『――お初にお目にかかる』
――『神龍』ボルカニカは長年の放置により、その精神の『死』を迎えていた。
有体に言えば、長い時間放っておかれてボケてしまったということだ。
「でも、そんなお年寄りみたいなことじゃ困るの!ねえ、ボルカニカ!」
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
「もう!全然ダメ!」
前足を叩いて必死にエミリアが呼びかけるが、返ってくるのは硬い鱗の感触と、それ以上に強固に思われる忘却という精神的な障壁だ。
レイドのように、死者が当時の状態で蘇る『試験』もなかなか難題だったが、今思えばそちらの方がよほど可愛く思えてくる。
まさか、あの乱暴者のレイドが可愛く思えるなんて冗談のような話だったが――、
「レイドは話も通じたし、何をしたらいいのか教えてくれたけど……」
ボルカニカはそうではない。
一層の『試験』を突破しなくてはならないエミリアにとって、出題者がボケてしまっているというのは最悪もいいところだった。
一刻も早く、スバルたちのところへ朗報を持ち帰らなくてはならないのに。
「うう……どうしようどうしよう、どうしたらいいの……。まさか、レイドみたいにボルカニカをやっつけたらいいって話じゃないだろうし……」
仮にそうだとしても大変な『試験』であることが予想されるが、三層と二層の試験内容の違いがエミリアのその考えに待ったをかけた。
三層『タイゲタ』の試験は、出題された問題を頭を使って解くことが必要だった。
それは幸い、スバルが大瀑布の彼方の知識を持ってくれていたおかげで解くことができたが、それがなかったらとても大変だっただろう。
そして、二層『エレクトラ』の試験は、ご存知、レイド・アストレアが障害だった。
あれだって、エミリアは何とか頑張ってレイドの頭をごつんとやれたから勝てたが、一度目の挑戦だったから成功したという向きもある。
いずれにせよ、三層も二層もギリギリの辛勝だったことは疑いようがない。
だから、普通に挑むだけでも十分大変だというのに――、
「その問題も出してもらえないなんて……」
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
「もう!わかったってば!その先を聞かせてほしいのに!」
何度か試したらその先を話してくれるのではと期待するが、それを試すための時間が惜しい。
エミリアは地団太を踏みたい気持ちを堪えながら、周囲に視線を巡らせた。
三層の『試験』は白い部屋で、出題してくれる黒い石板――スバルとユリウスがモノリスと楽しそうに呼んでいたモノがあった。
ひょっとすると、ああしたモノがこの一層にも隠されているかもしれない。
ボルカニカが当てにならない以上、問題は自力で探すのが得策だ。
「今の私にできることを全部やらなくちゃ……!」
ボルカニカの動向に常に気を払いつつも、エミリアは一層の調査に走り出した。
まず、一層はプレアデス監視塔の最上層――下からでは高すぎて見えないような位置に存在している。空間には周囲に六本の柱と、中央に巨大な柱が一本――ボルカニカは中央の柱にもたれるように蹲っていて、空間の広さは半径百メートルぐらいだろうか。
二層と比べてもかなり広い空間に感じられるが、巨躯のボルカニカの存在が実際の広さの感覚を狂わせる部分があった。
「下は……見えないようになってる?」
一層の周辺を取り巻く柱の一本に掴まり、エミリアは眼下を確認する。
塔内や地上、そこではスバルやラムたちが奮戦してくれているはずだが、分厚い雲が視界を遮ってしまい、その下を確認することができない状態だ。
あるいは雲の中へ飛び込めば、仲間たちとの合流も可能に思われるが――、
「そんな風に、外からズルして登るのは怒られる気がする……ううん、そもそも、私が一生懸命走ったくらいで、雲の上になんてこんなに早くこられない」
運動神経は悪くないつもりだが、エミリアも雲や空がどれだけ高いところにあるのかは知っているつもりだ。
小さい頃、手を伸ばしても雲は掴めなかったし、小さくなかった頃に試してもそれは同じだった。ラインハルトぐらいになれば、もしかしたら雲まで飛び上がることまでできるかもしれないが、エミリアにそこまでのことはできない。
だから、不思議な力が働いて、エミリアは塔の頂上へやってきたはず。
「それなら、やっぱり『試験』はこの場所になくっちゃおかしいわ!」
自分の考えに勇気づけられ、エミリアは六本の柱を見て回り、叩いたり、よじ登ろうとしたりしてみる。しかし、それらしい現象や文字はとんと見つからない。
あと、可能性があるとすれば――、
「――ボルカニカがくっついてる、真ん中のおっきい柱」
周りの柱に何もないのであれば、最も可能性が高いのは中央の大きな柱だ。
他の六本と違い、その柱だけ一層のさらに上へと伸びている。――あるいは一層よりも上の、零層とでもいうべき場所がそこにあるのか。
そこになら、何の変化も起きないこの場所を変える手立てはあるように思える。
ただし――、
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
その柱を調べるためには、同じ言葉を繰り返すボルカニカを回避できない。
「――――」
一層の『試験』へ挑む覚悟は決めたが、ボルカニカへ挑むのとはまた話が別だ。
その緊張感を維持したまま、エミリアは中央の柱へ、ボルカニカへ近付く。
「ボルカニカ、『試験』は何をしたらいいの?」
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
ボルカニカからの答えは変わらない。
そのことに落胆や失望よりも、エミリアは逆に安堵の方を覚えた。ボルカニカの反応が変わらないのであれば、前足に触れたときのようにこちらには無関心のはずだ。
そう信じて、エミリアはボルカニカと反対へ回り込み、その太い柱を調べようと――、
「――え」
柱に触れようとした瞬間、エミリアは風の音を聞いた。
それが何なのかを確かめるより早く、エミリアの本能が頭上に氷壁を作り出す。刹那、衝撃が氷壁越しにエミリアを打ち、細い体が大きく弾かれた。
「かふっ」
背中から胸へ突き抜ける衝撃、一層の床を激しく転がってエミリアは咳き込む。そのままの勢いを床に手をついて止め、何とか吹き飛ぶ体を制動した。
いったい、何があったのかと、エミリアはゆっくり顔を上げて気付く。
――柱に寄りかかる『神龍』の尾が、ゆっくりと床へ下ろされるのを。
「……尻尾で、叩かれた?」
言葉にしてみれば、それは実に単純な一撃だった。
龍が尾を使って感情表現をするのは、スバルとパトラッシュの間柄でもよく起きる。スバルが悪ふざけをすると、ラムかパトラッシュが競い合うように叩くからだ。
しかし、ボルカニカの尾の一撃は、そんな一人と一頭の愛情表現の比ではなかった。
とっさの防御が働いたからこの程度で済んだが、エミリアの反応が遅れていれば首が折られていたか、頭が吹き飛んでいてもおかしくない一撃だ。
それも、ボルカニカにとっては曖昧な意識の状態で虫を払ったに等しい挙動。
それはまるで、巨大な生き物の足下で翻弄される小虫のような扱われ方だった。
「――――」
その事実を理解し、エミリアのうなじや背筋をゾッと冷たい汗がなぞった。
だが、それは同時に一つの可能性をエミリアに浮かび上がらせる。
「やっぱり、その柱に何かあるんでしょう」
『――――』
「あなたは『試験』のためにここにいるんだもの。それは、『試験』のことを忘れちゃった今でも忘れてない。だから、同じことを繰り返し説明してるんだわ」
やるべきことを忘れてしまったように見えるボルカニカ。
それでも、『神龍』がこうしてここに居座っているのは、その精神が『死』を迎える前に交わした約束事を守る意志が、それだけ強固だった証だ。
『賢者』と『剣聖』、そして『神龍』がそれぞれ知恵や力、志を試すために。
それならば――、
「――中途半端な気持ちじゃダメね。私も、本気でいくから」
相手の妨害があることを前提で、エミリアも実力行使を宣言する。
途端、エミリアの周囲の大気が悲鳴を上げ、ゆっくりと世界が凍て付き始めた。まるでエミリアを女王として付き従うように、次々と生まれ出でる氷の戦士――それは、アイスブランド・アーツからさらに発展した、エミリアの新しい可能性。
狭い監視塔の中では試すこともできなかったが、この広さと相手ならば、容赦は無用。
スバルには教えていないから、名前は付けてもらえていない。
故に、エミリアが命名する。
「氷の兵隊さんと、アイスブランド・アーツ……!」
生み出される七人の氷の戦士、人型を象ったそれらは各々の武器を構えて、エミリアと共に死地へ挑む勇敢なるお供――、
「――いくわ、寝坊助さん!起きるなら、きっと早めに起きてね!」
言いながら、氷の武装を構えたエミリアが、氷の戦士と共にボルカニカへ迫る。
それを、感情の読み取れない瞳で睥睨しながら、ボルカニカは口を開く。
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
その意識は、なおも変わらぬ茫洋の彼方へと埋もれたまま。
△▼△▼△▼△
――同時刻、自らの力を超える強大な敵へ挑むのはエミリアだけではなかった。
痴呆の『神龍』と戦うエミリアより一段下層、二層『エレクトラ』で行われている剣士のぶつかり合いもまた、その激しさを増している。
ただし、一方的である事実は揺るがぬままに、だ。
「オラオラオラオラ、どうしたどうしたどうしたぁ!こちとら、箸一本減らされて片手だけになってンだぞ?それでも届かねえンなら、オメエ、これが遊びでなくてなンになるってンだ、オメエ、オメエ、オメエよぉ!」
「ぐ……っ!」
豪快な罵声を浴びせながら、赤い長髪を躍らせる男が強烈な蹴りを放つ。
それを手にした騎士剣の柄で受け、優美な横顔の騎士は自ら大きく後ろへ飛んだ。衝撃は殺せない。散らすだけだ。そして、それが散り切る前に次がくる。
幾度も幾度も、その繰り返しが二層の戦場では行われていた。
そして、これも幾度目になるか、騎士が剣士の一撃に吹き飛ばされ、大きく後ずさったところで、「ったくよ」と剣士が吐き捨てた。
「気分が変わりゃあ剣も変わる。オメエにはその爆発に期待してンだぜ?だってのに、いったい全体いつになったら変わンだよ、オメエ。それとも……」
そう言って、赤髪の剣士――レイドが首をひねりながら唇を曲げる。
盛大に、相手を見下すように嘲弄する姿勢で、稀代の剣士は相手する騎士を睨みつけ、
「お行儀に拘って負けンのか、オメエ。それで満足かよ、オメエはよ」
「――ずいぶんと、好き放題に言ってくれるものだ」
そのレイドの物言いに、言われ放題だった騎士が唇を緩める。
あくまで騎士は粛々と、蹴りを受けて痺れる騎士剣の感触を確かめながら、鋭いレイドの視線を真っ向から受けて立った。
名無しの騎士を返上し、運命に抗うことを決めたユリウス・ユークリウスが。
「あなたは幾度も、私にそうした言葉を投げかける。面白みのない戦い、お行儀のいい剣技、遊びが足りないとも……私も、身に覚えのある言葉だ」
「ハッ、だろうよ。オレほどじゃねえにしても、誰の目から見てもおンなじように感じるンだろうぜ。オメエの剣にゃ、必死さしかねえってな」
「……必死さ、か」
レイドの放言は、崇高な考えから吐き出されたものではないだろう。
おそらく、彼は思ったことを思うがままに述べているだけ。それが本質を捉えているのは、わざと片目を覆ってなお、あの青い瞳には全てが透けて見えるから。
彼にはユリウスの、地金の上を覆った薄っぺらい理想が見えるのかもしれない。
「――――」
ちらと背後を見れば、ユリウスとレイドの戦いを見守る女性の姿がある。
ユリウスにとって、今や世界で最も尊ぶべき存在である女性の現身、しかし、その中身を別人へと違えた女性だ。
不可抗力とはいえ、あの水門都市で起きた出来事から約二ヶ月――何とも、自分たちは空虚な主従関係を続けてしまったものだ。
「思えば、私も君も、もっと自分の胸襟を開いて話し合うべきだったろうね」
「ユリウス……?」
「もしそれができたなら、君とはいい友人になれただろう。お互いに、同じ女性を大切に想い、憧れることができたのだから」
思いの丈を口にして、ユリウスは再び『剣聖』へと挑む。
レイドは右手一本に短く細い箸を構え、前進するユリウスを正面から迎え撃った。
切り払い、刺突し、振りかぶり、振り下ろし、連撃を叩き込む。
時に剣の柄や、足捌きによる虚実を織り交ぜながら仕掛けるユリウス、それをレイドは本気でさえないような態度で易々と防ぎ切る。
「まーたこれかよ。これじゃ通用しねえって何度も言わせンじゃ……」
「たとえ!つまらないと言われようと、これが私の剣だ!」
「っとぉ!」
欠伸まじりの採点を咆哮で打ち消し、ユリウスの剣撃にレイドが蹴りを合わせる。
その蹴りに姿勢を崩され、隙を見せたユリウスへとレイドの箸撃が斜めに入る――瞬間、ユリウスは羽織ったマントを翻し、とっさにその後ろへ身を隠した。
「へえ」
と、その動きにレイドが嗤い、マントごと向こうのユリウスを両断せんとする。
だが、箸撃の威力にマントが吹き飛んだときには、すでにユリウスは真後ろへ水平に飛び、箸の殺戮範囲からは逃れていた。
「おおし、そいつだ!」
「いいや、違う!」
「ああン?」
白い装いを目くらましにし、正道をかなぐり捨てる戦いをレイドが称賛。だが、ユリウスはその称賛を即座に切り捨て、吹き飛んだマントへ駆け寄った。
そして、箸撃に破られたマントを拾い、再び自らの体に纏う。
留め具をしっかりと留め、白い制服に白いマントを羽織り、騎士を体現する。
名無しであることはやめても、騎士であることはやめない。
そう示すようなユリウスの態度を見て、レイドはまたしても不機嫌に舌打ちした。
「オメエよ、オレはさっきの激マブと後ろのマブがきたとき、オメエが変わるってのに期待したンだぜ?なりふり構わねえで勝ちにくる。そういうオメエが見れるってよ。オメエ、自分のことがわかってねえンじゃねえか?」
「――――」
「騎士なんてかしこまったフリしちゃいるが、オメエの中身はそれじゃねえだろ。オメエの中身は、オレと変わらねえ『棒振り』だ。窮屈で見てられねえよ、オメエはよ」
ユリウスに箸を突き付け、レイドが渋い顔をしながら吐き捨てた。
そのレイドの発言を聞いて、ユリウスは瞑目する。そして、しばらくの沈黙を経て、一言だけ「そうか」と呟いた。
「ようやくわかった気がする」
「ああ?何がわかった?」
「あなたが、どうして私にこうも執拗なのかが、だ」
苛立ちながらも、ユリウスに対して言葉をかけるのをやめないレイド。
その方法は乱暴で、当人にそんな意図は全くないだろうが、それはまるでユリウスを教え、導こうとする先達のそれだ。
そうまでして、レイドがユリウスを引きずり回す理由にようやく合点がいった。
「――あなたは、私に自分と同じモノを見ていたのか」
つまらない戦い方、お行儀のいい剣技だと幾度もユリウスを嘲笑ったのは、そのユリウスが被った殻の内側に眠れる獅子が隠れていると考えるから。
それが獅子であるなどと、ユリウス自身は過大評価もいいところと思うが――、
「細けぇことは知らねえよ、青びょうたンが。オレぁオレのやりてえようにやるだけだ。そのオレの感が言ってやがンだよ。オメエは、一皮剥けた方が面白ぇってな」
「――――」
「だから、剥いてやろうってしてンだ。オメエも、わかってンだろ?そのまンまじゃ、オレには届かねえし、後ろのマブにいいカッコもできねえってよ」
顎をしゃくったレイドにエキドナを示され、ユリウスは苦笑する。
本当に、レイドの目は大したもので、よく見えていると。
――ユリウス・ユークリウスが、見栄を張りたいだけの男だと、よくわかっている。
「だからこそ、私は私であることを曲げない」
「ンだと?」
「あなたの言葉は正しいのだろう。思い当たる節は多くある。……誰もが私を忘れた世界では語ることもなかったが、私はユークリウス家の嫡子ではなくてね」
顔をしかめたレイドや、気丈に前を向くエキドナに聞こえるように話し始める。
ユリウス・ユークリウスの、もはやナツキ・スバルしか覚えていない歴史を。
「貴族の家を出奔した父は平民の母と結ばれ、二人の間に私は生まれた。だから、私の出自は平民のそれだ。父母が亡くなり、叔父だった今の父に引き取られるまで、貴族の教養というものとは無縁で……故に、私の在り方は作り上げたものだ」
「不細工なハリボテだろうが」
「そうかもしれない。私の本質は、礼服ではなく平服を纏い、友と笑い合いながら野を駆け回っていた頃の、理想を知らない粗野な幼子の方なのだろう」
礼節を知らず、目指すべき理想もなく、日々を生きるのに懸命で。
そんなユリウスとしての在り方こそが、本来の自分に約束された未来だったはずだ。
だが、その未来は鉄砲水によって、実の両親共々押し流されて彼方へ消えた。
だからこそ――、
「だからこそ、私は騎士を装おう。見栄に拘り、本来の己を封じ込めよう」
「オメエ……」
「何も知らなかった無知な私は、しかし、理想と出会ったのだ。――私は騎士に憧れた。凛々しく、清廉とした騎士の姿に憧れたのだ。故に、憧れを貫こう」
音を立ててマントの留め具を付け直し、ユリウスの黄色い眼差しに力がこもる。
不機嫌な様子でいたレイド、その表情が苛立ちから怪訝へと変わっていた。それは、自分の言葉を否定され、だが、噛みつき返せないことへの驚きだ。
傍若無人を絵に描いたような男が、ユリウスの言葉に意識を奪われている。
ならばこそ、声を大にしてユリウスは続ける。
「私は不器用な男だ。物事も、形から入るばかりになる。立派な剣を持てば、品のいい服を纏えば、折り目正しい言葉が使えれば、それらしくなれると信じ、やってきた。だからこそ、その意地を通そう。見栄を、保とう」
見栄と、そういう言葉を嫌う人間がいることはわかっている。
ふと思い浮かべたナツキ・スバルなどは、その最たるものではないだろうか。
だが、とユリウスは思うのだ。
「背筋を正し、身嗜みを整え、そう在りたいと願う姿を装い、意志を貫く杖とする。それこそが、私が永遠に被ることを決めたハリボテなんだ」
「――――」
「見栄を馬鹿にするものもいるだろう。だが、それと同じぐらい、見栄を眩しく思うものがいるのだと信じている。――私が、騎士の在り方に焦がれ続けるように」
最初に、騎士への憧れを芽生えさせてくれたのが誰なのか、それは思い出せない。
だが、ユリウスは騎士となった。
ユリウスが『最優』とそう呼ばれたのは、研鑽した剣技や、磨き上げた精霊術、それらに裏打ちされた実力の高さだけが理由ではない。
ユリウス・ユークリウスの在り方こそが、騎士の在り方だと思ってもらえたから。
それが『最も』『優れたる』『騎士』の在り方だと、見栄を張る姿が眩しかったから。
そう言い切り、ユリウスは唇を緩め、エキドナへ振り返った。
敬愛する主の姿を借りた彼女へと、ユリウスは小さく首を横に振る。――ユリウスを覚えていられなかったことを、心の底から悔いてくれた彼女へ。
そんな罪悪感を抱く必要などなかったのだと、そう伝えるために。
「忘れられたことを恐れ、悔やみ、嘆く必要などどこにもなかった。誰もが知り、誰もが焦がれる騎士道の中にこそ、私という存在がいるのだから」
そして、それと同じことは、この場にいてくれる『彼女たち』にも言えることだ。
「これまですまなかった、我が蕾たちよ。失われた絆に縋り、君たちを手放そうとせず、ずっと不安な思いをさせた。その頸木から、今、君たちを解放する」
ユリウスの囁きにつられ、可視化されるのは鮮やかな色合いに輝く淡い光――それは、六つの属性を主張する美しき精霊、ユリウス・ユークリウスの準精霊。
ユリウス・ユークリウスが騎士となる以前から傍にあった、離れ難き存在。
彼女たちもまた、『暴食』の権能に『名前』を奪われたユリウスを忘れた。
しかし、精霊と契約者との間に結ばれた消えない契約と、ユリウスの生まれ持った『誘精の加護』の力に惹かれ、つかず離れず在り続けた。
ユリウスもまた、『名前』が取り戻されれば関係は取り戻せると、そう信じて、彼女たちを手放そうとはしなかった。
それは、なんと愚かなことだったのか。
何もかもが変わってしまったから、残された何かを変えたくなかったのだろう。
しかし――、
「以前までの私と、よく一緒にいてくれた、蕾たちよ。私は君たちの親愛に甘え、未練がましく温情を手放せずにいた。何事もなく、あの日々に戻れるのではないかと期待していた。――そんな、弱く、情けなく、格好悪い私を返上する」
戸惑うように、六体の準精霊がユリウスの周囲を取り巻きながら揺れる。
それらへ向け、ユリウスはそっと腕を差し出した。止まり木のように伸ばされる腕、それを見た準精霊たちが、緩やかにそこへ集まってくる。
そうして、腕に止まる淡い光へ、ユリウスは微笑みかけた。
「変わることを恐れる私がいた。だが、失う覚悟がなければ得られないものもある。たとえばそれは、愛情という名の蕾の開花。長らく傍にあった蕾たちが、どんな花弁を花開かせるのかこの目で確かめる未来」
『――――』
彼女たちは何も答えない。
しかし、これから何が起きるのか、彼女たちは予期しているように思えた。
故に、ユリウスはその通りに動く――。
「我が蕾たちよ!君たちを解放しよう。長く、こぼれた絆に縋り続けてすまなかった」
その言葉と同時、ユリウスの腕を取り巻く準精霊たちが弾かれたように離れる。
衝撃を伴ったようにすら見えたそれは、ユリウスと準精霊たちとだけを確かに貫いた、まるで稲妻のような痛烈な感覚だった。
確かにあった繋がり、絆、魂と魂を結び付ける契約が、断ち切られる。
それは精霊術師にしかわからない、真に魂が結び付いた存在を喪失した痛みと嘆き。
ユリウスは知らないが、かつて同じ痛みにエミリアは涙し、蹲ったほどの。
それを、ユリウスは自ら、六体の精霊たちとの別れを一度に経験し、魂に傷を生む。
歪むような感覚が胸中を掻き毟り、ユリウスは魂の剥離を味わう。
それは、『暴食』の権能によって蕾たちから忘れられたときとは根本から異なる痛み。
ユリウスだけでなく、準精霊たちも同じ痛みを味わい、後悔したはずだ。
人間と契約など結ぶべきではなかったと、魂に付けられた傷を呪ったかもしれない。
だが――、
「――その上で、今一度、君たちを呼ぼう」
『――――』
「君たちを愛している。この見栄っ張りの求愛を受け入れてくれるなら、改めて結ぼう。――私と君たちとの、新しい契約を!!」
ユリウスが声高に、一度は下ろした腕を天へ伸ばして叫んだ。
その訴えを聞いて、弾かれたように散った準精霊たちは静かに、一秒だけ明滅した。
躊躇いと逡巡、それはたったの一秒のことだった。
△▼△▼△▼△
温かな光が、ユリウス・ユークリウスの全身を包み込む。
それは、契約を断ち切ったことで刻まれた魂の傷へ、優しく淡く沁み込んでくる。
喜びがあった。怒りがあった。悲しみがあった。愛情があった。憎しみもあった。
それら数多の感情が、ユリウスと彼女たちの十年分以上もあった。
それを一度はなかったことにして、また新しく、未来を紡いでいく。
これが正解なのかはわからない。でも、正解にしたいと、そう思えた。
何度も、間違っていくかもしれない。
ずっと正しい道を選び続けることはできず、過つこともあるかもしれない。
だけど、そのたびに自分を形作っていこう。
間違うことがあったとしても、自分は一人ではない。独りではない。
前を行こうとすれば、素晴らしき先人たちが作り上げてくれた理想がある。
足を止めかければ、愛情深く見守り続けてくれた蕾たちの温もりがある。
そして隣を見れば、そこには自分を形作った信念を捧げると誓う、主の横顔がある。
いったい、この先、ユリウス・ユークリウスに、何を恐れろと言えよう。
「――そうだろう。我が、麗しき花盛りの乙女たちよ」
その一声に、答える六つの蕾――否、花開く乙女たちの答えがあって。
光が、生まれ――、
△▼△▼△▼△
「これから先も、深く、優しく、傷付け合いながら、私はこの道を歩もう」
契約を断ち切られる痛みは、再び結ばれる絆によって癒される。
六つの、以前にも増して神秘的な光を纏い、ユリウス・ユークリウスは前を見た。
そこに、剣に身を砕くものとして憧れた頂点の姿がある。
だがしかし、ユリウス・ユークリウスの羨望は、その頂とは異なる場所に。
故に、その憧憬を、虹の光で切り開くことに躊躇いはない。
「お待たせした、『剣聖』レイド・アストレア。――お初にお目にかかる」
騎士剣を振り払い、ユリウスはマントを掴んで優雅に一礼した。
そして顔を上げ、この世で最も憧れる『それ』になり切って、名乗る。
「――私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」