『君を連れ出す理由』


 

プレアデス監視塔到達のための、死の砂漠地帯アウグリア砂丘の攻略。

魔獣の巣窟でもある砂の迷宮を抜けるため、心強い味方としてスバルたち一行に『魔獣使い』メィリィが加わった。

 

とはいえ、彼女を連れ出すと決めたものの、屋敷の座敷牢に身柄を拘束し、一年もの長い期間を縛り続けてきたのはロズワールの協力あってこそだ。

『腸狩り』と共謀して屋敷を襲った経緯もあり、当然、そんな彼女の軟禁を解除するにはそれなりの言い合いが発生するものと思ったのだが――、

 

「別にいーぃんじゃない?スバルくんとエミリア様が外に出すって決めたんなら、出してあげても問題ないでしょ。仮に判断違いでその子が悪さ働いたとしても、それで狙われるのは君たちだろーぉしね」

 

などと、ロズワールはあっさりとメィリィの解放を許可。その答えの内容も実にロズワールらしいと言わざるを得ない内容だったが、ひとまず許可は取り付けた。

そんなわけで、メィリィは無事、一年ぶりの解放と相成ったわけだ。

 

「んん~っ!やあっぱり、お外の空気は違うわあ。ずうっとあのお部屋の中にいると窮屈で、息が詰まっちゃいそうだったもん」

 

「つっても、お前にあんまりそう思わせないために色々と手は尽くしたんだけどな。言うほど、悪い生活ってわけでもなかったろ?」

 

「そおかしら?気遣いは嬉しいけど、やあっぱり自由に出歩ける身とは全然違っちゃうわよお。お兄さん、そういう細かなところに気付けないと、今にお姉さんとお嬢ちゃんに嫌われちゃうんだからあ」

 

大量のぬいぐるみを抱えながら、振り返るメィリィが唇を尖らせる。

ちなみにメィリィの口にした、『お姉さん』がエミリアのことで、『お嬢ちゃん』がベアトリスのことである。これがペトラだとペトラちゃん、ガーフィールだと『牙のお兄さん』になり、オットーは『弱そうな人』なのだからさもありなん。

 

「お部屋、ここでいいのお?」

 

「聞いた限りじゃ問題なし。一応、使ってない部屋でも掃除の手は入ってるから、汚い場所とか不自由する問題とかはないはずだぜ。俺らが荷物運び出す間に、フレデリカあたりがきっちり掃除してくれてたはずだし」

 

「……ふーん」

 

きょろきょろと、物珍しげにメィリィが見回すのは、ロズワール邸西棟にある使用人用の私室が並ぶ一角――その中の一部屋だ。

 

座敷牢から解放されることになったメィリィだが、その立場は複雑を極めた。

当然、放り出すわけにはいかないため、屋敷で面倒を見る必要があるのだが、彼女の役割は客分なのか使用人なのか。客分というほど遠くには置けないし、使用人というほど内側に潜らせるのもいただけない。

 

結局、どっちともつかない半端な『協力者』という立ち位置に落ち着き、彼女には半身内のような形で使用人階の一室が宛がわれた。

そこに、これまで座敷牢に溜め込んでいた数々の私物を運び入れて、無機質な部屋を彼女色に染め上げようというところである。

 

「せっかくこんな風にしてもらってもお、長居するかどうかなんてわかんないけどね。無事に生きていけそうな目処が立ったら、すぐに逃げちゃうかもだしい」

 

「その目処が他人に迷惑かけないこと前提で、おっかない母親のところに帰るとかじゃない限り、お前の好きにしたらいいさ。あ、ただし、ちゃんと今回の仕事は終わらせてもらうぞ。その後でなら、好きにしろ」

 

「後腐れなくなくなったら、どこで死んでもいいってことお?」

 

「俺の耳にさえ入らなきゃ、誰がどこで死んでようが構うかよ。……って、昔のシニカル気取りの俺なら言っただろうけど、そうは言わねぇよ」

 

運び込んだ荷物を部屋の隅っこに置いて、窓際に佇むメィリィの頭を撫でる。栗毛にお下げの少女は、スバルの掌に撫でられたままになりながら目を瞬かせる。

 

「関わっちまった連中は、どうあれまともな生き死にしてほしいと思うもんだ。お前が出てくのも自由にしたらいいけど、どうせなら手紙の一つでも出せよ。それができる程度には真っ当に、過ごしてくれりゃそれでいいから」

 

ぽんぽん、と最後に軽く頭を叩いて、撫でていた手を引っ込める。メィリィは撫でられていた頭に手を当てると、じと目でスバルを睨みつけた。

 

「……お兄さん、そおやってお嬢ちゃんやペトラちゃんを手懐けたのかしら。まあったく、油断も隙もないったらないわあ」

 

「そういうつもりはねぇんだけどなぁ」

 

頭を掻いて、スバルは引っ越し手伝いを終えて部屋の出口に向かう。荷物の運び込みが終われば、部屋の飾り付けまでは手伝うつもりはない。というより、少女の模様替えセンスとスバルのセンスとの間にはおそらく絶望的な壁がある。

余計な手を入れて嫌われる前に、さっさと退散すべきだろう。

 

「まあ、お兄さんの言い分は話半分に聞いておくわあ。それにどうせすぐ、アウグリア砂丘に命を捨てにいくんだしい」

 

「捨てにいくんじゃなく、拾いにいくんだよ。そこんとこ、お前の力にかなりかかってるんでヨロシク」

 

「はいはあい」

 

ひらひらと手を振って、こちらを追い出しにかかる少女に片手を掲げる。スバルを見もしないメィリィは、気のない顔で箱の中から私物を取り出し、それを仮初の自分の部屋へと配置していく。

メィリィの言う通り、長居するかどうかも、戻ってくるかどうかもわからない部屋ではある。ただ、

 

「楽しそうにしちゃってまぁ」

 

自分の部屋を与えられた少女が、心なしか弾んだ足取りで室内を歩き回る。そしてお気に入りのぬいぐるみを置いて回る姿には十分、年頃の少女が初めて自分の部屋をもらった――そんな、弾んだ調子が見え隠れしていて微笑ましいのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

メィリィの同行が確定し、『ドキドキ、賢者に質問ツアー』の参加者はこれで七名――スバル、エミリア、ベアトリスの身内枠三人に、ユリウス、アナスタシア、メィリィの外部協力者枠が三人。そして、連れ出されるもう一人の少女、レム。

以上の七名が、世界図の東端に位置するアウグリア砂丘へ臨むメンバーになる。

 

世界の端も端にあるアウグリア砂丘へは、真・ロズワール邸から東へ一直線――ただし、その旅路は水門都市プリステラへと向かう道筋よりも長く、片道だけで二十日近くかかることは確定している。

つまり今回の冒険は行き帰りだけで四十日、無事に監視塔へ到着し、そこに滞在する日数のことを考えれば二ヶ月以上になる可能性のある大遠征だ。

それだけに、何が問題になるのかというと――、

 

「なぁ、ペトラ。ほったらかしにしてて悪いけどさ、機嫌直してくれって」

 

「別に~。わたし、怒ってなんてないもん。スバル様はどーぞ、これまでみたいにどこか遠くで危ないこととかいっぱいしたらいいんじゃないですかっ」

 

すでに一ヶ月、プリステラ関係で放置された上に、加えて二ヶ月の放置が確定しているペトラが激しくへそを曲げてしまっているのだ。

少女はその小柄な体に似合いのメイド服を翻し、つんと澄まし顔を作りながらせかせかと屋敷の廊下を歩いている。スバルはといえば、そんなペトラの後ろを平謝りしながら、とにかく機嫌を直そうと言葉を尽くしている真っ最中だ。

 

そもそも、何故ペトラのご機嫌伺いにスバルがこんなに必死になる必要があるのかという話だが、古今東西、女の子がこうして不機嫌になった場合、悪いのは大抵は男であるというのが通説だ。

実際、この屋敷でも有数の女子力を誇る女子代表格であるペトラ。彼女の機嫌を損ねそうな残念男子は、屋敷にはスバルかロズワールかガーフィールかオットーしか――他にも該当者多数ではないか。というか、男勢は全員、残念男子ではないか。パック復活のあかつきには、パックもそのダメ男勢に加わるだろう。ダメすぎる。

とにかく、

 

「そりゃ一ヶ月もロズっちと屋敷に取り残されてたら息が詰まっただろうけど、一応はこれもお仕事なわけだから選り好みは……ぐえ!」

 

「そんなことで怒ったりなんてしません!わたし、子どもじゃないんだから!フレデリカ姉様やラム姉様もいるのに、変なこと言わないで」

 

「男の胸に飛びついて、水月に頭突き入れるような子が子どもでなくてなんと……」

 

人体急所を打ち抜かれて、悶絶するスバルにペトラがご立腹だ。

両手を腰に当てて、薄い胸を張る姿のどこに『子どもらしさ』以外を感じろという話だが、淑女は精神に肉体が追いつく前に出来上がっているものだ。ベアトリスの場合は成長が一向に追いつかないので、精神も引きずられてる感があるが。

 

「でもペトラ、前よりちょっと頭突きの位置が上がったか?前は懐に飛び込んでから一拍、伸び上がるタイミングがあったと思ったのに」

 

「……呆れた。ベアトリスちゃんにも言ったでしょ?ほら!ちゃんと見て。わたしも一ヶ月で成長するの。背も伸びたし、足も伸びたし、顔も可愛くなったでしょ」

 

「あー、確かにちょっと伸びたか?背も髪も。顔は元々可愛かったけど」

 

元々、ペトラはアーラム村一の器量よしだった。村の男児の憧れにして、お嫁さんにしたい女子不動の一位であったペトラだけに、屋敷のメイドとして引き抜く際にはすったもんだがあったものだ。

具体的に言うと、泣きじゃくる子どもたちを相手に、村の広場のど真ん中で繰り広げられる大相撲大会。最後には大人も乱入し、何故かボロボロにされたスバルが胴上げされて終わった謎の通過儀礼だった。

 

ともかく、村中に愛されて、屋敷への奉公を大いに嘆かれたペトラだ。

将来性抜群のペトラのためにも、できるだけ屋敷の中では便宜を図ってやりたい。そうはいっても屋敷の中でのスバルの権限などないに等しいので、こうして日々、日常を忘れずに済む程度に構ってやるぐらいなのだが。

 

「遊びたい盛りの女の子に、それもやってやれてなかったからな。気心知れてる姉様方とはいえ、仕事仕事じゃ息が詰まるのもわかるって話だ」

 

「そういう、話じゃないけど……」

 

よしよしと、拗ねる少女を慰めるように両手を開いてみせる。と、ペトラは少しだけ躊躇う仕草を見せてから、スバルの腕の中に飛び込んできた。小さい体を抱きしめてやり、労うように頭を撫でる。

 

「スバル……じゃなくて、スバル様。また、危ないことしにいくの?」

 

「危ないことって決まったわけじゃないぜ?いや、危ないかもしんないなぁぐらいの話が出てるけど、実はものすごい格安安全ツアーの可能性もある」

 

「どっちがどのぐらいの可能性?」

 

「八・二で、安全の方が分が悪いかな?」

 

「それ、だいぶ危ないと思うよ、わたし」

 

突っ込んだ話に持ち込まれると、嘘をつけないのもスバルの悪い癖だ。

腕の中のペトラが不機嫌になる気配がして、スバルはどうしたものかと嘆息する。と、ペトラはスバルの腹に額をぐりぐりと押し付け、

 

「わたし、心配です。スバル様っていっつもそう。初めてお屋敷にきて、村で会ったときからずっと。あんなにたくさん大変そうなのに、また休みもしないであちこち駆け回って……何もしない旦那様を見習ったらいいのに」

 

「いや、たぶん、ロズワールも俺らの見てないところで判子押すのに額に汗してたりすんだよ?命の危険的な意味でなら、まぁ、役立たずは同感」

 

「魔獣のときも、魔女教のときも、土蜘蛛とか女神像とか、エリオール大森林のときもお墓掃除のときも大変で、それなのにプリステラでも魔女教とぶつかって、オットーさんたちまで死んじゃ……いかけたのに」

 

「危うく、またオットーが殺されてしまうところだった」

 

オットー死に過ぎ。

印象的には全くの同感ではあるのだが、あまり簡単に死なないでほしい。オットーに死なれると、ナツキ・スバルも死なないわけにはいかなくなる。

死でも分かつことのできない友情、などと嘯くつもりはないが。

 

「別にスバル様じゃなくてもいいじゃない。誰か他の人に……もっと、強い人とかに任せたらいいのに。旦那様とか、暇じゃない」

 

「わかった、わかったよ。ペトラがどんだけ、日頃、うだうだ過ごしてるロズワールに対してフラストレーション溜まってるのかはわかったから。何かにつけてロズワールを死地に追いやろうとするのはやめよう。陣営内の不和すぎるから」

 

ペトラがロズワールに出すお茶に、雑巾の絞り汁を入れるぐらいなら見逃しても構わないが、さすがに敵意・害意が具体性を帯び始めるのはマズい。

そうなる前に制止の声をかけるが、スバルを見るペトラの瞳は真剣だ。

おざなりな誤魔化しや、その場しのぎの言葉では少女を納得させられそうにない。何よりペトラは本気でスバルの身を案じてくれている。

ここで余計な軽口を挟むのは、その気持ちに対して失礼というものだろう。

 

「まぁ、ペトラの言い分もわかるよ。ちゃんとな。そりゃ、賢者の塔に向かうまでには魔獣もいるらしいし、砂漠の迷宮ぶりは半端ないって話だし、そもそも塔に近付くと癇癪起こした賢者に狙われるってとんでもなこったけど……それでも、誰かに任せようって気にはならねぇんだよな」

 

「……どうして?スバル様、まさか自分が強いって勘違いしてるの?そんな恥ずかしい勘違い、ガーフさんだけで十分だよ」

 

「ペトラの採点の厳しさマジ半端ねぇな!ガーフィールに聞かせらんねぇや!」

 

聞けば多くの男が震え上がるほど、ペトラの採点基準は厳しく辛い。

ガーフィールの強さに対する姿勢を、なるほど勘違いとはいい捉え方だ。ただし、ガーフィールはその『勘違い』を『現実』に変えるための努力は欠かさない。それにたぶん彼の場合、『勘違い』しているときの方が強いのが考え物だ。

そういう意味でも二重に、今の話はガーフィールには聞かせられまい。

 

「まぁ、ガーフィールの考え方に対する所感は置いておくとして……別に俺だって、俺より適任がいないと思ってるわけじゃねぇ。っていうか、砂漠の迷宮抜ける準備があるんなら、ラインハルトに全部ぶん投げた方が色々安全なはずだしさ」

 

「なら、なんでそうしないの?」

 

「なんでだろな。ちやほやされるのは好きでも、名誉欲がある方じゃなかったと自分では思ってんだけど」

 

自分がどうしてそうしたがるのか、実際のところはよくわかっていない。

ただ、あえて言葉にするとしたら、これはこういうことだろうか。

 

「――いや、やっぱり、これは俺がやりたいことなんだろうな。もっと適任がいるのかもしれなくて、そっちの方が可能性が高いってわかってても、俺がやりたい」

 

「どうして?」

 

「恥ずかしい話……目が覚めたとき、最初に見るのが俺であってほしいからだ」

 

「――――」

 

誰が、とは言わなかった。言わなくても、ペトラにも伝わっただろう。

今もなお、深い眠りの中にある少女――『賢者』の塔で、その彼女を眠りから目覚めさせる手段が見つかるのならば、それを掴むのは自分でありたい。

 

適任者が他にいるかもしれなくて、自分以外の誰かの方が可能性が高いのかもしれなくても、こればかりは譲れないし、譲りたくない、スバルのエゴだ。

 

「感情抜きで、理屈だけの話をするならさ……目覚めさせるのは、誰でもいいと思うんだよ。決して目の覚めない、とんでもない病気みたいなもんが蔓延してて、それから救い出すだけの話ならワクチンやら特効薬やらなんて、誰が開発してくれてもいいとは思う。救われてくれるなら、過程なんてどうでもって思う」

 

「……うん」

 

「でも、そこに感情をぶっ込んだら、過程も俺の手でやりたい。俺が助けてやりたい。俺が起こしてやりたい。俺の全部で、全部を救ってやりたい」

 

――だから、ナツキ・スバルがいくのだ。

 

もっと強い人間なら、いくらでもいる。

もっと頼れる人間なら、いくらでもいる。

もっと賢い人間なら、いくらでもいる。

もっと素晴らしい人格者なら、いくらでもいる。

 

だけど、その全部を自分のエゴで蔑ろにして、ナツキ・スバルがいくのだ。

彼女を救い出して、彼女に称賛されたい、ただそのためだけに。

 

「自分勝手で、がっかりさせてごめんな」

 

「――ホントに、がっかりしちゃった。今のでなんにも変わらない、わたしに」

 

「んん?」

 

情けない自白に、スバルは嫌われるの覚悟でペトラの頭を最後に撫でる。だが、ペトラは聞こえづらい声でそうこぼすと、スバルの腕の中で顔を上げた。

その丸く大きな瞳は大粒の涙で潤んでいて、スバルは驚いてしまう。

そこに、

 

「えいっ」

 

「また鳩尾――!?」

 

鋭く頭を振り下ろし、ペトラの額に水月が抉られる。

無防備な急所狙いにスバルの膝が落ちると、腕をするりと逃れたペトラは大きく飛びずさり、あっかんべーと舌を出した。

 

「スバル様のバーカ!自分勝手!もう好きにしたらいいじゃないっ」

 

「ぐ、うお……っ」

 

「二ヶ月して戻ってきたとき、わたしがすごい美人になってビックリさせてあげますからっ。その成長を、間近で見られなかったことを後悔したらいいよ!」

 

「む、それは素直に残念な気持ちがあるぞ」

 

ちょうど成長期の子どもの変化は尋常ではない。ペトラも華の十三歳、二ヶ月も離れていれば、実際に印象が大きく変わってしまいかねない。

 

「何を隠そう、俺も中二から中三の一年間に十九センチ伸びたからな……」

 

「え、それはちょっと無理そう……」

 

まぁ、スバルの場合は元の身長が低かったために起きるレアケースだろう。かけられる期待の大きさにペトラが折れかけたが、すぐに少女は拳を握りしめた。

そして、スバルに両拳を突きつけて宣言する。

 

「とにかくっ!スバル様はそーやって好きに危ないところにいって、いっぱい人に心配とか迷惑かけながら、いつもみたいにしらーっと帰ってきたらいいのっ」

 

「そう言われると、俺ってかなり傍迷惑な奴だな……」

 

そうやって見てみると、意外とこれが言われ方間違ってないのでアレなのだが。

ともあれ、スバルの方も両手を突き出すと、ペトラの拳に拳を合わせた。

 

「んじゃ、毎度のことでペトラには悪いけど、いつものように危ないところにへらへら出向いて、んでもって色々なんやかんやしてしらっと帰ってくるのを待っててくれや。出かけた俺らに、おかえりって言うのだけはペトラの特権だ」

 

「……フレデリカ姉様とかラム姉様にも先に言わせない?」

 

「ああ、約束する」

 

「旦那様にも?」

 

「そこは心配しないでも、屋敷戻って最初に顔見せるのがロズワールだったら俺の方が殴り掛かるよ」

 

「……ん、わかりました。じゃあ、それで納得してあげます」

 

合わせた拳を引いて、嘆息するペトラがようよう意気を引っ込めてくれる。流れを見ると多分に、ペトラに譲らせてしまった形が大きいと見るべきだけれど。

 

「もう、スバル様は仕方ないんだから……」

 

なんだか、顔を見せる相手みんなに、そう言われている気がして。

頭が上がらないな、とスバルは思うのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

後顧の憂い、というほどのことではないが、屋敷に残した問題を解消して回っていると、最後にスバルが足を運んだのがその一室だった。

 

「――――」

 

この部屋に上がり込むときだけは、自然とスバルも息を詰め、足音を忍ばせる。おそらくは大声で歌いながら、タップを刻んで入室しても室内の様子は変わらない。

それでも無意識に静寂を守ろうとするのは、その部屋の寝台に横たわる少女の眠る姿が、あまりにも見るものの心に儚げな疼痛をもたらすからかもしれない。

 

今すぐにでも、目覚めるものなら目覚めて欲しい深い眠り。

しかし、その眠りを妨げることに、ひどく冒涜的な何かすら感じてしまう。そう思うほどに、夢幻に沈む少女の姿は尊いものに思えるのだ。

 

「なんてのは、さすがに俺の主観的な意見すぎるのかね……」

 

呆れた口調で言いながら、スバルは寝台の横に椅子を引き、腰を下ろす。

そうして一ヶ月ぶりに足を運んだ部屋の中、以前と――一年前から一向に様子の変わらないまま、今も眠り続けるレムの寝顔と再会した。

 

「帰ってたのに、顔出すのが遅れてごめんな。ちょっと色々と片付けてて……それで気後れしてるうちに、最後の最後になっちまった」

 

「――――」

 

当たり前だが、眠るレムからの返事はスバルにはない。

そのことがわかっていながら声をかけるスバル、しかし表情は穏やかだ。彼女の前でだけ見せる、ナツキ・スバルの表情がそこにある。

 

エミリアにしか見せられない、何かをなげうつような懸命な表情。

ベアトリスにしか見せられない、命を預けるような信頼の表情。

そしてレムにしか見せられない、スバルの押し隠す弱さの表情、それがある。

 

「何から話したらいいかな……いや、話すこと自体はいっぱいあるんだぜ?会いにこれなかった間、水門都市プリステラってとこにいってたんだけど、そこでも本当に色々あってよ。話すのに一晩じゃ足りない大騒ぎだったんだ。……でも、それについて話すのは、時間がたっぷりあるからさ」

 

胸元までタオルケットのかかるレム、寝台の中に潜る彼女の手を探し出し、スバルは何の気なしにその手を取って語りかける。

しなやかな指先に、細く白い腕。柔らかさと生命の温かさがそこにあるのに、不思議と血の通う感覚が――否、命の通う感覚がそこにはない。

 

生命を維持する、何がしかの力は働いている。

だが、生命を持続し、全うさせるための力は働いていない。

 

矛盾の中にあるレムの生命は、昏々とした眠りの中で今も時を止めている。

しかし――、

 

「やっと、届くかもしれない」

 

「――――」

 

「期待、煽るだけ煽って駄目だったって可能性ももちろんある。賢者が名前負けのがらんどうで、知識が当てになりませんでしたごめんなさいって可能性も、ある」

 

「――――」

 

「だけど」

 

『暴食』を倒す以外に、ようよう明確に見えた解法に迫る手段なのだ。

その答えに至るために辿った道筋が、他者に形作られたものであることは不甲斐なさの限りではあるが、それでもやっと掴めそうな光明――。

 

「エキドナには、ビビッて聞けなかったから」

 

『聖域』で、魔女の墓所で、夢の茶会へ招かれた際、『強欲の魔女』エキドナとの対面で、スバルは魔女を拒絶することで、その支配の手を逃れた。

それはナツキ・スバルという脆い魂を守ると同時に、レムを救うための手段を知る『かもしれない』相手を遠ざける選択、それと同義でもあった。

 

無論、過去を知る『魔女』であるエキドナが、現在で猛威を振るう大罪司教にどこまでの見識を持つかは知れなかった。だが、それでも事情を明かせば、魔女の推測を聞くことで解法を得る一助にはなったかもしれない。

 

断固として魔女の要求を撥ね退けた直後は、あの決断で良かったのだと自信が持てた。

しかし時間が経過し、流れる季節や関係性がレムを置き去りにするのを感じるたびに、あのときの選択が正しかったのかどうか不安になる。

 

救い出すと、そう心に決めていても、何ら具体的な行動を起こせない自分が。

ただやっと、その行き詰まりの閉塞感から抜け出し、彼女のために行動できる。

 

都市プリステラで、レムと同じ被害に苦しむ大勢の人々――彼らを救うための、プレアデス監視塔への旅路。しかし、本音だけを語るのであれば、スバルを監視塔へ進ませるのはレムの存在、それだけに他ならない。

不順で不適切、そうわかっていて、それでもスバルは――。

 

「俺は、お前を取り戻すよ、レム。――それは、俺の誓いだ」

 

あの、最も弱かった日々に、時間に、彼女がいてくれたように。

レムが最も誰かの手を必要とする今こそ、自分がそこにいてやりたいのだ。

 

「――痛い」

 

「――ッ!?」

 

決意を言葉にし、強く目をつむっていたスバルはその声に顔を跳ね上げる。

まさかの驚きに目を見開いてレムを見れば、しかし彼女は静かに瞼を閉じたまま、黙ってスバルに手を握られている状態だ。

ならば今の声は――、

 

「放しなさい、バルス。手、見ていて痛々しいわ」

 

「……なんだ、ラムか」

 

振り返ると、部屋の入口に立つラムがスバルの方を冷たい目で見つめていた。彼女の視線に安堵し、それからスバルは自分の手――レムの手を握る掌に、思った以上の力が入っていたことに気付き、慌てて手をほどく。

 

「白魚のようなレムの指が、バルスの情欲に蹂躙されるのは見るに堪えるわ」

 

「その言い方やめてくれる?なんか、俺のさっきまでの決意が一転してこう、汚らわしい感じになるから」

 

握っていた手をスバルが離すと、部屋に踏み入るラムがレムのその手を取る。姉は妹の白い指、そのほっそりとした手を軽く撫でてやると、スバルを横目にした。

 

「自分の決意が純粋で清廉なものとでも思っているの?もう少し、自分を丁寧に顧みてから発言なさいな。……瓜二つの容姿のレムに欲情されると、ラムの方も背筋に怖気が走るわね」

 

「安心しろ。姉様は外見はそっくりでも、その内面の輝きの違いによって俺の食指が全く動かねぇ。外面だけで判断するような、半端な男心じゃねぇぜ」

 

「そう、ならいいわ。せっかく方法が見つかって目覚めてみても、一年の間にバルスに忘れられたとあったら、レムの気持ちが浮かばれないもの。……この子がバルスを憎からず思ってるなんて、与太話がバルスの妄想でないのなら」

 

「どんだけ信用ないの……そろそろ付き合いも長いよ?」

 

「ハッ」

 

いつものように鼻を鳴らして、ラムが手振りでスバルに席を立つよう指示する。それに従って腰を上げると、彼女は部屋の中を見回して、

 

「出立の準備があるから、レムのお召し代えの用意もしなきゃいけないのよ。汗もかかないから着替えの必要もないけど……体を拭いてあげたりしなきゃいけないし」

 

「――――」

 

「――鼻の下が伸びているわよ、汚らわしい」

 

「コメントしづらいからコメントしなかったのに、黙っててもそれかよ!」

 

ラムに視線で軽蔑されながら、スバルは理不尽に地団太を踏みそうになり、場所が場所なのを思い出して拳を握るに留める。

 

レムの身の回りの世話――『記憶』と『名前』を喰われて眠るレムは、基本的に肉体的な反応と無縁にあるため、体を拭いたり、着替えさせたり、そういったことの意味は現実的な意味合いとしては何もない。

ただ、彼女という存在が時に置き去りにされていないのだと、彼女の周りにいる人々がそう感じるための、その慰めに過ぎないのだ。

 

「――――」

 

究極的に実利の話だけするなら、スバルがこうして語りかけるのも、ラムが妹の身の周りの世話をするのも、全てのことに前向きな意味はない。

それでも無駄とも言える行為を誰も止めようとしないのは、行いの全てに結果が伴うわけではないと、皆が言葉にしないでわかってくれているからだ。

 

「そろそろ、レムが自分の妹だって実感は芽生えたかよ?」

 

「――――」

 

丁寧な手つきで、それこそラムという少女らしからぬ優しさで、眠るレムの世話をする姿を見ていて、スバルはふいにその質問を投げかける。

ラムがレムを甲斐甲斐しく世話していても、彼女の中に半身であるレムの記憶は残っていない。自分と瓜二つの、おそらく無関係ではないだろう少女。ラムの実感だけで見れば、レムとの関係性はそんな希薄なものだ。

 

だが、一年間、こうした日々を過ごしてきた。

思い出は失われていても、形作られる別のものがある。それはラムの中に、今確かな形として芽生えているだろうか。

 

「実感なんて、そうそう芽生えるものじゃないわ。記憶にいないだけならまだしも、ラムはこの子が起きているところに出くわしたこともない。きっとラムに似て、優秀で凛とした子だったと想像はできるけど」

 

「優秀には違いないけど、凛としてた記憶はあんまりないな。意外と抜けてて、わりとあたふたするし、暴走気味なとこに困ったことも、結構ある」

 

半身持っていかれたことは、まぁ、この際だ。

そのスバルの答えにラムは「そう」の気のない風な声で応じ、

 

「ない思い出を語るのは、慰みにしても後ろ向きが過ぎるわね。そういうの、ラムの好みではないわ、バルス」

 

「そう、か?そう言うんなら、そうするけど」

 

「……目覚めたら、それで思い出せたなら、いくらでも話ができるわ。仮に思い出せなかったとしても、目覚めてくれさえすれば、いくらでも」

 

眠る妹の顔を覗き込み、ラムは表情を変えないままにその前髪を指でくすぐる。レムの髪の毛が白い額の上をさらりと流れ、ラムは小さく吐息した。

その横顔がスバルにはひどく、優しげに見えて。

 

記憶がなくても、思い出が失われても、絆までもが消えるわけではない。

仮に消えたとしても、また紡げないわけでもない。そう思った。

 

「まぁ、そこんとこは任せておけよ。『賢者』の監視塔、バッチリ攻略して、きっとレムを起こしてきてやらぁ。そしたら、姉妹感動のご対面ってやつだ」

 

だから、殊更に大きい声で、スバルは馬鹿に明るくそう言ってみせた。

神妙な空気は、少なくともスバルとラムの間には似合わない。

 

ただ、ラムはそんなスバルの発言に、やけに不思議そうな顔で振り返る。

 

「何を言っているの、バルス」

 

「あん?」

 

そして、ラムは小馬鹿にするような目つきになると、スバルに向かって言った。

 

「今回の旅、ラムも同行するんだから、その言い方は恩着せがましすぎるでしょう。感動の対面になるなら、ラムの方で勝手にやるわ」

 

「初耳なんですけど!?」

 

目を剥くスバルの反応に、ラムがいっそう見下すような目を向けてくる。

だが、そんな目をされても知らないものは知らないし、聞いてない話は聞いていないのだから理不尽だ。

 

「――――」

 

何事なのかと問い詰めるスバルに、ラムは耳を塞いで拒絶の態度。

結局、まともな話し合いにならないままに、この準備日も過ぎていく。

 

――ラムとレム、姉妹揃っての同行確定。

 

『賢者』シャウラに会うための、プレアデス監視塔攻略ツアー。

都合、参加者は合計八名の大所帯、そういう塩梅になりそうであった。