『後ろ向きな向上心』


 

「なーるほど、それでお土産がこのリンガの山ってことにゃんだね」

 

切り分けられた赤い果実の山にフォークを刺し、果汁のしみ出すそれを口元に運びながら、フェリスは悪戯に艶っぽい仕草で微笑んでいた。

 

「ま、大半は厨房の方に渡しておいたけど、味見分だけ確保してな。それはそれとして、流し目しながら唇ぺろぺろすんな。背中が寒い」

 

そんなフェリスの態度に顔をしかめて手を振り、スバルは宛がわれた客室の寝台に腰を下ろしながらひと息をついた。

 

時刻は夕刻前のオヤツ時で、切り分けられたリンガはそのために持ち込んだものだ。王都見物からスバルとともに戻ったレムの手によるもので、今は彼女は自身に宛がわれた部屋で着替え、それからスバルの部屋で合流する手筈になっている。

そうして、リンガを食べながら今日のリザルトと今後の話し合いでも――そんな予定を立てていたのだが、

 

「先回りして部屋占領してる男の娘がいやがった、と。鍵とかかけてねぇのは事実だけど、騎士様らしくはない非礼っぷりじゃね?」

 

「いいじゃにゃいの、それだけフェリちゃんが心を許してる証拠だと思って。こんなだらけた姿なんて、クルシュ様には間違ってもお見せできないもんねー」

 

言いながら、フェリスは倒れ込むようにスバルのすぐ隣へと飛び込んでくる。ベッドの柔らかな素材がその反動をスバルに尻に伝え、同じく弾んだフェリスは体を転がして寝たままの体勢。そのままスバルを九十度曲がった角度から見上げ、

 

「今、ドキッとしちゃった?」

 

「ピキッとしちゃった。残念でもなんでもねぇけど、そんな趣味とか欠片もありません。俺の性癖はいたってノーマル、女の子だけだよ」

 

どんなに見た目可愛くても、それが性別の壁を越えることはあり得ない。

しなを作ってショックを受けたような反応をしているフェリスに吐息し、スバルは「そもそも」と言葉を継ぎ、

 

「お前に心を許される理由が思いつかねぇ。なんぞ、特別仲良くした覚えとかないんだけど。そういう危険なフェロモンとかフェロってんの、俺?」

 

「ああ、それは簡単なお話。――だってスバルきゅんてば、フェリちゃんより間違いなく弱いから。弱々だから、安心するの」

 

寝台に頬杖をついたままこちらを見上げるフェリスが、事もなげにそう言うのを聞き、スバルは一瞬だけ言葉を見失ったが、

 

「性格超悪ぃな、お前」

 

「あれれ、いっがーい。もっと怒るかと思ってたんだけどにゃぁ」

 

「事実は事実だ。むきになったりしねぇよ」

 

自分が弱い、と思い知らされるのは何度も体験したことだ。

この異世界にきて以来、スバルは幾度も幾度も無力さに打ちのめされてきた。あの練兵場でいけ好かない騎士と向かい合った日が最高潮であるなら、このカルステン家でヴィルヘルムに打ち倒されるのは最多数といえるだろう。

 

そうした自分の弱さについて、躍起になって反論するなど馬鹿な話だ。この世界にくる前までなら「俺って筋トレもしてるし、案外いい線いくんじゃね!?」という妄想もしていたものだが、広い世界を知れば自分の蛙っぷりもわかろうというもの。

だからスバルが気になったのは逆に、

 

「俺を弱い弱いとかいうお前は逆にどうよ。もち、騎士ってんならそれなりに鍛えちゃいるんだろうけど……」

 

「んー、フェリちゃん?剣の腕ならからっきしだよ?腰に下げてる剣は親が持っとけってうるさいから持ってるだけだし、振ったら重さに振り回されちゃうもん」

 

けらけらと足をばたつかせて語るフェリスにスバルは鼻白む。

あっさりと弱さを肯定する姿に潔さを感じつつも、それらを弱みに思わせない素振りには訝しいものを感じなくもない。

そんな内心が視線に表れたのだろう。フェリスは流し目でスバルを見上げたまま、「でーもー」と語尾を伸ばしつつ、

 

「フェリちゃんの取り柄はそれと別のとこにあるもんね。だから騎士としてへっぽこでも全然気ににゃんにゃいのです」

 

「さよけ。それで当人が納得してんならけっこうなこったよ。――けっこうなこった」

 

自信の拠り所となる部分がしっかりしているからだろう。フェリスの発言にはそれが満ち溢れており、居心地の悪さを感じてスバルは視線をそらす。

と、フェリスはふいに寝台の上で身を回し、スバルの背後に位置取ると両手を伸ばしてこちらの肩へ――肩たたきをするような体勢へ。

後ろ髪に指が触れる感触がくすぐったく、スバルは肩をすくめたが、すぐにフェリスの掌の触れた位置から温かなものが伝い始めるのを感じて動きを止める。

 

肩を起点にスバルの全身を循環し始めるのは、フェリスの掌から発される水のマナの奔流だ。血のめぐりよりもはるかにそれとわかるエネルギーの流れを感じ取り、スバルは目をつむってその感覚に身を任せる。

 

「ゆっくりー、じっとりー、ふんわりー。あ、枝毛発見。スバルきゅんてば案外苦労してる感じがにじみ出ちゃってるネ」

 

「くっちゃべりながら仕事すんのやめてくんねぇかな。この、体の中をマナがギュイギュイ流れてる感じってぶっちゃけ気持ち悪いんだよ。気ぃ張ってないと目ぇ回しそうでキツイ」

 

以前、父親が愛用していた血行が良くなる磁気ネックレスを付けてみたときの体調不良感に似ているとスバルは現状の疼痛を思う。

水のマナによる治療行為――言葉面だけで見ると、いかにも涼やかで優しげな雰囲気がかもし出ているが、実際に味わってみればこれがそんな生易しい行いでないことは明白である。

 

そも、スバルの肉体の損耗状態を思えば当然の帰結ともいえた。

スバルの肉体の不調――それはマナの出入り口であるゲートの損傷によるものであり、枯渇していたゲートに無理やりドーピングで発生させた搾りカスを通したことが原因となっている。

フェリスの行う治療行為は水の魔法でゲートの損耗を修復しつつ、凝り固まった搾りカスのマナを体外へ排出させるというものだ。

 

「ようは水の出が悪いホースの穴空き箇所を塞ぎつつ、管の中に溜まったカビやらゴミやらを押し出してるってことなんだよな……」

 

「なんだろ。言ってることはわからんちんにゃんだけど、あんまり嬉しくない喩え方をされてる気がするにゃー?」

 

「自虐ネタだよ、気にすんねい。あー、気持ち悪い」

 

首を回し、背後のフェリスに気分の悪化を訴えながらそれに耐える。

クルシュの邸宅で世話になってから三日――つまり、フェリスの治療行為を受けるのも三日目になるのだが、多少は慣れが生まれ始めたものだと思う。

初日は込み上げてくる嘔吐感が堪え切れず、即座に音を上げたものだったが。

 

「まー、初日は仕方にゃかったけどネ。一番濁り切ってるところに直接ぶち込んだってのもあるし、満身創痍の状態で体力なかったのも影響あるし」

 

「人の突かれたくないとこビシバシきやがんな、お前」

 

こちらの表情は見えていないはずだが、身じろぎだけでこちらの思惑を読んだフェリスが小憎たらしい。躊躇なく、心の傷を抉ってくるところも。

 

愛想笑いでその場をかわし、スバルはできるだけその心のカサブタに触れないようにしようとする。が、フェリスはそんなスバルの考えを嘲笑うように、

 

「やっぱりスバルきゅん的には仕返しとか考えちゃってる感じ?ヴィル爺に稽古つけてもらってるのだって、それと無関係ってわけじゃにゃいんでしょ?」

 

「……そういう、男の子的にデリケートな部分を突くのやめてくんない?お前にだって気持ちわかる……わかるのか、この場合!?」

 

「わかんにゃくもにゃいよ?フェリちゃんも強くなりたい、いやならねばならぬ!みたいな時期があったりにゃかったりしたかんね。まー、今はそんな無謀なことなんてこれっぽっちも思わにゃいけど」

 

男の娘な部分への言及はさらりと避けて、フェリスはスバルに同情的な感傷を一切感じさせない口ぶりでそう告げる。

事あるごとに彼はこうして、自身に武の才がないことを喧伝する。その一方で、それを補って余りある才が自身に備わっていることも。

 

前半にはスバルも共感する部分が多々ある。が、後半に至っては自嘲するべきほどに共感の念を抱けない。彼と違い、自分にはなにも見当たらないのだから。

意地や、根性、なにより彼女へ向ける思い――それだけは誰にも負けぬと貫いてきたつもりだったのに。

 

「仕返しなんて暗いこと考えない方がいいんじゃにゃいの?こんなこと言いたくないけど……次があったら死んじゃうかもヨ?」

 

「……んなの、俺だってわかってる」

 

不貞腐れたように視線を外し、スバルは口の中だけの呟きで応じる。

 

先のユリウスとの一戦で、スバルは彼に言葉にできないほど打ちのめされた。そしてそれだけやられたにも関わらず、彼の人物に情けをかけられたことも理解している。

そうでなければあれほど打たれ、穿たれ、傷付けられておきながら、致命傷となる傷がひとつもなかったことの説明がつかない。

 

彼とスバルの間には絶望的な開きがあった。

それを理解した上で、スバルはヴィルヘルムに師事している。なにもほんの数日の修行で段違いに強くなれるなど夢見ていやしない。ただ、

 

「いーじゃにゃい、怠惰に沈んでれば。スバルきゅんてば色々あって体は絶不調、本調子には程遠くて、今は治療の名目でのんべんだらりとしてる理由もある。誰にもそれを咎められることなんてにゃいし、謂れもにゃい。万々歳でしょ?」

 

スバルに言い訳をつかせる暇も与えず、矢継ぎ早にフェリスはそう語る。

微妙に鼻につく言い回しはこちらに対する思いやりに欠けていたが、内容は今のスバルの心境には至極甘美なものに思えた。

だが――、

 

「――フェリックス様。あまり、スバルくんをたぶらかさないでください」

 

静かな声音が室内に響き、スバルはやや焦りの感情を得て振り返る。

寝台に座るスバルの背中側――部屋の入口の戸に手をかけているのは、肩口までの青い髪を揺らすレムだ。着替えのために与えられた客間へ戻ったはずなのだが、その格好は王都の下層区へ降りたときのものと変わっていないように見える。

そんな訝しげなスバルの視線に気付くと、レムはふわりとそのスカートの端を摘まみ、

 

「お出かけ用のメイド服から、今は訪問用のメイド服に換えています」

 

「お、おう、せやな。レムはいつでも俺の意を酌んでくれんな」

 

「はい。スバルくんの前ではいつでも新鮮なレムでありたいので」

 

「嬉しいは嬉しいけどその言い方だと生魚みてぇだな!」

 

鮮度感を前面に打ち出してくるレムにスバルがそう応じる。レムはそれに対しては取り合わず、その視線をスバルの後ろに座るフェリスに向けると、

 

「連日のスバルくんへの治療、感謝いたします。ですが、それに乗じてスバルくんを誘導するのはおやめください」

 

「誘導だにゃんて人聞きの悪い。フェリちゃんはきっちりかっちり、スバルきゅんのことを考えて言ってあげてるだけにゃのにぃ」

 

フェリスは意地悪そうに頬をゆるめると、スバルの肩に置いていた腕をさらに前へ乗り出し、しなだれかかるようにこちらを抱きしめてきた。

その柔らかな仕草に、そして背中に当たるはっきりと固い男性的な感触にスバルは「おい」と不服の声を上げるが、フェリスはその抗議に被せるような動きでこちらの顎や胸に掌を這わせ、

 

「じんわりと体の内に広がる優しさ……それがフェリちゃんの心からの思いやりだと思えば、堕ちるのも悪くないんじゃにゃいの?」

 

耳元で囁かれる声音は吐息を伴い、スバルの耳朶をひどく優しく愛撫する。

相手がフェリス――同性である事実を認識していながら、なぜかスバルはそんな彼の行動に積極的な動きで応じることができない。

思考が微妙に鈍化し、抱き止められたまま動けずに抱擁を受け入れてしまう。

が、

 

「フェリックス様――」

 

「うげっ」

 

「お戯れは控えてください。失礼ながら……冗談で済まない場合もございます」

 

鈍っていた思考を引き戻すような衝撃が首を襲う。

ハッと我に返るスバルの視界を、白い生地が覆っていた。目を凝らせば、それが顔に押し付けられた布地のものだとわかり、すぐに見慣れたエプロンに繋がる。

つまり、レムに頭を抱えるように抱きしめられたいるのだと気付いた。

 

「おいおい、レム。人前でこれはちょっと積極的すぎ……っ」

 

「スバルくんは少しお静かに。――フェリックス様?」

 

軽口で羞恥を誤魔化そうとするスバルをさらに強めに抱きしめて、レムは余所行き用に感情の凍えた声で三度フェリスの名前を呼ぶ。

それを受け、フェリスは小さく長い吐息をこぼすと、「そっか」と呟き、

 

「レムちゃんも多少なり水系統の魔法が使えるんだっけ。それなら、フェリちゃんの手練手管がわかっちゃってもしょうがにゃいかもネ」

 

観念したような、というよりは企みを見破られた子どものような態度で言い放ち、フェリスはスバルの肩に顎を乗せ、より強くその体を抱きしめるよう腕を回し、

 

「おい、フェリス。今さらだけと男の娘にギュッとされても全然萌えないってかむしろガッカリていうか……あれ、ちょい、レム、レムさん?頭部が幸せな感触に包まれてんのはいいんですけど、ちょっと力が強い……いや、強いってか、強すぎ……ぎあああ――!!」

 

「ああ、スバルくん、ごめんなさい。フェリックス様が放されないものですから……人に取られてしまうぐらいなら壊してしまいたいと思ってしまって……」

 

「ハッとしてヤンデレラ!?」

 

軋むような音がし始めた頭蓋を抱えて、レムとフェリスの両者の束縛から転がるように抜け出すスバル。部屋の端っこから警戒心たっぷりに二人を睨みつけると、その視線を受けてレムは小さく首を横に振り、

 

「スバルくん、可哀想に……よほど恐い思いをされたんですね」

 

「最後のお前の一言が一番効いたよ!心なしか瞳の描画に陰影濃くねぇ!?」

 

スバルの抗議は聞き流され、こちらを置き去りにレムとフェリスの二人は互いに視線を交錯させる。レムはわずかに目を細め、フェリスは罰が悪そうに栗色の髪に指を絡めると、

 

「レムちゃんのお怒りはごもっともだけど、フェリちゃんだって悪気ばっかりでやってるわけじゃにゃいんだヨ。ほんのちょっぴりはスバルきゅんのこと考えてのことなんだからぁ」

 

「ほんの、ちょっぴり以外の部分は?」

 

「残りはフェリちゃんの友達の気持ちを酌んでと……それを省いた全てはクルシュ様のためだけど?」

 

悪びれもしない表情で言い、それからフェリスは小首を傾けるとレムに問う。

 

「従者として当然じゃにゃい?それとも、レムちゃんは違うの?」

 

「違わないでしょうね。ですから、レムの答えをフェリックス様はご存知のはずです」

 

試されるような言葉にレムは首を振り、改めて真っ直ぐにフェリスを見つめる。その視線の強さにフェリスはなにを見たのか、彼は降参とでもいうかのように両の掌をその視線に差し向けて、

 

「わかった。わーかーりーましたー。治療にかこつけて洗脳するのはやめてあげる」

 

「今後、治療には必ずレムが付き添いますので」

 

「あらら、信用のにゃいこと。べっつに、いいけどネ」

 

横に移動し、レムがフェリスの視線からスバルを庇うように立つ。そんな露骨な警戒心に対してフェリスは笑い、背伸びして視界を確保してスバルを見やると、話の流れについていけずに唇を引き結んでいた彼に、

 

「そんにゃわけで、レムちゃんのお叱りを受けちゃったから今日はこれまで。次はもっとばれにゃいような場所で逢引きしようネ?」

 

「逢引きとか俺に自覚ねぇし、そもそもお前さっき洗脳とか言ったよな!?そんな物騒なこと言う奴と二人きりで会うとかゾッとしねぇよ!」

 

「はいはい、誘い受け誘い受け」

 

「わかったようにわかってないこと言うなよ!?」

 

納得したような仕草でフェリスは寝台から立ち上がり、「んー」と体を伸ばすと扉の方へと向かう。それから彼は出ていく寸前で振り返り、

 

「レムちゃん」

 

「はい」

 

「こんなこと言って信じてもらえると思ってにゃいけど……スバルきゅんのこと思ってあんなことしてたっていうの、まるっきり嘘ってわけじゃにゃいんだよ?」

 

スバルにではなく、その彼の前に立つレムにそれは投げかけられた。

その言葉を受けて、彼女がどんな表情をしたのか、レムの後姿しか見ることのできないスバルにはうかがうことができない。ただ、

 

「――わかって、います」

 

レムが短くそう応じるのに、ほんのわずかな躊躇いがあったのが気にかかった。

 

「そ。にゃらいいけどネ。じゃ、ばいばい」

 

今度こそ別れの台詞を口にして、フェリスは颯爽と部屋を出ていく。

とはいえ、時間が夕食の時間になれば同じ食卓を囲むことになるはずなので、言うほど『別れ』のイメージはしっくりこない。

そんな益体もない内心の突っ込みを上げるスバルに対し、「スバルくん」とこちらを名を呼びながらレムが振り返った。

 

「あ、おう。なんかアレだ……よくわかんないけど、ひょっとして助けられた?」

 

「どうでしょうか。フェリックス様は取り立ててスバルくんに悪意を持っているわけではありませんし、さっきの行いも……真意はわかりませんが」

 

イマイチ、なにをされていたのか実感の伴わないスバルと、そのあたりに関しての明確な言及を避けるレム。その微妙な齟齬が気持ち悪くて、スバルは顔をしかめながら、

 

「えーっと、けっきょく、さっきはどんな状態だったわけ?」

 

「さっきまでスバルくんはフェリックス様の治療を受けて、全身の水のマナに干渉を受けた状態でいたでしょう?」

 

「よくわかんないけど、たぶんそういう感じ?こう、ぬるま湯に浸かってるみたいなビバノンノン気分だったのは事実。入りすぎて気持ち悪い的気分も、湯当たりだと思えば入浴リスクとも言えなくもないわなぁ」

 

「体内を循環するマナに他者のマナを介するということは、少なからず自身の内側にその人を受け入れるということですから。フェリックス様の意思を通常より、ずっとずっと受け入れやすくなっていた状態だったんです」

 

「それ聞きようによるとかなりヤバい感じに聞こえますね!?」

 

床の上で尻を回し、ブレイクダンスの要領で回転しながら立ち上がる。それから手足を伸ばしてじたばた動き、体の各所に異常がないかを指差し確認。

 

「大丈夫か?なんか変なんなってないか?心なしか俺のどこかが女っぽくなってたりとか、語尾が猫キャラっぽい媚びた感じとかになってたりとか!?」

 

「大丈夫です、ご安心ください。いつも通りのスバルくんです」

 

「ホントに?マジで?リアリー?」

 

「おふこーすです。ずっとスバルくんを見ているレムを信じてください」

 

若干、聞き流せない類の発言が出た気がしたが、そこを聞き流してスバルはホッと胸を撫で下ろす。それから小さく首を横に振り、「やれやれ」と前置きして、

 

「そう考えるとアレだよな。ここって、言ってみれば敵の本拠地のひとつなんだよな。だいぶリラックスして警戒心がゆるゆるだったけど」

 

「安心してください。ゆるゆるでだるだるでどうしようもないスバルくんが、なんの心配もしないでいられるようレムが気を張っていますから」

 

「ゆるだるでどうしようもなく抜けててゴメンね!?」

 

今明かされる衝撃的な事実。スバルがだらだらとやっている間に、レムがどれだけ孤軍奮闘していたのかと思うと涙も禁じ得ない状態だが、そんな居た堪れなくなる感傷をさて置き、スバルは首をひねる。

 

「今後は俺ももう少し気ぃ付けることにするよ。ここにいるのは……『敵』ばっかりなんだからな」

 

「……敵、ですか」

 

ゆるんでいた、というより視野狭窄になっていた気持ちを引き締め直すスバル。そんなスバルの姿勢にレムは小さくなにかを呟いたが、肩を回して気持ちの切り替えを行うスバルはそれに気付かない。

ひとしきり体の調子を確かめ終え、それからスバルはレムを見ると、

 

「んじゃ、晩御飯に呼ばれるまでの日課といきますか。レム先生、お願いします」

 

言いながら、部屋の一角に用意された机に向かい合って座るスバル。そこには屋敷から持ち出してきた書き取り用のノートがあり、さらにいくつかの黒い背表紙の本が積み重なっている。教材と、実習用のノートだ。つまり、

 

「何度聞いても、慣れませんね、その呼ばれ方」

 

「こうして教えてもらってるわけだし、そのポジに違いねぇじゃん?嫌ならやめるけど、どうしますかよ、先生」

 

「いいえ!ぜひ、そのままでお願いします!レムの、レムだけの呼ばれ方ですから!他の人に言ってはダメですよ!」

 

「そんなにぐいぐいこられると俺も予想以上のパフォーマンスにどうしようってなるよ!ぬぐぐ、クソ、負けねぇぜ……!」

 

変な負け惜しみを発揮して、猛然と机に立ち向かうスバル。

その背後に立ちながら、レムは慈しむような感情と、それと裏腹に揺れる感情をたたえた瞳を静かにスバルに向けていた。

 

懸命に、勉学に打ち込むスバルの姿に、痛ましいような色を瞳にたたえて。

 

「――先生、ここがよくわっかんねぇんだけど」

 

「もう、スバルくんは仕方のない人ですね。レムがいないとなにもできないんですから。たまにはそれに対する感謝を行動で示してくれてもかまいませんよ?」

 

その色も、スバルの一言を受けた瞬間に霧散してしまうのだが。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――カルステン家における、ナツキ・スバルの時間はこうして過ぎていく。

 

朝は存分にヴィルヘルムによって打ちのめされ、昼過ぎからは王都見物と称してレムを伴い市井を歩き回る。夕方には所要を済ませて戻ったフェリスの治療を受け、夕食後にはレムの監督の下で文字習得の勉学に勤しむ。

 

ひどく健全で、真っ当な日々の充実がそこにはあった。

 

時折、時間の空いたクルシュとわずかに言葉を交わす機会などもあったが、腰を据えて会話をするような場面には出くわしていない。それこそ、連日屋敷にはひっきりなしに来客があり、たびたびそれらへの応対を求められるクルシュには自由になる時間などめったにない。

それでも、日課としているヴィルヘルムとの鍛錬の時間をとっているのはさすがというべきか。あるいは、それ以外の時間を削って捻出しているのだから、女だてらに剣客馬鹿というべきだろうか。

 

いずれにせよ、スバルの時間はそうして外見からは有意義に流れていた。

客人として申し分のない扱いを受け、スバル自身もその与えられた環境の中で自分にできるなにかを探し求め、熱心に学び鍛えている。

そこには打ちのめされてなお、曲がらず折れず、へこたれない男児としての一種の誇りのようなものが感じられた。

少なくとも、外見からは――。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

額に木剣の先端が当たり、次の瞬間には遠心力を伴う一発に吹き飛ばされる。

 

頭を支点に後ろへ飛ばされながら、スバルは天地が逆さになるいつもの感覚を体感。腕を回して地面に対して身構え、受け身をとって綺麗に転がる。

外出着である灰色のジャージが土に塗れて汚れたが、純粋な転倒によるダメージはほぼ皆無。それらの成果に唇を舐め、そこに付着していた泥の味まで舐め取ってしまい慌てて吐き出す。

 

「うげ、ぺっぺっぺ。泥っぽくて草っぽい味がする、うえ」

 

「そろそろ、終わりにいたしますかな?」

 

「ご冗談を。俺が今のでへし折れたように見えましたかよ。まだまだぴんしゃんしてますぜ、ヘイ!」

 

手にした木剣をホームラン予告のように突きつけ、スバルは腰を回して戦意が高いことを示す。それを受け、正面に立つヴィルヘルムは小さく含み笑い。

 

連日連朝、こうしてスバルとヴィルヘルムとの立ち会いは続いている。

相変わらずスバルの側からの攻撃はヴィルヘルムに届かないが、ヴィルヘルム側から受ける攻撃に対するスバルの反応には劇的な変化があった。それは、

 

「こう言ってはなんですが……受け身が非常に上達されましたな」

 

「いかに痛くない倒れ方をするか、って部分を突き詰めてった結果っつーと微妙に情けない感があっけどね。俺もいつまでも同じ場所で足踏みしてねぇぜ!」

 

サムズアップしてヴィルヘルムの言葉に応じ、スバルはそう言って勝ち誇る。

ヴィルヘルムの言に偽りなく、ここ数日でスバルの受け身スキルの上達ぶりにはその道のプロでも舌を巻くほどのものがあった。

なにせ日に最低でも三十回近い実戦による機会があるのだ。たかが転倒と侮るなかれ、されど転倒である。

無防備に倒れれば当然のようにケガを負う危険性が高い。ヴィルヘルムの打撃に絶妙な手加減がされていたとしても、吹っ飛んだあとで地面を転がるスバルの負傷率にまでは彼も関与はできない。故に、自分の身は自分で守らなくてはならないのだが。

 

「今、開花する俺の受け身の才能――なんか日に日にやられ役スキルばっか向上してる気がして心が折れそうになってきた!」

 

「しかもその実、木剣ではない真剣での立会ならば無用の技術ですな」

 

「事実言わないでくれます!?俺の心の一本松にひびが入ったよ!」

 

ばっさりいかれて終了の真剣勝負を思えば、磨きがかかっているのは事実として木剣での打ち合いを前提とした修練モード専用スキル。おまけに攻撃用でなく、あくまでやられるの前提の負け犬体勢でもあった。ともあれ、

 

「もう一本、ご指導お願いします」

 

「いつでも、どこからでも」

 

許可を得て、スバルは身構えると、姿勢を低くして再度突撃。楽な体勢に木剣を構えるヴィルヘルムの初動はこちらより遅い。体格がいいとはいえ相手は老人、普通に考えて振り被るスバルの挙動に追いつくなど考え難い。が、

 

「無駄が多い」

 

「うが」

 

意識して最小限の動きをしても、生まれる無駄な力みと不要な運動力。それらの隙間を縫ってヴィルヘルムの剣は動き、こちらの攻撃を最小の動きと労力で回避せしめる。継いで、翻る剣閃がスバルの胴体に迫り、

 

「ふらんけんっ!」

 

横腹に剣の腹が当たったと思った瞬間、さして力を込めたようにも見えないヴィルヘルムの剣撃によって、スバルの肉体は軽々と宙を舞っていた。

突進の勢いも乗った浮遊は白髪の老人を乗り越え、上下反転のままに宙空を行く。このまま頭から落ちれば大惨事は免れないが。

 

「なんのこれしき!」

 

落下が始まる寸前に、頭を振って身を丸め、頭部を抱え込んで防御の姿勢。空中で繰り出されるそれはいつぞやロズワールに披露した『ヤシの実』の体勢。体をきっちり小さく固めることで防御力を上げる、素人流防御術の初歩。

くるくると回る体がどこから落ちるかは運任せの要素が大きいが、最悪後頭部から落ちなければ多少のダメージは防げるという浅はかな体勢――しかし、

 

「これで終わりと、申しましたかな?」

 

スバルの目論見は落ちるより先に、その抱え込んだ手足の隙間に差し込まれる木剣の先端によって阻まれた。

落下へと意識を完全にシフトしていたスバルにとって、その追撃は完全に想定外のものだ。差し込まれた先端が円を描くように動き、固く結ばれていたはずの手足が容易に外されると、自然とスバルの体は中空で手足を広げる形になり、

 

「ぎゃん!」

 

そのまま大の字に地面に叩きつけられて、受け身も欠片も取れず大ダメージ。

鼻面を地面に激突させられ、何度目になるかわからない大地との接吻。じんわりと全身に痛みが熱として広がるのを感じながら、スバルは体を横に転がすと、こちらを見下ろしているヴィルヘルムに抗議の視線を向けた。

 

「今のはいくらなんでもひどいくねぇッスか!?」

 

「自分の想定を越えた状態でも受け身が取れる、そこまで達しなくては本来の意味で上達とは呼べませんからな。なにより」

 

少しだけ厳しい声でスバルの抗議を跳ねのけ、それからヴィルヘルムは一度言葉を切り、静かな目でスバルを見下ろす。

その瞳の静謐さと、たたえられた輝きの感情の底知れなさにスバルは居心地の悪さを感じて押し黙った。そのスバルにヴィルヘルムは告げる。

 

「最初から負けるつもりで挑みかかるなど、そんな戦い方を教えたとあっては私自身が納得できそうにありませんからな」

 

「う……」

 

図星、であった。

勝てるはずがない力量差があることを理解している。スバルにとってヴィルヘルムはそれほど高い壁だ。だが、力量差を理解することと、最初から諦めきって挑むこととは話がまるで違う。

己の弱い考え方を見透かされて二の句が継げないスバルに、ヴィルヘルムは「よいですかな?」と指をひとつ立てると、

 

「剣の振り方、受け身の技術――それらをお教えするより前に、もっと根本的な部分についてお話しましょう」

 

「根本的な……」

 

「――戦うと、そう決めたのであれば、全身全霊で戦いなさい。一瞬も、一秒も気を抜かず、どんな手段を用いてでも、どんな汚い方法を使っても、勝利という一点に向かって貪欲に食らいつきなさい。まだ立てるのならば、まだ指が動くのならば、まだ牙が折れていないのであれば、立ちなさい。立ちなさい。立って、立って、斬りなさい。生きている限り、戦いなさい。戦え、戦え、戦え!」

 

「――――」

 

「それが、戦うということです」

 

刹那、庭園を支配していた緊張感が霧散するのを、スバルは己の心臓の鼓動がうるさいほど鳴っている事実に教えられた。

同時に、自分の心臓がきちんと命の鼓動を刻んでいるという当たり前のことも。

 

――生きた、心地が今、確かにしなかったのだ。

 

戦いの気構えについて語り出した瞬間、ヴィルヘルムのそれまでまとっていた雰囲気が変貌した。それまでは温和で紳士然とした風格が目立つ、怒りなどといった激情と無縁の人物であると思わせる雰囲気が彼にはあった。

だが、それはあくまでヴィルヘルムという人物の表層の一部に過ぎないのであると、今のやり取りからはっきりと感じ取れた。あるいは、今見せた表情こそが本当のヴィルヘルムであったのかもしれない。

 

王選の大本命、クルシュ・カルステンに剣の指南役として招かれ、その力を存分に振るう武人――ヴィルヘルム・トリアスという人物の。

 

心胆から震えるようなものを感じながら、スバルはそれを隠して立ち上がる。

手足指先がかすかに痺れているのは、痛みによるものか恐怖によるものか、はたまたもっと別の感情が原因であるのか定かではない。だが、

 

「確かに……その、失礼な真似ばっかしてました。俺」

 

確かに感じ入るものがあったのは事実だ。

首を横に振り、体に付着した汚れも払わず、スバルは握り直した木剣を構えながらヴィルヘルムに向き直って、

 

「負けるとわかってても、勝つために挑む。矛盾してるようだけど、確かにそうしなきゃならないってのは……頭じゃなく、感情で理解できる」

 

「それはなによりです」

 

「それができりゃ、少しは俺も強くなれますかね?」

 

スバルの問いかけに、ヴィルヘルムは「さて」と片目をつむり、

 

「それとこれとは話が別ですな。強くありたいと思うことと、強くなることとはまったく別のお話ですから」

 

「そこは素直に肯定してくれた方が物語が美しいとか思いません!?」

 

「残酷な嘘をつくことを、私は私に許しておりませんのでな」

 

「ときにはそれ自体が残酷な真実になるって俺は思ったりしますけどね!」

 

綺麗にまとまりかけた話がグダグダし始め、スバルはいじけたように肩を落として視線も地面に落とす。そうしてぽつりと、

 

「俺って剣の才能とかありますかね?」

 

「私の見立てでは、残念ながらありませんな。スバル殿の剣の才は凡人止まり――私と、同じようなものです」

 

問いかけを否定し、ヴィルヘルムは自嘲するような笑みを口の端に上らせる。その言葉が意外すぎてスバルは驚いたように片眉を上げ、

 

「妙な謙遜しますね。ヴィルヘルムさんに剣の才能がないとか」

 

「事実ですよ。私に剣の才能はありません。もしもそれがあるなら、私はきっとこれほど剣を握り続けてはこなかったでしょう。ですから、スバル殿もなろうと思えば私と同じところに辿り着くことは可能です」

 

「……ちなみに、それってどれぐらい頑張れば?」

 

「大したことでは。半生を剣を振り続けることに捧げれば良いだけです」

 

「だけて」

 

当たり前だが、『だけ』というほど簡単な話であるわけがなかった。

努力をし続けることができることが本当の才能、とはよく言ったものである。実際、スバルはヴィルヘルムと同じ次元に到達できると言われたところで、彼と同じ時間を剣に捧げられるほどの覚悟もなければ理由も思いつかない。

そもそも、スバルがこうしてヴィルヘルムに師事しているのだって――、

 

「せい」

 

ため息をつき、諦めたように身じろぎし――スバルの木剣の先端が土を抉り、その飛沫をヴィルヘルムの眼前へと跳ね上げていた。

土塊が老人の視界を覆ったと見た瞬間、スバルの一撃はヴィルヘルムの足下を狙う。先ほど、彼の人物から助言を受けたばかりの行いだ。

 

――戦うと決めたのであれば、どんな汚い手段でも使えと。

 

渾身の一発が空振りに終わったのは、その獲物になんの手応えも得られなかったことで伝わる。が、スバルはそこで終わらず、回転の反動で回し蹴りを放ちつつ、さらに勢いづいた二度目の剣撃も遅れて放つ。

それら連携した攻撃に対して、身をさばいて目潰し+奇襲を避けたヴィルヘルムは初めて愉快げに歯を見せて笑い、

 

「それでよろしい」

 

蹴りを放った股下に木剣が割り込み、攻撃キャンセルと同時に接近してきたヴィルヘルムが背を向けてこちらの懐へ飛び込む。同じ方向を向いて重なり合う形になったスバルの襟首を空いた手が掴み、気付いた瞬間には足が地を離れていた。

ぐるりと視界が回り、投げられたことを理解する暇もないほど高速で地面に背を打ちつけられる。衝撃に息が詰まり、思考が停止し、痛みが全身を貫くより前に、目の前に突きつけられた木剣の先端を意識する方が速かった。

 

「そろそろ、終わりにいたしますかな?」

 

告げられ、スバルは体からぐったりと力を抜いて目をつむった。

横たわる地面の冷たさが背中側から伝わり、自然と全身に痛みを伴う痺れが蔓延し始める。そうして、

 

「雑念ばっかりの俺じゃ、どうにもなりませんか」

 

「そんなことはないと思いますが」

 

「でも、剣の腕が上がるにはアレじゃないんスか?無心でひたすらに剣に打ち込んでこそ、初めて剣客としてのなにかが掴めるみたいな」

 

「なにか掴んで急に強くなることなどありませんし、無心でいようと雑念塗れであろうと、最終的に相手を斬ったものが勝ちである点は動かないと思いますが」

 

ドライな意見を述べながら、ヴィルヘルムは「それに」と言葉を継ぎ、

 

「こう言ってはなんですが、私は無心で剣を振ったことはあまりありません。特に剣を振り始めたばかりの頃などは、剣のことなどあまり考えておりませんでしたよ」

 

「じゃ、なに考えて振ってたんです?」

 

「ただひたすらに妻のことを」

 

「ヴィルヘルムさんてたまに奥さんネタでえぐいとこくるな!」

 

初対面の場で愛妻家的な発言があったのを覚えているが、それにつけてもヴィルヘルムの嫁贔屓な発言は目に余るものがあった。

体を起こしたスバルはじと目でヴィルヘルムを見上げながら、

 

「奥さん思いの微笑ましいエピソードはともかく……剣だけに打ち込む必要はないとかそんなこと言われたのはなんだ、意外だ」

 

「強くなろうと決めて、そうするために工夫して剣を振り続ける。強くなるにはけっきょくのところ、そうして時間をかける以外には方法などないでしょう。生まれながらの加護持ちであるならまだしも、私もスバル殿もそうではありません」

 

「たはー、厳しいなぁ、それ」

 

言いながら、スバルは苦笑が頬に刻まれていくのを隠せない。

剣の才能がない、と断言されるのはそれなりに堪えるものがある。曲がりなりにも元の世界では剣道に勤しんでいた時期もある身だ。それなりに収めたものとして、持ち合わせていた自負は粉々に打ち砕かれていた。

そのはずなのに苦いとはいえ笑みを作るスバルを見やり、ヴィルヘルムは己の豊かな白髪に指を差し入れて整えながら、

 

「いずれにせよ、強くなるための心構えとはそんなところです。まあ、あまりスバル殿には参考にならないお話でしたかな」

 

「どゆこと?」

 

投げかけられた言葉の真意がわからず、スバルは顎に手を当てて首をひねる。と、その仕草を見てヴィルヘルムは「いえ」と言葉を継ぎ、

 

「強くなるつもりのない人間に、強くなるための心構えを説くことはあまり意味のないことではと思ったものですから」

 

「――――」

 

一瞬、なにを言われたのかがわからず、スバルの表情が凍りつく。

が、その停滞も一瞬のことだ。スバルは即座にその凍てついた表情を氷解させると、おどけた様子で肩をすくめ、

 

「おいおいおいおい、ヴィルヘルムさんてば急になによ。アッと驚くタメゴローなこと言い出さんでくださいよ。俺が、なに?」

 

「ご自覚があるのならば、これ以上に言葉を尽くすのは無粋でありましょう」

 

諦念を瞳に宿して首を振る姿に、スバルは言葉を続けられずに押し黙る。

いったい、ヴィルヘルムはなにを言い出しているのかと焦燥感が募っていた。その感覚を理解し、スバルは自分の内面の焦りに対して疑問符を抱く。

 

――どうして、俺は焦燥感なんて感じる必要が。

 

「――スバル殿、どうやら今朝はこれまでのようです」

 

「え?」

 

得体の知れない感覚に冷や汗を浮かべるスバルに、ヴィルヘルムがそう告げる。驚いて顔を上げると、老体はスバルではなく屋敷の方へ視線を向けていた。

つられてそちらに目を向けると、屋敷の方から庭園にいる二人に向かって駆けてくる姿がある。――レムだ。

彼女はその感情を面に出さないことを意識している表情に、ただ静かな緊迫感を浮かべながら走っている。

 

何事か、起きたのだ。

そしてそれは今のスバルにとって、救いでもあった。

 

ヴィルヘルムと相対していることに、得体の知れない苦痛を感じるスバルにとって、そのレムの焦りと不安の表情は救いですらあった。

 

「スバルくん。――お話が」

 

そして、大過なく流れていた日常にピリオドが打たれる。

 

日常が終わり、スバルが待ち望んでいた非日常が始まり――そこでスバルは再び、絶望を見ることになる。