『夢の終わり』


 

酸素が喉を通ることに気付いた直後、スバルは気管に残っていた血の塊を吐き出すように盛大に咳き込む。

仰向けに地面に倒れ込んだまま、荒い息を繰り返し喘ぎながら酸素を、生きる糧を求めた。

 

その自分の姿を、浅ましいと思うような心の猶予はない。

ただ、『死』を望んで舌を噛み切っておいて、こうして目の前にちらついた救われる道に躊躇なく縋りつく自分の弱さが、ひどく惨めに思えた。

でも、

 

「俺に……っ」

 

「――うん?」

 

「俺に、生きる価値があるか……?死なない俺に……死んで、繰り返す以外の価値が……俺に、あるのか……?」

 

『死に戻り』をして、皆を絶望の淵から救い出す。

命を支払うことで得られる結果、それだけがナツキ・スバルの価値だと信じた。

けれど、そうではないのだと思ってもいいのか。

 

「俺って人間に、『死に戻り』以外の価値があるって……思っていいのか?俺は、俺の好きな人たちに……好きだと、思ってもらえてると、そう思って……いい、のか?」

 

「……そんなこと、あたしは知らないわよ」

 

スバルの弱々しい問いかけに、ミネルヴァは顔を背けてそっけなく答える。

右腕と両足を失った彼女は器用に左手だけでスバルから距離をとると、まずは己の右肩に顔を向け――噛みつく。直後、光の雫がミネルヴァの欠損した右腕を再生した。

袖をなくした右腕の拳を開閉し、それからミネルヴァは両手で自分の両足――腿から下をなくした足の付け根を殴りつけ、腕と同じように両足も再生する。

 

もともと短かったスカートがさらに際どくなり、右腕は肩までを露出した非常に危うい格好ではあるが、『憤怒の魔女』ミネルヴァは万全の状態へと戻る。

彼女は取り戻した両足でしっかりと立つと、腕を組んで豊かな胸を強調するポーズをとりつつ、スバルを見下ろした。そして、

 

「あんたの価値なんて、あたしは知らない。でも、あの子はそんなあんたに生きててほしいって願ってるし……二つの『試練』で、あんたも見たでしょう?」

 

「……でも、二つ目の『試練』は、俺の間違いを、やらかした罪を……」

 

「バッカじゃないの?あれはあんたに間違ってしまった世界の責任を取らせようとしたものじゃないわ。あれは、あんたが間違った結果、誰がどれだけ悲しんでいたのかをあんたに見せつけたのよ。――あんたが、それこそ欲しがってた答えじゃないの」

 

「――――ひ」

 

思い出す。

泣き声を。無念を噛み殺した声を。送り出す力強い声を。いつもの優しげな見送りを。

信じてくれている愛の囁きを。スバルの戦う原動力となった、あの始まりの言葉を。

 

何も、持っていないはずの人生だった。

何も持たないまま、持っていたはずのものも取りこぼしたまま、スバルはこの世界に招かれてきたのだと思っていた。

そんな自分の価値を証明するには、抗い続けるしかなくて。抗い続けるうちに得た大切なものたちを守るには、さらに孤独と歩み続けるしかなくて。

 

与えられるばかりだと、思い込んでいたけれど、そうではなかったと思っていいのか。

俺のために、泣いてくれるのか。

俺のために、力足らずを嘆いてくれるのか。

俺と一緒に、未来を見たいと望んでくれているのか。

大切な人たちの隣に、笑って立つ資格を俺に持たせてくれるのか。

 

あるのかどうなのか、わからない資格。

でもきっとそれは、ついさっきまで、スバルが頑なに一人で歩くと決めていた道を歩き切った果てには、もう持つことが許されないだろうもので。

心を鋼にして、何ものにも揺るがぬ精神力で戦い抜いた果てには、きっと笑顔を浮かべるような柔らかさすら残らないで。

ならば、信じていいのか。

 

大切な人たちの未来を得る代わりに、自分の心を失ってしまう選択でも。

自分の心を守ろうと必死になるあまり、道を進むことができなくなる選択でも。

 

どちらでもない、欲張りな選択肢があってもいいのだと。

大切な人たちとの未来を、ナツキ・スバルのまま見ることのできる選択があるのだと、それを望んでもいいのだと、信じていいのか。

 

「――許すよ」

 

「――――」

 

口に出したわけではない、ただ涙をこぼすだけのスバルの想い。

それがまるで、音として伝わってしまったかのように、タイミングが噛み合っていた。

 

地面に体を横たえたまま、顔を動かすスバルはミネルヴァの向こう――草原に膝をついたまま、涙に濡れる顔を拭いもしないで、微笑んでいる顔が見えた。

 

その顔は、スバルには今も見えないままだ。

闇の帳に遮られて、スバルに向けられた表情は今もわからない。けれど、微笑んでいるのが伝わってくる。

エキドナは言っていた。スバルに彼女の顔が見えないのは、スバルが彼女を受け入れていないからだと。微笑んでいると、それだけが伝わるのも、本当は見えているものをスバルの無意識が見えていないものと決めつけているからだ。

 

「私はあなたに救われました。だから、私はあなたが救われることを許します。あなたに救われてほしいと、そう願っています」

 

サテラの言葉が、声が、ひび割れた心に沁み込んでくるのがわかってスバルは腕で顔を覆う。もう涙でぐしゃぐしゃで、今さらこれ以上、みっともなくなりようのない顔面であることは間違いないけれど、この顔を誰にも見せたくなかった。

 

あれだけ、盛大に悪態をついた後で、どうして今さらサテラの言葉の安堵を得てしまうことができようか。ましてや、それに和らぐ表情などどうして見せられる。

だが、得体の知れないサテラの『愛』の言葉とやらが、スバルに『試練』の本当の意味を理解させたのも事実なのだ。

 

「……ミネルヴァが、テュフォンとセクメトの邪魔を突破したのも驚きだけど、個人的には君たち二人の行いの方がボクとしては意外だね」

 

視界を覆っているスバルを余所に、そう小さく呟いたのはエキドナだ。

両手両足を復活させたミネルヴァを見やり、エキドナがそれから視線を動かすのは別の方角――そこに、黒塗りの棺桶から伸びる鉤爪のような手足に抑え込まれるテュフォンと、その棺桶の主であるダフネとセクメトが対峙している光景がある。

 

エキドナの言葉に、低く喉を鳴らして笑ったのはダフネだ。彼女は拘束衣の下部を破り、裸足で草原を踏むまま舌を出し、

 

「テュテュと相性が一番いいのってぇ、ダフネで間違いないですしねぇ。百足棺は考える頭のない、ダフネの手足ですからぁ、テュテュの権能と相性最悪ですしぃ」

 

「うー、フネじゃますんなー!んー!うー!」

 

「で、はぁ。あたしの方は本体のあんたが牽制するってわけかい、ふぅ。エキドナじゃないが、はぁ。なんであんたがそんな真似するさね、ふぅ。ミネルヴァと違って、あんたが肩入れする理由がわからんさね、はぁ」

 

がりがりと、量の多すぎる髪の毛を乱暴に掻き毟るセクメト。テュフォンを人質に取られているような状態では、彼女も迂闊に動くことはできないらしい。

セクメトの疑問を受け、ダフネは束ねた短い髪の毛を揺すって「いいえぇ」と笑い、

 

「スバルんってばぁ、ダフネに大口を叩いたんですよぉ。なんでも白鯨は殺したから、次は大兎だみたいなぁ?ならぁ、せめて挑むぐらいまではいってもらいたいなぁって思いましてぇ」

 

「面白い意見だね。彼がその気になれば、それは確かに成就される。君も、それはわかっているはずだが……大兎を、滅ぼされたいのかい?」

 

「別にぃ?ダフネから切り離した時点でぇ、あの子たちの空腹はダフネの空腹と無関係ですしぃ。どこで滅びても知らないですけどぉ……どうせなら、ダフネの尽きない飢餓感そのものである大兎がぁ、どう終わるか興味あるかもしれませんねぇ」

 

だって、とダフネは音を継ぎ、言った。

 

「終わりが満たされたものならぁ、それはダフネにとっても未知の幸いですしねぇ」

 

尽きぬ空腹感に常に苛まれるダフネにとって、満ちることは永遠に届かない夢だ。

そして、大兎はそんな彼女の終わりのない飢餓感を反映した、もう一人の自分ともいえる存在である。――もっとも、ダフネ自身にはそんな親近感は全くないが。

その大兎が、かつての自分とは違う終わり方を迎えるのであれば、それは満たされたものであるのかそうでないのか。自分が満たされる可能性はあったのか、それには珍しく、食欲以外の興味を持てそうだと彼女は笑う。

 

そのダフネの答えにエキドナは満足げに頷いて、それからまた首の向きを変えた。向かうのはスバルでも、サテラでもミネルヴァでもない。激闘を交わしたダフネとセクメト、テュフォンの方でもなく、エキドナ同様に集団から孤立した位置に立つ人物。

『色欲の魔女』カーミラを見て、エキドナは自身の白髪をそっと撫でつけ、

 

「カーミラ、君はどうだい?ダフネのような理由が、あるのかな?」

 

「な、にが……言いたい、の?え、エキドナちゃん、は……?」

 

「簡単なことだよ。――死の淵にある彼の意識が、消失する寸前に呼びかけたろう。『無貌の女神』の権能を持つ君がそれをすれば、結果はわかっていたはずだ」

 

「――――」

 

「君の呼びかけは、彼にとってあらゆる意味を持っていたはずだ。そして、君はそれを理解もしていたはずだ。だから問いたい。君は彼を、好ましく思っていなかったはずだ。その君が、どうしてだい?」

 

エキドナの問いかけに、カーミラが口元に手を当てて視線をさまよわせる。ダフネやミネルヴァへ向けられるそれは、自分以外の人間からフォローが入ることを期待した動きだ。

しかし、誰からも愛されるカーミラに、誘惑される『魔女』はこの場にいない。

カーミラは仕方なさそうに指を噛み、瞳を潤ませてエキドナを見ると、

 

「べ、つに……理由、ない、よ?エキ、ドナちゃんはあの子に……ん、誘いを断られたから、十分、満足したし……みんなが、何に怒ってケンカして、も……わ、私に飛び火しな、しないなら、それで……ただ」

 

「ただ?」

 

「あ、『愛』は、大事……な、んだよ?それは、蔑ろにしたら、ダメ……ん、ダメなの。あの子、が……見たくないって、思ってても、『愛』はそこに、あるから……ある、ものは……否定、させない。それ、に、私は……借りっ放しは絶対に嫌」

 

最後の部分だけ、やけにはっきりと主張するカーミラにエキドナは肩をすくめる。

それから苦笑する『強欲の魔女』は、それぞれの魔女たちの顔を見やり、

 

「セクメトとテュフォンは彼の意思を尊重しようとし、命を尊重しようとするミネルヴァは彼を癒した。ダフネは彼の戦う意思とやらを見届けるために延命に協力し、カーミラは彼が目を背け続けていた愛情を教えてやるために権能を用いた。――さて、全員が全員、各々の主張はあれど、ナツキ・スバルを助けようとするわけだ」

 

エキドナが魔女たちの行動をそう評すると、魔女たちはその表情を一変させる。

傲慢は首を傾げ、怠惰は気だるげに吐息し、憤怒は鼻を鳴らして腕を組み、暴食は棺から伸びる足を一本喰らって笑い、色欲は嫌そうに顔を歪める。

そして、それらを見届けた強欲は顎に手を当てて、

 

「やはり、面白い。――そうは、思わないかい?」

 

口元を緩ませて、幸せそうな笑みを浮かべるエキドナ。

彼女の言葉の矛先は正面――ふらふらと、体を揺らして立ち上がるスバルへ向けられていた。

 

今も、渇き切っていない涙の跡を袖で拭いながら、どうにか二本の足で立ったスバルはエキドナの質問には答えない。

ただ、覇気のない瞳でエキドナを、魔女たちの顔を見回す。そして、

 

「お前らは……本当に、なんなんだよ」

 

「――――」

 

「好奇心。同情。憐憫。使命感。期待。嫌悪。……俺に肩入れする理由が、ほとんど納得できねぇ。魔女だって呼ばれ方も、わかるってもんだ」

 

「悪態をつける程度には、気力も戻ったというところかな?」

 

「……わからねぇ」

 

片目をつむるエキドナに、スバルは自分の胸に手を当ててぼそりと呟く。

漏れた言葉は端的に、今のスバルの心情の全てを表していた。

 

「やらなきゃいけないことは、決めてたはずだ。そのやらなきゃいけないことは、今も変わってない。それは間違いない。間違いないんだ」

 

でも、と言葉を継ぎ、スバルは誰に聞かせるでもなく、自分自身に聞かせるように、

 

「そのための手段も、これしかないって決めてた。それを選ぶことに……選ぶ覚悟はしてたんだ。なのにそれを、この場所にきて『試練』に砕かれた」

 

第二の『試練』、ありうべからざる今――それは、スバルの行いの結果をスバルに突きつけて、覚悟という言葉で誤魔化していた非常な現実で心を引き裂いていった。

それを見せつけられてなお、スバルは己に割り切りを求めて、覚悟を貫き通すことをよしとしようとしたのだ。事実、そうするはずだった。

 

「でも、手を借りれそうだったお前の本心を知って、そこに立て続けにサテラまで現れて……俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。お前ら揃って、勝手なことを並べ立てんなよ。俺は俺のやるべきことを、俺に課してたんだ。それなのに……」

 

今さら、消耗品と割り切るはずの命に、しがみつかせてどうする。

今さら、使い切ること前提の命を、惜しむことを覚えさせてどうする。

今さら、自分が愛されていたことなど思い知らされて、どうしたらいいんだ。

 

「今はもう……どうすればいいのか、わからない」

 

死ななくてはみんなを守れないと、スバルの理性は叫んでいる。

スバルが自分を削ることを悲しんでくれる人がいると、スバルの記憶が教えてくれる。

死なないと誰かが悲しむのに、死ぬと誰かが悲しんでしまう。

 

「――今一度、ボクは君に問おう、ナツキ・スバル」

 

まとまりきらない頭を揺らすスバルに、エキドナが声の調子を落として言った。

顔を上げると、指を一つ立てたエキドナがスバルの正面まできていた。

 

彼女はスバルの視線が自分を映したのを見ると、ゆっくりと頷き、

 

「ボクが君に協力すれば、君は必ず救いたい人たちを救う未来に辿り着ける。思い悩む必要もなくなるだろう。極論を言えば、君が直面する問題の解決にはボクが当たる。君は体当たりでそれを実践し、壁を乗り越えることだけを意識すればいい。悩み続けることが辛いのであれば、ボクに全てを委ねるのも一つの選択だ。それをボクは責めないし、ある意味では歓迎もしよう。だから、今一度、ボクは君に問う」

 

「――――」

 

「どうすればいいかわからない君の手を、ボクに引かせてくれないだろうか?君を必ず、未来へ連れていくと約束しよう」

 

そう優しく言って、エキドナがスバルに手を差し伸べる。

その白い指先を見下ろして、答えを待っているエキドナの顔を見て、スバルは息を止めた。

 

先ほど、拒絶の対話をしたときと同じ語りかけだ。

あのときスバルは、エキドナの本性を知り、その怖気立つほどの好奇心のみに突き動かされる神経を恐れたものだ。

 

だが、今はどうだろうか。少しの時を置き、冷静に彼女の言を思えば、どうだろう。

命を消耗品として扱い、ありとあらゆる試行錯誤を行い、立ち塞がる障害の数々を力技ともいうべき手法で強引に突破していく。エキドナの助言を受けて、スバルが心をすり減らしながらも戦い続ける姿――それは、彼女の協力を拒否したとしても、一人で戦い続けようと覚悟したスバルの姿と何が違うのだろう。

 

意地を張って、エキドナの態度への嫌悪感を堪え切れずにスバルは彼女を拒絶した。

だが、本当の意味で全てをなげうって、自分を犠牲にする覚悟があったのなら、エキドナの本性にすら目をつぶり、それこそ彼女の言の通りに彼女を利用すべきだった。

それすらも自分の潔癖で否定して、それでも通る道が同じだというのなら――スバルの固辞した態度など、何の意味があろう。

 

その手を取るべきだ。

傷付くことを恐れず、辛い思いも苦しい思いも呑み込んで、戦い続ける覚悟があったなら。その手を取るべきだった。

だから、

 

「エキドナ」

 

「――――」

 

「俺は、傷付くのが恐いよ」

 

「――――」

 

「辛いのも苦しいのも、悲しいのも嫌だ。痛い思いもしたくないし、俺以外の誰かがひどい目に遭うところだって見たくない。――死にたく、ない」

 

「――――」

 

「だから、犠牲前提のお前の手は――もう、俺には取れない」

 

スバルに何ができるのか、それはまだスバルにすらわかり切っていない。

けれど、エキドナが提示するのと同じ道を選ぶことは、今はもうできそうにない。

 

死にたくない自分を自覚してしまった。

死ぬことでしか貢献できないと思い込んでいた自分を、死ななくても認めてくれる人たちがいたことを知ってしまった。

ナツキ・スバルは、『死ぬことだけが価値』の男ではなかった。

 

スバルの『死』を惜しんでくれた人たちは、スバルの『死』に価値を見出して、スバルを惜しんでくれたのではなかったのだから。

ならば、彼らはスバルの、『何』を惜しんでくれていたのか。

 

「それが何なのか、まだわからないままだ。――でも、それを探そうと思う。それがわかれば俺は、『死』以外の形で、みんなに報いれる気がするんだ」

 

「……だが、それは茨の道だよ、ナツキ・スバル。『死』を道を切り開く道具と割り切って、自らを削りながらでも進む道、それは、荒っぽくはあるが間違いなく未来へ届く最短の道のりなんだ。差し出すものは、君の心だけでよかった。それを否定して、自分の心も、大切な人間の未来も、どちらも両取りしようというのはあまりにも困難で、何より――」

 

エキドナは言葉を切り、息を継ぐ。

そして、彼女はこれまででもっとも、艶然とした微笑みを浮かべて、

 

「――強欲だ」

 

欲望を肯定する、『強欲の魔女』はスバルの決断を、快い表情で受け入れる。

提案を拒絶されて、それでもなお嬉しげに笑う魔女の考えが、やはりスバルには理解できない。ただ、

 

「俺がお前に何度も、救われかけたことだけは本当だ。……お前が腹の底で、俺のことを実験動物か何かとしか思っちゃいなかったとしても、それだけは本当だ」

 

エキドナの存在を心の支えに、苦難を乗り切れたことも確かにあったのだ。

だから、その時間をもらって、心を守る幾許かの猶予を与えてもらったことにだけは、確かな感謝をしている。

 

「――愚かで哀れなガーフィールは、外の世界を恐れている」

 

「……え?」

 

「第一の『試練』であの子が見たものが、あの子をずっと縛り付けているのさ。君が独力で状況を打破するというなら、その呪縛を解く必要があるだろうね」

 

「エキドナ?」

 

「他の魔女たちが君にとって好意的に振舞っていたというのに、これでボクだけが何も差し出さないとしたらとんでもない話だ。君の中に、『魔女たちはみんな根っこがいい奴だったけど、エキドナだけは最後まで悪い奴だった』なんて思われるのは御免だ。ボクはこれでも女の子で、君に好意的でもあるのは事実なんだからね」

 

早口で言って、エキドナがスバルの胸を手で軽く突いた。

その勢いに押されて下がり、スバルが顔を上げたときにはエキドナはこちらに背を向けている。白い髪を揺らし、スバルから距離を取る『強欲の魔女』。

他の魔女たちも、スバルを静かに見つめている。

 

「……俺にとっちゃ、お前らは理解できない奴らばっかりだ」

 

「――――」

 

「頭、おかしくなりそうなぐらい混乱させられたし、今だって言われたことにむかっ腹が立ったままだ。俺の知らない話を俺の頭上でしてるんじゃねぇよってずっと思ってるし、俺はお前らが好きにはなれない」

 

本音だ。

魔女たちは、いずれも個々で揺るがない価値感を持っていて、それはスバルとは――否、常人とは相容れないものであることは間違いない。

だから、スバルには彼女らが理解できないし、その行動に納得もいかない。

でも、エキドナに対して思ったことと同じように、理解できないことと感謝は別だ。

 

「俺を、死なせてくれようとしてありがとう。俺を、死なせないでくれてありがとう。俺に、大事な声を聞かせてくれてありがとう。――それは、ありがとう」

 

魔女たち一人一人に頭を下げて、彼女らが息を呑むのを小気味よく思う。

それからスバルは振り返り、歩き出す。

 

その先に、いまだ草原に膝をついたままの少女――サテラがいる。

 

彼女は自分に近づいてくるスバルを見上げて、喉を詰まらせるように息を止めた。

その怯えているような姿に、小さな女の子そのものの様子に、スバルは声を失う。

 

おぞましいとすら思った相手に対して、温かなものが胸を満たしているのはなぜなのか。

触れ合ったこともない相手に対して、抱き続けている感情はなんなのか。

 

答えの出ない問題が、この場所ではスバルに多く与えられすぎた。

その答えを何一つ出せないまま、『悩み続ける』という選択をして、スバルは座り込む魔女に手を差し伸べる。

彼女はその差し出された手を戸惑うように見ていた。

 

「俺は……お前がなんなのか、わからない。お前がどうして俺を好きだって言ってくれるのかも、お前が言う……俺がお前を助けたって言葉の意味もわからない」

 

「あ……」

 

「でも、お前が俺に与えてくれた『死に戻り』に、助けられてきたのは事実だ。俺がそれに頼り切って、ここまでどうにかやってこれたのも本当だ」

 

「――――」

 

「俺にとって、『死に戻り』は選択肢の一つ……ってことなのか?」

 

「――――」

 

「それに頼り切らないことが、自分を愛することだって……お前は、そう言うのか?」

 

「――――」

 

「簡単には、割り切れはしねぇよ。――でも、『死に戻り』をくれたお前が、俺に死にたくないと思わせたのも、間違いない」

 

だから、

 

「お前の言う通り、もう少しだけ……自分を、好きになってみる。大切にしてみる。それでどうなるかなんてわかりゃしないけど、それでいい」

 

「……大丈夫?」

 

「ああ……死ぬのに比べたら、どうってことねぇよ」

 

心配げなサテラの声にそう応じて、スバルは弱々しくても笑みを作った。

その表情を見て、サテラが安心したようにスバルの手を取る。

 

直後、世界のひび割れる音がスバルの鼓膜を捉えた。

青い空と緑の草原が色褪せてゆき、ナツキ・スバルを夢の城が解放する。

 

「――外に、戻るのか」

 

何をしていて、どうしていて、ここに辿り着いたのかもおぼろげだ。

外に出て、まず何をすればいいのだろう。心の問題は、それすら曖昧にさせてしまう。

 

「一人で、悩まないで。あなたを大切に思う人たちと、一緒に……」

 

「――――」

 

「あなたが死ぬことを望まない人たちと、あなたが死なせたくないと望める人たちと、一緒に抗って。……それでも届かないときは、『死』を恐れて死ぬことを忘れないで」

 

「――――」

 

「あなたが死んでしまうことを、悲しむ人がいることを、忘れないで――」

 

世界が音を立てて砕け散っていく。

サテラの声も遠くなっていく。それがひどく、スバルの心を掻き毟る。

 

繋がれた掌が、やけに熱い。

この手を離してしまってはいけない、そんな気がする。

 

「――俺は」

 

呼びかけの言葉が出ない。

彼女を、サテラを呼ぶ声が出てこない。その名前を口にしてはいけないと、彼女を拒絶したい気持ちと受け入れたい気持ちがせめぎ合っている。

 

空が落ちてくる。地が割れる。光が溢れてきて、もう周囲は夢の城を形成していない。

魔女たちの姿が掻き消えて、世界にはスバルとサテラの二人だけだ。

 

消える。そして始まる。

――正面のサテラを、スバルは何も言葉にできないまま見つめた。

 

「――――」

 

ふいに、闇の帳が落ちた。

見たくないと、スバルの無意識が否定していたはずの漆黒が払われる。

そして、その下から覗いた顔を見て、スバルは息を呑んだ。

 

息を呑むスバルに、サテラは銀色の髪を揺らし、紫紺の瞳を細めて、その瞳の端から涙をこぼしながら――、

 

「そしていつか――必ず、私を殺しにきてね」

 

消える。

失われる。

世界が掻き消え、目の前の少女の姿すら見えなくなる。

 

「俺が、必ず――」

 

ただ、掌の温もりだけを確かめるように強く握って、スバルは、

 

「――お前を救ってみせる」

 

見えなくなる、愛しい少女に向かって、それだけは言い切っていた。