『契約の履行』


 

――ナツキ・スバルには、この状況を招いてはならないという強迫観念があった。

 

理由はわからない。根拠があるわけでもない。ただ、漠然とした不安でしかない。だが、そうなってはならないという確信だけが胸の内に確かにあった。

 

丘の上、銀髪を風になびかせるエミリアがこちらに掌を差し向け、両手を広げるペテルギウスがまるでそれを歓迎するかのように表情に喜色を描く邂逅。

この二人を遭遇させることだけは、絶対にあってはならないのだとスバルはこれまで無意識のうちに状況の回避に努めてきた。

それなのに今、手詰まりの八方ふさがりの絶体絶命の状況で、スバルがなんら手を用意できない追い詰められた事態に、彼女が居合わせてしまった。

 

「なん、でだ……!」

 

驚きよりも、後悔よりも先に、怒りが湧き上がる。

それはこの状況を避けなければいけないとわかっていて努力を怠った自分への怒りであり、そしてなにより、

 

「お前はわかってたはずじゃないのか――パックッ!!」

 

猛る怒号が草原を突き抜け、銀髪の少女の傍ら――そこに浮遊する精霊に届く。そしてその声を受けた精霊もまた、スバルの方に意識を向けることをせず、その視線は一心にエミリアの横顔に注がれていた。

手を振り、エミリアの周りを飛び回り、その顔に初めて見る焦燥を張りつけて。

 

「リア!ダメだ、今すぐにここを離れるんだ!魔女教の大罪司教だ!出会っちゃいけなかった!ここにいちゃダメだったんだよ!」

 

「今さら戻れないし、戻るつもりもない。みんながあんなになってまで戦ってるのに、ぬくぬくと大人しくしてられるようには育てられてないの」

 

必死のパックの呼びかけに、いくらかの緊張に頬を固くするエミリアが応じる。その頑なな姿勢にパックは顔に手を当て、「違う違う」と首を横に振り、

 

「誰がどうとかそういうことじゃない!魔女教だ!魔女教なんだ……あぁ、今になって思い出した!試練!試練なんだよ、リア。大罪司教が試練を課すんだ!そして、ボクは契約で試練には関われない!ここまでなんだ!だから……!」

 

言葉を切り、まるでそれ以上の言及を禁じられたように表情を強張らせるパック。常に余裕の態度をふりまき、己のマイペースを決して乱さない印象のあったその小猫の姿に、エミリアすらも驚いたように目を軽く見開き、

 

「パック……なにか、知ってるの?」

 

「なにも知らない!でも、なにかを知ってる!それがわかるんだ。だからダメなんだよ、リア。すぐに戻るんだ。ここにいたら、あいつらと出会ったら、きっと死ぬよりも恐ろしいことが起きる!」

 

答えにならない答えを口にするパック。だが、うろたえるばかりの彼は力ずくでエミリアを止めるわけでも、この場をその強大な力で無理やりに押さえるでもない。

その歯がゆいばかりの態度に、スバルは堪え切れない怒りを覚える。どうして、これほど胸が熱くなるのか自分でわからないまま、

 

「ここでエミリアが出てきたら……なんのために俺は!――お前は!」

 

「君がそれを口に出すのか!?リアがボクの言葉も押し切って、誰のためにこんなところにまで……!」

 

口惜しげに顔を歪めて、怒鳴ったスバルにパックもまた声を絞り出す。

彼のその答えに、スバルもまた目をそらすことのできない事実を悟り、自責の念に打ちのめされる。

 

当然で、当たり前の結論だ。

彼女が逃走する竜車から降りて、戦場に戻ってしまった理由などひとつしかない。

 

なにも言わず、彼女になにも伝えず、危険を押して残ったスバルたち。

他人のために損をする選択ばかりを選び、誰に疎まれても己の心のありように真っ直ぐに従う。――そんな彼女が、ただ守られるばかりを受け入れるはずがない。

 

判断ミスだ。またしても、スバルはそれを重ねてしまった。

そして重ねてすれ違ったまま、最悪のタイミングでそれが露呈する。

 

――もはや、状況は一刻の猶予も許さない。

 

「パックは……」

 

なおも丘の上、パックはエミリアに取り縋るようにして考えを改めるよう呼びかけている。だが、彼女の固い意志を曲げることなどできるはずもない。

エミリアも、パックに協力を求めることを半ば諦めて、自身の魔法力のみを頼るように目をつむり、詠唱を始めていた。

 

そして沈黙を守る不気味な狂人、ペテルギウスは、

 

「なんと……あァ、なんと良き日デスか。まさに映し身、器にこれ以上ふさわしい体はきっと他には……」

 

涙をこぼし、狂人は堪え切れぬ激情に声を震わせながら一歩、丘の方へ。踏み出す足が揺れているが、その歩みは確実に破滅への秒読みに他ならない。

 

「――――」

 

パックは当てにならず、スバルは使命感に突き動かされるままに立ち上がる。

そして触れていた手が離れると同時、パトラッシュの呼吸が静かに止まった。スバルの頬を、涙が一筋伝う。それを手の甲で乱暴に拭い、走り出した。

 

「スバルきゅん!?」

 

背後、驚愕するフェリスの声を置き去りに、全身の軋むような痛みも忘れてスバルが駆ける。横、魔女教徒と討伐隊のぶつかり合う戦場を一瞥もせず、走るスバルが一心に見つめるのは丘の上の少女のみ。

 

今、彼女と狂人の邂逅を阻止できるのは自分しかいない。

この身が、矮小な自分がどれほど力になれるのかはわからない。わからないけれどそれでも、やらなければならない。そうでなければどうして――。

 

「邪魔を、しないでいただきたい――デス!」

 

走り寄るスバルの気配を察し、首だけを傾けて振り返るペテルギウスの影が膨張――漆黒の魔手が飛び出し、スバルを絡め取ろうと一気に迫る。

こちらの四肢をもぎ取ろうとでもするような掌の圧力に、しかし身をひねるスバルは隙間をくぐるようにして速度を落とさずに回避。ここへきて、疲労感と負傷の度合いが重いはずの肉体に、集中力が研ぎ澄まされたことの変化が生じる。

 

即ち、火事場の馬鹿力の発露。

限界を越えた機動がスバルの肉体に起き、迫りくる掌を紙一重で避け続ける。

そのスバルの尋常でない動きにペテルギウスが舌を鳴らし、

 

「忌々しいデスが、アナタには見えざる手が見えて……」

 

「それ以上、その汚い口を開くな!お前にはもうなにもさせねぇ!」

 

彼我の距離が二十メートルを切り、スバルを八つ裂きにしようと溢れ出す魔手の数も視界を覆い尽くすほどになっている。

だが、体を引き裂かれることへの恐怖はない。スバルを突き動かすのは、死を恐れる心を押し退けて、なおも全身を焼き尽くさんと滾る焦燥の炎。

 

踏み込み、頬を掠めるように掌をかわす。左頬から耳にかけてがばっさりと裂け、血が噴き出す痛みに神経が焼かれる。だが、激痛にもがれそうになる意識を酷使して、スバルの体は前へ、前へ――そして伸ばした腕が、ペテルギウスの華奢な肩を掴もうと迫り、

 

「見えざる手で分が悪いとなれば、いた仕方ありませんデスね」

 

「――悪足掻きを!」

 

「――ウルドーナ」

 

短い詠唱を退屈そうな顔のペテルギウスが行う。

その単語を耳に入れたスバルが凝然と目を見開いた直後、スバルの踏んでいた地面が大きく揺すぶられ、軸足をすくわれるように体勢が崩れる。そして、

 

「まさ、か……!?」

 

「見えざる手はワタシにのみ与えられし寵愛の証デスが……それしか扱えないなどと、ワタシが口にしたことがありマスかね?」

 

首を九十度傾けて、悪辣な皮肉を口にするペテルギウスが遠ざかる。

否、スバルの足下の地面が凄まじい速度で隆起し、真上にいたスバルの体を上空へと押しやったのだ。

 

足下一帯が丸々、バネ仕掛けの足場のように跳ね上がり、上にいたスバルの体が軽々と宙へと投げ出される。その高さ、軽々と十メートルを越えて――、

 

「――ぅ、あ!?」

 

崩れた体勢のまま跳ねる地に打ち据えられ、胸を強打した息が詰まる。衝撃に意識が白濁し、その状態のまま投げ出されたスバルに落下に対する有効的な回避手段はない。

高所からの落下。それも、高確率で頭から落ちるのは以前に『真マーフィーの法則』で判明済みだ。今もまた、頭頂部からまっさかさまに転落、そのまま頸部をへし折られて命を落とす――寸前、

 

「スバル――!!」

 

銀鈴が緊急性の高い叫び声を上げたのと同時、落ちるスバルを真下から伸び上がる透質の質量が受け止める。

落下の衝撃をやわらげるように最大限配慮されていたそれであったが、材質が材質であるだけにダメージは避けられない。固い感触と、冷たい肌への刺激にスバルが苦しげに目を開ければ、そこにあったのは、

 

「氷の、山?いや、塔……?」

 

打ち上げられたスバルを救い出すために、隆起した大地と同じ高さまで築き上げられた氷山――それが、転落死からスバルを救った質量の正体だった。

 

血に濡れる肌が氷山に張りつき、皮を剥がされる痛みに顔をしかめて体を起こし、スバルは命拾いの安堵感と、取り返しのつかないミスを同時に得た。

 

――この氷山が、誰の手によって作り上げられたものなのかなど、考えるまでもない。

 

「――エミリア!!」

 

振り返り、スバルは滑る氷山の上で身を起こし、もどかしく顔を丘へ向ける。だが、視界を遮るように隆起した大地が断崖をさらしており、丘向こうに隔離される形になったエミリアとパック、そしてペテルギウスの動向を見ることができない。

 

ただ、エミリアの詠唱は妨害されてしまった。そして、ペテルギウスの見えざる手を彼女に見ることはできない――!

 

「最悪……最悪だ、壁の向こうに回り込むには……ッ」

 

氷山を降りて、隆起した大地の壁を越えなければならない。丘を塞ぐように盛り上がった大地は切り立った崖のようになっており、迂回して反対側へ回るのは地形的に難しい。スバル単独では、無理だ。

 

掌の皮が氷に張りつき、剥がれる痛みに脳が焼かれる。目の端に涙が浮かぶような鋭い痛みを繰り返し、文字通りに血を流しながら氷山を下る。

かろうじて、掴む取っ掛かりが複数ヶ所あったのが幸いし、必死であったことも合わせて驚くほど素早く半ば落ちるように氷の山を下山する。

だが、息をつく間もなく壁を見上げ、スバルは途方に暮れる。

 

「この壁が……クソ、あの野郎、三味線弾いてやがった……!」

 

血塗れの手で土の壁を叩き、スバルは歯を噛んでまたもや考えの浅さを悔やむ。

ペテルギウスの『見えざる手』さえ封じれば、奴を無力化できるとばかり考え、侮っていた。結果、こうしてまんまと裏を掻かれて――、

 

「――スバル殿!」

 

「……ヴィルヘルムさん?」

 

俯くスバルの背後から、老剣士が駆け寄ってくる。

負傷の度合い少なく、宝剣を提げた彼はスバルに頷きかけ、壁を睨みつけ、

 

「一瞬ですが、エミリア様を目にしました。――この向こうに、大罪司教も?」

 

「そう……そうなんだ!やられちまった!エミリアが……あいつと、ペテルギウスを会わせちゃダメだ!マズイことになる……うまく説明はできねぇんだけど、ダメなんだよ。それだけは……」

 

焦燥感の理由を言葉にできず、もどかしさを堪えながらスバルはヴィルヘルムに取り縋る。そのスバルの支離滅裂な言葉にヴィルヘルムは頷き、

 

「お任せください。壁は今、この手で切り開きましょうぞ」

 

「斬るつったって……」

 

この見上げるほどに高い壁をどうやって――という、スバルの疑問に対し、ヴィルヘルムはひどく端的な答えを行動で示した。

即ち、閃く白刃で壁を抉り、立て続けに無数の斬撃が土の壁を切り裂き始める。答えはシンプルに、文字通りに『斬り開く』のだ。

 

「う、お……」

 

本気の剣鬼の斬撃を、すぐ間近で目にするスバルはその圧倒的な技量に見惚れるより他にない。この正念場の一時にも関わらず、閃く刃の美しさに、斬撃の高みに、なるほどこれをして――剣の頂きというものの存在を知れるといえよう。

 

後方、壁に向かい合うスバルとヴィルヘルムを戦線から抜きつつも、魔女教徒と討伐隊の戦いは佳境へ入っている。

討伐隊――獣人傭兵団が善戦し、リカードの大ナタが魔女教徒を吹き飛ばす。そしてその背後、六つの異なる輝きの準精霊を従えるユリウスがおり、

 

「イア、クア、イク、アロ、イン、ネス――皆、力を貸してくれ」

 

名を呼ばれた準精霊たちが、その呼びかけに呼応するように各々の輝きを強くする。次の瞬間、ユリウスの握る細身の剣に六種類の輝きが灯り、虹色の刃となって『最優の騎士』を戦場へと送り出した。

 

「やっと準備完了かい!ずいぶんと待たしてくれたやないか!」

 

「すまないな、リカード。君の奮戦にずいぶんと負担をかけてしまった。――今から、その分の労苦に見合うだけの戦果を示そう」

 

リカードの罵声に凛々しく応じ、虹色に輝く剣をユリウスが軽く振る。宙、刃の通った軌跡を虹がなぞり、煌めきが光を乱舞させる。

幻想的ではある。だが、実用性に関しては判然としないその刃を、振りかざすユリウスが魔女教徒へ接近。それに気付いた黒装束が短剣を腰溜めに構え、悠然と進む騎士へと突きかかる。それを、

 

「今、私の剣は万象に干渉する。――挑むのは無益だ」

 

虹が閃き、黒装束の短剣が腕ごと消失する。

血すら出ない斬撃。両腕を肘まで失い、黒装束は自身に起きた被害の意味を呑み込むこともできずに、次なる斬撃を浴びて消滅する。

 

「さあ――虹の輝きに魅入られることを望むものだけ、私の前に立つがいい!」

 

口上を上げ、剣を掲げるユリウスへ魔女教が殺到。隣に立つリカードとともに、ユリウスがそれを迎え撃つ――なんとも、頼りがいのある姿だ。

そしてこちらも、

 

「壁を……抜ける!」

 

「――――しぃっ!」

 

掘り進む斬撃の向こう、壁越しにうっすらと光が差し込み、スバルが突破の期待に声を上げたのと同時、宝剣の先端が見事に壁を穿ち切った。

全身に土を浴びるヴィルヘルムが前蹴りで壁を蹴り崩し、人が通れる幅を確保。滑るように抜ける剣鬼に続き、スバルも壁の向こうへ顔を出す。

 

かなりの時間をロスしてしまった。その間、完全にこちらに対して干渉することができずにいた。その結果、もしもエミリアが失われていたなら――、

 

「エミ――」

 

しかし、そのスバルの最悪の想像は、まったく別の形で現実を展開していた。

 

「――あぁ、痛い、痛い、痛いデス、ね」

 

声の語尾を震わせ、ペテルギウスが痛みに呻いて血をこぼす。

すでにその半身、特に左の下腹部にはかなりの量の氷柱が突き立っており、左足に至っては地から突き出す杭が甲を破り、その身を大地に縫い付けている。

 

そして、それと向かい合うエミリアの背後には、いまだ射出されるのを待つ氷の刃がいくつも浮遊しており、戦局は一目でエミリア有利とわかる。

わかるからこそ――それは最悪だった。

 

「――エミリア!!」

 

スバルは叫び、それが現実にならないように声を尽くそうとする。

が、スバルがそれを言葉にするより、瀕死のペテルギウスがこちらに向かって掌を差し向ける方が――漆黒の魔手を伸ばす方が早い。

 

迫る掌、その速度はペテルギウス自身の生命力の問題か、見る影もなく遅い。見えていないヴィルヘルムを引いてかわしても、それでも余裕がある歩みほどの速度だ。しかし、スバルにとって脅威とは思えないその魔手が、

 

「危ない、スバル――ッ!!」

 

なにも知らないエミリアにとって、スバルの致命傷になるとしか思えなかった。

故に、

 

「あぁ、思考の放棄――アナタ、『怠惰』デスね?」

 

狂笑を浮かべた顔が、降り注いだ氷の刃によって切断されて宙を舞う。

首を断たれた胴体から血が噴出し、力を失う肉体が崩れ落ちる。宙を飛ぶ頭部は草原の向こうへ落ち、重い音を立てて視界の彼方へ。

 

狂人、ペテルギウスの息の根をエミリアが止めた。

それはスバルが想定した最悪の状況とは異なる、別の形の『最悪』であり、

 

「スバル殿。どうやらあのものは……」

 

大罪司教が死亡したことを確認し、ヴィルヘルムがかすかに相好を崩す。同じようにエミリアも、自身の行いに無念さを噛みしめつつも肩に安堵を残す様子。

その二人の前で、スバルは顔を上げる。そして口を開き、

 

「二人とも、今すぐに俺から離れ――ても、遅いデス!!」

 

両手を伸ばし、傍らのヴィルヘルムを突き飛ばそうとする直前、口が自分の意図したものとは別の動きを、発声を行う。

直後、スバルは自分の足下の地面が膨れ上がる錯覚を得る。否、影が爆発し、そこから無数の腕が生まれたのだ。

 

それはのたくる蛇のように音もなく上昇し、すぐ間近のヴィルヘルムを狙った。が、これを老剣士は間一髪。見えざる手の脅威を目視できないまでも、スバルの直前の警告を察して即座に身を翻し、跳ぶような動きと風の速度でエミリアの傍らへ。

 

それを、忌々しげに睨みつけるスバル――ペテルギウス。

 

「最悪の気分……デス。頭の中に他に誰かがいるって、こんなに気持ち悪いもんなのかよ……!」

 

傷口に指を抉り込んで、痛みで意識を明滅させながら自我を保つ。そうして気を張っていなければ、今すぐにでも乗っ取られてしまいそうな恐怖があった。

他人が、それも憎むべき存在が、脳の傍らにあまりにも堂々と居座る感覚。前回の件を踏襲すれば、この事態は予想できたはずだった。

だから、この状況だけは避けなければならなかったのに。

 

「なに……スバル、どうしたっていうの?」

 

「いけません、エミリア様。今、あれはスバル殿であってスバル殿だけではない。――スバル殿!正気にありますか!」

 

様子のおかしいスバルを心配げに見つめるエミリアを、腕で制したヴィルヘルムの呼びかけ。それに顔をしかめて、スバルは後ずさることで答えとする。

『憑依』に関しては、討伐隊全員に共通認識として話してある内容だ。ヴィルヘルムもスバルの態度に、彼の狂人の意識とせめぎ合っていることを悟っただろう。

 

自然、その表情に厳しさが宿り、握る宝剣の先端がこちらへ向けられる。即座に斬りかかってくるようなことはないが、警戒は確かに。そしてそれは、戦いに入る前にスバルの方から彼に願い出ていたことだった。

 

「約束守ってくれて……嬉しいデスよ、ヴィルヘルムさん」

 

「私にあなたを斬らせるようなことをさせないでいただきたい。……どうにか、支配されずに抜け出せませんか?」

 

「どうデスかね……正直、今も自我が保ててるかどうか怪しいぐらいなんデスけど。これ、気を抜くとすぐにでも……首とか、抉りそうで」

 

両腕が痙攣し、意識を外せば持ち上がる腕の指先が喉を目指して這うのがわかる。放置すれば、人体の限界に迫る力で首を抉り、激痛でもって生を終えることになるだろう。いちいち、自殺させたがる下種野郎だった。

 

「大体……他の奴の場合、自分で使うくせに……俺はすぐに自殺させようとするとか、どういう了見なんデスかね……!?」

 

声が震え、指先が震え、視線が定まらなくなり始める。

精神がペテルギウスに侵され、肉体の制御すらも徐々に奪われ始めた。すでに足先の方への感覚がない。そのままゆっくりと、端から端へとにじり寄るようにナツキ・スバルという存在がペテルギウスという存在に塗り潰される。

 

『これほど乗り移るのに苦戦するのはずいぶんと久しぶりデスね』

 

「精神体とお話とか……いよいよ、俺も末期な感じになってマスよ。クソが、デス」

 

脳内にファントム・ペテルギウスが浮かぶ。映像は初見のペテルギウス――今や爆発して粉微塵になったはずのビジョンだが、亡霊のようなそれがスバルの周囲をぐるぐると回り、必死で抵抗するスバルを舐め回すように眺め、

 

『いぃ抗いデス、いい表情デス、良い試みデス!試練!試練試練試練試練試練!試練とはこうでなくてはいけません!ワタシにとっても、魔女にとっても、器に過ぎぬ半魔にとっても同じことデス!試練!ああ、愛の試練をぉ!』

 

「耳元で、騒ぐなっつんデスよ、クソ。なにが、試練……このまま、お前なんざ押さえ込んで……自我の強さで俺に勝つ奴とか、そうそういてたまるか……」

 

強がり、虚勢を張り、自分の心を奮い立たせる。

そうでもしていなければ、今すぐにでもこの自壊衝動に身を任せてしまいそうになる。あるいは破裂寸前の足下の影から腕を伸ばし、周囲の存在を形も残らないほどに蹂躙し尽くしてしまいたくなる。

 

この衝動が、ペテルギウスが常に抱えているものだとするならば、なるほどこれまでのあの狂人の狂態・奇態に一種の納得を得ることができた。

 

これほど破壊に飢えるのであれば、指先を噛み潰すぐらい平気でできる。

これほど制御に難儀な権能を抱くのならば、精神の平衡を失ってもおかしくない。

 

――これが、ペテルギウスの見ている世界なのか。

 

『――理解など、求めてはいないのデス』

 

そこで初めて、幻影であるはずのペテルギウスがスバルに冷たく言い放った。

これまで怒りを、狂気を、狂喜を、感情として表現してきたペテルギウス。その彼の表情から、初めて感情の色が抜け落ちている。

それはいっそ、これまでのどんな態度よりスバルを底冷えさせるものであり、

 

『誰にもわかってもらおうなどと求めていないのデス。なにより、同情などワタシの与る愛に対する侮辱!屈辱!恥辱に他ならないのデス!寵愛に、ただ報いることだけを考え、思考し、意識し、努める!それだけで救われるの、デス!』

 

「お前……ッ」

 

顔を近づけ、ペテルギウスの幻影が舌を伸ばしてスバルを牽制する。

嫌悪感と、いくらかの憐憫がスバルの脳裏をかすめるが、それもほんの一瞬の気の迷いと意識から切り捨てる。

なおも、踏みとどまって支配権を奪い合う狂人と凡人――そこへ、

 

「――スバル!」

「スバルきゅん!」

「兄ちゃん!」

 

背後、魔女教徒の最後のひとりに至るまでを撃滅し、ユリウスを筆頭にフェリスとリカードが駆け寄ってくる。

 

「スバル!」

「スバル殿……!」

「――――」

 

正面、丘を下ってエミリアとヴィルヘルムが消せぬ警戒心と、その裏からにじみ出てしまう憂慮の表情をない交ぜにしたまま歩み寄ってくる。

 

音を高く、強く立てて、心臓が高鳴る。

集まってくれた面子の顔ぶれに心が荒ぶり、なによりエミリアがすぐ側に立つ。彼女の接近に打ち震えたスバルの心が、ふいに輝きを強くし、

 

「――――」

 

ふと、スバルの手足の震えが止まった。

それまで、自分の内側から溢れ出そうとするものと戦い続けていたその余波が、手足の震えとなっていたはずのそれが消えて、長い長い息を吐く。

 

「スバル……?」

 

落ち着き払ったそのスバルの態度に、エミリアが首を傾ける。

恐る恐る、彼女の指がこちらへ伸びてきて、スバルの頬へ触れようとする。

 

その白い指先が頬に触れる直前、持ち上がったスバルの手が彼女の手を取った。「あ」と小さくエミリアが声を上げ、こちらを見る紫紺の双眸と黒瞳が絡み合う。

そして、スバルの頬がゆるやかに微笑を描き、

 

「――リア、ダメだ!」

「ようやく捕まえました――デス」

 

飛び出したパックが警告の声を上げるが、頬が裂けるような笑みをペテルギウスが浮かべる方が早い。

そのまま腕を握られるエミリアを守ろうと、各人が一斉に動き出そうとするが――それは伸び上がる黒の魔手により、全員が縛りつけられることで阻止された。

 

「にゃっ!?」

 

「なんやぁ、これ!兄ちゃんが言うとった通りやないか!」

 

「これが大罪司教の……『見えざる手』!」

 

縛られて、身動きを封じられたフェリス、リカード、ヴィルヘルムの三名が苦鳴を上げる。手足を地面から伸びる腕が鷲掴みにし、手足に鉛でもつけたかのように三人の姿勢は四つん這いだ。

だが、

 

「――相性の悪い方が、いるようデスね?」

 

「どうやらそのようだ。……全員を無事、解放してもらおう」

 

すんでのところで後ろに飛び、魔手を回避したユリウスが剣を構える。

いかなる手段によってか、見えざる手の束縛を逃れたユリウスを、スバルの肉体の制御を奪ったペテルギウスが忌々しげに睨みつけ、

 

「――精霊術師、デスか」

 

「だとすれば、どうだというのかな?」

 

ペテルギウスは心底、苛立たしげな様子で舌打ちをする。

それに対してあくまで悠然とした態度を崩さないユリウスは、少しでも話を長引かせることで打開策を練っているのだろう。しかし、

 

「時間稼ぎをしても無駄デス。すでに器はワタシの手の中に――」

 

言いながら、ペテルギウスは今も掴んだままのエミリアの白い腕を持ち上げる。そして掴まれたエミリアは抵抗できないまま、無数の見えざる手によって宙空へと吊り上げられ、口元すらも塞がれて詠唱も封じられてしまっていた。

必死に身をよじり、逃れようと苦心するエミリア。その彼女の傍らで、常に彼女を見守り続けてきたはずの大精霊は、しかし手出しの一切を自ら禁じ、

 

「なんで……どうしてボクはここに……?リア、ああ、リア、ごめん。ごめんよ。なぜ……ここで力になれないなら、どうしてボクをエキドナは……!」

 

呟きには無念の響きがあり、諦観がその小さな体に圧し掛かっている。

それを耳に入れて、ふいにペテルギウスの動きが止まる。首をもたげ、軋むような動きでゆっくりと小猫を見下ろし、

 

「てめぇ、ふざけんなよ……!」

 

それは義憤、堪え切れない怒りの感情。

それの爆発が一時的に、虚空へ追いやられたはずのスバルの意識を呼び覚ます。

 

いかなる抵抗への志も折られたはずだったにも関わらず、不甲斐ないパックの姿にだけは反応して意識を揺り戻すことができた。

ならば、

 

「試練だの、契約だの……馬鹿馬鹿しい、ぞ、コラァ。お前はじゃあなんでここに……いるんだよ!どうし、て……ここまで……」

 

「なにを知ってる、スバル。君はなにも知らないだろう。ボクでさえ、今この瞬間まで思い出すことができなかったのに。君に……魔女のなにが!」

 

スバルを見上げるパックの瞳に怒りが宿り、互いに睨み合う。

しかし、そうして消えることのない憎悪をぶつけ合った挙句、スバルの意識はまたしても揺らめくペテルギウスの影に呑まれそうになる。

消えかける意識、今度こそそのまま、潰れてしまうだろうことがわかったから、

 

「――やってくれ、ユリウス」

 

「なにを、言い出すんだ」

 

「このままだと、乗っ取られて全滅……だ。そうなるぐらいなら、止めろ」

 

剣を握り、この場でゆいいつ自身の意思を肉体に伝えられる彼に願いを託す。

せめてこの状況を打開するために、ペテルギウスを仕留めてほしいと。そのための器ならば、自分が役割を担ってやるから。

 

「ダメだ、スバル。考えるべきだろう。私は騎士であり、精霊術師だ。君の目的に協力するための契約を交わしている。それを反故にすることは……」

 

「俺の目的は、エミリアを助けること……だ。俺の命の勘定は、また別だ……」

 

絞り出すようなスバルの答えに、ユリウスは苦渋に顔を歪める。

いつでも優雅で余裕を失わない、そんな態度を貫いてきたユリウスの初めての苦難の表情に、スバルは思わず笑いが堪え切れない。

頬が緩み、小さく吐息が漏れる。

 

『馬鹿なことを馬鹿なことを馬鹿なことをことをことをとをとをとをををををを!』

 

幻影ペテルギウスが再び姿を現し、決断するスバルを罵倒するように周囲を回る。

その姿の滑稽さにも笑いがこみ上げ、いよいよかすかな笑声が喉から溢れた。

 

「スバル、私は……」

 

「判断を、誤るなよ、騎士様――」

 

戸惑いを舌に乗せようとするユリウスに、スバルは震える声で発破をかける。だがなおもユリウスは踏み切れない。

そんな彼の背を押すように、固唾を呑んで皆が見守る会話に割り込んだのは、

 

「――スバルきゅんは乗っ取られる寸前で、ユリウスはそれを処断する決断ができにゃい。なら、もう、仕方にゃいよネ?」

 

両手を魔手に縛られて、地に伏せる姿勢を強制されていたフェリスが、首を持ち上げて辛そうな体勢からうっすらと微笑む。

額に汗が浮かび、髪がひと房だけ流れる姿は美しく、肩から布地をかけただけの格好は性別が男性であるとわかっていても艶めいたものを感じずにはいられない。

 

そして、赤い唇を裂いて微笑む姿はまさしく、『魔性』と呼ぶにふさわしい。

 

「待つんだ、フェリス。なにを――」

 

「あと戻りできなく、したげる」

 

止めようと声を飛ばすユリウスの前で、フェリスが小さく舌を鳴らす。

口づけのような音が小さく響き、スバル=ペテルギウスはなにが起きるのかと瞬きして変化を待つ。しかし、なにかが起きる様子はどこにもなく、

 

――直後、スバルは血が沸騰する感覚に即座に全身を焼かれた。

 

「――あ、は!?」

 

熱い。熱い、熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 

喉が熱い、目が熱い、体が熱い、舌が熱い、鼻が熱い、手が熱い、耳が熱い、足が熱い、血が熱い、魂が熱い、命が熱い、熱い熱い熱い。

 

血液が沸騰し、内臓が煮立ち、脳が蒸発しそうな高熱を発して視界が白濁する。

突如、巻き起こったその体の変調、致命的な変調にスバルは言葉を言葉として発することすらできない。

 

『あぁぁぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁああああぁぁあぁ――!?』

 

焼け落ちる寸前に鼓膜に、スバルと同じように苦痛に苛まれるペテルギウスが見えた。体を共有している以上、スバルが受ける苦しみは奴の苦しみだ。

そしてそれはつまり、このどうしようもない終焉を奴もまた味わっているというわけで。

 

――ざまあみろ、という気持ちが湧き上がり、痛みの前にすぐ霧散する。

 

苦しみ、転がり、痙攣し、身動きが取れなくなる。

気付けば、それまで縛られていたはずの皆が自由になっている。当然だ。見えざる手を使うべき当人がこの様で、誰が誰を縛れようものか。

 

「フェリス!お前、なぜ……!」

 

「本人の望みじゃにゃい。守りたいものを守って、本望……でしょ?」

 

もはや指一本動かして、苦しみを表現する精力も残っていないスバル。なにが起きたのか、起こしたのがフェリスであることと、そのフェリスにヴィルヘルムが食ってかかったのはわかった。

エミリアがしゃがみ込み、瀕死のスバルの肩をゆすぶる。

 

「待って……スバル、違うの、ダメなの。お願い。待って……ちが、違う、違うの。私はあなたを……」

 

涙声だ。誰のために泣いているのだろう。誰かのために泣いているのだろう。いつだって彼女は、誰かのためばかりのお人好しだったから。

その誰かが、自分であったら嬉しいかもしれないと、そう思う。

 

「あかん、見てられんわ」

 

リカードがその巨体を揺らして背を向ける。

そして彼の隣から進み出たのは、紫の髪をかすかに乱れさせた近衛騎士――虹色の剣を握り、表情に一抹の寂寥感をたたえるユリウスだった。

 

「……フェリスの行いを招いたのは私の不徳だ。いずれ、この罰を受けるだろう」

 

つまらないこと気にするなよ、と声をかけてやる気にはならなかった。

どんどん気にしろ、絶対に忘れてくれるな。自分がこうまで苦しんだことを忘れてもらっては、それこそ浮かばれないのだから。

 

――虹色の剣の先端が、横たわるスバルの首に当てられる。

 

「ダメ……ダメだよ、ユリウス。だって、スバルはまだ……」

 

「命脈の暴走です……もう、これ以上は」

 

エミリアがなにかユリウスに語りかけるが、首を振る騎士はそれを聞かない。

その話し合いの声が遠くなる。遠くなり、遠くなり、どこかへ消える。

 

『こんなはずが……ワタシの、ワタシは!愛を、寵愛を!福音の祝福を受けたはずで……!』

 

――うるせぇ、地獄に付き合え。

 

遠く、遠く、どこか知らないところへ落ちていく、落ちていく。

ああ、また死ぬのだろうか。奈落の底に落ち込んで、なにもかもを取りこぼして、自分の失敗を抱え込んだまま、また無残に命を落とす。

 

振り返る、世界を。

なにがいけなかったのか、その原因を決して忘れないように。

 

「――スバル、ごめんなさい」

 

涙声が聞こえて、一番聞いていたい少女の声を最後に意識が落ちる。

そして、ああ、と理解した。今回の失敗を、その理由を。

 

「俺は――」

 

――スバルは、エミリアと仲直りしては、いけなかったのだ。