『愛という福音』


 

――おぞましい、おどろおどろしい、禍々しい。

 

背後に迫るその存在を目にして、スバルの脳裏をそれら負感情が通り過ぎる。それほどまでに今のペテルギウスの姿は常軌を逸していた。

 

落盤の下敷きになった肉体は半壊。右半身は潰れて骨が露出し、頭部は頭の皮が剥がれて赤と白が交互に散る。右足が脛下から存在せず、だらりと下がった四肢は生命の存在が微塵も感じられない。

死者だ。死体だ。死骸の悪足掻きだ。他人の肉体を乗っ取り、無理やりに自分の支配下に置く歪な精霊の、それは最後の最後まで生を求める足掻きだった。

なぜなら、

 

「――体ァをォ、ワタシィの、肉のォ体をぉぉぉぉぉ!!」

 

「俺の中に入ってひどい目にあったって覚えてねぇのか……!」

 

言いながら、『俺の中に入って』って我ながらひどい文面だなとスバルは呆れる。呆れの上でいえば、ペテルギウスの見上げた執念の方が十二分に上ではあるが。

 

死骸となった依り代の肉体は生命活動を終えている。ペテルギウス――この場合、肉体に宿る精霊としての本体だが、それは『見えざる手』を自らの肉体に伸ばし、手足を縛って無理やりに動かしている。その力加減すら精緻にできておらず、動かされるたびの手足の骨が軋み、肉が絞られて破壊されている。

自壊行為に等しいそれがそのまま続けば、それだけで奴は憑依する本体を失って霧散してしまいかねない。だが、

 

「時間切れを待つのは厳しい、よな……クソ!」

 

揺れる荷台の縁に拳を叩きつけ、スバルは歯軋りして苛立ちを吐き捨てる。

林を抜けるため、背後に迫る存在から逃亡するため、竜車を引くパトラッシュらの速度はさらに向上している。『風除け』の加護もあり、その速度はまさしく風そのものだ。しかし、林を破壊して追跡するペテルギウスはそれを上回る。

生命の最後の輝きとでもいうべきか、燃え尽きる寸前の蝋燭の火がもっとも強く輝くように、邪悪な黒い炎が激しく揺れ動いているのがわかった。

 

漆黒の魔手が手足を縛り、胸の中に入る掌がおそらくは止まった心臓の代わりを果たしている。そして崩壊寸前の肉体の延長として地面に伸び、もはや影の塊――妄執と歪な生命力が生んだ化け物だ。

 

「これが精霊……どこが、精霊……?もっと神聖なもんなんじゃないの?」

 

スバルのイメージする精霊という存在は、もっと明るくてもっと壮大で、触れることを躊躇うような儚さと美しさで飾られているべきなのだ。

それなのにこれはなんなのか。この薄暗くて偏執的で、この目にすることすら嫌悪感を堪えられない、ありがたみの欠片もない歪で醜い存在は。

 

「パックやら準精霊がどれだけ人に優しい見た目してるか、よーくわかったよ」

 

「――ナツキさん!後ろになにがきてるんですか!?」

 

スバルが忌々しげに舌打ちするのと、オットーの叫びが重なる。御者台から真後ろを確認できない彼にとって、背後に迫る悪夢はいまだ視覚の領域にない。

そしてそれはおそらく、彼にとって幸せなことなのだ。身を乗り出して後ろを望もうとする彼を手で制し、スバルは背後の存在を見せないよう声を張り上げ、

 

「ちょっとでかくて黒いケダモノが追っかけてきてるだけだ。お前の知らないとこでたぶん尻尾踏んづけたんだろう。すごい鳴き声で顔も恐いから見ない方が吉」

 

「本当に見せない気あります!?露骨に気になることばっかり言ってるくせに!?」

 

「いいから飛ばせ!俺が噛まれたら今度はお前だぞ!!」

 

「うひぃ――それは恐い!」

 

手綱を握るオットーに発破をかけ、スバルは道を急がせる。だが、オットーのやる気がみなぎっても走るのは彼の手綱の先の二頭の地竜だ。すでに全速で走っている彼女らをこれ以上に急がせることもできない。

つまり、

 

「お前の足止めが、俺の役目ってわけだ。最終局面で見せ場炸裂……何回、最終局面やらせんだよ!お前のどこが『怠惰』だ、この無用な働き者がぁ!!」

 

「魔ァ女ォ……サテラぁ……!ワタ、ワタシを、愛、愛、愛し、愛して、愛を、愛が、愛で、愛され、愛す、愛、愛愛愛愛愛愛愛愛アイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイイイイイイイィィィ!!」

 

「俺もお前も愛されてなんかいねぇよ!好きな相手の心臓潰そうとするラブコメがあってたまるか!俺は願い下げだ!」

 

ペテルギウスが顔を持ち上げ、死相でしかない顔の中で絶叫が木霊する。

死に体で、事実裏切られて、それでもなお魔女への変わることのない『愛』を叫ぶペテルギウス。スバルにはそれが初めて、哀れに見えた。

 

肉体を求める叫び、魔女からの『愛』を求める絶叫――それらの裏側には自身の肉体を持たない精霊としての、知覚される機会の少なさが愛されることへの渇望を、癒えることのない渇きが延々と彼の存在を蝕んでいるのだ。

 

――もっとも、それでこの存在が肯定されることなどあってはならないが。

 

「必殺技も超魔法もねぇ。でも、お前の相手は俺だ。俺より前に行かせねぇし、俺の先にいる子と会わせるわけにも絶対にいかねぇ……!」

 

「ナツキさん、そんなに僕のことを……!」

 

「ちょっと黙っててくれる!?今、かっこつけてるところだから!」

 

茶々入れてきてるのか本気なのかわかり難いオットーに怒鳴り返し、スバルは距離を詰めてくるペテルギウスへ向き直る。

ユリウスの迎撃があったため、使える『見えざる手』の総数は減っている。また、自身の生命維持のためにも利用されているから、こちらを攻撃するために使える魔手の数はパッと見で――七本、最初の時点と同じだ。

 

じりじりと、地を掻くように体を引きずってペテルギウスが迫ってくる。振り上げられる魔手が枝木をへし折り、上空から叩きつけられるように地面を割った。その指先が荷台の尻をわずかに掠め、強度関係なしに縁を抉っていく。

次の一発が荷台のど真ん中に叩きつけられれば、それで竜車の横転は確実。振り落とされるスバルはペテルギウスに呑み込まれ、今度こそ頭から齧られる。

 

「俺の体が乗っ取れないとわかれば、それで道連れ作戦確実だろうしな」

 

「ナツキさん、林抜けます――!」

 

オットーの声と同時、視界の緑が一気に晴れる。

突き抜けるように林を飛び出し、下り坂の草原を加速して滑るように落ちる。それを追って大地を掻き毟るペテルギウスも、その影の塊に倒木や岩塊を呑み込んだまま歪な邪悪そのものとなって坂へ望む。

 

――林を抜け、街道に入った。遠からず、エミリアたちのところへ追いつく。

彼女たちの前に、彼女の前にペテルギウスを連れていくことはできない。大罪司教の『試練』の詳細はわからなくとも、悲劇が起きることは確実だ。

だから、故に、それならば、

 

「林は抜けた。――加減はしねぇぞ!」

 

「愛ニ!愛シ!愛だけガ、全テなのデス――!!」

 

血の涙を流し、歯の欠け落ちた口を開けてペテルギウスが嗤う。

そのけたたましい声を聞きながら、スバルは荷台の奥から積み荷の一部を開帳。重々しいそれを引っ張り出し、並々と注がれた刺激臭が鼻をついた。

そしてそれを抱え込み、血染めの顔面に指を突きつける。

 

「――焼け落ちろ、ペテルギウス」

 

「――――ッ!!」

 

伸び上がる『見えざる手』が空を目指し、そこから破壊の瀑布を振り落とそうと引き絞る。だが、それが落ちてくるよりスバルの動きの方が早い。

両腕で壺を持ち上げ、凶悪な笑みを浮かべて――『油壺』を投げつけた。

 

黒い魔手が落ちてくる。

荷台ごと竜車を叩き潰し、スバルをバラバラに吹き飛ばそうとするために。

 

真っ直ぐに腕を伸ばして、人差し指を銃の形に突きつける。

その指先に赤い輝き――ユリウスから借り受けた、『赤』の準精霊が宿る。

 

「力借りるぜ、ユリウス・ユークリウス」

 

「おォまァえェがァァァァ――!」

 

ペテルギウスが叫ぶ、腕が真上から迫る。見た目最悪、名伏し難き邪神風。

指先がチリチリ焼ける、力を貸してくれる精霊の名前は『イア』。だから、

 

「いあいあ、はすたぁ――!!」

 

不完全な詠唱と詠唱者、そして未契約状態の準精霊。

不完全と不完全の掛け合わせ、だが意思だけはひとつに統一された行い。

そして、世界へ干渉するのは火花ひとつで構わない。

 

ガス欠寸前のマナが精霊の力で大気に干渉し、破裂する火花が空気を焼いてペテルギウスへ迫る。血と油に塗れる凶相が口を大きく開き――、

 

「――ぁぁぁぁああ!!」

 

――刹那、スバルの眼前の視界が膨れ上がる鮮烈な赤に包まれる。

 

ペテルギウスの全身が、浴びた油を着火剤に凄まじい熱気を上げて燃え盛る。波打つ炎に体中を炙られて、ペテルギウスの声にならない絶叫が大気を掻き毟った。

 

物理的な攻撃手段が徒手空拳のみで、精霊であるペテルギウスに対して有効的な攻撃手段を持たないスバルにとって、これができ得る最大で最後の一撃だ。

最悪、魔力を伴わない炎が精霊には無力な可能性も考慮していたが、ペテルギウスの体を求める発言から死骸寸前の肉体への攻撃は無駄ではないと判断した。

苦痛と熱波に断末魔を迸らせる姿を見るに、その考えは間違っていなかったらしい。

 

村に積み荷を降ろしたと思い込んでいるオットーに黙って、なにかのために持ち込んだ油壺のひとつがここで役に立った。これだけ効果があるなら、あと二、三個ぐらいちょろまかしておいても良かったと思うが、それを残念だと思う暇もない。

 

激痛に声を震わせるペテルギウスの、振り上げられた『見えざる手』が死神の鎌のように振り下ろされる。

視界まで炎に焼かれて頭を振るペテルギウスは狙いを定めていない。

スバルはとっさに身を横に転がし、不安定な荷台の端へと緊急回避――直後、スバルの足裏を掠めるような至近へ腕が叩きつけられた。

 

木材でできた荷台が衝撃にたわみ、魔手が叩きつけられた荷台部分がまるで紙細工かなにかのようにあっさりとひしゃげる。コの字に抉られた荷台、飛び散る木片を半身に浴びながら、歯を食い縛ってスバルは右足を引きずりながら荷台の奥へ。

 

「――痛ッ!あぁ、があぁ!」

 

掠めた指先にふくらはぎを深々と抉られ、大量の出血が脂汗を噴き出させる。肉が削がれる痛みと血の抜ける感覚に視界がチカチカ明滅する。とっさに掌を当てて出血を押さえるが、止血帯もない現状では焼け石に水だ。

そしてなにより、

 

「寄越ォせ、渡ァせ、差しィ出ァせェ……」

 

燃える黒い指先が、大きく揺すぶられる竜車の縁へとかけられる。

そのままゆっくりと上体を持ち上げ、千切れかけた下半身を強引に引きずって、嫌悪感を催す水音を立てて漆黒の塊が荷台の上へ落ちた。

 

蠢く魔手がぶよぶよの肉体を形作り、もともとの憑依対象であった男の骨の浮くような華奢な体は原型を失っている。背中や脇から『見えざる手』が飛び出し、千切れた肉の右腕を除き、元の左腕とは別に四本の魔手を生やした悪辣な容貌。

膝下からが死んでいるぐずぐずの下半身を引きずり、腿の途中から突き出した腕が失われた足の代わりを務めている。

だらりと下を向いた顔は白目を剥き、血の涙すらも炎に焼かれて半分が炭化。いまだ全身を炎の舌に舐られたまま、羽織っていた法衣だけがかろうじて判別できるのがかえって醜悪さを際立てていた。

 

おぞましい化け物が、人間の皮を被っているのを露骨に主張しているから。

 

「ひでぇ有様だぜ、てめぇ。……俺も人のこと言えた筋合いじゃねぇけど」

 

痛みに引きつりそうになる顔を歪めて、やせ我慢のスバルが立ち上がる。足の出血は継続中で、時間はそうはかけられない。もっとも、それは相手も同じことだ。

すでに全身が朽ち果て、その上から炎を浴びて焼け落ちる寸前のペテルギウス。あちらも長期戦は望んでいない。相対は一瞬で、終わるはずだ。

 

切れる手札は多くない。むしろ少ない。

スバルにできるのは不完全魔法のシャマクと、準精霊の力を借りての下級以下の火の魔法。あとは痛み無視しての徒手空拳それのみ。

選択肢が少なすぎて逆に笑えてくるぐらいだが、どれかを駆使してこの状況を突破しなくてはならない。策は絞り尽くした。あとはもう、小賢しさしかない。

 

「肉ゥ、体ァ、消えなぃ……消えるわけに、いかなぃのォデス……」

 

「だから!俺の体に入っても痛い目にあうだけだっつってんだろ!魔女がなんだってんだ。俺もお前も、振り回されてるだけじゃねぇか!」

 

引きずるように前に進み、たどたどしい言葉でスバルの肉体を求めるペテルギウス。その諦めの悪い姿に怒声を張り上げ、スバルは狂人の心を折りにかかる。

しかし、その怒声に対するペテルギウスの反応はそれまでと違う形で、

 

「――魔女、サテラ」

 

ふいに明瞭な声で呟き、ペテルギウスの顔が持ち上がる。

半ば崩壊し、頬を失って中身が見える顔は学校で見た人体模型図によく似ていた。その皮膚の内側を露出したまま、ペテルギウスの裏返っていた瞳が舞い戻る。

焦点の合わない瞳が揺らめき、それは次第にスバルへと像を結んだ。

 

「アナタは、危険……デス。きけ、危険、きき、ききき、けん、きけんきけんきけんきけっ、キケンきけんキケン――デス!」

 

「あぁ――!?」

 

「寵愛を、受けて、受け、受けてい、いながらっ。愛を否定ぃぃ、そしてワタシを、ワタシをワタシをワタシをぉ、ここまで、ここまで追い込み、死を死を死死死死死死死死死死死死ひぃ――」

 

「――!」

 

首をがくがくと揺らしながら、支離滅裂な言葉を並び立てるペテルギウス。その体からふいに腕がスバル目掛けて伸び、反応できないスバルの肩と脇を掠めるように背後の壁へ突き刺さる。――見えないほど速かったわけではない。ただ、予備動作がなかったから反応できなかっただけで。

今のペテルギウスは思考が入り乱れて、もはや通常の神経ではその動きを測れない。次の瞬間になにをやらかすかわからない危険さは元から持ち合わせていたが、次の瞬間の動きが予期できない次元まで入られるとスバルではどうしようもない。

 

『見えざる手』はいまだにスバルを間に挟んだまま伸びており、荷台の前方と後方で向かい合う二人の間に一直線の道を繋いでいる形だ。

そのままじりじりと距離を詰められるだけで、スバルの方は抵抗できずに呑まれることになる。

さっきまでの本能――肉体を求めるばかりの気が先走っていたときの方が、おそらくはスバルに対して原始的に襲いかかってきたはずだ。魔女の名前を聞いて、いくらかの知性を取り戻したが故のこの状況。性質が悪すぎる。

 

「魔女に、魔女、サテラに、サテラぁ、愛し、愛を、愛がぁ!愛してマス!愛されているのデス!サテラ、アナタが、アナタがワタシを、ワタシにした!片時も忘れていな、いないのデス……アナタが忘れても、ワタシは、忘れて、いない!」

 

涙が溢れる。血の涙ではない、本物の涙が。

本当に、この時点で初めて、ペテルギウスは初めて、正気の言葉を叫んだ。

 

言葉が、意思が、ペテルギウスを狂気的な闇から現実に引き下ろしていた。ペテルギウスはその、澱み切っていた瞳に確かな意思を宿し、スバルを睨み、

 

「アナタは危険デス!いずれ、魔女教を脅かす存在デス!その前に!アナタが、サテラにその手を届かせる前に!ここで!今ここで!ワタシの手で!ワタシの勤勉さをもって!『怠惰』なワタシと決別し、愛を誠にするために……死ぬの、デス!!」

 

上体を大きく前後に揺すり、ペテルギウスの全身からおびただしい血が溢れる。それは体の内側から肉体を破り、溜め込んだ『見えざる手』のエネルギーが外へ飛び出そうとしている予兆。もはやペテルギウスはスバルの肉体を奪うことよりも、自分の信奉する魔女に後顧の憂いを残さない、そのためにスバルを殺そうとしている。

 

それは意思ある、知性ある、ケダモノとは一線を画す思考であり、

 

「お前が化け物のままだったら、俺の負けだったろうぜ」

 

懐から手を抜いたスバル、その手に握られたものを見てペテルギウスが目を見開く。

その反応にスバルは心が痛むのを感じた。だが、刹那に過ったその感傷を直視しないように目を背け、大きく腕を振り上げる。

 

真上へ振られた手の先から、黒い装丁の本が――福音書が投げられた。

 

「ぁ……サテラ」

 

ぽつりと、ペテルギウスの口からこぼれ出したそれは低く静かな声音で、それは愛おしくてたまらない誰かを安らぎの中で呼ぶ声そのものだった。

 

天を望み、ペテルギウスは肉の腕を空へ、その腕に従うように漆黒の魔手が打ち上げられ、宙を舞う福音書を目指す。指先が表紙にかかり、掴んだ瞬間、それはきた。

 

荷台からはるか上の空へ投じられた本は風にはためき、勢いのままに吹き飛ぶ寸前だった。それは即ち、風と勢いの抵抗をもろに受けている証左であり、その状態にある福音書に手を伸ばすという行いは、

 

「――ッ!?」

 

上を見ていたペテルギウスの肉体が、猛烈な風の煽りを受けて大きく後方へ傾ぐ。引きずる足が抉れた板張りの床を砕き、半身が放り出されるように沈んだ。

地竜が生まれ持ち、走行する竜車にまで影響を及ぼす『風除け』の加護の効果範囲から、指先が逃れたが故の現象だ。

 

かつて王都へ向かう竜車の中で、悪ふざけの果てにスバルも同じ状況に陥った。

風除けのない竜車の荷台、加護なしで全速力の風圧と揺れをダイレクトに浴びて、姿勢など保っていられるはずがない。

 

「――ぉ、おおおおお!!」

 

ペテルギウスが大きく傾いだ瞬間、スバルは咆哮を上げて前へ踏み込んでいた。

抉られた足の痛みも、裂かれた肩の痛みも今は忘れて弾かれたように飛び出す。勝敗を左右するような絶大な技はなにもない。だから、勝負所だけは間違わない。

 

生と死の狭間を何度も行き交い、その果てにスバルが得たゆいいつの嗅覚。

走り出し、迫りくるスバルに向かってペテルギウスが顔を上げ、口を開いて何事か叫ぶ。なにも聞こえない。ただがむしゃらに姿勢を低く、頭から突っ込むようにペテルギウスの懐を目指す。

 

『見えざる手』が射出される。突き出される掌の速度がゆるやかで、なぜか停滞しているようにすら見える極限の集中力。

首を傾ける。体が思うように動かない。掌は直撃は避けられても、確実に頬と首を掠める位置。痛みがくるのがわかる。思わず、目をつむってしまいそうな圧迫感。

そんな状況の中で、思い出してしまうことがある。ひどくひどく、継続的に痛みを与え続けられた記憶。それは過ぎ去った日々で、意味のない時間だとばかりこれまでは思っていたのだけれど、

 

「――ヴィルヘルムさんに教わったことが、二つあった」

 

掌がくる。傾けた首の表層と、頬と耳の一部が焼けた鉄を押しつけられたような痛みとともに弾ける。痛みに思考が灼熱し、目の前が白く光り出す。

かわした。息を吸う。まだ、終わりではない。

 

「俺は、剣の才能がこれっぽっちもないってことと」

 

痛みに灼熱、安堵に弛緩。二つの要素が意識を強奪しようとする感覚、その狭間にあるまま、スバルは真っ直ぐ前を見る。

避けた掌の向こうから、もうひとつの掌が今度こそスバルの顔面を目掛け――、

 

「――殴られたとき、目ぇつぶらない度胸だ!!」

 

叫び、頭を下げてダッキング。首の後ろを剥ぐ掌の痛みに、しかし歯を噛みしめる。正面、驚愕に目を見開くペテルギウス。もはや人の形をしていない体の中で、その骨と筋繊維を露出した顔面にだけはまだ人の名残があるような気がして、

 

「――ッ!!」

 

フルスイングの拳がその顔面を打ち抜き、ペテルギウスの傾いていた体に致命的な一撃――打撃の衝撃に下がる体が欠けた床を大きく踏み外し、そのまま体が竜車の外へと投げ出される。そして、

 

「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――」

 

逆さまの宙吊りになった状態で、ペテルギウスが竜車に引きずられる。法衣の一部が破損した荷台の端に引っ掛かり、その身を竜車へ繋ぎ止めたまま、地面に押しつけて摩り下ろしていく。

血が散り、肉が弾け、肉体を構成していた『見えざる手』すらも剥がれ落ち、ペテルギウスという存在が瓦解していく。それでも、ペテルギウスは逆さまになって、崩壊しそうな顔を持ち上げ、荷台の上のスバルを睨み、

 

「終わ、終わり、終わら、終わらない、終わって、ない、デス、デス、デス!?」

 

「――いや、もう終わりだ」

 

しぶとすぎるペテルギウスを見下ろし、スバルはふと荷台の隅――そこに、ペテルギウスが腕を伸ばし、掴み取ったはずの福音書が落ちているのに気付く。

それを拾い上げ、ページをめくっていく。後半、白紙のページに出くわし、

 

「福音書、それを、それは……ワタシに未来を、ワタシの行いを肯定し、ワタシに愛に報いる術を、ワタシの愛は……ぁ!」

 

「これの通り、動いてたってのか。――それなら」

 

福音書を求めるように肩を動かすペテルギウス。だが、すでに右腕はなく、落ちかけていた左腕も地面との摩擦の中で二の腕から先を失っている。四肢を失い、『見えざる手』すらも失い、消えかける寸前のペテルギウスが最後に縋る福音。

スバルはその白紙のページを見せつけるように開き、右手で己の首から流れる血を指ですくう。そして、叩きつけるように福音書に朱を刻み、

 

「ここでお前は、『おわり』だ――!」

 

でかでかと、見開きの白紙に赤い『イ文字』で『終わり』の言葉が刻まれる。

それを見て、目を見開いて唇をわななかせるペテルギウス。その瞳に広がる感情の波は複雑すぎて、もうスバルにもなにも読み取れない。

そして、その激情が言葉になる前に、終わりが訪れる。

 

竜車が弾み、荷台に引っかかっていたペテルギウスの法衣の裾が外れる。それはそのまま落下したペテルギウスの体を地に落とす結果を生み、さらに破けて伸びた法衣は大地に落ちる前に――回転する竜車の荷車の車輪に絡んだ。

 

巻き込まれる法衣に引きずられ、血と四肢を失った軽いペテルギウスの肉体が車輪へ向かって距離を詰めていく。終端が見える。法衣の破ける音に血の散る音がまじり、最後の瞬間にペテルギウスはスバルを見上げ、叫んだ。

 

「――ナツキ・スバルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」

 

絶叫が木霊し、それがそのまま断末魔に代わる。

スバルの名を叫んだまま、叫び声ごとペテルギウスの肉体が車輪に呑まれ、巻き込まれて噛み砕かれ、血と肉の破片が飛び散り生命を終わらせる。

肉体が消失し、それに宿っていた精霊としての存在もまた、その壮絶な終わりに巻き込まれて霧散する。

 

最後の最後、スバルの目の前に伸びた『見えざる手』の一本。

その掌がスバルの顔を掴む寸前で止まり、指先からこぼれ落ちるように消えていく。それは本当の意味で、ペテルギウス・ロマネコンティが消失した事実を示していた。

 

「今度こそ、もうずっと、眠ってろ……ペテルギウス」

 

終わったと、それを確信してスバルは荷台にへたり込む。

途端、それまで無視できていた痛みが蘇り、スバルは痛みに半泣き――否、涙を流して転がり出す。

 

「痛ぇ、ヤバい、死ぬ、死ぬってこれ、痛ぇ、ヤバい、ヤバい……ッ!」

 

涙が止まらない。痛みも止まらない。ずきずきと、血の流れる傷口が疼き、そしてその痛みは全身を余すところなく刺激する。だから、胸が痛いのも、その傷口の痛みにつられているだけのことに過ぎない。

 

憐れむことなどなにもない。狂人、狂精霊ペテルギウスには同情すべき点などなにもない。奴は奴の独りよがりのままに暴れ回り、その上で果てたのだ。

 

盲目的な愛を叫び、その上で身勝手に振舞い、そしてひとり朽ち果てる。

そんなペテルギウスの末路になど、誰も憐れみなど抱いてやる必要はない。

 

――たったひとり、スバルを除いて誰も、そんなことは思わなくていい。

 

「誰もお前のことなんか、理解してやるもんかよ。死んで当然だ。くたばって当たり前だ。誰も、誰にも、お前は許されない。――だから、同情するぜ、それだけは」

 

誰にも理解されない、愛を求めた相手に愛を与えられない、孤独な怪物。

ペテルギウス・ロマネコンティは今度こそ、消滅する。

 

誰の胸にも、誰の心にも、なにも残さず。

ただスバルの胸にだけ、憐憫という楔を打ち込んで、今度こそ本当に。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ナツキさん、半端じゃないぐらい傷だらけですけど大丈夫ですか?」

 

「大丈夫なわけねぇだろ、超泣きまくったっつんだよ。虫歯削ってる最中に麻酔切れたとき以来の大泣きだったよ。今も傷の全部が痛い痛いって大合唱中だ」

 

半壊した荷台から御者台に移り、スバルはオットーが差し出す応急処置の道具でおっかなびっくり傷口の止血を行う。行商の旅は危険も付き物らしく、こうした薬剤や道具は常備しておくものらしい。その周到さに助けられた形だ。

 

「異世界の薬がどんぐらい俺の体に合うかわかんねぇけどな。この塗り薬、お肌の荒れとか大丈夫かな。俺、肌とかけっこうデリケートなんだよね」

 

「体内のマナ活性化して傷口の癒着を早める薬ですよ。それだけ傷だらけですと見てる側の僕もけっこう痛いので、早めに処置してください。とっとと」

 

「わかったよぉ。んだよ、ちょっとしたお茶目に……痛ッ!え、なにこれ、え、ヤバい!痛い!沁みる!おい、沁み、死ぬぅぅぅ!」

 

「良く効く薬は超絶沁みるものでしょう。じきに痛みも消えますよ。――それまで、地獄の苦しみを味わうことになりますが」

 

傷薬の痛みにのたうち回るスバルを横目に、オットーがようやっと一矢報いたみたいな顔つきでにやりと笑う。その横顔に悪魔を見ながら、スバルは再びにじみ出した涙を指で拭いつつ、

 

「それで、どれぐらい遅れた?」

 

「遅れは出てませんよ。むしろ、常識外れの窮地を前に地竜が二頭とも頑張ってくれたおかげで好調なぐらいです。……本当に、なにが追ってきてたんです?」

 

「怠け者だよ、知らない?木の枝とかに逆さまにぶら下がってる、手とか長い動物なんだけど」

 

スバルのとぼけた答えにオットーは小さく吐息をこぼし、それ以上の追及は諦めた様子で前を睨みつける。その視線に従ってスバルも前を、リーファウス街道の草原をジッと見た。地平線の彼方まで見通せる街道、いまだそこに求めた影は見えないが、

 

「絶対に追いつく。今度こそ俺は、君を助ける」

 

呟き、気合いを新たに頬を叩く。鋭い痛みが傷口を走ったが、薬の効果か血はすでに止まり、半泣きになるだけで済んだ。

 

「間に合うと、思いますか?」

 

「間に合わせる!」

 

オットーのそれは弱気ではなく、スバルの覚悟を問うような言葉だった。それはスバルの答えを聞いて、己の心の方向を定めたいという意味合いもあるのだろう。

スバルは鼻をすすり、口の端を歪めて、歯を剥く笑いを覗かせながら、

 

「いい加減、レムが吉報を待ちくたびれる頃だ。期待に応えなきゃ男じゃねぇだろ」

 

「惚れた女の名前ですか?」

 

「俺に惚れてくれてる女の子の名前だよ!」

 

スバルが気負いすることも照れることもなく、堂々とそう言い放つのを聞き、オットーは一瞬だけ呆気にとられた顔をする。と、それからすぐに破顔し、

 

「ああ、それは、かっこつけないわけにいきませんね!」

 

オットーが快活に叫び、手綱が大きく縦に振られて渇いた音を立てる。

二頭の地竜がいななき、風を切り裂く竜車の速度がさらに上がる。

 

駆け抜け、駆け抜け、街道を飛ぶように駆け抜け、竜車がいく。

地平線の向こうに、遠ざかっていた大切なものを見つけるために。

 

刻々と時間は過ぎる。だが、ナツキ・スバルは前を望む。

 

ナツキ・スバルはただひたすらに、前を望んでいた。