『都市奪還攻略前哨』
「ひとまず、『憤怒』のことはプリシラたちに任せるってことにしよう。リリアナの加護に関してはラインハルトからのお墨付きも出た」
「使い慣れない加護だけに、あまり説得力はないかもしれないけれどね。確かにリリアナ様の歌であれば、聞かされた『憤怒』への対抗手段になり得ると思う」
スバルとラインハルトの発言に、円卓参加者の視線がリリアナへ向いた。彼女は自分のくくった髪の毛を掴み、鼻の下に置いて「ヒゲ」などと遊びながら、
「いぃえぇ、お任せください。このリリアナ、一度引き受けたからにはきっちりお仕事こなしてみせましょう。ご安心を。私は歌うだけです。求められる場で!求められて歌を歌う!これがどれほど喜ばしいことか!おひねりももらえれば万々歳ですよぅ!」
「おひねりとか出ねぇから、まずその資本主義の豚の発想やめろ」
「ぶひー!」
調子づいたリリアナが沈み、代わりにプリシラが鼻を鳴らす。彼女は紅の瞳でスバルとラインハルトの二人を代わる代わる眺める。
「男二人でこそこそ何をしているかと思えば、必要のない相談ご苦労じゃったな。この歌い手の真価は妾がすでに確かめておる。間抜けな狂信者なぞ粉砕してくれよう」
「そうは言っても、確実性のために裏を取るのは必要だろ……」
「くだらん。――歌い手の歌に命を懸けるは妾ぞ。言い出しっぺの妾が、何故に不確定なものに命を委ねる。そのような暴挙、するはずがあるまい」
「――――」
そう言われると、スバルの方もぐうの音も出ない。実際、リリアナの可能性を提示したのも、その可能性を信じて『憤怒』を相手するのもプリシラだ。
彼女が言動と態度とは裏腹に、智謀と慎重さに優れる女傑なのは知れている。
「姫さん、あんまし兄弟イジメんじゃねぇよ。黙ってようぜ、オレらは」
「なんじゃ、アル。貴様、まだ妾に具申をはねられて拗ねておるのか。いい歳した男児のくせに女々しい男よの。いちいち、妾の前で価値を下げるでない」
「……そんなんじゃねぇよ」
ぷいと視線を逸らし、アルは右腕で頬杖をついて観戦モードだ。プリシラも従者の態度に鼻を鳴らすと、背もたれに体重を預けて口出しするのをやめる。
ようよう、それで話は次の流れに持っていけそうだ。
「そんなわけで、『憤怒』の攻略はプリシラ組に任せる。他の組み分けだけど……『色欲』のところの話だ。あいつのところなんだが、ヴィルヘルムさんを推したい」
「ヴィルヘルム様を名指しで?その真意を聞いてもいいかい」
「私からスバル殿にそうお願いしたのですよ、ユリウス殿」
問いかけたユリウスに、ヴィルヘルムが挙手して応じる。
老剣士は視線を集めながら、軽く視線を上――上階の方へ向けた。
「皆様もご存知の通り、我が主であるクルシュ様は現在、魔女教『色欲』の卑劣な力の影響で苦しんでおられます。私はクルシュ様の従者として、主のために戦う義務がある。そしてそれは、義務感だけに留まらぬ本懐なのです」
「可能なら、大罪司教を捕えてあの症状の原因は聞き出したいところやね。ヴィルヘルムさんの狙いもそういうことやろ?」
「おっしゃる通り。それ故に、私に『色欲』の討伐をお任せいただければ」
強い意志の込められた青い瞳が、迸る剣気を伴って場を圧迫する。
ヴィルヘルムの抱く決意と、主人への恩義――それらを感じさせる眼力に、誰もその意向へ反対の言葉は投げかけられない。
ただ一人、肉親を除いては。
「正直、僕は反対です」
「……ラインハルト」
誰もが剣気に気圧される中、ラインハルトだけが表情すら崩さない。彼は常の真剣な面差しのまま、ヴィルヘルムを見据えると、
「今のお祖父様は平静を失っておられます。もちろん、クルシュ様に無礼を働いた大罪司教への敵愾心は理解できる。ですが、その心境で目的を達せるとは思えない」
「冷静さを欠くことが、目的を達する妨げになると?お前は私にそう言うのか」
「クルシュ様を思えば、『色欲』の捕縛に失敗は許されない。ならば、その役目は僕が引き受けます。少なくとも精神的には、僕の方が優位に相対できるはず」
ラインハルトの言葉は正論で、できるだけ事態の確実な収束に尽力した考えだ。ヴィルヘルムが気負いすぎて、平静をなくしているということは間違いない。
だが、ラインハルトのその意見に、ヴィルヘルムは唇をゆるめた。
決して優しげなものではなく、ひどく獰猛な獣の笑みとして。
「――平静を失って当然だ、ラインハルト」
「お祖父様、ですが……」
「私を、お前の祖父を誰だと思っている。私は剣鬼ヴィルヘルムだ。ただ一振りの剣であろうとして、そうあれずに女を愛した半端者だ。だが在り方が半端な私だからこそ、やるべきことに対して半端であったことは一度もない」
獰猛な笑みが、ヴィルヘルムの温和で透き通る印象を塗り替える。その下から浮かび上がってくるのは、血と鋼に命を燃やし、刃のきらめきに心を奪われた鬼だ。
そして鬼はそうありながらも、瞳に一抹の温かさを残している。
「剣を振ると決めたとき、私の心は昂ぶる。平静でないことなど、戦場にある私にとっては茶飯事だ。その上でこの歳まで生きながらえてきた。今回も、主への恩義も果たせずに朽ちるつもりはない。余計な心配は無用だ」
「その理屈は、ただの精神論ではありませんか……」
「精神論も突き通せば信念になる。十四年かければ、ナマクラの剣であっても妻の仇が討てる程度にはな」
それが白鯨との戦いで、祖母の仇を討ったヴィルヘルムの信念と聞かされれば、ラインハルトとてそれ以上には言葉を続けられない。
それでもまだ、ラインハルトは納得しがたいと目を伏せている。そんな孫の頑なな姿勢に、ヴィルヘルムは「それに……」と言葉を継いだ。
「お前を必要とする戦場はこちらではない。お前が必要な場面は他にある」
「僕が必要な戦い……」
「――スバル殿。我が孫を、あなたの戦場へお連れください。エミリア様を奪還されるために、あなたは『強欲』と戦わなくてはならないはず。あなたのための剣に、このラインハルトがなりましょう」
唐突に名前を出されて、スバルは目を丸くする。ただ、頷きかけるヴィルヘルムにつられるように、ラインハルトの視線もこちらを向いた。
その様子に、スバルは仕方がないと頭を掻く。
「本当は『色欲』の話を片付けてからにしたかったんだけどな。……そうだよ。お前の力は正直、俺が担当する『強欲』の戦いで借りたい。あの厄介なクソ野郎にこそ、お前の力が必要だと思うんだ」
脳裏に浮かぶ『強欲』のレグルス。
他の大罪司教の能力も断片的にわかっているばかりだが、醜悪な異能者の中でもレグルスの権能は群を抜いて危険な代物だ。
断言はできないが現状、レグルスの能力は『無敵』という馬鹿みたいなものとしか想像がつかない。無論、単に『無敵』なだけの存在など考えたくもない。何かしらの弱点や制限があると、そう信じたいところではあるが。
「レグルスの『無敵』の防御を抜くためにも、あいつとやり合える戦闘力が必要なんだ。攻撃力も防御力も、単純な比較だと大罪司教で一番だと思う。だから、あいつの攻略にラインハルトの力を借りたい」
「攻撃が通じない相手……確かに、そんな怪物は僕が適任だろうね。でも」
レグルスの理不尽な権能を聞いても、ラインハルトの迷いは晴れない。しかし、そのラインハルトの不安に、別の声が上がった。
それは他でもない、スバルのすぐ隣からの声で。
「――じゃァよ。ヴィルヘルム爺さんにゃァ俺様がついッてってやるよォ」
名乗り出たガーフィールが、鋭い犬歯を噛み鳴らしながらラインハルトを睨む。そのガーフィールに、ラインハルトは「君が?」と驚いた顔をした。
「大将がてめェをご推薦なんだ。てめェの実力は俺様もわかってらァ。エミリア様の奪還に俺様ァ必要ねェ。そうだろ、大将」
「いや、ガーフィール。俺は何も、お前にそう言いたいわけじゃ……」
「慰めなんざいらねェ。それッにいじけてこんなこと言い出してるわけでッもねェよ。むしろ反対さ。俺様も、今回ばかりは用事がある奴がいやがッかんなァ」
息を荒げるガーフィールの態度に眉を寄せ、スバルは遅ればせながら気付いた。
そうだ。『色欲』に姿を変えられた都市庁舎の人間の中には、ガーフィールの知人らしき人物――黒竜へ姿を変えられた、そんな人物もいたのだ。
ガーフィールにとって、『色欲』は決して因縁のない相手ではない。
それに――、
「そのクソ女も許せねェのァ事実だが、それだけってことでもねェよ。最初に上等くれてくれやがった二人組も、『色欲』のとこにいやがッだろうしなァ」
「――――」
「俺様の無様で、いらねェ傷を負ったバカがいるんだ。俺様ァ、そいつのためにもやり返してやんなきゃァなんねェ。だから、俺様も爺さんに付き合うぜ」
ガーフィールの鋭い眼差しに、ヴィルヘルムは静かに顎を引く。
ここに老剣士と若い戦士の意思は、共に報復のために戦うという形で統一された。その根底にあるのが、強く想う女性のためであるという点も共通している。
そのガーフィールの意思表示に、スバルからも意見はない。
「今さらだとは思うけど、『色欲』の権能は変異・変貌だ。本人が化けるのと、他人も化けさせられる。あとは血。絶対にあいつの血は浴びるな。クルシュさんが苦しんでる原因もそこにある。性格は……全員最悪だが、特にひでぇぞ」
「存じ上げております」
「踏み潰してやらァ」
スバルの最終確認に、ヴィルヘルムもガーフィールも退く気配は微塵もない。
最後にスバルがラインハルトに確認のための目を向けると、さしもの剣聖もここまで意思が固まった場に口出しするつもりはなくなったらしい。
「構わないよ。ガーフィールの実力も確かだ。そこにお祖父様がいるのであれば、どんな敵であろうと切り伏せてくれるものと信じられる」
「てめェに言われっと、釈然としやがらねェな。『トルクトイは控えめだが味は絶品』ってェもんじゃァねェか」
「本心だよ。君と、お祖父様の勝利を信じている。僕はスバルの剣になろう」
ガーフィールが満更でもない顔で頬を掻き、ラインハルトがスバルに頷いた。剣聖の頼れる言葉に、スバルも万の助勢を受けた気分だ。
「勝手な希望で悪いな、ラインハルト」
「大丈夫だよ。たとえどんな場であっても、僕は僕のできる最大限の働きをする。それで君が助かるのなら望むところさ」
「頼ってばっかでホントに悪ぃ。お前が強いってことに頼りすぎな局面だけど……お前の足りない部分はどうにか補うから、期待しててくれよ」
「――――」
ふと、その言葉にラインハルトが目を丸くして押し黙った。珍しい彼の反応にスバルが首を傾げると、ラインハルトはすぐに「いや」と小さく笑う。
「なんでもない、ことなんだろうね、君には。――ああ、期待させてもらう。僕の届かない部分を、君が埋めようとしてくれることに」
「――?おおよ、大いに期待してくれ。期待してっから。それで、ここまでの流れでわかると思うが、必然的に最後の『暴食』は」
「――私とリカードの、担当ということになるわけだ」
スバルの言葉を引き継いで、低い声で応じたのはユリウスだ。その彼らしからぬ声の険しさに、アナスタシアが気遣わしげな眼差しを騎士へ向ける。
「ユリウス、大丈夫なん?さっきからずーっと、顔色が良ぉないよ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、大丈夫です。体調の好不調の話をするなら、スバルの前で弱音など吐けませんよ」
「そりゃお前、どういう意味だよ」
「無論、君の足や置かれた状況の厳しさを考えてのものだ。噛みつかないでくれたまえよ。このような場面でまで、君と口論するつもりはない」
「む……」
思わぬ態度に肩すかし。それと同時に、妙な違和感もある。
ユリウスの様子にアナスタシアと同じ不審をスバルも抱いた。それがなんであるのかは相変わらずわからないのだが、それにしてもだ。
「残った『暴食』の担当、私とリカードで引き受けよう。本来、彼の相手は因縁のあるスバルやヴィルヘルム様こそ受けたかったはずだ。その気持ちを曲げてまで任される役目、必ずややり遂げてみせる」
「……ああ、そうだな」
ユリウスの気構え通り、『暴食』の討伐はスバルがやり遂げたかった役目だ。それはヴィルヘルムも、今も上で苦しむクルシュも同じことだろう。
記憶を食らい、名前を食らう『暴食』の権能――その被害に遭い、眠り続けるレムのことを思えば、『暴食』はスバルがこの手ですり潰してやりたかった。
殴りつけ、蹴りつけ、踏みつけにして、やらかした出来事の全てを後悔させて、涙ながらに土下座させて、そうしてやりたい放題やってやりたかった。
その役目を、他人に譲る――。
「誰にだって、本当は任せたくねぇよ。レムは、俺が取り戻したい。取り戻したかった。そうすることが、俺の役目だと信じてた」
「…………」
「それでも、誰かに任せなきゃならないってんなら、この場で俺はお前に任せる。勘違いすんな。消去法だ。……消去法には違いねぇけど、お前に任せる。俺にとってお前は、嫌々でも役目を譲って我慢できるうちの、一人だ」
記憶と存在を、人質にされているレム。
その身柄を奪われて、今も助け出されるときを待っているエミリア。
どちらもスバルにとって大切な相手で、どちらもスバルが取り戻さなくてはならない大事な人で、だからどっちにもスバルがいいところを見せたい。
でも、スバルはエミリアの騎士で、そしてレムの英雄だから。
「俺は『強欲』を倒して、エミリアを取り戻す。『暴食』をぶん殴るのは、今回はお前に譲ってやる。……しくじってくれるなよ」
「――君の期待に、応えてみせよう。今度こそ、今度こそだ」
深々と頷いて、ユリウスがスバルの信頼を引き受ける。
『最優』の騎士はそれからヴィルヘルムを見ると、小さく顎を引いた。
「ヴィルヘルム様」
「私から言いたいことは、ほとんどスバル殿に言われてしまいました。『暴食』に対して穏やかならぬ心境であるのは事実……故に私も、ユリウス殿にお任せします。この都市には少しばかり、調子に乗った不埒な輩が多すぎる」
研ぎ澄まされた剣気に、ユリウスは静かに勇気づけられた様子だ。それらのやり取りをここまで黙って見ていたリカードが、
「なんや、ワイの意見はよう聞かんと話が進みおるもんやなぁ。別に構わんのやけどな!今の布陣が一番ええやろ言うんはワイも同感やから」
「リカードは構ってちゃんやから。そんなおっきぃ図体やのに拗ねてもよう可愛い思われんよ。……ユリウスのこと、頼むな?」
「安心しぃや。ワイが嘘ついたことあるか?アナ坊」
「その呼び方、いい加減にやめ。ウチ、リカードのご主人様なんやから」
拗ねた顔で頬を膨らませるアナスタシアに、リカードが馬鹿笑いする。黒目がちの瞳でアナスタシアを見下ろすリカードは、ひどく優しい目つきだった。
「それじゃ、これで布陣は決まりってことだな」
――スバルの言葉に、円卓に着く全員が頷いた。
「『憤怒』のシリウスの攻略に、プリシラとアル。それからリリアナの三人」
「妾を差し置いて人心を支配しようなどと片腹痛い。調子づくには場所と時間と相手が悪かったと、パッパラパーな痴れ者に教えてくれよう」
「歌うだけー、歌うだけー。私はそう、歌うだけの肉の塊。命を惜しむな、舞台を惜しむのです。よっしゃ、やれそうな気がする。今、やれそうな気がする!」
「――――」
扇子でプリシラが己をあおぎ、リリアナが謎の自己暗示をかけている。表情を見せないアルだが、いまだに全身からは納得いかない雰囲気が漂っていた。
イマイチ不安な三人組だが、自信だけはここが一番強い。
「次に、『色欲』の攻略がガーフィールとヴィルヘルムさん」
「おォよ。あのうるッせェ女の首根っこ掴んで、泣いて謝らせてやんぜ」
「お任せください。――あの二人組との決着も、必ずや」
最も戦意が高いのが、この二人というべきか。
剣鬼ヴィルヘルムは主への恩義と、片時も忘れたことのない妻のために。
ガーフィールは自分の中で形にならない、心を震わせる感情の決着に。
二人の戦士はあるいは戦いにそれぞれの答えを求めて、挑むのかもしれない。
「そして『暴食』の攻略がユリウスとリカード、お前ら二人だ」
「他でもない、君たちに任された役割だ。必ず成し遂げてみせるよ。そうすることでこそ、私は奴を否定することができる」
「ワイの家族もあのクソボケ共にやられとるかんなぁ。言われるまでもないわ。ぶち転がして泣かせたる」
魔女教との因縁は、この二人が一番薄い。それでもこの二人に他と劣らぬ期待を寄せられるのは、二人が揃って信望に足る相手だと確信できるからだ。
すでに一度、共に苦境を乗り越えた仲。戦友を疑う必要など、どこにもない。
だからこそ憎き『暴食』を譲る決断だって、できるのだから。
「最後の『強欲』が、俺とラインハルトの二人だ。頼りにしてるぜ?」
「――ああ、任せてほしい。僕も君を頼りにするよ、スバル」
スバルの要請に、ラインハルトは変わらぬ毅然とした態度で顎を引いた。それでもどこか彼のまとう雰囲気が和らいで見えるのは、戦いの前にしては不謹慎かもしれないが、人間味のある姿に思える。
どうしてそんな風に安堵した様子なのか、スバルにはわかりかねるが。
「ほんなら、これで戦いの担当は決まりや。各所と連絡を取り合うための対話鏡は全部で三つ。一つは都市庁舎のウチが持つとして……他は、どうする?」
「個人的には『憤怒』には絶対に持ってってもらいたい。もう一つはそうだな……『色欲』か『暴食』のどっちかがいいと思う」
「その心は?」
「『憤怒』は都市全体に影響力がある奴だ。そいつが倒せたかどうかで、この都市の置かれた状況が一変する。だから、それは早く共有したい」
対話鏡の扱いについて、スバルの提案になるほどと全員が頷いた。そして、もう一つを『強欲』以外に持たせる理由は、
「言っちゃなんだが、『強欲』のところにいるのはラインハルトだ。『強欲』の能力が不明な以上は楽観的だけど、一瞬で片付く可能性だってないとはいえない。そうなったとき、ラインハルトを援軍に出せる状況にはしておきたいんだ」
「でも、『強欲』のところに対話鏡がないのならその情報は共有できないんじゃありませんか?確かにナツキさんの意見は理に適ってると思いますが」
「それについちゃ簡単だ。放送用の魔法器を使えよ。都市全体放送で、助けを欲しがってる場所を教えてほしい。対話鏡でアナスタシアさんが情報を集約して、全体に伝える役割を担う。どうだ?」
「賢明やと思うわ。なんや頭回るやないの、ナツキくん」
アナスタシアが感心した顔で笑い、それから対話鏡の一つをプリシラへ投げ渡す。プリシラはそれを扇で受け止め、リリアナの前へと転がした。
「わ、わ、わ!?」
「歌い手、貴様が持て。妾は食器より重いものは持てぬ故にな」
「その扇子、食器とどっこいだろ。横着なこと言うなよ」
「馬鹿を言うでない、この意匠を見よ。豪勢に金がかかっておるのじゃから、それだけ重厚感もある。食器などと一緒にするな」
「食器より重いんじゃねぇか……」
なんにせよ、リリアナが持つことで落着する。いそいそと鏡で前髪を直しているリリアナは無視して、最後の対話鏡はヴィルヘルムの前に差し出された。
「敵の数を考えれば、『暴食』より『色欲』の方に鏡は渡すべきでしょう。二人ならばとは思いますが、危ないと思えばすぐにアナスタシアへ連絡を」
「了承したと、言っておきましょう」
ユリウスの配慮に、ヴィルヘルムが対話鏡を懐へしまい込んだ。
しかし、一抹の不安がある判断だ。これで意外と、ヴィルヘルムは熱くなった場合は今の指示に従わないかもしれない。ガーフィールは言うまでもなく、ちょっとしたことですぐにカッとなる性質だ。
――ただいずれにせよ、これで戦いの準備は整った。
「少し、時間を置こう。それが済んだら出発、制御搭奪還作戦の開始だ」
スバルの言葉に、全員がそれぞれの頷きを返す。
だが、その静かな緊張感を抱いた様子が、スバルにはどうにも景気が悪く思えて。
「辛気臭い顔してると、悪いもんが近寄ってくる気がしねぇか?」
「またぞろナツキさんがおかしなこと言い出す気配がしてきましたが」
「おかしなことじゃねぇよ。大事なことだよ。どんな大軍団を揃えても、士気が低いと烏合の衆になったりもする。戦意が低いとは思わねぇが、俺は建前が悪いこととは思わない。だから、声を出そう」
手を叩いて、スバルが立ち上がる。
そして全員に見えるように拳を突き上げ、言った。
「やろうぜ、みんな!この戦いで、都市から邪魔な奴らを一掃する!魔女教はボコッてハッピーエンドの回収だ!」
「――――」
スバルの啖呵に、それぞれが顔を見合わせた。そして、頷き、
「おお――!!」
と、景気のいい返事が返ってくる。
そうやって力強い言葉が出せるなら、きっと大丈夫だ。
これだけのメンバー、これだけの戦意、なかなか用意できるものじゃない。
――都市奪還戦が、本格的に始まる。
「――この戦い、俺たちの勝利だ!!」
スバルのいかにもな発言を、この円卓会議の締めくくりの一言として。
※※※※※※※※※※※※※
どこか息苦しい感覚を覚えながら、ゆっくりと意識は現実に回帰していく。
微睡みの感覚から現実が染み出してくると、自然と手足の感触が思い出されてくる。次第に全身に支配の感覚が行き渡り、最初に感じたのは体を包まれる柔らかさだ。
温かく、まるで大きな動物の毛皮にくるまれているような安堵感。
これに似た感覚を以前にも味わっていたことがある。もうずいぶんと小さい頃、まだ体に心が追いついていない頃、一人で眠るのが怖かった頃の話だ。
その毛皮の感触と遠ざかってから、ずいぶんと時間が経ってしまった。
「――ぁ」
じわりと、涙がにじむような懐かしい感触。
その場で温もりを堪能していたい未練を切り離して、瞼はゆるゆると開かれた。長い睫毛が震えて、紫紺の瞳がぼんやりとした世界を視認する。
高い天井と、見知らぬ装飾がされた空間。自分の体がベッドの上で、質のいい毛皮を使ったタオルケットに包まれているのがわかった。
そしてそんな自分の傍らに座る人物が、濡らした布巾で顔を拭いてくれていたことにも。
「あなたは……?」
「――――」
瞼を開いたこちらを見下ろすのは、白い顔をした美しい女性だった。
いっそ病的なほど血の気の薄れた顔は、人形めいた美しい無表情が張り付いている。笑えばさぞや周囲を華やがせるだろう美貌は、能面のように硬直したままだ。
黒いドレスをまとう女性はそのまま立ち上がると、長い金髪を揺らしながらさっさと部屋を出ていってしまう。
とっさに呼び止めようとしたが、名前を呼べないことに迷う間に扉は閉じられた。そのまま、一人で取り残されてしまう。
「ここ、どこなの?」
もたもたと体を起こす。
かすかに気だるさがあるものの、痛みは不調は感じられない。気だるさはまだ使い慣れない魔力を使いすぎたとき、体にかかる負担を支えきれない症状だ。
そこまで考えたところで、すぐに自分の身に起きた出来事が思い出された。
「そうだ。私、広場で変な人と戦ってて……」
次々に、脳裏に意識を失う直前のことが飛び込んでくる。
顔に包帯を巻いた怪人――スバルが『憤怒』と呼んでいた人物は、恐るべき戦闘力とゾッとするほどの怒りを向けてきた。一時は優勢に戦いを進めていたが、その燃え盛る炎の勢いに負けて吹き飛ばされて――。
「そのまま気絶しちゃったんだ。でも、生きてる」
劣勢なのと、絶体絶命の状況だったことは間違いない。
おそらくは誰かに助けられたのだ。あの場にいたのがスバルとベアトリスだから、二人に助けられたのかもしれない。それにしても、情けなさで胸が潰れそうだ。
スバルにあれだけ格好つけて啖呵を切ったのに、負けた上に助けられるなんて。
「ううん、凹んでばっかりいられない。ただでさえ出遅れてる私に、足を止めて反省してる時間なんてないんだから。反省は歩きながらするの」
白い頬に掌を当てて、すぐに気を取り直す。沈んでいる時間がもったいない。
このベッドにタオルケット。看病してくれる人までいたということは、この場所は好意的な誰かの家だろう。宿でない場所に担ぎ込まれたということは、自分は結構にひどい状態だったのかもしれない。
「だけど体に痛みはないし、腕のいい人が……あれ?」
そうして立ち上がろうとして、エミリアは今さら自分の体のことに気付く。
「私、裸だ」
素足が床に着いたところで、布きれ一枚も身につけていないことに気付いた。エミリアは首を傾げると、とりあえずタオルケットを体に巻いてベッドを降りる。
部屋の中を見回し、何か他に羽織れるものがあればと物色するが、生憎と何も見つからなかった。
「えーと、どうしよう。この格好で部屋から出たらはしたないと思うんだけど……」
森を出る前はパックに、森を出てからは勉強の合間に、そして色々と学んだ後にはアンネローゼにみっちりと、そのあたりの羞恥心の話は聞かされている。
あまり人前で肌をさらすものではない。その考えにのっとると、今の自分の格好は完全に問題外なのだが。
「だけど、みんなのことが心配だし、非常事態だから仕方ないわよね」
大罪司教との戦いの決着がどうなったのか、一刻も早く確かめなくてはならない。そのことを大義名分に、エミリアはタオルケット一枚で部屋を出る。
廊下に出ると、やはり見覚えのない建物の中だ。ただ、想像していた場所と違い、部屋の外は妙に無骨な印象を受ける冷たい廊下だった。
「お屋敷みたいな場所かと思ったけど、全然違う。ううん、この部屋だけ変?」
振り返り、自分が寝かされていた部屋を見る。
大型のベッドに、ちょっとした衣装棚。しかしよくよく見れば、それはどこかアンバランスな印象を拭えない。まるで何もなかった部屋に、ベッドや他の家具だけを持ち込んで乱雑に置いただけのような印象を。
そしてそれは間違いではないかもしれない。
廊下の雰囲気からしてこの場所は明らかに、人が住むことを目的としていない。ここは人が働く場所だ。耳を澄ませば、かすかな水音と何らかの動作音も聞こえる。
そのことに首を傾げるエミリア、そこへ――。
「ああ、目覚めたみたいだね。よかったよかった。無事で何よりだよ」
声がかけられ、エミリアは振り返った。
すると、廊下の突き当たりから一人の青年が姿を現していた。エミリアを見つめて微笑んでいるのは、白髪の年若い青年だ。
彼は人当たりのいい笑みを浮かべながら、気安い調子でこちらへやってくる。
「でも、起きてすぐに出歩くのは感心しないな。色々と大変なことがあった直後だから体に何かあったら困るじゃないか。そのあたり、きちんと自分のことを大事にしてほしいんだよね。もう君一人の体じゃないんだからさ」
「ええと、あなたは……?」
目を瞬かせ、エミリアは話しかけてくる青年を見返す。
一足飛びに距離を詰めてくる態度はスバルに近いものがある。だがスバルと決定的に違うのは、その態度に相手を慮る遠慮が欠片もないところだ。
それはスバルの臆病な美徳だが、目の前の青年にはそれが一切ない。自分の行いに対して、他者に呵責を覚える点は何もないと言わんばかりに。
――それと同時にエミリアは、目の前の青年に言い知れない感覚を覚えていた。
「そうか、ごめんごめん。僕は君の寝顔を見つめていたぐらいだけど、君の方は僕を見るのは初めてだったね。まだ名乗ってすらいないぐらいだ。いくら僕と君の仲と言っても礼に失した態度はいただけない。これについては急ぎすぎた僕の過ちだ。素直にごめんと謝罪するよ。僕はそれができる人間だから」
「え、ええ……」
つらつらと流暢に喋る青年に、エミリアの応じる言葉は重い。
それは彼の態度に気圧されるものがあったからでもあるが、もっと重大な意味が込められている。それは、エミリアの意識が訴えかけてきているのだ。
――この青年を、どこかで、見知っている気がすると。
「せっかくの場面なのに、色気のない場所なのがもったいないね。でも、そんなこともいずれは振り返って特別な一瞬だったと思い出せるようになるはずさ。そう考えれば悪いことでもない。日々の小さな幸せだけで、十分に人生って道は照らせる。君と一緒ならきっと特にそう思えるよ。悪いところばかりじゃなく、そういういい部分を見て生き方を見定めたいものだよね。そう思わないかい、エミリア」
「私、あなたに名乗った覚えがないけど……それで、あなたは?」
「おっと、ごめんよ。気持ちが盛り上がってしまうと、ついつい周りが見えなくなるのが僕の悪い癖なんだ。こればかりは、愛情深い自分の性が憎いときもあるよ。君があまりに僕を夢中にさせすぎるからかもしれない。と、名前だったね」
実に迂遠な遠回りをして、ようやく本題に辿り着く青年。
彼に感じる不可思議な感覚に肌を焼かれながら、エミリアは青年の挙動から目を離さない。自分が安全圏にいるわけではないと、直観が理解していた。
そしてその直観の原因が、目の前の青年にあることも。
「僕の名前はレグルス・コルニアス。とある集団の幹部みたいな立場にあるけど、そんなことは君にとっては重要じゃない。君にとって大事なことは一つ。僕は君の旦那様で、君は僕の七十九番目の妻ということさ」
「……え?」
名乗った青年――レグルスが神妙に口にした発言、その意味がわからない。
エミリアは戸惑い、形のいい眉をひそめる。しかし、レグルスはそんなエミリアの好意的ではない反応に目もくれず、薄布一枚で体を隠す彼女を眺めると、
「その格好は目に毒だね。すぐに着替えを持たせよう。安心していい。君と同じ立場にある、僕の妻たちだ。花嫁衣装の着せ方も慣れたものだから」
「花嫁衣裳って、何のこと?ううん、それだけじゃない。私があなたのお嫁さんって、何を言って」
「そうだ。大事なことを忘れてた!僕としたことが、危ないところだったよ」
矢継ぎ早の展開にエミリアが口を挟むが、レグルスは聞く耳を持たない。彼は手を打つと、詰め寄ろうとするエミリアの肩をそっと掴んだ。
その指先の異常な力強さに、エミリアは顔をしかめる。そのエミリアに額を突き合わせそうなほどに顔を近付け、レグルスは瞳を覗き込んでくる。
「大事な、大事な質問を忘れていた。婚姻の儀はそれからだ。エミリア、大事なことだから心して答えてほしい。僕たちの未来に、重要なことなんだ」
「――――」
異様なまでの圧力に、エミリアは息を呑んで無言。
そのエミリアの態度を了承と受け取ったのか、レグルスは微笑んだ。
微笑んで、言った。
「エミリア、君は処女かな?それだけは、本当に大事なことだからさ」
微笑んで、そう言った。