『日々の欠片』


――村は異様な雰囲気に包まれていた。

 

膝をつき、頭を垂れるユリウスを筆頭に、魔女教討伐隊の面々の姿が村の中央に見える。全員、負傷の度合いはひどくないようで、魔女教に対する奇襲自体は成功したものと思っていいだろう。

その後、各チームごとに村へ入り、避難誘導を行うのが打ち合わせの流れだったはずなのだが。

 

「これはいったい、どうなってるんだ?」

 

状況が把握できず、スバルは眉を寄せて眼前の光景に答えを求める。

村の中心にユリウスら討伐隊が、その後ろに隠れるように立つのは到着したばかりと見える行商人の一団だ。前回と同様、オットーを欠いた見慣れた面々が首を並べており、しかしその横顔には不安と困惑の色が濃い。

 

そうした陣営と向かい合うように立つのが村人たちであり、こちらもスバルにとっては見知った顔ばかり。子供たちはどうやら屋内に隠されているらしく、騎士たちと顔を突き合わせているのは青年団を始めとした大人集だ。

そして、彼ら村人たちの先頭に立ち、ユリウスと真っ向から見合うのは、

 

「――ラム!」

 

桃色の髪を短く切り揃え、可憐なエプロンドレスが似合う愛らしい少女。ながらもその表情は憮然としており、尊大に腕を組んでいるところが妹と大きく異なる。

心の支えの大きな部分を担う彼女と、同じ顔をしているだけにその違和は改めて思えば大きな齟齬となってスバルには感じられた。

 

「スバル、きたか――」

 

「……バルス、戻ったの」

 

そのスバルの高い呼びかけに、集団の先頭同士が同時に反応する。

ユリウスはその表情に光明を見たとばかりに光を浮かべ、ラムは感情の見えない無表情に不機嫌そうな皺を生んだ。

ユリウスの歓迎ムードには複雑に、そしてラムの非友好的な態度に苦笑じみたものを感じつつ、パトラッシュの背から降りたスバルはそちらへ駆け寄る。

 

「待て待て待て待て、状況が見えないがとにかく落ち着け。ここはひとつ、俺に問題を預けてみようぜ?」

 

「バルスに?ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがないけれど……そもそも、どの面を下げて戻ってきたの?」

 

「お前の舌鋒の鋭さ健在で嬉しいよ。そのぐらいで凹むと思うな」

 

流すように白い目でスバルを見るも、毒舌をさらりとスバルが受け流したのを見てラムはかすかに驚きを瞳に浮かべる。それに小気味よいものを感じつつ、スバルは「ともかく」とユリウスへ向き直り、

 

「なにがあった……と聞きたいのは山々だけど、その前に確認だ。奇襲はうまくいったと思っていいんだな?」

 

「君の打ち上げた合図で滞りなく、ね。もっとも、こちらは数名が穴倉の外へ出ていたものだから、剣を振るわずに済ますことはできなかったが」

 

「こっちに被害が出てねぇんならよしだ。俺たちのとこもうまくやった。大罪司教の身柄はヴィルヘルムさんが」

 

指を差すと、喧騒からわずかに離れた位置に陣取るヴィルヘルムが手を掲げる。その足下には簀巻きにされたペテルギウスが寝かされており、なにかあれば即座に打てるようにヴィルヘルムの片手は常に柄にかかった状態だ。

それを見やり、ユリウスは「さすがだ」と安堵の吐息をこぼし、

 

「おおよそ、作戦の前段階は成功というべきだろう。だが、問題が発生した」

 

「みたい、だな。どういうことだかわからねぇけど……」

 

こそこそと、声をひそめて密談を交わす後頭部に視線が突き刺さる。その発信源に振り向けば、腕を組んでスバルを眼光で焼こうとしているラムとぶち当たる。

息を吐き、スバルはやれやれと肩をすくめながら、

 

「何日かぶりの再会だってのに、そんなつんけんすんなよ。抱擁で出迎えてくれとまでは言わねぇけど、あったかい言葉ぐらい期待してもいいんじゃね?」

 

「温かい血が浮かぶぐらい、切れ味の鋭い罵倒がお望み?バルスの被虐嗜好に付き合ってはいられないの。この集団は、なんのつもり?」

 

「なんのつもりもクソも、お手紙一生懸命書き書きしただろ?商人たちがきてるってことは、王都からの使者も到着してるはずだけど」

 

「スバル、問題はそこなんだ」

 

ラムの追及に首を傾げるスバル。その後ろからユリウスが手を伸ばし、こちらの肩に触れてきて問題を提示する。が、スバルにはイマイチその意味が呑み込めない。

 

「手紙……親書ね。ええ、確かに使者は手紙を持ってきたわ。親書といってね」

 

低く、静かな声でラムが給仕服の内に手を入れる。

その声の抑揚のなさにスバルは聞き覚えがあって、何事かと目を瞬かせた。それはラムが、堪え難い怒りを感じているときの前触れであり、

 

「大仰な使者付きで手渡された親書――白紙の親書だなんて、ずいぶんと面白い趣向だこと。これはどういう意味か、聞いてもいいの、バルス?」

 

突きつけるように差し出されたその手紙が、スバルの眼前に広げられる。

一瞬、焦点が合わずにぼやけた視界の中、驚きに一歩下がってスバルは見た。ラムの手にする手紙――親書の中身が、一切の白紙である事実を。

 

「白紙!?なんで!?そんなはずねぇだろ……だって!」

 

「重大な報せと聞いて開いてみればこれ。おまけに村には得体の知れない連中がずかずかと入り込んできて、挙句の果てには武装した集団まで。これで警戒しない方がどうかしているでしょう」

 

「違うんだって!この人たちはクルシュさんとこの人と、あとアナスタシアさんのとこの傭兵団で……いや、そもそもこの手紙の内容は」

 

「すーばーるー、きゅん♪」

 

奪い取るようにラムの手から手紙をもぎ取り、なにも書かれていないそれを食い入るように見る。それから言い訳じみた言葉を混乱とともに吐き出そうとするが、それはふいに後ろから伸びてきた指先によって阻まれた。

耳を引かれる痛みに振り向けば、猫のような笑顔を至近に置いたのはフェリスだ。彼はたじろぐスバルの鼻先を、耳を摘まむのとは反対の手の指で弾き、

 

「いたっ」

 

「落ち着いて、深呼吸して、話さなきゃにゃこととを整理しよっか。焦らなくても、大体はうまく回ってるんだからドンと構えにゃって。ねェ?」

 

「落ち着けって言われても、これがそうそう落ち着いて……」

 

「舌入れてキスして無理やり落ち着かせてあげようか?」

 

「落ち着いた!俺、今、すごい勢いで血の気が引いたよ!クールダウン!」

 

悪戯な瞳がさらに近づくのを前に、スバルは背筋をぴんと伸ばしてその場を離脱。トリプルアクセルの姿勢で距離を取り、改めて手の中の手紙に視線を落とす。

それは王都出発前、クルシュの邸宅でアナスタシアに頼んだ使者へ持たせるためにレムと一緒にうんうん言いながら書いた手紙と同じものに見えた。

もっとも、中身がすっかり抜け落ち、というよりはすり替えられてしまっているようだが。

 

「で、事前の情報が伝わなかった結果がこの騒ぎか。じゃあ、さっきユリウスがでかい声で名乗ってたのは……」

 

「血気に逸り、危うく衝突しかけるところだったものでね。仕方なしに名前を出し、場を収めようと試みたのさ。君の登場でそれも杞憂となったが」

 

紫の髪を撫ぜ、「しかし」とユリウスは物憂げな吐息をこぼすと、

 

「これで私が近衛騎士のユリウスであることが、皆にばれてしまったな」

 

「言っとくけどお前の顔と名前知ってる人間はみんな知ってたからな?――それはそれとして、まぁ暴動になる寸前だったのを止めてくれたのは感謝する」

 

「なに、騎士の務めだとも」

 

目をそらしてのスバルの感謝に、ユリウスは気を悪くするでもなく笑う。その態度にもやもやしたものを覚えつつ、スバルは咳払いして改めてラムを見た。

すでに何度も話の腰を折られ、ラムの視線の鋭さは最初より二味ほど切れ味が増している。そろそろ、物理的にどこか切られそうな予感をひしひし感じつつ、

 

「親書が白紙だったってのは、なんだ色々とこっちの手違いだ。用件は大きくは二つ。魔女教が屋敷を狙って潜伏してるってことと、それから避難するために行商人の人たちに協力してもらって竜車を用意した。それに乗って、村人たちと一緒に安全なところに逃げてほしいってことだ」

 

「この物騒な装備の殿方たちも、行商人とでも言うつもり?」

 

「ああ……いや、この人たちは」

 

なおも険悪な姿勢を崩さないラムに、スバルはしどろもどろに応答する。が、最後の問いかけへの答えを発したのはスバルではなく、

 

「我々は此度、クルシュ・カルステン公爵閣下とエミリア様の間に結ばれました、同盟に先立ちましての援軍でございます」

 

前に出て、膝をついた栗色の髪の人物が膝をつく。恭しく、申し上げるその振舞いには非の打ちどころがなく、流麗な所作の数々は確かな教育の証だ。

普段のとぼけた、悪ふざけの目立つ態度からは想像のできないほど、洗練された姿勢で口上を述べるのは、猫の耳を頭部に備えた女装の騎士。

フェリスは真っ直ぐに立つラムを見上げ、静かな声で、

 

「私の名前はフェリックス・アーガイル。クルシュ・カルステン公爵の一の騎士にして、同盟に当たっての名代でございます。連絡の不備等、謝罪の言葉には尽きませんが……今はスバル殿のお話を優先していただきたく」

 

「……同盟」

 

丁寧な態度を貫くフェリスに、ラムは小さくそう呟くとスバルを見る。彼女は自身の薄い唇に触れて、難しげに眉間に皺を寄せると、

 

「王都に残った役目は、どうやら果たしてきたようね」

 

「もちょっと俺になにを期待してるのかわかりやすい言葉にしといてくれれば、こんな手こずらなくても済んだと思うんだけどな」

 

持ち帰った成果を誇るでもなく、スバルは素直な気持ちとしてそう注文をつける。ロズワールの秘密指令はわかり難すぎるのだ。三度も死んで、レムから大量にヒントまで貰って、それでようやく糸口が掴めた。初見殺しもいいところである。

 

「というわけで、主に王都に残った役目は果たしてきた。あとは戻ってきた目的を果たして、万々歳で明日を迎えたい。つきましては、避難を急がせたいんだが……」

 

「……おかしな気配が森に潜んでいたのはラムも気付いていたわ。千里眼に直接かからないから、気味が悪くて仕方なかったけれど。そう、魔女教」

 

ラムの千里眼は、自分と波長の合う存在の視覚に同調し、次々と別の視覚へと渡り歩いていくという類のものだ。彼女の言葉が確かならば、魔女教徒にはひとりもその波長の合う相手が見当たらなかったらしい。喜ぶべきか嘆くべきか、メリットとデメリットを思うと微妙なところだが。

 

「大半、八割方は撃破してきた。敵の指揮官も、こっちで捕まえてある」

 

そうして不機嫌そうなラムに、スバルは現状での成果を報告。と、それを聞いたラムはこの場において初めて驚いたように目を瞬かせ、

 

「それって、ほとんど壊滅状態って言うんじゃないかしら」

 

「こいつらに関しちゃ一匹見たら三十匹いると思え、ってのが正しいと思うぜ。全部狩り出すまで安心できねぇよ。なんで、万全を期すためにも避難は必須だ」

 

「屋敷で籠城、は下策?」

 

「火ぃ放つぐらい当たり前にやるぜ、あいつら。俺たちの思い出がたくさん詰まった屋敷が燃やされたくなきゃ、わかりやすく逃げた方がいいだろな」

 

我ながらゾッとしないたとえ話を持ち出すと、露骨にラムが嫌そうな顔をする。どうやら『燃やす』のあたりに反応したようだが、火事に嫌な思い出でもあるのかもしれない。ふと、レムが口にしていたなにかが脳裏を掠めたが、思い出すまでには至らなかった。

ともあれ、

 

「村人と屋敷の三人、乗せて大丈夫なくらいの人員は確保した。ロズワールは、ここにはいないんだろ?」

 

「ええ。ロズワール様は今は聖域……ガーフィールのところに出向いているから。ラムはここでエミリア様の判断を待つよう命じられているわ」

 

「エミリアたんか……」

 

ラムの答えに視線をめぐらせ、スバルは銀色の少女の姿を探し求める。が、どうやらまだ村の方には降りてきていないらしく、その姿はあたりには見当たらない。

そのスバルの仕草にラムは小さく吐息を漏らし、

 

「エミリア様なら屋敷でお休みになっているわ。――少し、堪えることが続きすぎてしまったから」

 

「堪える?」

 

「バルスにも、すぐにわかるわ」

 

要領を得ないラムの言葉に首をひねるが、彼女はそれ以上に言葉を続けようとしない。その態度に埒が明かないとスバルは判断し、とにかくこの場の面子だけでもまとめて竜車に乗せてしまおうと、手を叩いて注目を集める。

 

「はい、注目!おはよう、みんな久しぶり!俺の名前はナツキ・スバル!ほんの……一週間か。そこらで忘れられたと思いたくないが、帰ってきた!」

 

声を大にして呼びかけると、それまで遠巻きにこちらを見ていた村人たちが続々と顔を覗かせ始める。訝しげな表情がスバルを捉えると、見知った人物の登場を察していくらか緊張の解けた顔つきを作り始める。

そうして視線の厳しさが緩和する気配の中、スバルはみんなに見えるように両手を掲げてその場でくるくると回り、

 

「で、さっそくで悪いんだが、ちょっと頼みを聞いてもらいたい。簡単な話だ。ちょっとしたピクニックだな。竜車をレンタルして、みんなの席をリザーブした。椅子は固いけど揺れはそんなにない特別仕様加護付きだ。そこに仲良しみんなでグループを作って乗り込んでくれ。半日か一日か、それで遊びにいってくれると大助かりだ」

 

『はーい、好きな人とグループ作ってー』という類の話を自分でして、自分の古傷を抉るスバル。その流れが始まった場合、わりと即行で余りグループに放り込まれ、なおかつそこでも浮くのがスバルという人物の社交性だった。

そんな過去の鬱話を思い出す傍ら、今のスバルの呼びかけに村人たちは顔を見合わせると、

 

「どうして、そんなことして逃げなきゃいけないんだ?」

 

おずおずと、そう質問を投げかけてきたのは角刈りの人物だ。青年団の代表格である男性は、手にした剣の柄にしきりに触れながらスバルを見て、

 

「明るく暗くならないように言ってるが、つまり逃げるってことだろう?村を棄てて……どうして、そんなことをしなきゃいけないんだ」

 

「これは俺の素だからそんな裏とか探られても困るんだけど、別に村を棄てるとか大げさに考える必要ないぜ?ホントに、ほんの半日ばかり時間をくれれば……」

 

「――魔女教、なんだろ?」

 

ぽつり、と角刈りの青年がそうこぼすと、ざわと動揺が村中に走った。

それは村人たちだけでなく、話し合いの結果がどう傾くのかを見守っていた行商人たちの一団も同じだ。彼らは揃って表情に緊迫を刻むと、唇を震わせ、

 

「やっぱり、魔女教なんだ」

「恐ろしや……なんで、そんな物騒な連中が」

「決まってる。決まってるじゃないか。クソ、領主様もなんてことを……」

「どうして、半魔を……ハーフエルフなんかを……」

 

「おい、待てよ」

 

密やかに、しかし確かに大気を震わせる村人たちの言葉に、スバルが掌を向ける。

喉の奥が渇いて張りつくような感覚を味わいながら、スバルは今の声が聞こえた方へと足を進める。と、細身の若者のひとりに顔を向けて、

 

「今、なんつった」

 

「ま、間違ったことは言ってないだろ?実際、そいつらがくるのだって……」

 

「俺は今!なんて言ったかって、そう聞いたんだよ!」

 

掴みかかりそうな剣幕で、鋭い目つきのスバルが怒鳴りつける。

途端、怒声をぶつけられた彼は哀れなほど目を泳がせて、周りに助けを求めるように首をめぐらせるが、誰もが下を向いてしまって彼に応じない。

薄情な周囲に見放されて、彼は諦めたようにスバルを見つめ返すと、

 

「は、ハーフエルフに関わると、魔女教の奴らが騒ぎ出す。そんなのは常識だ。子供だって知ってる話だよ。だのに領主様はあろうことか、銀色の髪のハーフエルフを王様に推薦したって言うじゃないか……」

 

「それが、さっきの話になんの関係があるってんだよ」

 

「だから!わかるだろ!?領主様が大々的にハーフエルフを支援するなんて触れ回るってことは、魔女教を刺激することになるんだって!実際、お前もそれがあるからこうして……それなら!」

 

「――最初からあんな子いなければとか、ふざけたこと言うなよ?」

 

勢いに任せて言ってはならないことを言いかける青年。だが、その先を読んだスバルの言葉の方が早い。

息を呑む青年の胸を掌で押しのけ、スバルはぐるりと周りを見る。見れば、誰もが彼と同様の怯えをその瞳に浮かべていて、スバルはわざとらしく大きく息を吐き、

 

「村を危険な目に遭わせようとしてるのは、どこの奴らだよ」

 

「――――」

 

「魔女だなんだと、そうやって恐がられるぐらいの悪行かましたのはどこのどいつなんだよ」

 

「――――」

 

「お前ら全員、そうやって見る相手が違うんじゃねぇの?そりゃ、得体の知れない連中よか、そこにいるってわかってる相手に不満ぶつける方が簡単なのはわかるし、俺もその口だから偉そうなこと言えるわけじゃねぇけどさ」

 

誰しも、不満は上から下へと流れていく。

誰だって、不服や陰口をぶつける相手は弱ければ弱い方がいいに決まっている。そんなこと、弱者代表のスバルが一番よくわかっていた。

それでも、スバルは独りよがりだとわかっていても、こう思っていたいのだ。

 

「俺は自分が最低だって自覚があるんだよ。だから、俺以外の人はみんな俺よりどっかいいとこがあるって思ってたい。ガキのわがままだってわかってるけど、頼むぜ。――こんな苦労するんじゃなかったとか、思わせないでくれよ」

 

屋敷にいるエミリアを、ラムを、ベアトリスを助けたいとスバルは強く思っている。それと同じぐらい、日々を過ごしたこの村の人たちも助けたいとスバルは思っていた。共に過ごした時間は短くても、温かに接してくれた村の人たちをスバルが好きになりかけていたからだ。だから、そんな自分の印象を裏切らないでほしい。

そんな身勝手な願いに、スバルは頭を下げる。

 

「ロズワールがどうとか、そういうのは今はどうでもいい。屋敷にいるエミ……ハーフエルフの子になんだとか、そういうのも後回しにしてくれ。今、この村にいるのは危ないんだ。だから避難してほしい。そのための準備はしてきたんだ」

 

先の青年の態度からも、ハーフエルフに対する根強い差別意識が感じ取れた。

スバルも上辺だけは知っていたそれを、見知った人々が親しい相手に向けていると知った今では本当に上辺だけの知識だったのだと思い知らされる。

エミリアはずっと、こんな蔑視を受け続けてきたのだろうか。

 

頭をスバルが下げていると、誰かがふいに隣に並んだ。

近衛騎士の華やかな制服も鮮やかなユリウスだ。彼はスバルの隣に堂々と並び、すっと高い長身の腰をしっかりと折って、

 

「どうか、聞き入れていただきたい。皆さんの身の安全は、龍と騎士の誇りに誓ってお約束します。今はどうか、彼の言葉に耳を傾けてください」

 

「――――」

 

余計なお世話だとか、相変わらず気障ったらしい台詞回しだとか、色々と脳裏を過る言葉はあるのだが、純粋にスバルの胸中を埋めたのはユリウスへの感謝だった。

美丈夫の横顔に、そうした感想を抱いてしまったのがこそばゆくて、スバルは頭を下げたまま、隣に立つユリウスから視線をそらし、

 

「礼なんざ、言わねぇからな」

 

「ふ。――その言葉が聞きたかった」

 

やっぱり、心底この男は嫌な奴だと思った。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「バルスとこうして屋敷の中を歩くのも、なんだかずいぶんと久しぶりな気がするわ。まだほんの一週間ほどしか過ぎていないはずなのに」

 

「俺もまったくの同意見だ。感慨の中身にはたぶんかなりの差があるけどな」

 

「そうかしら?」

 

「そうですとも」

 

懐かしの我が家――ロズワール邸の廊下を並んで歩きながら、スバルはラムとそんな雑談を交わしていた。

思い返せば、繰り返しの日々でロズワール邸にまで辿り着き、中を散策するところまでいけたのは二回。一度目はすでに生存者の気配が全く残っていない邸内で、

 

「――ラムが」

 

「呼んだ?」

 

「いや、思い出しラムしただけ。現在進行形ラムはそのまんまでいいよ」

 

「バルスのそのわけのわからない言葉遣いも、久々だとより腹立たしいものね」

 

つんと、澄まし顔でラムはスバルの軽口を聞き流す。

そうして少し前を歩く給仕姿の彼女――一度目の世界で、スバルは彼女の亡骸をベッドの上で発見した。死に方が汚くなかったことだけが、あのときのスバルにとっては救いになっていた気がする。

 

二度目の世界ではパックの急成長で屋敷は崩壊し、三度目の世界のときは――思い返すだけでも、背筋が凍りつきそうになる光景が回想される。

 

「バルス、通り過ぎるわよ」

 

「と、悪い悪い……って、ここは」

 

考え事のせいで立ち止まったラムに気付かず、行き過ぎた分を戻ってスバルは扉を見る。ラムに案内された先、そこは客間の一室であり、

 

「エミリアたんの部屋じゃねぇの?」

 

「今、屋敷の中はラムとエミリア様とベアトリス様の三人だけだから、中央棟にお集まりいただいているのよ。特に昨夜はお疲れだったから」

 

ラムに聞かされた話を振り返り、スバルはエミリアの心労を思ってわずかに俯く。

屋敷に戻って以降、エミリアがなにをしていたかをラムから大まかに聞かされたあとだ。ロズワールと王都から戻り、彼の人物が有力者の下を回ると出ていってしまってから、残された彼女は寝る間も惜しんで勉学に励んでいたらしい。

 

「とりつかれたように没頭していらしたわ。まるで王都で嫌なことでもあって、それを忘れようとしているみたいに」

 

「うぐ……ッ」

 

「まるで王都で男に嫌な目にでも遭わされて、その男のことを忘れようとでもしているみたいに」

 

「合間に変な一語を入れるな!否定は……し切れねぇけど……」

 

尻すぼみになるスバルにラムはため息。それから彼女は呆れた様子で首を振り、部屋の扉を手で示しながら、

 

「千里眼でラムが森の異変に気付いて、それを報告してからはもっとお疲れになったでしょうね。さっきの村の住人の態度を見れば、わかるでしょう?」

 

「ぼんやりと想像はつくけど、あんまり言葉にしたくねぇな。――拒絶か」

 

「拒絶?バルスはずいぶんと優しい想像をするわね」

 

スバルの言葉を鼻で笑うように嘲笑し、ラムはそれからすぐに表情を消す。押し黙るスバルに一拍置いて、彼女は疲れたような口調で、

 

「――否定、ね。拒絶されるのなら、まだ手の差し伸べようもある。伸ばした手を払われたということは、触れられたということだもの。でも、否定はどうかしら」

 

「…………」

 

「触れることさえ厭われたら、どうやって距離を縮められるのかしらね」

 

試すようなラムの物言いに、スバルは息を呑んで答えを返せない。

ラムも、そんなスバルが答えを返せると期待していたわけではないらしい。失望するでもなく吐息で時間切れを示し、「意地悪を言ったわ」と言葉を継いで、

 

「森に不穏な気配があることに気付いて、エミリア様は村の人間を屋敷へ避難させようと村に降りた。そして、否定された。否定されてすぐに引きさがるほど、物分かりの良い方でないのはバルスも知っているでしょうけど」

 

「でも、取りつく島もないほど邪険に扱われて、傷付かない女の子じゃないってことも知ってるんだぜ」

 

苛立ちを堪え切れずに舌に乗せ、スバルは廊下の窓を睨むと、その向こうにある村の遠景に目を細める。

別に彼らが特別、心が狭いであるとか、薄情であるという話ではないのだ。

これがありふれた反応であり、エミリアが受け続けてきた当然の扱い。それをせめて変えてほしいと、そう願うのはそれほど傲慢なのだろうか。

 

「だったら、その世の中の理不尽にむかっ腹が立ってしょうがない俺のこの感情も、『傲慢』だっていうのかよ」

 

言い捨てて、スバルは一度目をつむると、振り切るように扉へ向いた。

上げた顔からは負感情を拭い去り、少なくともこの瞬間だけは忘れてしまおうと努力している。そのスバルの思惑を尊重してか、ラムもそれに対する言及はせずに、

 

「エミリア様、お目覚めですか?」

 

小さく、固いノックの音が二度、朝の空気が冷たい廊下に響き渡る。

ラムの呼びかけとノックから数秒、間を置いて、

 

「――ラム?ええ、起きてるわ」

 

と、聞き惚れるほど美しい銀鈴の響きがスバルの耳朶を軽やかに打った。

穏やかで、気高くて、気丈に振舞う声音の清らかさに、スバルはそれまで胸の内にあった不安の感情を一時的に忘れる。

 

彼女に会ってなにを話そうだとか、どんな言葉を並べるべきかとか、そんな色んな苦悩がない交ぜになっていたのに、その瞬間だけは全部吹き飛んでいた。

 

この声を聞くために、彼女と会うために、戻ってきたのだからと。

 

「失礼します、エミリア様。――バルスが戻りました」

 

戸を押し開き、恭しくお辞儀しながらラムが仮初の主に従者の帰還を報告する。

先導し、中に身を入れる小さな体に続くように、スバルは息をするのも忘れながらたどたどしい足取りで中に半身を入れて、

 

「え、スバル――?」

 

「ひさ――」

 

用意していたわけではないけれど、せめて再会は笑顔で迎えたいと思っていたから、スバルはできるだけ穏やかな笑顔を浮かべて軽く手を掲げ、こちらに振り返ったエミリアに焦点を合わせて――。

 

――着替え途中の白い肌が眩しい、エミリアの背中がその目に焼きついた。

 

「――あら、失礼を」

 

さらりと、硬直する二人の前でラムがしれっと舌を出して頭にゲンコツ。

が、そのテヘペロに突っ込みを入れる余裕が、ラムを除いた両者には存在しない。

 

互いに声もなく見つめ合い、スバルの視線はエミリアの顔、露出した背中、ほっそりと長く伸びるしなやかな足を伝って裸足の指先まで舐めるように見て、

用意していた笑顔の鼻の下が伸びた瞬間、

 

「嫁入り前の娘に、なんてことを――」

 

ふいに目の前に舞い降りた灰色の小猫が、硬直するスバルのにやけ面に魔法力を放出――為す術もなく、スバルの体は廊下へと吹っ飛ぶ。慌ててそれを追ったラムが廊下に飛び込み、スバルが窓に激突しかける寸前で、

 

「窓が割れたら一大事」

 

「ふぇ!?」

 

間一髪、衝突の寸前に窓が開き、スバルの体が勢いのままに外へ。幸いにも一階だったために転落死は免れたものの、朝露の残る芝の上を顔面で滑り、転がり、花壇の中に突っ込んで、ようやく止まる。

 

口の中に土の味、目の前には肥料たっぷりの泥の壁。一張羅は血塗れだった上に砂埃が上書きされて、目つきが悪いのは生まれつき。

 

「パック、やりすぎて……ああ、もう、スバル、大丈夫!?」

 

遠く、はるかに離れてしまった屋敷の窓の向こうから、愛しい少女の慌てた声が聞こえてきて、スバルはなぜか小さく噴き出す。

まだなにも片付いていないし、なにも終わっていないのに、もう一度過ごしたいと思っていた日々の欠片が、きらきらと輝いていた気がした。

 

出迎えにきたラムが不気味なものでも見るようにして手を差し伸べるまで、スバルはずっと小さく小さく、くつくつと笑い続けていた。