『決意新たに』
目を開けたとき、スバルが最初に感じたのは口の中になにやら埃っぽいものが入っている感覚だった。
口内に溜まった涎と一緒に無意識にそれの形を舌先で味わい――土臭さと砂利っぽさを感じ取った瞬間に思い切り吐き出す。そして跳ねるように体を起こし、
「うぇげっ!ぺっぺ!変な石が口の中に……おぇっ」
えずきながら体の埃を叩き、スバルは薄闇の中に目を凝らしながら首を巡らせる。
光源の途絶えたそこはひんやりと冷たい空気に満たされた空間――ここが、入るものを選別する墓所の中であることを思い出した。と同時に、
「そうだ、『試練』を受けて……」
飛び込んできた墓所の中、ふいに意識を奪われてスバルは夢の世界に取り込まれた。そこで『試練』と称して過去――この場合、正しく過去といえるかはわからないが、スバルにとっては拭い去れない因縁、置き去りにしてきたそれとの決別を与えられ、それが全て魔女の掌の上であったことを暴露されて帰還させられた。
指折り、意識のない間に起こったことを思い出し、スバルは己の記憶が鮮明であることを確認。夢の中で父母と、もう会えない二人に謝罪と感謝と別れを告げた。
それはスバルに強い郷愁と哀しみ、その代わりに覚悟と勇気を与えてくれている。
「大丈夫。忘れてない。二人に伝えたこと、俺は全部覚えてる」
最悪、記憶を覗かれ損になる可能性もあったことを考えれば、こうして『試練』の一部始終を覚えていられるのは幸いだった。
そして、己の体の確認を終えたスバルの意識が向いたのは、
「そうだ……!そもそも俺はここに、エミリアを!」
判断の遅い自分を叱咤しつつ、スバルは部屋の奥――そこにスバルと同じように、横倒しになっているエミリアの姿を見つけた。
駆け寄り、暗がりの中でなお目立つ銀髪と色白の肌、それらに生命の息遣いが感じられるのを見てとりあえず安堵。ただ、それも彼女の表情を確認するまでだ。
「……ッ。……ぁ、ぃや……やめ……」
「――――」
苦しげに顔を歪めて、その額に汗を浮かべるエミリアが煩悶している。
だが、苦しみに反して体を動かす自由が与えられていないのか、手足は硬直したように動いておらず、ただ表情にのみその苦痛の色が濃く出ている状態だった。
彼女もまた、スバルと同じ内容の『試練』を受けているのだとすれば、
「見たくない過去……いや、決着つけなきゃいけないもんと向き合ってるってことなのか……?」
経過時間はわからないが、彼女が墓所に入ったのはスバルより三十分以上先だ。それでもスバルの方が先に戻った以上、彼女の『試練』は難航を極めている。
苦しげに呻くその表情こそが、それを如実に語っていた。
本来ならば、『試練』の終了まで彼女を信じて待ち続けるべきなのだろうが――、
「この顔見て、そんな格好いいこと言える奴なら苦労しねぇよ」
今にも泣いてしまいそうなエミリアの横顔にスバルは指を伸ばし、せめて一欠片でも苦痛の衝動を和らげてあげたいとそう思う。が、その指先が彼女の頬に触れた瞬間、
「――――ッ」
大きく、硬直していたエミリアの手足が痙攣。苦痛に引き歪んでいた表情が強張り、スバルは驚きに頬に当てていた手でとっさに彼女の頭を支える。そのまま震え続けるエミリアの体を抱き寄せて胸の内に抱くと、
「エミリア!?おい、しっかり……エミリア!」
抱き寄せた背をさすりながら、震えるエミリアの名前を必死で呼ぶ。
激しく痙攣するその様子に心胆の縮み上がる恐怖を覚えたが、次第にその体の震えはゆっくりと収まり、
「――ぅ、バル?」
「――!あ、ああ、そうだよ。大丈夫か?俺がちゃんとわかるか?君と将来を誓い合ったナツキ・スバルだ」
「そこまで、お話してない……」
目覚めた彼女の記憶に揺さぶりをかけ、意識と記憶に混濁がないのを確かめる。体を離すと、彼女はその紫紺の瞳の焦点をゆっくりとスバルに合わせ、
「ぇっと……あれ?私、どうして……」
「ゆっくりでいいよ、エミリアたん。小難しいことは後回しにして、今はとりあえず大きく深呼吸。それから手足が痺れてないか動かしてみて、立てるようなら立ってみよう」
「ぁ、う、うん……」
寝起きのような言葉の危うさで、エミリアはスバルの言う通りに大きく深呼吸。それから指先から肩に至るまで腕を動かし、先に立ち上がるスバルの手を借りて立ち上がった。暗がりの中、彼女は不思議そうにあたりを見回し、
「暗い場所で……スバルと二人きりで……」
「そこだけ切り取るとなんとも色っぽいシチュエーションなんだけど、場所が場所だけに罰当たり過ぎてなぁ」
状況把握を急ぐエミリアに、頬を指で掻きながらスバルは苦笑。なにせ、場所は魔女の墓所。男女の逢瀬で忍び込むには、いささかムードも配慮も欠ける。
しかし、そのスバルの言葉を聞いて、エミリアはふいに己の肩を抱いた。その反応にスバルはとっさに「調子に乗りすぎたか……!」と戦慄したが、
「そ、だ……私、『試練』を受けて、それで……」
「ん、ああ、そうだよ。ここ、魔女の墓場の中。いや、参ったよ。エミリアたんが入ってちょっとしたら、急に墓所の灯りが消えてさ。それで慌てて俺も中に追いかけて入ってきたんだけど……」
「ぁ……ちが……違う、あの、私、そんな……そんなつもり、じゃ……」
「エミリア?」
なんにせよ、体の方に異常がないようでなによりだった――と話を続けようとしていたスバルは、なおも声を震わせ続けるエミリアの態度の変調にようやく気付く。
彼女は己の肩を抱いたまま、まるで寒さでも感じているように小刻みに歯を鳴らし、いやいやと首を横に振りながら、
「私……私じゃ、ないの……違うの……っ。そ、そんなこと……して、ないっ……してないのに……違うって、言ってるのに……っ」
「エミリア。ちょっと、エミリア?落ち着いて、なにを……」
「……やだ。そんな目で……わ、たしを……やだ、やだやだ……やだぁ、ちがうのぉ……私じゃ……なんで、私を一人に……しないでぇ……」
スバルの呼びかけも耳を素通りし、エミリアは掌でその顔を覆うとその場に崩れ落ちてしまう。声には涙がまじり、嗚咽に震える銀鈴は聞くものの心に痛みすら感じさせる哀切に満ち満ちていた。
床に崩れたエミリアの姿に、スバルは呆気にとられて言葉も出てこない。ただ、
「大丈夫。大丈夫だ。俺がついてる。俺がいる。君を一人にしない。大丈夫だ」
ひたすらに、震えて涙する彼女を慰めるように、守るように、愛おしむように、体全体で彼女を抱きしめて、その背を優しく撫で続けるだけだった。
その間も、エミリアはスバルの声など聞こえないように顔を掌で隠したまま、
「……けて、ぉ父さん。たす、けて……パック、パック……ぱっくぅ……」
すぐ傍らで彼女をもっとも心配する男ではなく、泣き崩れる彼女の前になおも姿を見せない精霊の名を呼び続けているのだった。
※※※※※※※※※※※※※
「――今は落ち着かれてお休みになられているわ」
部屋から出てきた自分に物問いたげな視線を向けるスバルに、躾のなっていない犬でも見るような目でラムがそう言った。
そんな彼女の見下げ切った視線にコメントも返せず、スバルは小さな声で「そうか」とだけ応じる。そんな態度にラムは小さく吐息をこぼすと、
「らしくない顔をしているわね、バルス。普段からしまりのない顔をしているのに、そこに影まで落としたらますます見ていられなくなるわよ」
「しまりねぇとか余計なお世話だよ……悪いな、気ぃ遣わせてよ」
「……バルスの癖に、いつから人の気遣いに気付くほど察しが良くなったの?」
本気で驚いている風なラムに舌を出し、スバルは先の感謝の態度を保留。前半は目を伏せたスバルへの発破だったろうが、後半は完全にただの素だろう。
ラムから視線を外すと、スバルの目は彼女の背後――今しがたラムが出てきたばかりの部屋の扉に向けられる。その向こうで、今はエミリアが寝かされているはずだ。
「それにしても、二日続けてこんなんなってすみません。リューズさんも迷惑だったでしょ?」
「迷惑云々というなら気にせんことじゃな。もとより、儂らの勝手な願いで『試練』に臨んでもらっておる身じゃ」
振り返り、そう声をかけるスバルにリューズが平坦な声で応じる。寝室と繋がるこちらの部屋は居間、とでも呼べばいいのか、リューズの家はその二部屋と本の置かれた蔵書室の三つで構成されている。
『聖域』という場所で村長のような立場にあるわりに、ずいぶんと質素な暮らしをしているものだとスバルは思う。もっとも、部屋の隅で小さな湯呑みを傾ける彼女の一人暮らしならば、このぐらいのスペースで十分ともいえるが。
ともあれ、
「ハッ、ずいっぶんと気遣うじゃねェか、ババア。俺様としちゃ正直なとこ、『ゴウンズンの思い込みで宿なし』って気分なんだけどなァ」
「どんな気分だかイマイチ伝わらねぇけど……いい意味じゃないのは伝わってくるな」
リューズの正面に座り、同じく湯呑みを傾けるガーフィールが歯を剥いて言う。またしても伝わらない慣用句――だが、おそらくは拍子抜けなどといった意味合いだろうとスバルは判断。それからガーフィールがそれを口にした意図を察し、
「言っとくが、エミリアたんに対する悪口その他なら俺が受けて立つぞ。まずはマネージャーである俺を通してもらう」
「陰口叩く気ィなんざ毛頭ねェよ。っんな性格の悪ィ真似はしねェさ。文句があんなら真っ正面から叩きつける。なんなら拳のおまけつきで、だ」
湯呑みを持たない方の手を振り、ガーフィールはスバルの挑発を凶悪な笑みで受け流す。その態度に緊張感を維持しているスバルに、それまで黙っていた人物――オットーが「あのー」と手を上げ、
「それで、けっきょくなにがあったかは聞いていいんですかね?正直、僕としましてはそこまで深入りするつもりはないんですが、このまま険悪なのもどうかと思うので進行役買ってでますけど」
「ん、悪いな。そうだな、お前が適任だ。お前が一番、この中の誰とも深い関係じゃない上に大事な部分に関わってないから責任の一端も背負わなくていい気楽な木端な端役の立場だもんな。任せるぜ」
「任される気を削岩する勢いで削っておいてそれですか!?」
スバルの物言いにオットーが叫ぶが、口に指を当てて「静かに」のジェスチャーをするスバルに慌てて口を閉ざす。も、彼は腑に落ちない顔のまま首をめぐらせ、
「あー、なんとも釈然としませんが、とにかくお話を。まず、ナツキさんに中でなにがあったかをお聞きしたいんですが」
「なにがあったか、って言われてもな……」
最初に話を振られて、スバルは己の顎に手を当てながら視線を天井へ。
脳裏、思い浮かべるのは墓所の中の出来事――『試練』のことと、戻ったあとのエミリアの変調。泣きじゃくり、うわ言のように謝罪と精霊の名を呼ぶ彼女の姿。
「墓所の中で、『試練』が行われてたのは確かだ。エミリアたん追っかけて中に入った俺もおんなじ目に遭わされてな。とりあえず、俺は『試練』を無事突破したんだが、エミリアたんは苦戦してたらしくて。あんまり苦しそうなもんだからとっさに声かけちまったんだが……それで目が覚めて、意識がはっきりしたらあの状態ってわけだ」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや、待ってくださいよ」
早口に質問に答えるスバルに掌を差し向け、オットーが慌て顔でこちらに詰め寄る。何事か、とスバルが顔を上げると彼は「いやいやいやいや」と再び繰り返し、
「突っ込むべき箇所が何気なく流されて頷きかけましたが……え?ナツキさん、一緒に『試練』とか受けちゃったんですか?」
「え、ああ、はい、受けちゃいました。友達に応募されちゃって仕方なく」
「ナツキさんに友達なんているわけないじゃないですか、真面目に話してくださいよ」
「お前言っていいことと悪いことがあるだろうが!」
それを言われたら戦争だろうが、とスバルは眼前のオットーを睨みつける。が、そのオットーとスバルとの間に手が差し込まれ、二人の間を遮るようにしたラムがスバルを見上げながら、
「それで、バルスは『試練』を受けたのね。間違いない?」
「あ、ああ。間違いない。中に入ったら強制的に巻き込まれてな。拒否するとかそういうレベルの押しつけじゃなかったんだよ」
「始まり方はどうあれいいわ。それより問題は……バルスが『試練』を突破してしまったということね」
ラムは唇に指を当てて考え込むように瞑目。それから彼女はリューズの方を見やると、
「こう当家の雑用係は言っているけど、なにか変化は感じ取れた?本当に『試練』を終えたのなら、『聖域』の禁は解かれているはずだけど」
「……いや、特別ななにかを体に感じることはないようじゃ。実際に『聖域』の外に出ようとしてみれば、また話は別かもしれんがの」
「そう。それなら話は早いわ。ラムと一緒にきてちょうだい。『聖域』を抜けられるか試してみて、それで通れるようなら……」
「おいおいおい、話が早ぇよ。そして早とちりすんなって。俺の説明不足もあるけど、お前は即断即決がいき過ぎだ」
今すぐにでもリューズを引っ張っていきそうなラムの肩を掴み、桃髪の少女を振り向かせながらスバルは言葉を投げつける。ラムはそんなスバルの言葉に不愉快そうに眉を寄せたが、すぐに「どういうこと?」と気を取り直すと、
「無事に『試練』を終えたのなら、盟約通りに住人が解放されているか確かめるのは必要でしょう。バルスの言葉が事実なら、明日にでもアーラム村の村民は村に戻れるのだし、ロズワール様の療養も屋敷の方が……」
「本音が後半に表れてて必死な部分が見え見えだぜ。……それに、期待されてるとこ悪いけど『聖域』は抜けられねぇよ。まだ『試練』が終わってねぇからな」
そう告げるスバルにラムは薄く目を見開く。それから彼女はスバルの言葉の意味を考え込むように視線をそらし、なにがしかの結論を得たように頷くと、
「騙したのね、死になさい」
「結論と処断が速ぇよ!!」
即座に杖を抜いてお仕置き体勢に入りかけるラム。そんな彼女に両手を上げて降参の姿勢を示しながら、スバルは必死で首を横に振り、
「しかも騙してねぇ!第一の『試練』を乗り越えたのは本当だ!でも、まだ二つ『試練』が残ってるんだよ!墓所の『試練』は全部で三つなんだ。だから、残念だけどリューズさんたちが解放されるのは今じゃない」
「口から出任せもいい加減に……そんなの、どうしてわかったというの」
「そりゃ、この『試練』を考えた――」
魔女に、と口走ろうとして、スバルはふいに全身に悪寒が走ったことに気付く。
全身に襲いかかった悪寒は手足の先に鉛を詰めたような重さを、そして頭に泥を流し込んだような思考の鈍化を、血管に氷水を注いだような寒気をスバルにもたらす。
それと同時にスバルの脳裏に浮かんだのは、あまりにも間抜けな空白だった。
『試練』の内容も、先に二つの『試練』が待ち構えていることも、それを誰に教わったのかも覚えている。魔女だ。なのに、
「それがどんな奴だったのか、全然出てこねぇ……」
こめかみに触れて、スバルは自分の記憶の欠落に気付いて愕然とする。
父や母と交わした会話の内容を覚えている。流した涙の熱さも、別れに際してかけられた言葉の温かさも、それら全てを覚えているのに。
そこに関わった魔女の、その中身だけがぽっかりと記憶から失われていた。
呆然と口をつぐんでしまったスバルの様子に、それまで乱暴を働くのも辞さない姿勢だったラムがその臨戦態勢を解く。彼女は取り出していた杖を自らの腰に差し直すと、押し黙るスバルを一瞥して吐息を漏らす。と、そんな彼女に、
「あァ?せっかく面白そうなとこだったってェのに、やんねェのかよ。久っ々にラムの暴れっとこが見れっかと思ったんだっけどな」
「お淑やかでか弱いラムがそんな野蛮な真似するはずがないでしょう。それに、バルスの今の態度からおおよそわかったから必要ないわ」
「わかったって、なにが?」
ガーフィールの軽口も、それを受け流すラムの態度もイマイチ頭に入ってこない。が、スバルの問いかけにラムはその首をかすかに傾けると、
「バルスが嘘はついていない、ということがよ。それだけこちらが信用すれば、とりあえず今はいいでしょう。バルスは引き続き、オットーの質問に答えなさい」
「あ、ああ……わかったけど」
やや釈然としないながらも、ラムの強い語調に渋々と頷いてしまうスバル。そのやり取りを見ていたオットーが咳払いし、「それでは」と前置きして、
「ちょっと脱線しましたが、改めて話を戻しましょう。『試練』の内容に踏み込んだ話はあとでするとしまして……エミリア様が取り乱した件に関しては、ナツキさんはなにか心当たりがあったりとかします?」
「……あるぜ。たぶん『試練』の内容が問題だったんだと思う。俺とエミリアたんじゃ受けた『試練』の細かいとこは違うだろうけど、大筋は一緒だったと思うから」
「内容、ですか……それ、聞いても大丈夫なことですか?」
オットーの気遣いが向けられるが、スバルはそれを掌で辞す。ラムやガーフィールが追及の目で見るのに頷き、
「第一の『試練』は過去と向き合うこと、だった。ぶっちゃけ、未練とか後悔とかそのあたりと顔合わせて、ケリつけてこいって内容だな」
「な、なるほど……だから細かいとこは違うってことですか」
当然、個々の持つ過去はそれぞれ異なる。
人によってはきっと、この『試練』はそこまで困難なものではないのだろう。たまたまスバルには直撃しただけであり、そしてエミリアにクリティカルヒットしただけのことで――。
「いや、資格のことも考えると、『試練』の内容に性格の悪さが滲み出てる気がするな」
なにせ、スバルが特別に与えられた資格は本来、『ハーフ』でなければ得られないはずのものだ。『試練』を用意したものの真意までは見えないが、物語において『ハーフ』という条件を付加された存在が受けるある種のお約束は決まっている。
それは同種族や異種族からの迫害、あるいは畏怖されることなど孤立を意味する。とかくそうした状況に陥りやすい『ハーフ』を選んで『試練』を受けさせているのだとすれば、墓所に挑むのは当然のように過去に傷のあるものの可能性が高くなり、
「必然的に『試練』の突破が困難な奴ら揃いってわけだ。だいぶ腹が黒いな」
「現状、試験官の性格の悪さを罵ってても進展ありませんよ。それより……言いづらいことですけど、エミリア様が取り乱した経緯ってなると」
口ごもるオットー。ちらちらとエミリアのいる寝室に目をやる彼の言いたいことがそれだけで伝わり、しかしそれを口にしない彼の思いやりにどこか救われる。
――エミリアの見た目。かの『嫉妬の魔女』と類似する点の多い容姿、そしてハーフエルフであるという出自。それらの点から彼女が受けてきた、謂れもない蔑視や迫害の存在は感じ取ることができる。
もっとも、実際に彼女と同じ立場でないスバルたちに察せるのは、あくまでそうであろうという程度の上澄みの部分でしかない。
それ故に軽々しく話題にすることもしない。オットーの判断はひどく人間的であり、言い方を変えれば商人として致命的に向いていない性格といえる。
「お前は絶対に商人として大成はしないだろうけど、感謝してるぜ」
「なんで急に人の夢を打ち砕いたんですか!?」
「軽口混じりでなきゃ素直に礼も言えない恥ずかしがり屋なんだよ、察しろ」
「少しはあんたも僕の心の傷の深さを察しろ!!」
大声を出して地団太を踏もうとするオットーに、室内の全員が口に指を当てて「静かに」のジェスチャー。それを見たオットーが慌てて口を塞ぐが、もう遅い。
初めは小さな物音だった。
オットーが黙ったことでわずかな静寂が落ちた家中に、その床を打つ小さな音はやけに大きく響く。全員の視線が音の発生した方――即ち、寝室に向けられる。
そして、誰が口を開くよりも先にゆっくりと扉が開かれて、
「その……ごめんなさい、迷惑をかけて」
そう言って申し訳なさそうに小さくなりながら、銀色の髪を背に流すエミリアが顔を見せていた。
その最初の一言に取り乱したことの影響が残っていないらしいのを確認して安堵。それからスバルはいち早く小走りに彼女に駆け寄ると、
「よかった、おはよう。エミリアたん、もう体調とか平気そう?」
「ぁ。うん、大丈夫。体の方は全然なんともないの。心配かけちゃってごめんね」
「そっか、それならいいんだ。ほら、最初に倒れてたときは俺も側にいられなかったからどっか打ってなかったかわかんなくて心配でさ。やっぱり、片時も離れないでいた方がお互いに安心できっかもね」
「――ぅん、そうよね」
「ん?」
軽口に対する返礼があるものと身構えていたスバルは、予想と違うエミリアの反応に少しだけ眉を寄せる。彼女は目を伏せ、ジッとスバルの手を見ていた。なんだろうと首を傾げつつ、スバルは彼女にその手を差し出すと、
「どうしたの?俺の掌の感触が恋しくなった?なんなら一晩中でもずっと手を繋いでてあげられるけど」
「ぇ、ぁ……だ、大丈夫。そんなじゃないの。ちょっとその、寝ぼけただけっ」
差し出されたスバルの掌に触れる直前で、なにかを思い直したように首を振るエミリア。その彼女に次に声をかけたのは歩み出た給仕服の少女であり、
「エミリア様。まずは無事にお目覚めになられてなによりです。できればラムには、強がったりせずに体調についてお聞かせいただきたいのですが」
「おい。その物言いだとエミリアたんが俺には本音で話すの躊躇ったみたいな雰囲気を感じるじゃねぇか」
「女同士でなければ、あるいは見栄を張りたい相手の前ではそうもいかないこともあるでしょう。察して部屋から出ていくぐらいの配慮を見せなさい」
「その配慮を見せたいのは山々なんだけどな……」
鋭い目を向けてくるラムに、スバルは視線を落として言葉尻を濁らせる。そのスバルの言葉に訝しげに眉を寄せ、視線を追ったラムの表情に納得の色。
彼女の瞳に映るのは、力なく下ろされたスバルの手と――そのスバルの手をおずおずと掴んでいる、エミリアの白い指先だった。
「え、あ!」
その意味深なスバルとラムの視線に、遅れて気付いたエミリアが慌てて手を離す。彼女は頬を赤くすると、まるで自分の今の行動が無意識であったように慌て、
「ち、違うの。あれ、おかしいな。私、そんなつもりじゃなかったのに……だって、さっきは触らないようにしてたのに」
「確かに引っ込めたんだけど、けっきょくすぐに伸びてきてたよ?役得だからなんにも言わなかったけど、エミリアたん本当に大丈夫?」
離れた指先に未練を残しながらの問いかけに、エミリアは気丈に首を縦に振る。が、その頬はいまだに赤いままであり、それが羞恥によるものでないことはさしものスバルにも察することができた。
しかし、エミリアはそんな自分の変調にも気付かない様子で、
「話の腰を折ったりしてごめんなさい。でも、ホントに体の調子がおかしかったりするところはないの。寝ぼけてた頭も今のでちゃんと起きたから、もうへっちゃら」
「へっちゃらってきょうび聞かねぇな……」
「む、またスバルはそうやって」
相変わらずの発言にスバルが茶々を入れると、エミリアはむくれたように頬を膨らませる。そんな彼女の仕草に普段通りを感じて、スバルは杞憂だったかと自分の思い過ごしにセーブをかける。だが、
「エミリア様。お目覚めになられてすぐではありますが、『試練』のことについて」
「――っ」
エミリアの復調を見計らったわけではないだろうが、ラムが事務的に口にしたその内容に一瞬だけエミリアの横顔が強張る。ジッと彼女を見つめていたスバルはその刹那の変化を見届けたが、それはたちまち笑顔の下に隠されてしまい、
「そう……えっと、『試練』の内容についてはみんなは」
「それはバルスから聞いています。もちろん、細かな内容までは踏み込んでいません。エミリア様にも、聞かれたくないことはあるでしょうから」
「そ、そうなんだ。スバルが……え?どうしてスバルが?だって、スバルはハーフじゃないから『試練』を受けたりなんて……」
驚くエミリアの瞳がスバルに向けられ、同様の疑問を抱いた周りの視線もまたスバルの集中する。当然の疑問だな、とスバルはそれらの視線を受けて、どうしたものかと考えながら、
「入る前に言ったろ。資格は貰ったんだよ。誰にって言われると微妙だが、どこでって言われたら……たぶん、昨日の夕方に墓所でだな」
「夕方っつーと、ぶっ倒れててめェをここに運び込んだっときかよ」
「ああ、それで間違いない。なんで貰えたかとかに関しちゃ確証がねぇけど……あれじゃねぇか。資格のない奴も、中に踏み込んであの洗礼だかなんだかを受けると入れるようになるみたいな。案外、ロズワールの奴も入れるかもしれねぇぜ?」
「それ試してロズワールの奴が弾けたら面白ェな。『プリンパの雫も同じ血の色』ってのが確かめられるってェもんだしよォ」
口を開けて笑うガーフィール。が、ラムの冷たい視線を向けられるとつまらなそうな顔になってすぐに閉口。それから彼女はスバルの答えに納得のいっていない顔ではあるが、
「いずれにせよ、バルスが中に踏み込んでエミリア様を連れ戻ったのは事実です。またその際、バルスもエミリア様と同じ種類の『試練』を受け、妄言でなければそれを乗り越えたと言っています」
「妄言て、ひどいな、オイ」
「乗り越えた……スバルが、『試練』を?」
容赦ないラムの言葉にスバルが突っ込みを入れるが、エミリアの耳にはそれら後半のやり取りが入っていない。彼女は震える瞳でスバルを見つめると、
「本当に越えたの、スバル。あの……過去を?」
「俺とエミリアたんで見てたもんは違うだろうけどね。俺はまぁ……一人の力で乗り切れたわけじゃねぇしさ」
なにせ立ち塞がる側のはずの、父と母に最大限の助力を得てクリアさせてもらった。なにより挑む前から、スバルの中では答えをもらっていたも同然の世界だった。
エミリアには悪いが、『試練』に挑む前段階からして違った状態だったのだ。
「たまたま試験結果が良かったぐらいでどうこう言う話じゃねぇさ。それより問題はエミリアたんだ。たぶん、様子からして今日の『試練』は駄目だったんだと思うけど……」
「う、うん。そう、なの……頑張ったんだけど、途中で急に途切れちゃったし」
「それは俺が起こしちゃったからだと思うのでごめんなさい。……っていうか、そもそも『試練』って再挑戦は可能なもんなんだよな。俺も第二の『試練』は受けてねぇんだし、帰ってきちゃったけど」
たどたどしいエミリアの言葉を聞きながら、スバルは生じた疑問を振り返ってリューズに問う。それまで黙って話し合いを眺めていた幼い姿の老女は頬に触れ、
「あまり前例のあることではないが……挑むこと、それ自体は何度でも可能じゃろうな。儂は第一の『試練』を越えることもできんかったが、二度挑んでおる。それよりも気になるのは、むしろ資格を得たスー坊の方じゃ」
「俺?」
「急に資格が生えることなぞまずありはせん。少なくとも、墓所ができた当初からいる儂の知る限り……じゃがな。おおよそ、見当はついておるが」
それきり黙り込むリューズ。そんな彼女の発言と態度にスバルは違和感を覚えたが、ひとまずそれを保留してエミリアに向き直ると、
「ともあれ、再挑戦可能のお墨付きはもらった。あとの問題は、エミリアたん自身だ」
「わ、私……?」
「ああ、そうだよ。聞くけどさ――エミリアたん、もう一度、『試練』に挑む覚悟ってのは決められそうか?」
「――――っ」
その問いかけに、エミリアは喉を詰まらせるようにして目を見開く。
それが決意を疑われるような問いかけへの怒りであったり、屈辱の感情に塗れているのならば、スバルは自分が罵られる覚悟も泥を被る決意もあった。
だが、震える彼女の紫紺の瞳に宿ったのは、あまりにも儚い不安と恐怖。
それは即答できないほどに、彼女の心を負の感情が蝕んでいるということで、
「仮に君が『試練』を受けられないなら、代わりに俺が『試練』を受ける」
「――!?でもスバル、それじゃ……っ」
「少なくとも俺は第一の『試練』はクリアしてる。残り二つの『試練』だって、突破不可能じゃないってことは示せてるはずだ。その上で、君が『試練』を受けることに二の足を踏むなら、堂々と俺がやってやるさ。俺はそのためにここにいる」
「そのためにって……わ、私のため……?」
「そうだよ」
いっそ、否定してもらいたがっている様子のエミリアにスバルははっきり告げる。
ますますの激情にエミリアが目を見開くのを見ながら、スバルは彼女の双眸を真っ直ぐに見つめて、
「俺は君のために、君が恐れるんならそれをやる。ロズワールなんかは、『聖域』の解放はエミリアたんがやってのけて、エミリアたん自身の手柄にしなきゃとか言うかもしれないけど……俺の行動の結果、それが賞賛されることなら全部それは君に捧げる。俺の手元にはなにも残らなくて構わない」
「どうしてそこまで……してくれて……」
「言ってるじゃんか。俺が君を好きだから、超好きだからだよ」
エミリアが息を呑み、部屋の他の面子がそれぞれにそれぞれの反応を示す。
そんな彼らの反応を意識にすら入れず、スバルは動揺するエミリアを見つめたままで肩をすくめると、
「そんなわけで、俺は『試練』に挑もうと思う。エミリアたんはどうする?本当に辛いんなら、家で寝てていいけど?」
「――――スバルの、ばか」
口の端をつり上げるスバルを前に、エミリアの唇が小さくそうこぼす。
それから彼女は一度伏せた顔を上げ、それから袖で強く目を擦ると、その唇を微笑みの形に綻ばせて、
「そんなこと言われて、私が部屋で閉じこもって待ってられるわけないじゃない。ホントに……すごーく、ひどい。すごーく、馬鹿。すごーく……ありがと」
「え?なに?最後聞こえなかった。すごーく大好き?」
「全然違う!すごーくありがとって……」
「なるほど。聞こえたけどもう一回!」
「スバルの馬鹿!!」
耳を寄せて調子に乗ったスバルに、エミリアが大声でそう言い放つ。
銀鈴の声音も、大音量で鼓膜にぶつけられればそれなりの音響兵器だ。スバルは目を回しそうになりながらも、肩を大きく上下させるエミリアの姿に笑いかけ、
「それでこそ、だよ。んじゃ、また頑張ろうか。俺はステージ2から、エミリアたんはステージ1からだけど」
「ふんだ。すぐに追いついて、そのまま追い抜いて、きっと置き去りにしちゃうから。スバルのお手柄なんて、一個も残さないんだからね」
「一個ぐらいは残ってないとエミリアたんにご褒美ねだるチャンスがなぁ」
懲りないスバルの言葉に、エミリアが唇を尖らせると舌を出す。
そんなやり取りを行いながら、スバルは彼女が立ち直る手助けが少しはできただろうかと、そんな風に思う。
いずれにせよ、『試練』の本番はここから始まるだろう。
「俺とエミリアたんのラブラブパワーで、『試練』なんざちょちょいとひねろうぜ」
指を鳴らして歯を光らせながら、サムズアップしてスバルは決意表明。
そのスバルの言葉に、エミリアはただただ舌を出し、
「私だけで十分なんだから。スバルのお守りがなくても大丈夫だって、明日には証明しちゃうんだからね」
と、そう強がってみせたのだった。
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スバルとエミリアがじゃれ合うようにやる気を高め合うのを見ながら、リューズはすでに冷めてしまったお茶の湯呑みを口に運ぶ。
うっすらぬるいそれで舌先を潤しながら、彼女は銀色のハーフエルフと黒髪の少年の言い合いを楽しげに眺めて、
「どうなるじゃろうな、これで。……全ては、魔女様の思惑通りになるんじゃろうか」
「けっ。知らねェよ。どっちにまとまっても、俺様にとっちゃ胸糞悪ィことになるだけの話だぜ」
その呟きを聞きつけて、ガーフィールが不機嫌を隠さない声音でそう言う。
そんな青年の横顔を見やり、リューズは誰にも気取られないよう小さく吐息をこぼしながら、
「優しいばかりの子らに負担を強いる。どこまでもどこまでも、老害の儂は……儂らは救いようがない。――せめて、最後はそうありたくないもんじゃな」
茶を傾けながらのその言葉は誰にも届かず、ただただ葉の色をしたぬるい茶の表面に波紋を生んだだけで――消えていった。