『砂の嘲笑』
――空間が歪み、世界が破け、生じた裂け目の中に真っ逆さまに落ちていく。
まるで薄紙を破くような容易さと切れ目を晒し、あっさりと裂ける世界。
頭から歪みの中に呑み込まれるスバルの鼓膜には、その盛大な視覚効果とは裏腹に何の雑音も飛び込んでこない。
聞こえたのは自分の叫ぶ声と、誰かが自分を呼んでいた声。
それすらも遠くなり、やがて聞こえなくなる。
触れ合っていた感触も遠ざかり、指が引き剥がされ、距離が離れる。
このまま、誰もいない、何もない場所に投げ出され、一人になるのだろうか。
そんな寂しさと悲しみに苛まれながら、スバルの意識はゆっくりと浮上していた。
そして――、
※※※※※※※※※※※※※
「――いつまで寝ているの。いい加減に起きなさい、バルス」
「ぽろろっか!?」
脇腹に鋭い感触が突き刺さり、衝撃にスバルは悲鳴を上げた。
思わず上体を跳ねさせて起き上がると、体中にまとわりついた砂が埃となって舞い上がる。咳き込み、口の中の砂利を吐き出した。
「うぇ!ぺっぺ!かーっ!ぺっ!なんだ?どうなった!?」
乱暴に目を擦り、立ち上がりながら周囲を確認する。と、足場の悪さに立ち上がろうとする膝が笑った。足下、それは変わらず、粒子の細かい砂の海だ。
意識を失う直前のことが蘇り、スバルはここがアウグリア砂丘の延長であると判断する。しかし、見渡す周りの光景は判然としない。何故なら暗い、暗すぎるのだ。
手元すら危うい暗がりの中、スバルの目が捉えたのは人工的な光の存在だけ。
「この非常時によく寝入っていられるものだわ。呆れて物も言えないわね」
辛辣な声が降ってきて、光の持ち主は小さく鼻を鳴らす。
光を放っているのは魔石細工の一種で、ラグマイト鉱石を加工した照明はカンテラのような道具だ。その光に照らされる顔を見て、スバルは眉根を寄せた。
「――ラム、か?」
「他の誰に見えるの?レム、だなんてつまらない答えは期待していないわよ」
「……レムとお前は顔は似てても、内面から滲み出るもので似ても似つかねぇよ」
いつも以上に辛口に思えるラムの言葉に応じ、スバルは改めて膝を払う。それから彼女の差し出してくるカンテラを受け取り、軽くあたりを照らしながら見渡した。
「ここ、どこだ?何があった?」
「ここがどこかはラムの方が知りたいぐらいね。何があったかについては、バルスの想像よりも三歩は悪いわよ」
「それは俺が楽観主義者と期待してか?悲観主義者だと睨んでか?」
「この場合、どっちの方がいいのかしらね」
返答はおそらく、肩をすくめる仕草が入っていたはずだ。
すぐ傍らにいるラムの様子すら確実ではない暗闇の中、照明に照らし出される空間はやけにだだっ広い。おそらく、空洞か何かの中に入り込んでいるようだ。
頭上にはうっすらと高い天井があり、地続きの壁が奥行きの広さを証明している。
「外気を感じないし、空も見えない。どっかに放り込まれたってことか……?」
「分断される前のベアトリス様のお言葉が確かなら、空間の歪みが原因でしょうね」
「分断……そうだ、分断!他の連中は!?」
淡々と、無感情なラムの言葉を聞いているうち、理解が現実に追いついた。
スバルは照明を右へ左へ動かし、ラム以外の人影を周りに求める。しかし、その証明に照らされる空間に、望んだ姿はどうやっても映り込んでくれなかった。
「見ての通り、分断されたわ。監視塔までのまやかしをバルスの魔法が無効化……その結果、正しい道に入り込んだのか、それとも時空の歪みに閉じ込められて、永遠にここをさまようのかはわからないけど」
「言ってる場合か!?なんでそんなに落ち着いてんだよ!俺とお前の組み合わせってことは……完全にランダムで飛ばされてるんだぞ!?」
静謐なラムの説明に、スバルは顔を青くして声を荒げた。
ベアトリスが叫び、目の前の空間が破けたことはすぐに思い出せる。その裂け目はスバルたち一行を丸ごと呑み込み、別の空間へと引きずり込んでいった。
そのとき、スバルとラムは同行者ではあったが、別のグループにいたはずだ。スバルはパトラッシュに跨り、ラムは竜車の中にいた。
「この分断だと、触れ合っていたことは同行する条件にはならないようだわ。裂け目に入り込む瞬間、ラムはレムを抱いていたはずだけど……この様だもの」
「俺にもベア子がしがみついてたはずだ。それなのに見当たらない……見当たってないよな?まさかここ、俺とラムしかいないのか?どういう組分けだよ」
分け方の条件が接触でないなら、何らかの理由があるのだろうか。
今回のグループは全部で八名。スバルとラムだけが抱く共通点として、特筆すべき理由はないはずだ。やはり、完全にランダムな組分けだというのか。
「いや、条件の推測は今は後回しだ!そんなことよりも、今はみんなとの合流を急がなきゃ……違う!もっとやらなきゃいけないことがある!レムだ!」
「――――」
「俺とお前は二人だからまだマシだ。他の連中もそれぞれ、誰かしらと一緒に分かれてるならまだ希望がある。でも、もしも一人になってる奴がいて、それがレムなんてことになったら……最悪だ」
エミリアやユリウス、今回の一行の戦闘力を一手に担った二人は問題あるまい。
メィリィやベアトリスも、それぞれの能力で単独ならばなんとかする。アナスタシア=襟ドナに関してはおそらく、『色欲』を撃退した切り札があるはずだ。
他の面子はいっそ、スバルとラムの組み合わせよりもマシといっていい。
――だが、レムだけは話が別だ。
レムだけは完全に、他の面子と違って自立行動ができない。
仮に誰かと一緒であっても、眠り続ける彼女を守りながら行動するのは至難の業だ。そして最悪、分断されたレムがたった一人きりになっていたとしたら、それはこの寂しい砂の海で『死』を待つだけの存在となりかねない。
「俺たちが他のみんなと合流するのも大事だが、最優先はレムの確保だ!俺はあいつを、こんな寂しい場所に置き去りになんかできない。それだけは絶対に……絶対にダメだ。絶対に、ダメだ……!」
「……バルス」
「俺が連れてくるなんて言ったから……『賢者』に会わせれば起こせるかもしれないなんて考えて、それでこんなことに。ダメだ。絶対に、クソ、レムだけは……!」
「バルス、落ち着きなさい。今は焦っても……」
「なんでお前はそうやって落ち着いてんだよ!レムのことが記憶からすっぽ抜けてるからって、心配じゃないのかよ!?」
「――っ!そんなわけがないでしょう!」
最悪の可能性を想像し、口早に絶望的な未来と悔悟を並べ立てるスバル。そのスバルの言葉に、ふいにラムが耐えかねたように爆発する。
彼女は混乱するスバルの胸倉を掴むと、背後の砂の壁に強引に押し付けた。
「レムを心配しているのが自分だけだとでも思っているの?図に乗るんじゃないわよ、バルス。実感がなくても、ラムはレムの姉よ。馬鹿にしないで」
「――――」
「……あの子とは、微かに繋がってる感覚がある。だから少なくとも今は無事よ。それだけ信じて、ひとまず落ち着きなさい」
感情を剥き出す、そんな表情ではない。しかし、平静を装うとする瞳に隠し切れない焦燥と憂いがあるのを見取って、スバルは固くしていた肩から力を抜いた。それを察してラムも腕をどける。壁から解放され、スバルは俯いた。
「……悪い。ごめん。ホントに、今のは俺が馬鹿で最低だった」
「大体、いつものことよ。バルスがただ生きてるだけで反省ばかりしていたら、それだけで一日が終わるわ。無駄なことはやめなさい」
「……ああ、悪い」
その舌鋒がラムなりの手打ちの証と感じて、スバルは最後に一つだけ謝る。それから思いっきり自分の頬を叩いて、気合いを入れ直した。
レムの現状の無事はラムが保証したが、それでも彼女が一人きりでいる不安が拭えたわけではない。早く皆と合流しなければならない状況は変わらないのだ。
「とにかく、合流を急ごう。ラム、その共感覚でレムの場所とか探れないのか?」
「難しいわ。あの子が眠っているから、伝わってくるのは鼓動ぐらいなのよ。他の手段なら『千里眼』があるけど……それも、あまり当てにならないわね」
「どうしてだ?」
「この砂丘、魔獣だらけで普通の動植物がほとんどいないわ。『千里眼』はラムと波長が合わないと視界を借りれない。魔獣とは重ならないわ。今回の顔ぶれだと、ラムが目を借りれるのはバルスの地竜ぐらいのものね」
「パトラッシュか。いや、それでも十分だろ。パトラッシュとかジャイアンも、誰かと一緒にいるなら確かめておきたい。特に竜車は丸ごとあると助かる」
「……それは、あまり意味がないわ」
乗り気でないラムの態度に、スバルはもどかしさを感じて首をひねる。今は合流に向けて、一つでも多く情報が欲しいタイミングだ。
それなのにここでそれを渋る、ラムの心情が理解できない。
だが、その真意を確かめる言葉を口にするよりも、答えが現れる方が早かった。
「――?」
ふいに視界の端に過ったのは、スバルの手にするカンテラとは別の光だ。
視界の端を過る光に嫌な記憶が鮮やかだったスバルはとっさに身をすくめるが、姿を見せた光はそれとは無関係の、緩やかな動きに揺られるものだった。
光は次第にこちらへ近付いてきて、やがてゆっくりとその輪郭が鮮明になると、
「ラムさんとナツキくん、話し合いは終わったみたいやね?」
「――アナスタシアと、パトラッシュ?」
聞き慣れたカララギ弁が降ってきて、スバルはわずかに首を持ち上げて驚く。見れば正面、スバルのものとは別のカンテラを片手に、パトラッシュの背に跨って揺られているのはアナスタシアだ。
そのアナスタシアの問いかけに、ラムはその場でローブの裾を摘まんでお辞儀する。
「ご配慮ありがとうございます、アナスタシア様。それで、周囲の様子は?」
「ちょぉっと奥まで見てきただけやけど、他の子ぉらは見当たらんね。ここいらに飛ばされたんはうちたち三人……と、この子だけみたいや」
「そう、ですか」
「気ぃ落とさんようにせんとあかんよ。気休めにもならんかもやけど」
「お気遣いありがとうございます。ええ、わかっている……つもりです」
竜上からのアナスタシアに、ラムは丁寧にそう応じた。その会話の流れで、スバルはかろうじてアナスタシアが周囲を見回っていたのだと判断する。
が、納得がいくのはそこまでで、説明不足には納得がいかない。
「おい、ラム。ここにいるのはお前と俺の二人だけじゃなかったのか?どういうことだよ、説明しろ」
「ラムは一度も、ラムとバルスの二人きりだなんて言った覚えはないわ。バルスが勝手にそう判断して興奮していただけでしょう。見苦しい」
「レムが心配すぎて配慮に欠けた、って言った方が可愛げがあるぞ、姉様」
「ハッ」
スバルの物言いに、ラムがいつもの調子で小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
その態度に復調を感じつつ、スバルはアナスタシアの方へ歩み寄る。
「謀られたのはともかく、アナスタシアが無事だったのは朗報だ。安心したぜ」
「その謀とうちは無縁やから誤解せんといてな?うちも一人やなしでホッとしとるよ。それにナツキくんの地竜、パトラッシュちゃんがいい子で助かったわ」
鞍に足をかけ、アナスタシアがおっかなびっくりパトラッシュから降りようとする。と、パトラッシュはその場にゆっくりとしゃがみ込み、降竜を手伝った。
さすが、できた地竜。イケ地竜である。雌だけど。
「他に隠れてる奴はいないよな?正真正銘、俺たち四人だけ?」
「パトラッシュちゃん含めて、四人で間違いないよ。エミリアさんやユリウスが出てこん理由ないし……まぁ、メィリィちゃんはわからんけどね」
「この騒ぎに乗じて逃げ出してるかもってか。……ないとは言わねぇが」
脳裏に三つ編みの少女を思い描き、スバルはメィリィの選択に考えを巡らせる。
分断直前、メィリィはこっそりと魔獣を従えて保険にしていたことをスバルに暴かれている。『死に戻り』したスバルは、実際にメィリィがその魔獣で、監視塔からの攻撃や花魁熊の群れから竜車を守るために使役したことを知っている。
ただ、それは今回の周回では起きていない出来事だし、本来、メィリィが何の目的で砂蚯蚓を従えていたのかは彼女の心の中にしか答えがない。
こうした状況になった以上、メィリィが一行から逃れて、一人で砂丘を離脱しようと試みてもそれはおかしくはない。
「けど、それはしてない……と、俺は思ってたいよ」
「期待?それとも、まさか信頼なん?」
「願いってとこにしといてくれ。それより、周りはどうなってたんだ?」
メィリィに対するスタンスはさて置き、スバルはアナスタシアに捜索の報告を求める。彼女はローブの袂に手を入れて、「それがやねぇ」と首を傾げた。
「うちの見たところ、砂丘の中なんは間違いないんやけど……たぶん、ここって地下なんやと思うんよ」
「地下?砂丘の、さらに地下ってことか?」
「砂丘の砂の下っちゅぅことやね。洞窟……やなしに空洞って話になるけど、地上と比べて明らかに気温が低いのと、空気が重たい」
合わせたローブの前を揺すぶり、肌寒さをアピールする仕草にスバルは頷く。
確かに現状、こうして過ごす空間の肌寒さは寸前の場面よりはるかに強い。高い天井と空の見えない空間、その推測にも辻褄が合う。
「砂丘の地下……嫌な予感がするわね。砂蚯蚓の穴倉じゃないことを祈るわ」
「う……それは……」
考えられる話だ。
実際、地中に生息する砂蚯蚓の存在は目の当たりにしているし、メィリィの使役した個体の巨大さを考えれば、この空洞は十分な大きさがある。目のない砂蚯蚓の生態を考えれば、この明かりのない空洞の闇もぴたりと一致だ。
「っていうかこのチーム、戦闘力に難ありすぎるだろ……俺とラムとアナスタシアって、わざわざ非戦闘員で固めたのか!?」
「エミリア様の騎士の身で、堂々と自分を非戦闘員扱い……これはダメね」
「現実を弁えてると言ってくれ。ベアトリスなしで自惚れるほど、俺は自分の鞭捌きに自信はねぇよ」
自衛手段のある面々と比べると、本当に戦闘力に欠如したメンバーだけが揃っている。制限付きのラムと、ベアトリスを欠いたスバルは言うに及ばない。
「ちなみに、そのベアトリス様は?契約者なら繋がりを感じないの?」
「生憎、俺とベア子は心では強く結ばさってるが、現実的な感覚は伴わない。いや、前にベア子は俺を感じるって言ってたけど、俺からは無理だ」
「使えない」
「うるせぇよ」
嘆息するラムから顔を逸らし、スバルはそっとアナスタシアに顔を寄せる。そして平然としている彼女の横顔に小さく囁いた。
「で、お前は戦えるのか?どうなんだ?」
「――いざとなれば、もちろん戦うとも。ただ、アナの命を削ることになる。ボクとしてはできるだけ避けたい。君たちに期待させてもらうよ」
「その期待は裏切られるぜ。良い意味か悪い意味かはわからねぇけどな」
一瞬だけ、エキドナの顔になったアナスタシアにスバルは鼻を鳴らした。
それから静かに指示を待つパトラッシュへ顔を向け、その鼻先を掌で撫でる。漆黒の地竜は無言のまま身を寄せ、その固い鱗をスバルに擦り付けた。
「痛い痛い……けど、安心した。エミリアにベアトリスも抜き……でも、お前がいてホッとしたよ。しかし、本格的に組分けに意味がなさそうだな」
「――バルス」
パトラッシュと不安を分け合い、ラムからの呼び声に振り返る。すると、ラムはスバルに向かって腕を組み、アナスタシアのきた方向へ顎をしゃくった。
「いつまでもジッとしていられないわ。他の人たちと合流するためにも移動しましょう。幸い、アナスタシア様のおかげで明かりはある。ラムたちは進めるわ」
「おお……って、そういや、この明かりはアナスタシアが持ち出したのか?」
「竜車が呑まれる直前に、ナツキくんの用意してた非常袋だけ掴んだんよ。おかげで明かりと、ナイフと、非常食だけは持ち込めたわけやね」
アナスタシアがパトラッシュを指差すと、鞍に小さな非常袋が引っかけられていた。それはスバルが『非常持出し用』として、竜車に備えておいた文字通りの備品だ。
役立つ機会がこなければ、と思いつつも役立った現状にホッとする。
「やっぱこの手の知恵って馬鹿にしたもんじゃないよな。……これからも、初めて泊まる場所じゃ最初に非常扉の確認するのを忘れないようにしよう」
「戯言はともかく、バルスのお手柄でもあるわ。さ、褒賞に明かりを持たせてあげるから、キリキリと先導なさい」
「へーい……って、これ褒賞?」
カンテラを渡されて、ラムとアナスタシアの二人がパトラッシュの背に乗る。
この図式、どう考えてもスバルが従僕のポジションだ。
「さすがに三人乗りは……うんとうちとラムさんが詰めたらいけるかな?」
「やめておきましょう、アナスタシア様。密着できるとなると、バルスがこれ幸いに体を押し付けてくるのが想像できます」
「想像するのは勝手だけど、そっちがそうくるなら俺はもっとすごい想像するからな!脅しじゃねぇぞ!思春期舐めんな!」
中指を立てて強硬に主張すると、さすがのアナスタシアも苦笑いだ。ラムの方の反応は相変わらずだが、スバルはカンテラ片手に空洞の奥へと歩き出す。
まるで状況を忘れたような、スバルとラムの軽口と言い合い――それはきっと、互いの心の中にある不安を直視しないように、空回りするほど虚勢を張っただけ。
そのことはたぶん、二人とも気付いていて、何も言わなかったけれど。
※※※※※※※※※※※※※
歩きづらさに苦心しながら、砂の大空洞をスバルたちは進んでいた。
さすがにパトラッシュは慣れたもので、背中に重石を二つ乗せていようと動きには何の問題もない。スバルの方もブーツに入る砂の感触を除けば、この数日で学んだ砂海の歩き方の応用で、さほど苦心せず進むことができた。
「風は……きてるような、きてないような」
「きているわ。ただ、風の細さを考えると地上と繋がっているのはずっと先ね」
道中、指先を舌で湿らせて風を探るが、スバルにはイマイチ判然としない。代わりに風に敏感なラムがそれを探るが、求める出口はまだまだ先のようだ。
それに出口もだが、優先したいのは仲間との合流でもある。そちらに関しては残念ながら、風に頼ったところで何の目印にもならない。
「エミリア様やユリウス様は、微精霊の導きで迷うことはないはずよ。その点でも、人選に悪意があると疑いたくなるところね」
「そうか。そういや、微精霊の道案内って結構有効なんだよな。クソ、俺の場合はベア子が存在的に強すぎて微精霊逃げるんだよな。キャパねぇし」
明らかになるのは、エミリアとユリウスの戦力面以外での強みでもあった。
索敵においても譲りっ放しのメンバーでは、探索も思うようには進まない。できる限り周りを見落とさないよう、丁寧に見回って進むだけだ。
「ラムさんやけど、ナツキくんが起きる前……飛ばされてすぐはかなり取り乱しとったんよ。レムさんが見当たらんくて、今は気丈に隠してるけど」
「……そうか」
こっそりと、アナスタシアにその話を聞かされ、ますます目覚めた直後のラムとの言い合いのバツが悪くなる。
記憶の中から妹の存在が掻き消え、それから一年間を過ごしたラムをスバルも見てきたはずだ。二人の間には、消えてしまったものがきっとうっすら残っている。他の誰でもなく、スバルだけはそう信じなくてはならなかったのに。
「まぁ、揃ってズブズブと暗い顔されるんも面白ぅないし、反省したんなら真っ直ぐ前見んとあかんえ?せやないと、大事なことも見落としてまうんやから」
「……調子崩れるな。お前、あんまりいいこと言うなよ。お前の大本にも似たようなシチュエーションで籠絡されかかってんだから」
「そろそろ、その大本とやらとボクのことは切り離して考えてほしいものだけど。あまりしつこいと女の子に嫌われるよ。これはボクの、時勢を見てきた経験則でもある」
「他のアプローチ知らないんでな。心の端に留めておくわ」
舌打ちまじりに軽口を交換し、進展のないことへの焦りと不安を誤魔化した。
そうした会話を挟みながら、一行は大空洞の奥へ進む。何の変化もない、砂の道に砂の壁――そんな道を歩みながら、思うことがいくつかある。それは、
「魔獣の巣かも、なんて警戒したわりに……一匹も魔獣と出くわさないな」
「それはラムも気になっていたわ」
足下の砂を蹴りつけ、そうこぼしたスバルにラムも同意する。
大空洞を奥へ進み、そろそろ小一時間が経過しようとしている。誰もいない、何もないことに焦りはあるが、それ以上に募るのは不安と嫌な予感だ。
無論、害敵が出ないことは歓迎すべきことには違いないのだが、静かすぎることにも嫌な予感は拭えない。――まるで、世界から切り離されたように。
「まさか本当に、どことも繋がらない亜空間に呑まれたわけじゃねぇよな?」
「したら、うちたちが頼りにしてる風はどっからくるのかってお話やね。この空洞の主で、尋常でなく大きくて凶暴な魔獣の鼻息やなんて想像でもする?」
「それを笑い飛ばせねぇのが怖いよ」
実際、何が起こっても不思議はない。すでに世界が破けるのはこの目で見たのだ。その裂け目がどこへ繋がっていたとしても、驚きには値しないのではないか。
「悪意に満ちた人選はともかく、まやかしが破られることを仕掛けた側が想定していたとは考え難いわ。狙ってやった無効化ではないし、偶然の産物でしょう」
「つまり、どういうこと?」
「この道がそのまま、魔獣の胃袋に繋がっているなんて最悪は想像するだけ無駄よ。――ほら、見なさい」
進展のなさが悲観的な意見に繋がるのを、ラムが理性的に否定する。それから彼女は説明の最後、足を止めたスバルに前を見るように促した。
その指摘に従い、スバルは目を凝らしながらカンテラを前に差し出す。すると、照らし出される空洞の通路は細まり、目の前に――、
「分かれ道だ」
「右か左か、といったところね。どうする?」
「俺の知識だと、こういうときは右を選べってクラピカが言ってた」
「誰やのん」
行動学的に見て、人は迷うと無意識に左を選びやすくなるというような話だった覚えがある。おそらく、利き目や利き腕、利き足まで含めると色々と条件が複雑になる問題だとは思うが、ひとまずそういった考え方もあるという話だ。
そのため、スバルの知る頭脳派キャラの理屈に従うと右に向かうのが正解と考えたいところなのだが――。
「それで、バルスはどっちに行きたいの?」
「……正直な話、左だ」
「クラピカのことはいいの?」
「誰やのん」
スバルの答えにラムが問いを重ね、アナスタシアがそれを茶化す。
字面だけ見れば、そのやり取りはそんな風に受け取ることができるだろう。
――だが、実際にはその言葉を交わす三人の顔色は悪いし、表情は硬い。その上、言葉を解さぬパトラッシュさえ険しい目つきで、右の道を睨みつけていた。
原因は、右の道から感じる圧倒的な負の感覚だ。
抽象的に言えば嫌な予感。もっと言葉を選べば、それは恐怖心に近い。
右の道を選ぶのは危険だ、と本能が警鐘を鳴らしている。
「右は……ヤバいと思う。碌なことにならない気がする」
「珍しく、バルスに同意だわ。アナスタシア様は?」
「カララギ流の多数決なら、二票入った時点でひっくり返せへんし……それにうちもここで右を選ぶ勇気は、正直なところ持ち合わせがないわ」
ない袖は振れない、とばかりに両手を振るアナスタシアの仕草が全員の答えだ。
スバルだけではない。ラムもアナスタシアも、パトラッシュと同様に右側の道に得体の知れない感覚を味わっている。故に、右の道は選べない。
「なら、左か。……これも、選ばされた感があって嫌な選択ではあるな」
「じゃあ、戻る?得るものはないわよ」
「失うものもない言うんは、消極的すぎるかもしらんけどね」
及び腰になるスバルに、ラムとアナスタシアの檄が飛ぶ。
仕方なしに肩をすくめ、スバルはパトラッシュの前を歩くように足を踏み出す。左の道へ向かって、真っ直ぐだ。
迷いを抱きつつもそうして進めば、右の道とはおそらく大きく空洞の中で距離が離れていくのだろう。砂の壁越しにも感じていたプレッシャーのようなものが遠ざかり、自然と肩に入っていた力が抜けるのがわかった。
「――嫌な場所だわ」
同じものを感じたのか、ラムがそう呟くのが聞こえて、スバルは無言で同意する。
あの分かれ道の、右の道に感じた圧倒的な負の想念。左の道を選んだのは本能的にそれを忌避したのもあるが、理由はもう一つある。
――スバルの胸の内側で、右の道への快哉を叫ぶ何かの存在がある。
それの言うことに従うことが恐ろしかった。
そのことも紛れもなく、スバルが道を選んだ理由の大きな要因だった。
※※※※※※※※※※※※※
チーム『非戦闘員』が空洞を進み、分かれ道を越えてさらに数時間が経った。
「――――」
「――――」
「――――」
ゆっくりと、大空洞の捜索を続ける三人の口数も激減している。
それは疲労感のせいでもあるが、代わり映えのない暗がりの中で、時間経過すらも曖昧になったが故の精神の摩耗も手伝った沈黙だ。
実際、数時間が経過したという感覚もスバルがそう感じているだけで、本当のところはわからない。思った以上に時間を上手く使えている可能性もあるし、あるいはもっともっと時間を無駄に浪費している可能性も捨てきれない。
わかっていることは、ただ、何の進展もないこと、それだけだ。
「……あの分かれ道、右だったかな」
「久しぶりに喋ったと思ったら弱音?やめなさい。みっともない」
ぼそりと、乾いた唇を動かしてぼやくと、ラムが辛辣に突き刺してくる。
しかし、彼女の毒にも覇気がない。薄々、このまま何も見つからないのでは、という不安に彼女も支配されているのがわかった。
足場の悪い砂の道を徒歩とはいえ、すでに数キロは歩いている確信がある。
それで空洞の果てが見えないのであれば、嫌な予感が掠めるのも仕方がない。道を誤ったのでは、と疑いたくなるのも当然だ。
いっそ行き止まりに達すれば、引き返す諦めもつくというのに。
「地上の、あの光の連射……なんだったと思う?」
このままネガティブな会話が続くのを恐れて、スバルは話題の方向性を変える。
議題に持ち上がったのは、この状況のそもそもの切っ掛けとなった監視塔の光――賢者の用意したと思われる、砂丘の防衛機構だ。
「針だったわ」
「針?」
スバルのその疑問に、ラムが言葉少なに応じる。彼女は聞き返すスバルに吐息をこぼすと、自身の桃色の髪をそっと撫でつけ、
「細かい原理はわからないけど、細長い針を魔力で飛ばしていたのよ。針が熱を持っていたのは、飛ばす魔法の作用でしょうね。ただ、針自体も特別製だったようよ。弾かれて砂の上に落ちたあと、崩れて消えていたから」
「……あの騒ぎの中、よく見てたな」
「ちらっと見れば、そのぐらいはわかるでしょう」
さらりと言ってのけるが、ラムの眼力が尋常でないだけの話だろう。現にスバルが目配せすると、アナスタシアは呆れた様子で首を横に振った。
ラムの場合は自分の才覚をわかっていての発言なので、ただの嫌味なのだが。それにしても、さすがの分析である。
「目的はなんだと思う?」
「監視塔に近付くものを倒す……にしては、バルスを執拗に狙ったのが謎ね。弱い敵から減らすのは戦術の基本だから、それかもしれないけど」
「クソ、否定できねぇ!」
遠目に見て、そういう判断を下されたのだとすればその通りなので仕方ない。とはいえ、そのおかげで仲間に犠牲者が出ずに済んだのだ。
無敵魔法のあるスバルが弱くてよかった、という結論に落ち着いていい。
ただその場合――、
「賢者と友好的な接触は、難しいってことか」
「それは早計やと思うわ。あっちからしたら、うちらの素性も目的もなんも知らんと仕掛けてきたわけやろ?話し合いの生じる隙はあると、うちは思う」
「それに最悪、用事があるのは賢者の知識であって人格じゃないわ。喋らないなら縛り上げて、適当に痛めつけてでも喋らせたらいいだけよ」
「姉様、それ悪役サイドの言い分だよ!?」
「欲しいものがあるなら手段を講じる。子どものお使いじゃないのよ」
唖然となるスバルにラムは平然としたものだ。それだけに本気が伝わってきて、スバルは自分の覚悟の甘さと底の浅さを思い知らされる気分だった。
本当にそれが実行されるかはともかく、ラムにその覚悟があるのは間違いない。それだけ、レムに尽くす本気が彼女にある証拠だ。
「――――」
ラムの覚悟に触れると、スバルも覚悟を決める必要があるのかもしれない。
レムのために手を汚す覚悟、ではない。それをレムのせいにすべきではない。
しなければならないのは、成果をもぎ取るための覚悟。
賢者という存在と相対したとき、それがどんな相手であったとしても、非情に割り切ることができる――そんな覚悟を。
「――――っ」
「パトラッシュ?」
スバルが唇を噛んでそう考えたのと、パトラッシュが息を詰めたのは同時だ。
地竜は進路を睨みつけ、目つきを厳しくしながら小さく唸る。その様子に気付いたスバルも足を止め、地竜を宥めに戻る。その首筋を撫で、「どうした?」と呼びかけた。
「何かに気付いたか?何が……」
「――原因は、これね」
言葉を途中で中断し、押し黙るスバルに代わってラムがそう言った。アナスタシアが顔をしかめて、パトラッシュと同じく通路の奥を覗き込む。
無論、暗がりの広がるそちらには何も見えないが、見えない代わりに訴えかけてくる別の感覚がある。――鼻腔に滑り込むのは、香ばしい何かの焼ける臭いだ。
「……火の臭い、だと思うか?」
「他のものには感じないわね。かといって、炊事の施設が整っているようにはとても思えないけど」
「これが火なら……臭いの原因は、文明人がいるからだよな?」
「――――」
縋るようなスバルの問いかけに、ラムもアナスタシアも簡単には頷けない。
彼女たちの判断もわかる。だが、漂ってくる臭いは明らかに目的があって何かを燃やす香りだ。ラムは炊事といったが、漂う香りもそれに近い。
焚き火か、あるいは食事のための煮炊きか。だとすれば、
「エミリアたちの可能性はあると思うか?」
「同じ場所に飛ばされた前提なら、可能性は十分にあるやろね。ただ、この状況で火を使うのが迂闊なんか合理的なんかは、うちに判断はよぅつかんよ」
「――――」
道の先にいるのが何者か、それはここで相談していても答えは出ないだろう。
ならば呼びかけて相手の意思を確認する、そんな発想も浮かぶが、
「道の先にいるんが人でも、友好的とは限らんね」
エミリアたちでなかったとすれば、可能性として該当するのは『賢者』か。監視塔にいるはずの賢者が降りてきているとは考え難いが、ないではない。
その場合、敵対を継続するなら相応の攻撃力が予想される。
「……明かりを隠して、進むか。火を使ってるってことは、向こうの方に明かりがあるってことになる。俺らの方は最悪、隠しててもいい」
「原因を確かめん言うのもおかしな話やし、妥当なとこやと思うわ」
スバルの提案にアナスタシアが頷き、ラムもそれに遅れて静かに同意する。
二つのカンテラの内、ラムたちの所有する方の明かりを落とすと、一行はスバルの持つ照明だけを頼りに、火の臭いが漂う通路の奥へ向かって進み出した。
「バルス」
「あん?」
「何かあったら、置いてまっしぐらに逃げるわよ。恨まないようになさい」
「そのときは呪わせてくれ」
怖気づきそうになるのがわかったからか、ラムの言葉に勇気付けられる。
スバルの軽口にラムが微かに唇を緩めるのを見て、スバルは改めて真っ直ぐに通路を先導。パトラッシュの息遣いを背後に感じながら進み、次第に火の香りが強まってくると、
「――!明かりだ」
通路の向こうに、微かに揺らめく赤い光を見つけた。
スバルは即座に自分の照明の明かりを落とし、背後の三人に沈黙するように指示する。それから腰を落として、忍び足で砂を踏みながら光の存在を確かめに向かう。
一歩、二歩――進むうちに、どうやら光が当たっているのは曲がり角の向こうであると見えてくる。通路は微かに左に折れており、火はその先からだ。
「――――」
静かに曲がり角に到達し、壁に背を当てながら向こう側を窺う。すると、わずかに熱気を孕んだ風がスバルの額をくすぐり、思わず目をつむった。
――直後、スバルの足下がふいに抉れ、砂の滑り台がその身を斜めに転がす。
「な――!?」
その不意打ちに堪え切れず、スバルは踏ん張ることも忘れて斜面を転がり落ちた。粒子の細かい砂は耐えるに能わず、一番下まで真っ逆さまに滑り落ちる。
頭から砂の山に突っ込み、おおよそ十数メートルの急斜面を転がったスバルはまたしても砂を吐き出して体を起こした。
「うげ!ぺっ!また砂……いや、それより……」
頭を振り、スバルは周囲を見渡す。今の驚きで思わずカンテラは手放してしまった。手近なところにあればと体の周りに腕をやり、固いものに手が触れる。
一瞬、カンテラを見つけたのかと思ったが、それは先ほどまで握っていた硬質なそれと比べて別物の感触だ。表面はカサカサで、触り心地は木の棒のようである。持ち上げてみると軽いが、太さと長さはそれなり。
「なんだ……?」
目を凝らして近付けても、暗闇の中ではその正体はわからない。
恐る恐る臭ってみると、ほんのりと感じるのは炭のような臭いに感じられて――、
「――――」
そう思った次の瞬間、突然の明かりが真後ろに発生した。
背後に出現したソレは赤く揺らめく原始的な輝きで、炎と呼ばれるそれである。そして炎が照らし出した世界に、スバルは自分が握るモノの正体を見た。
――それは、おそらく、生き物の足だ。
動物だったものが、その全てが炭屑になるまで焼き焦がされた、その結果だ。
そして座り込んだスバルの周囲には、そんな炭屑となった元生き物が散乱しており、スバルは無数の焼死体の真ん中に滑り落ちていたのだ。
「おぁ!?わ!わぁ!?」
手の中にあった炭屑を放り出し、スバルはとっさに後ずさる。だが、後ずさった背後に存在するのは恐ろしき焔であり、その熱波にうなじを焼かれて今度は前に倒れ込んだ。そしてようやく振り返り、それを直視する。
「――――ッ!!」
響き渡る咆哮を正面から浴びて、スバルは現実逃避気味に考える。
どうしてこいつらは、魔獣の鳴き声はどれもこれも、人間の不快感をこれ以上ないほど刺激するほどいやらしいものばかりなのだろうか、と。
無数の赤ん坊が一斉に泣き喚いたような、そんな高くひび割れた鳴き声が上がる。
焼死体だらけの空間で赤く燃え盛るのは、スバルの見たこともない冒涜的な生き物――まさしく魔獣だが、これまでとは毛色が違う。
スバルの知る限り、魔獣はどれも歪で醜悪ではあるが、何かしら既存の生物と掛け合わせたような、そんな形態であることが多い。
白鯨や大兎にしてもそうだ。どれも、動物としての基礎が存在した。
しかし、今、目の前に存在する魔獣には、その概念を当て嵌めたくない。
「――――ッ!!」
泣き喚く魔獣は、一見すれば馬との共通点を見つけられる。
細いが、大地を力強く駆けるために存在するたくましい四足。その四足に支えられる胴体が存在し、臀部から長い尾が揺れているのも馬と同じだ。
だが、本来なら馬の首が、頭部へと続くはずの部分に、人の胴体がある。人の胴体はさらに二本の腕を持っており、四足と加えて二つの腕の持ち主だ。そして人の胴体の首から上には頭がない。首から上にはそのまま、『角』が生えている。
魔獣の証明であり、他の動物と決定的に異なるためのわかりやすい目印。
その角が、頭の代わりに生えている。頭がないのだ。ならば鳴き声を上げる口はどこにあるのかといえば、人の胴体の胸から腹にかけてが縦に裂け、横向きに牙の生え揃った口腔がその存在を主張している。
「……化け物だ」
魔獣、という括りで呼ぶことすらおこがましい、生命の冒涜がそこに在る。
スバルの知識でならそれは、半人半馬のケンタウロスという空想上の生き物に近いが、まるで再現を途中で投げ出したかのような歪な像がそこにあった。
そしてケンタウロスはあろうことか、人の胴体部分の背中から炎の鬣を生やしており、信じられない火力で砂の空洞を焼き、赤い光を迸らせている。
その火力を見れば、周りに転がる焼死体を誰が作り上げたのかは歴然だ。火を使うなら文明人などと、そんな期待を抱いたのが誤りだった。
「――――」
ケンタウロスの人部分の腕は、五指を備えた人間の腕そのものだ。
ケンタウロスの馬部分の足は、蹄を形成した馬の脚部そのものだ。
その図体は六、七メートルほどあり、この空洞を闊歩するのにちょうどいいサイズと言える。――つまり、この空洞の主は、目の前のこいつだ。
「……ここも、罠か」
息を詰まらせ、スバルは絶望する。
講じる手段がない。とっさに腰の後ろに手を回し、鞭の柄を掴んだが、それで何ができるとも思えない。
そして息を呑むスバルに対し、ケンタウロスは目のない頭部を傾け、その口から聞こえよがしに咆哮を浴びせかけて、恐怖を煽る。
「――ッ!」
瞬間、スバルは虚をつくように動いた。
砂の上で身を回し、乱暴に炭屑の一つを蹴り上げてケンタウロスへぶつける。内部までこんがりと火の通った死骸はあまりに軽く、ぶつけても威力など皆無。だが、それでも牽制になればいい。急斜面へ取りつき、上の通路へと戻る。きた道を逆走することになるが、それは構っていられない。問題はこのケンタウロスがどこまで追いかけてくるのかがわからないことだ。こうして獲物を焼き殺して回っている以上、食欲がどれほどあるかは疑わしい。無論、魔獣は人間を本能的に痛めつけて殺すという性質があると聞く以上、そのことがプラスに働くとは限らない。それでも、少しでも上を向くための可能性になるのであればそれは――。
「かふ――」
そこまで考えたところで、スバルは自分の体が微動だにしていないことに気付く。
牽制に炭を蹴り上げたことも、振り返って急斜面を昇ろうと試みたことも、それ以前に鞭へ手を伸ばしたことも、どれもこれもスバルは達していない。
――何故ならそうなる前に、魔獣の息吹がスバルを焼いているからだ。
「――ぉッ」
理解に達した途端、スバルは全身が焼き焦がされる痛みと苦しみに絶叫する。だが、喉が焼かれ、肺の酸素を燃やし尽くされ、声など欠片も上げられない。
焼かれた肌が一瞬で泡立ち、皮膚が膨れて破裂すると、見たこともない体液が体中に溢れ、即座にそれが蒸発し、血が本当に沸騰する。
「――――」
のけ反ることも、苦しみに転がり回ることもできない。
筋肉と脂肪が灼熱に焼かれ、溶かされ、ぐずぐずになっていくのがわかる。痛みが遠のき、スバルは炎の中で溺れる錯覚を味わった。
火傷、そう火傷だ。火傷の深度について、どこかで見たことがある。
火傷には段階があって、三段階までいくと傷痕が残るし、皮膚を移植しなければならないと聞いた。それに人間は体の三割の皮膚を火傷すると、それだけで皮膚呼吸が困難になり、死に至るとも聞いた。
「――――」
短い髪が根本まで焼け、耳朶から溶けた鼓膜や脳髄が流れ出してくる。唇と歯茎が蒸発して歯が剥き出しになり、熱波の苦しみに舌を食い千切る。関係ない。すでに溺れている。火傷、これ、治るのか。ただでさえ顔に自信がないのに、火傷なんて負って愛想をつかされないだろうか。エミリアに、ベアトリスに、レムに。
「――ルス!!」
燃える燃える、視界が燃える。何もかもが燃えて、赤くなって、白んでいく。
凄まじい熱に血液が根こそぎ焼け焦げ、瞼が溶けてなくなり、眼球の水分が蒸発して白く濁り、何も見えない。
ただ、何か聞こえた。誰かが呼ぶ声が聞こえた。赤ん坊の泣き声が聞こえた。誰かが傍らに下りてくる。馬鹿。なんだ。逃げるって言ったくせに。どうしてもうこんなところに下りて。下りるとか、意味がわからない。それよりも、右に左に。
馬が、人が。違う。熱い。溶けて、燃えて、眠い。
溶けて、消え――。
※※※※※※※※※※※※※
「――いつまで寝ているの。いい加減に起きなさい、バルス」
「ぐらんぶる!?」
手足も一本も動かなくなり、焦げた思考が崩れ落ちるのを体感して、スバルは鋭い衝撃に現実へ引き戻された。
突然のことに体を起こし、スバルは砂の張りついた額の冷や汗を拭う。
「え、あ……え?」
周りを見回す。
暗い、何も見えない。それは、つい数秒前の恐怖を呼び起こすもので。
「ひっ」
「……呆れた。ただの暗闇にどれだけ怯えるの。子どもじゃあるまいし」
「――ぁ」
思わず体を竦めて、小さくなっていたスバルはその声に目を見開いた。
カンテラの明かりで自分の顔を照らし、ラムは小さく吐息をこぼす。それから静かにその場に跪くと、彼女はその手でスバルの頬を撫でたのだ。
「情けない顔」
「……俺の顔、溶けてないか?」
「――エミリア様以外の前では、蕩けてたところは見たことないわ」
頬に触れる掌の熱は、スバルの味わったそれとは比べ物にならないほど、温い。
故にスバルは理解する。炎の感覚と別の熱のおかげで、状況を。
また、自分は『死に戻り』して舞い戻ったのだと。
そしてここは砂丘で迎えた二度の『死』とは、また別の出発点であると。
砂の迷宮の攻略に、命懸けで挑まなければならないのだと。
――砂海に流れる冷たい砂が、焼かれたスバルを嘲るように見ている気がした。