『王都出立と再会』


 

プリシラ・バーリエルとの交渉も決裂に終わり、今度こそ全ての道は潰えた。

 

クルシュとプリシラに無碍に断られ、ラインハルトを擁するフェルトは不在。互いに敵でしかあり得ないユリウスの陣営に話を持ち込むことなどできるはずもなく、騎士団に覚えの悪いスバルはお上に縋りつく資格すら投げ捨てていた。

つまり、

 

「当面の目標だった戦力確保は、俺にはできないってことなのか……」

 

絶望感と無力感に打ちひしがれながら、スバルは自身の鼻に触れてそうこぼす。

プリシラに蹴り潰された鼻はどうにかくっつき、鼻血の名残も消えて元通りといって差し支えない。とはいえ、治療を施したレムが「安静にしていてください」とすぐにでも動き出そうとしたスバルを注意したため、今は腰を据えているところだが。

 

場所は貴族街から移して、王都下層区の商業街へ入っている。

商い通りに負けず劣らずの人の群れが今日も行き交い、すれ違う人波を眺めるスバルの姿は軽食屋の中にあった。

パン的な食品に豚肉風の肉とレタスっぽい野菜を挟んだ食事を咀嚼しつつ、ひとり無言で空腹を満たすスバル。

 

午前中の時間はプリシラの屋敷で見事に無駄遣いしてしまい、今はちょうど正午ぐらいの時間になるだろうか。自身で設定した王都出立の制限時間まではおよそ七、八時間といったところで、時間的な余裕はさらに失われている。

にも関わらず、状況は一進一退どころか退くばかりなのだから話にならない。

順当な解決策が潰されてしまった点を鑑みれば、少なくとも選択肢を狭めるという結果を生んでいるとはいえなくもないが。

 

「それで前に進んでるなんて勘違いできるほどおめでたじゃねぇ。クソ、あの高慢女が……助けてやった恩も忘れやがって……」

 

初対面のとき、悪漢に囲まれる彼女を助け出した功績を口にして、スバルは忌々しさを唇の端を歪ませて吐き出す。

恩義になど欠片も思っていない風な態度であったのは事実だが、こうして藁にも縋る思いで助けを求める相手にすら、ああして応じるとまでは思わなかった。

挙句に彼女はスバルを足蹴にし、クルシュと同じようなわけのわからない理論でこちらを罵倒し、ぞんざいに扱って放り出した。アルもアルだ。主人の暴挙に対してなにも言い出さない薄情さ。なんのための同郷人か、使えない奴め。

 

「どいつもこいつもクソ喰らえだ。なにも知らねぇくせに、なにもわかっちゃいねぇくせに……誰もなにも守れないくせに、俺の邪魔ばっかりしやがって……!」

 

歯軋りして、苛立たしげにパンと肉を噛み千切る。

乱暴に咀嚼する口の中、怒りと屈辱に満たされていて味はわからない。

 

次善策を、次なる方法を考えなくてはならないのに、スバルの脳裏を占めるのはこれまで接してきた人物たちへの恨み節と罵声ばかり。

みんなを守ろうと、助け出そうとするスバルの道行きを御託を並べて阻み、悪辣なペテルギウスの行いに加担するような愚か者共め。

 

「いっそ、俺の邪魔する奴なんざみんな死――」

 

「お待たせしました、スバルくん」

 

と、物騒な発言をしかけるスバルを遮ったのは、エプロンドレスの裾を揺らした青髪の少女――レムだ。

彼女は空席であったスバルの向かい側の椅子に座ると、

 

「ソースがついていますよ、スバルくん」

 

こちらに手を伸ばし、手にした布巾でそっとスバルの口の端を拭う。

されるがままになりながら、スバルは無言の視線でレムに報告を求める。彼女がスバルと別れ、別行動を取っていたのには当然ワケがある。

それは、

 

「騎士団詰所の方に、魔女教の活動が行われると報告してきました。ロズワール様のお名前を出したので、門前払いにはなりませんでしたけど……」

 

後半にいくに従い、弱々しくなる言い方にスバルは唇を噛む。

騎士団にいい顔をされないだろうスバルが出向くのではなく、ロズワールの使いとしてレムを騎士団詰所へ向かわせたのだ。

彼女の口から魔女教の存在を示唆させれば、あるいは騎士団を動かすことも可能になるのではと思ったのだが、

 

「芳しくねぇか」

 

「……似たような報告自体、騎士団にはいくつも上がっているみたいです。魔女教は背景が不鮮明ですから、怪しいと見たらその報告はすぐに上に集まって」

 

「ああ、なるほど。本当に魔女裁判とかやってた時代みたいな魔女の扱いなわけだ。……それで隠れ蓑になってやがるってんなら、笑えねぇ」

 

潜在的に魔女教を恐れる人々の数だけ、幻の魔女教の活動が築き上げられる。

その恐怖心が吸い上げられて騎士団に集まり、結果として本当の情報の価値までもが薄れて消えてしまうというのなら、それはなんと本末転倒なのだろうか。

 

申し訳なさそうに肩を落としているレムだが、それを責めるつもりはない。

これはレムの落ち度ではなく、騎士団の怠慢と魔女教の醜悪さこそに原因がある。騎士団は上がってくる情報の正否の吟味を手抜きせず行うべきだし、魔女教の奴らは存在そのものが害悪以外の何物でもない。

それらの不都合に対し、歯噛みし、スバルは決断する。

 

「戦力をかき集めるのが不可能だっていうなら……悔しいが、仕方ない」

 

「どう、しますか?」

 

「決まってる。屋敷に帰るんだ。戻って、エミリアやラムを連れ出す。王都でも、ロズワールが出向いてる先でもいい。とにかく、あの場所は危険なんだ」

 

ペテルギウスの哄笑が脳裏に浮かび、口惜しさにスバルは拳を震わせる。

だが、あの骸骨のような面構えを粉砕してやりたくても、肝心の手がそこまで届かない。奴らの潜伏先はぼんやりとわかっている。それでも、奇襲するのにすら手勢は足りず、仮に今の戦力で挑むとしても――矢面にレムを立たせることになる。

 

それだけは嫌だった。

それはもう耐えられなかった。

スバルの行いで、スバルの考えの結果で、レムが傷付き、挙句には命を落としかねない状況に追いやられるなどもっての外だ。

 

ペテルギウスと戦うための戦力を、レム以外に用意できないのならば、奴らと事を構えるなど考えてはならない。

臓腑は今も殺意で煮え繰り返り、尽きることのない憎悪の呪詛が頭蓋の中に延々延々と鳴り響いている。響き続けている。だが、

 

「まだ一日半――今から王都を出立できれば、三日目の間に屋敷に辿り着ける。そうすれば、エミリアたちを連れ出す時間もあるはずだ」

 

一回目の世界を回想し、スバルは時間制限を何度も何度も検証した。

クルシュの屋敷で無為に過ごすこと三日。ロズワールの領地に不安の影ありと聞き、レムと一緒に一日、その後は途中の村で拾ったオットーと一緒にさらに半日。その後は徒歩で現地に向かい、五日目の朝日を殺戮で迎えた。

つまりまだ、三日目に到着できるのならば猶予がある。

 

「二回目は……クソ!いったい、俺は何日頭がおかしかったんだ!?」

 

一方で、時系列の整理になんの価値もないのが二度目の世界だ。

舞い戻った直後から精神に異常をきたしたスバルは、レムに連れられて屋敷に戻る道程のことをなにひとつ覚えていない。頭のおかしくなったスバルを抱え、レムはクルシュの屋敷で何日過ごし、いつペテルギウスの手に落ちたのか。

とにかく、

 

「考えてる時間が惜しい。レム、竜車の手配をしよう。今回はクルシュとかに頼れないけど……その場合、どうすりゃいいんだ?」

 

「竜車の手配は基本、それ専門の店舗を利用しないと。ただ、今はかなり竜車の利用が混み合ってる状況なので、すぐに手配できるかどうか」

 

イマイチ確証を得られないレムの返答を受け、スバルは残りの食事をかき込むと立ち上がり、「とにかく、行ってみよう」と彼女を促す。

なるべく足の速い、長距離用の竜車が借りられるのが理想だ。が、最悪は途中で交換しての一度目の世界のやり方も考えなくてはならないだろう。

 

荷物を掴み、あらゆることが思い通りにいかない現実に辟易としながら、スバルは一秒でも時間を惜しむように早足で歩き出す。

その後ろ、歩幅の合わないレムが懸命に速度を合わせて歩いている。そのことに、一瞥もしないスバルはついに気付くことはなかった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「今日はずいぶんと、商い通りが殺気立ってる気がするな」

 

通い慣れた通りの壁に背を預け、行き交う人波の雰囲気の違いにスバルは言及する。

ほんの数日と数時間の合計経験値しかない景観だが、それだけの思い入れしかないスバルにでもその違いが肌で感じられるほど、今日の商い通りには異物感が濃い。

それは、

 

「王選の話が広まって、いよいよあちこちから人が集まってるからだな」

 

スバルの呟きに吐息まじりに答えたのは、カウンターにたくましい腕を乗せて退屈そうに目を細めるスカーフェイス――すっかり馴染みとなった果物屋の店主、カドモンだ。

彼はもはや当然のように店先で足を止めるスバルを横目にし、

 

「王都に変化が起きて、入る人間が変われば売れるものも変わってくる。そこに突っ立ってられると、いよいよやってくるウチの店の繁忙期が逃げるから失せろ」

 

「王都と客層が変わっても、店主の見た目が変わらねぇんだからこの店の売り上げも変わらねぇよ。それより、やっぱ人増えてるよな?」

 

カドモンの文句に痛烈な皮肉を返し、その上で質問を重ねる。店主は殊更に嫌そうな顔をしたが、自分の顔の白い傷跡に指で触れながら「ああ」と応じ、

 

「外にいた行商人やらが大量に入ってきてる。ま、商機ってのは出鼻が重要だ。遅れて加わっても旨味が少ない。鼻の利く連中はさっさと入り込んで、品物を広げて儲けを出してる頃合いだろうさ」

 

「そんなビッグチャンスを目の前にして、今も売れないリンガを店先に並べる商才のない店主はなにを考えているんだろう。ああ、僕にはわからない」

 

「お前、俺の店に恨みでもあんのか?きたら憎まれ口叩かないと死ぬのか?」

 

いつもより切れ味のない軽口を叩いて、スバルは通りの様子を再度眺める。

なるほど、カドモンの言葉通り、目に映る範囲で増えているのは商品を求めて走る購買層より、抱えた荷を広げる場所を探す販売層の方が多いようだ。

彼らの足は自然と、商い通りの中でも露天商などが開く方へ進み、そうでないものは竜車を引きながら貴族街の方へと。

 

「行商人が露天開くのはわかるとして、上層区に向かう竜車はなんなんだ?」

 

「上の貴族連中に直接品物を卸しにいったんだろ。うまくやれば商会を介するより儲けが出るし、お偉いさんに顔も覚えてもらえる。しくじったら目ぇつけられる上に、下りてこられない可能性もあるけどな」

 

他人の儲け話には興味がないのか、気のない風な声音でカドモンは言う。そんな彼に適当な返事をしながら、スバルの目は通り過ぎる竜車から離れない。

せめてこの中の一台だけでも、うまく借り受けられないものだろうか。最悪、竜車が手配できなかった場合は盗み出すことも視野に入れなければならない。

金で片付く問題なら、人命には代えられないのだからそうするべきだ。それで片付かない問題にされてしまったならば、やはり人命を大義名分に軽犯罪させてもらう。

 

駐輪場から自転車を盗むのとはわけが違う話だが、仕方ないことと割り切るスバル。と、そうして竜車を眺めるスバルを見て、どうやらカドモンは竜車の積み荷にスバルが興味を持っているものだとでも思ったらしく、

 

「王選絡みで人が増えて需要も供給も増してる。が、中でも今、特に重宝されてんのは鉄製品と、剣やら槍やらの武器と鎧だな。外から運び込まれるもんはもちろん、もともと王都に店を構えてた連中のとこからも買い上げられてるらしい」

 

「鉄と武器……その話、なんか聞いた覚えがあるな」

 

どこでだったか、と顎に触れて回想し、それが一度目の世界のオットーとの会話の一幕だったことを思い出した。

王都で鉄製品などが高く売れる状況で、油を大量に抱えたオットーは首をくくるかどうかの決断を迫られて酒に溺れていたのだった。

カドモンの話と合わせると、どうやらオットーの切羽詰まった状況はこの時点から確定していたらしい。

それにしても、

 

「剣に鎧。鉄を集めてるってことは、それもそれ系統にすんのか。集めてる奴ってのは戦争でもする気なのかね」

 

「さて、防備を固めてる……にしてもちょっとばかしおかしいんだよな。それが理由なら自領で普通はやるもんだ。仮住まいの王都で物を集め過ぎても、身動き取れなくなって具合が悪い」

 

「その口ぶりからすると、集めてる奴って名前知れてんだ?」

 

何気なく、カドモンの会話に乗っかってそう聞くと、彼は腕を組んで「ああ」と鷹揚に頷き、

 

「クルシュ・カルステン公爵だ。つまり、王選の候補者の方だな」

 

「クルシュが……?」

 

思った以上に身近な名前が出て、スバルは眉を寄せて怪訝を露わにする。が、思い起こせば符合する点がなくもない。

連日、クルシュの下には多くの来客があった。スバルはそれが有力者との繋ぎを得るための外交の一部だと判断していたのだが、実際にはそういった商品を持ち込んだ商人との交渉もあったのかもしれない。

実際、スバルの知る限りでクルシュが最後に会っていた相手は、この王都の経済に深く携わる商人で、ラッセルなる人物であったのだから。

 

ふと、もう少し詳しい話を聞いてみたいとも思ったが、そんな余計なことに思考を割いてどうすると反発する気持ちがあってそれを躊躇う。

と、そうこうしている間に、

 

「おい、あっちで手ぇ振ってんのは連れのお嬢ちゃんじゃないか?」

 

通りの向こうを指差すカドモンに従って顔を動かすと、レムがこちらに小走りに駆け寄りながら手を振っていた。そのままスバルの手前までやってきた彼女は肩を弾ませ、表情を見知った相手にだけわかる程度に明るくすると、

 

「ありました。どうにか、長距離移動用の竜車を一台借りられそうです」

 

「ホントか?そりゃ朗報だ。さっきの店の込み具合じゃ期待薄だったが……」

 

貸し竜車の店の繁盛ぶりはかなりのもので、交渉はレムの懸念通りに難航した。その場に居合わせても大したことができないと判断し、交渉をレムに任せてスバルはカドモンの下を訪れ、会話ついでに考えを整理していたのだが。

その後の交渉でうまく話を運んだらしいレムは少しだけ自慢げに頬をゆるめ、

 

「はい。かなり強情な方でしたが、少しだけ多く料金を払うことで合意しました。勝手な判断で路銀に手をつけてしまってごめんなさい」

 

「いや、ナイス判断。この際、目的のために金は惜しむべきじゃない」

 

聞けば、竜車は店の人間が王都の入口にまで連れてきてくれるシステムらしい。

合流時間はすぐに、と伝えてあるそうなので、慌ただしいが即移動開始だ。

 

「じゃ、そういうわけだ。短い間だったけど、世話になったな、おっちゃん」

 

「王都を出んのか。お前はともかく、お嬢ちゃんの方は残念だよ」

 

憎まれ口を叩くカドモンが本気で惜しそうなのは、レムが何度か店番を代わってそのたびに売上の飛躍的な上昇を成し遂げているからだろう。

尊大でぞんざいに接するスバルを彼が無闇に追い払わないのも、彼の善良な性根とその功績が大きい。ともあれ、

 

「お世話になりました、カドモン様。また王都に訪問した際には必ず立ち寄らせていただきます」

 

「丁寧にあんがとよ。……と、本当はお嬢ちゃんも相当に地位の高い人の従者なんだろうに、無礼な口ばっかり利いてすまんな」

 

「いいえ。今のレムはロズワール様の従者である以前に、スバルくんのものですから。これまで通りにお願いします」

 

「……ますます、お前が嫌いになったよ、俺は」

 

レムの返答に盛大に顔をしかめて、傷跡をくしゃらせたカドモンは「ほれ」と紙袋をレムに差し出す。受け取ったレムの横から袋を覗き込むと、中に収められているのは色とりどりの果物の数々であり、

 

「売上貢献とご贔屓感謝の気持ちだな。道中、気をつけろよ」

 

「……おっちゃん。こんなことばっかやってっから売上立たないんだよ。奥さんと娘に愛想尽かされるぞ」

 

「お前にやったんじゃなくて、レムちゃんにあげたんだよ!とっとと行け!」

 

乱暴な善意に追い払われて、スバルとレムはせかせかとその場を後にする。

最後の最後まで、カドモンとのやり取りにだけは含むところもなにもなかった。それだけにほんの少し心を救われて――スバルはゆるみかけた頬を引き締めた。

 

笑うのも、心安らかであるのも、今は必要ない。

 

なにもかもが片付いたあとで、我慢する必要もないぐらい笑うのだ。

そのために、今はそんな感情は必要ない。

必要ないのだ。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

レムが借りてくれた竜車を引く地竜は、これまでに見た地竜の中でも一際大型の体躯を誇り、その力強い後ろ脚で地響きを立てながら草原を走り抜けていた。

 

砂煙がしばらく視界から消えないほどの脚力に、速度は上がるが視界はけぶる。御者台でレムと隣り合い、スバルはその砂塵に目を細めながら、

 

「早い……のはいいけど、これはどうにかならねぇのか」

 

「本来は重量級の荷を運搬するための地竜なんです。ですから走り方は乗客に配慮していないし、早駆けに特化して静かな走行もできないってお話で」

 

「運よく借りられた上に休憩なしで走れて、だから贅沢は言えねぇか。……それでもやっぱりこの砂はキツイ。なんかねぇかな」

 

ごそごそと、涙目で荷物の中を探るが、結果は芳しくない。

仕方なく、薄手の手拭いを口元に巻いて即席の防砂布とし、同じように手綱を握るレムの口元にも巻いてやる。

 

「よし、とできた。これで口の中がジャリジャリすることもないだろうし、ちっとはマシになったかな?」

 

「はい。視界の方は、我慢しながらしかありませんね」

 

お互いに口元を隠したスタイルだと、いつの時代のどこのギャングだといった風情だが、それを茶化して軽口を叩くような余裕は今はない。

走行を見守るのに支障が少なくなると、自然とスバルの思考は没頭を選ぶ。周囲は見渡す限りに草原が広がり、一面緑の世界には変化すらそうそう訪れない。変わるのは空を流れる雲の位置と、ゆっくりだが確実に移りゆく太陽の角度――それは時間の経過を意味し、スバルの心をじりじりと焼き焦がしていく。

 

時間配分はかなり優位に動けているはずだ。

王都で過ごした一日半は、はっきり言って成果を得られなかった無為な時間であったといえるが、竜車を手に入れての出立が二日目に行えたのは大きい。

傾き出した太陽の位置を始点としても、街道を半日駆け抜けて、屋敷に到達するのは明日の朝方になるだろう。三日目の朝方であるのなら、それは一回目の世界のクルシュの屋敷出立時点よりも半日早く到着している。

エミリアたちを屋敷から連れ出し、逃走する時間は十分にあるはずだ。

問題があるとすれば――、

 

「前回みたいに、途中で魔女教と遭遇する可能性……」

 

二度目の世界の記憶は判然としないが、目覚めた洞窟が奴らのアジトで、それが屋敷までの道のりの最中にあったのならば遭遇は屋敷帰還の途中だろう。

竜車かなにかで帰路を走っていた二人は魔女教に襲われ、結果としてスバルが捕らわれ、救出にきたレムが殺害されるに至った――それが自然だ。

その後、スバルが枷を外して洞窟を脱出したのにも、実感はないが一日前後の時間がかかっていたはずだと思える。

 

「つまり、あいつらは数日前から屋敷の周囲をうろついてることになる」

 

その日取りがはっきりとわからない。

二度目の世界のタイムスケジュールが一度目の世界と同一ならば、屋敷と村の惨劇は五日目の朝。そしてスバルが捕えられていた時間が一日半ばかりと計算すると、奴らとの遭遇は三日目から四日目にかけて。つまり、

 

「明日の朝方に到着する予定である以上、遭遇する可能性は消えない……!」

 

ぎちり、と何度目になるかわからない歯軋りに血がにじむ。

出立が昨日の内にできていたなら、この懸念もかなり軽減されたことだろう。が、今の移動時間では危険域にかなり食い込んでしまう。楽観はできない。

 

「――――」

 

横目でちらりと、スバルは手綱を握って運転に集中するレムを見る。

もしも仮に魔女教徒の遭遇戦になれば、また当たり前のようにレムに頼らざるを得ない。あるいは事前に魔女教遭遇の可能性を告げ、それの警戒を促せば前回と同じ轍を踏まずに済むのかもしれないが。

 

いざ、それを口に出そうとすると、声が出ない己にスバルは気付く。

黒い靄が出現し、静止した世界で心臓を握り潰される激痛に苦しめられるのが恐ろしい――のではない。確かにその苦痛への恐怖はある。思い出すたびに、味わうたびに髪の毛が真っ白になるのではないか、と思うほどの痛みが全身をつんざくのだ。正気で耐え切れるものではない。あれを利用したときですら、なにかわけのわからない感情の爆発があったからできたことだ。もう一度やれ、と言われても首を横に振る。

だが、スバルに今、魔女教の話をするのを躊躇わせたのはその痛みではない。

 

――はたして。

 

はたして、レムは自分の話を信じてくれるだろうか。

 

「――ッ!」

 

考えただけで背筋に悪寒が走り、スバルはそれに耐えかねたように肩を抱く。

心臓が馬鹿みたいに早く鳴り、嘔吐感がせり上がって内臓を圧迫していた。極限の精神状態におけるストレスと、一睡もできていない肉体の疲労が負債としてスバルの気力と体力を蝕んでいる。

 

今のスバルにとって、この世でもっとも信用できるのはレムの存在に他ならない。

エミリアにすら見捨てられ、クルシュにプリシラと立て続けに無碍に扱われたスバルの精神は疑心暗鬼の世界に陥り、あらゆるものを疑わずにはいられない。

クルシュとプリシラへの信用が回復する事態など想像できないし、エミリアにだってペテルギウスを殺して安全を確保するまで、真っ向から笑い合って会話できる絵など浮かんではこなかった。

 

だから、今のスバルにはレムしかいないのだ。

全面的に、全てを預けて安堵して、仲間と呼べるのは彼女だけだった。

もしも仮に、その彼女に魔女教の話を打ち明けて、それで彼女の表情が疑心に曇ったとしたらどうだろうか。――考えるだに恐ろしい。

 

「ビビってる、場合かよ……」

 

臆する気持ちを追い払おうと口に出すが、その音は声というより息に近い。響くより囁くほどの声量は、地竜の地鳴りによってかき消されて、自分自身にすら届かない。

それでも、打ち明けなくてはならないのだ。

 

魔女教とぶつかる可能性がある以上、知らないことは前回を踏襲するだけ。スバルが命を失い、舞い戻ってきたのは最善を掴むためなのだ。

だから――、

 

「れ、レム……その、話が」

「スバルくん――前方に、人が集まっています」

 

しかし、振り絞った決意の声は鋭いレムの声に遮られた。

「は?」と聞き返すスバルは彼女の視線を追いかけ、地竜が走る街道の先に、いくつもの異物が浮かび上がるのを見つける。

 

――まさか、魔女教の待ち伏せか!?

 

あまりに早すぎる事態にスバルは口から心臓が飛び出しかけるほど驚いたが、次第にその影が近づき始めるに従い、確かな輪郭を帯びるそれの正体が判明する。

それは――、

 

「――おーい!ちょっと地竜を止めて、情報交換しませんかー!」

 

街道の真ん中で両手を振り、大声を張り上げて停止を呼びかける――商人オットーの姿がそこにあった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「いやぁ、すみません。止まって下さってありがとうございます。今の時期、王都方面に向かう人は多くても、王都の方から出てくる方はあまりいませんから。そういった方にお話が聞きたいと思っていたところなんですよ」

 

竜車を止めた二人を出迎えて、青年――オットーは笑顔でそう語る。

 

酒でへべれけでもなければ、世を儚んだ風体でもない。ついでに言えば当たり前だが負傷した様子もなく、商人オットーここに健在といった感じだ。

一度目の世界で、必死に止める彼を置き去りにしたことはスバルの胸中にわずかな棘として刺さっていた。もっとも、その後の村の惨状を思えば、彼を置いてきたのは彼にとっては幸いな判断であったのかもしれないが。

ともあれ、

 

「ここに集まってるのって、みんな行商人かなにかなのか?」

 

「なにかもなにも、まさにその行商人でして。みんな、今や話題の中心地である王都で一発当てようって欲深ばかりです」

 

オットーの背後を見渡し、そう尋ねるスバルにオットーは揉み手で愛想笑い。

そのオットーの後ろ――いくつもの竜車が街道の脇に停車しており、それぞれの竜車の持ち主らしい男たちが集団でたむろしている。数は十に届くかどうかといったところだが、年代はオットーのように若いものから四十代ほどまでとまちまちだ。その中に、一度目の世界でオットーを紹介してくれた痩せぎすの男性も含まれている。

彼らはオットーとこちらの挨拶が終わるのを見計らうと、ぞろぞろと二人を取り囲むように集まり出し、めいめいに名乗って話題を振り始めた。

 

内容は主に王都の今の様子と、王選以前と以降での変化。また、通貨の価値変動についてなど――そこは当然、商人が気にする点ばかりが挙げられた。

 

正直、足を止めて会話する時間も惜しかったのだが、オットーの存在を確認した途端に無視して通り過ぎる選択肢は消えてしまった。

幸い、彼の無事(三度目の世界では当たり前だが)は確認できたので、話がひと段落した時点ですぐに立ち去るつもりだったのだが。

 

「これから出立するんですか?もう夜ですし、危険では?僕たちは今夜はここで野営するつもりなので……良ければご一緒されては」

 

と、情報交換という名の情報搾取が一方的に終わると、出立しようとしたスバルたちをオットーが引き止めた。

彼の言通り、すでに空からは太陽の名残すらも消えかけ、橙色に染まっていた空の向こうから夜が草原に覆いかぶさり始めている。

しばらくすればリーファウス街道は完全に夜に侵食され、視界は結晶灯が作り出す明かりを頼りにするしかなくなるだろう。

 

集まる商人たちは野営用の設営をすでに始めており、竜車の集まる一角の中央には火を焚く準備もすでに済まされていた。

街道に出現するかもしれない野犬や盗賊、そういった手合いもこれだけ人数が集まっていれば手を出しづらいという判断なのだろう。それら行商人の知恵には感心するものの、その安全な時間とやらすらも今は惜しいのだ。

 

「そんなこと言って、オットー。お前、時期外して在庫抱えた油を少しでも減らしたいだけなんじゃねえか?親切面すんない!」

 

断りの言葉を入れようとした途端、そんな風に囃し立てる声がかかる。男の声に背後で爆笑が炸裂し、やり玉に挙げられたオットーは唇を曲げた表情で、

 

「そんなつもりじゃありませんよ。純粋な善意からです。まあ、食事やランタン。それらに少しでも油をお持ちいただければ……という欲がないわけではありませんが」

 

「油が、どうかされたんですか?」

 

肩を落とし、負け惜しみのように口にするオットーにレムが尋ねる。彼女の問いかけに彼は眉を上げ、肩をすくめる気障な仕草のあとで、

 

「いえね。僕はどうやら今回の商機にへまをやらかしてしまいまして。売り物として価値が微妙な油を大量に抱えているんです。本当は北のグステコで大金に代わるはずだったんですが……今時期のルグニカでどれだけ赤字が取り戻せるか」

 

困り切った様子はこちらの同情を誘う彼の手だろう。

それに乗ってくるような相手とこちらを侮っているわけではないだろうが、それで少しでも適正価格で油が売れるなら儲けもの――程度の思惑が透けて見えた。

レムにもそれがわかったのだろう。同情はしても、それ以上の感想は持たなかったらしく「そうですか。大変ですね」と形式的な慰めをかけるに留まる。

 

「王都に行っても、この油を全部さばけるかはわかりません。二束三文で売り払うことになったら、僕は破産です。――破産です」

 

大事なことだから二度言ったようだが、それで油全部買いとか言い出すような豪快な善意は持ち合わせがない。

一度目の世界で世話になった関係だが、今回の関わり合いは薄い。彼の前途に幸せが待つことを祈りたいものだが、こちらの前途が最優先だ。

 

今は夜の街道を駆け抜けて、一刻も早くメイザース領に入る。

魔女教に遭遇する可能性、エミリアたちを無事に逃がすための方策。それらに思考が集中し、別れを告げる言葉を紡ごうとして――ふと、スバルは気付いた。

 

金でなにかを動かせるのならば、そうするべきではないのか、と。

 

「オットー、話……いや、商談がある」

 

ふいに表情を消し、小声でそう囁くスバルにオットーは目を見開く。が、その声音に冗談などの気配がないのを見取ったのか、彼はすぐに姿勢を正し、

 

「商談ならばなんなりとお聞きします。お客様――なにが、ご入用で?」

 

「お前の竜車に積んでる油、全部買い取ってやる。代わりに、足を貸してくれ」

 

オットーの地竜――見覚えのあるその竜車を指差し、その上でスバルは両手を開いて、野営の準備を進める商人たちに聞こえる声で、

 

「ここにいる商人と竜車――足を金で売ってくれる奴は、全員俺に買われてくれ!」