『風の抜ける道』


 

目を伏せて、弟のことをそう語るフレデリカ。

そこに込められた感情は負感情のようでもあり、親愛のようでもある複雑なものだ。肉親に対して感じる情として、ありふれているものといえばそうかもしれないが。

 

「物理的な問題で結界は突破できても、精神的な問題であいつは結界を越えてこない……お前は、そういう風に思うのか」

 

「事実、姉である私の呼びかけに応じませんでしたもの。結界を出る寸前まではついてきてくれましたが、結局は私と行くより結界の中でお婆様と過ごすことを選んだ」

 

「お婆様……ってーと、リューズさんのことか?」

 

「あの子は口は悪いですけれど、お婆様のことを本当に慕っておりますから。お婆様の悲願が果たされなければ、外に出てくることなどありえないでしょうね」

 

ババアババアと悪態をついている姿が目立つが、ガーフィールがリューズに対して気安さ以上の親愛を抱いているのは傍からでもわかることだ。ツンデレ、などと彼のことを呼んだこともあったが、まさしくといったところだろう。

ともあれ、それが発覚したところで事態がどうこうなるわけでもなく、

 

「結局、『試練』の突破で『聖域』を解放するのが必須条件なことに変わりはないんだよな。ガッカリっちゃガッカリな結果だ」

 

「ご期待に添えず申し訳ありませんわ。……他に、聞きたいことがあれば」

 

「答えられる範囲で、だろ?」

 

「申し訳ありませんけれど」

 

言葉少なに肯定してくるフレデリカに鼻息で応じ、スバルは他の質問をいくつかリストアップする。だが、これまでの傾向からしておそらくは、

 

「ロズワールの真意とかって聞いても大丈夫な話題?」

 

「旦那様はエミリア様を支援し、ルグニカの王になっていただくおつもりです。そのことに関しては疑いの余地なくと断言いたしますわ」

 

「真意って聞いて最初にその前置きをしてくれるってことは、今のロズワールの行動の数々がそれに準じてないってフレデリカも思ってるってこったよな?」

 

「迂遠でわかり難い手段を選んでいる、ということは私もラムも否定はしないと思いますわ」

 

言外にロズワールの行いに対する評価を交えつつ、応じる彼女は苦心の顔だ。

スバルが抱く疑問を当然のものとして受け止めながら、その疑問を解く鍵をこちらに見せることすら禁じられているように。つまるところ、

 

「そっから先はロズワール当人の許可なしに話せない、と」

 

「申し訳ありません。ただこれだけは……旦那様は、エミリア様やスバル様の味方です。王選を勝ち抜く意思をお二人が持っていられる限り、それだけは確かに」

 

「超気になる言い回しだけど……まぁ、いい。ロズワールはともかく、フレデリカは信用してもいいかなって気はしてきてるからな。ラムぐらいどっぷりロズワールに心酔してる場合、こっちの感情は別として判断に困るとこなんだけど」

 

一人の人間としてはスバルはラムのことを好ましく思っているが、それがイコールで絶対的な信頼に結びつかないのも難しい関係だ。

少なくとも彼女の中での優先順位がロズワールを絶対として動かない以上、そのロズワールが信用し切れない今はラムへの判断も保留とせざるを得ない。

 

「ロズワールの真意が話せないってんなら……『聖域』が実験場ってのはどういう意味だ?これはガーフィールが言ってたんだが」

 

「実験場――ですか」

 

「行き場のない奴らのふんづまり、とも言ってたな。行き場がないってのは、ぶっちゃけさっきの亜人関係の話の流れで想像はつく。ロズワールが亜人趣味だなんて呼ばれ方して、『聖域』に行き場がないハーフたちを住まわせてるってのも。けど」

 

実験場という単語の不穏さと、その場所へハーフたちを集めてある意味では拉致監禁をしているといっても過言でないロズワールの狙いがわからない。

あるいは下手を打つと、エミリアは組んではいけない相手と組んでいる可能性も。

 

「そもそも、『嫉妬の魔女』じゃないにせよ魔女と関係性がある施設を代々預かってるってのが知れたらわりと事なんじゃねぇのか。資料は残ってないとか云々聞いてるけど、事実として墓場まで残ってるとあっちゃ」

 

「魔女、という単語の意味そのものが悪い意味に変わってしまいましたものね。おそらくは旦那様と契約関係にある『強欲の魔女』のことも、周囲は決して穏当なものとして思ってはくださらないでしょう。その懸念はスバル様のお考え通りだと思いますわ」

 

「『聖域』の存在が問題だってのが共通認識で嬉しいよ。んで、実験場ってのはその認識をさらに上書きしてくれたりするのかな?」

 

「……もともとあの場所は、『強欲の魔女』がとある実験を行うためにハーフたちを集めた隠れ里です。土地の所有者であった当時のメイザース家と魔女がどのような交渉を交わしたのかは不明ですが、その契約を理由に代々、メイザース家は『聖域』の管理と維持をするようになったとか」

 

訥々と、フレデリカの語る内容に頷きで相槌を入れながらスバルは情報を整理。そのあたりまでの事情はそれとなく、『聖域』にいた面子からの情報を繋ぎ合わせて理解に結びつけていたあたりだ。そうなると問題は、

 

「魔女がハーフたちを使ってなにを実験してたのかと、魔女が死んだあとになってもロズワールがその契約を守り続けてる理由……か」

 

「後者の理由に関しては簡単です。契約の内容が『聖域の解放までの間、魔女と交わした誓約に従って聖域を維持すること』だからですわ。定期的に人を入れなくては『聖域』という環境は成り立ちませんもの」

 

「それで、訳ありのハーフたちの隠れ里扱いにしてるってことか。それだけ聞くとロズワールのやってることが慈善事業の一環に思えなくもないな」

 

事実として差別が存在する以上、彼らが安寧を得られる場所の確保は必要だ。その役割をロズワールが果たしているのだとすれば、彼に対する評価を改めなくてはならない。もっとも、

 

「全部が全部、あの場所にいたいって主張してるハーフばっかりじゃないみたいだけどな。実際、リューズさんに従って『聖域』の解放を望んでる連中が多数ってことはそういうことなんだろ?」

 

「……亜人族に対する偏見の目もだいぶ薄れましたわ。私や弟が『聖域』に入ったのも、この血が理由というよりは純粋に居場所がなかったことの方が比重としては大きいですし。いずれ『聖域』の解放は成る。――だからこそ私は」

 

固く目をつむって言葉を切るフレデリカ。彼女のその態度にスバルは沈黙し、しばしの時間をおいてからおずおずと切り出す。

 

「俺の勝手な思い込みかもしれないけど……ひょっとしてフレデリカが『聖域』を出たのって、『聖域』が解放されたあとのことを考えてか?」

 

「……どうして、そう思いますの?」

 

「どうしてってそりゃお前、『聖域』のことを話すときにそんな悲しそうな顔して、それでも故郷を振り切って出てくるのなんて、自分のためか他の人のためかのどっちかしかありえねぇだろ。そんでもって……」

 

頬を掻き、脳裏に思い浮かぶのは金色の髪を短髪にした強面の青年。目の前の心優しい女性と、口元ばかりが瓜二つの素直でない人物で、

 

「ガーフィールの本音隠しが姉にも共通項だったら、行いの裏側が照れ臭いぐらい思いやりだらけでもおかしくない。お前さ……いつか『聖域』が解放されたとき、出てきた人たちが困ったことにならないように、その場所作りのために出てきてんじゃないのか?ここで働いてるのって、もちろんロズワールへの恩義もあるだろうけど、それだけじゃないんじゃないか。……ってな風に思ってみたりするんですが」

 

早口に語る内に飛躍した論理になっているのを自覚して、スバルは恥ずかしさを堪えながら横目にフレデリカをうかがってみる。もしも見当違いの的外れで笑い飛ばされたとしたら、単純にスバルが熱血すぎてお恥ずかしいだけだが、

 

「新しい世界がいずれ開かれたとき……その場所に手を引いてあげられるようにしていたかったんですの」

 

ぽつりと、そうこぼすフレデリカの表情に笑みが浮かぶ。

だがそれは的外れな意見を口にしたスバルへの嫌味などではなく、ただただ己の心のありようを見つめ直して、他者へ打ち明ける開放感だけがあった。

 

「あの場所に育ててもらった私が、今度はあの場所から出てくる思いを育てられる環境を作りたい。その環境を作る手助けの一つでもできれば、私が……望まれずに生まれたかもしれない私が生まれた意味がきっとあるんじゃないかと」

 

「望まれずとか、そんな……」

 

「慰めの言葉は不要ですわ。経緯が経緯、母が望んで私を身篭っていたとは到底思えません。事実、母は私も弟も『聖域』へ捨てて行きました。それが答えで……でも、その答えだけで話を終わらせたくなかったから、私は今ここにおります」

 

すでに彼女の中で答えの出てしまっている問題だ。

それだけに、上辺だけを知るスバルの同情は彼女の心に響かない。なにより彼女は自分の出した答えを抱えた上で、その答えだけで終わらない選択肢を選んでいる。

――強いな、と素直にそう思う。憧れるほどに、強い信念だった。

 

「……ガーフィールはお前のその本音を知ってんのか?知ってて、それでもついてこなかったってんなら」

 

「弟にだけは抱えているものを全て話しました。それでも一緒にきてくれなかったのは……そういう選択を弟が選んだということ。弟は得難いものを得に行くより、失いやすいものを守りに在ることを選んだ。姉弟の道が別れたのも、それだけのお話ということですわね」

 

「守る……守る、ね。あいつの外見からすると、それを選ぶ感じのキャラに思えなかったんだけどな。まぁ、人の心なんて外からわかるもんでもねぇけど」

 

顎に触れながら紅茶のカップを一気に傾け、中身を飲み干してスバルはゲップを我慢。それから口元を軽く手の甲で拭うと、「それで」と前置きし、

 

「はぐらかされそうだから戻すけど、『実験場』って単語に関してはどうなる。実験ってのがなにをしてたのか話せる内容か……もしくは、内容を知ってるのか?」

 

「残念ですけれど、内容とその目的に関しては私は存じませんわ。そもそも、『強欲の魔女』が死亡した時点で実験の継続は不可能。ただ施設だけが残り、メイザース家はその維持をしているというだけですもの」

 

「そう考えると不毛でしかねぇな。約束守るってのが大事ってのは身にしみてわかっちゃいるけど、相手が死んで四百年も経ってるのに守り続ける意味なんざあんのかね」

 

「少なくとも、旦那様とその一族がその約束を守り続けていてくださらなければ、私や弟の幼少の頃の安寧はなかったものと思いますもの」

 

「う……それは、あー……考えが足りなかった。すまねぇ」

 

素直なスバルの謝罪にフレデリカが失笑。

それから彼女は自分の方のカップも空にすると、スバルが飲み干した方のカップも回収して立ち上がり、

 

「長話が過ぎました。一度、区切りといたしましょう。スバル様は今後は?」

 

「もともと、アーラム村の人たちを村に戻すのに付き添ってきただけだ。聞きたいことが聞き出せたらとっとと戻る……って言っても、今日は厳しそうだから明日の朝ってことになるだろうけど」

 

「そうですか。でしたら、今夜と明日の朝はペトラが張り切りますわね。注意力が散漫になりそうなことを思うと、それがいいかどうかは難しいところですけれど」

 

「ペトラの教育が進んでるようでなによりだよ。今、ペトラは?」

 

「村に戻って、帰ってきた方々に顔を見せている頃だと思いますわ。そうするように言っておきましたもの」

 

こちらの意図を伝える前に、すでに汲んでくれているのがさすがのフレデリカ。

音を立ててカップを運び出す背中を見ながら、スバルもまた席から立ち上がり、残りのやるべきことを指折り数える。

 

フレデリカの口から聞き出せたことは、聞き出したかった全ての半分程度。それでもいくらか推論を進めるだけの情報は得られたものと思える。

あとは、他にも事情に詳しそうな最後の一人を見つけ出すだけで。

 

「時間かかるけど、とりあえず虱潰しに屋敷中を当たってみるか……」

 

目前に迫る重労働を前に肩を落とすスバル。

そんな彼の背中をちらと横目にしながら、退室するフレデリカは小さな声で、

 

「内容も目的もわからない……ですが、結果だけはわかっている実験場。それを知ったとき、知られたとき……どう思われるのでしょうね」

 

そう呟いたことは、物思いに耽るスバルにはまるで届かなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ベアトリスの『扉渡り』の厄介さは屋敷中の誰もが知るところだったが、それをスバルが本当の意味で痛感したのは王都から戻ってからのことだったと思う。

 

複数の選択肢を与えられた場合の直感――純粋に勘働きの話になるが、それはスバルにとって数少ない自慢できる部分の一つだった。

ノーヒントの選択問題で特に理由もなく正解の選択肢を引くスバルの特性は、ある意味では『空気が読めない』技能として非常に受けの悪いものであったが、この世界においてはベアトリスとの遭遇率に貢献という意味で役立ってきた。

その直感が、王都から戻ってきて以来、うまく働いてくれていない。

 

「っかしいな。これで屋敷中の扉は全部回ったはずなんだが……」

 

ここが最後、と望みを託して開いたトイレの個室の戸を閉めて、スバルは目的が達せなかったことの失望をため息と首を傾ける動作で表す。

これで王都から戻っての通算、ベア子当てクイズの勝敗は一勝惨敗。それまでの打率がほとんど十割だったことを思えば、スランプだなんて言葉で表せるものではない。事ここに至ってしまってはスバルも認めるより他にない。

 

「あんにゃろ、どうも本気で俺を避けてやがるみたいだな」

 

本気を出したベアトリスの『扉渡り』を敗れる存在はいない、とはかつてのラムの言だが、特に根拠もなくスバルはその常識を覆してきた。そしてなんとはなしに、スバルはスバルでベアトリスに対しての優越感――この場合、『扉渡り』を敗れることに対してというよりは、屋敷の誰よりも彼女に対してのアドバンテージを持っているということへのそれがあったのだが。

 

「最後の別れ方があんなんだからって、ここまで気合い入れて引きこもることねぇだろうよ。……顔見せてくれなきゃ、ケンカも謝るのもできやしねぇ」

 

あのときのスバルの言葉のなにが彼女にこれほどの拒絶を選ばせたのかはわからない。わからないが、こうして物理的に距離を隔てられたままでは、わからないことがわからないままになってしまう。それは嫌なのだ。

彼女に聞き出したいことがある、という切羽詰まった理由を度外視しても、スバルはベアトリスと会って言葉を交わしたかった。

憎まれ口でもいい。あるいは上から目線で小馬鹿にされるでも構わない。失われてしまった日常がある。それを知ったスバルの前で、また日常が消えてしまうことが耐えられなかった。それすらも、利己的な考えだとわかっていたけれど。

 

「パックもベア子も、肝心なときに話の一つもさせちゃくれねぇのかよ」

 

未だ姿をくらましたままのパックも、空間ごと引きこもったベアトリスも、エミリアがスバルが一番求めているときにその姿を見せてくれない。

困ったときだけ頼りにするなど、天の神様と同じでひどい話だ。

 

ただ、そうやって感傷に浸って見送るには状況が差し迫り過ぎている。エルザというわかりやすい脅威が屋敷に迫っている以上、彼女の撃退ができないのならば屋敷の関係者の避難は最優先事項だ。

まさかエルザも、屋敷と無関係なアーラム村にまで凶刃を伸ばすことはあるまい。それだけに、関係者の身柄の安全確保はスバルにとってなにより重要な案件。

 

レムとペトラを連れ出すことは難しくない。フレデリカも職業意識に訴えかければ動かせるだろう。問題は出会うことすら困難なベアトリスのみ。

以前、王都を発端としたループの中で、スバルは彼女を屋敷から連れ出すことに失敗した。あの時点でそれでも彼女を屋敷に置いて離れることができたのは、脅威であった魔女教の狙いが屋敷そのものではないことを知っていたからだ。

だが今回は違う。エルザは屋敷に侵入し、その上で刃を振るうことに躊躇いがない。本命であるエミリアの不在など関係なしに、彼女の刃は屋敷にいる存在の腹をかっさばくことしか考えていないだろう。

 

ベアトリスの戦力が実際、どれほどのものかはわからない。わからないが、エルザはエミリアと契約関係にあるパックと互角の戦いをした戦闘力の持ち主であり、スバルの想像ではヴィルヘルムとすら渡り合えるかもしれないバケモノだ。

ベアトリスがエルザと直接相まみえる場合、ベアトリスが勝利を得ている絵図がスバルにはどうしても浮かばない。

 

「エルザに対する苦手意識が強すぎるのかもな。……三回も殺されてりゃ当たり前の話だけど。――と」

 

幻痛を感じる腹に手を当てながら、廊下を歩いていたスバルはふと足を止める。視線の先にあるのは屋敷の中でも一際金のかかった扉であり、場所は屋敷の最上階の中央の部屋――つまりはロズワールの執務室だ。

主不在の現在、勝手に足を踏み入れるのはマナー違反どころではないのは重々承知しているが、

 

「そういや、この部屋にも確かめたいことがあんだよな」

 

言いながら、特に気負いもせずに扉に手をかけて中へ入る。

踏み込んだ執務室の風景は、当然だが屋敷中の扉を開けて回っていた先ほどと変化はない。執務を行うロズワール自身が帰っていないのもあって、部屋の有様はスバルがオットーをこき使って資料整理させていた頃のままだ。

雑多につまれていた書類や書棚を几帳面なオットーが整理したため、掃除したての部屋のような清潔感を感じながら、スバルはきょろきょろと中を観察。それから足を向けたのは部屋の奥、黒檀の机の脇にある並ぶ二つの書棚であり、

 

「この書棚の裏に、隠し通路があんだよな」

 

二度ほどその存在を確認した隠し通路――おそらくは避難路かなにかの役割を果たすものだと考えられるが、それの起動の仕方と通じている先はスバルにとって未知数な情報だった。

 

「前回のエルザ襲撃のときに開いてたし、こっからどこかに逃げられるのは確定だと思うんだけど……前に中入ったとき、途中で凍死したからな」

 

パックの逆鱗に触れたらしき魔女教ともども、氷像となって終わった記憶。指がもげて手足も砕けたおぞましい記憶だが、痛みもなく終わった上に不鮮明な部分が多いので震え上がるところまではいかない。もっとも、死は死だ。それを軽んじるつもりなど毛頭ない。ともあれ、

 

「避難路がどこに通じてるのかがわかれば、最悪の場合の想定もできる。もしくは避難路を辿って、屋敷に入るとかもな。……そんな状況、あるとも思えねぇが」

 

安全確保を最優先としている以上、避難路の確認は必須事項だ。おそらくは屋敷の裏手の山中のどこぞへ通じているものと考えられる。避難経路のお約束としては、途中に災害時などの避難袋が備え付けてあればなおよし。

 

「確認のためにも、さっそく避難路を……と思うんだが」

 

果たして、避難路へのギミックはなにをすれば動くものなのか。

とりあえず書棚に手をかけて全力で動かそうとしてみるが、中身がずっしり詰まった書棚はスバルの腕力をフルに使ってもびくともしない。中身を外に落として、それこそ棚だけにすれば動かせる目もあるかもしれないが。

 

「肝心要の急いで避難、の場面でそんな悠長許されるわけねぇし、どっかしらに動かすためのスイッチなりなんなりがあるはずだよな」

 

そう思い、机の裏や書棚の奥などを漁ってみるのだが、それらしい機構は発見できない。引き出しの底に二番底があり、中に宝石が詰まっていたのを見つけたときにはそっと見なかったことにする一幕などもあったが。

 

「お手上げか……ヘタすると、この部屋の中にない可能性もあるしな」

 

「部屋の中にないって、なにが?」

 

「そりゃもちろん、隠しスイッチ的なサムシングだよ。書棚の裏の隠し通路を覗き見したいのに、それが見つからなきゃ話が進まなくってさぁ」

 

「あ、逃げ道のことだ。それならね、こっちの像なの」

 

と、首を傾げているスバルの袖を引くペトラ。彼女に引っ張られてそちらを見たスバルは、少女が指差す方を見て「へえ」と頷き、

 

「部屋の隅にある、いかにもな彫像だったけど……これにカラクリが?」

 

椅子に座った人間を模した彫像は、机の上に乗るサイズの小さめのものだ。調度品の少ない執務室にあってはどこか異様な存在感を持っていたが、ペトラは物怖じせずにそれに近寄ると、

 

「てや」

 

と、小さな掛け声を入れてその彫像の首をひねる。

首がねじ切れるように、百八十度後ろを向いてしまう彫像。脛骨をへし折られた人を見ているようでスバルは眉を寄せたが、その直後に、

 

「お、お、お――」

 

重いものが横滑りする音が室内に響き、振り返るスバルの前で件の書棚が左右へ別れるように移動する。そして、書棚が移動したあとに現れたのは、ポッカリと人一人分のスペースを確保した闇へ通じる入り口だ。

目的の避難経路がその姿を現し、スバルは小さく拳を固めてガッツポーズを入れて、

 

「これこれこれだ。探してたんだよ、助かった」

 

「ふふー、そうでしょー。ちゃんとフレデリカ姉様に教わってましたから。いざというときの逃げる道として、覚えておきましょうって」

 

「よっし、感謝感謝。これでさっそく……ペトラ、いつの間に!」

 

「今さら!?」

 

あまりにも流れるように参加されていたので、熟考していたスバルはその存在に気付くのが遅れた。そのスバルのあんまりな対応にペトラは拗ねたように唇を尖らせ、

 

「せっかく急いで戻ってきて、それでお手伝いしてあげたのに……スバル様、ちょっとひどいと思います」

 

「いや、俺も一人気分でいたのに誰と会話してるんだろうって途中で思ったんだけどさ。目的が達成された喜びに上書きされて気付くの遅れた。メンゴメンゴ」

 

不貞腐れた様子で顔を背ける少女。スバルは謝りながらその頭を軽く撫でてやり、それから改めて避難路と呼ばれる通路へ目を向けて、

 

「ちなみにペトラは、フレデリカからこれがどこに繋がってるか聞いてる?」

 

「はい。裏のお山の途中、小さな小屋に繋がってるってフレデリカ姉様は。魔獣除けの結界とは別の結界があって、外からはわからないようになってるって」

 

「なるほど。まさに隠し通路ってわけか。でも実際、目で確かめてみにゃな」

 

山のどこに出るのか確かめた上で、避難路としても侵入路としても役立てるだろう。スバルは袖をまくるアクションを入れつつ、やる気満々の顔で入り口へ足を向ける。と、そのスバルの背後に小さな足音を当ててペトラが続く。

 

「って、ペトラも一緒にくんの?」

 

「ダメ?」

 

「ダメじゃねぇけど、きても多分面白いこととかねぇよ?純粋な好奇心でこれがどこ繋がってるか見てくるだけだし、その足で戻ってくるし」

 

「今は休憩時間なので、私も自由時間です。一緒にいてもいいでしょ?」

 

服の裾をつまみ、子犬のような目で見上げてくるペトラ。そうまで懐かれてしまうと遠ざけるのも息苦しく、スバルは吐息をこぼして苦笑すると、

 

「ホントに行って戻ってくるだけだってのに、物好きだな、ペトラ」

 

「物好きじゃなかったらこんなところにいれないし……物好きで良かった」

 

スバルの言葉にそう応じるペトラ。彼女の言いたいことはイマイチわからないが、スバルはとりあえず微笑で取り繕うと、差し出される手を取って避難路へ。

暗がりが続く隠し通路は螺旋階段状になっており、壁自体がぼんやりと青白く発光する素材になっている。階下まで道を見失うことはないだろうが、それが地下にまで通じていることを知っているスバルは振り返り、

 

「ちょっと階段が長いし暗いから、足滑らせないように注意な」

 

「滑ったら助けてくれる?」

 

「お前抱えて一番下まで転がり落ちるだけだから勘弁してほしいな……それで再起不能になったら目も当てられねぇ」

 

「そしたら私、一生スバル様の面倒を見てあげる」

 

「嬉しいけど過程が恐いよ!」

 

そんなやり取りを交わしつつ、スバルが先導する形で二人は階段を下り始める。ひんやりと冷たい風が階下から上ってきており、その先にいるはずのないパックの存在を思い浮かべて背筋を寒気が走る。

あるはずのない凍死の未来、それを恐がるわけではないが、

 

「黙って降りるのも芸がないし、ペトラが恐がるかもしれないから話でもしようか」

 

「スバル様、掌にちょっと汗かいてますよ?」

 

「ペトラが恐がるかもしれないからお話しようぜ!村のみんなはどうだったよ?」

 

あくまで年少を気遣う形式に拘るスバルに、ペトラは慈しむような目を向けながら話に乗ってくれる。そうして細々と沈黙が落ちない程度に話を続けながら、階下を目指して降りること数分――階段が終わり、スバルも知る細い通路へ到達。

いくらかその通路を進んだ先に扉があり、そこから先はスバルにとっては未体験ゾーンになる。

 

「体感からして、まだ屋敷の地下に潜っただけだしな。こっから裏の山まで通路が続いてるってなると、この横穴ってかなり長いよな」

 

「避難路だったり逃げ道だったり横穴だったり、呼び方決まらないですね」

 

「そうだな。メキシコから吹く風という意味で、サンタナとでも呼ぼうか」

 

「あ、そこ躓かないでね、出っ張りがありそう」

 

スバルの戯言を美しくスルーするペトラ。彼女の短期間での対スバル能力の向上を喜ばしいと思いつつも寂しいスバル。

そんな郷愁を抱いたまま通路を進むと、やがて少しばかり広い空間に到達。正面には暗がりにぼんやりと扉が浮かんでおり、ここが小部屋であるのを確認。以前はこのスペースに所狭しと魔女教の氷像が並んでいたのだが、今回はもちろんその形跡はなし。そっと、安堵の吐息をこぼしつつ、

 

「当たり前だけどトラウマスイッチは入らずに済んだか。とりあえずここまでで、山小屋までの道は三分の一ってとこか?」

 

「風が冷たい……あの扉の向こうかな」

 

スバルの安堵を余所に、ペトラは眼前の扉が新たなステージに繋がることへの期待を隠せていない。スバルも「ああ」と頷きを入れつつ、

 

「前回はドアに触ったところでガメオベラしてっからな。こっから先は完全に知らない場所だけど……まぁ道なりに見てみて」

 

それから判断を、と気負いなくスバルは扉に手をかけた。

そして押し開き、冷たい風が勢いよく小部屋の方へと流れ込んでくるのを顔に浴びながら――、

 

「――ぁ?」

 

軽い音と同時に、スバルは自分の腹になにかが当たったことに気付いた。

視線を落とし、衝撃のあった左の腹部に目をやる。と、そこにはまるで串のようなものが突き立っており、今まさに当たったばかりなのを証明するように尻部分が震えている。

 

――じわりと、衣服に血が滲むのを目にして、スバルの喉が凍り、

 

「やぁ――っ!?」

 

喉を驚きに塞がれたスバルの代わりに、同じ傷に気付いたペトラの喉が甲高い悲鳴を上げた。それは狭い通路に高々と響き、スバルの鼓膜を激しく打った。

痛みが駆け上がってくるまでの刹那の間、スバルはなにが起こったのかわからないまま、なにをしなくてはならないのかに全力で頭を回転させる。

 

ペトラの悲鳴が尾を引いている。響く通路、音は掻き消え、彼女の声しか聞こえない。聞こえないはずの、その世界にスバルはそれを聞いた。

 

靴音と、刃物が鞘から引き抜かれる音と――、

 

「さあ、約束を果たしましょう――」

 

唇を赤い舌で湿らせて、殺戮の予感に震える殺人鬼の声を。