『その人』


 

衝撃に思わずたたらを踏んだ姿勢で、スバルはこちらを睨みつけてくる金髪の少女に目を見開いていた。

碧眼を途轍もない怒気で満たし、美しい面貌に朱を差す魔女――ミネルヴァだ。

 

彼女は硬直するスバルを強い視線で射抜いた後、そのスバルの正面に、姿勢を崩さず立ち尽くしているエキドナを見やり、

 

「繰り返すけど、待ったをかけるわ。その契約、あたしは認めない」

 

「……ふむ。これは、ボクとしては予想外の展開というべきだろうね」

 

敵意、というには親しみがあり、怒気というには殺伐とし過ぎた感情。それを一心にエキドナへぶつけながら、ミネルヴァは自身が生み出した拳のクレーターの中で腕を組み、豊かな胸を弾ませながら唇を噛んだ。

 

「魔女の契約――それがどんな意味を持つのか、理解できない君じゃないはずだ。それでも割り込むということは……ひょっとして、君も彼と契約を結びたいのかな?それで、焼きもちでも焼いたというところかな」

 

「そんな平和な理由じゃないことぐらい、あたしがこうやって怒ってるのを見てわからないの?あたし、激怒してるから。憤慨してるんだから。怒髪天を突く勢いなんだからっ」

 

軽口でかわそうとでもするようなエキドナの言葉に、ますます顔の赤の色合いを濃くするミネルヴァの応答。感情の高ぶりが眦に浮かぶ涙の雫となり、いたいけな横顔に幼子の頑なさのようなものまで感じさせる。

豊満な肉体と、幼い横顔がどこまでもアンバランスで――そしてその存在自体が、今のスバルにとっては驚きと一緒くたに受け入れざるを得ない。

だって、

 

「なんで、お前がここにいる?」

 

「なによ。あたしがここにこうしていたらいけないっていうの?」

 

「そうじゃ、ない。そうじゃないけど……だって、エキドナがそこにいるのに」

 

エキドナを指差し、スバルは不服そうに頬を膨らませるミネルヴァに言う。ミネルヴァはそれでも理解不能といった様子で首を傾げるが、エキドナの方はスバルの言いたい内容が理解できたらしく、軽く手を叩くと頷き、

 

「ああ、君が何を問題としているのかわかった。――ボクがこうしてこの場にいるのに、他の魔女が顕現しているのが不思議でならないんだね」

 

「そ、そうだ。だって、これまでも他の魔女と顔を合わせるときは一対一で……エキドナの代わりに、この場に現れるのがお約束だったじゃねぇか。それを……」

 

「別に、一緒に出れないなんて言ってないでしょ。そういう、理由もない悪ふざけをするのがこの性悪な魔女のやり方なのよ」

 

スバルの反論を、あっさりとミネルヴァが肩を怒らせながら叩き落とす。その答えにスバルは「まさか」と口の中だけで呟いてエキドナを見る。が、エキドナはスバルの視線にも、ミネルヴァの言葉にも特段、否定の姿勢は見せなかった。

 

「勘違いはしないでほしいんだけどね。ボク以外の魔女をこの場に呼び出すのは、ボクにとっては負担もリスクも大きいんだ。場合によっては他の魔女にこの場の主導権を奪われる可能性があるし、そうでなくても彼女らのような強力な存在を形作るのにはけっこうな労力を必要とするからね」

 

「だからって……いや、でも、お前は……」

 

「嘘は、一度もついていないはずだよ。それだけは、断言しよう」

 

つっかえつっかえのスバルの言葉を、エキドナは鋭い一言で一刀両断にする。

事実だ。記憶を振り返ってみても、エキドナが今の現象について、この場で嘘を断じれるような発言をしていたことはない。

提示された現象と事実を前に、スバルが「そうである」と思い込んだだけだ。

だから極論、エキドナはスバルを騙しても何もいなかったことになるが。

 

「あまり、ぽんぽんと他の魔女が顕現できるということがわかって、君を他の魔女に取られたくなかったんだよ」

 

「は、え?」

 

「君はボクにとって、本当に久しぶりの客人だ。話していてこれほど、心が躍ることは生前も死後もそうそうなかった。そんな君という存在を、せめてこの場でぐらいは独占したいと思うのを浅ましいと罵倒するかい?」

 

「――――」

 

「返す返すも重ねるが、ボクは君を好ましく思っている。だから、他のボクより魅力的で、あるいはもっと協力的な魔女を連れ出すことで、君という存在の興味が他の魔女に移ることを避けたかったんだ。――それは、笑ってくれてかまわない」

 

ひどく、醜い独占欲だから――と、エキドナは隠し事の経緯をそう説明する。

言葉もなく、エキドナの言い訳のようなものを聞きながら、スバルは彼女から向けられる執着心――それを、向けられるほどの何が自分にあるのかと思う。

『嫉妬の魔女』のこともそうだ。エキドナも、なぜそうまでスバルに――。

 

「何を簡単に丸め込まれそうになってんのよ、あんた」

 

「――だっ!?」

 

考え込もうとするスバルの頭を、後ろから柔らかい拳が小突いていた。

頭を押さえて振り返れば、すぐ背後にいるのはミネルヴァだ。彼女は頭に当てたスバルの手を取り、流れるような動きで関節を極めて地面に引き倒す。

 

「お、あ!ちょっ、痛い痛い痛……くない?」

 

「あたしが直接、生物に触れたらそれはどんな行いだろうと治療行為に代わる。全力で殴っても傷口が塞がるし、絞め落とすつもりで寝技に持ち込んでも持病が治るし、関節技をこのまま続ければ肩コリが解消されるわ!」

 

「ど、どおりで体の各所の軋みが……そうじゃなくて」

 

『憤怒の魔女』の真骨頂を体で味わいながら、スバルは必死に首をねじって関節技を極めているミネルヴァを見上げる。

骨が軋みを上げ、痛みを訴える方向へ曲げられているにも拘わらず、痛むどころかじんわりと温かみが全身に広がるのだからすさまじい違和感だ。人体に対して、行動が全てプラス要素へ還元される謎の権能を発揮する魔女――これまでも、決して彼女に対して負の印象を抱いたことはなかったが、

 

「これはいったい、何のつもりで……」

 

「こうでもしておかないと、あんたほいほいとエキドナの口車に乗せられて契約しちゃいそうなんだもの。その軽率な判断と思考停止した態度、あたし、イラッとするわ!」

 

「口車とは、聞こえが悪いね。ボクとしては、しっかりとボクと契約した場合の利点についてを説明し、互いの合意を図ったつもりなんだが……」

 

「そういう、説明責任はちゃんと果たしたーみたいな態度が気に入らないって言ってるの。利点についての説明はちゃんとしてたわ。してたけど……でも、契約することで生じる不都合な点については、何も言ってないでしょうが!」

 

怒りに任せて足を振り下ろすミネルヴァ。踵の位置には引き倒されるスバルの尻があり、臀部に踵がねじ込まれる感触と、尻越しに衝撃が伝わった地面が陥没する不可思議な現象を体で体感する。

尻への打撃でお通じが良くなった気配を覚えながら、スバルはミネルヴァの言葉の意味を察して、愕然とする。

 

――エキドナとの会話の中で、デメリットに触れていなかった事実。そのことに、気付きもしていなかった自分の迂闊さを理解したからだ。

 

「いや、でも……デメリットって言ったって……そんな、たいそうなことには」

 

「ならないはずって、そう思うの?契約を、ずいぶんと甘く見てるのね。ましてや相手は魔女――大罪の名を冠した七人の魔女の中で、もっとも多くの契約を結び、もっとも多くの人間と触れ合い、もっとも強く歴史に干渉した、『強欲の魔女』なのに」

 

「それも全ては生前の栄冠……栄誉というべきことばかりでないのは事実だけどね。ボクと契約を交わしたことで、全ての存在が救われたわけではないのは事実だ」

 

スバルの知らなかった事実を突きつけるミネルヴァ。さらにその言葉を補足するように続けながら、あくまでスバルに対する害意はないと主張するエキドナ。

その両者の主張を聞きながら、間に挟まれるスバルの頭は混迷の極みにあった。

 

どちらの発言を信じていいのかわからない。

 

エキドナは、こうして墓所で『試練』と拘わることになって以来、何度も顔を合わせた上で、スバルが抱え込んでいた悩みにも一緒に頭を悩ませてくれた、一種の戦友のような印象を抱いていた相手だ。

だからこそ、契約という形での協力体制を結ぼうと提案してくれた彼女の言葉に、スバルは半ば安寧すら覚えて応じようとしたのである。

 

一方でミネルヴァは、エキドナと比べれば接した回数も時間も、交わした言葉すらも短い。だが、いずれも危機的状況にあったスバルをその豪腕から放たれる癒しの力で治療し、感謝の言葉すら求めずに台風のように行き過ぎた慈愛の人物だ。

ミネルヴァにはスバルを陥れる理由などなく、その彼女がこうしてわざわざ顕現してまで口を挟んできたことには、一考の余地があると考えるべきである。

 

いや、そもそも、こうして悩むより先に、問い質すべきことがあった。

それは――。

 

「エキドナ。契約を交わした場合、対価が必要なはずだ」

 

「……うん、そうだね。契約にはそれが必要だ。君の求めに対し、ボクが知識を提供するように、ボクの求めに対して君は対価を差し出さなくてはならない」

 

「だよな。そうだ。――なら、お前は俺に何を求めるんだ?お前と契約した場合、俺はお前に、何を差し出す必要がある?」

 

この先、スバルが行き詰まったとき、どうしようもないと手詰まりになったとき、エキドナという存在が力を貸してくれるためには、何を支払えばいいのか。

そのスバルの問いかけに、エキドナはふっと頬をゆるめた。

 

「そんなに警戒することはないよ。ボクが君に求めることは、それほど難しいことじゃない。むしろ、形ある物や形のない大切な何かを対価に引き出すようなことはしない分、良心的とすら言ってもいいだろう」

 

「――何を、求める」

 

「簡単なことだよ。――君が感じたものを、君が思ったことを、君の心に残るものを、君が知る何かを、君が為す何かを、君から生まれる何かを、君という存在から派生する『未知』という果実を、ずっと味わわせてほしい」

 

エキドナは頬を赤らめ、まるで恋する乙女のような表情で言った。

『未知』という果実――その詩的な言い回しに、スバルは眉根を寄せる。

 

「なんだ、そりゃ。俺から感情とか思い出とか記憶とか、そういうものを抜き取って寄越せって、そういう意味なのか?だとしたら……」

 

「言っただろう?そんな物騒な話じゃないと。ボクはただ、君が見る景色を、君が聞くメロディを、君が紡ぐ物語を、特等席で見ていたいだけなんだよ。それを感じていたいだけなんだよ。君から生まれる『未知』を、知れる立場にありたい。ただそれだけのことで、満足ができる」

 

スバルの懸念を払拭するように、エキドナは自分が求めるところを明確にしていく。

ただ、スバルの歩く道のりを見届けること。その途上にある景色を共に見ること。スバルの感じたことを、知ったことを、行いの結果を知ること。

知識欲の権化であり、『強欲』を冠する魔女は、それだけを求めている。

 

「嘘じゃ、ないんだよな?」

 

「契約において、嘘をつくなんてもってのほかだ。ボクはボクであるためにも、決してこの言葉に背くようなことはしないと誓おう。命を賭けてもいい」

 

己の胸に手を当て、「もっとも、すでに死んでいる身だけどね」と軽口めいた態度で締めくくるエキドナ。

その態度と言葉は、スバルには嘘がないように感じられた。あるいは、そう信じたいだけなのかもしれない。

 

「ミネルヴァ。エキドナは、ああ言ってくれてる。俺は、それならあいつを……」

 

「ぜ、全部……本当だけ、ど……全部が全部、言ったわけじゃ、ない、よ?」

 

拘束するミネルヴァに解放を要求しようとするスバルに、今度はまた別の人物の声がかけられる。それは、ほんの十数分前に聞いたばかりの――それも、スバルにとっては決して快い覚えのない声音で。

 

「カーミラ……『色欲の魔女』!」

 

「そ、んなに……恐い目で、見ない、で。わた、私は……何にもし、てないって言ってるの、に……ひ、ひどい……」

 

「目つきの悪さは生まれつきだ。特別、キツイ面構えはしちゃいねぇよ」

 

地面に引き倒されるスバルと、その正面に立つエキドナ。背後のミネルヴァと直線状に三人が並ぶ中、少し離れたところで草原に座る赤毛の少女――カーミラ。

彼女はおどおどと、スバルの視線から顔を隠しながら、ちらちらこちらの様子をうかがっている。相変わらず、苛立たしい態度だが、意識的に彼女の存在から気をそらすことで、『命の危機に瀕するほど心を奪われる』ことを回避する。

その上で、問いを重ねた。

 

「それより、お前はさっきなんて言った?今さら、別の魔女が顔を出すのに何も文句はねぇけど、何があって……」

 

「え、エキドナちゃんは……隠してる、こといっぱいある、よ……?嘘、は言ってないけど……いっぱい、隠して、る……」

 

「隠してる、こと……?」

 

カーミラの言葉の意味を考えながら、スバルは縋るようにエキドナを見る。一方でエキドナは、突然に出現したカーミラの方を見ながら片目をつむって、

 

「突然に出てきたと思えば、不名誉なことを並べてくれるものだね。そもそも、どうして君が彼に注意を喚起したりするんだい?君はミネルヴァと違って、彼に肩入れする理由そのものがないはずだ。彼を、嫌ってもいたはず」

 

「み、ミネルヴァちゃん、みたい、に……り、理由?ちゃんとしたのは、ん……ない、よ。でも、エキドナちゃん、は……わ、私を騙し、た……でしょ?」

 

エキドナの整然とした物言いに、相対するカーミラは目を伏せながら、途切れ途切れに弱々しい声で応じる。しかし、声の弱々しさと裏腹に、その内容には決して弱腰の妥協が見当たらない。

カーミラは落ち着かない視線をさまよわせながら、幾度もエキドナを見つめて、

 

「わ、たしはこの子……す、好きじゃない、けど、私を騙し、た……え、エキドナちゃんの、味方も、しな、しないよ?私を、だ、騙したり、嫌った、り……い、嫌なことをする人、を……『絶対に許さない』」

 

――最後の一言だけが、やけに明瞭ではっきり聞こえた。

それだけに、スバルはそれが一瞬、横にいる少女が口にしたものであるという事実を呑み込むのに時間がかかる。

それほど、今の一言だけが、少女のこれまでの雰囲気から乖離していた。

ただ、

 

「――――」

 

無言で、しかし決して目をそらさずに、エキドナを見つめているカーミラ。

その双眸に宿る、言葉にし難い感情の渦――自分への敵愾心、それに類する感情を向ける輩を決して許さないという、怨念じみた暗いものが渦巻いている。

自己愛の塊――ふと、そんな一文が脳裏をかすめた。

 

「必要な手段だったとはいえ、カーミラの意に沿わない行いをしたのは失敗だったというところか。君を敵に回すと、厄介なことこの上ないからね」

 

「み、んな、私の味方……だか、ら、私に嫌われると、ひどい……よ?あ、謝っても、許さない、から……」

 

気の弱さと好戦的さは、イコールで結ばれるものではない。

カーミラは引っ込み思案で、言葉を他者へ伝えることすら満足に行えないほど気の弱い性格だが――それと、敵意への抵抗力の高さは関係ないのだから。

 

「さっきから……さっきから、お前らは何の話をしてるんだ!」

 

そして、そんな魔女たちの険悪な空気に挟まれながら、これまで言葉の自由を封じられていたスバルが声を上げる。

魔女の三対の視線が自分に降り注ぐのを感じながら、スバルは懸命に首をめぐらせ、

 

「俺をそっちのけで話をするのもいい加減にしろ!俺が、俺が選ぶことだろうが!俺にわかるように話せ!エキドナは、何を隠してる!?お前たち二人は、何を知っていて俺を止めようとするんだ!」

 

「心が弱ってるにしても、思考停止して伸ばされた手にすぐ掴まろうなんて甘すぎ……そうさせるよう誘導してきたのが、あんたの用意周到なとこなんだろうけど!」

 

「人聞きが悪い。彼に誤解を与えてしまいかねないじゃないか。契約を結べば、ボクは彼と協力して必ず彼を、彼が求める最善の場所へと連れてゆく。ボクが求めるのはその過程で、彼が見るもの聞く音、知ることを知ってゆけることだ。何一つ、間違ったことを口にしてなどいない」

 

怒声を張り上げるスバルに、負けじと怒りで震える声を放つミネルヴァ。そんな二人の拙い言葉に、あくまで冷静さを保ったままのエキドナ。

そんなエキドナの、冷たさに徹した声音に、スバルもまた違和感を覚え始めていた。先ほどまでの熱に浮かされていたような状況を越えて、改めてエキドナの言葉を吟味する。態度を、そして二人の魔女が止める理由を。

何がおかしいのか。何もおかしなことは言っていない。嘘をつかれているわけではないことは、二人の魔女も認めている。ならば、どこに問題があるのか――。

 

「繰り返そう、ナツキ・スバル。君がボクを選び、ボクと契約をしてくれるというのなら――ボクは必ず、君を君の望むところまで連れてゆく」

 

「――最後には、って枕詞が必ずついてくる約束さね、はぁ」

 

こちらに手を差し伸べて、言い切るエキドナの言葉に重なるけだるげな声。

見れば、カーミラの対面に今度は赤紫の髪の毛のお化けが――地面に座り込み、自らの長い長い髪の毛に埋もれるように、『怠惰の魔女』が現出している。

もはや魔女が増えることにスバルの驚きはない。ただ、スバルが拾ったのは、

 

「最後、には……?」

 

「エキドナは、ふぅ。契約を必ず履行するだろうさ、はぁ。ただ、契約を履行したという事実だけ、ふぅ。きっちりと守れば過程は、はぁ。何をしてもいいだろう、ふぅ」

 

「何を、しても――」

 

セクメトが吐息まじりに繋げた言葉、それらと先ほどまでの違和感が結びつき、スバルの中で一つの仮説が思い浮かぶ。

しかし、その仮説は到底、受け入れ難いもので、スバルは愕然と顔を強張らせながら、三人の魔女の態度に瞑目するエキドナを見て、言った。

 

「エキドナ、お前は契約すれば……必ず、俺を最善の未来へ連れていくって、そう言ったよな」

 

「ああ、言ったとも。事実だ。間違いなく、ボクはその契約を果たすだろう。ボクの知識と、君の特性があればそれは必ず成し遂げられる」

 

そうだろう、それはきっと、正しく履行される契約のあり方だ。

エキドナの言葉にはそれこそ嘘はない。スバルは彼女と協力すれば、必ず全てを救い出し、未来へ辿り着くことができる。ただし、

 

「お前の協力で俺が最善の未来に辿り着くのは――最善の道を、通ってか?」

 

「――――」

 

「お前は俺が望む場所へ辿り着くために、本当に全力を傾けて、くれるのか?」

 

「――――」

 

「なんで、無言だ。答えろよ、エキドナ……いや、『強欲の魔女』!」

 

首を上にもたげて、スバルは喉を嗄らす勢いで声を上げる。

いまだ、地面に引き倒されたままで、関節は極められたままだ。だが、それを意に介することもせず、スバルは一心不乱にエキドナを睨みつけている。

そして、その鋭い視線を向けられるエキドナは、ふいに小さく吐息をこぼし、

 

「――最善の未来へ辿り着けるのなら、その道のりで出る犠牲は許容する。それが、君の覚悟ではなかったのかな、ナツキ・スバル」

 

「――――っ」

 

スバルの問いかけを、直接的に肯定するでも否定するでもない返答だった。

しかし、スバルは悟る。

 

今のエキドナの言葉が、決して先の疑いを晴らそうとするものではないことを。

それどころか、彼女は自分の考えを理解してもらおうというように腕を広げ、

 

「君が持つ特性、『死に戻り』はすさまじい権能だ。その有用さが、君は本当の意味で理解できていない。自分の望まない終わりを許容しない、何度でもやり直す、未来へ何度でも手を伸ばせる――それは、探究者にとって究極に近い理想だ。だって、そうだろう?本来、ある物事への結果というものは、一つの結果が出てしまったらそこから動かせないんだ。結果が出るまでの過程でならば、その結果がどうなるかについての仮説は様々なものが立てられる。こういったアプローチをすれば、あるいはこういう条件にしてみれば、様々な仮説や検証は可能だ。けれど、実際にその結果を出そうと実験に臨むとなれば、結果も試せる仮説も検証も、一つに集約されざるを得ない。まったく、本当の意味でまったく同じ条件を作り出すことは不可能なんだ。どんなに条件を整えたとしても、その時点とまったく同じ条件は絶対に作り出せない。あのとき、別のやり方をしていたらどんな結果が出ていたのか――それは、ボクたち探究者にとっては決して手を届かせることのできない、理想のその先にある夢想でしかない。『世界の記憶』を持つボクには、その答えを『知る』手段は確かにあるさ、あるとも。あるけれど、それを使うことを、用いることをボクはよしとしない。ボクは『知りたい』んであって、『知っていたい』わけじゃない。ひどく矛盾を生む、ボクにとっては忌むべき物体であるといえるね。話がそれそうだから本題に戻すけれど……そう、そんなボクたち、あるべき結果を一つのものとしか受け入れられない、観測手段を一つしか持たないボクたちからすれば、君という存在は、その権能は喉から手が出るほど欲しいものなんだ。『同じ条件』で、『違う検証』ができ、『本来の結果』とは『別の結果』を見ることができる、究極的な権能――これを、欲さずにいられるだろうか。これを目の前にして、あらゆることを試さずにいられるだろうか。もちろん、ボクとしても決して君にそれを強要するつもりなんてない。あくまで、君は君の目的のために、その『死に戻り』を大いに利用するべきだ。ボクもまた、君が求める未来へ辿り着くために最善を尽くそう。そして、その過程でできるならボク自身の好奇心を満たすことにも大いに貢献してもらいたい。これぐらいは望んでも罰は当たらないはずだ。君は答えを見られる。ボクは好奇心を満たせる。互いの利害は一致している。ボクだって答えを知っているわけではないから、わざと間違った選択肢に君を誘導して、その上で惨たらしい結末を迎えるような真似はできるはずもない。直面する問題に対して、最初から正しい答えを持たないという意味ではボクと君はあくまで対等だ。共に同じ問題に悩み、足掻き、答えを出そうともがくという意味では正しく同志であるというべきだろう。そのことについてはボクは恥じることなくはっきりと断言できる。検証する手段が増える、という意味でボクは君をとても好意的に思っているから、君を無碍にするような真似は絶対にしないと誓おう。もちろん、答えが出ない問題に直面して、ボクの協力があったとしても簡単には乗り越えられない事態も当然あり得るだろう。知識の面で力を貸すことができても、ボクは決して現実に干渉できるわけではない。立ちはだかる障害が肉体的な、物理的な力を必要とする問題だった場合、ボクは君の助けになることはできない。幾度も幾度も、あるいは数百、数千と君は心と体を砕かれるかもしれない。もしもそうなったとしても、ボクは君の心のケアを行っていきたいと本心から思っている。そこには君という有用な存在を失いたくないという探究心からなる感情が一片も混じらないとは断言できない。けれど、君という存在を好ましく思って、君の力になりたいとそう思う気持ちがあるのも本当なんだ。だから悪いようには思ってもらいたくない。繰り返しになってしまうが、ボクは君の目的に対して有用な存在だと胸を張れる。そう、ボクがボクの好奇心といった強欲を満たすために、君の存在をある意味では利用しようと考えるのと同じように、君もまたボクという存在を君の『最善の未来へ至る』という目的のために利用したらいい。そうやって都合のいい女として、君に扱われるのもボクとしては本望だ。それで君がやる気になってくれるというのなら、ボクは喜んでボクという存在を捧げよう。貧相な体ですでに死者であるこの身を、君が望んでくれるかは別としてだけどね。おっと、こんなことを言っては君の思い人に悪いかな。君の思い人――銀色のハーフエルフ、そして青い髪の鬼の少女。そう君が必ず助け出すと、守ってみせると、心で誓い行動で示している少女たちだ。二人に対して、そんな強い感情を抱く君の心のありように対するボクの考えはこの場では述べないこととして、しかし純粋に君の前に立ちはだかる壁の高さは想像を絶するものであると断言しよう。現状、すでにわかっている障害だけでどれだけ君の手に負えないものが乱立していることか。それらを一人で乗り越えようとする君の覚悟は貴く、そしてあまりにも悲愴なものだ。ボクがそんな君の道筋の力になりたい、なれればと思う気持ちにも決して偽りはない。そして、君はボクのそんな気持ちを利用するべきなんだ。君は、君が持ちえる全てを、君が利用できる全てを利用して、それだけのことをして絆を結んだ人々を助けなくてはならない。それが君が君自身に誓った誓いで、必要なことであると苦痛の道のりの上で割り切った信念じゃないか。だからボクは君に問う、君に重ねる、君を想おう。君が自分の命を使い捨てて、それで歩いてきた道のりのことは皮肉にもつい今、第二の『試練』という形で証明された。あるいはあの『試練』は、君にこれまで歩いてきた道のりを理解させるためにあったんじゃないかとすら錯覚させるほど、必要なものにすら思える。確かに必要のない、自覚することで心がすり減る類の光景であったことは事実だ。でも、知らなかった状態と知っている状態ならば、ボクはどんな悲劇的な事実であったとしても後者の方を尊く思いたい。君はこれまで、そしてこれからも、自分の命を『死に戻り』の対価として差し出し、そして未来を引き寄せる必要があるんだ。そのために犠牲になるものが、世界が、こういった形で『あるのかもしれない』と心に留め置くことは必要なことだったんだ。いずれ、自分の命を支払うことに何ら感傷を抱かなくなり、人間的な感情が希薄になって、大切な人たちの『死』にすら心を動かさなくなり、無感動で無感情で無気力な日々に沈み、最善の未来へ辿り着いたとしても、そこに君という存在が欠けた状態で辿り着く――そんな、徒労感だけが残る未来へ辿り着かないためにも、必要なことだったんだ。そう、世界の全てに無駄なことなんてものはなく、全ては必要な道行、必要なパズルのピースなんだ。それを理解するために『試練』はあった。君が今、こうして足を止めてしまっている理由に、原因にもっともらしい意味をつけて割り切ることが必要なら、こう考えるといい。そして、ボクは君のその考えを肯定する。君が前へ進むために必要な力を、ボクが言葉で与えられるのならどんな言葉でもかけよう。それが慰めでも、発破をかけるのでも、愛を囁くのでも、憎悪を掻き立てるものであっても、それが君の力になるのであればボクは躊躇うことなくそれを行使できる。君はそれを厭うかもしれないが、君のこれからの歩みには必ずボクのような存在の力が必要なんだ。君がこれから、傷付くことを避けられない孤独の道を歩んでゆくというのなら、その道のりを目を背けることなく一緒に歩ける存在が必ず必要なんだ。そしてその役割をボクならば、他の誰でもなく、このボクならば何の問題もなく一緒に歩いていくことができる。繰り返そう、重ねよう、何度だって君に届くように伝えよう。――君には、ボクが必要なはずだ。そして、ボクには君が必要なんだ。君の存在が、必要なんだ。ボクの好奇心はもはや、君という存在をなくしては決して満たされない。君という存在だけが、ボクを満たしてくれる。ボクに、ボクの決して満たされることのない『強欲』に、きっと満足を与えてくれる。君の存在はもはやボクの、この閉ざされた世界に住まうボクにとっては欠かせない。君が誰かの希望でありたいと、世界を切り開くために力を行使するのであれば、ボクという哀れな存在にそのおこぼれをいただくことはできないだろうか。ボクは君がその温情をボクに傾けてくれるというのなら、この身を、知識を、魂を、捧げることを何ら躊躇いはしない。だからお願いだ。ボクを信じてほしい。こうしてこれまで本心を伝えようとしなかったのは、決して君を騙そうとしたりだとか、隠し立てをしようとしていたわけじゃない。時期を見計らっていただけだ。今、この瞬間に本心の欠片を訴えかけていたとしたら、きっと君はボクから離れてしまったことだろう。ボクにとってそれは耐え難い損失なんだ。もちろん、それは君にとっても、求める未来を遠ざけるという意味で正しく損失というべきだろう。いずれ、君は『死に戻り』という特性上、きっと求める未来へ辿り着くことだろう。けれど、その辿り着ける未来に対し、君が支払う代償は少ない方がいいに決まっている。ボクは、ボクならばそれを軽減することが可能だ。最終的に求める結果に辿り着ければいい、などと大目的を理由に小目的を蔑ろにするような、人でなしな考えをするとは誤解しないでほしいんだ。確かに誘惑に駆られて、こうした場合の結果を見たいがために、最善の道行きに必要な要素に気付いていながら言葉にしない――というような行いを絶対にしないと断言できるほど、ボクはボクの欲望を抑制できていない。そのことは認めよう。けれど、誤魔化しはしない。もし仮にそんな信頼に背くような行いに手を染めるようなことがあれば、それを隠すようなことだけは絶対にしない。必ず打ち明ける。そして、失った信頼に応えられるよう、何度でも君のために力を尽くそう。どんなことがあっても、必ずボクは君を君が望む最善の未来へ送り出す。絶対に、絶対にだ。だからそのために必要な手段であると割り切って、ボクを選んではくれないだろうか。ボクが君に望み、君に求める要求は契約の際に述べたこと通りだ。あとは君が、君自身が、欲しいと欲する願いに対してどこまで身を切れるか、という話になってくる。ボクの覚悟は今述べた通りだ。あとは、君の覚悟を聞きたい。君の方こそ、ボクとの契約を交わし、ボクの協力を得て、その上で必ず未来へ辿り着くのだと、その気概があるのだとボクに証明してみせてほしい。それができてこそ初めて、君は第二の『試練』に打ち勝ったと胸を張って言えるんだ。第三の『試練』に進み、そしてそれを乗り越えて『聖域』の解放を果たす。今後、『聖域』と君の思い人、そして大切な人々に降りかかる災厄を思えば、これは越えなくてはならない正しく『試練』なんだ。それを乗り越える力が、覚悟が君にあるのだと、ボクに教えてほしい。そしてその上で、ボクを奪って、ボクの知識を利用して、その先にあるものを得ていこう。ボクが君に望み、君に求め、そして代わりに君に差し出せるものは以上だ。ボクは真摯に、正直に、全てを打ち明けたつもりだ。その上で、君がどういった判断をするのか――それを、ボクに教えてほしい。ボクという存在の、好奇心の一端を満たすためにも、ね」

 

――エキドナが、そうして可愛らしく微笑んだ。

 

白い、雪のような髪の毛を揺らして、頬を熱情にうっすらと赤らめて、スバルの答えを待つように、上目遣いにこちらの様子をうかがっている。

震える睫毛が反応に怯えていて、不安で仕方ないというように胸に当てられた指先が忙しなく動いている。唇は幾度も、言葉を紡ごうとしては躊躇い、舌先でそれを湿らせるだけにとどまっていた。

 

上を見る。スバルを拘束している、ミネルヴァと目が合った。

ミネルヴァはスバルと顔を見合わせると、小さく吐息する。そして、それまでいっこうに解放しようとしなかったスバルの腕を解放する。肩の拘束を外されて自由になり、腕を回してスバルは立ち上がる。

ミネルヴァの言葉通り、肩の軋みは解消。それどころか、軽く突っ張られていた腰や他の部位の疲れまで抜けているような実感があった。『憤怒の魔女』の権能、恐るべき癒し効果といったところか。

 

「――――」

 

体の各部を回し、感覚を確かめながらスバルは頭を整理する。

今、聞かされたばかりの、隠し立てのない、エキドナの本音という本音を。

 

「エキドナ」

 

「なんだい?」

 

「お前は……俺を、利用するのか?」

 

利用する、される。それはエキドナの今しがたの言葉の中で、何度も繰り返された言葉だ。それを受け、エキドナは躊躇いなく頷く。

 

「するよ。君も、ボクをそうするといい。契約は、互いにその理を違えないための予防線といったところだ。君という存在を手放さないために、使えるものは何でも使おうという、ボクの考えを責めるというのなら甘んじて受けよう」

 

「考えない、わけじゃなかったさ。極端なこといえば、利害関係ってのはそういうもんだってことぐらい、わかってる。お前が百パーセント、善意だけで俺を助けてくれるってことは……期待してても、そうじゃない現実を受け止める覚悟ぐらい。でも」

 

エキドナの前で、スバルは掌で顔を覆って上を向いた。

 

「いくらなんでも、それはねぇだろよ……」

 

「それ、とは?」

 

「ここまでのお前の行動の全部が、今の俺には色褪せて見えるんだよ。お前がこれまで、俺に対して好意的に接してくれた全部が、俺がお前のことを悪い奴じゃないんじゃないかって、そう信用し始めてた気持ちが……全部、色褪せて」

 

初対面のときから、今この瞬間まで積み上げてきたものが音を立てて崩れ落ちる。

出会いの茶会、『試練』に臨んだ場面、そして現実に阻まれ、何度も彼女の知恵に、言葉に縋った時間。契約を交わそうと、それをしても後悔しないと思った時間。

――それらが全て、無情にもナツキ・スバルの愚かさを嘲笑っていく。

 

「最初から、そのつもりだったのか」

 

「君が何を問題にしているのかがよくわからないな。結果的に最善に辿り着けるのなら、そこまでの道程は割り切る――そう、決めたはずじゃないのかい?君自身、それを肯定し、ボクもそれでいいと背中を押したはずなんだが……」

 

「そうやって俺が割り切る……割り切れてねぇけど、そういう方向に仕向けたのも、お前の目論見通りなんじゃないのかって……そう、言ってんだよ」

 

「勘違いしないでほしいんだが、君のその結論はあくまで君が出したものだよ。ボクがしたことは、君が出す結論のほんのささやかな後押しさ。そうやって自分の出した言葉の結論を、その責任の所在を他者に求めるというのはさすがに感心しない。感心しないし、それを引き受けるほどボクもお人好しではない」

 

唇を尖らせて、まるで拗ねたような顔つきで抗弁するエキドナ。その感情表現の幼さというか、場違いさにスバルはこれまでにも感じてきた違和感をさらに強く感じる。

それはなんというべきか――感情の多寡の、ちぐはぐさだ。

 

エキドナの感情表現は間違っていない。疑われれば憤慨し、嬉しいことがあれば微笑み、悲しいことには悲痛な面差しを覗かせる。それは正しい、間違っていない。

そのはずなのに、感じる違和感、生じる不信感。この答えは――。

 

「お前の態度は全部、真剣味がない、上っ面なもんなんだ」

 

「――――」

 

「喜ぶことも、怒ったときすら、お前の感情表現は幼稚で薄っぺらい。今だって、激昂するどころか拗ねた顔をしただけだ。懐が大きいとか、そんな問題じゃねぇ。お前のその態度は……これまでの態度は、おかしい。俺は、軽々しくて受け入れやすい、そんなお前を、付き合いやすい奴だなんて思ってたけど……」

 

「――――」

 

「実際には違う。お前は――お前は、他人の感情が理解できない奴なんだ」

 

エキドナの、これまでの振舞いが思い出されて、全てがセピア色になる。

好ましいと思ってきたそれぞれの態度が、薄っぺらな情動表現の賜物だったのであると、そんな風に感じてしまったら、これまでの触れ合いが全て色褪せて思えた。

 

そして、そんな辛辣な言葉を浴びせられているのに、エキドナの表情は先ほどの拗ねたものから変わらない。それ以上の、不快を示す感情表現を知らないように。

 

「ここも、怒っていい場面なんだぜ」

 

「……そうか、ここでボクは声を荒げて、罵声を浴びせるべきなのか。なるほど、勉強になったよ。次の機会があったとしたら、そうさせてもらうとしようか」

 

スバルの言葉に、エキドナから表情が消えた。

無表情――それは、これまでのエキドナを知るスバルの見たことがない、初めて見る『強欲の魔女』の姿だった。

 

押し黙るスバルの前で、エキドナが掲げた指を鳴らす。すると、破壊されたはずの丘が復元され、砕け散ったテーブルが、吹き飛んだ椅子が形成され直す。

エキドナはその椅子の一つに腰掛け、対面の椅子を手で指し示し、

 

「座ったらどうだい?契約について、細かいすり合わせがしたい」

 

「……この状況で、俺がまだお前との契約に前向きに臨むと思うか?」

 

「まさか、少しの意見のすれ違いでワタシを拒絶すると?そんなことをして、いったい何の意味があるんだい?一時の感情に押し流されて、正しい選択を見失うのは賢いとは言えないな。現実を見て、合理的な考えを選ぶことをお勧めするよ」

 

感情の凍えたエキドナの言葉に、スバルは瞑目して息を殺す。

エキドナの言葉は、正しい。スバルの方が癇癪を起こしているのだと、そう言われても仕方がない。筋は通っている。嘘も、ついてはいない。

エキドナはあくまで、スバルに真意を隠していただけだ。スバルの道行、その過程で得られる自分の利益について、沈黙を守っていただけのこと。

契約を結べば、おそらく、スバルは正解の道へと辿り着ける。エキドナがその協力を惜しまないことも、事実には違いない。

 

「一つだけ、お前に会えたら聞きたいことがあったんだ」

 

「――ふむ、なんだろうね」

 

「その答えが聞けたら、俺は選べそうな気がするんだ」

 

エキドナが、スバルの差し出す問いかけを待っている。

そんな彼女に、スバルは試金石として問いかけを持ち出す。それは、スバルがこの『聖域』を発端としたループの中で、いまだ答えを欠片も見出せずにいる答えの一つで、決して彼女とも無関係でない問いかけで。

 

「――ベアトリスを、知っているな、エキドナ」

 

「……ああ、知っているよ。あの子の生まれた過程に、ワタシは深く関わっているからね。あの子が、どうかしたのかい?」

 

エキドナの無邪気な返答。何の含みもない、疑問を孕んだ答えだ。

スバルは目をつむり、脳裏に縦ロールの幼い少女を思い描く。

 

スバルにとって、少女の最後の姿は、背後から貫かれて消える瞬間だ。

その寸前の、彼女の抱えてきた長い長い孤独な時間、そこから生まれた闇をぶつけられたときのことも、ずっと心に重くしこりを残していた。

スバルを突き飛ばし、凶刃から守り、最後の瞬間に浮かべた表情――それが今も、目に焼き付いて離れない。だから、

 

「ベアトリスは契約で、『その人』がくるのをずっと待ってる。その契約は、お前と結んだものか?お前が、あいつを屋敷に縛り付けてるのか?」

 

「場所を指定した覚えはないが……禁書庫を守り、迎えがくるまで待つように約束をしたのは確かにワタシだね」

 

「だとしたら、『その人』ってのは誰だ?どうしたら、あいつを解放してやれる?」

 

四百年という孤独の中で、ベアトリスはずっと『誰か』の存在を待っていた。

その『誰か』が誰であったのか、それはベアトリス自身にもわかっていない。スバルにも、糸口すら見つからない。

だが、その『誰か』との約束を取り付けた、エキドナ自身から答えが聞ければ――。

 

「いったい、誰なんだろうね?」

 

「――は、ぁ?」

 

「いいや、冗談でもなんでもなく、本心からそう思うよ。君は、ベアトリスが待つ『その人』というのは、誰のことなんだと思う?」

 

エキドナは、まるで答えを知らない問いかけを持ち出されたように、スバルにそう応じる。その態度にスバルは呆然とし、それから頭を振って、

 

「お前も、そのベアトリスの待ち人が、誰なのか知らないのか?」

 

「うん、知らないよ。ベアトリスが待つ、『その人』が誰なのか、ワタシは知らない」

 

「なん、でだ?ベアトリスに禁書庫で待てって、そう言ったのは、お前なんだろ?そのお前が知らない……まさか」

 

ベアトリスに禁書庫で待つように指示したエキドナと、『その人』が訪れるまでと期限を設けたのは別人ということなのか。

だとしたら、その答えを知る人物はまた別のところに――。

 

「違うよ、それは間違いだ」

 

「――――」

 

「ベアトリスに、『その人』を待つように指示したのはワタシだ。それは間違っていない。間違っているのは、もっと根本的なところだよ」

 

「根本的、な?」

 

「ワタシがいったい、何の理由があってベアトリスにそんな契約を結んだのか。そのことを思い違いしているんだ。君は、ワタシが禁書庫の内容を『その人』に渡すために、そのためにベアトリスに守らせているんだと、そう思っているんじゃないかい?」

 

エキドナの言葉の意味がわからない。

当然の考え方だろう。何か、物を渡すように誰かに指示を出すのだ。当然、その受け渡しが行われることが、その指示の真意であるに決まっている。

 

しかし、そんな当たり前の思考をするスバルに、エキドナは首を振り、言った。

 

「ワタシのベアトリスへの指示はそうじゃない。ワタシは『その人』を待つようにあの子と契約を結んで……あの子が、誰を『その人』に選ぶのか、その結果を待っているんだ」

 

「――――」

 

――――。

 

――――――。

 

――――――――――――。

 

――――――――――――――――――――なに?

 

「あの子はね、とある目的のために生み出された子だ。けれど、その本来の目的とは違った形で生かす必要ができてね……そのためにここから遠ざけられたんだけど、その際に目的を与える必要があった。何もない空っぽなあの子に、生きる目的を与える意味でも、それが必要でね。だからワタシは、あの子と契約を結んだ」

 

「――それ、が」

 

「禁書庫の維持と、いずれ来る『その人』へ全てを譲渡すること。制限は設けなかった。もともと、正しい答えのない条件だからね。あの子は予定通りに生かされ、そしてワタシはそれとは別の探究の答えを見ることができる。とても、合理的じゃないかい?」

 

「――――」

 

「もちろん、選ばずに四百年を過ごしてきたことも一つの結果だ。日々の中で出会った誰かの中で、安易に『その人』を選ばなかったこともそう。あるいは契約を破るか否かまで悩んで、自分の『死』を望むということすらも一つの結果だ」

 

「お前は、それを、どう思ってるんだ?」

 

「――?素晴らしいと、そう思っているよ?」

 

まるで、当たり前のことを聞かれたように、悪びれずにエキドナが首を傾ける。

その答えと、態度と、スバルの脳裏に浮かぶ少女の表情が、答えを出した。

 

決めた。わかった。はっきりと、理解した。

――ここがどこで、相対する人物が、いったい誰だったのか、勘違いが正せた。

 

「エキドナ……お前は、魔女だ」

 

「――――」

 

「人知を越えた、理解のできない、怪物だ」

 

「――――」

 

伝える。胸の内に、出た答えを。

とりかけた手を引っ込めて、その手を誰に伸ばすのかを、今度こそ決める。

 

「俺は……俺は、お前の手は取れない。取る手は、もう決めたんだ」

 

「――――」

 

「お前が無邪気に、悪意もなく、縛り付けた言葉に四百年も時間を奪われた子がいる。――決めたよ。俺は、あの子の手を取る。お前とは、行けない」

 

決別を告げる。

一度は、一緒に歩いていけるのではと、そう思った相手の手を振り払う。

 

顔を上げた。前を見た。

スバルの瞼の裏には、最後の瞬間の、少女の表情が浮かんでいた。

 

――消えることを、死にゆくことを、恐れて、泣きそうに顔を歪めながら、それでもスバルを守れたことに、安堵を瞳に宿していた少女を。

 

スバルの『死』を、悼んでくれた少女の手を取ることを、スバルは決めた。

 

「――――」

 

エキドナが目を細める。

何事か、スバルの決断に対して言葉を投げかけるつもりで、思考が双眸を走る。

 

だが、それより先に、変化が訪れた。

 

「――――きたわ」

 

「やだ、もう……わ、たしは、関係ない……か、らね」

 

「面倒なところで、面倒な奴が、面倒にしにきたもんさね、はぁ」

 

傍観していた魔女の三人が、それぞれの感慨を口にする。

そして、背後に圧迫感。

正面から、スバルの背後を見ていたエキドナの目が軽く見開かれる。スバルはその彼女の驚きに従い、振り返って、それを見た。

 

「――――」

 

そこに、首から上を漆黒の闇で覆った、『嫉妬の魔女』が立っていた。