『未来の話』
――黒い靄が漂う世界に、スバルの意識は再び招かれていた。
なにもない、漆黒の『無』だけに支配された世界。
意識だけが宙を漂い、スバルはぼんやりと己の存在を自覚する。
誰もいない。なにもない。何事も起きない。
始まりがない。終わりがない。無為しか存在しない世界。
夜の海に投げ出されたような、茫洋とした感覚にだけ身を任せ、スバルの意識は思考すら放棄して無為の波間に沈みゆく。
と、ふいにその暗闇の世界に変化が生じた。
正面、意識だけのスバルの眼前に誰かが立ったのだ。
地面――と思われる位置から影が垂直に伸び、人形を為して存在を浮かび上がらせる。
顔は見えない。姿はおぼろげだ。ただ、ぼんやりと女性の影だろう、と思う。
影は揺らめき、ゆったりとこちらに手を伸ばしてきた。
つと、指を伸ばせば触れられるだろう距離。と、それまで意識だけだったスバルの存在は、その伸ばされる指に応える指を得たことに気付く。
なにもなかったはずの世界、意識だけが漂っていた世界に、その意識を反映する肉体が生じた。もっとも、こちらに生じたのは右腕と、作りかけの左手だけだったが。
意識は戸惑い、目の前に伸びてくる指を見る。
指はまるでこちらを慈しむように優しげな仕草で迫り、どうしてか無性に泣き出したくなるような気持ちになる。
そうされることを、ずっと待ち望んでいたような不可思議な感傷。
影がさらにうごめき、衝動的にその手にこちらも指を重ねようとして――止まった。否、止められたのだ。
伸ばそうとしたスバルの手を、後ろから伸びる白い手が包み込んでいた。
柔らかく、熱いぐらいの感触。
振り向いて、その掌の持ち主を見たいと思う。しかし、腕と違って視界はこちらの意思に従わず、振り向く動作はどうしてもできない。
まるで禁じられたように動きを制止され、そして次第に触れる掌の力は強くなり、スバルの意識は後方へと引き寄せられていく。
それはつまり、目の前にいた影との別離を意味する。
伸ばされる指が懇願するように、縋るように、悩ましく動いてスバルを誘う。
握られた右手に反し、空いた左手でその指に触れようとして、しかし半ばまでしか存在しない左手は空しく闇を掻き、届くことはない。
心が震える。激情を叫ぶ。――だが、それを音にする口が存在しない。
遠ざかる、遠ざかる、消えていく、影。
それは泣きそうなスバルの方へ、最後に指を伸ばして、
『――いしてる』
聞き取れなかった最後の言葉、それすらもおぼろげになり、世界は消失した。
※ ※※※※※※※※※※※※
目覚めたスバルの視界に最初に入ったのは、見慣れた豪奢な天井だった。
貴族趣味がふんだんに発揮された屋敷にあっては、使用人の個室すらも装飾過多の領域にある。それが客人をもてなす客間ともなれば、館の主の権威とその他もろもろを示す意味でも、過剰な意匠にならざるを得ないのが実情だ。
そんな事実はどうあれ、小市民のスバルにとっての居心地の悪さは明白だ。
平均より短い、覚醒までにかかる思考時間を利用して、スバルはそんなことをぼんやりと考える。
と、
「――起きて、くれましたか」
目を開けてきっちり五秒、意識を完全に覚醒したスバルにそう声がかけられる。
声の届いた先は寝台の真横、それも至近距離だ。スバルは異常に柔らかい枕の上で首を傾けてそちらに目をやり、
「……ぐーてるもーげん、レム」
「ぐぅ……?スバルくんの故郷のご挨拶ですか?」
「いや、こっち基準だと一地方の訛りみたいなもん。あとはダンケしかわからん。ボーノは違ったよな」
ふと、こっちの世界だと国の違いによる使用言語の違いとかあるのだろうかと不安になる。現状、スバルの言語疎通がどのような形式で行われているのか検証不備であるため、そのあたりの問題はかなり慎重に取り扱う必要があるだろう。
ともあれ、
「目覚めてすぐ側にメイドとか、ある意味じゃ男児の本懐だよな」
「……この度のレムの不始末を思えば、こんなことで罪滅ぼしなんて」
「あー、なんかネガりそうだからいいよ、そういうの。そ・れ・よ・り」
体を起こして一音ごとに首を振りながら、スバルはつと布団の中から右手を持ち上げる。その手はしっかりと、青髪の少女の手と絡んでおり、
「これって俺がやったの?掴んで離さなかった的な……だとしたら、だいぶ恥ずかしいな。子どものとき、お気に入りのタオル手放さなかったみたいな」
「いえ、あの、これはその……」
スバルの問いかけにレムはわたわたと握ったままの手を動かし、それからほんのわずかに頬を染めながら俯いて、
「レムの方から、です」
「どったのよ。言っとくけど、俺ってばこう見えて寝汗すげーぜ?特に手と股関節のあたりとかが。夏場の汗疹とかマジ死活問題な」
「スバルくんが……」
「うん?」
握ったままの手をちらちらと見て、レムはもごもごと口ごもる。スバルは穏やかな気持ちで、急かすこともなく答えを待つ。
そんな姿勢のスバルにレムは何度か呼吸して、それから上目にこちらを見ると、
「眠っているスバルくんが、苦しんでいたように見えたから……手を」
「握ってくれてたの?」
「レムは無知で、無才で、欠点だらけです。ですから、こういうときになにをしてあげたらいいのかがわかりません。わからなかったから、レムがされて一番嬉しかったことを、したいと、思ったんです」
それが恥ずかしい記憶に繋がるのか、途切れ途切れの言葉は拙い。
それでも気持ちを明らかにしてくれたレムに、スバルは握られたままの手を見下ろしてかすかに唇をほころばせる。
まるで子どものように、悪い夢でも見て怯えていたようなスバル。そんなスバルを前にして、彼女が選んだのがこの柔らかな方法。
彼女もまた泣き出しそうな夜に、誰かにこうして手を握ってもらったことがあったのだろう。それをスバルにしてくれたということが、どうにもこそばゆくて嬉しかった。
「それはそれとして、ずいぶんとまた自分を卑下しやがんな、レムりん。そういうのってよくねぇぜ。負のスパイラル、はまるのは楽だが出るのは大変なんだから」
「そう、かもしれませんね。レムの場合、もう出口もわからなくなってしまいました」
弱々しい微笑み。それは微妙に気に入らない。
スバルは内心でふつふつと感じ入るものがありながらも、
「……とりあえず、後日談じゃねぇや、事の顛末が聞きたいかな」
「はい。スバルくんは、どこまで覚えていますか?」
「ロズっちが火の雨降らしながらテンション振り切って降臨して、興奮したレムりんのベアハッグで意識落とされたところまでかな」
「……では、そのあとのことですね」
訥々と、レムは事務的にその後の顛末を口にする。
スバルが意識を消失したあと、ロズワールによる森の中のジャガーノートの掃討が行われた。無意識下でも魔女の残り香を放つスバルは、森に潜む魔獣たちにとっては身を隠しておく選択肢を消すほどの生餌として機能したらしい。
シャマクの闇に紛れていた群れが炎で一掃され、森の中に散り散りになっていた残党ももろともに焼却処分されたとのことだ。
「んじゃ、とりあえず俺の呪いに関しては」
「術者の死亡により、発動の心配はありません。すでに呪いの効力が失われたことはロズワール様も、ベアトリス様も大精霊様もご確認済みです」
「まぁ、サードオピニオンまでかかれば安泰か……」
具体的に呪いがかかっていた部分が思い当たらないので、とりあえず胸のあたりをさすりながらスバルは安堵の吐息を漏らす。
とりあえず、体に直接仕掛けられた時限爆弾は解除されたということだ。そのために何度死にかけたのか、思い出すのも息苦しい。
「村の混乱もロズワール様が直接収めました。子どもたちの経過も良好で、今はほとんど村の様子も平常に戻っています」
「そっかそっか。でもアレだろ?大好きなスバル兄ちゃんがもう血まみれのボロカス状態で戻ったもんだから、さぞやガキ共は悲しんだろ。泣いちゃったりした奴もいたんじゃねぇの?あーもう、仕方ねぇなぁ」
「――ええ、そうですね」
言いながら、レムがゆっくりと意味ありげにスバルの掛け布団を剥がす。思わず「いやん」と体を丸めようとするスバルだが、その仕草は即座に中断。
原因は布団に隠れていた、スバルの服にある。それはロズワール邸の初日、負傷によって運び込まれた際にも着せられていた作務衣のような格好だった。のだが、その作務衣の下履きに異変があるのだ。それは、
「びっしりと落書き……骨折した奴のギプスかよ!」
「ロズワール様のご厚意で、屋敷に招かれた子どもたちが書き置いていきました」
「ったく、あのガキ共が……」
舌打ちしたい気持ちを堪えながら、スバルは書き込まれた落書きの数々を見る。スバル側からだと逆さまだし、そもそも字が汚いのもあって非常に読み難い。
でも、スバルでも読めるイ文字ばかりだったから、時間をかけて全てを読むことができた。
「ったく、あのガキ共が」
さっきと同じ内容。しかし、そこに込められた感情は微妙に違う。
寝台の枕を背もたれにしたまま、スバルは窓の方へ視線を送り、一刻も早く村へ行ける時間がくればいいと思う。
『レムりんをつれかえってくれてありがとう』『ありがとうござーます』『かっこ悪いけど、かっこいい』『やくそく、らじーおたいそうしようね』『だいすき』
「はん、バカめ。俺の方がお前らのこと好きに決まってんだろーが」
簡単に好きなんて言いやがって、言葉が軽いんだよ、とスバルは思う。
それが自分にブーメランしてくる内容だとは気付かないままだ。
そんな生温かな視線を浴びそうな悪態をつくスバル。そんなスバルに、ふとレムは表情を正してから唇を震わせ、
「経過のことに関して、今度はスバルくんの体のお話があります」
「ん、ああ、そうだよな。呪いはともかくとして、それ以外のことでも俺の体ってわりとエマージェンシーしてたし」
言いながら今さら、レムに握られる右手の肩が入っていることに気付いた。
微妙に力を入れてみても違和感はなく、痛みを感じることもない。治療が行われたということなのだろうが、本当にこの世界の治癒魔法は万能なものだ。
と、スバルはそんな風に考えていたのだが、
「ごめんなさい、スバルくん」
楽観的な判断を下すスバルの前で、レムが腰を折って頭を下げていた。
謝られる理由が思い当たらず、スバルはそんな彼女に「おいおい」と手を振り、
「頭上げろよ、レムりん。体の調子とか別に悪くねぇぜ?外れてた肩は入ってるし、体の各所も別に痛むところもねぇ。完調だよ、完調」
「そんなことは、ありません。確かに目立つ傷は治療が終わっていますし、日常生活に支障をきたす後遺症が残る心配も幸いありません。でも――」
言葉を切り、レムはその顔に悲痛の影を落として、
「傷跡は残ります。体はもちろん、心にだって。それに、幾度も治療を重ねたことが原因で、スバルくんの体の中のマナは枯渇寸前です」
「ああ、どうりで。確かにちょっぴだるいかなぁとは思ったけど。……でも別にそれも大した影響じゃねぇよ。男の傷は背中以外は勲章だし、心の傷に関しちゃ俺は相当のタフガイよ?」
親指で自分を示しながら、スバルは彼女の罪悪感を消そうと笑ってみせる。
嘘でもなんでもない。もしもスバルの心が弱々のナイーブ一直線ならば、こうして彼女と手を握り合っての朝など迎えることはできなかった。
心の傷の話をするのなら、スバルはレムの顔を直視することなど、できなくなってもおかしくないだけの体験をしてきたのだから。
そこまで考えて、スバルはじーっとレムを見る。
青い短い髪。整った顔立ちは、綺麗というよりは可愛い系統。当初は感情変化の少ないと思っていた表情も、今はくるくると変わる。恐くない。全然恐くない。スバルを何度もループさせた彼女もいれば、こうしてスバルの生還を心から喜んでくれて言う彼女もいる。全ては巡り合わせ次第なのだ、とそう感じる。
ロズワールのことを思って暴走するレムがいれば、スバルのことを思って早まった結論に至るレムもいて、味方に誤爆する心配がないと割り切れば理性飛ばした狂戦士モードに突入するレムもいるのも事実であり――、
「落ち着いてるように見えて、レムりんって実は全然冷静沈着じゃないよね」
普段の屋敷での態度や、スバルを指導する先輩メイドとしての仕事ぶり。それらを基準として考えたとき、レムは非常に優秀で冷静な判断力を持つ人物に思える。
が、事態がその領分を外れると、途端にトンチンカンな方向に走り始める性質を持っているようにも思われてならない。
即断傾向はスバルも人のことは言えないが、彼女の場合はそれに実力行使と実力行使できるだけの実力が伴うから厄介なのだ。
スバルの指摘にレムは一瞬だけ動きを止めて、それから力なく俯く。
彼女はそうして顔を伏せたまま、
「わかっては、いるんです」
呟き、ぽつぽつと胸中の想いをこぼすように続ける。
「レムは非力で、非才で、鬼族の落ちこぼれです。だからどうしても、走り出しても届かないことが多い。だから、レムが姉様に追いつくためには、早く走り出しているより他に方法が思いつかないんです」
顔を開いている手で覆い、レムは絞り出すように、告解を続ける。
「姉様ならもっとうまくやれた。姉様ならこんなところで躓かない。姉様ならきっと迷わない。姉様なら簡単にこなすに決まってる。姉様なら絶対に間違わないに違いない。姉様なら、姉様なら、姉様なら――」
言葉を切り、レムは弱々しい光を瞳に宿してスバルを見る。
瞳に浮かぶのは涙ではない。ただただ空虚で、諦観に満ちた絶望だ。
「レムは、姉様の代替品、です。それもずっとずっと劣った、本当の姉様にはいつまでたっても追いつけない、出来損ないなんです」
――ふいに、うっすらと瞳に滴が浮かぶ。
「どうして、レムの方に角が残ってしまったんですか?どうして、姉様の方の角が残らなかったんですか?どうして、姉様は生まれながらに角を一本しか持っていなかったんですか?どうして――姉様とレムは、双子だったんですか?」
自分の存在意義を求めるように、レムは唇を震わせた。
瞳に溜まる滴が頬を伝い、彼女の白い肌に悲痛なきらめきを残していく。
黙り込むスバル。レムはその沈黙に耐え切れなかったように慌てて涙を拭い、表情を崩しながら下手糞な微笑を浮かべて、
「ご、ごめんなさい。おかしなことを言ってしまいました。忘れてください。こんなこと、人に話したのなんて初めてで、変なことに……」
「なぁ、レム」
早口で今の発言を帳消しにしようとするレム。
そんな彼女の言葉を遮り、スバルは彼女の名前を呼ぶ。沈黙を破り、スバルがどんな言葉を作るのか。レムは答えを恐がるように、でも顔を上げる。
そんな彼女に、スバルは言った。
「オチは?」
「――え?」
「だぁかぁらぁ、オチだよ、オチ。ドッとお茶の間を爆笑の渦に巻き込む肝の部分。なんかあんだろ、あれだけ話したんだから」
スバルがなにを言い出したのかがわからないのか、レムは戸惑いに目を白黒させ、
「いったいなにを……」
「そんぐらい笑いどころのない話だったっつってんだよ。――レム、中断してた話の続きだ。覚えてっか?」
問いかけにレムは瞳を曇らせる。その彼女の反応にスバルは「仕方ねぇなぁ」と笑いながら左手を持ち上げ、レムの目の前で指をひとつ立てる。
「んじゃ、おさらいからだ。まず一つ目のバーカ。俺を助けられなかったとか言ってること。目の前でぴんしゃんしてる俺が見えるか?ちゃんと足もついてるよ」
ゆらゆらと足を揺らしてアクション。レムはスバルが持ち出した話の内容に思い至ったようだが、それでもなお首を弱々しく横に振り、
「そんなの、結果論です……」
「終わりよければオールオーケーって昔の人は言いました。途中の採点とかしてたら正直、お前より俺の方が目も当てられねぇよ。それはそれとして二つ目のバーカ。全部自分で抱え込んでひとりでやろうとしたこと、な」
ウィンクして、スバルは二本目の指を立てながら、
「ま、俺のための暴走ってのは嬉しいっちゃ嬉しいが、それも時と場合によりけりだわな。なにより、相談してりゃいい方法ってのは出てくるもんだろ?」
魔獣狩りに関しては、スバルの言に一理あることは自明の理だ。レムは自分の短慮を恥じるように唇を震わせ、反論の言葉を喉に押し込める。
もっとも、これこそ結果を見た上だからいえる後出し理論――いっぱいいっぱいのレムはそれに気付かず、こっそりスバルは舌を出して意地悪を詫びる。
それから、スバルは俯く彼女の顔の下に己の顔を差し入れる。
ぎょっと驚いた彼女に笑い、左手の指の三本目を立てて、
「んでもって、言えなかった三つ目のバーカだ。いや、三つ目はあんときにこっそり出てたから、正しくは四つ目のバーカだな。バカだらけだ」
「そう言われても仕方ないだけのことを、レムはしましたから」
「はい、それ。それが四つ目のバーカだ」
自分を卑下する展開から抜け出せないレムに、スバルは指を突きつけて指摘。それから立てた四本の指をひらひらと揺らしながら、
「過ぎたこといつまでも気にして後ろばっか見てることー、だ」
「――――」
「レムさぁ、姉様だったら姉様だったらって死ぬほどラムを持ち上げて自分こき下ろしてっけど……別にレムりんのポジにラムちーがいても状況プラスしてたと思えねぇぜ?レムりんより体力ねぇし、料理は下手だし、仕事もサボるし、口は悪いし……ちょっぴりだけ思慮深い、かな?」
ラムのスペックを思い出し、レムの語るその理想像との乖離っぷりをスバルは思う。あらゆる能力で妹に劣る姉。彼女ら自身も自覚していたとおり、ラムはあらゆる能力値でレムに劣る。それこそ、レムが己を卑下する必要などまるでないほどに。
そんなスバルの感想に、しかしレムは拒絶するように首を横に振って、
「ちが、違うんです。姉様は、本当の姉様はもっと違うんです。角があれば、姉様の角があったらこんな……」
「でも、ラムにその『あったら』の角はねぇよ。だから、その角のあるハイスペックなラムなんぞ俺は知らん」
決まりきった答えで己を否定しようとするレムを遮り、スバルは左手で顎に触れながら、
「俺の知ってるラムはさっき言ったとおりだ。レムより料理も裁縫も掃除も礼儀作法も口もなっちゃいない。――ま、そこがいいとこだとは思うけど」
あまりに物言いが尊大すぎて、たまにぶつかるのも悪くない。
彼女との付き合いの距離感は、そんなものがスバルにとっては心地いいのだ。そして、角のあるなしに問題を向ければ、
「たぶん、そんなこと気にしてんの、レムの方だけだぜ?」
森でのラムとの短い会話を思い出す。
鬼族であることへの拘りは、ラムの方にはそれほど残っていないように思えた。それどころか、ラムはレムのその拘りをどうにかしたいと思っていそうなほどで。
それをどうにかしてやろう、などと思い上がったことなんてスバルは考えない。
所詮は自分は人生経験が浅いにも程がある若造にして、同年代よりも密度においても薄いひきこもり。
そんな奴の口先だけの説教が、どうして心に響くものか。
気負いはしない。響かせようとも思わない。
自分の中で折り合いをつけなくてはならないことは、けっきょくは誰かに縋るのではなく自分でどうにかするしかないのだから。
だからスバルがレムに告げるのは、ひどく単純なスバルの気持ちの押し付けだ。
「お前がいなきゃ、俺は今頃はきっと犬にガブられてお陀仏だ。お前がいたおかげで助かりました。今もこうして生きてます。姉様だけじゃなくて、お前のおかげだ」
「……本当の、姉様なら、もっとうまく」
「かもしれなかったな。――でも、いてくれたのはお前だ」
弱い反論の上からかぶせて、スバルは握られたままの右手に左手を重ねる。
ハッと顔を上げるレムに、スバルは苦笑を浮かべながら、
「レムがいてくれてよかったよ。ありがとう」
「――ッ」
スバルの口にした言葉に、レムは喉をひきつらせるような呻きを漏らす。
それから彼女は顔を背けて、スバルにその表情を見せないまま、
「レムは……レムは、姉様の代替品だってずっと……」
「そんな寂しい自己定義やめとけよ。そもそも、ジャンル分けからして違うぜ、ラムとレムじゃ。なにせ、姉属性と妹属性――事によっちゃ戦争が起きる」
決して相容れない嗜好の違い。どちらにもどちらのいいところがある、なんてスバルが内心で思う中、レムはギュッと目をつむる。
「まぁ、アレだ。今後はもうちょい双子の利点を活かせよ。頭の回るラムの体がおっつかないってんだから、そのおっつかない部分をレムが担当すりゃいいじゃん。麗しの姉妹愛で欠点補い合って、それで最強だよ」
「やっぱりレムの短慮は欠点ですよね……」
「いい感じの流れなんだからそういうとこ拾わない。っと、そうだ。思いついた」
手を叩き、スバルは名案とばかりに顔を輝かせる。
それからいまだに顔を背けているレムの方に身を寄せて、
「さっき、レムりん聞いたよな。なんでラムに角がなくて、自分にあるのかみたいなこと」
「……はい」
「ま、角なくした理由に関しちゃ深く聞いてないし、聞かないからわからねぇよ。わからねぇからわかったような口を利かせてもらうと、だ」
スバルは左手で自分の額の上――ちょうどレムの角が生えていたあたりを叩き、
「角がないラムの角の代わりを、レムがやればいいんだよ。二人で仲良く、『鬼』ってやつをやったらいいじゃん。ハートフルな感じがする」
「――ぁぅ」
「それになぁ、代替品とか言ってっけどそれこそラムにはレムの代わりなんていないぜ?仮にレムがいなくなると、ラムがどんな状態になるか想像できるか?」
絶句するレムは知らないが、スバルはそうなった未来を知っている。
妹の死に絶叫し、この世の終わりを思わせるほどの悲痛な嘆きをこぼし、持てる力の限りでその仇を討とうと狂乱する彼女の姿を。
「……でも」
それでもなお、レムはスバルの言葉にすんなりとは頷いてくれない。
とかく、人を納得させるのは難しい。彼女の場合、それこそ長年にわたってその感情を持て余し続けてきたのだろうから、心のしこりの固さも筋金入りだ。
そんな頑なな彼女に「あー、もう」とスバルは頭を掻きながら、
「わかった、じゃあこうしようぜ。レムはレムの中の理想のラムってやつと自分を比べて、どう足掻いてもにっちもさっちもいかねぇと。だったら、その比べちまう理想のラムって偶像は消しちまえ」
「そんなこと、簡単にはできません。レムはずっと、姉様と……」
「だから評価ほしけりゃ俺に聞けよ。レムの頭の中のラムよりずっと、俺が現実に即した評価を下してやらぁ。言っとくが、俺は空気読む能力がないから率直にいくぞ。お世辞も容赦も一切合財抜きだ。ざまぁみやがれ」
笑いかけ、スバルは左手でくしゃりとレムの青い髪を撫でる。
くすぐったげに目を細める彼女に、スバルは小さく吐息をこぼして、
「俺の故郷じゃ、『来年の話をすると鬼が笑う』っつーんだよ。だからさ」
なにも言えずにされるがままのレムに、スバルは首を傾けて言葉を続ける。
「笑えよ、レム。しけた面してないで、笑え。笑いながら、未来の話をしよう。お前がこれまで後ろ向いてたもったいない分を、今後は前向いてお話しようぜ。とりあえずは、明日のことからでも」
「……明日の、こと」
「そう、明日のこと。なんでもいいぜ?たとえば、明日の朝食のメニューは和食にするか洋食にするか、靴下は右足から履くか左足から履くかなんてくだらないんでもいい。どんなつまらねぇ話でも、明日があるからできる明日の話だよ」
手を広げて、スバルはそうやって話を締めくくり、「どうだ?」と肩をすくめてレムに答えを求める。
彼女はしばし返答を躊躇い、それから困ったように眉を下げて、
「レムは、とても弱いです。ですからきっと、寄りかかってしまいますよ」
「いいんじゃん?俺も弱くて頭悪くて目つき悪くて空気読めなくて自分で言ってて我ながら凹むけど、そこらへんは周りにフォロー期待しながら他力本願で生きてっからさぁ。お互いに寄りかかって進めばいいよ」
なんでもかんでも自分で抱え込んでしまうから、その重荷にばかり目がいって、自分の歩いている道の先が見えなくなるのだ。
スバルぐらい、両手空っぽにするつもりで歩いていれば気楽なものだ。それでもいつの間にか荷物は積もるものだが――ひとりで持って前が見えないなら、誰かと分け合って進めばいい。そんな感じでひとつ、どうだろうか。
「笑いながら肩組んで、明日って未来の話をしよう。俺、鬼と笑いながら来年の話すんの、夢だったんだよ」
「……鬼がかってますね」
「だろ?」
片目をつむって口の端を歪めてやると、レムもつられたように小さく笑った。
笑い出し、笑い出したその瞳の端からふいに涙がこぼれ出す。ぼろぼろと、止まることを知らない涙が溢れるままに流れ流れて、それでもレムは笑い続ける。
泣き笑いして、泣き笑いして、レムは嗚咽と笑い声を押さえるように布団に顔を押しつけて、それでも彼女の泣き笑い声は部屋の中に静かに落ちて。
スバルはずっと、そんな彼女の髪を優しく撫で続けていた。
右手はしっかりと、最後まで握り続けられたまま。
いつまでも優しく、優しく、撫で続けていた。
※ ※※※※※※※※※※※※
ロズワール邸での日々を思い返す。
最初のループが始まり、四日目の夜に死亡――死因衰弱死。
二度目のループに突入、四日目の夜に死亡――死因レムによる撲殺。
三度目のループで絶望、三日目の夕方に死亡――死因ラムによる惨殺。
四度目のループで奮起、五日目の夕方に死亡――死因身投げによる転落死。
そして五度目のループ。あちこちを犬に噛まれまくり、あちこちを爪でがりごりやられ、血も精神力的なものもごっそりと失って、体中の至るところに目を背けたくなるような傷跡が残ったが――全てを拾い切った、と思う。
レムやラムとの関係、屋敷におけるスバルの立場。村の子どもたちは救えたし、森にいた魔獣も掃討されて危険もない。都合二十日間あまりの冒険は万々歳だ。
そう、万々歳のはずだった。
「――別に怒ってるわけじゃないわよ。ええ、そう、怒ったりしてない。一生懸命看病してた相手が目が覚めたらいなくて、探しにいこうかと思ったら椅子にがんじがらめに縛りつけられたりしてて、完全に置いてけぼりにされたからって、そんなことで怒るような狭量な心の持ち主じゃないもの、私」
寝台の横の椅子に腰掛け、己の銀髪を指で弄りながら、そうやってご機嫌斜めにスバルを追い詰める少女の存在がなければ。
滂沱と冷や汗を掻きながら、スバルは彼女の恨み節を黙って傾聴する。
彼女が部屋に来訪してからすでに十分が経過しているが、その時間の大半がこうしてお説教っぽい皮を被った恨み言で占められていた。
もっとも、部屋に入ってきた当初は存分にスバルの体の具合を心配し、体の不具合がないかを確かめた上で安堵の吐息を漏らし、それから気を取り直したように椅子に座ってから気持ちを切り替えて始めるあたり、彼女の生真面目さが伝わってくるが。
ともあれ、
「別に、怒って、ないから、私」
「はい、エミリアたんのお怒りはごもっともです。はい、すみません」
「だから怒ってないってば、もう。でも、スバルが悪いと思ってるなら仕方ない。その謝罪を受けましょう。――ホントに、心配させないでね」
エミリアの勢いに呑まれて謝るスバル。そんなスバルにエミリアは我が意を得たりと微笑み、それから最後に慈愛の彩りを微笑みに差し込んでそう付け加える。
超卑怯である。そんなことそんな顔で言われて、どうして無碍にできようか。
泣くだけ泣いたレムが部屋を辞し(その際、泣いてたことは絶対に秘密です。と強く念を押されたので、彼女にばれないようにどう言い触らすか考慮中)て、うつらうつらとしていたスバルの下を訪れたのがエミリアだった。
来訪してからの彼女の行動に関しては先述の通り。ただし、それが一通り済んでしまったあと、彼女の瞳に浮かぶのはひたすらにスバルの身を案じる慈しみの光で、それがどうにもこうにもこそばゆい。
「それにしても、スバルってケガの絶えない子よね。このお屋敷にきたのだってケガが原因だったのに……あれから四日しか経ってないんだから」
「俺だって別に好きでケガしてるわけじゃないんだよ?ただ純粋に世の中が俺にちょっと厳しめにできてるというか……だからせめて、エミリアたんだけでも俺をダダ甘やかしてバランスとってくれてもいいよ!」
「甘い顔してあげようとしたら逃げたくせに。もう知らない」
「ぬあぁ!自ら機会をふいにしたぁ!くそ、ベア子お前もうちょっとうまくやれよ!がんじがらめってなんだよ!」
目覚めてからまだ顔を見ていない縦ロールの名前を叫び、スバルは訪れた理不尽への八つ当たりを行う。
エミリアはスバルの口にしたがんじがらめ、という単語に遠い目をして、
「椅子に座ったまま寝ちゃって、目が覚めたら背もたれに固定されてたの。もうびっくり仰天しちゃった」
「びっくり仰天ってきょうび聞かねぇな」
「茶化さないの。……パックもパックで私にスバルたちを追いかけさせないようにしようとするし、ロズワールが戻ってこなかったらどうなってたか。わかってる?」
唇を尖らせて少し怒った風なエミリア。
彼女の言いようにスバルはひたすらに恐縮して応じるしかない。
パックはパックの思惑通り、エミリアを危険にさらさないように立ち回り、ベアトリスはうまく説得するという手段を早々に諦めて強制的に行動を封じる方向へシフトしたらしい。
二人がかりで道を阻まれ、にっちもさっちもいかなくなった彼女の心境はかなり悲惨なものだったろうと思う。
もしも置いていかれたのが自分ならば、そう思わずにはいられない。
もっとも、同じことがもう一度あったとしても、やはりスバルは彼女を連れていったりはしないだろうと確信していえるが。
「でも、また助けられちゃったわね」
「へ?」
「だから、また助けられちゃったって言ったの。私の命、助けてくれたお礼をするために屋敷に呼んだのに、またこうして。すごーく、ありがと」
両手を重ねて、エミリアは仕方なさげに相好を崩しながら微笑み告げる。
それを受けてスバルはやっと、「ああ」と返答しながら、
「んや、いいっていいって。別に俺がやりたくてやっただけの話だし、俺に無関係ってわけじゃねぇんだから。そうだよ。俺、やったんだな」
口にしながらようやく、実感を得ることができた。
すとん、と胸の内に固まっていたものが落ちたような気がする。
振り返った二十日間あまりの繰り返しの日々――その終点を、スバルは見たのだ。
あれだけ心を削られて、折られて、挫かれて、それでもなお求めたものが、こうしてようやっと、手の届く場所にまできてくれた。
やり遂げたのだ、とようやく自分でそれを感じることができた。
「スバルはそう言うだろうと思ったけど、それじゃこっちの気が済まないんだから。ロズワールだって、ラムやレムだってきっと、スバルにお礼をしたがるわよ」
「そうか……じゃあ、お言葉に甘えよう。ロズっちには雇用条件をさらにいい感じに見直してもらって、ラムレムはしばらく俺の専属メイドだな、むふふ。そ・し・て!」
口元に手を当てて好色に笑ってから、スバルは体を左右に揺らしてエミリアに迫り、少しだけ身を引く彼女に指を突きつけ、
「エミリアたんもご褒美とかくれちゃう系?」
「……現金なんだから。言っておくけど、私にできることだけよ。……そう言ったら前は名前聞いたのよね」
「ふふん、欲深な俺を舐めちゃいけねぇ。今度の俺はそんな甘さとは無縁さ。貪欲、強欲、渦巻くリビドーが俺を突き動かす!」
ベッドから立ち上がれないまでも、両手を斜めに掲げて荒ぶるスバルのポーズ。
さすがにここまで意気軒昂の状態のスバルを見て、肩透かしな要求がくるとは思えなかったのか、居住まいを正してエミリアがスバルに向き直る。
要求を聞こう、と言わんばかりなエミリアの態度にスバルは頷き、それからざっと求める『エミリアご褒美リスト』を脳内で検索。
ちょっとした冒険や派手に階段を飛ばし飛ばし昇るような選択肢が広がる中、スバルは取捨選択に熟考した上でひとつを選ぶ。
そして、
「じゃあ、俺とデートしようぜ、エミリアたん」
と、二十日前に交わした約束を、再び彼女と交わすことにした。
「でえと?」
「一緒に二人でお出かけして、同じもの見て、同じもの食べて、同じことして、同じ思い出を共有するってこと」
「……そんなことでいいの?」
「そんなことが、いいのさ」
最初の一歩はそこから始まったのだ。
スバルがその念願のデートを彼女とするために、どれほどの苦労を重ねてきたか。
途中で色々な想いが積み重なり、スバルがループして求めるハードルは常に上がり続けていったが、最後に飛び越えようと願ったハードルは常にそこにあった。
だから、この繰り返しの日々の締めくくりには、その約束がふさわしい。
「村のガキ共にエミリアたん自慢してぇし、花畑とかスゲーのあんだよ。ただぼんやりと、歩いてるだけでも俺にとっちゃ特別だし」
「スバルの中で強欲って意味、普通と違うかもしれないわよ?」
「言ってなよ。その内、俺の図々しさにその微笑みも凍りつくぜ。イエス!」
両手を交差させて謎のポージング。
そうして感情の昂ぶりを隠せないスバルを見ながら、エミリアは力が抜けたような笑みを浮かべて、
「はーい、わかりました。スバルとでーと、してあげる」
「っしゃぁ!それでこそ!E・M・B!(エミリアたん・マジ・菩薩)」
約束が交わされ、スバルはガッツポーズで高らかにそう謳う。
エミリアの小さな吐息、それを耳にしながら、スバルは体の復調を待ち望む浮かれた気持ちで窓の外を見る。
村の方角、約束されたデートの目的地。
それに思いを馳せながら、ふとスバルは魔獣の森のことを思う。
スバルの身に宿る呪い、それは全てが効力を失ったとのことだ。
それはつまり、あの森にいたジャガーノートの掃討を意味する。破れた結界の隙間を縫って、こちらへ入り込んだ一匹から始まった今回の顛末。
けっきょく、片方の殲滅という形で全ての片がついてしまったことになる。
わけのわからない後味の悪さがあった。
単純に、害獣がいなくなったことを手放しで喜べるような気分ではない。
ふと、思い出す。
森の中で、無我夢中で、あの魔獣の体に剣を突き立てたその感触を。
肉に鋼を打ち込む感触は独特で、掌に残るそれは記憶にずっと新しい。
命を奪う、その感触。
そんな感触も、いつかは忘れてしまうのだろうと思う。
時間の経過とともにきっと、今こうして胸に去来するわけのわからないものは消えていくのだろうと思う。
異世界にくるまで知らなかったそんな感覚。
それを忘れてしまう日がくるまで、なにができるのか――。
「スバル」
「うん?」
呼びかけられて振り返る。
遠く、ぼんやりとしていたスバルの視線、その意味を彼女はどう捉えたのだろうか。
エミリアはその銀色の髪をかき上げ、窓に歩み寄るとカーテンを開いた。
遮られていた日差しが部屋の中に一気に広がり、彼女のその銀の髪が光の乱舞に呑み込まれ、スバルの目をそっとその情景に引き込んだ。
そして、押し黙るスバルに、エミリアはふっと微笑み、
「でーとの日は、花束を持っていきましょう」
「――うん」
その微笑みを受けて、敵わないな、とスバルは顔を掌で覆った。
いつか忘れてしまうその日がくるまで、忘れないで胸に刻んでおこうと思う。
偽善だし、押しつけがましい感傷だけれど、間違いではないと思うから。
エミリアの微笑が、それを正しいと言ってくれたような気がしたから。
エミリアと二人、互いに笑い合いながら時間が過ぎる。
――ようやく届いた五日目の朝日が、優しく二人を照らし続けていた。