『READY STEADY GO』


 

乱戦の開幕、最初の一発を放ってきたのは大サソリの方だった。

 

「――――」

 

赤い複眼が爛々と輝くと、直後に振るわれる尾から白光が迸る。

恐ろしいのは、こちらへ致命打を放り込むつもりの一撃が、それらしい掛け声の一つもなく放たれること。大サソリは吠えることもなく、淡々と死を繰り出してくる。

放たれる白光には嫌な思い出が多い。具体的に言えば、塔内での十五回以上の試行錯誤の中、半分くらいはこれに殺されている。

だが、それだけ殺されれば嫌でもわかることがある。

例えばそれは――、

 

「初速と、攻撃の予兆……!」

 

複眼と尾針、それぞれが攻撃の瞬間にささやかに光を増す。見間違いかと思うほどか細い変化の兆し、それがスバルが命懸けのトライ&エラーで掴み取った生存の目。

それを最大限に活かすべく、スバルはベアトリスを抱いたまま走り、大サソリとの距離をあえて詰める。何故なら、

 

「初速が一番、遅い……!」

 

言いながら、迸る白光を身をひねって回避する。

白光は遅いとは言っても、それでも下手な高校野球の投手のボールよりはるかに速い。幸い、選球眼には自信があった。なにせ、それがなければ生き残れない。

 

人生はトライ&エラーだと、どこかの偉い人が言っていた。が、その偉い人も命懸けの状況を想定してそう発言したわけではないだろう。

だが、足りないものは失敗を重ねるしかない。真理だ。そして、スバルには『幸運』にも命懸けの状況をトライ&エラーする能力があった。

それを駆使して、生存の目を探る。――これが、ナツキ・スバルの土俵。

 

「期待に応えられなくて悪かったな、俺!」

 

万能のナツキ・スバルを求めたもう一人の自分に、泥臭い戦い方しかできなくてすまないと心から詫びる。しかし、そんなスバルの腕の中、抱きしめられたまま一緒に臨死の舞踏を踊るベアトリスが「ふん」と鼻を鳴らして、

 

「何を言ってるのよ。スバルが期待に応えられなかったことなんて、一度もないかしら」

 

嬉しいことを言ってくれるベアトリス。彼女がさっとその手を掲げ、薄い唇から詠唱するのは重力の法則を捻じ曲げる陰魔法、『ムラク』だ。

一度はその効果を喰らい、はるか眼下へ突き落とされた大サソリだ。その漆黒の外殻を引き締め、二度も同じ目に遭うまいと力強く踏ん張る。

しかし――、

 

「足を止めたら、こっちの思いのままなんだからあ!」

 

踏ん張り、動きを止めた大サソリへと、魔獣の集中攻撃が襲いかかる。

メィリィが総攻撃を命じたのは、翼と角が一体化したような『羽土竜』と呼ばれた異形の魔獣だ。それらはまるで、死を恐れぬ弾丸のように大サソリへ迫り、その硬い外殻へと躊躇なく角を叩き付け、衝撃と、砕け散る音が連鎖する。

その衝撃の連鎖に大サソリが身悶えし、対処するために大鋏を掲げれば、

 

「――――ッッ」

 

そこへ、入れ替わりに猛撃を叩き込むのは異形の中の異形、うなされる夜の悪夢が具現化したような存在、人馬一体のケンタウロス、『餓馬王』だ。

赤ん坊の盛大な泣き声が監視塔の露台を席巻し、耳を塞ぎたくなる軋るような咆哮と爆炎が空にほど近い空間を暴力的に覆い尽くした。

 

「――――ッッ」

 

その炎の中心へ、餓馬王は手にした炎の槍を躊躇なく突き込む。灼熱の切っ先は鉄のような甲殻さえ焼いて穿つ必殺の一撃だ。

単純な戦闘力では大サソリが圧倒するが、それは攻撃が一切通用しないという意味ではない。当たれば、痛む。生物なら当然だ。

当たれば、痛む。当たれば。

 

「――――」

 

故に、当たらなければどうということはない、を大サソリは体現した。

繰り出される炎の槍を大鋏で受け止め、振り払う動きで餓馬王の腕を切断。斬られた傷から再生しようとする餓馬王だが、その傷が容赦なく自らの炎の槍で焼き潰された。ボコボコと泡立ち、復元しようとしていた傷の蠢きが止まる。

傷を焼けば再生できないのだ、と不必要な見識がそこで得られた。そして、動きの止まった餓馬王の胴体へ、大サソリの尾針が炸裂、巨体が内から爆ぜる。

 

「――――」

 

血肉がぶちまけられ、獰猛なる餓馬王の命が散った。

外殻に砕かれた羽土竜も、頭部と一体化した角が潰れれば命はない。命を壮絶に使い捨てながら戦う戦法は、外道非道と罵られて当然の振る舞いであった。

それが魔獣なら構わないと、そう目をつぶるのは間違いだ。だが、スバルは命に貴賤はないと、そんな綺麗事を並べようとは思わない。

 

命には価値がある。紛れもなく、価値の差もある。

自分にとって大事な人と、そうでない人間とは明確に命の重みの感じ方が違う。そこを欺瞞で隠そうとは思わない。だから、勝つために魔獣の命を使う。

そして――、

 

「俺を見過ごすのは、正しいけど間違ってるぞ!」

 

魔獣の先遣隊が吹き飛ばされ、赤く舗装された床を強く踏みしめる。左手にベアトリスを抱えたまま、大きく振りかぶる右手に握られるのは抜き放った鞭だ。

かつての強敵の屍を使い、冒涜的な仕上げを施されたギルティウィップ――音を切り裂く、ナツキ・スバル最速の一撃が大サソリの外殻の一部を直撃する。

 

雷鳴のような音が鳴り響き、赤い複眼がスバルを睨んだ。その大サソリにダメージが通った様子はなく、痛苦を覚えた様子は皆無。

だが、それでいい。狙いはダメージを与えることではない。だからこそ、大サソリはスバルへの対処を、他の魔獣より最後へ遅らせたのだろう。

その判断は正しいが、間違っている。

 

「うおらあああ――っ!!」

「一本釣りなのよ!!」

 

外殻に絡んだ鞭に力を込めて引き上げれば、大サソリの巨体が反動で浮かび上がる。それはベアトリスの陰魔法の効果が残り、巨獣の重量が激減している証拠だ。

とっさのことに大サソリが踏ん張ろうとするが、その足下は大量の血と臓物で汚れていて、踏ん張るには最悪のコンディションだ。鋭い爪が床にその身を繋ぎ止めようとするのを、スバルは豪快な身振りで一気に釣り上げる。

 

傍目には、まるでスバルの怪力が巨獣を振り回しているように見えるシチュエーション。ベアトリスの協力があって実現した豪快そのものの光景は、大サソリの巨体を鞭で限界まで振り回し、振り回し、振り回し、放り投げた。

 

「吹き、飛び、やが、れええええ――っ!!」

 

超ジャイアントスイング的な勢いで、大サソリの体がくるくると宙を舞う。

その間、激しく回転しながら、大サソリも正確な狙いでスバルへ白光を叩き付けんとする。だが、それをことごとく打ち払うのは、ベアトリスの掲げた掌だ。

中空に紫色に輝く結晶を作り出し、白光を正面から撃墜する。その連携が活きるうちにスバルは鞭から大サソリを解放、再び、空へと大サソリが吹っ飛んでいく。

 

「これで、また時間が……」

 

稼げる、とスバルは肉を切らせて骨を断つような薄氷の攻撃に活路を見出す。が、その言葉を言い切るより前に、スバルは目を見開いた。

眼前、空へ吹っ飛ぶ大サソリが、驚くべき曲芸を披露したのだ。

 

「――――」

 

薙ぎ払うような大鋏の一撃が、大サソリ自身の尻尾を根本から叩き切る。そのまま、赤黒い体液をまき散らして吹っ飛ぶ尻尾、そこから最後の最後、白光が放たれた。

その白光が、尾を失った大サソリを捉え、凄まじい勢いで監視塔のバルコニーの方へと吹き飛ばす。重量を失い、軽くなったのを利用した荒業――大サソリは衝撃波を伴いながら露台へ帰還し、大鋏を床へ突き立てて制動、こちらを睨みつける。

 

「と、とんでもねぇ曲芸しやがる!けど、それで尻尾がなくなったってんなら、かえってこっちとしちゃありがたい……」

 

「――――」

 

「って、オイオイオイオイ!」

 

着地し、低く身構える大サソリの尾部から、さらなる赤黒い出血がある。しかし、それは傷が深くなったのではない。逆だ。――傷口から、千切れた尻尾が再生する。

それだけではなく、自らに喰らわせて吹き飛ぶのに利用した白光、それで生まれた外殻のひび割れも、同じように泡立ちながら傷が埋まるのが目に見えた。

 

「硬いし治るし賢いし、シャウラらしくねぇ特徴ばっか増やしてんじゃねぇぞ!?」

 

治るはともかく、シャウラの体は柔らかかったし、頭は悪かった。が、それらのシャウラ特性をかなぐり捨て、大サソリは圧倒的殲滅力でこちらを狙ってくる。

再生した尾を振り回し、正確な狙いではなく、ばら撒く形で尾針が周囲へと放たれる。それは攻撃の予兆と無関係の範囲攻撃で、地力で劣るスバルたちには最悪の攻撃手段と言わざるを得なかった。

 

「うおおおおお――!?」

「ぐ……スバル、飛ぶしかないかしら!!」

 

放たれる白光から逃れる術が地上にはない。となれば、活路を見出す先は上空だ。とっさにベアトリスが大サソリの魔法を解除、即座にスバルへかけ直す。

その魔法が効果を発揮するか否か、パートナーを信じてスバルは地面を蹴り、思い切り宙へ飛び上がった。その足下を掠めるように、白光が露台を砕いていく。

 

「ギリギリセーフ……!」

「ってわけにもいかないのよ……!」

 

致死の可能性を文字通りに飛び越え、しかし、安堵の暇はない。

先ほど、スバルたちが大サソリに仕掛けたのと同じことだ。上空へ逃れれば、踏ん張る足場も逃げ道も失う。――ならば、あとは攻撃に砕かれるだけ。

 

「ベア子!オリジナルスペル、第二弾――!」

 

日に三回しか切れない切り札だが、切りどころをしくじって死ぬわけにはいかない。スバルが強く肩を抱き寄せると、即座にベアトリスも同じ判断を下す。

瞬間、特別な術式の展開準備に入り、スバルの肉体を一定の無敵時間が――、

 

「――――ッッ」

 

「うお!?」

「わぷっ!?」

 

術式が発動する直前、スバルとベアトリスの体が横合いからかっさらわれる。同時、放たれる白光がスバルたちのいた空間を通過、危うく、蒸発していたところだ。

その危機からスバルたちを救い、大サソリの追撃から二人を守り通すのは――、

 

「た、助かったぜ。何がどうなって……うげ!?」

「かしら!?」

 

ゴムのような質感にしがみついて、自分の身に何が起こったのか確認したスバルが驚愕に喉を震わせる。同じく、懐ではベアトリスも大いに顔をしかめていた。

何故なら、二人を大サソリの攻撃から救い、今も懸命に守ってくれているのは、青黒い体色と凶悪な外見を持った魔獣、餓馬王だったからだ。

 

「地下で初めてお前を見かけたときは、まさかクライマックスで共闘することになるとは思ってもみなかったぜ!」

 

「――――ッッ」

 

虚勢を張ったスバルの言葉に、餓馬王が耳心地最悪な鳴き声で答える。と、そんな餓馬王に頬を引きつらせるスバルへと、餓馬王の別個体が横に並んだ。そして、その餓馬王の背中に小さな体でしがみつくのはメィリィだ。

 

「今、危うく奥の手を出しそうだったんじゃなあい?もっと慎重にやってよねえ。お兄さんとベアトリスちゃんの奥の手が、わたしにとっても命綱なんだからあ!」

 

「ナイスセーブ!ナイスフォロー!よくやってくれたぜ、メィリィ!このまま、戦うフィールドを変えるのってやれるか!?」

 

「要するに、場所を変えたいのお?それはできるけどお……」

 

「じゃあ、頼む!ひとまず、ここじゃ逃げ道が少なすぎる!」

 

周囲を見回して、スバルは足場の少ないバルコニーでの戦闘放棄を決断する。すでに魔獣の死体が多数散らばり、イレギュラーなアクシデントも起きかねない状況だ。

その判断の効率性を考え、頷くメィリィが餓馬王の背中を叩き、「お願い」と命じる。するとそれを聞いて、二体の餓馬王の速度が加速――バルコニーの外へ飛び出し、凄まじい動きで一気に監視塔の壁を駆け下り始めた。

 

「お、おおおおおお――!?」

「わばばばばばばばばばばばばなのよ!?」

 

想定以上の荒業に、スバルとベアトリスが抱き合いながら絶叫する。だが同時に、餓馬王すら従え、自分の戦力に加えるメィリィの能力には脱帽しかない。

 

「――――」

 

攻撃力の高い餓馬王を筆頭に、中空を飛んでいる羽土竜、地上には巨大な砂蚯蚓、花魁熊やその他、多数の魔獣が味方となれば、戦略はぐっと広がる。

それは遅滞戦術を重ね、時間を稼ぎたいスバルにとって最善の相方と言える。

 

「バラエティに富んだ攻撃手段の数々!メィリィ!俺とお前って、ひょっとすると思った以上に相性がいいのかもしれないぜ!」

 

「やめてよねえ、お兄さん!わたし、ペトラちゃんやベアトリスちゃんに睨まれるのなんて絶対に嫌なんだからあ!」

 

監視塔を垂直に駆け下りながら、並んだ餓馬王の背中にしがみつくメィリィと叫ぶように言葉を交換する。スバルの軽口に、メィリィは本気で嫌がるしかめ面。その反応に微妙にナイーブな男心が傷付くが、今は些細な傷には目をつむるとき。

 

「砂海に落ちたら、二回戦開始だ。あいつは俺を追ってくる!ひとまず、中のみんなに手出しはされねぇはず……」

 

「でもお、決定打がないのは一緒でしょお?いつまでも逃げ回ってても勝ちは拾えないんじゃなあい?」

 

無尽蔵に魔獣の湧くアウグリア砂丘だ。魔獣の残弾は尽きずなくならず増え続けるが、それが保証してくれるのは継戦能力であり、決定打ではない。

 

「――――」

 

ちらと見れば、メィリィは額に浮かぶ汗を拭い、微かに息を荒くしている。

それは鉄火場、矢面に立たされることへの緊張感もあるが、少なからず、魔獣を操っていることのフィードバックもあるように思えてならない。加護を持たないスバルにはわからないことだが、加護も使いすぎれば毒となる可能性は十分あった。

 

「加護が制御できなかった頃、世界は地獄みたいでしたよなんてオットーの奴は冗談を言ってたが……」

 

あながち、酔い潰れたオットーから飛び出た一言も馬鹿にならないのかもしれない。

仮にオットーの言う通り、加護が負担になるなら、メィリィの戦いにも限界はある。もし戦いの最中にメィリィが倒れれば、たちまちスバルたちの敗北は確定だ。

つまり、この戦いは――、

 

「いかに、メィリィを蝶よ花よと愛でられるかで決まる――!」

 

「なんか、最高に聞き捨てならない作戦かしら!」

 

言い切ったスバルにベアトリスが眉を立てた直後、衝撃が二人の全身を貫く。それは、猛烈な速度で塔を駆け下りる餓馬王が終点に到着した証。

すなわち、監視塔の垂直の壁を突破し、砂海へ帰還した証拠だった。

 

「なんだかんだ、ずっと傍にあったけど……こうして降りてみると、まただいぶ感じ方が違ってる気がするな」

 

「どんな気分なのよ?」

 

「最悪の気分。砂漠って砂だらけで嫌い。ゲームでよくある砂のステージも、俺は好きじゃなかったの思い出した」

 

ゲームのシステムによっては、猛暑で歩いているだけでキャラクターのHPが減ったりする場合もある。この砂海は熱砂とは関係ないが、それでもいい思い出がない。

その上、周囲を無数の魔獣の群れに囲まれているとなれば、なおさらだ。

 

「襲ってこないとはわかっていても……」

 

鼻の曲がるような甘ったるい香りや、それを上回る獰猛な獣臭さもあり、砂海を取り巻く空気の悪さは世界屈指と言っても差し支えない。見覚えのある魔獣からない魔獣まで多数取り揃えられた環境は、魔獣の研究者でもいれば垂涎なのだろうか。

生憎と、スバルたちにとってはただただ居心地が悪いだけだ。

 

「それでえ、質問の答えはどうなのお?」

 

身震いするスバルたちの隣へ、餓馬王に跨るメィリィが並んだ。問いかけの答えを欲する彼女に、スバルはちらと塔を見上げると、

 

「お前の言う通り、俺たちじゃシャウラを……あの大サソリを何とかできない。だから全部の鍵は、エミリアたんが握ってる」

 

「……さっきの、銀髪のお姉さんのこと?」

 

「そうだ。エミリアたんと、五つ目のルールが全部の鍵」

 

訝しむメィリィに頷きかけ、スバルは掌を彼女へ突き出した。立てた指は五本、それがこのプレアデス監視塔における、挑戦者であるスバルたちへ課せられたルール。

 

「『試験』を終えずに出られない。『試験』の決まりは破れない。書庫への不敬は許されない。塔を壊してはならない。そして……」

 

「そして?」

 

四つ目のルールまではメィリィも聞いているはずだ。

しかし、五つ目のルールは彼女も知らない。シャウラが隠そうとしていたから、そのルールを知ることができたのは、シャウラ本人と、『死に戻り』したスバルだけ。

 

シャウラが口を噤み、教えようとしなかった五つ目のルール。

それは――、

 

「――『試験』を壊すことは禁じない。この塔のルールは壊せる」

 

『試験』が挑戦者の、スバルたちの行動を縛り付ける。だが、それは同時に、試験官であるシャウラの行動を縛り付けるルールでもある。

シャウラは塔のルールに縛られている。だから、彼女はスバルたちを殺したくないと思っても、大サソリと化して殺そうとする因果から逃れられない。

それが、彼女を四百年以上も縛り付ける楔ならば――、

 

「――っ!くるかしら!」

 

ベアトリスの警戒の声の直後、凄まじい噴煙がスバルたちの眼前で発生する。

それは真っ直ぐ、塔を駆け下りるのではなく、バルコニーから地上へと躊躇なく飛び込んできた巨大な影が生み出した衝撃波だ。

噴煙の奥から聞こえるのは、ギチギチと鈍く重々しく鳴り響く大鋏の擦れる音。ゆっくりと姿を見せる大サソリの複眼が、周囲を取り囲む無数の敵ではなく、一心不乱にスバルの方へと向けられている。

 

「ベア子!メィリィ!時間を稼ぐ!俺たちの勝利条件は、エミリアたんの勝利!」

 

「合点承知なのよ!」

「それって、具体的にどのぐらいなのかしらあ?」

 

「エミリアたんのできる、最高速度だよ」

 

いつだって、エミリアは本気だし、一生懸命だ。

だから、彼女が目の前の問題に妥協したり、手を抜くことなんてありえないから。彼女の繰り出す結果はいつも、彼女の出せる最大にして最高火力。

それを信じて愛して、大切に思うから、ここで踏ん張れる。

 

「さあ、やるぜ、運命――いや、塔のシステムをぶち壊す!」

 

△▼△▼△▼△

 

「なるほど、つまり君はそのために――」

 

「ええ!そうなの!スバルに言われたのよ。塔の一番上まで上がったら、この状況を書き換える方法がきっと見つかるって!」

 

はきはきと答えながら、エミリアが走る足に力を込める。そうして走る彼女の腕の中、抱かれているのは体を小さくするエキドナだ。

最初はエミリアに手を引かれて走っていたのだが、途中でまどろっこしくなったエミリアに抱き上げられ、その後はされるがままになっている。

実際、この方がずっと早いし、体に負担をかけずに済むので助かるが――、

 

「君も君で、体力を温存しなくてはいけないんじゃないのかい?何が待ち受けているのか、さっぱりわからないんだろう?」

 

「え?あ、心配しなくても大丈夫!アナスタシアさんの体ってすごーく軽いから、エキドナが入ってても全然変わらないわ。らくちんよ!」

 

「僕の有無はアナの体重には関係ないからね……いや、そうじゃないんだ」

 

微妙にすれ違う受け答えに、エキドナはやりづらさを感じながらエミリアを――見慣れないハーフエルフの美貌を見る。

『暴食』の権能で、その存在の『名前』を奪われてしまった仲間の一人。境遇はユリウスと全く同じはずだが、その振る舞いが彼とだいぶ大きく違っている。持ち前の精神性の違いだろうか。あるいは、支えとなる人間の差なのか。

 

「君は、自分が忘れられたことが恐ろしくないのかい?」

 

「すごーく怖いし、寂しい。でも、膝を抱えてる時間がないから。でしょ?」

 

ぽつりとこぼれた問いかけに、エミリアから律義な返答があった。その、切り替えの強さは彼女の精神的なタフさの証明なのか、あるいは別の要因にも思える。

 

エミリアは言っていた。――スバルが覚えてくれているから、不安じゃないと。

 

それはひどく、単純で夢見がちな一言だが、同時に真理であるようにも思えた。

 

「――――」

 

ナツキ・スバルが、『暴食』の権能の効果を受け付けない原因は不明だ。厳密にいえば、彼も影響を全く受けないわけではない。現に、彼自身の『記憶』が失われたのは、『暴食』との予期せぬ遭遇が原因であったというではないか。

だから、起きた出来事の全てを、スバルの特別性が要因だと言い切ることはできない。つまり、あったのではないか、可能性は。

 

何らかの方法で、『記憶』も『名前』も守ることが、できたのではないか。

それができていたなら、アナスタシアのことも、ユリウスのことも――。

 

「――――」

 

全てに忘れられたユリウスの心情を思えば、揺らぐ彼を誰が責められようか。だが、同じ状況に置かれたエミリアの強さを見れば、その差はなんなのか思わずにいられない。

その差は、傍にいる人間の差。支えようと、傍らにいる人間の違いではないか。

ユリウスもまた、支えがあれば崩れずにいられたのか。そしてそれは、エミリアにとってのナツキ・スバルであるように、誰かがいられたはずではないのか。

 

「ボクは……」

 

どうすべきなのか、その答えはエキドナの中で出せない。

こんなにも頭を悩ませたことは、空虚な人工精霊としての生涯の中、初めてのことだったかもしれないと思わされるほどに。

 

「エキドナ?」

 

「――。何でもない。それより、本当なのかい?君が二層の『試験』を……レイド・アストレアの暴力を、一度は突破しているというのは」

 

「ん、ホントよ。もう、そんなことまで忘れられてるなんて、すごーく説明が大変」

 

可愛らしく頬を膨らませるエミリアだが、そんな彼女があの『暴力』が服を着て歩いているような男の『試験』を突破している事実に恐れ入る。

この状況で彼女が嘘をつくとは考えられないのと、短時間でも彼女が嘘をつくのに向いていない性格なのはわかるので、全ては事実なのだろう。ほんの一瞬だが、バルコニーで大サソリを相手に見せた立ち回りからして、相当な実力者なのも疑いがない。

だから、あとの問題は――、

 

「塔の一番上に上がれば事態を打開できる。その根拠は?」

 

「スバルが、シャウラから五番目の決まり事を聞いたんですって。それで、スバルが色々考えてくれて思いついたことだから、きっと正解よ」

 

「それも、ずいぶんと妄信した考えだとは思うが……」

 

「疑って話が進むならそうするけど、そうじゃないときだと思うし……エキドナも、スバルを信じてくれたから、一緒にきてくれるんでしょう?」

 

一片の曇りもない瞳を向けられ、エキドナはぐうの音も出なくなる。そんなエキドナの反応を見て、エミリアは場違いにも、嬉しそうに唇を綻ばせた。

 

「ほら、私の騎士様はすごーく頑張ってくれるのよ」

 

その頑張りが認められたことが誇らしい、と態度で示すエミリアに、エキドナもまた場違いな感傷を覚え、薄いアナスタシアの胸を掴んで、息を吐く。

 

「――――」

 

この感情は危険だと、自分で自分に言い聞かせる。

ひどく不合理で、場違いだ。少なくとも、今この瞬間に抱くべきものではない。できるなら永遠に忘れて、そうでなくともこの状況ではせめて。

 

「――そのスバルに、頼られたんだもの!」

 

強く強く、自分と、自分に寄り添う相手のことを信じる彼女への、羨望など。

今この瞬間は忘れて、事態の打開へ集中すべきなのだと。

 

「――――」

 

エミリアの長い足が優雅に回転し、飛ぶような勢いで階段を駆け上がった。そうして、長いはずの階段を乗り越えた先で、凄まじい銀光が火花を散らす。

眼前、開けた二人の視界を目一杯使い、右へ左へ大立ち回りを繰り広げているのは、薄紫の髪をなびかせ、白い制服を血で汚した騎士、ユリウス・ユークリウス。

そして、それと相対するのは――、

 

「ぐ、く――っ!」

 

「オラオラオラオラ!そんなンでオレをどうにかできンのかよ、オメエ。舐めてンじゃねえぞ、オメエ。オメエ、遊びにきてンのかよ。遊ンでほしけりゃ化粧してこいや。そしたら踏ンづけてイジメて可愛がってやンぞ、オメエよぉ!」

 

口汚い言葉と共に、その手に握った二本の箸で悪夢のような斬撃を繰り出す暴力の化身、レイド・アストレアが二層を舞台に死の舞踏を舞い踊る。

それが人知を超えた攻防であることと、それでもユリウスが劣勢に陥っていることは、悲しいかな、素人目にも一目でわかるほど歴然とした差があった。

 

「――っ」

 

無数の斬撃と、繰り出される蹴りを同時に捌きながら、ユリウスが騎士剣を回転させ、間隙に刺突を突き込むことで対抗する。

まるで光が迸るようにしか見えない超技術の鋭角な突きを、しかし、レイドは眼帯で片方の視界を封じられていながら、欠伸まじりに易々と回避してみせた。

 

「っらぁ!!」

 

直後、刺突の回避に目を見張るユリウスの胴へ、無造作に振り上げられた足が直撃、ゾーリの足裏に腹筋を抉られ、ユリウスの体が苦鳴と共に後ずさる。

そこへ、頭上から唐竹割りに落とされる箸の一撃――、

 

「飛び散っちまえ、オメエ」

 

縦一閃、衝撃波を伴った斬撃は大気を斬り、空間を斬り、概念を斬り裂く。

もはや表現方法すら思い浮かばないような圧倒的な剣撃は、その得物が箸であったにも拘らず、見るものが剣技の素人であったとしても、思わず目を奪われるような美しさ――剣技の到達点、その極致が実現されたものだった。

 

「――――」

 

ともすれば、その美しさに見惚れることが死因になりかねない斬撃。

それをユリウスは横っ跳びに躱し、間に合わずに剣に呑まれるマントの先端が蒸発する。材質の不明な監視塔、その二層へと冗談のように縦の切り口が刻まれた。

それに加えて――、

 

「オイオイ、それでよけた気になってンなら甘ぇぞ?」

 

「――っ」

 

嘲るような笑みと同時に、斬られた大気がたわみ、歪み、風が生じる。

瞬間、飛びのいたはずのユリウスが息を詰め、斬られた空間へと引きずり込まれるように足を引かれ、レイドの剣撃の射程距離へと引き戻された。

信じ難いことに、斬られた空間の復元する引力だ。それが一度は死から逃れたユリウスを引き戻し、まんまと次なる一撃の射程範囲へ放り込む。

とっさのことに身動きの取れないユリウスへ、レイドの拳が真っ直ぐに放たれ――、

 

「――そこまでよ」

 

刹那、二人の剣士の間に割って入ったのは、凛とした銀鈴の声音だった。

だが、その声の美しい響きとは裏腹に、戦いへの参入の仕方は豪快極まる。そのあまりの光景に、エキドナは思わず声を失った。

 

「ああン?」

「――――」

 

と、胡乱げな声で頭上を仰ぐレイドと、無言のユリウスの目が見開かれる。

二人の頭上へ展開した異物――それは、天井を埋めるような強大な氷塊だった。

 

竜車さえも一瞬で粉々にしかねない破壊の塊が、剣士たちの上へ降り注ぐ。

瞬間、レイドとユリウスの行動は対照的に分かれた。すなわち、ユリウスは飛来する氷塊を避けるべく飛びずさり、レイドは頬を歪めて笑ったのだ。

そして――、

 

「ハッ!!」

 

獰猛な笑みを湛え、落ちてくる氷塊目掛けてレイドが箸の一本を突き上げる。氷塊の落下点と、レイドの振り上げる箸とが衝突、奇跡的に点と点で力が均衡し、箸がたわむ。

その上で、レイドがゾーリで床を強く踏みしめると、踏み込みの威力が箸を伝わり、そのまま先端が支える氷塊へ流れ込み、箸が半ばでへし折れ、氷塊に亀裂が走った。

 

「……やってくれるじゃねえかよ」

 

吐き捨てるようにレイドが呟くと、直後、亀裂を中心に氷塊が一瞬で砕け散る。

パラパラと散りゆく氷片、それを浴びながらゆっくりと振り返るレイド。その青い隻眼に真っ直ぐ射抜かれ、相手に掌を向けるエミリアの頬に力が入る。

そのエミリアと視線を交錯させ、レイドは驚いたように瞠目し、

 

「ずいぶンと好戦的だったな、オイ。そンな女は嫌いじゃねえが……ああ!?なンだ、オメエ、マブすぎンだろ!?激マブじゃねえか!なンだってこンな砂海のど真ン中にこンな激マブがいやがる!オメエがオレの相手しろや、コラ」

 

「ごめんなさい。勝手に邪魔しちゃって。だけど、ユリウスにはあなたに勝ってもらわなくちゃいけないから……」

 

「あにぃ?」

 

レイドの自己中心的な文句には耳を傾けず、エミリアが眉尻を下げてそう続ける。その一言にレイドが頬を歪めたが、それ以上に困惑したのは救われた形のユリウスだ。

彼はエミリアの放った氷塊の射程から逃れ、レイドと一定の距離を保ちながらも、唐突に現れたエミリアへの疑念を隠せずにいる。そのまま、彼はその黄色い瞳を、エミリアの傍らに立っているエキドナへ向けると、

 

「助けられた形なのはわかるが……エキドナ、彼女は?いったい何者なんだ?」

 

「ボクからも、彼女の素性については説明の難しい立場でね。ただ、端的に言わせてもらえるなら、彼女はユリウス、君と同じ立場の人間だ」

 

「なに……?」

 

そう言われ、ユリウスが改めてまじまじとエミリアを見る。それから彼が微かに目を見張ったのは、そのエミリアの特徴と彼の知識の中の存在と一致を見たからか。

 

「銀髪に、紫紺の瞳のエルフ……いや、それほど特徴的な存在が突然に塔内に現れたとは考えにくい。ならば、まさか彼女は」

 

その外見的特徴の異質さと、その印象が自分の中に残っていないこと。そして塔内の状況を鑑みて、ユリウスが自発的に己の中の違和感を導き出した。

独力で答えに至ったユリウス、その彼の驚く瞳に、エミリアは深く頷くと、

 

「ユリウス、今なら私、あなたの気持ちがすごくよくわかるわ」

 

「では、やはりあなたも……」

 

暴食によって『名前』を奪われたもの同士、即座に状況を把握し合う。そしてそれが済めば、ユリウスの中でもエミリアが味方である確信が芽生えた様子だ。

彼は背後にエミリアとエキドナの二人を庇い、レイドに改めて剣を向けると、

 

「先ほどは助力に感謝する。だが、塔の置かれた状況を思えば、二人がここへ駆け付けた理由が掴めない。外の様子やレム嬢、『タイゲタ』の書庫はどうなっている?」

 

「それらを一切合切まとめて、何とかいっぺんに片付けようという試みが行われているところだよ。発案はナツキくん、協力者は塔にきている面々だ」

 

「スバルが?しかし、彼は――」

 

説明の途中で割り込んだスバルの名前に、ユリウスが訝しげに眉を寄せる。

彼の把握している限りでは、スバルは『タイゲタ』の書庫でレイドの『死者の書』へ挑み、そのまま意識の帰還を曖昧にした状態だったはずだ。そこからの復帰は難しいとベアトリスに言われ、彼なりに塔の混迷を打開するべくレイドとの戦いを続けている。

そこへ、目覚めたスバルの発案と言われても、自然と認識が繋がらないのは至極当然のことと言える。だが――、

 

「仲良く話してるとこ悪ぃンだが、オレを無視してくっちゃべってンじゃねえよ!」

 

どん、と床の爆ぜる音がして、突っ込んでくるレイドの箸撃をユリウスが受ける。箸の一本を失ったが、それでもまだもう一本が残っている状態。そもそも、箸がなければ代わりに手刀を使うだけで、レイドの戦力が目減りするわけではない。

 

「くっ!」

 

鋭い攻撃を受けながら、ユリウスが形勢を立て直し、懸命な防御に励み続ける。それを見ながら、レイドは文字通り、片手間で龍をも屠りそうな一撃を放ちつつ、隙を窺っているエミリアへと空いた手の指を突き付けた。

 

「さっきっから何狙ってやがンだか知らねえが、好きにさせると思うンじゃねえよ、オメエよ。オメエの相手は、この半人前片付けたあとに……お?」

 

言いながら、レイドが突然、首を傾げる。

彼は首を傾げたまま、突き付けた指で自分の左目の眼帯に触れて、「オイオイ」と忌々しげに吐き出すと、

 

「なンだ、オメエ。なンでか、オメエを止める手が動かねえ。いきなりオレが惚れたわけじゃなけりゃ、こいつぁまさか……オメエ、『試験』突破してやがンのか!」

 

「ええ、そうよ!あなたは、私の胸を箸で触って負けたの!」

 

「かっ!なンて本望な負け方してやがンだ。覚えてねえのがもったいねえったらねえぜ、激マブ!」

 

舌を鳴らしたレイドの発言が、彼を縛る何らかの楔がエミリアを捕まえられないことを示していた。それはすなわち、彼女の果たすべき役割の妨害が消えたことを意味する。

つまり――、

 

「ユリウス、私は……」

 

「行かれるがいい。私と同じ、その名前を知らない麗しの貴方よ」

 

首だけ振り返り、何かを言おうとしたエミリアを遮り、ユリウスがそう言った。騎士剣を構え直した彼の言葉に、エミリアが口を噤む。

そんな彼女の驚いた顔に、ユリウスは勇ましく微笑むと、

 

「貴方には貴方の役割がある。それが、私の力になることではないことはわかる。だからそれでいい。――どうか、万全に」

 

「――。ええ、あなたも!」

 

ユリウスの激励を受け、エミリアが頷いて走り出そうとする。その彼女の疾走を、レイドは止めようとしない。横を通り過ぎるのに任せ、隻眼の赤獅子は彼女を見送った。

そして、エミリアはこの二層の最奥、そこからさらに上へ続いている階段の前へ差し掛かると、そこで足を止めて振り返り、

 

「エミリアよ」

 

「――――」

 

「私の名前はエミリア、ただのエミリア。――あとでまた、必ず会いましょう!」

 

自分の名前をその場に残して、エミリアが颯爽と階段を駆け上がっていく。その背中が視界から消えるのを見届け、エキドナは長く長く息を吐いた。

ここから先、上へ向かうのがエミリアの役割。そして、エキドナの役割は――、

 

「君はどこへも行かず、私の戦いを見届けるというのか?」

 

「それを、君が許してくれるのなら。……いいや、そうじゃない。そうすべきだと、他ならぬボクが判断したんだ」

 

「――――」

 

ちらと、壁際に立つエキドナの方に視線を向け、ユリウスがその唇を固く結ぶ。その横顔に様々な感情が渦巻くのを見ながら、エキドナは小さく息を吸った。

そして――、

 

「何ができるわけではないが、アナがいたならこうしただろう。この塔の中では、どこにいたとしてもボクの立場は不安定なものだ。ならば、自分の意思で君の後ろに立つ。だって……」

 

「――――」

 

「――だって、君はアナスタシア・ホーシンの騎士。そうだろう?」

 

実感のないモノを信じるのは、とてつもなく勇気のいることだ。

形のあるモノを信じることと比べれば、確かめる拠り所のないモノを信じるために必要とする力は、いったいどれだけあれば安心できるのか掴めようもない。

しかし、その不確かなモノを信じて、エキドナは眼前の背中に言った。

 

「――――」

 

それを受け、ユリウスが長い睫毛に縁取られた瞳を伏せた。そのまま、彼は静かに深く長く、息を吐くと――、

 

「存外に、力をもらえるものだね。勇気を振り絞った誰かが、もはや何者でもないかもしれない私を信じ、期待してくれているということに」

 

「ユリウス……」

 

ユリウスにとって、失った足場は不確かで。

エキドナにとって、知っていたはずの絆は曖昧で。

そんな頼りないモノを頼りに、本来、繋がっているはずの関係と異なる関係を結ばなくてはならない二人は、しかし、この瞬間だけは確かに同じモノを見ている。

だから――、

 

「――ユリウス、君に伝言だ」

 

「伝言?」

 

「ああ。塔の至るところでみんなが戦っている。だからね。――さっさと片付けて、他の人の援護に回ってくれ、だそうだ」

 

「――――」

 

それが彼なりの声援とわかるから、エキドナは聞いた通りをユリウスへ伝える。その伝言を伝え聞いたユリウス、彼の細い肩が微かに強張った。

そして、ユリウスの中で、その伝え聞いた伝言の内容が咀嚼され、呑み込まれる。それからの反応は明瞭で、劇的だった。

 

「は」

 

短く、それは鋭い息のようにも思われた。だが、そうではない。

それは笑みだ。ユリウスが腹の底から一息だけ、笑みのための息を吐いた。そしてそのことは、ユリウスを知るものがこの場にいたなら、驚くべきことだった。

 

――ユリウス・ユークリウスが、戦いの最中に笑みを浮かべることなど。

 

「――彼が殻を破ったのならば、私もまた負けてはいられない」

 

それは静かな、だが、熱い想いの秘められた決意表明だった。

騎士剣を正面に掲げ、ユリウスが刀身に己を映しながら、対峙する敵と向かい合う。レイドは長く、退屈そうな顔をしていたが――鮫のように笑った。

 

「オメエ、やる気になったンかよ」

 

「失礼だが、戦いには常に真剣に向き合っている」

 

「違ぇ違ぇ、そうじゃねえ。オレが言わなくても、オメエもわかってンだろ?」

 

笑いながら、レイドが左手を上げ、自分の目を塞ぐ眼帯をめくった。そうして健在なその青い双眸で、剣士の頂は挑戦者へとご機嫌な殺意を向ける。

小胆なものなら、その眼光だけで殺されそうなほどおびただしい剣気。だが、ユリウスはその切れ味の鋭い眼光を真っ向から受け、その後ろでエキドナも身を硬くして耐える。

その剣気の嵐に耐えるユリウスたちを見て、レイドは大きく牙を鳴らすと、

 

「『棒振り』レイドだ。この名前だけ、覚えて散ってけ」

 

「――――」

 

戦いにおいて、剣を交える前に名前を交わすのは、戦士として対等と認めた証。その流儀をどこまでレイドが重要視するかはわからないが、レイドの考えはともかく、それを浴びせられた方の考えは劇的に変わる。

息を吐いて、整えて、ユリウスは昂る心を押さえ込み、

 

「改めて名乗ろう。私はユリウス・ユークリウス。ルグニカ王国、王選候補者、アナスタシア・ホーシン様の一の騎士。――名無しの騎士を気取るのは、返上だ」

 

己と、他ならぬ世界に刻み込むように、自らの『名前』を堂々と宣言した。

 

△▼△▼△▼△

 

ユリウスとエキドナの二人を階下へ置いて、エミリアは階段を駆け上がっていく。

長い足を懸命に動かして、飛ぶように階段を二段、三段飛ばしに上がっていくエミリアの速度は尋常ではないが、彼女自身の内心は、速く、もっと速くの一点張りだった。

 

「――っ」

 

強く奥歯を噛んで、エミリアは美しい横顔に必死の色を宿す。

階下、二層へ残してきた二人のことが心配だった。レイドはとても強く、乱暴者で、口がすごく悪い。相手をする二人が心身共に傷付けられるかもしれない。

 

もちろん、エミリアの心配はユリウスとエキドナだけに留まらない。スバルとベアトリスは、メィリィと一緒にちゃんとシャウラのことを引き止めていられるのか。ラムも自分の役割を果たせるのか。パトラッシュはレムを守ってくれるのか。『名前』を食べられてしまったせいで、またみんなと一から関係を築き直さなくてはならないのかとか、不安の種は尽きないし、足を止めると泣きそうになる。

だけど、足は止めない。涙も流さない。鼻の奥がツンとするのは堪えるのだ。

 

「まだ何にも、終わってなんかいないんだから……!」

 

信じられることと、信じてもらえていることが、今のエミリアの全部を支えている。

心配はたくさん、不安はいっぱい、だけど、それを上回る『信じてる』が満載だった。

 

「――っ!光!」

 

一心不乱に駆け上がっていく視線の先、エミリアの紫紺の瞳が白い光を捉える。それがこの長い長い階段の終わり、そして未知の一層へ続く光だとエミリアは解する。

そう思った瞬間、エミリアは強く床を蹴り、さらに加速した。

そして――、

 

「――出た!」

 

光を突き破るようにして、エミリアの前で階段が終わる。瞬間、その眼前に広がったのは一層と呼ぶべき空間――ではなかった。

 

「え……?」

 

呆然と足を止めて、エミリアは目の前の光景に思わず声を漏らす。それもそのはず、彼女の紫紺の瞳が映し出したのは、見慣れた監視塔の続きではない。

壁はなくなり、天井は失われ、広がっているのは凄まじく青い空――エミリアが立っているのは建物の中ではなく、外だった。二層の階段を駆け上がった結果、エミリアは塔の上に、そのまま屋上へと飛び出してしまっていた。

 

「一層って、外のことなの……?ここ、雲よりも高い……」

 

塔の上、てっぺんは丸く広々とした床があり、それ以外の仕切りも、塔の淵に手すりのようなものもない。だから、床の端までいけば、眼下を容易に見下ろすことができる。

塔には空のずっと上にあるはずの雲が接触していて、エミリアは自分が雲の中、あるいは雲の上にまできているのだと気付き、息を詰めた。

こんなに高いところへきたのは、エミリアでも初めてのことだ。だが、そんな驚きを得るエミリアは、すぐに別の感慨に意識を奪われた。

 

『――――』

 

――それは静かで、あまりにも堂々としすぎていて、気付けなかった気配だった。

 

「――ぁ」

 

自分の立ち位置や、雲の高さ、一層の状況などに目を向けていたエミリアは、視界の端を掠めた存在に遅れて気付き、それからゆっくりと振り返って、吐息を漏らす。

自分の『名前』を奪われ、世界中から忘れられたと絶望しかけても、それでもエミリアの心は最後のところで踏ん張った。――だが、そのエミリアさえも絶句する。

それほどまでに、彼女の目の前に現れた『存在』は想像の埒外だった。

何故ならそれは――、

 

「あなたは……」

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

重々しく、魂に直接轟くような声がして、エミリアは自分の声の震えを自覚する。

そんなエミリアを、心が弱いといったい誰が貶められようか。そんなことはできない。そんなことは不可能だ。何故なら全ての存在は、この存在の前にひれ伏すしかない。

その存在の名は――、

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

その体を青く輝く鱗で覆った巨躯、『神龍』ボルカニカが、エミリアを見下ろし、魂さえ吹き消しそうな存在感と共に、そう言い放ったのだ。

 

△▼△▼△▼△

 

塔の外で、大サソリと化したシャウラと、ナツキ・スバルたちの戦闘が始まり。

塔の二層で、笑う暴力装置、レイド・アストレアとユリウスの剣劇が再開する。

塔の一層では、そこで待ち受ける強大な存在とエミリアが思わぬ邂逅を遂げた。

そして、塔の四層と六層までを繋げた螺旋階段では――、

 

「あァ、まったくッ!せっかく奪ってやったってのに、碌に使いこなせやしない感覚じゃないか、僕たちってばさァ!」

 

苛立たしげに吐き捨て、焦げ茶色の髪を掻き毟りながら少年が舌打ちする。その頭を掻き毟る手を振り下ろせば、そこへ生じるのは氷で形作られた美しい装飾の剣だ。

奪った『名前』を元に、再現した特殊な力だが、その見た目と裏腹にマナの調整が絶妙に難しく、他の『記憶』との併用がかなり困難だ。元々、他人同士の技術を組み合わせるのは相応のセンスが必要で、ロイやルイはそこがうまくない。

 

「まァ、俺たちはそこが秀でてるからイケるわけだけどさァ」

 

『暴食』の権能を持つ三人の兄妹でも、それぞれの権能の使い方は微妙に異なる。そうした中、『美食家』であることに誇りを持つ身としては、弟妹の在り方には物申したいところも少なくない。――強みは優越感に繋がる。助言など、柄ではないが。

 

「可愛いルイとも、ロイの奴とも話が通らないし……あァ、仕方ないッ!二人が何もできないって言うんなら仕方ないッ!この塔の中にいるご馳走たちは、僕たちが根こそぎに舐っていいってわけだッ!いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃん、いいだろう、いいだろうさ、いいだろうから!暴飲ッ!暴食ッ!」

 

手の中の氷の剣を噛み砕いて、鋭い歯を剥きながら『暴食』――ライ・バテンカイトスは塔の中の標的たちを一人残さず、自分の皿へ並べることを決意する。

幸い、事情は酌めている。あとは順番と、何を主菜に選ぶかだけが――、

 

「――それを選ぶ権利が、自分にあるとでも思っているの?お気楽なものね」

 

「――――」

 

螺旋階段の上から降ってくる声に、ライが氷の咀嚼をやめ、首をもたげた。頭上、四層と五層の合間の階段に立つライを、四層に立っている薄紅の瞳がある。

血や炎と同質の色をしていながら、ひどく冷たい熱を孕んだ瞳が、ライの獰猛な飢餓感を憐れむように見下ろしていた。

そして――、

 

「聞いた話だと、ラムとレムの姉妹愛を引き裂いてくれたのがあなたらしいわね。――豚のように鳴きながら死になさい」