『ユージン』


 

「なんですか、そのありえないものでも見たみたいな自分の脳みその働きが信じられないような夢幻の果てを拝んだような素っ頓狂な顔は」

 

「……おおよそ、お前のその大げさな発言を訂正する必要がないぐらいのそのままの心境だよ」

 

眼前、両手を腰に当てて吐息をこぼすオットー。手枷の外れた手首を確かめるように回しながら、床に座り込むスバルは彼を見上げて応じる。

 

三日以上、拘束されていた体は動かすだけで軋みと痛みが同時にくる。寝返りもキツイ姿勢だったため、食事のときに定期的に体をひっくり返されてはいたのだが、血の巡りだけでなくそれ以外の諸々も動かして初めてわかる不具合が多い。特に、

 

「オットー、目隠し外したばっかだからかもしんないんだけど……俺の右目の視界が悪い。悪いってか、見えない。どうなってる?」

 

「どうなってる、って言われると僕も返答に躊躇いますが……上品に言い繕うのど、事実をありのままにお伝えするのとどっちがいいです?」

 

「ショックを受けないように上品に言ったあと、現実を受け入れるために率直な内容も伝えてくれ」

 

「欲張りですねえ。……えー、ナツキさんのご尊顔の右舷、その視界は避けられない闇の帳によって光を閉ざされており」

 

「あ、中二病風にってお願いしたんじゃないんでもういいです」

 

なんだか邪気眼が疼きそうな塩梅でオットーが説明を始めるものだから、スバルは手を差し出してその説明を途中で拒否。それから差し出した手を己の右目に当て、恐る恐るではあるがその感触を確かめる。

――右目の位置、まるで切り取られてしまったようにその視界は確保できない。触れてみて、その器官が仕事をサボタージュしている理由がわかった。

サボタージュどころか、荷物をまとめて実家に帰ってしまったらしい。ありていにいえば右目の位置にあるのは空洞だけであり、

 

「治した……って話だったはずだけどな」

 

「止血して、砕けた骨は継いでますよ。ただ、治癒魔法も使い手を選びますし万能じゃぁありませんから。……死んだ部分まで、戻すのはさすがに」

 

言葉を濁すオットーは気の毒そうにスバルを見ている。その視線にスバルは力なく唇をゆるめて、「仕方ねぇよ」と言ってから、

 

「頭潰されて死にかけたんだ。右目が死ぬぐらいは受け入れるべきだろ。……これで両目が死んでたんなら、俺も生きる気力を失うだろうけど」

 

「前向きっていうか、ちょっと自棄入ってませんか?お願いしますよ。ナツキさん抜きじゃ、ちょっとこの先、立ち行かないんですから」

 

右目、という重要な器官を一つ失ったというのに、今のスバルの心情は自分でも驚くほどに落ち着いていた。まだ実感が湧いていないことと、エルザの攻撃で右腕の大部分を欠損したときのような、痛みと流血を伴っていないからかもしれない。

ガーフィールの言は嘘でもあり、事実でもあった。血は止まり、傷は塞がり、痛みもない。万能の回復魔法にスバルが期待を寄せすぎただけで、致命傷からの復帰と考えれば彼は発言分だけの治療をスバルに施している。

 

「律儀なんだか、なんなんだかな。あいつも、底のわからねぇ奴だ」

 

ロズワールを襲うスバルを仕留めて、しかし治療を施す。かと思えば『試練』終了までスバルを監禁し、エミリアへ協力を迫る交換条件として扱ったりもする。

死なないように治癒をして、世話係までつける徹底ぶり。スバルの体から漂うという『魔女の臭い』を嫌悪するくせに、ここへ足を運ぶことはやめない。そしてくることをやめないくせに、肝心のスバルにはなにも聞かないのだ。

まるでスバルがなにも喋らないことを、語るべき情報を持たないことを彼自身が知っているか、スバルの語る言葉に興味がないとでもいうように。

 

「知ってるとしたら、それも『福音』なのか……?誰もかれもみんなして……ここが魔女の実験場だってんなら、かえって当たり前なのかよ」

 

関係者の誰もが未来を指示された本を持ち、それに従っているのならもっとスバルにとってシンプルに世界を進めてくれてもいいのではないか。

全員が全員、一つの目的に向かって一致団結し、ハッピーエンドを目指して邁進する。たまにはシナリオが一本道で、王道を通ってくれないものだろうか。

 

未来を知る術を持つのに、やり直すたびになぜか一から手探りの状況を繰り返さなくてはならないスバルに、もっと救いがあるべきではないのか。

 

「……弱音吐いてても話は進まねぇし、誰も助けちゃくれねぇけどな、クソ」

 

「なんともまあ、やさぐれてますねえ。まあ、ナツキさんが置かれた状況からしたらそれも仕方ないですが……でも、誰も助けちゃくれないってのはちょっと心外すぎやしませんかね。僕、ここになにしにきたと思ってるんで?」

 

スバルの呟きを聞きつけたオットーが同情コメントを述べつつも、最後の部分でスバルの言を否定しにかかる。

そのオットーの間近のドヤ顔を見て、スバルはきょとんとした顔をすると、

 

「あ、そういえばそうだよ、お前どうしたの?いやマジで、この三日だか四日だか考える時間と考えることだけは無限かと思うぐらいわんさか出てきたのに、お前のことだけは一切誇張抜きで欠片も脳裏をかすめなかったぜ」

 

「すげえな、この人!さすがの僕もここまで言い切られるとかえって清々しいぐらいですよ!」

 

「ホントの話、清々しいぐらいお前の存在が頭から消えてた。顔見ても一瞬、オットーなのかリンガ屋のオッチャンなのか区別つかないぐらいだぜ」

 

「誰ですかよ、リンガ屋のオッチャン!」

 

「俺にとっては始まりの地。ミスターセーブポイントといってもいい」

 

今のところ、『死に戻り』の復活地点としては最多登場のカドモン。

傷顔の好漢を思い出しながら軽口を叩いて、スバルは右目の喪失感と急変を迎えた事態に対する考えをまとめている。

まず、聞き出すべきは目の前に立つオットー。彼の真意だろう。

 

「冗談その他はこのぐらいにしておいて……色々と、聞きたいことがあんだが」

 

「まあ、あるでしょうね。僕の方も、ナツキさんがなにやらかしてこんなとこにとっ捕まってたのか興味ありますし」

 

「――?俺がこうなってるのって、ロズワールの指示じゃないのか?」

 

ガーフィールの話では、ロズワールへ暴行を働いたスバルを監禁したのは彼のはずだ。軟禁状態にし、その上でエミリアに『試練』へ臨ませていると。だが、

 

「辺境伯がどのぐらい関わってるのかまで僕はさすがにわかりませんが、少なくとも『聖域』は今、分裂して大変な状態ですよ」

 

「分裂?それってどういうことだ?」

 

「そのままです。ナツキさん含めて、避難してきた村の人たちを解放すべきだっていうリューズ様らの陣営と、それに反発する陣営とで大わらわですよ。ナツキさんの身柄に関してはガーフィールの預かりってことで、議論の主軸からはずれますけどね」

 

疲れた顔で語るオットーは、この数日で起きたいざこざの一部を簡略に説明。

ようはスバルが懸念した通り、避難民と『聖域』の住民との間での軋轢が深まり、不満が爆発して小競り合いが発生したのだ。その小さなヒビ割れを発端に、『聖域』住民側でも派閥が割れ、『聖域』が分裂状態に入ったとのことらしい。

恐れていた事態にスバルは息を呑み、「けど」と言葉を継いで、

 

「なんでまた、急にそんなことに。俺の見た限り……いや、予想じゃ」

 

スバルが見てきた一回目の世界では、少なくともこの五日目までは件の分裂とやらは発生していなかった。故にスバルの避難民解放の提案が通り、六日目の朝にはその約束の履行がなされたのだ。

事態の悪化が加速しすぎている。そう判断するスバルにオットーが首を振りながら、「あのですねえ」と指を一つ立てて、

 

「急にもなにもないでしょうに。原因の一つであるナツキさんの考えがそれじゃ、真面目に困ってしまいますよ」

 

「原因の、一つ?」

 

「ナツキさんとアーラム村の方々にどんな付き合いがあったのかわかりませんが……良好な関係だったことは確かみたいですね。ナツキさんがガーフィールに暴行受けて、姿が見えなくなった途端に『聖域』の雰囲気は最悪です」

 

「――――」

 

「村の方々からすればラムさんや辺境伯本人は声をかけるのも躊躇う立場でしょうし、上と繋がる窓口としてナツキさんの気安さは理想的だったんでしょう。それだけでもないと、皆さんの怒りようを見てきた僕は思いますが」

 

オットーの話にスバルは口をぽかんと開けて、ただただ驚きを表現する。

確かに、前回と今回の『聖域』の状況変化において、スバルの健在か否かは変更点の一つに数えられる。数えられるが、自分の存在がアーラム村の人々の心情にそこまでの影響を、ましてや『聖域』を分裂させる事態の切っ掛けになり得るだなんて少しも想像が行き届いていなかった。

冗談かあるいは大げさに言っているだけか、とスバルはオットーを窺うが、スバルのその疑わしげな左目の視線に彼は眉根を寄せるだけで、特別なリアクションを見せることはない。つまり、本気で言っている。あとは彼の目が節穴かどうかだけが争点となるが、

 

「その部分に関しちゃ、議論を重ねて結論を出したいとこだな」

 

「なにかまた不当な扱いを受けている感がありますが、まあいいでしょう。それよりナツキさん、僕がここにきた理由はその分裂とも関係あるんですよ」

 

「分裂と関係って……ああ、俺がいなくなったから騒ぎになったってことは、俺が戻れば話を収められるかもってことか?いや、さすがにそれは俺に対してちょっと期待かけすぎというかプレッシャーすぎるというか……」

 

過小評価に過小評価を重ねる性質も邪魔して、オットーの言葉を素直に受け止められないスバル。実際、アーラム村の人々の心の平穏にスバルが強い影響があったとしても、すでに爆発してしまった今、どうにかできるとも思えない。

むしろ、右目を失った今のスバルの有様は彼らの怒りに油を注ぐだけではなかろうか。

と、スバルはオットーの提言に対して難しい顔で首を横に振るのだが、オットーは「いえいえ」とその否定に否定を重ねて手振りし、

 

「ナツキさんにそこまでの力があるだなんて、僕が考えてるわけないじゃぁないですか、思い上がりすぎですよそれは」

 

「お互い様だから突っ込まないけど、お前はお前で言い過ぎだよ。……じゃあ、俺を連れ出すのはなんのためだ」

 

「避難してきた皆さんと『聖域』側で大規模なぶつかり合いが起きるのだけは避けたくてですね。そんなわけで、ナツキさんには『聖域』からの脱出に一役買ってもらえないかなぁと」

 

「脱出に、一役?」

 

飛び出した単語の物騒さに左目を細めて、スバルは単語を口の中で転がしながら思案。そして、オットーがなにを考えているかふと考えが浮かぶ。

スバルは抜け目ないオットーに「まさか」と唇を湿らせてから、

 

「お前、『聖域』側がごたごたして統制が取れてない間に、どさくさで村の人たちを脱出させるつもりか。その脱出の手助けを俺にしろって、そういうことかよ」

 

「ご明察で、話が早いのはなによりです。時間も押してますし、できればナツキさんには無条件で協力していただきたいんですが」

 

「……流れの確認をしてから、だ。無為無策で挑むってんならさすがに俺もおいそれとは頷けねぇ。チャンスがあるように感じることは確かだが、対立してる側に見咎められたら言い訳が立たねぇぞ」

 

なにより、下手に『聖域』の解放に反対する派閥とやらを刺激しては、内部に取り込まれる形のエミリアやロズワールたちの身柄の安全に支障をきたす。ロズワールなどどうなってもいいが、エミリアやラム、パトラッシュに被害が及ぶのは避けたい。

 

「できたらその傷ついてほしくない顔ぶれに、僕の名前も加えてほしいんですが」

 

「男が鉄火場で痛い思いするのは当たり前だ。俺、そのあたり古風な考え方をするタイプだから。亭主元気で留守がいいだから」

 

「初めて聞く言葉ですけど、多分、使い所を間違ってる気がしますよ」

 

オットーの正しい突っ込みに嫌な顔をするスバル。それから一度、咳払いを入れてから会話の流れを元に戻し、

 

「破れかぶれの行き当たりばったりじゃないってんなら、プランを教えろ。協力するか密告するかはそれから決める」

 

「密告する選択肢があるのがかなりおっかないんですが……計画は簡単ですよ。『聖域』の穏健派とすでに話がついてますので、過激派の方々を押さえてもらっている間に竜車で結界を突破。あとはおさらばって寸法です」

 

「乱暴すぎやしねぇか?それに協力者っていったい……」

 

「それについてはナツキさんが協力する、と明言してくれたらお話しますよ。ナツキさんにお任せしたいのは村の方々への説得と、動向の読めないガーフィールへの対処です。村の人たちとナツキさんなら、ナツキさんに食いつきそうですからね」

 

「俺は体の良い餌ってわけか、否定はしねぇけど」

 

ことガーフィールに関してはオットーの読み通り、スバルと避難民がいればスバルの方に血気逸って飛びかかってくることは間違いない。ただ、そこまで持ち込むのにもかなりの苦労が予想されるが、

 

「そもそも、ガーフィールの立ち位置がわからなくなってんぞ。あいつ、リューズさんの身内みたいなもんだから穏健派のはずなんだけど」

 

「もともとはそのつもりで数えてたらしいんですが、ナツキさんとエミリア様への接し方からそのへんの判断が難しくなったとか。積極的に敵とはみなさないけれど、消極的な敵として扱おう、というあたりで意見が一致してます」

 

「よく見てやがんな、その協力者さんとやら。……俺のことも含めて。ちなみに俺が協力しない場合はどうなる?」

 

「その場合、ナツキさんを解放した点だけ触れ回って、潜在的敵感の強いガーフィールだけでも障害から排除したい考えですかね」

 

「パーフェクトだよ、チキショウ。手足自由になってる時点で、ガーフィールの望みに逆らってんのは確定だしな。クソ、乗るしかねぇ」

 

頭を掻き毟り、スバルはすでにオットーとその協力者の掌の上にいる現実を認めるしかない。この状況になった時点で、スバルは彼らの思惑で踊るしかないのだ。

もっとも、言葉にしているほど状況に反感を覚えているわけではない。

 

なぜなら、オットーたちの起こした行動が避難民の『聖域』からの脱出に結びつくのであれば、スバルが見た無人の『聖域』に状況にも答えが見えるかもしれない。

少なくともこの計画が成功するのなら、『聖域』からスバルの手を使わずに避難民の姿を消すことができる。ただ、それで解ける謎でないのが問題だ。

 

「けっきょく、出られないはずの『聖域』の住人が一人も見当たらなかったことの答えにはならないからな……」

 

外に出られる人たちが外に出たという結論は、過程はどうあれ納得できる。だが、出られないはずの人たちの姿が見えないことへの答えは出ない。いずれにせよ、状況の推移を見守るためにもここを出る必要はあるのだ。

オットーたちの提案に従い、今回の終わりを見届けることは無駄ではない。

 

「そういえば今さらだけど、よく俺のことが見つけられたな。ここって、多分『聖域』の中でも隠し部屋みたいな扱いの場所っぽいんだけど」

 

ガーフィールの言と、長い時間を過ごしてようやく確認できた部屋の内装。それらを見回しながらスバルは首の骨を鳴らす。

薄暗い部屋には結晶灯がぼんやりと浮かぶばかりが光源で、窓すらない部屋からは外の光を取り込むこともできない。建物の質は木材で、造りが粗末なのか所々から雨漏りめいた湿りが見つかる。目隠しされるスバルの神経を削り続けた、滴る水音はこれらの欠陥が原因だろう。人騒がせな話だ。

 

「まあ、確かにまともな方法でここ見つけるのは大変だったでしょうね。隠し部屋っていうより、僕は秘密基地みたいな雰囲気を感じますけど」

 

「俺も改めて部屋の中見て、そんな感じの感想を覚えたとこだよ。このあたりの手作り感とか、ぶっちゃけプロの大工の仕事とは思えねぇな。力だけはあり余ってる若造が、感と雰囲気頼りでむりくり作った建物の気配がする」

 

監禁部屋に対してスバルの抱いていたイメージと、この粗末な小屋では乖離しすぎているのだ。これではただ狭苦しいばかりの、小部屋だ。

そんな感想を抱くスバルに、オットーは「そこはそれとして」と話を脇に置いておくジェスチャーを入れて、

 

「見つけたのは僕のお手柄ですよ。ここは素直に称賛されてもいい場面だと思いますが、ナツキさんの反応やいかに」

 

「素直に感心してるし、助かったと思ってるよ。どうやって見っけた?」

 

「ふっふっふ、知りたいですか。知りたいでしょう、知りたいんですね」

 

「ああ、知りたいな。まさかお前の持ってる『言霊の加護』とか使って、森中の虫やらトカゲやら植物やらから情報を集めてここにきたとかじゃないだろうけど」

 

「その通りなんで僕のみなぎってた優越感をどうにか返してもらっていいですかねえ!?」

 

ネタ潰しされて嘆くオットー。しかし、スバルは冗談のつもりで口にした話を肯定されて、内心で驚きを隠せない。

知っていたとはいえ、応用性の高すぎるオットーの『言霊の加護』の威力に。

以前、スバルは彼のその加護に従って、パトラッシュを駆ってエミリアたちの窮地を救ったことがあった。そのときにも彼は、同じように虫や草花から話を聞くことで、埋まるはずのない距離をショートカット連発で埋める離れ業をやってのけたが。

 

「ホントに便利だな、お前の加護」

 

「……そんなにいいものでもないですけどね」

 

感嘆の吐息をこぼすスバルに、しかし応じるオットーは急激にテンションが低い。その反応にスバルは眉根を寄せたが、オットーはその追及をさせずに「とにかく」と拳を固めて、

 

「しばらくしたら、エミリア様の『試練』が始まります。その間はガーフィールも墓所に向かって、ここを離れざるを得ません。つまり、今が機です」

 

「作戦実行までの準備時間が短すぎるだろ。……俺が見つからなかったのと、ケツに火がついてるからスケジューリングがカツカツなのは仕方ねぇけどよ」

 

急がせるオットーに愚痴をこぼしつつ、すでに協力する姿勢のスバルは体を回して体調を確認。満足というわけではないが、食事は差し入れされていたし、排泄物の処理も欠かさずしてもらっていた。今思うと、相手が誰なのかわからないのが非常に羞恥心を煽る状態であったが、足の骨を折って入院したときのことを思い出す。

ともあれ、体が軋む以外に問題点は見当たらない。こちらを見るオットーにスバルは頷きかけて、さあ動こうと踏み出しかけ――、

 

「あ、最後にもう一個だけいいか?」

 

「……なんなんですか、もう。本当にこれで最後にしてくださいよ?あまり時間かけすぎると、計画が別の段に進んで僕らが馬鹿を見るだけですからね」

 

「悪い悪い。……お前は、どうしてこんな危ない橋を渡るのに協力するんだ?」

 

「――――」

 

勢いに水を差された顔だったオットーが、そのスバルの問いかけに表情を消した。

まず、最初に聞くべき疑問だったと思う。確かに避難民や『聖域』の住人たちにとって、双方の衝突を避けるのは両得の内容ではある。スバルにとっても望ましく、エミリアやロズワールの助勢にもなろう。しかし、

 

「そこにお前のメリットが差し挟まる場面が見当たらねぇ。俺の頭が悪くて、想像が届かないだけかもしれねぇけど……そこがわからないと、どうも気持ち悪くてな」

 

オットーを疑いたいわけではないが、腑に落ちない部分であるのは事実。実際、オットーにとってこの『聖域』を取り巻く問題は行き掛かり上の関わり合いだ。本来ならばこの場のいざこざはもちろん、王選絡みすらも彼には関係がない。

錯綜する状況を面倒だと思った時点で、関わり合いを放棄して一人で避難する道すら彼には残されていた。辺境伯との繋がりを持ちたい、という彼の目的意識を加味しても、今の状態は『賭けることすら分が悪すぎる』だろう。

 

スバルほどでないにせよ、彼にだって状況を打開する光明は見えないはずだ。

それだけに、スバルには彼がこうまで危険を冒して味方してくれる理由がわからなかった。前述の通り、スバルはこの三日間、悩み続けた時間の中で本当の彼の存在を失念していた。彼に対して、スバルは問題や疑念といった要素を見出していなかったのだ。それはある意味では、彼に対する信頼であるともいえた。

これだけ悪状況が積み重なった現在で、オットーのことにまで気を回さなくてはならない『なにか』があるはずがない、という逃避めいた信頼が。

 

だから、それを覆しかねない彼の本意が今は知りたかった。

仮に彼にすらスバルの信じられない裏があるのだとしたら、それはもう――。

 

「答えてくれよ、オットー。お前がどうして、こんな懸命に尽くすのか」

 

静かな問いかけ。それは、小さいが確かな分水嶺だった。

息を止めて、スバルはオットーの返答を待つ。スバルの問いかけを飲み込み、口の中で言葉を選びながらオットーはスバルを見つめ返し、

 

「ナツキさんは、僕のことをどんな人間だと思ってるんですかね」

 

「目の前の小金を拾おうと手を伸ばして、もう片方の手で持ってた荷物をぶちまけるみたいな……そんな抜けた感じの人物像を思い描いてるけど」

 

「それはそれでひどい考え方ですねえ!やらかしたことないわけじゃないのがまた見てきたみたいで腹立たしい!!」

 

スバルの思ったままのオットー像――あるいは、そうあってほしいと願うオットー像とでもいうべきか。

あんまりといえばあんまりなその評価に一言物申して、オットーは「まったく」と疲れたように頭を振ったあとで、

 

「あのですね、ナツキさん」

 

「……ああ」

 

「――友人助けようとするってのは、そんなにおかしなことですかね?」

 

――一瞬、なにを言われたのかわからなくてスバルの中の時間が止まった。

 

時間が動き出すまでにおそらく数秒。しかし、動き出してからもスバルは今の言葉の意味がイマイチ飲み込めない。オットーは今、なにを言ったのか。

 

ユージン?ユージンってなんだっけ?そんな人、このへんにいたっけ?

 

「な、なんでそんな驚き顔で固まってんですか、この人」

 

「いや、突然に俺の知らない人物名が出たもんだから話についていけなくて。で、そのユージンさんってのは、えっと?」

 

「どんな結論に達したんだかわかりませんけど、頭っから尻まで間違ってますよ!ユージンじゃなくて友人!友達!」

 

「友達!?誰と誰が!?」

 

「僕と!ナツキさんが!」

 

信じられない、と目を見開くスバルに息を切らすオットーも愕然。彼は床を踏み鳴らしながら「いいですか」と手を振り、

 

「僕は魔女教に捕まって、危うく命の危機だったとこをナツキさんたちに助けられたんです。そのあと、まあ色々と取引きも口にしてお手伝いしました。辺境伯と顔を繋いでもらう理由でここにも足を運びましたし、そういう意味じゃ僕とナツキさんとの付き合いは立場あってのものだったかもしれませんが」

 

「――――」

 

「それでも、そういう面倒な問題を取っ払ってしまえば、僕はナツキさんを友人だと思ってますよ。普段の扱いに対しては色々と言いたいこともありますけど、無理とバカを言い合うのもそういう距離感だから、って」

 

途中から照れ臭くなったのか、己の鼻を指で掻きながら視線をそらすオットー。

そしてそのオットーの言葉を聞きながら、沈黙を守り続けるスバル。話の区切りまで辿り着いたオットーは、スバルのノーリアクションに訝しげな視線。

ややその表情に不安が見えるのは、彼の口にする内容にスバルが肯定らしいことをなにも言わないからだろう。友情の押し売り、とでも考えているのかもしれない。

 

そう彼の今の内心を想像して、スバルの心に湧き上がった感情。そして、その感情によってもたらされた反応は、

 

「――ぷっ」

 

「はい?」

 

「わはははは!と、友達?友達かぁ!ああ、そっかそっか。オットー、お前、俺と友達になりたかったのかよ!」

 

「なぁ!?」

 

堪え切れずに吹き出して、スバルは顔を赤くするオットーの肩を乱暴に叩く。それでもなお笑いの衝動は消えず、腹を抱えたままスバルは床を踏み、

 

「ぶはは、友達。ああ、チキショウ。オットー、てめぇ、この野郎」

 

「痛い痛い!なにすんですか!ああ、言った僕が馬鹿でしたよ!わかってましたって、ナツキさんがそんな風に思ってくれてないことぐらい。でも、いくらなんでもそこまで笑うこたあないでしょうよ!」

 

「いやいやいやいや、笑わずにいられるかってんだよ。お前がおかしいんじゃない。……自分の馬鹿さ加減がひどすぎて、笑うしかねぇんだ」

 

爆笑に浮かんできた涙を左手で拭い、スバルは止まらない笑いの衝動をどうにか制御して姿勢を正す。正面からオットーを見る。

友達、などと口にしたことを後悔していそうな顔。だが、そんな彼を前にしてスバルの心に訪れたのは、感謝とどうしようもないほどの謝意だった。

 

――なにがオットーの思惑。なにが裏があるかもしれない。なにが、なにを信じればいいのかわからない、だ。

 

スバルを友人だと口にして、その身を心配して手助けにきてくれたオットー。彼の存在を前にして、その心根を信じるより先に疑いに走る自分の愚かしさよ。

なにかあるに違いないと決めつけて、その『なにか』が悪意に満ちたものであると想像する自分の卑しさよ。

状況に翻弄されるあまり、周囲の人々の気持ちがわからなくなるあまり、悪意の存在のみを信じて無条件の善意の存在を忘れる、恩知らずぶりよ。

 

――ナツキ・スバルが諦め切って投げ出せるほど、世界のなにを知ったというのか。

 

ほんの数回、死を経て世界をやり直したぐらいで、なにを悟りきったようなつもりでいたのか。こんな身近な友人の、その義理堅さすら気付かないで。

 

スバルの自嘲と自戒、それがわからずにオットーはなおも疑問を顔に浮かべている。その彼にスバルは微笑を作り、どこか晴れやかな気分で息を吸い、

 

「悪かった。お前は俺の友達だよ、オットー。――助けにきてくれて、ありがとう」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ガーフィールによって監禁されていた建物は、『聖域』の住民たちが暮らす集落から離れた林の中にあり、先導するオットーがいなくては迷って脱出できなくなりそうなほど複雑な道筋の中にあった。

 

「こうして考えると、やっぱりお前の加護抜きじゃどうしようもねぇな」

 

「あまり声を出さずに。僕も道は覚えてないんで、草花やら蛙やらトカゲが頼りなんですから。彼らの機嫌損ねると、出口って騙されて崖に誘導されますよ」

 

「自然の生き物恐ぇな!」

 

耳を澄ませながら慎重に道を選ぶオットー。彼の後ろに続きながら、スバルは片目の視界に慣れず、危うげな走り方でえっちらおっちら木々の隙間をゆく。

やはり、遠近感が取れないのと右半分が見えないのは痛い。喪失感が本格的に襲ってくるのはこれからだろうが、活動に支障をきたす役割は十分果たしている。

 

ただ、この傷を負わせてくれたガーフィールに対する恨みの感情は不思議とない。

やられて当然の行いをした、という自覚がスバルの内側にあることと、ガーフィールの抱く不可思議な矛盾。そういったものへの推測が、スバルにそれをさせなかった。

あともう少し、いくらか想像を羽ばたかせる余地があれば、ガーフィールに対する考えを形にできそうなのだが。

 

「未確認の『福音』のことも含めて、もうちょい情報がいるな」

 

一旦は棚上げにするよりない。

口惜しさを感じつつも、スバルは枝が右の耳をかすめる痛みに小さく声を上げ、地面を踏み外さないように苦心しながら根を飛び越える。そして、

 

「見えました。そろそろ、集落の方に出ます」

 

オットーの呼びかけが聞こえて、スバルは霞む視界を懸命に凝らして前を見た。木々の隙間、暗い緑の向こうにぽつぽつと集落の明かりが見える。

そして森を抜け、ふいに星と月の明かりが空から一気に差し込んできて、暗いばかりだった視界がいくらかクリアになる。

 

息をつき、周りを見渡しながらスバルはオットーと並んで『聖域』の集落へ戻ったことを確認。今の時間が月の出た夜であり、おそらくは墓所でエミリアの『試練』への挑戦が始まっていることも。

そちらへ駆け出し、彼女の傍についていてやりたい気持ちが湧き上がる。が、その感情を押さえてスバルはオットーに振り返り、

 

「今が『試練』の真っ最中なら、脱出はこのタイミングだろ。どういう手筈になってるんだか、協力者とかとはどこで落ち合うんだ?」

 

「協力者の方なら――」

 

矢継ぎ早のスバルの質問に顔を上げ、オットーは集落の方へ手を伸ばそうとした。しかし、その動きは途中で遮られる。理由は声だ。

 

「――心配しなくても、もうきているわ」

 

二人の会話を遮る形で割り込み、足音を立てて一人の人物が歩み出てくる。

黒を貴重としたエプロンドレス。星明りの下に白いエプロンが映えて、幼さを残しつつも愛らしい彼女の姿をいっそう幻想的に飾り立てている。

 

「まずは無事で戻ったことを……ええ、とりあえずは祝福しておくわ、バルス」

 

桃色の髪を揺らして毒を吐き、ラムが――オットーの協力者が涼しげな顔で、スバルたちを出迎えていた。