『男はつらいよ』


 

「わぶ――っ」

 

「きゃっ!スバル様、ごめんなさいっ!」

 

バシャバシャと、頭の上から降ってきた水を盛大に浴びて、何事かと悲鳴を上げたスバルに甲高い謝罪の声が飛んでくる。

頭を振りながら頭上を仰ぐと、開かれた窓からそよぐカーテンと、こちらを見下ろしている少女――ペトラと視線が交錯した。

どうやら、ペトラが二階から窓の外へ水を捨てたところだったようだ。

もちろん、彼女は庭に水をぶちまけるような行儀の悪いことはしない。水のかかる相手がいないよう、花壇の端に水を捨てたはずだった。

 

「なのに、運悪くそこで土いじりをしていた俺……」

 

「ご、ごめんね、スバル様っ!今、すぐにお着替え持っていくから……」

 

「あー、いいっていいってそんな。ただ、びしょびしょになっただけで……臭ぇっ!だたびしょびしょになっただけじゃない!?」

 

「だって、部屋のお掃除してた水で……とにかく!すぐいくから水場で待ってて!」

 

被った汚水の臭いに驚くスバルに、ペトラがそう言いつける。そのまま彼女の可愛い顔は窓の向こうに引っ込み、パタパタと着替えを取りに走り出していった。

そんな大慌てのペトラに苦笑し、スバルは自分の不運に苦笑を深めつつ、ペトラに言われた通りに屋敷の庭にある水場へ向かった。

 

「まぁ、どのみち、土いじりが終わったら着替えるつもりだったし……」

 

それがちょっと早まっただけと、そう自分を慰めておく。

ペトラが着替えを持ってくるなら、先に汚れを落としておくべきだろう。井戸の水を汲み上げる前に、スバルはそそくさとシャツを脱ぎ捨て――、

 

「――ふむ、いきなり裸になるとは、スー坊はなかなか大胆じゃな」

 

「って、きゃああああ!?」

 

「おお、なんと女子のような悲鳴を。……普通、立場が逆だと思わんか?」

 

そう言って、悲鳴を上げたスバルを眺めていたのは、水場の傍らにある庭石に腰を下ろしていた桃髪の少女――風の老女、リューズだった。

彼女は裸の上半身をシャツを胸に抱いて隠したスバルを見やり、その幼い容姿と対照的な理知的な目を揺らめかせ、

 

「そんな風に隠さんでも、男児の裸ぐらい見慣れておる。儂はガー坊と暮らしておったんじゃぞ」

 

「いや、それはそうかもだけど、恥ずかしいは恥ずかしいじゃん?」

 

「恥ずかしがることはなかろうに。それに、スー坊もなかなか悪くない体つきをしておるではないか。眼福眼福」

 

「やっぱり恥ずかしいじゃん!?リューズさん、キャラ違くない!?」

 

ゆったりと落ち着いた喋り方など、容姿とアンバランスな振る舞いが特徴的なリューズだが、その見た目以外は任された役割に忠実な印象が大きかった。

そんな彼女がスバルの裸身に言及し、ちょっと意地悪な発言をしたのが驚きだ。

 

「やっぱり、『聖域』のリーダーって重責から解放されたのがでかかった?」

 

「少なからず、そういう面はあるじゃろうな。とはいえ、『聖域』から出てきても、ロズ坊の用意しておった土地土地に移り住んで、そこでも似たような立場は任されておる。じゃから、儂の肩の荷が下りたんじゃとしたら……」

 

そう言いながら、リューズが細めた瞳をすぐ背後――屋敷の方へ向けた。

厳密には、彼女が見ているのは屋敷ではなく、その中で暮らしている人間。もっと言えば、自分が孫のように可愛がっている姉弟のことだろう。

ガーフィールとフレデリカの仲直りが済んで、ガーフィールも長年背負い続けていた十字架から解き放たれた。解き放たれた結果、スバルの想像以上にやんちゃな小僧と化したのは驚きだったが。

 

「リューズさんは、ガーフィールとフレデリカと別々に暮らしてるの、寂しくないか?」

 

「ん……急にどうしたんじゃ、スー坊」

 

「急だったかな?でも、思ったんだよ。そりゃ、エミリアたんの王選のために、二人には屋敷に一緒にいてもらった方が助かる。だけど……」

 

「仕方のない話じゃよ。儂はもちろん、他の複製体……儂の姉妹たちは、この屋敷で暮らすには問題が多い。役立てるとも思えんしな」

 

「――――」

 

小さく喉を鳴らしたリューズの答えに、スバルは唇を引き結んだ。

役に立つとか立たないとか、そういう話はしていないと、そうスバルの感情的な部分は叫びたがっていた。

しかし、事は子どもの癇癪のような理屈が通じる内容ではない。

今のロズワール邸には、役割を持ち、責任を果たせるものだけが滞在を許される。そのぐらい、シビアな締め付けが必要なときなのだ。

 

「……それでも、ガーフィールは十四だろ。まだまだ子どもだ」

 

「――。スー坊は優しい子じゃな。ガー坊のことが心配かえ?」

 

「そりゃ、な。……俺は自分が十四の頃、全然鼻たれのクソガキだったよ。今だってクソガキなのは変わってないけど、今よりももっとだ。たぶん、親元から引き離されたら、何にもできない自分に嫌気が差すぐらい」

 

もちろん、異世界の常識と照らし合わせ、スバルが体感してきた日々はぬるま湯どころか、揺り籠で揺られているほどに安穏としたものなのだろう。

ガーフィールの年齢が十四歳――中学生ぐらいだったとしても、こちらの世界にそれは当てはまらないし、当時のスバルよりガーフィールはずっと大人だ。

それでも――、

 

「俺は、自分がしてもらったことは、周りもしてもらっていいと思うんだよな……」

 

「ふふ、言い直すわい。スー坊は優しいだけでなく、甘くて青いんじゃな」

 

「俺の知ってる名文に、男は強いだけじゃなく優しくなくちゃってのがあって……あれ?その理屈だと、俺強くないから男じゃないな?俺、なに?」

 

自分で自分を弁護し切れないスバルに、リューズがくくっと喉を鳴らして笑う。その反応を心外に思うスバルに、リューズは「すまんすまん」と眦を指で拭い、

 

「スー坊の言いたいことはわかったわい。儂も、ガー坊やフレデリカを寂しがらせんようにちょくちょく顔を出す。それでいいんじゃろ?」

 

「なんか、部外者がせがんだみたいで悪いな」

 

「悪いことなぞあらせんよ。……ただ、年端もいかない子どもが親元を離れるという話なら、このお屋敷にはガー坊よりも年少の子がおるじゃろ?」

 

「それって……」

 

誰の話をしているのか、おおよその当たりがついたところへ足音が迫る。そちらへスバルとリューズが目を向けると、走ってくるのはペトラだった。

その両手にスバルの着替えを抱えたペトラは、「スバル様~!」と元気いっぱいの様子で駆け寄ってくる。が、その足が水場に到着する直前で止まった。

 

「わ!きゃ!スバル!なんで裸なのっ!?」

 

「あ、しまった、水浴びするつもりだったのに話し込んでた」

 

顔を赤くしたペトラが、その手で両目を覆ってスバルの裸に言及する。ただし、顔を隠した指の隙間から、しっかりとこちらを見ているお約束ぶりだ。

ペトラは耳まで顔を赤くしながら、「わあ、わあ!」と興奮している。

 

「どうよ、リューズさん。これが年頃の娘の可愛い反応ってやつだよ」

 

「儂にもあんな風に振る舞えとは、スー坊もなかなか業の深いことを……そもそも、儂がやっても仕方なかろうに。お年寄りなんじゃぞ」

 

「その老成した喋り方以外、リューズさんにお年寄り感ってないじゃん……」

 

のんびりしたリューズの言葉にそう答え、スバルは井戸から水桶を引き上げる。そうして汲み上げた冷水を頭から被り、「ちべて!」と言いながら、

 

「それにしても、ペトラのその反応はおしゃまさんだな」

 

「あ、スバル様、またわたしのこと子ども扱いしてるでしょ。言っておきますけど、わたしもこの間の誕生日で十三歳になったんです。ガーフさんと一個違い!」

 

「誕生日の関係とはいえ、ペトラとガーフィールが一個違いの期間が存在するのって、俺的には結構面白く感じるとこなんだよな……」

 

性格はともかく、その戦闘力と外見が微妙に十四歳っぽくないガーフィール。そして、幼く愛らしい外見のままに、少しずつ蕾から花開こうとしているペトラ。

過ぎる時は止められないのだから当然だが、成長というものは尊いものだ。

 

「俺もまぁ、十八だし、エミリアたんとベア子なんかは見た目が変わらないからな。その点、ペトラには偉大な可能性を感じる……」

 

「スー坊スー坊、その目線を十代の子どもが持つのはどうなんじゃろな」

 

「そう言われてもなぁ……おっと、ペトラ、着替えありがと。俺の裸をガン見したとき、ぽろっと手から落ちてたけど」

 

ぶんぶんと頭を振って水を飛ばし、スバルはペトラの足下のシャツを拾うと、土を払ってからそれを着た。自分が着替えを落としたことに今さら気付いて、ペトラが「わ!」と失態に顔を赤くする。

 

「う~、ごめんなさい。着替えも、さっきのお水も……」

 

「なーに、可愛い失敗だって。着替えはともかく、水を被ったのは俺の運が悪かったって話だわな。おかげで、乙女二人にあられもない姿を披露しちまった」

 

「儂も乙女か……やれやれ、スー坊は年寄りを口説くのがうまいのぉ」

 

ゆるゆると首を横に振り、相変わらずなリューズの反応にスバルは苦笑する。それから、まだ反省モードのペトラの頭をぽんと撫でて、「大丈夫だ」と笑いかける。

 

「失敗は誰にでもあるし、誰かケガしたわけでもない。無問題無問題」

 

「……はい、わかりました。ちゃんと、今日の日記に書いておくね」

 

「日記なんて書いてるのか、偉いな。俺、わりと毎日コツコツ続けるのは得意なタイプなんだけど、日記だけはどうにも続かないんだよな」

 

毎日の筋トレやジョギングは日課として習慣化できるのだが、不思議と日記だけは続かない。たぶん、毎日の書くことが一定でないからだ。

それと、不登校気味の頃は代わり映えのない毎日で、書くことがなかったから。

 

「ベア子ラブリーダイアリーは続いてるんだが……」

 

「それ、あとでベアトリスちゃんに見せるの?」

 

「ああ、俺が日頃からどれだけベア子を慈しんでるか見せつけたいんだ」

 

あと、ベアトリスは反応が大げさで可愛らしい。スバルはベアトリスを可愛がるためなら、日記が続かないという自分の弱点すらも克服してみせる。

ともあれ――、

 

「それで、スバル様とリューズ様は何のお話をしてたんですか?」

 

「あー、雑談?ガーフィールと離れ離れで寂しくないか、みたいな。……でも、ペトラもお父さんお母さんと離れ離れだよな。ホームシックとか、ないのか?」

 

「ほーむしっく……おうちが恋しい、ってこと?」

 

唇に指を当てて、スバルの言葉を読み解いたペトラが眉を寄せる。彼女は「うーんとね」と少しだけ考え込んでから、

 

「寂しいって思うことはあるよ?でも、わたしがやりたいって決めたことだし、その真っ最中だもん。弱音なんて吐けません」

 

「おお、大人だ……リューズさん、聞いた?」

 

「聞いた聞いた。まったく、自慢するみたいな顔しおって」

 

胸を張ったペトラの答えが誇らしくて、そう振り向くスバルにリューズが頷く。

まったくもって、ペトラの言う通りだ。

 

自分がやりたいと決めたことで、それを成し遂げんとしている真っ最中。

だったら、弱音なんて言わずに、苦しい中でも笑って顔を上げなくては。

 

「スバル様、わたしの答えでよかった?」

 

「――。ああ、もちろん。さすが、ペトラ!俺の欲しい答えだった!」

 

「きゃあ!」

 

不安げなペトラの問いかけに、スバルは彼女の体を抱き上げて応える。

普段からベアトリスにしているのと同じ感覚だったが、ベアトリスと比べたらペトラの方が重い――これは、ペトラがその分、成長しているからだ。

 

「もう、抱っこするって歳でもねぇかぁ……」

 

「当然ですっ!……でも、寂しそうにするくらいなら、もうちょっと付き合ってあげる」

 

「お、ありがと」

 

ぷいっと顔を背けながらも、スバルのワガママを許してくれるペトラ。そんなペトラの優しさにつけ込んで、スバルは今しばらく、幼年期のペトラを名残惜しんだ。

そんなスバルとペトラの様子を眺めながら、

 

「やれやれ、どっちが子どもなのやらわかりゃせんわい」

 

と、リューズが年寄り臭く、幼い顔でそうこぼすのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

――バシャバシャと、頭からどす黒い血を浴びて、スバルの走馬灯が途切れる。

 

共通点は頭から液体を被ったことだが、このタイミングで思い出したと話したら、あとでペトラにめちゃくちゃ怒られそうな展開だった。

ただ、そうした折檻を受けるためにも、ここでスバルも足を止められない。

 

「なんで、狩人の矢が大蛇を……!?」

 

嫌々ルイを抱えての逃亡劇、それを遮ったのは森に隠れ潜んでいた大蛇の存在。

あわや、その大口がスバルを呑み込まんとしたところへ強烈な妨害が叩き込まれ、スバルはすんでのところで命を拾った。

 

「――――」

 

大蛇の、スバル三人分くらいありそうな太い胴体を穿ったのは、直前まで散々スバルたちを苦しめてくれた狩人の放った矢だ。

よもや誤射したのかと思わなくもないが、大蛇の胴体のど真ん中を捉えた以上、それが誤射である可能性の方がずっと低く感じられた。

つまり――、

 

「俺を助けた……!?」

 

意味がわからないと思いながらも、それ以外の答えが湧いてこない。

まさか、狩人が気紛れを起こしただとか、「お前を殺すのはこの俺だ」という少年漫画みたいな展開へ突入したとも考えにくい。

だが、起きた出来事だけ思えば、スバルは救われた。そしてその一発の影響は、この瞬間の大蛇の牙を止めたというだけにとどまらない。

 

「――――ッッ!!」

 

胴体を矢に射抜かれ、血を流す大蛇が空を軋らせるような鳴き声を上げる。

そのまま、大蛇は逃れようとするスバルの背を追うのではなく、矢の飛んできた方――自分を穿った射手を狙い、猛然と森を這い始めた。

 

体長十メートルの大蛇が地を這い、獲物へ迫る姿は圧巻だ。

巨体に相応しい鈍重さを感じさせず、大地を滑るように移動する姿は、まるで森の地面そのものが動いているようにすら感じられる。

その大蛇の接近に対し、狩人も次なる弓で応射するも、当たらない。

 

「――――ッッ!!」

 

大蛇が涎の滴る牙を剥き出し、狩人目掛けて襲いかかる。

それを狩人が飛びのいて逃れ、魔獣の息の根を止めんと至近距離での矢が放たれる。

 

木々の彼方で繰り広げられる人と魔獣の壮絶な殺し合い。

互いに一歩も引かない戦いが激しい衝撃音を散らす中、スバルはルイを抱えたまま、レムのいる大穴へと駆け戻った。

そして――、

 

「レム、手ぇ貸せ!今のうちに逃げるぞ!」

 

「――っ、その子は無事ですか?」

 

「ああ、腹立たしいことにぐっすりだよ!ほら、急げ!」

 

大穴の壁に背を預けるレムにスバルが手を差し伸べる。が、レムはそのスバルの手を見たあとで、「いいえ」と首を横に振り、自力で縁に手をかけた。

スバルの手は借りないと強情な素振りだ。それならそれでとスバルは手を引っ込め、代わりに引っ張り出した鞭で自分の背中にルイの体を括りつける。

放り出していけば、またレムと一悶着が生まれるだろう。それは避けたい。

 

「その上、で――!」

「ちょっ」

 

ぎゅっとルイの体を背中に固定し、落とさないのを確かめてから、スバルは大穴から這い上がったレムを強引に抱き上げる。

お姫様抱っこされる形のレムは、とっさのことに表情を強張らせた。

だが――、

 

「今は俺と狩人と蛇と、どれが一番マシか考えろ!」

 

「……言葉が通じれば、蛇です」

 

「通じないから、次点の俺で我慢してくれ!いくぞ!」

 

当然の優先順位と思うが、それでも葛藤を隠せないレムの顔から目を背け、スバルは戦い続ける狩人と大蛇、それらを尻目に全力で戦場から離脱する。

狩人と大蛇、どちらが勝利したとしても、おそらくスバルたちを追ってくるはずだ。決着が早いか遅いかはわからないが、できるだけ距離を取りたい。

 

「――どうするんですか?」

 

「どっちも、俺たちよりよっぽど森に慣れてる……!奴らの追跡を撒く手段が必要だけど、蛇から逃げるには俺の体臭が絶望的だ。だからせめて……」

 

勝利するのが狩人の方であることを祈りたい。

相手がスバルを取り巻く魔女の残り香と無関係の追跡者であれば、その追跡を撒くための手段はやりようがある。

 

「なるべく、足跡がつかない道を選んで、痕跡を消して、あとは……」

 

「別の方角に痕跡を残す……ですね!」

 

言いながら、レムが体に当たりかけた枝を折り、それを遠くに放り投げて、スバルたちが逃げる進路とは別の方角の木々に傷を付ける。

折った枝と別の方角の傷、二ヶ所に分散していれば相手も迷うだろうか。

 

「――――」

 

そんな調子でレムを抱きながら走るスバルの脳裏を、場違いにも懐かしさのような感慨が過る。以前にも、こうして魔獣に追われながら森を走ったことがあった。

ただし、あのとき抱きかかえていたのはレムではなく、ラムだった。

 

「姉様も忘れてるし、もう俺しか、はぁ、覚えてねぇことだが……」

 

「息が上がっています。このままだと追いつかれますよ」

 

「わかってるよ!ったく、姉妹揃って……はぁ、容赦がねぇんだから……!」

 

抱えている相手が違うのに、言われる辛辣さは似たり寄ったり。

その感慨に背中を押され、スバルは息切れする己を叱咤して、後ろの警戒をレムに任せながら必死になって森を走った。

 

とにかく、今日はずっと動きっ放しだ。

肉体的にも精神的にもボロボロで、できるなら手足を投げ出して寝転がりたい。というか、追手を撒いたら絶対にそれをする。八時間寝る。

 

「だから、それまでもってくれ、俺の体ぁ――っ!!」

 

「――っ、待ってください!」

 

「いたたたたっ!?なに!?」

 

奮起の声を上げるスバルの耳を、腕の中のレムが強く引っ張った。その痛みに顔をしかめるスバルへ、レムが進路から外れた方を指差し、

 

「水の音が聞こえます。流れる……川?痕跡が消せるんじゃありませんか?それに、水が必要とも言っていましたよね」

 

「聞いてたのか、サバイバル知識……って感動は後回しにして、川があるなら確かに助かる!いったん川を渡っちまえば、簡単には追ってこられないはず……!」

 

生憎、自分の心音と呼吸音がうるさくてスバルには水音は聞こえなかったが、この場でレムの聴覚を疑う理由がない。

「あっちです」と指差すレムに従い、スバルは進路を変更、川を探して駆け抜ける。

そして、木々の群れを追い越し、草むらを飛び越え、道が開けたところで――、

 

「――川!……だ、け、ど?」

 

森が開かれ、視界が広がった瞬間、スバルにも豪快な水音――そう、豪快な水音がようやく聞こえるようになった。

それもそのはず、聞こえてきた水音は大河のものだった。それも、スバルたちから見た眼下、十メートル近い崖下を流れている。

ちょっと渡って痕跡を消せれば、なんて考えたのを嘲笑うように。

 

「これは、いくら何でも……」

 

腕の中のレムが、眼下の大河に息を詰める。

荒々しく流れる水の勢いと高さを考えれば、彼女の絶句も当然だ。自分の直感を頼りにしたせいで、ここで導いてしまった自責もあるだろう。

だが、その後悔を責める時間も、逆に慰めるための時間もない。

 

「――クソ、決着がついたか!?」

 

背後の森、どこか遠くで凄まじい咆哮が空へと轟いた。

それは何らかの感情を孕んだ大蛇の鳴き声に聞こえて、勝利にせよ敗北にせよ、生き残った方がスバルたちの方へやってくる。

 

「その前に、ここから……」

 

「――私を、置いていってください」

 

立ち去らなくてはと、そう考えたスバルの胸元、レムがそう言った。

そのレムの張り詰めた声に、スバルは「は」と息を吐いて、

 

「な、に?」

 

「置いていってください。私のせいで、余計な回り道をさせました。一刻の猶予もありません。何とか、相手の足止めをしてみますから……」

 

「ば、馬鹿なこと言うな!お前を置いてくなんて……」

 

「じゃあ、どうするんですか!?足の動かない女と子どもを連れて、もう息も切らして膝も震えているあなたが、これ以上どうするって!」

 

「――――」

 

すぐ間近で、顔を赤くしたレムがスバルにそう訴える。その勢いに気圧されたわけではないが、スバルもとっさに言い返せない。

どうすると問われ、すぐに代案が出せるほどスバルは賢くない。

だが、賢くないからこそ、賢さの必要ない答えならすぐに出せた。

 

「――いいや、ダメだ。お前を置いてったりしない」

 

「――っ、そんな強情……」

 

「強情なのはどっちだ!お前の方こそ、責任を感じてるのはわかるよ!けどな、責任感発揮するとこ間違ってんだよ!誰が、お前を置いていけるもんか!」

 

「な……」

 

「お前がいなくちゃ意味がないんだよ!お前が死ぬぐらいなら、俺が死んだ方がマシなんだ。どうしたらわかってくれんだよ!」

 

冗談抜きの本音をぶつけ、レムの意見をスバルは引っ込めようとする。

本心だ。もちろん、スバルも死にたくはない。『死に戻り』が機会を与えてくれたとしても、死にたくなんてない。だから、最悪の選択肢と最低の選択肢、どちらを選んだ方がマシなのかぐらいの話でしかない。

それでも――、

 

「俺もお前も、死なない方法を選ぶ」

 

「……背中の、その子はどうするんですか」

 

「囮にしていいならするんだが、それをしてごねられるのも困る。だから今は、こいつも一緒に連れて逃げてやるさ」

 

とかく、スバルとレムの問題に必ず挟まってくるルイが忌々しい。

しかし、今ここでルイを投げ出せば、レムとの関係は修復不可能に陥るだろう。その選択肢はない。だから、憎々しくても投げ出さない。

 

「――――」

 

スバルの断固たる意志を聞いて、レムが目を見開いて押し黙る。

彼女の中ではなおも、受け入れ難い邪悪な芳香に包まれるスバルをどう判断していいのか、それを呑み込めない葛藤が垣間見える。

そんな葛藤を目の端に留めながら、スバルは周囲を見回し、脱出路を探る。

しかし、そう都合よく、生存への道は見つかるものではない。レムが自分を囮に使えと言い出すのも無理からぬ状況だ。

ならばあとは――、

 

「――飛ぶしかない」

 

「な……ま、待ってください!それこそ無謀です!この状況ですよ!?」

 

「背中に括りつけた重石と、足が動かないレム、そして指が三本折れてる上に肋骨もちょっと怪しくてくたくたの俺……」

 

「指のことは……とにかく!そんな状態で無茶です!こんな高さから……飛び込んだ瞬間、意識がなくなって溺れるだけです!」

 

眼下の大河を指差し、レムが現実的な反対意見を述べる。

高さは十メートル、こちらはまともに動けない二人を怪我人がフォローしなければならない状況。荒々しい水の流れに耐えながら、どうにか対岸へ辿り着かなくてはならないとあれば、それがまさしく自殺行為に思えて当然だった。

 

「だけど、自殺じゃない。仮にそうでも、死ぬときは一緒だぜ」

 

「絶対嫌です!」

 

「あだぁっ!」

 

歯を光らせたスバルの笑みが、レムの平手に豪快に打たれる。結構な威力に首をひねられ、スバルは「いてて」と打たれた頬を赤くして、

 

「わかった。お前がそう言うから、死なない」

 

「――――」

 

「お前の望みは俺が叶える。――俺は、お前の英雄だから」

 

その台詞を聞いたレムが瞠目する。

それは彼女の記憶が疼いたからではなく、目覚めてすぐに言われた不審な発言が性懲りもなく繰り返されたことへの驚きだろう。

 

でも、それでいい。

今のはレムに聞かせたかったわけじゃない。――レムの薄い青の瞳に映り込む、情けなさを虚勢で押し隠した男に魔法をかけたかっただけだ。

 

「しっかり掴まってろ」

 

危険の迫る気配を感じて、スバルが息を吐きながらそう告げる。

レムはなおも抵抗しようとしたが、止めるための言葉を選ぶ間にスバルの足が地面を蹴っていた。落下する予感、それにレムの手がスバルの服をぎゅっと掴む。

そして――、

 

「――死んだら許しません!」

 

ああ、それじゃあ死ねないなと、そう苦笑いしながらスバルが強く崖を蹴った。

 

△▼△▼△▼△

 

衝撃と水柱が上がり、猛烈な勢いに全身が呑まれ、ぐるぐると回転する。

 

かろうじて足先から水に飛び込めたおかげで、受けたダメージは最小限で済んだ。

ただし、最小限でも十分以上の威力があり、体力ゲージがすでに真っ赤だったスバルとしては、なけなしの根性で食い縛ったという印象が拭えない。

だが、わざわざ拭う必要もなかった。

 

「がぼ」

 

そんな印象を拭うまでもなく、スバルの全身は水でずぶ濡れだ。まるで洗濯機の中で掻き回される手拭いみたいに、押し流される勢いに翻弄されるだけ。

どうにか水面に浮上し、呼吸がしたい。だが、自由がない。手足をバタつかせて浮き上がろうにも、腕には大事なモノを抱えていてそれもできない。

 

「――――」

 

水にもみくちゃにされてはいたが、胸の内には愛情、背中には憎悪の対象をそれぞれ感じることができる。縛り付けた鞭も、強く抱いた腕も外れなかった。

 

「がぼがぼ」

 

飛び込んだときの衝撃で、吸い込んだはずの息をだいぶ吐いてしまった。

泳ぐわけではないが、正気を保っているためにも体力と酸素の両方がいる。その両方が枯渇寸前である以上、悠長にはしていられなかった。

 

「がぼがぼ」

 

水が鼻から口から流れ込み、目や耳からも入り込んでくる気がする。

もがく手や足は無意味に水を掻いて、大河という巨大な生き物の食道を為す術なく胃袋へ運ばれている気分だ。『そこ』に辿り着けば、取り返しがつかない。

そこへ至る前に、何とかしなくては。

 

「がぼがぼ」

 

必死に水を掻いていると、色々と余計な考えが頭の中を蠢き回る。

血を被ったときにペトラやリューズのことを思い出したように、森の中を駆け回りながらラムを抱えていたことを思い出したように、色んなことが頭を過る。

エミリアは、ベアトリスは、ラムはメィリィは、無事だろうか。ユリウスやアナスタシア、エキドナは何とかやっているだろう。パトラッシュがいればみんな安心。この場にパトラッシュがいてくれたら助けてもらえたのに。助けて助けられて、その繰り返しでやってきて、その一番の相手がレムのはずなのに指を折られた。今さらだけど、ものすごい痛かったのに、よく泣き叫ばなかった。偉い。レムの前でカッコ悪いことしたくない。エミリアの前でも、ベアトリスの前でも、ペトラやガーフィールの前でもそう。オットーやクリンド、フレデリカには情けないと知られているからいいけれど。ロズワールに知られると怖いことになるから、何とか隠し通さなきゃならない。プリステラに早く戻って、困ってる人たちを助けて、王選が、明日が、みんなが――。

 

「がぼがぼ」

 

みんな、が――、

 

△▼△▼△▼△

 

「――げほっ」

 

思い切りに手を伸ばし、何とか掴んだ枝に体を引き寄せる。枝を掴んだのは左手で、おしゃかになった三本の指が悲鳴を上げたが、気にならない。

全身が冷え切り、感覚が遠く鈍い。ひょっとしたら三本どころか、左手の指が全部折れているかもしれなかったが、それも遠い話だ。

 

「おえっ、ぶええっ」

 

咳き込み、腹の中を満たしている水を盛大に吐き出す。

そうしながらどうにか右腕の重みを抱き寄せ、水面に顔を出させた。ぐったりと意識のない横顔を見つめ、必死で枝を頼りに岸へ這い上がる。

 

「げほっ、おほっ」

 

何とか這い上がった岸で、嘔吐感に任せて大量の水を吐き出した。そして、まだ体の中に水が残っている感覚に抗いながら、引き上げた少女を地面に寝かせる。

 

「――――」

 

口元に耳を寄せ、少女の呼吸を確かめる。反応がない。唇を噛み、寝かせた少女の胸のあたりをぐっと押し込み、心肺蘇生を行う。

しかし、息を吹き返さない。人工呼吸をするべきかと身をかがめ、顔を近付けたところで「げほっ」と水が吐き出される。顔を横へ傾け、水を出させてやる。

 

「はぁ、はぁ……」

 

全身の倦怠感に耐えながら、体に括りつけた鞭を外し、背中の重石を下ろす。最初から意識がなかったのが幸いしたのか、下ろされた重石は弱々しく呼吸していた。

つまりは、全員が、無事に――、

 

「ぶじ、に……」

 

ぐらりと頭が大きく揺れて、その場にどさりと倒れ込む。

どうにか、岸から離れて、せめて茂みに身を隠さなくてはと思うのだが、体が全く言うことを聞いてくれない。完全に体力が枯渇したのだ。

指一本動かせないまま、意識が昏々とした闇の中へと落ちていく。

 

まるで蟻地獄に嵌まったみたいに、どこまでもどこまでも、暗い世界へ落ちていく。

そのまま意識が途切れる前に願うのは、狩人でも蛇でもない、もっと別の誰かが――、

 

「れ、むを……」

 

せめて、彼女だけでも無事に助けてほしいという、願いだけがあった。

 

△▼△▼△▼△

 

――。

――――。

――――――――。

 

「――ぁ」

 

ゆっくりと、意識が冷たい暗闇の底から引き上げられる。

静かに、忘れていた呼吸が思い出され、スバルは空っぽの体の中に空気を取り入れる。もっと、もっとと、溺れていたみたいに酸素を求め、大きく口を開け――、

 

「――ぜえはあうるっせえぞ、てめえ」

「もがっ」

 

その開けた大口に、無理やり何かを突っ込まれ、罵声を浴びせられた。

何事かと目を見開くが、何も見えない。どうやら、顔に何かを巻かれ、目を塞がれているらしい。ただ、その乱暴な誰かが口に何かを突っ込んだのがわかる。

土や草の味と、大きく固い歯ごたえ――すぐに、靴だと察しがついた。

誰かがスバルの口に、自分の靴の爪先をねじ込んでいるのだと。

 

「おげっ!ぶえっ!な、何が……ごえっ!」

 

「てめえ、なに反抗してやがる。自分の立場がわかってねえのか?」

 

「げほっ、がほっ」

 

思わず靴を吐き出した直後、その爪先に鳩尾を蹴飛ばされた。衝撃に息が詰まり、咳き込むスバルを見下ろして、その乱暴な男が唾を吐きかけてくる。

そうされながら、スバルの頭の中は大いに混乱していた。

 

目も見えず、意味もわからず、いきなり暴力を振るわれて。

おまけに痛む胸をさすろうにも、腕が後ろ手に縛られていてそれもできない。足も縛られているようで、立って逃げるのも無理だった。

 

「な、なに、が……」

 

「ああ?てめえ、いつまでふざけて……」

 

「――まあまあ、落ち着けって!何もわかんないんだよ!仕方ないって!それよりほら!目隠し、外してやろう!」

 

「ちっ」

 

涎をこぼして蹲るスバル、その前で二人の男が何やら言い合っている。あとから入った方が乱暴な男を説得し、舌打ちしながら荒々しい気配が遠ざかったのがわかる。

それから、「やれやれ」と穏やかな男の声がして、

 

「いきなり悪かったな。何がなんだかって気分だと思うが、とりあえず目隠しを外すぞ?手足の縄は外せないから勘弁な」

 

「――――」

 

スバルが答えずにいると、男がゆっくりとこちらの頭に手をかけ、きつく縛っていた目隠しを外してくれる。わずかな痛みと共に開放感があり、スバルは深呼吸して胸の痛みに耐えながら、静かに視力が戻るのを待った。

そして――、

 

「――なんだ、ここ」

 

取り戻された視界、広がっているのはいくつもの天幕と焚火。それから、周囲を忙しなく行き交う荒々しい雰囲気に、刀剣や甲冑を纏った男たち。

思わず言葉を失ったスバルの脳裏、その光景を表すのに一番適切なイメージは――、

 

「……大河ドラマで、こんなの見たことある」

 

直前に大河を見たから、なんて理由ではないが、スバルの頭の中を過ったのは大河ドラマの一幕、合戦が始まる前の準備に追われる陣地。

まるで、その再現のような――否、そうではない。

 

「ちょうど、水汲みにいったところで見つかってなぁ。悪いが、お前さんは俺たちの捕虜になったんだよ」

 

正面に回り込んだのは、目隠しを外してくれた男だろうか。

彼が腰に手をやり、どこか人の好さそうな困り顔でスバルにそう言った。

 

――ナツキ・スバルは、捕虜となった。