『ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア』
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――ヴィルヘルム・トリアスという人物の話をしよう。
ヴィルヘルムはルグニカ王国の地方貴族、トリアス家の三男として生を受けた。
トリアス家は王国の北に位置する北国グステコ、その国境近くを領地として預かる歴史ある旧家である。とはいえ、武門の徒としてそれなりの栄華にあったのも過去の話であり、ヴィルヘルムが生まれた頃には少しばかりの領地と領民を抱えるだけの弱小男爵領。ありていにいえば、没落貴族の一例に過ぎなかった。
長兄と次兄が慎ましやかながらも領主としての器量に見合った器の持ち主であったこともあり、三男のヴィルヘルムにとってトリアス家は食うに困らぬ程度の恩恵と、自由に未来を選ぶことを許してくれる恵まれた環境であった。
兄らと歳が離れていたこともあり、家を継ぐといったしがらみと無縁に育ったヴィルヘルム。また、その兄らと違って文官としての才に欠けた彼にとって、未来と呼ぶべき道を示したのは一振りの剣との出会いだ。
屋敷の広間に飾られた重々しい刻印の刻まれた剣は、かつてトリアス家が王国の中で武名に連なっていたときの名残であり、今のトリアス家に形だけ取り残されていたに過ぎない、観賞用と化した宝剣のなれの果てである。
手入れすらままならない宝剣を手に取り、鞘から抜き放った途端、ヴィルヘルムはその剣の魅力に翻弄された。
気付けば抜き身の剣を勝手に持ち出し、裏山で朝から夜まで振り続けるのが日課となっていた。
初めて剣に触れたのが八つのときであり、剣の重さと長さにも慣れ、手足が伸びて不格好さと縁遠くなった十四の頃には、ヴィルヘルムに剣で敵うものは領地のどこにも見当たらないほどだった。
「都に出て、王国軍の兵隊になる。騎士になる」
男の子なら一度ぐらいは誰でも考えるような、そんな頭の悪い言葉を言い残して家を飛び出したのも、十四の頃だった。
剣振りばかりに没頭し、領地の悪ガキ共とつるんで無頼を気取っていたヴィルヘルムに、長兄が「将来はなにをする」と説教を始めたのが発端だった。
未来のことなど考えず、今が楽しければそれでいい。剣を振っているとき、確かに自分が強くなっていると実感できるとき、それだけがヴィルヘルムの至福だった。
そんな未来の展望ひとつ持たない弟に対する、兄の言葉は厳しいものだった。なまじ正論ばかりをたたみかけられ、言葉に窮したヴィルヘルムから飛び出したのが前述の夢見がちな発言だ。
あとは売り言葉に買い言葉、お定まりの「兄貴に俺の気持ちがわかるものか!」が飛び出し、実際にヴィルヘルムもいくらかの金と剣だけ持って飛び出す結果となった。
予定外の出立ではあったが、ヴィルヘルムの初めての王都への上京は持ち出した金が尽きる前にどうにか果たされた。もともと、いずれは王都で剣の腕を振るうことは考えていたのだ。予定が早まり、親族の許しも得ていない予定外があっただけのこと。
意気揚々と王都に辿り着いたヴィルヘルムは、さっそくとばかりに王城へと足を向けて、王国軍の一兵卒として歴史に残るべく門戸を叩いた。
今の時代であれば、そのような成り行きで城門を通ろうとする輩は不逞のものとみなされて、当然のごとく門前払いされるのが関の山である。
しかし当時、王国は国土の東――亜人族の連合との内戦に揺れており、志願兵はいくら募っても足りないほどに切迫していた。
そこへ、多少なりとも剣を扱えるという触れ回りで若い少年が出向いたのだ。諸手を上げて歓迎され、ヴィルヘルムはさしたる障害もなく王国軍に入隊した。
そうして苦労や挫折、そういったものと無縁のままに戦場に足を踏み入れることとなったヴィルヘルム。彼の剣技も現実という高い壁の前には敢え無く遮られ、それまで高くしていた鼻っ柱を思い切りにへし折られ、膝を屈することとなる苦くも忘れ難い経験――と、それが誰もが通る初陣の洗礼である。
だが、ヴィルヘルムの剣の冴えはこの時点ですでに実戦を知らない十五の若造の域を軽々と凌駕していた。
「なんだ、案外、人生ってちょろいんだな」
初めての戦場で亜人の死体を山と積み、その上に剣を突き立てた少年兵の姿に、誰もがその未来が血塗られたものになるだろうことを想起せざるをえなかった。
朝から晩まで、それこそ精根尽き果てるまでヴィルヘルムは剣を振り続ける生活を続けた。それが八歳の頃から六年間、十四の歳まで。
王都で王国軍に所属するようになってからも、許される自由な時間は剣を振ることに充て続けた。剣の冴えはすでに実戦を知る騎士の中でも有数であり、騎士としての叙勲すら受けていない田舎出身の剣士の名は、王国軍の中では期待を伴って、亜人の連合軍にとっては忌まわしきものとして知れ渡ることとなった。
現実の前に折られることもなく、さりとて自身に満足することもなく、ヴィルヘルムは鬱屈とした感情をもてあましたまま、戦場にて剣を振るい続けた。
剣で他者の肉体を切り裂き、血を浴び、命を奪った相手よりも自分の方が強者であると証明する――その瞬間にだけ、暗い喜びが芽生えるのがわかる。
いつしかヴィルヘルムは笑いながら人を斬るようになり、『剣鬼』の名は畏怖と憎悪を持って戦場にて呼ばれるようになっていく。
立てた武勲の数はゆうに両手の指を越えたが、ヴィルヘルムが騎士としての叙勲を受けることはなかった。他者と馴れ合うことをせず、ひたすらストイックに剣に没頭し、戦場でも味方の姿など知りもしないとばかりに暴れ回り、敵陣に飛び込んでは血の華を咲かせて舞い戻る。――そんな存在に、騎士などという華々しい称号が相応しいはずもない。とかく古い騎士道精神の生きるこの王国の中にあっては、王国に貢献こそすれヴィルヘルムの存在は異物として扱われ続けていた。
そして、ヴィルヘルムもそんな状況を変えようとは思っていなかった。
騎士のように誉れ高く、他者の命や自分の魂の高潔さの競い合いを戦いに持ち込むことなどできない。戦えば人は死に、血は流れ、命はすり潰される。
その感覚をなにより楽しめる自分に騎士は向いていないし、それを楽しめなくなるのであれば騎士になどなりたくもない。
歪んだ戦いへの渇望が、ヴィルヘルムという青年の心を長く長く蝕んでいた。
そこに綻びが生じたのは彼が十八――王国軍での軍歴も四年を数え、軍内にも『剣鬼』の名を知らぬものがいなくなった頃のことだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――美しい赤毛を長く伸ばした、震えるほど横顔の綺麗な少女だった。
戦線の拡大に伴い、前線から一度王都に戻らされ、不要だと進言するヴィルヘルムの意思を押し退け、無理やりに与えられた休暇の一日のことだ。
それまで血と死の狭間を堪能していた時間から唐突に解放され、時間をもてあましたヴィルヘルムは愛剣を片手に城門を抜けた。
家を飛び出すときに掴み、土産代りに奪ってきたトリアス家の剣もだいぶくたびれていたが、十年来の付き合いになるこの剣がもっとも手に馴染む。他の剣が使えないわけではないが、命の奪い合いの場に没頭するにはこの剣がやはり一番だった。
愛剣片手にヴィルヘルムが出向いたのは、王都の端に当たる遊ばされた開発区だ。建設途中、といえば聞こえはいいが、その作業が中断してずいぶん経っていると聞いていた。少なくとも、ヴィルヘルムが王都に上京した頃にはすでに中断しており、再開の目処はいまだに立っていない。亜人族との内戦が片付くまではそのままだろう、との話だ。
「――――」
朝方の開発区には人気がなく、あったとしてもそれは不埒な目的でこの場を溜まり場とするような輩ばかり。少しばかり気を発して脅しつけてやれば、姿を見せることもなく逃げ出していくような小者の集まりだ。
無心になり、ヴィルヘルムは気を沈めると剣を抜き――一振り。
頭の中に思い浮かぶのは、すでに幾千幾万、斬り合いを繰り広げた無尽蔵の木偶人形だ。身をかわし、刃を当て、体をさばき、首を飛ばす。
幼い頃から繰り返し繰り返し、続けてきた実戦稽古。戦う相手の実力は歳を追うごとに強く早くなり、気付けば今の自分と斬り合うのは、
「目つきが悪いな」
澱んだ目と狂気にゆるんだ口元、見るだに正気の位置にない虚ろな剣士――毎朝、鏡で見る自分の姿に他ならなかった。
自分との斬り合い、もはや今のヴィルヘルムの内に沈む影の中で、自分と実力の拮抗する相手はそのぐらいしか見当たらなかった。噂では王国軍の精鋭、近衛騎士ともなれば腕の立つものは多数存在するとの話だが、彼らと轡を並べて戦う機会などヴィルヘルムの戦場には存在しない。自然、相手は自分に限定される。
休日が宛がわれるたび、こうして殺せない自分と殺し合うのがヴィルヘルムの日課となっていた。気付けば開発区のこの一角は『剣鬼』の縄張り、のようなレッテルを貼られており、いつの間にか近づくものすらいなくなっている。
好都合だ、と割り切って、ヴィルヘルムは自分の闇というべき世界に没頭する。その中では現実には望むべくもない剣戟が繰り広げられており、そこでのみ、自分の生きる意味が実感できるのだから。
「――あら、ごめんなさい」
そのヴィルヘルムだけの世界にふいに割り込んだ異分子は、美しい少女の姿をしていた。
剣を振ろう、殺し合おう、といつものように開発区に足を踏み入れた彼は、その先客の気配に気付いて足を止めた。
ヴィルヘルムが利用する一角は比較的足場が均されており、放置された区画の中では広さの面でも申し分のない絶好の場所だ。その異分子はあろうことか、そのヴィルヘルムの憩いの場に居座り、こちらに向かって小首を傾けていた。
「こんな朝早くにここにくる人がいるのね。こんなところで――」
「――――」
少女はヴィルヘルムの方にうっすらと微笑みかけ、なにかしらの言葉を投げかけてきたが――ヴィルヘルムの返答はシンプルに、剣気を叩きつけるというものだった。
素人であるならば、その剣気に中てられただけでそそくさと逃げ出す。玄人であってもヴィルヘルムの技量を察し、やはりそそくさとその場をあとにするだろう。
だが、その少女はあろうことか、
「……どうかしたの?恐い顔をして」
あっけらかんと、ヴィルヘルムの剣気を受け流して、そう続けてきた。
苛立ちを感じ、ヴィルヘルムは舌打ちをする。
剣気が通じない相手――それは即ち、武とまったく無関係の輩の場合だ。少なからず暴力の気配を知るものであれば、ヴィルヘルムの剣気にそれなりの反応を見せる。だが、それと無縁のものにとっては単なる威圧に他ならない。相手によってはその威圧すら、単に目を細めただけと見る場合もあるだろう。
この目の前の人物の場合、まさしく後者の中の後者の手合いだ。
「女が、こんな朝っぱらからこんなとこでなにしてやがんだよ」
依然、女の視線が顔から剥がれないことに吐息を漏らし、ヴィルヘルムはそう応じる。少女はそれに対して「うーん」と小さく喉を鳴らし、
「そっくりそのまま、とお返ししたいところだけど、それを言うのはちょっと意地悪すぎるわよね。冗談、通じなさそうな顔してるし」
「このあたりは物騒な奴らが多い。女のひとり歩きは感心しねえ」
「あら、心配してくれてるの?」
「俺がその物騒な奴らの可能性もあるんだがな」
少女の軽口に皮肉で応じ、ヴィルヘルムは剣の柄を鳴らして獲物の存在を主張。が、少女はヴィルヘルムのそんな挙動に目も向けず、「これ」と傍らを指差す。
段差に腰掛けた少女が指を向けたのは、区画の段差の向こう側だ。ヴィルヘルムの位置からは覗けず、眉間に皺を寄せると手招きされた。
「そこまでして見たいわけじゃねえんだが……」
「いいからいいから。おいでおいで」
子どもをあやすような言い方に口の端がひきつるのを感じながら、ヴィルヘルムは瞑目して気を落ち着かせると少女の傍へ。段差に足をかけ、その向こう側へと身を乗り出して覗き込んで見れば、
「――――」
一面、朝焼けの日差しに照らし出される黄色い花畑が存在していた。
「開発が途中で止まったでしょう。誰もこないと思ったから、種をまいておいたの。その結果を見に、足を運んだわけ」
言葉を失うヴィルヘルムに、少女は秘め事を告白するように声をひそめていた。
ずいぶんと長いこと、この場所に足を運んでいたはずだったが、この花畑の存在にヴィルヘルムは気付いていなかった。ほんの少しだけ奥を覗き込み、視界を広げるだけで見ることができたこの花畑に。
「花は、好き?」
いまだ口を開かないヴィルヘルムの横顔に、少女がそう問いかけてくる。
その彼女の方へと顔を向け、ヴィルヘルムはささやかな微笑を作る少女の顔をジッと見つめる。それから――、
「いや、嫌いだな」
と、口を曲げて低い声で、答えたのだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――それからというもの、少女とヴィルヘルムの遭遇はたびたび続いた。
休暇を得て開発区画へ足を運ぶ朝方の時間、彼女はヴィルヘルムより早くその場所に辿り着き、ひとり静かに、風を浴びながら花畑を眺めている。
そしてヴィルヘルムがきたのに気付くと、
「花、好きになった?」
と、聞いてくるのだ。
首を横に振り、彼女の存在など忘れたように剣を振ることに没頭する。
汗を流し、思考の中の殺し合いに沈み、終えて顔を上げれば、いまだその場に留まる彼女の姿があり、
「ずいぶんと、お前は暇していやがるんだな」
と、皮肉げに声をかけるのが慣例となっていった。
ぽつぽつと、会話をする時間は少しずつ増えていったように思う。
剣を振ったあとだけだった会話が、剣を振る前にも少し交わされるようになり、剣を振ったあとの会話も少しだけその時間を延長していった。
次第に、その場所に足を運ぶ時間が早くなり、時には少女よりも先に均した地面の上に足を踏み、「あ、今日は早いんだ」と悔しげに少女が言うのに笑みが浮かぶぐらいの情動を得るようになっていた。
――名前の交換をしたのは、そうして出会って三カ月ほどかかったはずだ。
テレシア、と名乗った少女は「今さらだね」と小さく舌を出した。名乗った彼女に名乗り返し、「今までは花女って頭で呼んでた」と返し、膨れられた。
互いの名前を知るようになって、少しだけお互いの深いところに踏み込むようになったと思う。それまで、差し障りのない言葉のやり取りだったものが、その質を次第に変えていく。
ある日、なぜ剣を振るのか、とテレシアに聞かれた。
ヴィルヘルムは思い悩むこともなく、それしかないからだと答えた。
相変わらず、軍に所属する限りは血生臭い日々が続いていた。
亜人との戦争は激化の一途をたどり、魔法を掻い潜って相手の懐に潜り込み、股下から顎までを掻っ捌く作業が淡々と繰り返される。
地を駆け、風を破り、敵陣に飛び込んで大将首を跳ね飛ばす。首を突き刺した剣を片手に自陣に戻り、畏怖と畏敬が入り混じる賞賛を受け、息を吐く。
ふと、戦場の足下、血に濡れながらも風に揺れる花があることに気付いた。
それをふっと、踏まないようにしている自分がいることにも、いつしか気付いた。
「花、好きになった?」
「いや、嫌いだな」
「どうして、剣を振るの?」
「俺にはこれしかないからだ」
テレシアとのお決まりのやり取り――花のについて話すとき、ヴィルヘルムは笑みすら浮かべて応じることができた。しかし、剣について話すとき、いつしか決まり切った文句を口にすることに苦痛を覚えるようになっていた。
なぜ、剣を振るうのか。
それしかない、と思考停止してきた日々を思う。真剣に、その問いかけに対する答えを探し始めて、ヴィルヘルムは一番最初に剣を握った日まで立ち返った。
あの頃、ヴィルヘルムの手の中で血を浴びることもなく、曇りない刀身を輝かせていた剣を見上げ、小さな掌には大きすぎる剣に光を映し、なにを思ったのか。
ある日、答えの出ない思考の渦をさまよったまま、いつもの場所に足を運んだ。
足取りは重く、向かう先に待ち受けるものと相対するのが憂鬱だった。
こんなに頭を悩ませるのは生まれて初めてかもしれない。なにも考えずに済むからこそ、剣を振り続けてきたのではなかったか、と短絡的な答えを得かけて、
「――ヴィルヘルム」
先にその場所にいた少女がこちらを振り返り、微笑みながら名前を呼んだ。
――突然、魂を揺さぶられた。
足が止まり、込み上げてくるものが堪え切れなくなる。
ふいの自覚がヴィルヘルムの全身に襲いかかり、その体を押し潰そうとしてきた。
無心で剣を振る、ということに全てをなげうつことで、思考停止して置き去りにしてきたあらゆるものが噴き出してきた。
理由はわからない。切っ掛けも定かではない。それはずっと、張り詰めていた堤防を切りかけていて、ふいにこの瞬間に限界を迎えたのだ。
なぜ剣を振るうのか。
なぜ、剣を振り始めたのか。
剣の輝きに、その力強さに、刃として生きることの潔さに憧れた。
それもある。それもあるけれど、始まりは違っていたはずで。
「兄さんたちのできないことを、俺はできなきゃいけない」
剣を振るであるとか、そういった方面にはとんと疎い兄たちだったから。
それでも、兄たちは兄たちなりに家を守ろうとしていたから、そんな兄たちの役に立ちたくて、違う方法で守るやり方を探そうとして。
そうして、剣の輝きと力強さに魅了されたのではなかったか。
「花は、好きになった?」
「……嫌いじゃ、ない」
「どうして、剣を振るの?」
「俺にはこれしか……守る方法を思いつかなかったからだ」
それ以降、そのお決まりのやり取りが交わされることはなくなった。
代わりに、こちらから話題を振ることが多くなったと思う。気付けば、剣を振りにいくよりも、テレシアと話にいくことを目的としている自分がいて。
無心で剣を振るはずだった場所は、どうにか足りない頭を回転させて、剣ではなく話題を振る場所へと変わっていっていた。
戦場での『剣鬼』の振舞いが変わり始めたのも、この頃だ。
それまでいかに早く相手の懐に飛び込み、どれだけ多くの敵の命を刈り取るか。そればかりを考えて動いていた体が、いつしかいかに味方に損害を出さずに戦えるか、という方向へとシフトしていった。
敵も、息の根を止めることを優先するより戦闘不能を優先し、深追いより味方の援護に回ることの方が多くなる。自然、周囲の見る目が変わり始めた。
声をかけられることも、こちらから声をかけることも多くなる。
それまでまったく無縁であった騎士叙勲の話が出て、それを受けることに少しばかりの打算が考えられるようにもなった。
それなりに名誉があった方が、下心にも箔がつくと。
「叙勲の話が出て、騎士になった」
「そう、おめでとう。一歩、夢に近づいたじゃない」
「夢?」
「守るために剣を握ったんでしょう?騎士は、誰かを守る人のことですもの」
その守りたいものの中に、その笑顔が焼き付けられた気がした。
※ ※※※※※※※※※※※※
また時間は過ぎる。
騎士としての立場を得て、軍内で接する人間が増えてくると、自然と情報も入り始める。亜人との内戦は深刻化する一方で、いくつもの戦線で一進一退を繰り返し続けている。ヴィルヘルムもまた、勝ち戦ばかりでなく負け戦をいくつも経験した。
そのたび、剣の届く範囲だけでも守ろうと足掻き、届かないことに悔しい思いを噛みしめる日々が続いた。
――トリアス家の領地に内戦の火が燃え移ったことが耳に入ったのも、広がり始めた交友関係の一端が影響していたことは間違いない。
もともとは国土の東部を起点として始まった内紛は拡大し、その広がった北方への取っ掛かりの一部が、トリアス家の領地にまでわずか届いたということだった。
命令はなかった。与えられた騎士としての立場を、所属する王国軍に対する忠節を忘れていないのであれば、勝手な行動は許されなかった。
だが、初めて剣を握ったときの思いを再び胸に抱いていたヴィルヘルムに、それらのしがらみはなんの意味も持たなかった。
駆けつけた懐かしの領地は、すでに敵方の侵攻に大半を奪い尽くされたあとだった。
五年以上も前に置き去りにした光景が、見慣れていた景色が色褪せていく現実を前に、ヴィルヘルムは剣を抜き、声を上げ、血霧の中に飛び込んでいった。
敵を切り倒し、屍を踏み越えて、喉が嗄れるほどに叫び、返り血を浴びる。
剣に生き、剣で生かし、剣にしか生きる意味を見出せない鬼の戦いがあった。
多勢に無勢であった。援軍もなく、もともとの戦力も脆弱。
そして戦友と轡を並べて戦う戦闘と違い、ヴィルヘルムは単身で引き際も与えられていない。今までいかに、自分だけの力で戦っているつもりになっていたのかを思い知らされながら、ひとつ、またひとつと手傷が増え――動けなくなる。
積み上げた屍の上に自身もまた倒れ込み、それでも尽きることのない敵勢の前にその勢いは挫かれ、ヴィルヘルムは目前に死が迫るのを理解した。
長い付き合いであった愛剣が傍らに落ち、指先の引っかかるそれを掴み上げる気力もない。瞼を閉じれば半生が思い出され、そこに剣を振り続けるばかりの己がいる。
寂しく、なにもない人生だった、と結論付けそうになる一瞬の光景――その途上に次々と思い浮かぶ人々の顔。
両親が、二人の兄が、領地で共に悪さした悪友が、王国軍で一緒に戦った同僚たちが、次々に思い出され――花を背にするテレシアが、最後に浮かんだ。
「死にたく、ない……」
剣に生き、剣に死ぬ道こそ本望だと思い続けてきたはずだった。
しかし実際にそうして刃に全てを預ける生き方の果て、望んだはずの終わりを目の前にしたヴィルヘルムを襲ったのは、耐え難い寂寥感のみであった。
そんな掠れた最後の言葉を、多数の仲間を切り殺された敵兵は許しはしない。
人並み外れて大きな体躯を持つ緑の鱗をした亜人が、手にした大剣をヴィルヘルム目掛けて容赦なく振り下ろす――。
「――――」
迸った斬撃の美しさは、目に焼き付いて永劫に忘れられまい。
剣風が吹き荒び、そのたびに亜人族の手足が、首が、胴体が撫で切られる。
どよめきが敵勢に怒涛のように広がるが、駆け抜ける刃の走りの方がそれよりはるか格段に早く、死が量産されていく。
眼前で繰り広げられる、まるで悪夢のような光景。
血飛沫が上がり、悲鳴さえ口にすることができず、亜人の命が刈られていく。鮮やかすぎる斬撃は命を奪われた当人にすら、その事実を報せることなく命の灯火を吹き消していくのだ。
それが残酷であるのか慈悲であるのか、もはや誰にもわからない。
わかることがあるとすれば、それはたったひとつだけ。
――あの剣の領域には生涯、永遠に届くことはないだろう。
剣を振るものとしての生き方を、そう長くない人生の大半をそれこそ惜しみなく捧げて生きてきた。そんなヴィルヘルムであったればこそ、目の前で容赦なく振られる剣戟の高みがいかほどにあるのか、理解できた。
それが非才の自身には、決して届かない領域であるという事実もまた。
ヴィルヘルムの生んだそれが血霧の谷であったとすれば、目の前に広がったそれはまさしく血の海だ。積んだ屍の山の大きさも、比べるべくもない。
トリアス領地に侵攻した亜人族が根絶やしにされるまで、その剣戟は止まらなかった。
圧倒的な殺戮を見届け、遅れて到着した仲間たちに担ぎ起こされて、ヴィルヘルムは負傷を治療されながら――その姿から目が離せなかった。
長剣を揺らし、悠然と歩き去る姿。その身に返り血の一滴も浴びていないのを見取り、戦慄がヴィルヘルムの全身を貫いた。
あの場所には永遠に、届かないのだと。
『剣聖』の名前を聞かされたのは、王都に戻ってからのことだ。
剣鬼ヴィルヘルムの代わりに、剣聖の名前が各地に響き始めたのも同じく。
『剣聖』――それは、かつて魔女を斬った伝説の存在。
加護のみが今も血に残り、一族のいずれかを超越者として守り続ける。
今代の剣聖の名はそれまで一度も表に出なかったが――それも、このときまでのこと。
※ ※※※※※※※※※※※※
傷が癒えて、いつもの場所に足を運べたのは数日後のことだった。
愛剣を握りしめて、ゆっくりと地を踏みしめながら、ヴィルヘルムはそこを目指す。
おそらくはいるはずだ、という確信があった。そしてその確信した通り、テレシアは変わらない様子でその場所に座っていた。
こちらを彼女が振り向くより早く、鞘から剣を引き抜いて飛びかかっていた。
唐竹割りに落ちる刃が彼女の頭を二つにする直前――指先二本で、剣先が挟み止められた。驚嘆が喉を詰まらせ、口の端に笑みが上る。
「屈辱だ」
「――そう」
「俺を、笑っていたのか」
「――――」
「答えろよ、テレシア……いや、剣聖!!」
力任せに剣を取り上げ、再び斬りかかるも、髪ひとつ乱さない動きで避けられる。足を払われ、受け身も取れずに無残に倒された。
どうしようもない壁が、途方もない差が、二人の間には存在していた。
「もう、ここにはこないわ」
幾度も斬りかかり、そのたびに反撃を受けて、ヴィルヘルムは打ち倒される。
愛剣はいつの間にか彼女の手の中に奪われており、刃の腹で打たれて息が詰まり、一歩も動くことができなくなっていた。
遠い。あまりにも弱い。届かない。足りない。
「そんな、顔をして……剣なんて、持ってるんじゃねえ」
「私は、剣聖だから。その理由がわからないでいたけど、わかったから」
「理由……」
「誰かを守るために剣を振る。それ、いいと思うわ」
――花を愛でるのが好きで、剣を握ることの意味を見出せないでいた彼女に、理由を与えてしまったのだ。
誰よりも強くて、誰よりも剣の届く距離の大きな彼女だから、余計に。
ならば、自分が与えてしまった罪を清算するには――、
「待って、いろ、テレシア……」
「…………」
「俺が、お前から剣を奪ってやる。与えられた加護も役割も、知ったことか……剣を振ることを……刃の美しさを、舐めるなよ、剣聖」
遠ざかる背中に、剣に愛された剣聖に剣を語る愚かな鬼がひとり。
それきり、二人がこの場所で会うことは二度となかった。
※ ※※※※※※※※※※※※
剣鬼の姿が王国軍から消え、代わりに剣聖が軍内に名を広めることとなる。
一騎当千――その言葉を体現するかのようなテレシアの奮戦に、戦況は見る間に傾いていく。個人でありながら、その武勇はもはや個人の域になく、轟く『剣聖』の異名はかつての伝説を知る亜人たちにとっても絶望的ですらあった。
内戦の終わりは、剣聖が戦場に出てから二年ほどの月日でなった。
落とし所は互いのトップによる会談に持ち越され、少なくとも剣を持つものたちの戦いは終わりを告げた。
戦いの終わりを祝し、王都ではささやかながらも華やかな催しが開かれた。
美しく、なにより力強い剣聖への勲章の授与などがいくつも予定されたセレモニー。
彼女の姿を一目見ようと、国中の人間が王都へ、王城へ足を運び、熱狂が戦争を終わらせた英雄であるひとりの少女を包み込む。
ふらりと、その熱狂を断ち切るように剣鬼が舞い降りたのは、そのときだ。
剣を抜いた不逞の輩を前に、衛兵たちは色めき立つ。が、それらを制して前に出たのは誰であろう、叙勲を目前に控えた剣聖であった。
同じく剣を抜き放ち、侵入者と向かい合う少女の姿に誰もが息を呑む。
その立ち姿の美しさは洗練されていて、言葉にすることすら躊躇われた。
一方で、その少女と向かい合う人物のなんたる禍々しさか。
褐色の上着を羽織り、見える限りの肌は雨水や泥が渇き切って張りついている。手にした剣も儀礼用の剣聖のものと比べれば貧相なもので、拵えこそ立派ではあるが刀身は歪み、赤茶けた錆が浮いている始末。
壇上の王が剣聖に助勢しようとする騎士たちを止める。顎を引き、前に出る剣聖の剣戟が閃くのを、誰もが声を殺して見守り続けた。
振り切られた刃と刃が重なり合い、甲高い音が観衆の間を突き抜ける。
煌めきが連鎖し、風を巻き、めまぐるしい速度で二つの影が滑り始めた。
その光景を前に、声を失っていた人々の心に去来したのは、ただただ圧倒されるばかりの膨大な感動であった。
攻守がすさまじい勢いで入れ替わり、立ち位置を地に、宙に、壁に、空に置きながら二人の剣士が剣戟を重ねる。その姿に、気付けば涙を流すものすらいた。
人は、ここまでの領域に至ることができるのだ。
剣とはここまで、他者に美しいという感慨を与えることができるものなのだ。
剣戟が交錯し、鍔迫り合い、切っ先が閃き、幾度も打ち合う。
そしてついに、
「――――」
赤茶けた刃が半ばでへし折れて、先端がくるくると宙を舞って飛んでいく。
そして、剣聖が手にしていた儀礼用の剣が、
「俺の」
「…………」
「俺の、勝ちだ」
飾り立てられた宝剣が音を立てて地に落ち、折れた剣の先端が剣聖の喉の寸前に迫る。
時が止まり、誰もがそれを知る。――剣聖の、敗北を。
「俺より弱いお前に、剣を持つ理由はもうない」
「私が、剣を持たないなら……誰が」
「お前が剣を振る理由は俺が継ぐ。お前は、俺が剣を振る理由になればいい」
上着のフードを跳ね上げる。
赤茶けた汚れの下で、ヴィルヘルムが仏頂面でテレシアを睨んでいた。
彼女はそんなヴィルヘルムの態度に小さく首を振り、
「ひどい人。人の覚悟も決意も全部、無駄にして」
「それも全部、俺が継ぐさ。お前は剣を握っていたことなんて忘れて呑気に……そうだな。花でも育てながら、俺の後ろで安穏と暮らしていればいい」
「あなたの剣に、守られながら?」
「そうだ」
「守ってくれるの?」
「そうだ」
突きつけた剣の腹に手を当てて、テレシアが一歩前に出る。
息遣いさえ届き合う距離に二人、顔を見合わせる。潤んだ瞳に溜まった涙が、テレシアの微笑みを伝って落ちていき、
「花は、好き?」
「嫌いじゃなくなった」
「どうして、剣を振るの?」
「お前を守るために」
互いの顔が近づき、距離が縮まり、やがて消える。
至近で触れた唇を離し、テレシアは頬を染めて、ヴィルヘルムを見上げ、
「私のことを、愛してる?」
「――わかれ」
顔を背け、ぶっきらぼうに言い放つ。
観衆の時間の静止が解けて、衛兵がこちらへ大挙して押し寄せてくる。その中にいつか肩を並べていた面々がいるのが見えて、ヴィルヘルムは肩をすくめる。
そんな彼のすげない態度にテレシアは頬を膨らませる。あの場所で二人、花畑を前に笑い合っていた日々の一枚のように。
「言葉にしてほしいことだってあるのよ」
「あー」
頭を掻き、罰の悪さに顔をしかめながら、仕方ないとヴィルヘルムはテレシアを振り返ると、その耳元に顔を寄せて、
「いつか、気が向いたときにな」
と、恥ずかしさを言葉で誤魔化したのだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――煌めく宝剣が岩のような外皮を易々と切り裂き、風が走り抜ける。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ――!!」
雄叫びを上げながら駆ける老剣士のあとを追いかけるように、生じた刃の傷から噴出する血が空を朱色に染めていく。
満身創痍の姿だ。
左腕は肩から先が今にも落ちそうで、全身を濡らす血は返り血と自身の血が混ざり合ってどす黒く色を変えている。
ほんのわずかな時間の治癒魔法の効果など、傷の止血と幾許かの体力の回復しか見込めない。依然、安静にしているべき重篤な状態であることに変わりはない。
だが、今のヴィルヘルムの姿を見て、誰が彼を瀕死の老人だと笑えよう。
双眸の輝きを見れば、駆け抜ける足取りの力強さを見れば、握る刃の剣撃の鮮やかさを見れば、響き渡る裂帛の気合いを耳にすれば、その魂の輝きを目前にすれば、誰がその老人の人生の集約を愚かであると笑えるのだ。
刃が走り、絶叫を上げて、悶える白鯨の身が激痛に打ち震える。
大樹の下敷きになって身動きの取れない魔獣の背を、駆け抜ける剣鬼の刃に躊躇いはない。頭部の先端から入る刃が背を抜け、尾に至り、地に降り立つと再び頭を目指して下腹を裂きながら舞い戻る。
一振り――長く長く、深く鋭い、斬撃が一周して白鯨を両断する。
跳躍し、動きの止まる白鯨の鼻先に再び剣鬼が降り立つ。
血に濡れた刃を振り払い、剣鬼は自分をジッと見つめる白鯨の右目――片方だけ残るそちらに自身の姿を映しながら、
「貴様を悪と罵るつもりはない。獣に善悪を説くだけ無駄。ただただ、貴様と私の間にあるのは、強者が弱者を刈り取る絶対の死生の理のみ」
「――――」
「眠れ。――永久に」
最後に小さな嘶きを残し、白鯨の瞳から光が失われる。
自然、その巨体からふいに力が抜け、落ちる体と滴る鮮血が地響きと朱色の濁流を作り出す。
足下を伝う血の感触に、誰もが言葉を発することができない。
静寂がリーファウス街道に落ち、そして――、
「終わったぞ、テレシア。やっと……」
動かなくなった白鯨の頭上で、ヴィルヘルムが空を仰ぐ。
その手から宝剣を取り落とし、空いた手で顔を覆いながら、剣を失った剣鬼は震える声で、
「テレシア、私は……」
掠れた声で、しかしそこには薄れることのない万感の愛が。
「俺は、お前を愛している――!!」
ヴィルヘルムだけが知る、告げられなかった愛の言葉。
最愛の人を失うその日まで、一度たりとも言葉にできなかった感情の昂ぶり。
かつて彼女に問われたとき、本来ならば告げておくべきだった言葉を、ヴィルヘルムは数十年の時間を経てやっと口にする。
白鯨の屍の上で、剣を取り落とした剣鬼が涙し、亡き妻への愛を叫んだ。
「――ここに、白鯨は沈んだ」
ぽつりと、凛とした声音が平原の夜に静かに響く。
その声に言葉をなくしていた男たちが顔を上げ、地竜を歩かせて前へ進み出る少女を誰もが目にした。
長い緑髪はほつれ、戦いの最中に受けた傷で装飾の類は無残になり、その顔を自身の血で汚した、あまりにみすぼらしい格好の人物だ。
しかしその少女の姿は彼らの目に、これまでのどんな瞬間より輝いて見えた。
魂の輝きが人の価値を決めるのであれば、それは当然のことだ。
宝剣は貸し出し、今のクルシュは帯剣していない。
故に彼女は空の拳を天に差し向け、握り固めた拳を全員に見えるようにし、
「四百年の歳月を生き、世界を脅かしてきた霧の魔獣――ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが、討ち取ったり!!」
「――――おお!!」
「この戦い、我々の勝利だ――!!」
高らかに勝利の宣告が主君から上がり、生き残った騎士たちが歓声を上げる。
霧の晴れた平原に、再び夜の兆しが舞い戻る。月の光があまねく地上の人々を照らす、あるべき正しい夜の姿として。
――ここに数百年の時間をまたぎ、白鯨戦が終結した。