『いつか好きになる人』


 

何を言われたのか、エミリアには一瞬、意味がわからなかった。

思わず息を呑む。と、目の前の青年――レグルスはエミリアのその反応に、微笑んだままで軽く手を挙げる。

 

「ああ、いきなりでごめんね。ちょっと驚かせてしまったかもしれない。その点については素直に謝罪するよ。何度も言うようだけど、僕は謝れる人間だ。世の中、自分の非も認められずにぐじゃぐじゃ言い訳を重ねるような見苦しい人間もいるけど、あれって過ちも認められないって意味じゃ器が小さすぎて嫌になるよね。自分が何一つ間違えない、生まれてからこの瞬間まで全部において正しいとか勘違いしてるからそういうことになるんだと思うけど、どれだけ傲慢なんだろうね?もっとしっかり自分の足下を見つめ直して、世界なんて大きなものに比べて自分がいかに小さな存在かちゃんと認識できてたらそんなことになんてならないだろうに、謝罪一つでその人の品性っていうの?人間性が垣間見えるものだよ。そうは思わないかい?」

 

「えっと、謝るのは大事よね?」

 

「そう!そうだよ、謝るのは大事さ。よかった。当たり前のことだけど、その点が分かり合えるようで何よりだよ。こんな当たり前のことが、分かり合えない相手が予想外に世の中多い。嫌になるよ。さて、夫婦間の謝罪に対する認識のすり合わせは問題ないみたいだ。今後、君とはうまくやっていけそうで何よりだよ。それで、謝ったことに関してだったね。問題は僕が、少し性急だったことだけど……」

 

そこまで言ったところで、レグルスの視線がエミリアを上から下まで眺める。体にタオルを巻いただけのエミリアは、その視線に少し身を固くした。

 

「うん、夫婦間でも恥じらいは大事だ。その点でも君はとてもいいと思う。その上でさっきの問いかけだけど、誤解しないでほしい。僕は何も下世話な観点から、君が処女かどうかを確かめようとしたわけじゃないんだ。何度も言ってるけど、僕は夫で君は妻だ。夫婦というのは、強い愛情と思いやりで結ばれてなきゃならない。長く長く愛という鎖で互いを繋ぎとめる以上、全部を相手に捧げるのが当然だ。だから、君が他の男に触れられていない……その確信が欲しい」

 

「他の人に、触られてない確信……?」

 

「もちろん、処女膜の有無で確固たる証拠としようなんてのはナンセンスな話だ。だけど一つの試金石として、とても重要な価値を持つと僕は思ってる。だからあえて、君に嫌な思いをさせるかもしれないと思っていながらも尋ねた。わかってほしいんだけどさ、これは僕が君を愛しているからだよ。愛していない相手の処女性なんて知ったことじゃない。君を愛するから、確かめるんだ」

 

流暢に流暢に、レグルスは自分の考えの根拠をつらつらと語り続ける。その言葉の波に翻弄されながら、エミリアは淡々と話すレグルスに不気味なものを覚える。

彼の姿に、どことなく感じる既視感は延々と胸を苛み、流し込まれる水のように滑る内容はなかなか記憶に引っかからない。ただ、一つだけわかった。

彼が重要視している、処女という単語。それが――、

 

「それで、改めて聞きたい。――ねえ、君は処女かな?どうだい?」

 

「あの、そのショジョってなに?ごめんなさい。私、聞いたことなくて」

 

「……なに?」

 

満を持して放たれた質問に、エミリアは申し訳なさそうにそう答える。

レグルスがそれに強いこだわりを持っているのはわかったが、エミリアにはそれが何なのかがよくわからない。たぶん、女の子のことだとは思うのだが。

 

エミリアの言葉に、低い声で聞き返すレグルスの表情が曇る。

彼は目を伏せると、そのまま黙りこくった。考え込むような素振りに不安が込み上げるが、その沈黙は思いのほか短い。

レグルスは目をカッと見開くと、エミリアにその手を伸ばした。そして、

 

「素晴らしい。――君は、僕の理想の乙女だよ」

 

「えっと?」

 

エミリアの手を握ると、レグルスはその顔に晴れやかな笑みを浮かべていた。

それは先ほどまでの微笑みとは違う、本当に嬉しげな顔つきだ。子どもが欲しがっていたオモチャを、親から与えられたときのような輝かしい表情。

レグルスは握ったエミリアの手を上下に振り、何度も頷いた。

 

「そうだよ、そうでなくちゃ。体の処女性がどうこうだなんて、試金石としてもふさわしくないんじゃないかと薄々思ってはいたんだ。だけど、本当の意味でも純粋さというものは心に宿るものだ。体が処女は当たり前!本当に大事なのは、その心まで処女であることだ。真理に達した気がする。すごいじゃないか。君は満たされていたはずの僕に、新しいものをもたらしてくれるわけだ」

 

「――――」

 

「うんうん、わかった。安心して、君を僕の妻に迎え入れるとするよ。それに君のおかげで大事なことにも気付けた。今後、新しい妻を迎えるときは処女かどうかを聞くだけじゃダメだね。処女の意味を知らない子ぐらいにならないと、妻の価値を下げることになる。心が姦通していたらダメだ。僕の妻にふさわしくない」

 

エミリアから手を放して、レグルスはご満悦な様子でステップを踏んでいる。

彼の発言の意味が、エミリアにはイマイチうまく拾えない。そもそも、夫だ妻だという発言の真意が不明だ。エミリアの認識では、夫婦というものはお父さんとお母さんが一人ずつのはずだが、レグルスの発言からは複数の妻の存在がうかがえる。

それは夫婦の在り方としては、エミリアの常識とはかけ離れている。同じ音の響きの、別のもののことを話しているのだろうか。

 

「おっと、いつまでも君をそんな格好でいさせるわけにはいかないよね。すぐに着替えを用意させるよ。――百八十四番!おいで」

 

「――――」

 

困惑するエミリアを余所に、レグルスがふいに番号を口にする。すると、廊下の向こうから姿を見せたのは、エミリアを残して部屋を去った先ほどの女性だ。

長い金髪の女性は楚々とした佇まいでレグルスの横につくと、恭しくその場で一礼してみせる。レグルスはそんな彼女の仕草に顎を引くと、

 

「彼女に……七十九番に着替えを。準備ができ次第、結婚式を執り行う。君たちと同じ立場になる子だ。仲良く、面倒を見てあげてほしい」

 

「――――」

 

「うん、笑わなくなったね。――いい子だ。良妻だね」

 

無言で顎を引くばかりの女性に、レグルスは満足そうに呟いた。

それから彼は、いまだ事情に置いていかれているエミリアに歩み寄ると、こちらの銀髪にそっと指を差し入れて、長い髪を撫でる。

 

「それじゃ、またあとで」

 

「ええ……」

 

逆らうべきではないと、エミリアの本能がそれを訴えかけている。

エミリアの短い答えに頷くと、レグルスはそれきり、足音を立てて廊下の向こうへと消えていった。

 

彼の姿が見えなくなると、エミリアは自分の体が緊張から解放されたのに気付く。それほどまでに無意識に、レグルスに対する警戒心が働いていたのだ。

ただリラックスして、そこにいただけに思えたレグルス――それなのにその存在の異様な圧迫感は、大兎と相対したときに匹敵する脅威をエミリアに思わせた。

 

「こちらへ」

 

消えた背中にいつまでも目を向けていたエミリアを、傍らの女性がふいに呼んだ。初めて聞いた女性の声音は、弦楽器を思わせる透き通る美声だ。しかし、その声もまた表情と同じで、感情という感情を凍てつかせた強張ったものだった。

 

「あの、ごめんなさい。私、たくさん聞きたいことがあるんだけど……」

 

「お着替えを」

 

「着替えもそうなんだけど、お話を……あなた、ここがどこだかわかる?私、プリステラの大広場で魔女教の人と……あ、もうっ」

 

質問をしようとするエミリアを無視して、女性がさっさと歩き出す。その後ろに慌てて続きながら、エミリアはなんとか状況を把握しようと矢継ぎ早に質問をぶつけるが、ピンと正された背中はその全てを無言で跳ね返すばかりだった。

そうして先を行く女性に案内されたのは、エミリアが寝かされていた部屋の隣、そこもまた簡素な造りの部屋の中に、無理やり家具を詰め込んだ妙な空間だ。

 

「ここって、もともとはもっと違うお部屋だったんじゃ……」

 

「衣装用のクローゼットなど、旦那様が持ち込まれました。七十九番、お着替えを」

 

「その七十九番って、私のことなの?さっきの、レグルスも私をそんな風に呼んでた気がするけど。あなたは……」

 

「百八十四番です。あなたと同じ、彼の妻の」

 

「私と同じって……」

 

扉を閉じると、ようよう女性――百八十四番を名乗る女性が会話に応じる。

変わらず感情の凍えた声だが、ようやく会話できそうな気配だ。

 

「その妻って、何度も聞いてるけど奥さんって意味の妻?だったら私、レグルスの奥さんになったつもりなんてないんだけど……」

 

「あなたにそのつもりがなくても、彼はそのつもりです。そして彼がそのつもりであるということは、あなたの意思は関係ないということです」

 

「そんなのおかしいじゃない。奥さんになるには、旦那さんと結婚しなくちゃいけないはずでしょ?私、レグルスと結婚してないし、する気もないわ。結婚するのは男の人と女の人が、お互いにずっと一緒にいましょうって好き合ってなくちゃいけないのよ。私、まだ誰ともそんな約束できないもの」

 

「結婚式なら、これからすぐに行われます。それで、終わりですよ」

 

百八十四番は、エミリアの言葉に聞く耳を持たない。会話が成立しているようで成立していない気配に、エミリアはますます困惑を強めた。

その間に、百八十四番はエミリアに歩み寄り、その体に巻いているタオルケットを引き剥がそうとする。

 

「やっ。ちょっと、何するの?」

 

「すぐに花嫁衣装にお着替えを。幸い、衣装は取り揃えてあります。ベッドに寝かせるために脱がせたとき、サイズは確かめてあるので安心なさって」

 

「私のこと、裸にしたのってあなたなの?」

 

「旦那様だと思いましたか?安心してください。彼は女性の肌をみだりに覗くような趣味はありませんし、そもそも彼は女性に興味がありません。処女かどうかを確かめても、そのまま何もしませんよ」

 

「あなたも、そのショジョのお話するの?」

 

「……驚いた。まさか、演技じゃなく本当に知らないんですか?」

 

初めて、百八十四番の表情に感情らしきものが垣間見えた。かすかに覗いた驚きにエミリアは目を丸くし、それから薄く微笑む。

 

「なんだ。あなたも、驚いたりできるのね。だったら笑ってお話してくれたらいいのに。その方がずっと、あなたに似合うと思うわ」

 

「……旦那様が望まれませんので。あなたにも忠告しておきますが、旦那様はあなたの普段の顔が好きでいらっしゃいます。笑ったり、悲しんだり、表情を変えない方が賢明ですよ。できれば、口も開かない方がいいと思います」

 

「喋るなってこと?どうして?」

 

「何が旦那様の権利を侵害するか、わかりませんので」

 

エミリアからタオルケットを剥がし、百八十四番が下着を差し出してくる。受け取ったそれを身につけていくと、なるほどサイズはぴったりだった。

下着姿で手足を回すエミリアに、百八十四番がふいに長く吐息をこぼす。

 

「どうかしたの?」

 

「……いいえ、綺麗だと思って。細い手足も白い肌も、その長い銀色の髪も」

 

「――?ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。そんな風に言ってくれるのって、スバルとアンネぐらいしかいないから」

 

「スバル……男性、ですか?」

 

「ええ、私の騎士様。たぶん、すごーく私を心配してると思うの。だから、今どこにいるのか早く確かめたいんだけど……」

 

おそらく、ものすごい心配をかけているはずだ。

エミリアの脳裏に、スバルがやられてしまったというような心配はない。彼にはベアトリスがついているし、そもそもスバルが死に瀕するような窮地に陥る事態がエミリアには想像できない。スバルは、たぶんなんでもどうにかしてしまう。

だからこそ、スバルに何も言えずに捕えられている現状が不甲斐ない。

 

「そのスバルという男性のこと、旦那様には絶対に口にしないでください」

 

「え、どうして?」

 

「旦那様の言葉を借りるなら、心の処女性を疑われるからです」

 

「また、ショジョのお話?」

 

説明してもらえないのに、それを理由にされても困る。

唇を尖らせるエミリアにそれ以上の説明はせず、百八十四番はクローゼットから白いドレスを取り出すと、それをエミリアの体に合わせる。

きらびやかな見た目で、派手な装飾品がいくつもついた綺麗なドレスだ。

 

「でも、動きにくそうね」

 

「不満も、口にされない方が賢明です。着替えますよ」

 

そんな綺麗な服、自分に似合うだろうかと首を傾げながら、エミリアは百八十四番に指示されるままに袖を通し、ドレスに着替えていくのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――ああ、いいじゃないか。やっぱり君は思った通り、白が似合うね」

 

「……ありがとう」

 

着替えさせられたエミリアを見て、レグルスは晴々とそう言った。

彼の姿も、先の廊下で出くわしたときとは変わっている。エミリアがそれに気付いた顔をすると、レグルスは自分の服の襟元を軽く広げてみせ、

 

「大事な結婚式だからね。普段通りの飾らない僕であることも一つの考えではあるけど、そんなつまらないこだわりで君に恥をかかせるようなことはできない。夫婦は互いのために、相手を思いやることを苦に思わない関係が理想だ。このぐらいのことで君に配慮したなんて重荷に思わせるつもりはないけれど、君のためなら多少の変化は受け止められる男だとわかってほしい。会場も、もうすぐ出来上がるよ」

 

「会場……ここのことよね」

 

白いタキシード姿、礼服を着こなすレグルスが首を巡らせるのに従い、エミリアも自分のいる空間に目を向ける。

それは聖堂――正しく、結婚式を始めとした大事な儀式に用いられる聖堂だ。

 

百八十四番に着替えさせられたエミリアは、建物の外に出たところで初めて自分が制御搭の一室にいたことに気付かされた。そのまま、エミリアは百八十四番に連れられて制御搭からすぐの、この聖堂へと連れてこられたのだ。

 

聖堂ではあくせくと動き回る人影がいくつもあり、建物の中を飾り付け、結婚式のための準備が粛々と進められている。そして、その会場の設営を無言で黙々とこなしているのはいずれも、着飾った美しい女性たちなのだった。

 

「彼女たちは僕の妻、君と同じ立場の子たちだよ。僕の妻は総勢で二百九十一人……悲しいことに、死に別れた子も多いんだけどね。それでも、今も僕に寄り添ってくれている彼女たちには平等に愛を注いでいるつもりだ。当然だよね。誰か一人を贔屓するような愛し方、夫の在り方としてひどく歪だ。僕はそんな不義理なことは絶対にしないよ。決まった愛を、決まった分だけ、決まったやり方で注ぐ。そこに偏りも不平等も不公平もない。安心してほしい。僕は君も、等分に愛するから」

 

「あなたの言ってることって、それってなんだか……」

「――旦那様。少々、お話が」

 

変、とエミリアが続けようとしたときだ。

並んでいた百八十四番が前に踏み出し、レグルスに話しかける。レグルスはその百八十四番の言葉に、かすかに眉をピクリとさせた。

 

「あのさ。僕が今、彼女と話しているのが見えてるよね?そんなときに話しかけてくるっていうのは、僕と彼女が育んでる愛の芽に毒をまき散らす行為だと思わない?思わないかなぁ。そういうささやかな配慮が、夫婦間じゃ大事だと思うんだよ。そういう風に言いつけてきたはずだよね?なのに邪魔するっていうのは、僕のほんのささやかな願いを無下にするってことだ。百八十四番、どう思う?」

 

「申し訳ありません。ですが、大事なお話です。差し出がましいとはわかっていても、私も旦那様を心配してのことなのです。なにとぞ、お聞き届けください」

 

早口になり、剣呑な気配を全身から溢れさせるレグルス。しかし、百八十四番はその鋭い気配にさらされながら、毅然とした態度を崩さずに進言する。

自然と、その姿勢にレグルスの方も刺々しい気配を引っ込めた。

 

「……いいよ。言ってごらん。妻に寛大を示すのも、夫の当然の度量だ。そのぐらいのことができないほど、僕はせせこましい男じゃない」

 

「ありがとうございます。あの、少し前の放送の件ですが……大丈夫でしょうか。もしも結婚式の最中、邪魔が入るようなことがあれば」

 

「放送?ああ、あの震え声のよくわからない声のことか。別にいいんじゃないの?放っておいたところで何の問題にもならないでしょ。ぶつくさ弱虫が、自分の実力も弁えないで適当なこと並べてたみたいだったけどさ。カペラだのシリウスだの、あのクズ共だったらどうなるか知らないけど……僕には関係ない。それとも君、僕の強さが信じられないの?それは妻として、夫の能力を疑うってこと?」

 

「いいえ、信じております。旦那様がおられれば、私どもは何も心配ありません。ただ不安を、旦那様の言葉で拭い去ってもらいたかっただけなのです。どうか、素直に甘えることもできない不出来な妻をお許しください」

 

レグルスの追及を、百八十四番は用意していたような返答でかわそうとする。弱い女の言葉を、無感情な表情と声で紡ぐ百八十四番。彼女の言葉にレグルスは感銘を受けた顔で瞬きし、首を横に振った。

 

「そういうことだったのか。それは、僕の方も考えが回らなくてごめんよ。求められていなくても、その心の不安に気付くべきだった。言葉がなくても相手を思いやれなきゃならないのに、僕はなんて勝手だったんだろう。反省したよ」

 

「私の方こそ、申し訳ありませんでした。旦那様のお言葉に勇気をいただけました。私も、すぐに会場の設営に取り掛かります」

 

「ああ、そうしてほしい」

 

一礼し、百八十四番がレグルスに背を向ける。同時に彼女は、その瞳でエミリアに何事か目配せしてきた。それはおそらく、遮ったエミリアの発言の不注意を忠告するような類のものだったのだろう。

レグルスの危険性を、エミリアは軽視していると言いたかったに違いない。そのことが伝わってきていたから、エミリアは直後の判断を迷わなかった。

 

「――危ない!」

 

「え?」

 

横を抜けようとした百八十四番、その腕をエミリアは強く引き寄せる。長身だが軽い体を胸に抱き入れて、エミリアは大きく一歩、後ろに下がった。

そのエミリアの眼前、寸前まで百八十四番が立っていた空間を風が撫ぜ、その風が聖堂の床を引き剥がし、ぶち破り、破壊が一直線に突き抜ける。そのまま風は止まることなく聖堂の大扉を直撃し、入口を粉微塵にして破壊が外へ抜けた。

 

「――――」

 

その圧倒的な破壊力の直進に、エミリアは百八十四番を抱いたまま声も出ない。百八十四番も、背後で巻き起こった破壊を気配で感じ取ったのか、その体を強張らせてすっかり小さくなってしまっていた。

そしてその二人に、破壊の始点で右腕を振り上げた姿勢でいたレグルスが、

 

「ごめんごめん。ついうっかりしたよ。――君たちに何事もなくてよかった」

 

「――――」

 

「僕は時間まで控室にいるから、準備ができたら呼んでほしい。ああ、君も控室で髪を結い上げてもらった方がいいんじゃないかな。その方がぐっと魅力的だと思う。そのままでも綺麗だとは思うけど、綺麗になる努力は欠くべきじゃないと思うんだ。むしろ、綺麗であり続けることやより綺麗になろうとすることって、自分を好いてくれる相手に対する最低限の礼儀だと思うんだよね。もちろん、現状の満たされた環境に満足している僕ではあるけど、与えられるものにまで制限を付けるつもりはない。君の愛情の示し方がより満たされる方へ向かうなら、僕から止めたりはしないさ」

 

今の、一瞬の破壊をなんでもなかったかのように言って、レグルスはエミリアに笑いかけると、聖堂の横手にある扉から控室とやらに消えてしまう。

エミリアは呆然と、破壊の痕跡を見ながら深い息を吐いた。

 

「今のって、なんだったの……?」

 

「……助けてくれて、ありがとうございました」

 

エミリアの腕の中から、そう言って百八十四番が抜け出す。身を固くしていたはずの彼女は自分の乱れた髪を整えると、すぐにエミリアの傍を離れた。その足が向かうのは、聖堂の中の設営をしている女性たちのところだ。

見ればその女性たちも、今の破壊に何ら関心がない顔で作業を続けている。それどころか、破壊された床と扉の方にもぞろぞろと複数名が集まり、その痕跡をどうにか目立たないようにしようと、作業を始めるのがわかった。

 

「待って!こんなのおかしいわ!あなたたちは変だと思わないの?」

 

「――――」

 

その当たり前のような態度に、エミリアが混乱して声を上げる。しかし、女性たちはエミリアの声に耳を貸さず、ただ黙々と設営を続けるだけだ。

埒が明かないと、エミリアは唯一、会話の通じそうな百八十四番のところへ。

 

「今、あなたは殺されそうになったのよ?私が引っ張ってなかったら、きっとあのままバラバラになってたわ。怖かったでしょう?なのに」

 

「なのに、なんですか?助けていただいたことにお礼は言いました。それ以上、私に何を求めるんです。それ以上は、権利の侵害では?」

 

「権利や義務の話なんてしてないわよ!もっと大事な、大事な話をしてるの!」

 

エミリアは聖堂の中を手で示して、作業を続ける女性たちを指差した。

 

「レグルスは妻たちって言ってたわ。みんな、あの人の奥さんなの?奥さんだから言うことに従ってるの?奥さんだから、殺されそうになっても黙ってそれを受け入れて……そんなの、変じゃない。おかしいわ!」

 

「そういう、夫婦の形もあるというだけです。同じ境遇になれば、あなたもそのうちに慣れますよ。……慣れないなら、それまでです」

 

「そんなのおかしい……結婚って幸せで幸せで、幸せな人たちがするんじゃないの?私にはあなたも、他の人も、幸せそうになんて見えない。私、間違ってる?」

 

「ええ、間違っています。幸せでなくても結婚はできます。夫婦は愛し合っていなくてもなれる。ずっと一緒にいれば、夫婦になれます。夫婦に、慣れます」

 

百八十四番は、自分が嫌々この立場にあることを否定していない。否定していないがその上で、今の立場を肯定している。それは歪で、間違っている。

結婚は、夫婦はなりたいものであって、慣れたいものではないはずだ。

 

「結婚式なんて、付き合うつもりはないわ。私、このまま出ていく」

 

「――――」

 

エミリアの言葉に耳を貸さなかった女性たちが、その言葉には顔を上げた。彼女らはドレス姿のまま、結婚式のボイコットを告げるエミリアを見つめる。

感情のない瞳の嵐にさらされながら、エミリアは胸を張った。

 

「心配してくれてる人がいるの。どうにかしなくちゃいけないこともたくさんある。だから、私はこんなところで足止めなんてされていられないわ。すぐにみんなと合流して、私のしなくちゃいけないことをする」

 

「そんなこと、旦那様が許しません」

 

「私、レグルスの奥さんになったつもりないもん。だから、許してなんてほしくないわ。みんなと合流して、それで……きっと、あなたたちを助けにくる」

 

「――っ」

 

「あなたたちが、いたくてレグルスと一緒にいるわけじゃないってわかった。だから私、レグルスに言ってみんなを解放させる。それでも、レグルスと一緒にいたい人は夫婦を続けたらいいわ。でも、離れたい人は離れさせる。そんな無理やり結婚したって、お互いが幸せになれないなら意味なんてないから」

 

エミリアが結婚に思い描き、結ばれるべきだと期待するのは愛し合う二人だ。

脳裏に浮かぶのは、ありし夢の中で見たフォルトナとジュースの姿。あの二人は結婚しなかったし、夫婦にもならなかったけれど、でも、いいと思ったのだ。

あの二人になら、エミリアは結婚してほしかった。幸せな結婚と愛し合う夫婦という関係はきっと、ああいう関係にこそあったはずなのだ。

だから――、

 

「好き合ってるのに結婚できなかった人たちを私は知ってる。だから、結婚してるのに幸せになれないなんて、そんな関係は嫌だわ」

 

「…………」

 

エミリアの宣言に、無感情な女性たちの間に動揺が広がる。しかし、百八十四番はいち早くその動揺から抜けた。

彼女はエミリアを真っ直ぐ見つめると、破壊された入口を見やる。

 

「あなたが出ていくというなら、それはあなたの自由です。ですがその場合、旦那様は私たちを許しません。必ず、私たちは皆殺しにされます」

 

「奥さんなのに……?」

 

「夫の望みを遂げられない妻なんて、旦那様の常識の中では妻としての役割を果たせていないも同義でしょうから。あなたが出ていくのなら、私たちは死にます。それでも出ていくのなら、私たちを殺すのはあなたです」

 

「――――」

 

エミリアに対して、百八十四番は自分の命を人質にして言い放った。

彼女の意見、その極端な内容が総意であると示すように、聖堂の中にいる女性たちがエミリアを囲むように立って、その動きを牽制する。

無論、戦ってエミリアを止められるようなものは一人もいまい。彼女らはあくまでも普通の女性だ。普通の家庭で育ち、普通の倫理観を育み、普通の幸福を描いて生きてきた、普通の女性たちだ。

 

どこかで歯車が狂って、レグルスに妻として迎えられただけの。

 

「――――」

 

彼女らの悲壮な覚悟に何も言い返せないのは、レグルスのその凶行をエミリアも目の当たりにしていたからだ。

少し言い返されただけで、その命を簡単に吹き消そうとしたレグルスならば、エミリアの逃亡を知って彼女らに八つ当たりしないとは言い切れない。

そのことは他でもない、レグルスの妻である彼女らこそが理解している。

 

「ここには、レグルスの奥さんは何人いるの?」

 

「旦那様の伴侶は、総勢で二百九十一人。そのうちの二百三十八人がすでに死に別れておりますので、残っているのはこの場にいる五十三人で全員です」

 

「その死に別れた奥さんたちって……」

 

「説明が必要ですか?」

 

掠れた問いかけは、エミリアの質問を嘲笑っているようですらあった。

その答えで、聞かずとも答えがエミリアにもわかった。そしてその答えが、他でもないエミリアが逃げた場合の彼女らの末路への遠回しな答えだ。

 

「私が出ていったら、あなたたちは酷い目に遭わされるのね……」

 

酷い目、というよりそれはきっと避けがたい死であるのだろう。

紛れもなく彼女たちは、エミリアの自由意志に対する人質だ。この場を脱することで起きる被害を考えれば、迂闊に動くべきではない。

 

聖堂の外、プリステラで自分を心配しているだろうスバルたちのことを思う。

思って、エミリアは心の中だけで謝罪した。

そして

 

「わかったわ。結婚式を、しましょう」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

会場の設営はその後、急ピッチで進められた。

破壊の痕跡の修復も、素人仕事ではあるがかなり目立たない形に修繕。その手際の良さを見るだけで、彼女らがこれまでに何度もレグルスの癇癪の結果をどうにかしてきたのだろうと察せられた。

 

結婚式に臨むと決めたエミリアも、控室で百八十四番を始めとしたレグルスの妻たちに髪を結い上げられ、ドレス以外の装いの飾り付けをされる。

手の込んだ髪型にされるのは、パックが結晶石の中にこもって以来、アンネローゼの手を借りたとき以外では初めてだ。

 

長い銀髪をまとめて、編み込みを入れながら結い上げられる。

白いドレスの清楚さを邪魔しないよう、華美にならない程度に装飾品を取り付けると、それでエミリアの花嫁衣装は完成だ。

 

「――――」

 

鏡に映った自分を見て、エミリアは女性たちの手際の良さに感嘆する。

なるほど、普段の自分とは大違いだ。最近は髪を綺麗にまとめてくれる相手がいないため、スバルがやってくれないときは簡単に留めてあるだけの髪も、動きやすさを優先して身につけていないアクセサリなども、女性的魅力に一役買っている。

どれも自分にはもったいないと、そう思ってしまうばかりだ。

 

「では、行きましょう。くれぐれも、旦那様のご機嫌を損ねませんように」

 

百八十四番が再三の注意をエミリアに投げかけ、控室を出る。

聖堂へ向かうと、そこにはエミリアの到着を待つ列席者――全員がレグルスの妻の立場にある女性たちと、祭壇の前に白い礼服のレグルスが立っていた。

 

手順がわからないまでも、エミリアは入口から祭壇までの道に敷かれている赤い絨毯の上を歩き、レグルスの待っている祭壇へ向かう。

待ち構えていたレグルスは、着飾ったエミリアに満足げに頷いた。

 

「ドレス姿だけでも見違えたけど、着飾るとさらに段違いだ。やっぱり、七十九番目の席を空席にしておいたのは正解だった。自分の判断に感心するよ」

 

「七十九番……どうして、その番号は空席になっていたの?」

 

「ん?それはね、以前、その番号にふさわしいんじゃないかと見初めた女性がいたんだけど、残念ながら迎え入れる前の段階で不適格と判断してね。でも、一番大事な外見は僕の理想に近かった。だから未練だけど、そこを空席にしていたんだよ。おかげで君を見つけることができたと思えば、その過ちも価値があったと思うけど」

 

「前に、空席に……」

 

なんだろうか。

その響きが、わずかに薄れていたエミリアの違和感を強く刺激する。

違和感が輪郭を帯びるが、いまだにはっきりとした形にならない。その間に、レグルスは花嫁衣装のエミリアの前で自分の衣服を正す。

 

「それじゃ、婚姻の儀を交わすとしようか。略式なものになると思うけど構わないよね?ようは儀式がちゃんと進行することが必要なんであって、その内容の外側部分はおまけでしかない。ガワにばかり気を遣って本質がおろそかになるのってお約束みたいな気がするけど、僕はそんな馬鹿な轍を踏んだりしないさ。そういう事の本質が見えていないのって滑稽だよね。上っ面の見え見えの部分だけ、上澄み部分だけすくって満足してるってやつ?そういうのは後ろでせせら笑われてても全然気付いていなかったりするから、自分の中で完結してる分には幸せなんだろうけどさ」

 

「――――」

 

畳みかけるようにレグルスが言う間に、百八十四番が祭壇の向こうへ回る。どうやら彼女が、この婚姻の儀における進行役のような立場にあるらしい。

実際、五十三名いる妻たちの中でも彼女はまとめ役のような役割を買って出ていた様子だった。そんな人物を思いつきで殺そうとするあたり、レグルスには妻たちのまとまりの力関係が見えていないようだ。

そういう意味でもやはり、彼は許しがたい相手だと思う。

 

「ねえ、レグルス。結婚の前に、私からいくつか話したいことがあるの」

 

故にエミリアは、こうして相対できる場面でレグルスに真っ向からそう言った。

打ち合わせ――満足のいく打ち合わせなどしてもいないが、それになかったエミリアの発言に百八十四番の頬が強張る。

しかし、レグルスは意外にもエミリアの言葉に好意的に頷いた。

 

「ああ、そうだね。実は僕の方からも、色々と僕の妻になるにあたって大事なことを君に話しておきたいと思っていたところなんだ。結婚してから順繰りに教えていくのもいいんだけど、結ばれる前に心構えというのも必要だと思ってさ。結婚してから、アレが違うこれが違うってなるのって悲劇じゃないか。そういう不幸なことが起こらないように、しっかりとお互いの考えを明文化しておくべきだと思う。夫婦とはいっても一個の人間同士だから、そういうのって大事じゃない」

 

「ええ、そうね。一個の人間同士だから、大事よね」

 

「でしょ?話が合うようで何よりだ。それじゃ、いくつか他の妻たちにも約束させていることがあるんだけど、それを確認していこうか。まず第一に、僕と結婚したあとは君に笑顔を禁じる」

 

「……?」

 

眉をひそめ、エミリアはレグルスの提案への無理解を示す。すると、レグルスは指を立てて、「これはね」と言葉を継いだ。

 

「大事なことなんだ。僕はね、君の顔が好きだ。顔がとてつもなく好きだ。僕は妻を顔で選ぶことにしてる。美しく、可憐で、整って魅力的な顔で妻を選ぶ。僕が妻にした二百九十一人は全員、顔の美しい妻たちだった。君も顔が可愛い。だから、僕は君を僕の妻にする。わかるかい?」

 

「――――」

 

「僕は思うんだけどさ、世の中って思った以上に勝手な人が多いよね。恋人になったり夫婦になったあとで、愛が冷めるみたいな話ってよく聞くじゃないか。お互いに好き合っているはずなのに、いざ一緒に暮らしてみたら色々と合わない部分がある。料理の好みが合わない。生活習慣が合わない。趣味が合わない。時間が合わない。そんな身勝手な理由をつけて、好きだったはずの相手に幻滅するクズみたいな人間がたくさんいるんだ。僕はね、そんなどうしようもない奴らが心底嫌いなんだよ」

 

レグルスは微笑んだまま、ひどく楽しげに愛の形を語る。

無邪気に、無遠慮に、愛を蔑ろにするものたちへの義憤をにじませながら。

 

「勝手なんだよ、誰もかれも。どうして幻滅する?好きな相手と、ちょっと感性が違うぐらいのことでなんで幻滅するのかな。そんな馬鹿な話があっていいのか?おかしいじゃないか。だから、僕は好きな相手は顔で選ぶ。好きな顔をしている相手であれば、僕はその顔の持ち主がどんな子であっても幻滅なんてしないよ。だって顔が好きなんだから。その顔である限り、愛が冷めることなんて絶対にない」

 

「――――」

 

「脱いだ服を片付けない人でも。子どもを何人も殺した殺人鬼でも。料理が壊滅的に下手くそだろうと。親兄弟を借金のカタに売り飛ばしていようと。色移りする洗濯物が分けられない人でも。隠れて動物を殺すのが趣味な頭のおかしい人でも。服のセンスが最悪だろうと。金に薄汚い性根だろうと。風呂に入らなくて汚物みたいな臭いがしていても。世界の滅亡を本気で目論んでいようとも――僕は嫌わない」

 

次々、次々と、レグルスはその場にいる五十三人を指差してそう叫ぶ。

彼が口にしたいずれの条件が、どれだけこの場にいる彼女らに該当するのかはわからない。わからないが、彼はどんな相手でも分け隔てなく顔で愛すると断言する。

 

「好きだった、なんて過去形で語ることなんてない。僕は君の、顔を愛してる。だから君がたとえ、世界中の人間に苦痛の限りを与えて殺そうと目論む魔女だったとしても幻滅なんてしないよ。ただ、その顔である限り」

 

「……そのことと、笑っちゃいけないこととどう関係するの?」

 

「簡単なことだよ。普通にしていたら可愛いし綺麗なのに、笑うとブスになる子っているじゃない?僕、そういうのが許せないんだよね。だから、笑顔って言ったけど条件は泣き顔とかも一緒だよ。ようは、可愛い可愛い君の顔が不細工になる可能性があるのが嫌なんだ。だから、笑うな。泣くな。怒るな。ただ可愛い顔をしていろ」

 

エミリアの顎を掴み、レグルスが低い声で強要してくる。

それに逆らえばどうなるか、その答えはすでに先の出来事が証明している。

理解できないのは、彼がこうまで『顔で愛する』と語る妻に対して、あれだけの凶行に及べる理屈だ。

 

「あなたは、顔が好みながら幻滅しないって言ったけど……それならさっき、どうしてあの人のことを攻撃したの?」

 

「ううん?」

 

百八十四番を指差すエミリアに、レグルスが首を傾げる。

エミリアは百八十四番を指差したまま、レグルスの指先から逃れると、

 

「私が腕を引かなかったら、あの人はきっと死んでたわ。あの人も、あなたは顔が好きだから奥さんにしたんでしょ?なのに、どうしてそんなことをしたの」

 

「ああ、それも簡単なことだよ。温厚な僕の気分を害したからだ。何も多くは望んでないのに、他人を思いやれない人がちょっと多すぎるよね。僕の妻にそんな子がいるなんて考えたくもないけど、起きてしまったことは仕方ない。仕方ないから、そのことの責任はちゃんととってもらわないといけないよね」

 

「だから、幻滅したっていうの?それじゃ、さっきの意見と矛盾して……」

 

「幻滅はしてないよ。僕は彼女の顔を好きなまま、愛したままだ。だから仮に彼女が死んでいたとしても、僕は変わらず彼女を愛し続ける。よく言うでしょ?愛する人が死んだとしても、その人は心の中で生き続けている。その人への愛は、薄れることなく生き続けているって。僕も、まさにそれだよ」

 

レグルスの理屈は、完璧だ。

完璧に、一点の曇りもなく、彼の中だけで完結しきっている。そこには他人の思惑の差し挟む余地が欠片もない。完全無欠の欠落ぶりだ。

 

言葉のないエミリアに、レグルスが眉を寄せる。

それは押し黙るエミリアの瞳を覗き込み、訝しむような色で。

 

「さっきから思うんだけど……もしかして君、僕に何か文句とかあるの?あるんだとしたら、それはちょっと心外だなぁ。僕はこれだけ君に配慮して譲歩して、できるだけの心遣いをしているはずなのに、その思いやりがわかってないってことでしょ?それってさぁ、人としてどうなのって話だよね。ほんのわずかでも、他人を思いやれるだけの気持ちがあれば、相手の立場に立って考える頭があれば、そんなことはないと僕は思うんだよ。そのささやかな気遣いができないってことは、その価値を相手に見てないってことだ。それは相手を軽んじてるってことだ。それはつまり、僕という一個人を軽視する行いだ。それは、許せないなぁ」

 

「私ね、結婚ってすごーく幸せなものだと思ってるの」

 

「はぁ?」

 

「好きな人同士が、一緒にいたいって思ったことを形にする儀式。好きってすごーく大きなことだから、たくさんの人がいる中で一人を見つけて、そしてその相手もお返しみたいに好きになってくれて……それって、すごいことだと思うの」

 

花嫁衣装のエミリアが胸に手を当て、そう告げるのにレグルスが胡乱な顔。代わりに列席する妻たちと、祭壇の百八十四番の表情が曇り始める。

それは雲行きを危ぶみ、エミリアを案じる判断だ。

――彼女らが善良で、他人を思いやれる人物たちである証拠だ。

 

「あなたは、どうして奥さんたちを番号で呼ぶの?」

 

「呼び方とかにこだわる?それってガワにこだわるのと同じ判断で、いかにも愛がわかってないよね。そういう余計なものでごてごてと飾り付けなきゃ愛し続ける自信も、愛し合ってるって実感もないからそういうことになるわけ。その点、僕はそんな薄っぺらなおためごかしに流されないから、そういうのにこだわる必要はない。平等に愛するのに、不要な要素を省けばそうなるのもやむなしじゃない?」

 

「……そう。でも私、スバルにエミリアたんって呼ばれるの、嫌いじゃないわ」

 

「スバル……?」

 

レグルスが聞き捨てならないと、その名前に不愉快そうな色を浮かべる。

だがエミリアは、目の前のレグルスの表情の変化を無視して続ける。

 

「エミリアたんって呼んでくれる声に、スバルの気持ちが詰まってる。たまにエミリアって呼び捨てにされると、特別なときだってすぐにわかる。それが無駄なことなんて全然思えない。名前って、そういう想いが込められるはずだもの」

 

「あのさ、勝手に話が進んでるけど、スバルって誰のこと?人の名前だよね?っていうか男の名前だよね?これから結婚しようって女の子が、夫にしようって相手の前で違う男の名前を出すってのはいくらなんでも常識がないんじゃないの?たとえ大した関わりのない相手でも傷付くよね。傷付けてるよね。わかる?」

 

「大した関わりのない人なんかじゃないわ。スバルは私のたった一人の騎士で、私のことを好きだって言いながら名前を呼んでくれる人」

 

「――はぁ!?」

 

エミリアの答えに、レグルスの鬼気が膨れ上がる。

その動作に百八十四番も、他の妻たちも即座にその場からの離脱を試みた。

しかし、

 

「動くな!!動いた奴の、首から下を消し飛ばす」

 

「――――」

 

「弁明を聞こう。言葉に気を付けて、勘違いさせないように全力で配慮してほしいな。僕はこの結婚式を、誰かの葬儀にするつもりはないんだ。わかるだろ?」

 

わなわなと肩を震わせながら、レグルスが感情を押さえつけた声で話す。

レグルスに牽制されて、列席者たちは動けない。だが、エミリアはその膨れ上がる鬼気を、変わらぬ穏やかな表情で迎え撃った。

 

「結婚は好き合ってる男の人と女の人がするもの。だけど、私にはその資格がまだ全然ないの」

 

「――――」

 

「だって私、男の人を女の人として好きになるってことがわかってない。だから、スバルがあんなに私のことを好きだって言ってくれてるのに、スバルが求めてる答えを肯定も否定も返してあげられない。それってすごーくひどいことで、スバルを傷付けて困らせてるのもわかってる。でも」

 

黙り込むレグルス。しかし、エミリアの心は彼に向いていない。

はっきりと誰もが理解している。エミリアの眼中に、彼がいないことを。

 

「まだ人を好きになるってことがわかってない私だけど、きっといつか誰かのことを好きになる。誰かのことをきっと、女の人として愛する。そしてそうなったとき、誰のことを好きになるかはもう決めてるの。だから」

 

息を継ぎ、レグルスを見据えて、エミリアは言った。

 

「――私は、あなたのものにはならないわ」

 

「――っ!ああそうかい!僕も、君みたいな勝手な浮気女を妻にするつもりなんてなくなったよ!せいせいするなぁ!!」

 

エミリアの断言に、レグルスが顔を赤くして激昂する。

怒りのままに指先を伸ばすレグルスに、エミリアは全身から魔法力を迸らせて迎撃の構えに入る。原理のわからない破壊に、まずは最初の合わせを――。

 

「――!?」

 

互いの攻撃が始まろうとした瞬間、激しい音が聖堂の中に響き渡った。

音はすさまじい勢いを伴い、弾丸のように吹き飛ぶ物体でレグルスを直撃する。白いタキシード姿のレグルスの全身を打ったのは、衝撃に飛び散る木製の扉――修繕されたばかりだった、聖堂入口の大扉の一枚だ。

それが入口側から吹っ飛び、レグルスを襲ったのだった。

そして、

 

「お前、せーので蹴ったのに結果が全然違うじゃねぇか。どういう脚力だよ!」

 

「すまない、加減ができなかった。ちゃんと当てる相手は選んだから、それでよしとしてくれないかな」

 

「助けに入ったときの格好よさが段違いになるだろ?俺の蹴りがドア開けただけなのに、お前の蹴りは敵を直撃って……」

 

ぶつくさと言い合いながら、聖堂の中に二人の人影が現れる。

それは黒髪の少年と、赤髪の青年の二人だ。

 

エミリアが目を見開き、正面にいるレグルスが虫を払う仕草で木片を取り去る。無傷のまま、しかし不機嫌を宿した目で彼は侵入者二人を睨みつけた。

 

「神聖な結婚式に横紙破りなんていい度胸じゃないか。招待客に男の名前があった記憶はないんだけど、どこの誰でどんなお祝いを持ってきたのかな?なぁ?」

 

レグルスの恫喝に、入口の二人が顔を見合わせる。

それから頷き合うと、

 

「パートナー精霊不在の精霊騎士、ナツキ・スバル」

 

「『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

名乗り、ラインハルトが前に出る。

その横でスバルはエミリアにウィンクし、レグルスを指差して言った。

 

「この結婚式に物申すってな。――その花嫁、さらわせてもらうぜ」