『二つ目と、五つ目と、それから――』


 

「――――」

 

威風堂々、この場に現れた赤毛の偉丈夫、レイド・アストレア。

思いがけない男の登場と、こちらの驚きに一切配慮しない鋭い青の双眸、その彼の在りようそのものに、全員が――『暴食』すらも、言葉を失っている。

 

「オイオイ、何を呆けてやがンだ、オメエら。オレがここにいンのがそンなに驚くことかよ。当然のこったろうが、ええ?」

 

そうして、硬直したスバルたちの様子を眺め、レイドが自らの眼帯に閉ざされた左目を指で叩き、足下の草履で床をぺちぺちと蹴りつける。

それは塔全体を示す、そうした意味合いの仕草で、

 

「外も中も、こンだけ騒がしくしてりゃぁおちおち昼寝もできやしねえ。ただでさえ、酒もねえから退屈だってのに、こンなもン、我慢できるわきゃねえだろうが」

 

「……そりゃ、そっちの都合じゃねぇか。こっちはこっちで取り込み中なのが見えてるだろうが。ややこしくしてくれんなよ」

 

「はンっ!稚魚がなンか言ってやがンのか?悪ぃンだが声がちっさくて聞こえやしねえなぁ。まぁ、聞こえてても聞こえねえって言ってやンのは変わンねえンだが」

 

「クソ意地が悪ぃ……」

 

そして、悪いのは意地だけでなく、タイミングも悪い。

糾弾と呼ぶには弱々しく、抗議というには実がない。乱暴で容赦のない言葉に閉口するスバルは、自分がレイドに恐れを抱いていることを自覚し、拳を握り固めた。

 

魂が、レイドの存在に敗北感を覚えている。

それはまだ疑心暗鬼だった頃、レイドに散々な目に遭わされたことだけが原因ではない。前回のループでも、彼の呆れるほどの傍若無人さには向き合った。

そのときはここまで、スバルの心情はレイドに怯えていなかったはずだ。

 

それが何故、今この瞬間だけは妙に、妙に険しく感じられるのか。

それは――、

 

「――はっきりと、お前が敵だって俺の魂が認めてるから、か」

 

「いいぜ、稚魚。稚魚から昇格してやるつもりはねえが、オレが都合のいい援軍だなンて勘違いしねえところは褒めてやるよ」

 

「援軍だから喜べ、なんて言われても素で受け入れられる相手じゃねぇしな」

 

「はンっ!言いやがる」

 

獰猛に牙を見せ、鮫のように笑ったレイドにスバルは胸中の冷たい感覚を隠す。

今のレイドの宣言はある種、絶望的な宣告でもあった。しかし、元よりスバルはレイドを味方などと考えてはいない。

それが肯定されただけ。――勘違いなど、してはいない。

と、そんなスバルとレイドのやり取りが一段落したところで――、

 

「――あのさァ、レイド・アストレア」

 

そう、いち早く正気に戻った人物、『暴食』がレイドの名前を呼んでいた。

凍り付く通路の真ん中――まさしく、スバルたちとレイドとのど真ん中に立っている狂気の大罪司教、その悪辣な感情にぎらつく視線を向けられ、レイドが『暴食』の方を眺めながら不機嫌に鼻を鳴らした。

 

「おう、なンだ、チビ。……小汚ぇチビだな。なンだよ、汚チビちゃん」

 

「あんた、初代『剣聖』だろ?それがまたなんでここにいるのかなァ?僕たちの記憶だと、試験官のあんたは上の階から下りてこられないはずだろ?」

 

屈辱的な呼び名を無視して、挑発してくるレイドに『暴食』が問いを投げる。

その、彼が語った『記憶』は明らかにスバルの『記憶』であったことが腹立たしいが、問いかけの内容自体はスバルたちも同じものを抱いた内容だ。

 

――二層の試験官、レイド・アストレアの四層への到達。

 

これはスバルも前回のループで目撃し、クリアしなくてはならない五つの障害の一つとして考えていたものでもあった。

その、自由気儘に塔内を出歩く現象のカラクリは一切が不明。ただし、その現象はこの局面でなくては起こらない。――まさか、これ以前にも出歩けたが、出歩かなかっただけだなどと言われたら話にならないが。

 

「妙なカラクリがあるのか、塔そのもののルールでも変わったのか。どっちにせよ、あんたがこうしているのは計算外で、色々とコースを考え直さなくちゃァいけなくなる。前菜をいただいてからメインディッシュ、そしてデザートが基本さ。だろ?」

 

「グダグダと、わけわかンねえこと抜かしてンじゃねえよ、汚チビクソ野郎」

 

「――――」

 

「オレが下りられねえだぁ?目ン玉かっぽじってよく見ろや、オメエ。自分が何馬鹿なこと言ってンのか、見てわかンだろうが、オメエ、オイこら」

 

言いながら、『暴食』に対してレイドが不機嫌に前のめりになる。白い歯を剥いて、隻眼で相手を睨みつける姿はまさしくチンピラ同然のスタイルだ。

しかし、生憎と当人から放たれるプレッシャーは、コンビニ前にたむろするチンピラとは比較にならないほど強烈で、余波だけで命を脅かされる恐怖を覚える。

例えるなら、そこにいるのは虎と熊と獅子と竜とが混然一体となったケダモノだ。

ありとあらゆる暴力の気配を纏って、レイドは牙を剥く。

 

「ざっけンなよ、オメエ。オレはオレのやりてえことをやりてえようにやンだよ。誰の指図も受けるわけねえだろ、オメエ。ざけてンじゃねえぞ、オメエ。大体、オメエこそなンなンだ。誰の許可もらってこンなとこで騒いでやがンだ。オイ、オメエこら、オメエ」

 

「あっははァ、すごいなァ、たまんないなァ、話になんないなァ」

 

手にしていた氷の聖剣を氷の破片へと変えて、『暴食』が長い前髪をかき上げる。

さしもの『暴食』も、こうまで対話が通じない相手はやりにくいらしい。問答無用のエミリアにも苦戦の気配があったが、レイドはエミリアより数段話が通じない。

しかし、『暴食』はそんな相性の悪い敵に対して「だけど」と言葉を続け、

 

「獲物としちゃァ極上だね。俺たちの、『美食家』としての食欲にビンッビンッきてるッ!喰らいつけ!齧り取れ!舐り尽くせ!味わい遂げろ!暴飲ッ!暴食ッ!」

 

吠え、猛り狂う『暴食』が凍れる床に四肢をついて、レイドを睨みつけた。

白い犬歯の隙間から長い舌を覗かせ、常軌を逸した、常人には理解できない他者の記憶を貪る『食欲』が命じるままに、涎が床へと滴っていく。

そして――、

 

「――魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス」

 

その口上は誇りか驕りか、いずれにせよ『暴食』は――否、ライ・バテンカイトスが名乗り、次の瞬間には氷の床を蹴って矢のような速度で走り出した。

それは獰猛な四足獣の狩猟風景、そう錯覚させるほどに野性味のある疾走で。

 

「あー、面倒くせえな」

 

その、猛進するバテンカイトスを正面から見据え、レイドは自分の耳に指を突っ込みながら億劫そうにぼやくと、

 

「じゃあ、オレは剣士、ハウロイ・ラリオル」

 

「誰だよ!?」

 

「オレの故郷の隣の家に住んでた奴だよ」

 

あまりに堂々とした偽名に思わずスバルが叫ぶと、レイドはあっけらかんとそう答える。それから、彼は耳から指を抜いて、すぐ眼前のバテンカイトスを見下ろしながら、

 

「――イタダキマスッ!!」

 

「マブい姉ちゃんに言われンならともかく、オメエみてえな汚チビちゃんに言われても嬉しくなンかねえよ」

 

「――づッ」

 

刹那、大口を開けて迫ったバテンカイトスの体が激しく横へブレる。

それは雑に繰り出されるレイドの右足、その蹴りが真横からバテンカイトスの胴体を捉え、通路の壁に豪快に叩き付けたためだ。

 

「ぐ、ぇ……っ」

 

「鶏が絞められるときみてえな声出してンじゃねえよ、オメエ。言っとくが、鶏は絞めたら食ってうめえが、オレはオメエを喰うつもりはねえ。暴食だかなンだか知らねえが」

 

「ぎ、ぁ!」

 

「大人に飛び掛かってきてンだ。仕置きされる覚悟はできてンだろ、オメエよぉ!」

 

言いながら、レイドは蹴り足でバテンカイトスの体を壁に押し付け、そのまま氷の通路を足一本とは思えぬ速度で走り始めた。

当然、壁と接触した状態で、それも所々に氷の凹凸がある壁面を滑らされるバテンカイトスは抵抗ができない。そのダメージは甚大、破壊的だ。

 

「ぎ、がぁぁぁぁぁぁ――ッ!」

 

「オイオイ、こンな程度でわめいてンじゃねえよ。こンな調子じゃお話にならねえ。こンなのまだまだ、オレの時代じゃ子どもの遊びにもなンねえぞ。最近のガキは小汚ぇだけじゃなく貧弱になったもンだな、オイ、オイ、オイ、オメエよぉ!」

 

退屈そうに言い放ち、足を止めたレイドがその場で素早く半回転。

バテンカイトスを壁に押し付ける足が外れ、大罪司教の体がずり落ちる。その前に、軸足が入れ替わって放たれる左の後ろ回し蹴り、その直撃がバテンカイトスの横っ面へと豪快に突き刺さり、小柄な体躯がゴム毬のように容易く吹っ飛んだ。

 

「――――」

 

尋常でない勢いで、バテンカイトスが受け身も取れずに床を弾む。高速回転して血をばらまく大罪司教は、立ち尽くすエミリアとユリウスの間を抜け、ついにはスバルとベアトリスの横を跳ねながら通路の奥へと転がり込んだ。

そのまま大の字にうつ伏せに転がる姿には、直前の威勢の良さが微塵もない。

死んだのではないかと、そうとすら思える。

 

「あいつ、今さっきまでエミリアちゃんとユリウスが二人がかりで苦戦してた強敵、だったはずだよな?」

 

「……それで間違いないのよ。ただ、それ以上にあれが規格外ってだけかしら。だから、場合によっては状況はもっと悪くなったと言えるのよ」

 

「対戦カードが入れ替わっただけ、だもんな」

 

「それも、もっと悪い相手にかしら」

 

きゅっと、スバルと手を繋ぐベアトリスが、後方に倒れて動かないバテンカイトスではなく、前方のレイドを警戒する。それはエミリアやユリウスも同じだ。

すでに戦況は対『暴食』戦ではなく、新たな強者とのものへ変わりつつある。

そんな中にあっても――、

 

「大罪司教、やっつけてくれて、すごーくありがと……って、そんな風に仲直りするんじゃダメ?」

 

まず、レイドに対して最初に友好的に語りかけたのはエミリアだった。その彼女らしい平和な申し出に、しかしレイドは首を振り、肩をすくめ、床を蹴った。

肉体の三段活用で申し出を払いのけ、レイドはがりがりと頭を掻く。

 

「はン、気ぃ抜けること言ってンじゃねえよ、オメエ。……つーか、なンだ、オメエ。マブすぎンだろ、どうなってンだ、冗談じゃねえ!激マブじゃねえか!なンだってこンなとこにいやがンだ、オメエ。こンな状況で何してやがンだ。こンな砂だらけのわけわかンねえとこで遊ンでねえで、今晩の酌しろや、オメエ」

 

「ええと、これも二回目なんだけど……」

 

「――残念だが、彼女はあなたの晩酌には付き合えない。何故なら」

 

「お?」

 

「幻影たるあなたに、安寧の夜は訪れないからだ」

 

と、品のない発言を遮るように、騎士剣を構えて前に出る男が一人――ユリウスがエミリアを庇うようにレイドと対峙し、剣気を研ぎ澄ませて視線を鋭くした。

その黄色の双眸を真正面に、レイドがわずかに表情を変える。

 

「……なンだ、オメエ。ちょっとはマシな面構えになってンじゃねえかよ。なンかいいことでもあったのかよ、オメエ。女か。女だろ、オメエよ」

 

「色々と心構えに影響する出来事があったことは否定しないが、それが女性絡みばかりでないことはお伝えしよう。女性の抱擁が傷付く心を癒すこともあれば、容赦のない友の叱咤が代わりになることもある」

 

「回りくどい野郎ってとこは変わっちゃいねえな。何が言いてえンだ?」

 

「つまり、今の私がこうして剣を握るのは、友のおかげということ――!」

 

そう応じた次の瞬間、ユリウスは鋭い踏み込みから騎士剣を跳ね上げ、目を疑うほど美しい軌跡を剣先に描かせて、レイドの首へと一撃を迸らせていた。

 

「――――」

 

相手は敵意をまだ表明していない、なんて野暮な指摘は一切合切不要。

この場に立っていれば、レイドの考えなど火を見るよりも明らかだ。――ピリピリと、抑え切れない剣気が傍観者たちの肌さえ淡く弾く。

これだけ昂っている剣気の持ち主が、矛を収めたままにするなどとありえない。

 

――レイドはやる気だ。前回のループと同じく、状況も鑑みずに。

 

故に、ユリウスは躊躇わず先制攻撃を仕掛けた。

その選択は最適解だ。余裕綽々の態度でいるレイド、その出鼻を挫くことを狙うのは、この初代『剣聖』を攻略する上で的確な一撃であったと断言できる。

問題は――、

 

「――余裕綽々って、それがどういう意味かわかってンのか?」

 

「――――」

 

「そりゃな、何されても余裕でどうとでもできちまうから、どンな小細工したって関係ねえンだよ、バーカって意味だ」

 

――そのユリウスの先制攻撃を、レイドが手にした二本の箸で挟み止めたことにある。

 

「く……っ」

 

「ま、悪くはなかったぜ?オレが相手でなきゃ、喰らうぐらいはしてやっただろうよ。――ンじゃ、いくぜ」

 

「しっ!」

 

刺突を防がれて呻くユリウスへと、レイドが鮫のように笑いかける。

そのまま、レイドは箸を一本ずつ両手へ握り、剣先を払うと同時に踏み込み、箸撃が放たれる。――衝撃が、騎士剣を真っ向から打ち据え、快音が鳴り響く。

 

「――――」

 

細く、剣と比べるべくもなく刃渡りの短い木の棒は、しかしレイドという達人の腕に握られることで実寸大以上の凶器となって破壊をぶちまける。

猛烈な快音が響いた直後、発生する衝撃波がユリウスの髪と服をはためかせ、通路全体の氷結した部分を一気に割り砕いていく。

 

――まさに規格外、常識外れ、世界のバグというべき異常の塊。

 

その力量を一度ならず目にしていても、実物を改めて見たことでスバルは絶句。

こんな化け物が世界に存在することと、この化け物を越えることを塔の攻略条件として盛り込む設計者の悪魔的な底意地の悪さに吐き気すらした。

だが――、

 

「――へえ、本気でちょっと感心したぜ」

 

その箸の一撃に、レイドの全力がどれだけ込められていたかはわからない。

しかし、レイドはその一撃さえ受け切られることが想定外だったようで、箸撃を全身で受け流したユリウスの戦意を称賛する。

それを受け、口の端から血の雫をこぼしたユリウスは目を細め、

 

「なにせ、私があなたに勝てなくては、こちらの計算が狂ってしまうのでね」

 

「勝つ気でいンのかよ、吠えやがる」

 

「だろうね。だが、お付き合いいただこう!」

 

瞬間、ユリウスの剣撃が閃いて、それをレイドが二本の箸で荒々しく受け流した。

剣の勢いが逸らされ、ユリウスの体勢が泳ぐ――ことはない。ユリウスの騎士剣はその受け払いさえ織り込み済みとばかりに旋回し、一切のタイムラグなく次の一撃へと剣閃を繋げた。その後も、それは連続する。

 

流麗で、一部の無駄もない洗練された水の流れのような剣舞、それが始まった。

 

「――――」

 

その、無数の攻防が重ねられる剣戟を目の当たりにし、スバルは息を呑む。

あくまで、そうあくまでスバルの目で追える範囲でしかないが、それは剣の頂と呼ばれる『剣聖』へ届かんとする、ユリウス・ユークリウスの意地と鍛錬の証だった。

 

――レイドの剣勢が火炎だとすれば、ユリウスの剣勢は流水の如くだ。

 

単純な相性で言えば水は火を消してしまうが、炎の勢いが強ければそれこそ焼け石に水の格言通り、水はただ蒸発して無意味となるだけ。

おそらく、多くの流水の剣士はレイドの火炎の如し剣勢に蒸発させられただろう。

だが、少なくともこの瞬間、ユリウスは自身が渇いて消えることを恐れず、レイドへと揺るぎない攻撃を叩き込んでいく。

そして――、

 

「相手がユリウスだけだなんて思わない、で!」

 

「はンっ!忘れちゃいねえよ、激マブ!オメエは忘れるにゃ面が良すぎンだよ!」

 

「褒めてくれてありがとう!でも、ホントに覚えててくれてるのは一人だけだから!」

 

そのレイドとユリウスの剣舞へと、氷の武装を山と抱えるエミリアが合流する。

これにより、レイドは箸の一本をユリウスに、もう一本をエミリアへと向けた。それが対策になるのか、そんな凡庸な価値観をレイドの剣力はことごとく粉砕する。

 

流水と火炎の剣舞に氷結が割り込み、戦場の色が再び鮮やかに変じていく。

剣舞のキャストを一人変更し、バテンカイトスの代わりにレイドが敵となるが、エミリアとユリウスのぎこちない連携は継続――否、それも変わる。

 

敵が強くなったからか、あるいはわずかな間に二人が自分たちの戦い方を寄せ合い、修正したのか、どことなく合わない息が合い、連携が確かな連携となる。

 

「ユリウスが、エミリアに合わせているのよ」

 

「わかるのか?」

 

「性格的な相性もあるかしら。エミリアの思い切りが良くなって、ユリウスがらしく動けるようになったのよ。たぶん、エミリアが合わせる気をなくしたのが正解かしら」

 

「すげぇらしいコメント」

 

とはいえ、それで上手くいくのだから、その判断で正解なのだろう。

結局、エミリアはどこまでも手放しにマイペースを貫く方が性に合っていて、ユリウスはわかりやすく他者の動きに合わせつつ、自分を飾るのが得意であると。

 

「はっはぁ!いいぜいいぜ、オメエら!オレも楽しくなってきたじゃねえか!」

 

「うや!せいや!とりゃ!うりゃうりゃうりゃぁ!」

 

その、二人の噛み合った連携を愉悦と共に払いのけ、レイドが高笑いする。そこへエミリアが気の抜ける掛け声と、その掛け声から繰り出されるとは思えないほど殺傷力の高い一撃をぶち込み続けるが、決定打にはならない。

 

水と炎と氷との、美しく絡み合った幻想的な剣舞。

響き渡るのは騎士剣の鋼、完璧な剣閃を描くことで鋼と同等となった棒切れ、そして一撃ごとに砕けては再生する氷の武器と、それぞれが打ち合い、砕け、鍔迫り合う快音。

まるで本当に舞の一節だと、そう勘違いしてしまいそうになるほど美しく――、

 

「――しゃぁぁぁぁぁ!!」

 

故に、そこへ割り込む不協和音の存在は、目にも耳にも異物となって焼き付いた。

 

「野郎……っ!」

 

三者が攻防を繰り広げる空間へ、無作法に割り込んだのはライ・バテンカイトスだ。

レイドの蹴りを喰らい、そのまま半死半生の状態で転がっていたはずの少年。それが立ち上がり、あろうことか被害などないかのように戦場へ参戦する。

 

バテンカイトスは両手の手首に括り付けた短剣を振るい、さらには短い手足を器用に駆使した戦技を交えて、次から次へと致命の攻撃を三者へ放り込む。

それを、エミリアとユリウス、そしてレイドはそれぞれ煩わしげに防いで、

 

「ずいぶんと往生際の悪いことだ、大罪司教!」

「はっはァ!俺たちをのけ者にして楽しもうなんて、そんな性格悪いことするのはやめてくれよ、兄様!いつもいつも独り占めかい?ズルいなァ、ホントに!」

「レイド!見たらわかるでしょ!ここで私たちがケンカしてても仕方ないの!手伝ってくれるか、せめて大人しくしててってば!」

「話のわからねえ女だな、激マブ。オレぁ今、それなりに楽しンでンだぜ?空からお星様が降ってきやがったとしても、オレの考えは曲げられねえよ!」

 

「――――」

 

四者、壮絶に攻撃を交えながら、互いに互いの意思をぶつけ合う。

それは決して、易々と近付くことのない、わかりやすい妥協点へ辿り着くことなどできない、血臭と切り離せない戦いの光景だ。

 

誰が有利で、不利で、優位で、劣勢なのか、外野からの判断は難しい。

できることは、せめて味方の勝利を願うことのみ、だが――、

 

「――ぐ」

 

「スバル!?」

 

そうして、歯痒い思いで戦況を傍観するしかなかったスバル、それが胸を押さえて、その場に膝をついたことにベアトリスが驚いた。

俯いて、苦しげに息をするスバルの肩に触れ、ベアトリスがその顔を覗き込む。

 

「スバル、スバル!どうしたのよ。何があったかしら!」

 

「……いや、これは、なん、だ?」

 

「スバル?」

 

ベアトリスの必死の呼びかけに、スバルは自分の胸を掴んで何度も瞬きする。

誤魔化しや、はぐらかそうといった意思は全くない。ただ、スバルにもわからない。奇妙な異常、違和感――信じ難い熱が、胸の奥で発生している。

 

心臓が爆ぜそうなぐらいに拍動して、全身に流れる血の一滴までもが何かを訴えかけてきているような、処理し切れない恐ろしい感覚が脳に真っ赤な警鐘を鳴らしていた。

 

「――――」

 

わからない。今、自分の体に何が起きているのか。

これは、これまでのループの中でも起きていなかった現象だ。何らかの持病、あるいは魔法のようなものの干渉を受けたのか。

自分の中にない知識まで総動員して、最悪の可能性を探り、首を横に振る。

 

違う。これはおそらく、悪いものではない。警鐘は、この異変が伝えているのだ。

 

「は、ぁ……」

 

深く、息を吐く。

直前まで、スバルの脳裏を焼いていたのは、目の前でレイドやバテンカイトスとの攻防を繰り広げるエミリアとユリウスの心配、だけではなかった。

 

状況的に、立ち尽くして見守るしかない無力な自分。

そんな状況にあってスバルの脳を焼いたのは、こうしている間にも進行している可能性の高かった、五つの障害――その、残された二つの障害だった。

 

――五つの障害。

一つは塔を取り囲んだ魔獣の大群。一つは塔へ攻撃を仕掛けてくる『暴食』の大罪司教。一つは塔内を自由に歩き始めるレイド・アストレア。――現時点の、これが三つだ。

残る二つは、塔内を我が物顔で徘徊する巨大なサソリと、塔を呑み込むほど恐ろしい勢いで押し寄せる黒い影。

 

この二つにも対処しなくては、塔へと降りかかる問題を捌き切れない。

眼前の、エミリアとユリウスの奮闘の裏側で、いまだ塔を崩壊せしめる可能性への対処を思い悩んだ瞬間、この胸は熱く脈打って、スバルに膝をつかせたのだ。

 

どくどくと、強烈に脈打つ心の臓。

その心音に意識を重ねながら、スバルはゆっくりと呼吸し、目をつむる。自然と、そうすべきだと感じた。それに従って、目を閉じた。

 

「――――」

 

そのスバルの様子を見て、ベアトリスが呼びかけの声を止めた。

おそらく、彼女にも確信はなかったはずだ。だが、そうしてくれた。物分かりのいい仲間を持って、スバルは果報者だ。

そして、そのスバルの瞼の裏に、奇妙な感覚が湧き上がった。

 

――それは、ぼんやりとした暗闇に浮かび上がる、ほんのりと淡い光だった。

 

「――?」

 

ほんのりと、温かくぼんやりとした光。

それはスバルのすぐ傍らに一つあり、少し距離を離れて正面に二つある。さらに不思議なことに、スバルにはその光が、振り返ってもいない後ろの方角にもあるのがわかった。

後ろ、そちらの方にいっぺんに四つもまとまって光がある。そこから大きく離れたところに一つがあって、そして、そして、そして――、

 

――もう一つが、すぐ頭上に迫っているのがわかって。

 

「――ベアトリス!」

「ひゃんっ!」

 

何故だか、スバルはその感覚を迷わず信じて、ベアトリスに飛びつくようにしてその場から飛びずさった。

軽い、少女の体を腕の中に抱き入れて、スバルは躊躇いなく石の床を転がり――刹那、灼熱が右足の腿を掠めていくのがわかり、苦鳴を上げる。

 

「が、ぐおおおお!」

 

その灼熱が、足に負った裂傷からくるものだと即座に気付く。おそらく、深々と抉られた足の傷から意識的に目を逸らし、スバルはベアトリスを抱いたまま振り返った。

そして、痛みと涙で霞む視界を押し開くと、見た。

 

「――――」

 

「くると、思ってたぜ、このクソサソリ……ッ!」

 

忌々しげに吐き捨てるスバル、その正面に現れていたのは、これもまた二度目の邂逅となるであろう巨大なサソリ――黒い甲殻と、赤い光点のような瞳を持ったサソリが、その多脚を生かして壁を這い、スバルたちを睥睨していた。

 

「――ぁ」

 

そのおぞましい巨躯を前にして、ベアトリスが目を見開く。そのベアトリスの視線の先にあるのは、スバルの足を深々と抉ったサソリの鋏だ。サソリはその鋏の先端にえげつなく抉られたスバルの肉を挟み、多量の血を通路に滴らせている。

 

――懸念されていた、巨大サソリの乱入。

 

乗り越えなくてはならなかった五つの障害が、ここへ一極集中してくる。

 

「――――」

 

マズい。マズいマズい。マズいマズいマズい。マズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズい。

 

状況の悪さを理解して、スバルは痛みで赤熱する思考に活路を見出そうとする。

だが、状況をどうすれば世界が変わるのか、それがスバルには一向に見えてこない。

 

バテンカイトスがいて、レイドがいて、巨大サソリまで現れて。

せっかく、魔獣の大群をメィリィとシャウラが押さえてくれていても、これでは他に手が回り切っていない。これでは、ダメだ。

この方法では、ダメなのだ。もっと、こうではないやり方を――。

 

「――スバル!」「スバル!」「スバル!!」

 

歯噛みするスバルの鼓膜を、三者の声が呼びかけてくるのが聞こえる。

ベアトリスの悲痛な声が、ユリウスの緊迫した声が、エミリアの訴えかける声が、それぞれにスバルを呼ぶのが聞こえて、そして。

 

バテンカイトスが、レイドが、巨大サソリが、それぞれに動く。

ナツキ・スバルたちの行動を、道行きを阻むように、しかし、それより早く――、

 

「――――」

 

――凄まじい勢いと衝撃を伴って、塔全体が激しく揺れ、轟音が響き渡った。

 

「――――」

 

それはそのまま、床に倒れ込むスバルの体を跳ねさせ、攻防を繰り広げるエミリアたちを吹き飛ばし、巨大サソリの甲殻さえも押し潰して、世界がひしゃげる。

すぐ傍らの小さな体が、まるでスバルを守ろうとするように抱き着いてきた。その、柔らかい体を抱き返して、スバルは衝撃の中に目を見開く。

 

『――愛してる』

 

――そこに、ただ盲目的な愛だけを抱く闇が、スバルを呑み込まんとしていた。

 

※※※※※※※※※※※※

 

――瞬間、世界の全てが、白と黒が、光と影が、男と女が、愛と憎悪が、ひっくり返ったような衝撃と感覚があって、ナツキ・スバルは流転する。

 

「――スバル」

 

「――っ!」

 

「うひゃんっ!」

 

呼びかけ、それを手繰るようにして、スバルは声の主を掻き抱いた。

途端、腕の中、じたばたともがく体が慌てて、胸の中からスバルの顔を見上げてくる。

それは――、

 

「べあ、とりす……」

 

「そ、そうかしら!急にびっくりするのよ。別に、嫌って言ってるわけじゃないかしら。ただ、本から戻ったばっかりで心配で……でも、ベティーの名前を最初に呼んでくれてホッとしたかしら」

 

「――――」

 

そう、腕の中のベアトリスがスバルに向かってぼそぼそと呟く。その声を聞きながら、スバルはきょろきょろと自分の周りを見回した。

何があったのか、ついさっきまで、自分は通路に倒れていて、足も傷付けられて、そのままあの黒い、黒い、闇の中へ――。

 

「……書庫?」

 

「とりあえず、寝惚けているのかそうでないのか、それだけでもはっきりさせてくれると、ボクたちもやりようがあるかな、ナツキくん」

 

大量の書架に囲まれ、呆然とあたりを見回すスバルに、そんな声がかけられる。

見れば、それは薄紫色の髪を撫で付け、苦笑するエキドナだ。彼女の背後には書架にもたれかかり、「やっと起きたわあ」なんて頬杖をつくメィリィもいて。

 

「――――」

 

「わ、わわ!スバル!スバル、どうしたのよ!やっぱり、体調がおかしくなってるかしら?本の中で何を見たのか、話せるのよ?」

 

「ああ、いや、うん。それも、しなくちゃなんだが……」

 

ぎゅっと、スバルはベアトリスの細い体を抱きしめ、温もりを堪能する。

そして、認めざるを得ない現実を認めた。

 

――戻ってきた。この瞬間に。

 

五つの障害を乗り越えることにしくじり、スバルはこの瞬間に、舞い戻ったのだと。