作法に精通してるとか、キャラに合わないなんて話じゃねぇぞ……」
「違ェよ、大将。俺様が礼儀作法に詳しいッわけねェだろッがよォ」
呆れた調子で手を振るガーフィールだが、実際、騎士叙勲の作法について語った流れは消えてなくならない。それにはどういう意味が、とスバルが眉を寄せると、
「騎士叙勲についてァあれだ。超格好いいから覚えてた」
「あ、そういうことか。納得した」
ものすごいわかりやすい理由だったので、即座に納得が発生した。
偉大なる中二精神はこんなところでも力を貸してくれている。ガーフィールが騎士叙勲について知っているのも当然だ、とばかりの説得力だった。
「で、クリンドさんの知識的には今ので合ってた?」
「浅学ではありますが、私の知るところと一致されているかと。ガーフィール様の博学さには頭が下がります。明晰」
「でも、今の話からしたらクリンドさんもご存知だったように聞こえたんですが……いえ、やっぱりなんでもないです。気にしないでください」
藪蛇を突いて鬼を出しそうになるのがオットーの生き様だ。
クリンドのモノクルの向こうの瞳が妖しげに光ったのを見て、意見を取り下げるオットーを誰も責められまい。
ともあれ、スバルは着衣の皺を丁寧に伸ばしながら、上着を着込んで必要な装飾を次々と取り付けていく。
「礼服ってすげぇな。執事服も着慣れるまでだいぶかかったけど、こいつらは着こなせるようになる気配が一生しねぇ」
「礼服に関しては着こなす、なんて呼べるほど何度も着る機会をそうそう与えられませんからね。これがやんごとない立場だったりしたら別なんでしょうが……まあ、ナツキさんも今後はわかりませんけどね」
「っつーと?」
「エミリア様の立場も立場ですから。あの方について回る以上、そういった場面に出くわすことも少なくないと思いますよ。その礼服も、わざわざ作らせたものですし」
オットーの話に感心する一方、先々のことを思って気が滅入る。
何やら格式ばった場面を思い描き、ジッとしているのが苦手な心が身震いする。それらの心配も、目先の儀式を無事に乗り切ってこそだが。
「ロズワールの野郎、俺を笑い者にするためにわざと隠してたんじゃねぇだろうな」
「いつまッでも不貞腐れててもしょうがねェよ、大将。それッより、ちゃァんとさっき俺様が言った手順、忘れねェように反復しとけって」
「膝ついて、鞘から剣抜いて渡して、誓約の言葉だろ?俺だって卒業式を二度は経験してんだから、そのぐらいの手順なら忘れねぇよ」
もっとも、あれらはきっちりとした練習を経ての本番だったのは否めないが。
「それにしても今さらだけど、騎士叙勲ってことは近衛騎士の連中とかみんなこれやってんのかね」
「近衛騎士に限らず、騎士を名乗る身份は皆そのはずですよ。といっても、色んな条件すっ飛ばしていきなり主君を相手にってのは稀だと思いますが。普通、国なんかに忠を誓ってから主君を選ぶものだと思いますしね」
「国に仕えるか個人に仕えるかの違いか。それなら、俺が個人に仕えるって部分に関しちゃ正しいだろうよ」
それにしても、自分が騎士という響きには現実感がない。
何度も自称する形で、スバルは己をエミリアの騎士だと言い張ってきた。
その仮称がついには現実のものになると聞かされても、どこか微妙に乗り切れていない部分が大きい。騎士と認められたところで、これまでと何がどれほど変わるのだろうかという疑念も抱いていたりする。
「せっかく、こんなちゃんとした礼服まで着せてもらってんのにな。これ本当に俺にぴったりだけど、いつの間にサイズ測ったの?」
「日々、ナツキ様の意識の合間を縫って測っておりました。ちゃんと合わせて確認はしておりましたが、実際に袖を通していただけて幸いです。重畳」
「測ってたまでは驚かなかったけど、合わせたっていつ合わせたの?俺、いつの間にこれを着せられてたの?」
微笑のクリンドは応えず、着替えを終えたスバルの体を姿見の前へ連れてゆく。
全身を映す鏡の前に立たされて、スバルは自分の格好に微かに息を詰めた。
過剰すぎない程度に装飾がされた、明らかに品格が違って見える黒の礼服。スバルがどんなポーズをとっても、どこか様になっているように思わせる魔性めいた力を持った服だ。厳かに振舞えば、なるほど確かに儀礼用の服らしい趣がある。
ただやはり、それを着ているスバルの方が服の力に見劣りしている感が否めない。
いうなれば、七五三か何かのような違和感があった。
なのに――、
「うん。なんだ、思ったよりきっちり着れてるじゃありませんか」
「まァ、服に着られッちまってる感はあっけどよォ、負け切っちゃァいねェよ。安心していいぜ、大将」
「ええ、よく似合っておいでです。エミリア様もきっと、ナツキ様への印象をさらによいものへと上書きされることかと。好感度上昇」
「本気でそう思ってる?なぁ、お前らそれって本気で心からの発言か?」
襟元を何度も直しながら、スバルは手放しではないにせよ、格好を馬鹿にしてこないオットーたちに疑いの眼差しを向ける。
しかし、それでも彼らは表情筋一つ動かさず、どこか誇らしげにスバルの方を見ているのだ。これにはさしものスバルも口を閉ざす以外にない。
「ほらよ、受け取れ、大将」
どれだけ弄っても劇的な変化が訪れたりはしない。
嘆息して振り返るスバルに押しつけるように、ガーフィールが騎士剣を渡してきた。思わず受け取り、細身のそれにスバルは息を呑む。
「本来は自分の愛用するものがよろしいのですが、ナツキ様はお持ちでないとのことでしたので今回は当家の方でご用意しました。もしお気に召しましたら、そのままお持ちいただいて構いません。ご贈答」
「騎士剣……か。もちろん、真剣だよね?」
「そんな拵えの立派な木剣があるわけないじゃないですか。そんなもの貰って喜ぶのは子どもぐらい……ん?これって、新しい商機になる気が……?」
異世界で土産物屋に木刀が置かれ始める切っ掛けみたいなものを見ながら、スバルは受け取った騎士剣の重みを両手に感じていた。
以前にも、真剣をこの手に握ったことはある。
あれはアーラム村での魔獣騒ぎの折、レムを探しにラムと一緒に山に入ったときだ。村の青年団の剣を借り受けて、スバルはほとんど何も考えずに剣を握った。
実際、あの剣は魔獣と戦う前に折れた上に決め手にはならなかったものの、生き物に刃を突き立てた経験はあれが初めてで、あれ以降にはない。
そしてこの騎士剣は、以前のものに比べていくらか細身で軽いもののはず。
それなのに今、両腕に感じる重みはあのときの比ではない。
「――――」
知らず知らずのうちに喉が鳴り、スバルは胸の内をぎゅっと掴まれたような感覚を味わっていた。
あのときの真剣の重みと、この手にある騎士剣の重みは全く異なるものだ。
そしてその自覚こそが、この儀式の意味であるのだとスバルは知る。
「――ナツキさん。始まる前に呼びにきます。そのときに最後に衣装の確認をしますから、着崩さないようにしておいてください」
「……わかった」
スバルの表情が変わり、儀式と正しく向き合い始めたのを感じ取ったのだろう。
オットーがそう言葉をかけ、それを皮切りに彼らは部屋を出ていく。
「――――」
一人、部屋に残されるスバルは手近なところにあった椅子を引き寄せ、姿見の前に座り込むと、騎士剣を手にした自分を鏡に映しながら思案に沈んだ。
騎士――目前に迫ったその称号の重さが、今になってスバルの肩に圧し掛かる。
何度も軽はずみに自称してきたその単語の意味を、スバルが本気で考えたことがこれまでにあっただろうか。
もちろん、その場その場でスバルは常に真剣だった。エミリアの騎士を自称するとき、それを軽薄さを隠す鎧に用いたことはないつもりだ。
しかし、
「ユリウス、ラインハルト」
スバルの脳裏に浮かぶのは、この国の騎士の中でもトップクラスの二人だ。
片や『騎士の中の騎士』。片や『最優の騎士』。
騎士たるものの誇りであり、騎士たるものの象徴こそが彼らの姿だ。
そのことを理解しないまま騎士を名乗るスバルに、ユリウスは苛烈さと共に現実を叩きつけてきた。
「騎士に必要なのは、忠誠と力……だったっけな」
その二つが必須要素ならば、スバルはいまだに騎士に足りない自覚がある。
スバルのエミリアへの想いは、残念ながら忠誠なんて高尚なものとは程遠い。
力に関しても、地力は足りず、ベアトリスの手を借りても半人前を抜けない。
忠誠も力も、足りないままだ。
だが、以前には足りなかった意志だけは伴っている。
忠誠ではないが、忠誠に負けない気持ちがある。
力は足りていないが、足りない部分を補うために駆け回る意地と覚悟がある。
騎士を名乗るには不格好な感は拭えないが、だからこそスバルらしい。
ナツキ・スバルに、華々しい騎士道など似合うものか。
「なんだ。別にくる必要もなかったみたいなのよ」
鏡に映る自分の姿に、スバルが一つの決着を見たときだ。
前のめりの自分の隣に、小さな人影が立つのがわかった。鏡に隣り合って映り込むのは、長い髪を豪奢な縦ロールにした少女――ベアトリスだ。
「着替え中だぞ。いやらしいロリだな、お前は」
「着替えはちゃんと終わってるかしら。それに、スバルがいつまでも覚悟の決まらない顔をしてるからどうにかしてこいって頼まれたのよ。だから背中叩いてやるつもりで仕方なくきたかしら。――まぁ、必要なかったみたいなのよ」
「あいつら……」
お節介を言い渡していったのは誰か。オットーか、ガーフィールか、まさかのクリンドなのか。あるいは三人全員、その可能性の高さにスバルは苦笑する。
なるほど、今この場でスバルに発破をかける上で、ベアトリスほど相応しい存在はいるまい。ベストチョイスだ。なら、その心遣いに甘えるとしよう。
手持ち無沙汰を悔しげにする、ベアトリスの顔を立たせるためにも。
「背中」
「……?」
「叩いてくれるなら、叩いてほしいな。確かにこう、色々と考え事をしてまとまった気分ではあるんだが……あと一歩、最後のひと押しが欲しかったところでさ」
ベアトリスが大きな瞳を丸くして、スバルの言葉に驚いている。
そんな表情がひどく愛らしく見えることに、スバルは噴き出しそうな気持ちを堪えて、
「だからな、頼むわ」
「別にそんな気にしないでも……ベティーは気にしたりしないかしら」
「気遣ってこんなこと言ってるわけじゃねぇよ。誰に背中叩かれても、最後のひと押しにはなると思う。んで、その誰かが選べるならお前がいい」
「――――」
「お前に背中引っぱたかれて、エミリアの騎士になる最後の力が欲しい。それでいよいよ俺らしいって、そんな気がすんだよ」
気休めに過ぎない考えかもしれないが、気休め上等だ、何が悪い。
気持ちの問題かもしれないが、それならなおのこと、気持ちよくやらせてもらった方がいいに決まっている。
いつだって心の示し方だけは、シンプルな方が伝わるものなのだから。
「し、仕方のない奴なのよ。ベティーがいなくちゃ何もできないのかしら」
「ああ、そうなんだよ。俺、実はお前がいないとダメダメなんだ。お前がいてやっとダメな奴になる」
「まだダメなまんまじゃないのよ!失礼かしら!」
「で、ダメな奴がエミリアの騎士になってダメじゃなくなってくわけだ。だから俺がダメになりかけるたんびに、お前に期待するからな」
椅子から重い腰を上げて、スバルはベアトリスの頭を撫でる。
その乱暴な手つきに不満そうな顔をしながら、しかしベアトリスは手をよけようともしないし、文句の一つも口にしなかった。
「――――」
じっくりと、ベアトリスの撫で心地を堪能したところでスバルは背を向ける。
向けられる背中の意味を、ベアトリスも理解したのだろう。
微かに息を呑み、ベアトリスが構える気配がする。
「――ふんりゃ、なのよ!」
「――――っ」
可愛らしい掛け声と、渇いた平手の音が室内に響いた。
小さな掌から伝わった衝撃は、想像した以上の鋭い痺れをスバルにもたらす。そしてそれ以上の衝撃が、その背中を伝って全身を駆け巡るのがわかった。
「意外とお前、パワーがあるんだな」
「伊達に大きくて重たい本を、毎日のように抱えて歩いてたわけじゃないかしら」
自慢げなベアトリスの言葉に、少女が過ごす禁書庫の日々を思い返す。
確かにベアトリスはいつも、その小さな体を隠せるぐらい大きい本ばかり開いていた。その重さに耐え続けた日々の結果が、今ここに出た。
精霊に筋力トレーニングが効果あるのかどうかはわからないが。
「意外と肉体派魔法使いなところが発覚したわけだ。マッシブベア子」
「なんだか、すごい不本意な呼び方をされてる気がするのよ」
「気のせいだ。そんでもって、気合い入ったぜ。ありがとよ」
「……契約者なんだから、当然のことかしら」
わずかに頬を赤く染めて、ベアトリスはスバルから視線をそらした。
もう一度、その頭を撫でてやりたくなるような反応だ。だが、スバルがその手を伸ばすより前に、
「――ナツキ様、そろそろお時間です。ご準備」
ドアをノックして、呼びにきたクリンドが顔を見せる方が早い。
スバルはいよいよその瞬間が目前にきたと、緊張感に小さく息を呑んだ。
しかし、想像以上に手足や顔は強張っていない。張り詰める緊張感はいい意味で動きを解していて、ベアトリスの想像以上の平手効果をひそかに絶賛する。
「ベアトリス様も、列席される準備がございます。私共も末席を預かりますので、ナツキ様におかれましてはご了承いただければ幸いです。ご理解」
「ああ、わかりました。俺がトチっても笑わないでくださいね」
「ご随意に。粛々」
クリンドが扉の外で案内の姿勢になり、スバルは息を吐いて首の骨を鳴らした。
それからベアトリスを振り返り、何を言うべきか迷って、
「じゃ、いってくる」
「そうするといいのよ」
簡素な言葉の交換だが、そんなもので十分だろう。
言葉も行動も、十分すぎるぐらいにもらったのだから。
「――スバル」
なのに、ベアトリスは最後の最後、もう一度だけスバルを呼び止めた。
部屋を出る直前で、振り返ったスバルを見ながらベアトリスは赤い顔で、
「その格好、似合っているかしら」
と、そう言って、スバルの足りない最後の自信まで補ってくれたのだった。