『帰ってきた意味』
「――どうして、戻ってきたの?」
ひどく真剣な表情で、こちらを見つめるエミリアはそう問いかけてきた。
静かな彼女の紫紺の輝きを放つ双眸に、自分の顔が映っているのをスバルは見る。湖面を映し切ったような静謐として光が、こちらの内面を見透かすかのようにジッと射抜いてくるのを。
自然、身震いするような感慨がスバルの全身を襲った。
それが透徹した彼女の眼差しから受けた正負のどちらの感情に起因するものなのか、今のスバルにはよくわからない。
ただ、たったひとつだけ、その問いかけに応じる答えをスバルは持っていた。
「――どうして、戻ってきたの?」
繰り返される問いかけ。
答えないスバルに再び投げられるそれは、しかしこちらを急かそうとしてのものではない。柔らかに押し寄せる質問にスバルは息を呑み、軽く唇を舌で湿らせた。
そして、軽く目をつむってから――、
「なあ」
「――――」
沈黙が返る。だが、それは返事を保留してのものではなく、こちらの言葉の先を促すためのものだ。それがわかっていたからスバルも戸惑わず、次の言葉を形にする。
向かい合い、互いに複雑な感情を抱えながらも、それでも言葉を交わす機会を得られたのだから――、
「さっきあれだけさんざっぱらバタバタやらかしといて、今さらこの雰囲気を維持すんのもけっこうきつくね?」
「……それ、スバルに言われるのってすごーく腑に落ちない」
相好を崩したスバルの物言いに、エミリアは深々とため息を漏らして、ひどくひどく力なさげに、仕方なさそうに、薄く唇をゆるめたのだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――ラムの手引きによるスバルのラッキースケベは、パックの父性からなる教育的指導によって華々しい散り様を迎えた。
その後のラムのアシストもあって庭園に投げ出されたスバルは、ラムが助け起こすまでにやにやと笑い続けて不気味な印象を彼女から買い、結果的にその醜態は巡り巡ってエミリアの下にまで届けられ――、
「頭とか強く打たなかった?逆さまだったけど、首の筋は痛めてない?あ、耳の中まで土が入って……この服、なんでこんなに血と泥だらけなの?大丈夫?ケガはしてない?ほら、ケガしてるなら早く脱いで……」
「ちょ、ま……駄目、ほら今は人目があるしまだお昼だから脱がすなんて……っ」
「やっぱり頭をたくさん打ったから……」
「俺もともとこんなだよ!心配してくれてありがとうだけどその目が痛いよ!」
しきりに心配して手を伸ばしてくるエミリアを遠ざけ、スバルは頭を振って首を回して耳に入った土を掘り出し服の汚れを軽く払って健在なのを示すようにその場で腿上げ運動を行いながら改めて客間に入室。
中では小さな丸いテーブルを間にはさみ、先の騒動の功労者であるところのパックとラムが向かい合ってお茶をしており、
「けっこうなお手前です」
「いえ。大精霊様にお褒めいただくほどではとてもとても」
「なにを和やかに茶ぁしてやがんだよ、お前ら」
典型的なお世辞トークを交わす二人の間に割って入り、テーブルに手をついてスバルは二人を睨みつける。が、二人はそんなスバルの剣幕に取り合わずいたって平静のままお茶を傾ける。パック専用の小さなカップがいやにシュールな光景だ。
喉を鳴らして茶を通す。それからひと息つくと、二人は揃ってスバルを見上げ、
「ラムのうっかりのおかげでいいものが見られたでしょう。それで手打ちにするといいわ」
「なんでお前が偉そう?お前、王様?」
「首から上がついてるだけでもボクの慈悲深さに感謝してほしいよ。リアの言葉にできない羞恥を思うと、自分の力不足を強く嘆かせられるね」
「お前はお前で頭消し飛ばそうとしたとか驚きだよ!いまだかつて、死因がラッキースケベになった奴はあんましいねぇぞ!?」
世界は広いから、見渡してみればそういう死に方をした人物もいるかもしれない。もっとも、さしもの連続死亡記録を持つスバルもその死に方はごめんだが。
ともあれ、そんな経緯を経て――、
「ケガがないならいいの。色々、話さなくちゃいけないことはたくさんあるけど……」
悪びれない二人の応答に顔をしかめていたスバル。その隣を歩き過ぎながら、エミリアがそう静かな声音で呟く。
銀色の髪が彼女の歩みに従って流れ、振り返る動きで煌めきが弧を描く。それに目を奪われるスバルの前で彼女は寝台に腰を落とし、ジッとスバルを見上げ、
「――どうして、戻ってきたの?」
と、最初の質問に戻ってくるわけである。
そこまでの回想を終えてみれば、やはりシリアスを維持し続けるのは難しい。
茶化すつもりだったわけではないが、結果的にそうなってしまった状況にスバルは頭を掻く。そんなスバルを余所に、エミリアは拗ねたように唇を尖らせ、
「もう、全部ぜーんぶラムとパックのせいだから。こんなじゃなかったのに……こんなじゃいけないのに。もう」
「大変失礼をいたしました、エミリア様。もしもまだお怒りが静まらないのでしたら、どんな叱責や罰でも甘んじて受け入れるつもりです。――バルスが」
「お前は少しは自分が加害者って意識持ったりしないの!?」
「ラムが上で、バルスが下とは常に思っているわ」
「い、いじめっ子!いじめっ子だ!こんな従順さと程遠いジャイアニズムぶら下げたメイド初めて見たよ!」
楚々とした振舞いと見た目が完璧なだけに、ラムの図太さは久々に見ると衝撃の一言だった。そんな彼女と置き去りにしてきた日々からまるで進歩のない会話をしていると、ふとラムは細めた瞳で仔細にスバルを観察し、
「な、なんだよ……」
「少しは不安が晴れた顔をしているわ。さっきより、髪の毛一本ほどマシなぐらい」
「――――ッ」
その容赦のない気遣いの言葉に、スバルは思わず息を詰める。
実際、先ほどまでスバルの手足は鉛を詰めたように重く、エミリアとの再会を前に心は浮き立つより先に不安で締めつけられるようだった。
だが今、その焦燥感や不安感といったものはある程度は緩和されて、渇き切っていたはずの舌にも痛みはない。
それがこちらの気持ちを解そうと、そう取り計らったラムの気遣いだとわかってしまったから、ひどく複雑な感謝の気持ちがスバルを包み込む。故に、
「お前、わかり難すぎてそういうとこどうかと思うぜ」
「女は答えの出ない難問で男を常に翻弄するのよ。簡単に解かれて飽きられてしまったら、男なんてすぐにどこか行ってしまうでしょう?」
「今のはそれっぽいこと言って誤魔化そうとしただけだろ、感心したりしてねぇぞ。――感謝は、してるけど」
「エミリア様。今、バルスがエミリア様の着替えを覗かせてくれてありがとうとラムに。最低の色情狂ですわ、この男」
「そんな高度なセクハラしねぇよ!お前やっぱさっきの素だろ!?」
感謝の気持ちがどこへやら、声高に突っ込むスバルにラムは耳を塞いで聞こえないふり。そのふてぶてしいまでの通常営業ぶりにいよいよスバルも言葉が出ない。
だが、そんな二人のやり取りを見て、
「――ふふっ」
「お」
口元に手を当てて、堪え切れない笑いの衝動をエミリアが吐き出すのをスバルは見た。彼女はどうにかそれを抑えようと頑張っていたが、スバルがその様子に気付いて眉を上げたのを見るとそれも諦めたようで、
「だって、二人してそうやってふざけて……もう、我慢しようとしてる私が馬鹿みたいじゃない」
「いいじゃん。怒ってぷりぷりしてるより笑って話そうぜ。色々あったけど、それでも笑って話す方がなんだっていいさ。そのためならいくらでも道化っぷりを披露しようってもんだぜ。なあ、ラム」
「――ふぅ」
「あれ、乗ってこない!?」
エミリアがそうやって返してくれたのが嬉しくて、思わずテンションが上がって口が回るスバルをラムが蔑む目で見る。そこにスバルがリアクションを返せば、ますますエミリアの口元がゆるんでしまうループ現象が繰り返されて、
「二人とも、変わらないんだから。なんだか、すごーく久しぶりに笑った気分」
「そうですね。ラムも、エミリア様がそうしていらっしゃるのを久しぶりに見ました」
目尻に浮かんだ涙を指ですくうエミリアに、腰を折るラムが静かに告げる。
それを聞いたエミリアの表情がわずかに固まると、ラムはそれを見届けて自分の為すことをやり遂げたとばかりに、
「バルス。この場のあとは任せるから、うまくやりなさい」
「って、お前はどうすんだよ。このへんちくりんな空気を」
「話しやすい雰囲気作りはしてあげたでしょう。残りの仕事はバルスの仕事。ラムは準備することが多くて忙しいの。バルスが持ち込んできた理由で」
じろりと、こちらを見上げる静謐な眼差しにスバルは押し黙る他にない。
スバルからの反論がないのを確認し、ラムはエミリアに深々とお辞儀すると、
「エミリア様、ラムは準備がありますのでしばし失礼いたします。状況についてはバルスの口から……判断とご指示は、エミリア様に従いますので」
「ラム……でも、私は」
「エミリア様のご判断にならなんにでも従います。それが、ロズワール様のお言いつけですので」
口ごもるエミリアを遮り、ラムは淡々とそれだけ告げると部屋を出ていく。最後、扉が閉まる寸前にスバルへ向けられた視線はひどく鋭く、それだけに背筋を正される思いが植えつけられる。最後の最後まで、手間をかけさせてしまったとも。
テーブルの上を見れば、いつの間にやらそこにはパックの姿もない。
エミリアの髪の中に知らないうちに潜んだか、あるいはマナに霧散してこの場からは退散したか、少なくとも形式上の今、この部屋は二人きりだった。
スバルと、エミリアの、二人きり。
「こうやって、スバルと話すのもすごーく久しぶりよね」
話し出す切っ掛けを見出すことができず、しばしの沈黙を甘受していたスバルに、最初の口火を切ったのはエミリアのそんな言葉だった。
顔を上げるスバルの前、なおも寝台に腰掛けるエミリアの瞳は穏やかで、そこにあのときの激情の燻りは見受けられなかった。
まず、最初の気まずさはその事実の前に乗り越えることができたと思う。乗り越えたというよりは、乗り越えさせてもらったといった感じが拭えないが。
「ああ、エミリアたんと離れて一日千秋の思いだったよ。日に日に俺の中のエミリアーゼが減少していって、欠乏症で息ができなくなるかと思った」
エミリアーゼはエミリアと会話、凝視、残り香を嗅ぐといった行為でスバルの中に充填されていく、エミリア分のスバル俗称である。
欠乏症が末期になると、自棄になったり世の中に絶望したりといった弊害が溢れ出すので、早急な補充が求められる厄介な症状だ。
「それが、戻ってきた理由?」
「――んにゃ、それもあるけど、それだけじゃねぇよ」
軽口に、エミリアの返答は抑揚がない。
スバルはそれをひとつの区切りと受け止めて、ひどく落ち着いた心で考える。
あのとき、あの場所ですれ違ってしまったときの、答え合わせをしなくてはと。
「エミリアたんに会いたかったってのは一番の理由だけど、もちろん他にも色々な理由がある。その中で次点にくるのはアレだ――君の、力になろうと思って」
「――――ッ!」
エミリアが息を呑み、寝台に置いた手でシーツを強く掴んだのが見えた。表情が強張り、紫紺の瞳に深い動揺が広がっていく。
彼女はしかし、そんな自身に走った衝撃をすぐに装った平静さの下に隠し、スバルにさえわかるような上辺だけの微笑みを張りつけて、
「なにを、言ってるのかちょっと。力にって言っても、別になにもないのよ?スバルが心配するようなことなんて、そうなんにも……」
「隠しごとがヘタクソだよね、エミリアたん。俺だって村を通ってここまで上ってきてるんだぜ?おおよそ、なにが起きたのかぐらいわかってるさ」
「……そう。そうなんだ」
スバルの指摘にエミリアの微笑みが力のないものへ変わる。
それでも、俯きかけた自分の顔をどうにか上に向け、スバルから視線をそらさない彼女は立派だった。無力さに打ちひしがれる人間は、すぐに自分の意思を甘やかして下を向く。彼女は、それだけは自分に許さないのだから。
「あのね、スバル。私は……その、ハーフエルフだから」
「うん、知ってる。王選の場所にもいたし、色んな人から話を聞く機会もあった。エミリアたんが思ってるより、たぶん俺はそれを知ってる」
歩み寄り、スバルは寝台に座るエミリアの傍らへ向かう。そして彼女に視線の高さを合わせるように膝をつき、真っ直ぐに紫紺の瞳に自分を映した。
「ハーフエルフだってことを、恨んだりするつもりはないの。自分と人を比べて、違うところを言い合っても仕方ないことだって思うし、違うことを悪いことだと思って自分を貶めたくない。私は自分の血を、そう思うの」
「うん。すげぇ、立派なことだと思うぜ」
「でも、やっぱり周りの人から見たら、そう簡単にはいかないみたいで。ハーフエルフはいるだけでも、色んな人に不安とか恐い思いをさせちゃうから」
静かに、できるだけ感情を抑えて、エミリアは淡々とそれを語る。それを聞くスバルも、胸中に溢れ出す締めつけるような愛おしさを顔に出さないよう必死でいた。
そうやって、自分を取り巻く環境を、そこに生じる自分の弱い心の嘆きを、それらと懸命に戦っている彼女の姿は美しく、高潔で、消えてしまいそうに儚い。
「ラムが教えてくれたの。森に、おかしな雰囲気があるんだって。微精霊たちも、なにかおぞましいものに気付いて毎朝怯えてる。きっと、なにか恐ろしいことが起きるの。目も背けたくなるような、そんなことが」
「――――」
「今、そんな状態なの。ここに戻ってきたら危ないの、スバルだって。だから、できたらすぐにでも屋敷を発って……治療だって、きっとまだ途中でしょ?だから」
「俺がそれで出てって、エミリアたんはどうすんのさ。危ないのはエミリアたんだって、村の連中だって一緒だろ?それ聞かずに、どっか行く男だと思うかよ」
嘆願に、しかしスバルは真っ向から首を横に振る。それを受け、エミリアはかすかに唇を噛み、それから「えっと」とわずかな躊躇いを舌に乗せて、
「もちろん、私だって準備ができたらすぐに屋敷を出る。ロズワールと合流して、考えなくちゃいけないことがたくさんあるの。村の人たちだって一緒に行くわ。そのために村で話も……」
「聞き入れてもらえなかったんだろ?さっきの前置き、それじゃねぇか。しどろもどろになってるなんて、エミリアたんらしくねぇよ」
「あ……」
自身の言葉の支離滅裂さに気付き、エミリアは気まずげに口を閉ざす。
そんな彼女の態度がひどくスバルには新鮮で、けれど嬉しいとは欠片も思えない類のものであったから、スバルは村がある扉の方へ首を傾け、
「――村の人と、エミリアたんたちを逃がす準備は俺がしてきた」
「……え?」
「王都で色んな人間に頭下げて、村に行商人の竜車を何台も集めた。村人全員乗せてとんずらこくには十分だ。エミリアたんやラムの席だってちゃんとある。乗り心地優先じゃないから、ファーストクラスは準備できなかったけど」
矢継ぎ早に投げかけられるスバルの言葉に、エミリアがついてこれずに目を白黒させている。そんな彼女になおも、スバルは状況の切迫さと、それをことごとくどうにかしてみせると頼りがいを見せつけるように、
「森に潜んでた怪しくて黒い奴らも、王都から引っ張ってきた心強い仲間たちのおかげで大半はやっつけた。あとの連中も、みんなを逃がしたあとできっちりしめて片付ける。全部、うまくやったるさ」
「ちょっと、待って……スバル、どうしてそれを……」
「色んな人が忠告とか警告とか、反省させてくれたりとか勉強させてくれたりとか、頼らせてくれたりとか支えてくれたりとか、信じてくれたりとか信じさせてくれたりとか、信じたいと思わせてくれたりとか信じようと思ってみようとか、そういう風に俺を助けてくれたからかな」
スバルの答えになっていない答えに、エミリアは言葉が継げない。
けれど、それは全てスバルの正直な気持ちだった。スバルがエミリアと別れて王都に残って、それからの日々で与えられてきたものは言葉では言い尽くせない。奪われたものだってあったけれど、それを取り返すためにここへきた。そのための日々で授かったものの方が、今のスバルにはずっと大きいのだから。
「私……スバルにひどいことを言ったわ」
「いーよ。気にしてないって言ったら超嘘になるし、正直言えば死ぬほど気にして悪夢かと思うほどうなされて鬱病になったんじゃないかってぐらいネガティブシンキングしか湧いてこなかったときもあったけど」
「本当にごめんね、私……」
「ここを流さず受け止められると俺も立つ瀬がねぇよ。あー、でもまぁほら、今はこうしてるわけだし、気にしなくていいって。俺は、自分の馬鹿さ加減を忘れないために気にし続けるけどさ」
エミリアがスバルの言葉に目を見開く。それに頷き返すスバルの心境は、あのときの一幕を、あの王城での数時間を克明に記憶している。
忘れるわけがない。忘れてはならない。あの屈辱を、受けて当然の拒絶を。
ああしてエミリアに言わせたくないことまで言わせてしまうほど、独りよがりに固まり切っていた自分の愚かしさを。だから、
「今、俺は君を助けてあげたい。そのための準備はしてきた。万全とは言い難いけど、足りない俺のできる精いっぱいで。だから、この手を掴んでほしい」
「でも、私は……私は、そんなに弱くちゃダメで……」
「弱くていいよ、エミリアたん」
差し出した手を、握ることを躊躇う彼女にスバルはそうやって無責任に笑う。
立場が、役割が、未来が、彼女に強くあることを要求する。それはきっと正しい。クルシュの高潔さを、アナスタシアの強かさを、プリシラの傲慢な自我の有り様を、王都で見てきたスバルはそれも王の資質だろうとそう思う。
けれど、こうだって思うのだ。
「俺も超弱々でどうしようもねぇけど、色んな人に手を差し伸べてもらってここまでどうにかやってこれた。今後も色んな人に手ぇ貸してもらいながら、どうにかやっていこうって他力本願に思ってる。もちろん、借りっ放しで終わるつもりはねぇよ?借りたもんは返して、引っ張られてた手で引っ張ってやりたい」
「あ……」
「だから、最初は引っ張られるばっかりでもいいんじゃね?今は弱くても、いつか強くいこうぜ。そのために背中預け合って座るぐらいが、今はちょうどいいって」
最初から完成している必要なんてない。
王様は強く気高く誰よりも正しくあるべきだなんて、子供みたいな発想だ。けれどその子供じみた幻想を、誰もがその存在に抱いているのもわかっている。
だから王様を目指す彼女は、弱いことを誰にも許してもらえない。
――でも、弱いのはそんなに悪いことなのかよ、とスバルは思う。
弱くても、強くなっていこうと、上を向いて歩いていくことはできるのだ。
ならばそう思って、そう信じて、歩いていく誰かと隣り合うのだっていいじゃないか。
「色んな人が俺の手を引いてくれたから、俺はここにいる。俺もできれば、君の手を引けるそれでいたい」
「スバ、ル……」
「だから、俺の手を取ってくれよ、エミリアたん。君が王様になるんだって道を、前でも後ろでもなく、横で見ている奴だっていていいと思ってくれるなら」
おずおずと、手が伸びてくるのを見て、スバルは小さく唇の端をゆるめる。
それから待つのももどかしく、指先が触れるやいなやギュッと掴み、小さな声を上げる彼女の腕を引いて、スバルも立ち上がった。
手を握り合ったまま、立ち上がった二人は至近の距離で見つめ合う。
胸が高鳴る。感情が破裂しそうだ。そんな情動を隠して、スバルは口を歪めて悪戯小僧のような笑みを浮かべて、
「ちょっとは立ち上がるの、楽になった?」
「……スバルの、バカ」
問いかけに、エミリアは瞳を伏せると小さな声で呟く。
その態度にスバルは笑みを消して、なにかマズイことを言ったかと慌てるが、
「スバルのバカ。ホントにもう、バカ。バカ、バカ、バカ」
「言い過ぎだよ!いや、バカなのは自覚あるとこです、はい、すみません」
「私、これでも色々考えてたの。王様になるんだって、そのために色々と勉強しなきゃいけないこともできなきゃいけないこともたくさんあるんだって。甘えちゃいけないし、頼ることだって良くないんだって、いっぱいいっぱい考えてたんだからっ」
空いている方の手を腰に当てて、エミリアは小さくなるスバルに声を弾ませる。
聞きながらスバルは空いている方の手で頭を抱えて、突然に発生してしまったエミリア性の暴風雨を耐え忍ぶしかない。
「村の人たちは話を聞いてくれないし、ラムだって言うことは聞いてくれるけど意見はしてくれない。パックには……聞くだけ無駄だし、ロズワールもどこか行っちゃうし……ひとりで、ずーっと考えてるしかなくて」
そんな肝心なときに、スバルもレムも彼女のところにいなかった。
彼女が受けた心理的な負担を、スバルが傍にいればきっとどうにかしてあげられたのに。
「いっそ、悪い魔法使いのふりして村に氷の雨でも降らせて、無理やりにでもみんなを避難させちゃえばとか考え出したりしちゃって」
「そ、それはやらなくて正解だったんじゃないかな。クールにいこうぜ?」
「やり出す前にスバルが帰ってきたの!それだけでも私の頭は大変だったのに、今度はそのスバルが色々言い出すんだから……本当に、困っちゃう」
小さく、抜けるような吐息をこぼして、しばしの沈黙が部屋に落ちた。
居心地悪く、スバルはエミリアの心情がわからなくて途方に暮れる。色々と調子に乗った発言が多くて、今さらさっきまでの自分を殴りたくなってくるがもう遅い。
できたら舞い戻ってなかったことにして、もうちょっと完璧な口説き文句を用意して再チャレンジしたいがそうもいかない。リベンジチャンスすらも完璧に活かせない男、ナツキ・スバル。我ながら、死んでも治らない愚かしさである。
「スバル、百面相してる」
「百面相ってきょうび聞かねぇ……このやり取りも久しぶりだな」
顔に手を当てて表情筋を落ち着かせて、スバルはエミリアを見る。
ちょうど、彼女もこちらを見上げたところだった。目が合い、時間が止まる。
動けないスバルに、エミリアは穏やかな表情だ。そのまま、薄く唇を開き、
「私。ひどいことを言ったと思ってるけど、間違ったことを言ったとは思ってない」
「――うん、それでいいと思う。俺もあのときの気持ちが間違ってたとは思ってない。やり方と表現方法と過程と結果が間違ってたとは思うけど」
「それって全部ダメなんじゃない?」
「猛省してるよ!でも、気持ちだけは間違ってなかったって今も思ってるから」
そこにだけは嘘をつかない。
頑固に譲らないスバルを見て、エミリアは小さく笑った。それから、
「手、握ったまんま。スバルの手って、すごーく熱いのね」
「今は顔と耳も負けず劣らずだと思うけど……は、離せとか言わない?」
「こうやってしっかり握られて、引き起こされちゃったもの」
握り合ったままの手を持ち上げ、エミリアはその手を顔の横で揺らす。
微笑みにその手が重なり、ひどく温かな鼓動がスバルの胸の内に沁み渡った。
「また私を、助けてくれるの?スバル」
「まだ君が俺に、それを許してくれるんなら」
スバルの答えに、エミリアは目をつむった。
受けた答えを体の中に沈めて、自分の中にある返事を探し求めるように。
それから彼女は目を開き、スバルを紫紺の双眸でしっかり見て、
「聞かせて。スバルが準備してきてくれた、色んな人やもののこと」
「ああ、聞いてくれ。それでスゴイと思ったら、賞賛してくれていいぜ」
「調子に乗らないの」
握っていない方の手で、軽く頭を小突かれる。
痛みはないけれど、そうして彼女の方から触れてくれたのが嬉しくて、浮かぶはずもない涙が目尻に浮かびかけるのを、スバルは顔をそらして誤魔化した。
「んじゃ、ラム交えて色々話そう。ホントに、マジで語り尽くせないぐらいに話したいことがあるんだけど、それも今の山場を越えてから、だ」
「うん、わかった。すごーく気になるけど、今はそうしましょう」
エミリアの手を引いて、彼女がそれに逆らわないのに気を良くしながら、スバルは部屋の外へ向かって歩き出す。
先に出ていったラムと合流し、屋敷から持ち出すものの準備などを手伝わなくては。村人たちの避難誘導も、ユリウスやヴィルヘルムがうまく回してくれているだろう。
懸念されていたスバルの自分の心と、エミリアと向き合う姿勢の決着も、完全な答えこそ先延ばしだがとりあえずは出た。
重荷を肩からおろしたような、そんな感覚の中、ふいに手を引かれる。
「スバル、これだけは今、言わなきゃと思うから」
「うん?」
足を止めたエミリアに引かれて、スバルもまた立ち止まって振り返る。
そして、疑問符を浮かべるスバルの顔に、エミリアは一度だけ呼吸を止めて、それから花の咲いたような笑顔を浮かべると、
「おかえりなさい」
――その笑顔のために、ここへ帰ってきたのだと強く思った。