『森の漆黒の王、ギルティラウの襲撃!』


 

――まるで女の悲鳴が連鎖するように、鋼と鋼は火花を散らして交差する。

 

「がァァァァァ――ッ!」

 

「あははは!素敵、素敵、素敵!」

 

踊るように身を翻し、上下左右から軌道を選ばずに急所を狙う曲刃の斬撃。

いかなる身体能力のなせる技なのか、無造作に思える斬撃はその一撃一撃が致命傷になりかねない威力と正確さでガーフィールの体を抉りに迫る。

 

くの字に折れた刃の先端は風を裂き、音を超えて、文字通り神速で振り切られる。

これをガーフィールは両手に装備した盾を軌道上へ滑らせ、直接受けるよりも表面を滑らせるように受け流して防御に徹する。

斬撃の勢いを殺さず、振られる軌道だけを逸らす妙技に女の体が大きく流れる。その隙間を縫い、ガーフィールもまたがら空きの女の胴を目掛けて爪先を跳ね上げる。

 

ガーフィールの直蹴りは、石壁すらも容易く蹴り砕く砲弾じみた威力のものだ。

衝撃を殺させずに直撃させれば、人間の柔らかい肉の防御など簡単に貫き、内側にある内臓を破壊してあまりある威力を発揮する。

事実、ガーフィールの打力が余さず通った打撃に関しては、女の肉体を骨ごと粉砕し、必殺の手応えを幾度も実感させるに足る結果を出している。

だが、

 

「それ、さっき見たわ」

 

「ッざッけんなァ!!」

 

跳ね上がる爪先に際し、女は見せていた横腹を背を逸らして軌道から外す。空振る足が女の背中を撫でるように掠め、羽織る漆黒のマントに足が絡め取られる。

一瞬、しかし女やガーフィールにとっては致命的ともいえる停滞だ。

 

「し――」

 

短く呼気を放ち、腕を背後に回す女がマントに絡めたガーフィールの足をさらに布生地で覆い尽くす。反対の手は半回転に後ろから上へと振られる軌道で刃を走らせる。

右の大腿部が切断される斬撃の軌道、ガーフィールは考えるより先に地面に残っていた左足で小さく跳躍、絡め取られた右足の真下に左の靴裏を突き出す。

 

真下から跳ね上がる刃の横腹に、ガーフィールの左足が激突。

鋼のひしゃげる音と手首の砕ける音が連鎖し、淫靡な苦鳴を上げて女がナイフを取り落とした。そのまま女は下がるが、足を絡めとられたまま床に落ちるガーフィールも追撃はできない。蹴りの衝撃と地面についた両手で後方回転し、距離を開けてからマントに絡んだ足を外す。

 

「手首とナイフ、もらってやったッぜ、オラ」

 

「大丈夫よ。ナイフの代わりはまだあるし、左手もすぐに動かせるようになるわ。マントも……あなたとの戦いには邪魔なぐらいだもの」

 

「強ッがり抜かしゃァがってんじゃァねェ」

 

「これが強がりかどうかは、あなたの腸で確かめてみたらいいわ」

 

奪ったマントで汗を拭い、ガーフィールはそれを廊下の端に放り投げる。

エルザは打ち捨てられるマントに目もくれず、歪にねじくれた左手を右手で軽く擦りながら、背後に控えている巨大な影へと声をかけた。

 

「メィリィ。黙って見ていないで、代わりのナイフをちょうだいな」

 

「もお、エルザって本当に勝手なんだから。私、荷物運びでもナイフ係でもないんだからね。岩豚ちゃんが割り込めない戦いばっかりしてえ」

 

声をかけられる影――巨大な魔獣の背に乗る少女が、エルザの呼び掛けに頬を膨らませながら何かを投じる。

それは、エルザが扱う曲刃を収めたホルダーだ。そこから新たに二本、刃を抜き出したエルザは片手で二本の握り心地を確かめながら少女を見上げ、

 

「自分可愛さにそんな大きな魔獣を連れてくる方が悪いのでしょう。邪魔者抜きであの子と踊れているから、私としては嬉しいぐらいだけれど」

 

「それに夢中になって、肝心の標的に逃げられてたらお話にならないじゃない。ママに今のことがばれたら、きっと大目玉になっちゃうわ。エルザが悪いんですって、私ちゃんと告げ口するからね」

 

「告げ口が恐いなら抜け駆けもつまみ食いもできはしないわ。良い子はメィリィや他の子がしたらいい。私は、手のかかる子扱いで構わないから」

 

言いながら、エルザは手に持つ刃を宙へ放り、二本の刃を片手でジャグリング。

刃の身幅の大きさから、手違いがあれば腕を落としかねない高速回転ジャグリングだが、危なげなく振り返るエルザは右手、左手でナイフを受け取り。

 

「お待たせしてごめんなさいね。左手も、持つだけなら問題なさそうだから」

 

「気にッすんじゃァねェよ。時間稼ぎは俺様の方も望むッとこだし、姉妹の話し合いに割り込むほど無粋ッてんじゃァねェ。家族の話は、大事ッだかんなァ」

 

「あら。私のこの子が、どうして姉妹だと?」

 

「同じ相手を母親って言ってんだろッが。髪の毛の色も目の色も顔つきも、似てねェこッとは問題じゃァねェ。血以外でも、家族ってなァ語れっからよォ」

 

ガーフィールの自論を聞いて、エルザは一瞬、目を丸くしてきょとんとした顔をする。それから彼女は口に手を当てて、ひどく楽しげに噴き出した。

 

「あァ?」

 

「ふふっ……ああ、いえ、ごめんなさい。思わぬ言葉が聞けたものだから、ついついおかしくなってしまって。……そう、あなた、とてもいい子みたいね」

 

「ガキ扱いしてんじゃァねェよ。俺様ァ、立派な男だ」

 

「そう?大人にも男にも、なりきれていないように私には見えるのだけれど」

 

頬を緩めたまま、不機嫌なガーフィールに応じるエルザ。

その言葉に訝しげに眉を寄せるガーフィールに、エルザはなおさらに楽しそうに笑みを弾けさせた。

 

「エルザ、エルザ。この恐い顔の人、ひょおっとして可愛い人なんじゃなあい?」

 

「そうね、メィリィ。私も今、そう思い始めたところ。腸を引きずり出した後も生かしておきたい子なんて、久しぶりに見たかもしれないわ」

 

「ごたごた好き勝手言ってんじゃァねェ。てめェらはな、揃って俺様の拳骨食らって寝かッされんだよォ」

 

きりきりと、手首を回して言い切るガーフィール。

エルザと少女――メィリィの会話の真意がイマイチわからないが、それがガーフィールの意思を蔑ろにしたものであることは疑うべくもない。

それだけ理解できていれば、ガーフィールの方から差し出す優しい言葉はない。

 

向こうが泣いて謝って許しを乞うのでないのなら、叩き潰して動けないようにして、然るべき罰を与える。――それが、ガーフィールの役割だ。

 

「そろッそろこいや。大将たちが逃げ切る時間稼ぎァもちろんッだがよォ。俺様もなるッたけ勝ち逃げで白星稼ぎァしたかァねェ。完膚無きまでに叩いて、教えてやんぜ。俺様が、『聖域』の中でも外でも最強の盾なんだってなァ」

 

啖呵を切り、ガーフィールは両腕の盾を打ち合わせる。

甲高い音が廊下に響き、月下の通路でガーフィールは敵対する二人に意気を放った。

 

「――ぷぷっ!エルザ、聞いたあ?最強の盾ですって!最強の盾……っ。ぷふーっ!やっぱり可愛い人じゃなあい!」

 

しかし、その口上を聞いたメィリィはあろうことか笑い出し、エルザも笑みを深めた様子で脅威に感じた雰囲気はない。

 

「なァにを笑ってやがんだ、あァ?」

 

「ああ、おっかしい。おかしければ笑っちゃうわあ。強い強いって思い込んでるあなたもおかしいけど、逃げたお兄ちゃんたちもおかしくておかしくて」

 

「大将たちが、おかしい?」

 

「ええ、そうよお。だってそうでしょ?お屋敷の周りは私のペットで囲って、お屋敷から逃げられるとしたら一ヵ所しかない。本当はそこがエルザの持ち場だったんだけどお、エルザは勝手に動いちゃったからあ、代わりを置いてきたの」

 

「――――」

 

メィリィの非難の視線に、エルザは悪びれもせず視線も合わせない。

彼女の殺意に濡れた瞳はじっとガーフィールの挙動を監視していて、動きづらいことこの上ない。それに、メィリィの余裕も聞き逃せない。

メィリィは視線を鋭くするガーフィールの前で、自分を乗せている魔獣の背を叩き、

 

「この岩豚ちゃんの他に、今日はもう一匹、とっておきが連れてきてあるんだあ。その子に道を塞がせてあるの。だからあ、あなたの時間稼ぎはむしろ逆効果じゃなあい」

 

「…………」

 

「あなたがエルザや私をあっさりやっつけて、お兄ちゃんたちを追いかけられたら助けられるけどお、そうじゃないんでしょ?だからあ、それに気付かないで一生懸命に時間稼ぎをしてるあなたを見てたら、みんなおっかしいって」

 

笑いを堪え切れない顔で、メィリィはこちらの滑稽さを無邪気に嘲笑う。

その幼い悪意に対し、ガーフィールは深々と息を吐いた。

 

確かに、いくつかこちらにとって不確定な条件が重なっているのは事実。メィリィの言う通り、思惑を超えた事態に際しているのも間違いない。

だが、

 

「ハッ。くッだらねェなァ」

 

「……え?」

 

「わァかってねェのはそっちだッてんだよォ。化け物がまだいる?頭押さえられてんなァ俺様の方だ?そんな都合が、俺様や大将に通じッかよォ」

 

メィリィの笑顔が消えるのを小気味よく思いながら、ガーフィールは一歩踏み出す。

エルザがそれに反応し、身をわずかに傾けるのを見ながら、

 

「俺様ァぶちのめしッてくれた大将たちだぜ。――そんなてめェの邪魔なんざァ、鼻で笑って吹っ飛ばしてくれッに決まってんだろッがよォ!」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「無理無理無理無理無理無理無理無理マジ無理、もうどうなってんだよ……!」

 

息も絶え絶えの状態で、スバルは泣き言を漏らしながらへたり込んでいた。

ロズワール邸本棟三階、最上階に到着する寸前の階段の踊り場で、スバル一行――スバルとオットー、そしてフレデリカにペトラとレムの五人は息をひそめて固まっている。

 

全員、床に腰を落とす姿には疲労感がありありとうかがえ、その体には浅からぬ傷がちらほらと増えている。

特に、

 

「フレデリカ、大丈夫か?」

 

「……ええ、これしきのこと、大したことはありませんわ。スバル様にこそ、不甲斐ないところをお見せして申し訳ありません」

 

「お前抜きじゃどうにも回らねぇんだ。情けねぇのはむしろ俺とオットーの男二人だよ。悪いな。弱くて」

 

「こ、今回ばかりは……ナツキさんの軽口に、反論の余地もありませんよ」

 

悔しげに息をつくオットーと、口の中の血の塊を吐き出すスバル。

全身が軋み、苦痛を訴えるのを無視しながら、スバルは背負ったレムの体を抱え直す。――フレデリカからレムを背負う役割を代わり、代行するのがスバルの今の役目だ。

ペトラの手をオットーが引き、スバルがレムを背負う。そして、唯一の戦力であるフレデリカが最前線に立って道を切り開く、というのが今の五人の最善の方策だった。

 

ガーフィールと別れた直後、スバルたちはハイエナ風の魔獣二匹の襲撃に遭った。

ハイエナとの戦闘はからくも、オットーの魔鉱石とフレデリカの奮戦で退けたものの、その後も屋敷中に配置された魔獣の魔の手に翻弄されるのを繰り返すこととなった。

 

本棟と別棟を繋ぐ通路に大量に潜んでいたコウモリのような黒翼鼠。

屋敷を徘徊し、隙あらば襲いかかってくるハイエナ風の斑王犬。

客室に逃げ込んだスバルたちに網を張り、気を抜いた瞬間を狙う袋鼠。

スバルの腕ほども太さのある体を引きずる、双頭蛇への対処は特に苦戦を強いられた。

 

黒翼鼠を煙でいぶして遠ざけ、斑王犬をフレデリカが鉤爪で打ち倒し、袋鼠に尻を齧られながら退散し、双頭蛇をオットーが必死の交渉で足止め、その隙にスバルが頑張って胴体に組みつき、フレデリカが二つの頭を落とす――そして、今の踊り場だ。

 

「もう、これは完全に……ガーフィールと分断されたのは失敗だったな……」

 

「弱気なこと言わんでくださいよ。今頃、ガーフィールが僕らなら大丈夫って強気に吠えてる頃かもしれないんですから、かけた期待と同じぐらいの期待には応えましょう」

 

「お前の義理堅さ、本当に商売人に向かなそうだな……」

 

この中では一番体力的にマシな様子のオットー。彼の言葉に苦笑で応じて、スバルは気合いを入れて立ち上がる。

背中に負ぶったレムの体は、正直なところ悲しいぐらい軽い。意識のない、眠った人間を担ぐのは重いと聞いたことがあるが、レムに限ってはそんなことはない。

温もりも重さも、ほとんど感じない。存在感が希薄なものなのだ。かすかな心音と呼吸だけが彼女の生の証左であり、スバルはことさらしっかりと背負い直す。

振り落としても気付けないなど、そんなことがあるはずもないのに、それを恐れるように。

 

「フレデリカ姉様……」

 

「大丈夫ですわ、ペトラ。そんなに心配そうな顔をしなくても……もうすぐ、目的の部屋ですもの」

 

心配げに自分を見るペトラに、フレデリカは気丈に微笑んでみせる。

しかし、言葉ほど楽観視できる状態にフレデリカはない。ハイエナとの戦いで片腕に組みつかれ、血を流す左腕は持ち上がらず、動きには精彩を欠いている。

万全の戦力としては望めず、早急な治療と安静にできる場所が必要だ。

 

「でも、確かに目的地はもうちょっとなんだよな」

 

階段の上――最上階を見据えて、スバルはそうこぼす。

スバルたちが目指しているのはロズワールの執務室だ。言うまでもなく、そこには外に通じる避難路があり、これまでのループでエルザの侵入を招いた悪路でもある。

最初、外へ逃げる方策をなくしたとき、スバルはこの道から逃げる選択肢を潰しかけたが――フレデリカとの話し合いの結果、考えが変わった。

 

ガーフィールと別れた直後の、ハイエナ二匹との遭遇を退けた後の話だ。

 

「旦那様の執務室に、外に通じる隠し通路がありますわ。そこからなら屋敷の外――森の中の小屋へと逃げられます。その道を使えば」

 

「残念だけどな、フレデリカ。ことはどうも、そう簡単にはいかねぇんだ。その隠し通路は連中に割れてる。他でもない、あの黒い女が入ってきたのがその道からだからだ」

 

「――――」

 

押し黙るフレデリカに、スバルは絶望的な状況になるとわかっていてそれを告げる。

過去のループで、スバルは隠し通路を確認しようとした場面でエルザと遭遇している。毎回、あの異常者があの道から入ってきているかは別として、少なくともその存在は知れてしまっているのだ。

 

「さっきの、エルザともう一人の女の子……二人の話からすると、どうもあいつらには他にも仲間がいる。ママって呼ばれてた奴の立場が、実際にあの似てない二人の母親かどうかは別として……後詰めがいるってんなら当然、あの道も」

 

塞がれている、と考えるのが自然だ。

屋敷の周囲を魔獣に囲まれ、さらには外に通じる脱出路も敵の手にある。まさしく八方塞の場面で、スバルは思考を白熱させる。

 

絶体絶命の事態。

逃走路無効の状況で、この場にベアトリスの力を借りれないことが情けない。

スバルがベアトリスの説得に成功していれば、悩む必要のなかった状況だ。彼女の『扉渡り』であれば、ここから逃げることなど考える必要もないほど容易い。

 

「……勝手すぎるな、俺は」

 

ベアトリスの苦悩と、その理由を知っていて力の縋ろうとする。

この場において、彼女を連れ出せなかった理由に彼女の力を持ち出すなど、それこそベアトリス自身を見れていないことの証拠だ。

彼女に嫌われ、外に放り出されるのも当然の結果といえる。

 

「ナツキさん」

「スバル」

 

そんな風に思い詰めるスバルの顔に何を思ったのか、叩かれる肩と引かれる腕。

見れば、肩を叩いたのは右隣のオットーで、腕を引いたのは左隣のペトラだ。二人はそれぞれの方法でスバルの意識を現実に戻し、同じことをしたことに気付いて顔をしかめる。

その二人の様子を見て、スバルは救われた気持ちで息をついた。

 

「スバル様。私の考えですが、それでもあの道を選ぶべきだと思いますわ」

 

そして、息をつくスバルにフレデリカがそう主張してくる。

顔を上げるスバルに、フレデリカは指を立てながら、

 

「スバル様のおっしゃる通り、現状は一見、八方塞に思えますわ。屋敷の周囲を獰猛な魔獣に囲まれ、唯一の脱出路も敵に把握されている。普通に考えたら、このままじわじわと皆殺しにされるのは避けられない……」

 

「そう、だよな。俺もそう思うから、せめて魔獣の包囲網の弱いところを見つけられねぇかと頭をひねろうと考えてたんだが」

 

「時にスバル様。襲ってきたあの黒い女とは、以前にもどこかで?」

 

低い問いかけに言葉を遮られ、スバルは静かに息を詰める。

質問の意図が読めず、スバルは「ああ」と頷いた。

 

「前に、王都でもエミリアを狙ってたことがあるんだ。そのときは、その場にたまたま居合わせた剣聖のおかげで事なきを得た。さすがに今回、あのイケメンの乱入に期待するのは都合が良すぎるけどな」

 

「そう、ですか。前回は今代剣聖様が。いえ、いずれにせよ、構いません。私が知りたかったのは、あの女の前回の撃退方法ではなく、性格ですので」

 

「性格?」

 

要領を得ないフレデリカの言葉にスバルが首をひねる。

 

「性格つっても、見たままの異常性癖だよ。他人の腹をかっさばいて、その中身を検めるのが大好きな通称『腸狩り』だ。危なさなら、世界有数だぜ」

 

「そして、ガーフと楽しそうに切り結んでいたことからわかるように、自分の手でそれをすることに拘る部分があります……ですわね?」

 

「親しいわけじゃねぇけど、そういうキャラだろうな。……話が見えねぇぞ?」

 

「簡単なことですわ、スバル様。――この襲撃、向こうも予定外のことが起きています」

 

力強い断言の言葉だった。

言い切るフレデリカに、スバルは驚いて目を丸くする。

 

「現状、屋敷を取り囲む魔獣。おそらくは一緒にいたあの少女が魔獣の操り手……魔獣使いとでも呼ぶべきですわね。本来の相手方の筋書きとしては、魔獣が包囲網を狭めて屋敷を襲撃、中にいた私たちを襲うというのが正しいと思われますの」

 

「なんで、そう思う?」

 

「――襲撃のタイミングが、魔獣使いと腸狩りとでずれていたからですわ」

 

確信的なフレデリカの言葉に、スバルは一瞬、眉を寄せて考え込む。だが、すぐにフレデリカが何を言おうとしているのかに思い至り、手を打った。

 

「そうか、そういうことか!クソ、なんで気付かなかったんだ。確かに、それならフレデリカの言う通りだ!あの異常者の性格からしたら、そうなるに決まってる!」

 

「ど、どういうことです?僕には話の繋がりがわかりませんが」

 

興奮と悔しさに床を蹴るスバル。その話についてこれていないオットーが不安げな顔をするが、スバルはそのオットーに頷いてみせる。

 

「簡単な話だ、オットー。本当は魔獣の襲撃で、建物の中の人間が追いつめられるはずだった。で、追いつめられた俺たちは普通には逃げられない。なら、隠し通路に向かおう――こうなるのが自然な流れだ。そうだな?」

 

「今も、まさにその通りの流れになってますよね?でも、その隠し通路が相手にばれているから使えないって話なのでは?」

 

「そうだ。襲撃が正しい流れになってたら、追いつめられた俺たちは隠し通路を使おうって避難路に逃げ込んで、そこで待ち構えてたエルザにまんまとやられる。それが奴らの筋書きだった。……けど、今はそれが乱れてる。今、隠し通路にエルザはいない」

 

「――――」

 

それはなぜか?

エルザの性質を考えれば、そんなことはわかりきっている。

 

「エルザの奴は、獲物が減るのが嫌で独断専行しやがったんだ。だから魔獣使いと襲撃のタイミングがずれてる。おまけに、本来なら塞いでおくはずだった自分の持ち場を離れてやがる。――だから今、隠し通路は誰もいない!」

 

「本来、そこにはあの黒い女が待ち伏せしている予定でしたわ。ですから、予定外の現状、後詰めがそこに入っている可能性も極めて低い。もちろん、時間が経てば相手方も予定と違う状況に気付くでしょう。隠し通路に別の人員が送られる可能性も、少しずつ高くなってしまう」

 

「それなら誰もこないうちに、そこから急いで逃げちゃわないとダメ!」

 

スバルとフレデリカの結論を引き継ぎ、ペトラが飛び跳ねるように答えを言う。

そのペトラの明るい茶髪に手をやり、乱暴に撫でてスバルは「満点だ」と笑う。

 

「持てる情報量で考えれば、これが一番可能性として高い。いずれにしても、外の魔獣の包囲網を突破するよりは希望が持てる話だ。最悪、執務室を確認するだけでも意味はある……やろう。全員無事に、脱出するにはこれしかない!」

 

――そう勢い込んで、全員で執務室の目前までやってきた現状。

 

全員が全員、肉体的にも精神的にも疲弊している。それでも、ゴールを目前にした希望が満身創痍の体を動かす最後の活力を与えてくれていた。

その、縋りつくような希望の火が――、

 

「……おいおい、嘘だろ」

 

最上階へ辿り着き、階段の曲がり角から通路を覗き込んだスバルが思わず呟いた。

同じように上から頭を出すオットーと、下から顔を出すペトラもスバルと同じものを見て同じ感慨を得たらしく、絶句している。

 

「どう、なさいましたの?旦那様の執務室は……」

 

一人、段差の途中で腰を落とすフレデリカが、斥候三人に成果を問い質す。ただ、彼女も三人の反応から状況の悪さは見て取れたのだろう。

いくらか不安げな声にスバルたちは足音を殺して振り返り、

 

「すげぇヤバそうなのが一匹、部屋の前に陣取ってやがる」

 

――それは、スバルにはいわゆる『キマイラ』という化け物に見えた。

 

獅子のような猫科の猛獣の頭に、胴体は馬か山羊のような細くしなやかなシルエット。長い尾はのたくる蛇のように鋭く巡らされ、その図体は魔獣使いの乗っていた魔獣カバには劣るものの、屋敷の広い通路を塞ぐ程度には馬鹿でかい。神話から飛び出してきたかのような異形の存在――その戦闘力も、推して知るべしだ。

 

「あれは……魔獣『ギルティラウ』ですよ。しょ、瘴気の濃い森の奥とかに生息してる、猛獣の親玉みたいな奴で……こんな、人里に……それも、屋敷の中に連れてこられるような魔獣じゃないはずなんですが……」

 

「見かけ倒しで、ひょろひょろ野郎って可能性は?案外、ああ見えて気性が穏やかで鰹節とか齧ってれば満足するタイプかも……」

 

「カツオブシがなんだかわかりませんけど、餌でもあげに近付いてみますか?たぶん、体の半分ぐらい一齧りされて終わりですよ」

 

オットーの言葉に、スバルはギルティラウの頭の大きさを思い浮かべる。

なるほど。あの口のでかさなら、スバルぐらいなら二齧りで食べ切れそうだ。

 

「いや、でも獣化したガーフィールはもっとでかかった。よし、あいつ連れてきてでかさ比べしようぜ。こっちがでかかったらあいつもすごすご退散すんだろ」

 

「それでのこのこ呼びに戻ったら、今度はあの黒いお姉さんにズンバラリですか。笑えませんよ、ナツキさん。……何か、思いつきました?」

 

軽口を叩き合っていたオットーが、スバルに向かって期待のような目を向けてくる。

まるで、今のやり取りの間にスバルが何かを思いつくのを期待していたような顔だ。ずいぶんと無茶な期待が寄せられたものだ、とスバルはフレデリカやペトラに振り返り、

 

「スバル」

「スバル様」

 

女性陣二人からも、同じような期待を込めた目を向けられてしまった。

 

「――おいおい、俺にどんな期待かけてんだよ」

 

深々と息を吐きながら、スバルは寄せられる期待の大きさに身震いする。そして、背負ったレムの体を背負い直し、目をつむる。

 

こちらの現状、持ち得る戦力。

フレデリカは負傷し、オットーの魔力もほとんどない。ペトラとスバルにはまともな戦闘力はなく、ここは屋敷の本棟三階。ガーフィールをこちらに呼びつけることなどできるはずもなく、ベアトリスに力を借りることは考えることすらおこがましい。

ともなれば、あるもの全部を使って抗ういつものスタイルしかスバルにはない。

 

各人の能力と、出来ること、材料、相手の状況、条件、全部を考えて、考えて、考えあぐねて――スバルは息を吐いた。

 

「武力も魔力も届きそうにないなら……いよいよ、俺の現代知識無双に賭けよう」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

最初、魔獣ギルティラウの意識を引いたのは小さな音だった。

 

「――――」

 

コツコツと、軽く固い何かが床を叩く音が連続して聞こえて、ギルティラウは鼻先を持ち上げた。

 

森の静かなる王――地域によってはそう呼ばれることもあるギルティラウは、他の魔獣と違って無用な雄叫びや物音を立てることを好まない。

その巨躯と異形に反して軽やかに荒れ地を飛び回り、音もなく獲物に接近して急所を一撃で抉り、仕留める。そういった奇襲、暗殺めいた狩りを最も得意としている。

 

故に、『主人』の命令とはいえ、こうして一ヵ所に留まって待ち伏せするというような狩りを行うのは、ギルティラウにとって愚かな運用という他にない。

もちろん、『主人』の命令に背くような恩知らずをするつもりも毛頭ない。

 

『角』を折られたことで、ギルティラウは呪縛から逃れることができたのだから。

 

「――――」

 

鼻を巡らせるギルティラウは、音の方向を探りながら『主人』の命令を反芻する。

この扉の前に位置取り、接近する敵対者を狩ること――それが、ギルティラウに命じられた務めであり、『主人』の望みだ。

 

コツコツと、まるで無防備に続くそれは明らかに足音だ。

『主人』と同じく、二足で歩く生き物はこの手の足音を立てて歩くものが多い。中には足音そのものがしない強者もいるが、この足音の持ち主は違う。

無防備で、無作為で、無思慮で、無遠慮――優雅さの、欠片もない。

 

ギルティラウにとって、餌として食い散らかすことすら忌々しい弱者だ。

 

「――――」

 

音を立てず、ギルティラウは扉の前から滑るように移動する。

足音は西の階段側から聞こえており、そちらはつい先刻から何度も何度も争い合うような音が聞こえてきていた方角でもあった。

 

『主人』が、自分以外にも多数の魔獣を連れてきていることをギルティラウは知っている。自分より力も体の大きさも劣る魔獣の多くが建物を取り囲み、『主人』は自分に扉の防衛を任せ、ひと際体の大きな鈍重の魔獣の背に乗って獲物を狩りにいった。

あのような図体だけの魔獣を狩りに選び、自分を後詰めに残す判断には色々と不服な部分もある。それでもせめて、この場に現れる敵対者が強者であるのならば、この場に自分が連れてこられた理由も、面目も立とう。

故にこそ、ギルティラウは敵対者が自分の持ち場に辿り着くまで、どんな魔獣に襲われようとも持ち場を離れ、襲いかかるような愚行をしなかった。

 

自分のところにまで辿り着けないような弱者ならば、戦う価値はない。

自分より弱い魔獣に屠られるような弱者であれば、狩る価値などない。

だが、獲物は他の魔獣の妨害を乗り越え、この場にまで辿り着いた。その存在を感じ取ったとき、ギルティラウは密かに昂ぶる興奮すら感じたのだ。

 

――その待ち望んだ結果が、これか。

 

足音一つ隠すことすら知らず、発される闘気も弱々しく脆い。

爪で、牙で、振り払えばそれだけで散ってしまいそうな儚く劣った存在。

 

「――――」

 

湧き上がる感情は、怒りだ。怒りしかない。

獲物をこの牙で食い千切り、血肉の一片たりとも胃に収めず、ばらまく。

屈辱感にも似た焼けるような感情を昇華するには、もはやそれしかあり得ない。

 

足音を追いかけ、ギルティラウは月光に揺らぐ影を映さず移動する。その巨体を滑らせるようにして無音で移動する姿は、目にするものがいればまさしく悪夢のような所作だ。

漆黒の暗殺者は呑気な足音の間近へ接近、すぐ曲がり角を曲がったところで足を止めたらしき獲物を、背中から爪で真っ二つに切り裂く。

 

「――――!」

 

呼気を乱さず、ギルティラウは首を伸ばして獲物の背へと飛びかかる――だが、

 

「――――?」

 

追いつき、爪の届く範囲にまで気配があった獲物の姿がどこにもない。

持ち上げた腕の振り下ろす場を見失い、ギルティラウは刹那の違和感に足を止めた。鼻の頭を震わせ、ギルティラウは首を巡らせる。

愚かで、脆く、弱い獲物の姿はどこにいったものかと。

 

「――――!」

 

再び、靴音がギルティラウの耳朶を打った。

首を下げて音の方を見やれば、音はどうやら階下から響いてきたものだ。段差のある階段を下り、階下へと走って逃げる獲物の足音。

どうやらこちらの存在に気付き、わずかに足を速めて回避したようだが、そうとわかればギルティラウは獲物を逃がしはしない。

 

首をもたげ、裏を見て『主人』に命じられた守るべき扉を見やる。

持ち場を離れることになるが、この獲物こそが『主人』の命じた獲物に相違あるまい。その首を取れば、『主人』の命令は守れたも同然だ。

 

そう判断し、ギルティラウは無様に逃げ惑う獲物を追いかける。

そも、攻撃範囲まで入ったにも関わらず背を向けた時点で、自分に抗う術がないのだと教えているも同然だ。

野山を駆け回り、森の王として君臨していた頃のギルティラウにとって、そうして逃げ惑う獲物を娯楽代わりに狩り倒すのは日常茶飯事だった。

 

この身に取り込む価値のある獲物は、真に強い力を持つ存在のみ。

背を向け、抗う牙を抜かれた獲物など、ただ己の爪と牙に血と肉の感触を忘れさせないためにある――それを、奴らもまた知るべきなのだ。

 

階段を下り、足音を追う。

踊り場の壁を蹴りつけ、巨躯で踊らせて舞うように階下へ。二階、さらに一階へ逃げる獲物を追い、ギルティラウは建物の最下層へと降り立つ。

 

遠く、建物の離れた場所からは闘争の気配が届いている。

『主人』の匂いと、そして忌々しい主人が連れていった鈍重な魔獣の悪臭。あとは匂い立つような血と鋼、強者の香り。

 

「――――」

 

できることならば、自分もまたそちらの方へ足を運び、戦いに列席したい。

『主人』の前で思う様に爪を、牙を振るい、強者の身を引き裂いて血の海に沈め、その勝利の味を啜ることができたならと思う。

しかし、今はそれを望まれていない。下された命がある。

 

――早々にこの獲物を狩り、追いつけば参じることも許されるだろうか。

 

「――――ッ」

 

ますます、牙が疼く実感があってギルティラウは身を震わせる。

足音、再び聞こえたそれを追えば、扉の閉まる音がして闇夜に紛れる通路の向こう、閉じたばかりの気配がある扉を見る。

俊足、音もなく扉の前に立ち、ギルティラウは長い尾を使って器用に扉を開ける。

 

こうした、二足の生き物の住処へ侵入し、牙を振るうことは初めてではない。

扉、というものの構造を理解し、ギルティラウは巨躯をくねらせて部屋へ忍び込む。その時点で獲物が待ちかまえていることを覚悟していたが、獲物の姿が部屋の中に見えず、ギルティラウはまたしても肩すかしを食う。

しかし、今度の落胆はそう遠くない。

 

「――――」

 

首を巡らせ、ギルティラウの視線が部屋の隅――衣装棚へと向かう。

衣装棚の両扉の隙間から、獲物の羽織る布生地がはみ出して挟まっているのだ。慌ててそこへ飛び込み、衣服を挟んだのだろう。それに気付かず、ギルティラウから隠れきれていると思っている獲物の浅はかさが滑稽だった。

 

ギルティラウは足音を殺し、衣装棚へとにじり寄る。

尾を立て、先端を尖らせると、後は欠片の躊躇もない。

 

「――――!」

 

槍の穂先のように、放たれる尾の先端が衣装棚の扉を易々と貫通した。

錐で突いたような丸い穴――それでも、硬貨ほどの大きさの穴が次々と衣装棚へと生み出されて、中に隠れた哀れな獲物の体を串刺しにしていく。

 

その穴の数が二十を超えたところで、ギルティラウは尾の攻撃を止めた。

それから前足を伸ばし、息絶えただろう獲物の哀れな姿を目に収めようと衣装棚の扉を引き倒す。穴だらけになった扉は簡単に開き、中の獲物は――。

 

「――ルゥッ!?」

 

獲物の屍を確認しようとした直後、ギルティラウは鼻腔を貫く衝撃にのけ反った。

嗅覚を痛烈な刺激臭が突き抜け、苦鳴を上げるほどの感覚。とっさに視線を戻せば、開かれた衣装棚の内側、そこに仕込まれた透明の瓶が割れて、無色の液体がこぼれている。

刺激臭はそこから発されていた。そして、獲物の姿までもが衣装棚の中にない。

 

はみ出していた布地は、ただそこからはみ出されただけの衣装。

 

「――――!」

 

再び、靴音が部屋の外の通路から響いてギルティラウは振り返る。

鼻は利かないが、耳と目はまた無事だ。影が廊下を走るのが見えて、ギルティラウは嗅覚を封じられた屈辱感に身悶えしながらも影を追う。

ここまでコケにされた経験は、ギルティラウの生涯では一度もない。

これまで、敵対者をことごとく圧倒してきたギルティラウに対して、正々堂々と正面からぶつかるでもなく、逃げ惑って容易く牙にかかるでもなく、往生際悪く生き足掻く惨めな存在になど出会ったことがない。

必ず、殺す。仕留める。咀嚼し、土にばらまき、踏みにじる。

 

「――――」

 

もはや音を殺すことすら忘れて、ギルティラウはその巨体で足音の逃げ込んだ部屋の扉を跳ね飛ばした。

両開きの扉が軽々と吹っ飛び、ギルティラウの巨躯を迎え入れたのはこれまでに比べれば格段に広い部屋だ。

 

部屋の真ん中に巨大なテーブルが置かれ、部屋の最奥には暖炉の存在がある。

白いクロスのかけられたテーブルの上には火のついた燭台が並び、月光だけが光源だった部屋を炎が妖しく映し出していた。

 

「――――」

 

火の存在は、ギルティラウにとっては忌々しいものだ。

日中、空に浮かぶ丸く白い炎の塊は消せないまでも、こうした身近に存在する炎には嫌悪感が強い。なにせ、ギルティラウの住んでいた森は炎に包まれ、安住の地は失われたのだ。その際、角を折られて『主人』に従うことになったため、ギルティラウにとって炎は解放と恥辱の二つの相反する記憶を思い起こさせるものだった。

 

「――――」

 

足音はない。だが、物音が聞こえるのをギルティラウは聞き逃さない。

広い部屋の、入ってきた扉と向かいの壁にもう一つの扉。さほど奥まったスペースがないだろう扉の向こうから、気配を感じる。

 

ギルティラウは鼻を鳴らすが、嗅覚はまだ戻っていない。

獲物の怯え、小便を漏らす香りは感じない。この状態では獲物を引き裂いたところで、血の臭いも、啜った味もまともに感じれないだろうことが残念だった。

その感覚も、少なくとも獲物を引き裂くこと叶えば後回しにできる。

今はとにかく、この胸を焼く屈辱感を払拭することだけが、ここまでコケにしてくれた獲物に断末魔の悲鳴を上げさせることが、ギルティラウにとって唯一の救いだった。

 

「――――」

 

ギルティラウは巨躯を踏み出し、真っ直ぐに部屋へと向かう。

そして、部屋の扉を鋭く伸ばした尾で吹き飛ばす。衣装棚と同じように穴だらけになった扉を前足で押し倒し、ギルティラウは息を吸い、一直線に部屋へ飛び込んだ。

 

「――――ォォォ!!」

 

部屋に飛び込み、雄叫びを上げる。

咆哮で獲物を威嚇し、竦み上がる弱者の肉を牙と爪で、血と肉で、購わせる。

尾を振り回し、部屋の中を破壊が荒れ狂い、引き裂かれる戸棚の袋や箱から噴煙が上がる。叩きつけた前足が床を砕き、地面に敷き詰められていた布を引き裂き、そこからも白い噴煙が噴き上がり――否、視界が覆われるほどの噴煙が、次々と噴出する。

 

「――――!?」

 

視界が白く覆われ、息を吸い込んだ直後にギルティラウは呼吸器を侵されて咳き込む。何か、膨大な量の粉が舞っている。

視力を奪われ、咆哮を上げるための呼吸すら奪われるほどの粉が。

 

「かかったぞ!」

 

誰か、何者かの声が聞こえた。

そしてその声は、この部屋ではなく手前の部屋から聞こえてきていて、

 

「食らえ、科学の真髄――粉塵爆発だ!!」

 

音を立てて、白くけぶる部屋の中に何かが投げ込まれる。

明るく揺らめくそれは、手前の部屋のテーブルの上に並べられていた燭台の一つだ。

燭台は壁に当たり、揺らめく炎が床に落ちて一瞬、その炎を大きくする。

 

「――――」

 

「あ、あれ……?」

 

だが、それだけだ。

燭台は床に落ちたまま、それ以上の反応を見せない。投げ込んだ声の主は、どこか心得違いをしたような声をこぼし、部屋の外で立ちすくんだのがわかった。

 

「――――ッ!」

 

ギルティラウは、本能でこれを千載一遇の機会と察した。

何か、相手にとって不足の事態が生じたのだ。そして、その不足の事態が生じなければギルティラウの身に危険が迫っていた。

それを理解し、ギルティラウは身を翻し、小部屋から脱することを選ぶ。

 

広い部屋に出て、巨躯の四肢を、尾を、存分に振るえる場に出れば獲物が何を画策していようと何も問題はない。圧倒的な力の差でねじ伏せ、勝利をもぎ取る。

もはや、それ以上のことは何も必要ない――。

 

「ええい、だから言ったじゃないですか、わけわからんことより!」

 

「普通にこうした方が早いって!」

 

飛び出そうとした瞬間、ギルティラウはさらに二つの獲物の声を聞いた。

低い声と、高い声。それが性別の違う獲物の声であると気付いた瞬間、ギルティラウは背後の棚が自分に倒れ込んでくるのを察知。

 

入口から伸びる紐が、棚の足と結ばれていたのだ。

外から思い切り引かれた棚が倒れ込み、ギルティラウの背へのしかかる。しかし、棚はせいぜいギルティラウの巨躯の尻を塞ぐ程度の大きさ。

多少勢いがついてぶつかって程度で、ギルティラウへのダメージなどないに等しい。

 

悠々とその衝撃を受け止め、ギルティラウは紐を爪で切断。

今度こそ部屋の外へ飛び出そうとして、

 

「――――?」

 

戸棚が開き、そこから溢れ出してきた液体が盛大に半身へぶちまけられる。

水とは違う、ぬめった感触。やや黄色がかったそれを浴びて、自身の自慢の黒い体毛が濡れるのにギルティラウは不快感を得る。

だが、そんなギルティラウの不愉快な感情はすぐに消えた。

 

「――――!?」

 

「オットー・スーウェンの個人商、有り金つぎ込んだ商用油――ありったけどうぞ!」

 

獲物の声が、部屋の外から聞こえた。

しかしそのとき、ギルティラウはその弱い獲物の声に構っている余裕はなかった。

 

――全身に浴びた油が燭台の炎に引火し、忌まわしき炎が全身を焼いていた。

 

「――――ッ!!」

 

野から下り、最後まで森の空の玉座に拘った獣の王は、自らが何に敗れたのかわからないままに、身を焦がす屈辱感と同じ色の炎に呑まれていった。