『水面に映る幸せ』


 

――息を吸い込み、今しがた出てきたばかりの墓所の中に挑む。

 

月明かりさえ遮断される石造りの墓所の中において、光源はわずかに青白く発光する壁の薄明かりのみ。大気中のマナの集積しやすい土地などでは、こうした自然の発光現象が視界確保に役立つことも珍しくない。

 

もっとも、こうした人工的な建造物が自然的に発光することは珍しく、おそらくは建築上の仕組みで理論的にその発光現象を再現しているのだ。

魔法器のように、必要なマナさえ供給できれば利用できる仕組み――墓所の発光現象にはそういったものに近い理屈が感じられて、エミリアは静かに吐息をついた。

 

この墓所の中だと、どこか微精霊たちの存在を遠く感じる。

存在しないわけではない。そもそも、微精霊というものは大気中のマナと同じで、どこにでもいる存在なのだ。その存在が感じ取れるか、あるいは感じ取れるほどに力を持っているかの違いこそあれ、まったくいない場所はありえない。

 

墓所が特殊に感じるのは、壁の発光現象に応用している仕組みの問題だ。

この墓所の環境は、墓所の内外のマナの行き来をかなり高度に制限している。墓所の中のマナ量が一定量保たれるようになっており、定量以上にも以下にもならないように工夫されているのだ。

壁の発光現象が保たれる程度のマナ量――これは微精霊の維持すらままならないほど微量なもので、それが理由で墓所の内側に微精霊たちの存在感が薄い。いる微精霊にしても、この環境では微弱な力としてしか成長できないだろう。

 

「精霊使いにとっては、すごーく嫌な環境」

 

結論付けて、エミリアはぼやくように呟いた。

第一の『試練』を越えて、追い詰められる感覚からある程度の解放感を得たからか。ようやく周囲を見る余裕の芽生えたエミリアが、墓所に対して抱いた感想がそれだ。

 

自分の内側にマナを貯蔵し、それを使う魔法使いにとってはさほどの脅威ではない。もっとも、貯蔵量を使い切れば補給の手立てがないので、もともとのゲートの数が少ない魔法使いにとっては難のある場所には変わりないだろう。

 

今のエミリアや、ロズワールほどにもなれば戦闘の影響はほぼないが。

 

「そう考えると不思議……外にいるはずのみんなのこと、ほとんど感じない」

 

魔法使いとしての力を取り戻したエミリアの、マナを感じ取る感覚は鋭敏化している。墓所の外にいたときには、制御できないほどに感じた幾つものマナの存在。

おそらくは感覚に引っかかる、ほとんどの生き物のマナ、あるいはオドの存在を拾い切っていたのだ。神経の摩耗も尋常ではなく、早く制御できるようにならなくてはならない。

 

ともあれ、その暗闘とも墓所の中に入ればいったんお預けだ。

代わりに『試練』という難題が待ち構えているのだから、どちらがマシかは知れないが。

 

「ラムに、ああやって頼まれたんだもん。しっかりやらなきゃ」

 

エミリアに向かって頭を下げ、初めて懇願したラムの姿を思い出す。

普段は絶対に弱味を見せようとしないラムが、あれほどまでに感情を露わにしたのだ。それに応えなくして、どうしてこれまでの日々に報いられるだろうか。

 

自分の結果を見届けず、屋敷へ戻ったというスバルからの信頼もある。

エミリアならばできると、そう信じて疑っていなかったが故の行いだ。そのスバルの信頼に応えなくては。というか、むしろ想像よりうまくやって驚かせなければ。

 

「信じてもらえるのは嬉しいけど、それとこれとは話が別なんだから」

 

急いでいたとはいえ、顔も見せずにここを立ったことには物申さなくてはならない。拗ねてみせて、焦らせるぐらいのことは許されるはずだ。

スバルには特に、これからもっともっと大事な話をしなくてはならないのだから。

 

「それに、この空気……『試練』、あるもの」

 

墓所に入った瞬間、エミリアは肌でそれを感じ取っていた。

一度の出入りで『試練』の準備が整うかどうかは半信半疑であったが、建物の中を漂う清涼すぎるほどに清涼な空気は如実にそれを伝えてきてくれた。

 

先送りにする必要はない。

『試練』の間にて、第二の『試練』はエミリアを待っている。

 

「過去は、見た。それなら、その次は……?」

 

何が待ち受けるのか、強張りそうになる頬を張って、エミリアは一度腹を撫でる。

自分の肝が据わっているか、呼吸の乱れで確認。許容範囲、踏み込もう。

 

――当たり前の話だが、試練の間は変わらない佇まいでエミリアを出迎えた。

 

出てきて小一時間も経っていないのだから当然だ。

相変わらず、この部屋だけはマナの集積量が多いのか、わずかに通路よりは視界が確保されている。小部屋の奥、動く気配のない扉のまた健在だ。

三つの『試練』を乗り越えてそこに辿り着いたとき、何が待ち構えているのか。

それを思ったときだ。

 

『――ありうべからざる今を見ろ』

 

「――――っ」

 

聞こえた。

耳元で囁くようなそれは、紛れもない自分の声だ。

 

ありうべからざる今、その言葉の示す意味を考えようとした途端、意識が白む。

強烈な感覚がエミリアの肉体から意識と魂だけを引き剥がし、ここではない別の世界へと引きずり込んでいく。

 

抵抗できず、エミリアは壁に体を預けて崩れ落ち、やがて倒れ込んだ。

視界がぼやけて何も考えられなくなり、意識が沈む。

 

「すばる」

 

最後に自分の唇が何を言ったのか、それすらわからないまま『試練』が始まる。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ほら、リア。どこへ行くの、こっちへいらっしゃい」

 

優しい声に足を止めて、エミリアは振り返った。

エミリアを手招きし、食卓へ招くのは短く銀髪を切り揃えた女性。目つきの悪さ。声の柔らかさ。いずれをとっても、エミリアにとっては理想の女性。

 

「フォルトナ、母様……」

 

「……?寝ぼけてるの?さてはまた夜更かししたわね。もう子どもじゃないんだから、そんな手間ばかりかかるようなことしていないの」

 

歩み寄ってくるフォルトナは、叱るような口調でエミリアの額を指で突いた。

突かれてわずかに赤みの残る額を押さえて、エミリアは目を丸くする。

 

「わあ」

 

思わず、感嘆の声が漏れてしまった。それほど、今の光景はエミリアの胸を打つ。

フォルトナが動きやすさを犠牲にして、エプロンを付けている姿なんて初めて見たからだ。装飾過多にフリフリした白いエプロンは、フォルトナの性格は別として、その美しい見た目にはよく似合っていた。

 

「母様、可愛い」

 

「――っ。急に何を言い出すの、この子は。ホント、寝ぼけてるみたいね」

 

ほんの少しだけ頬を赤くして、フォルトナはエミリアの肩を掴んで振り返らせる。それから背中を押して前に踏み出させると、

 

「水場で顔を洗ってらっしゃい。冷たい水でしゃきっとしたら、今みたいに変なことも言わなくなるわ。リアの場合、目が覚めてもそれは変わらないかもしれないけど」

 

「な、何を言うの、母様。そんなことないわ。寝ぼけてなんてないし……そもそも、私が変なこと言ったことなんてとんとないんだから」

 

「その『とんと』みたいに古い言い回し、どこで覚えるの?みんなに悪ふざけで色々と吹き込まれてないか、私はすごーく心配だわ。あとでアーチを問い詰めなきゃ」

 

不満げに唇を尖らせるが、フォルトナは呆れた顔で頷くばかりで取り合ってくれない。エミリアは自分の意見が通用しないことに愕然としながら、肩を落としてとぼとぼと水場へ向かって歩き出した。

 

「あら、おはよう、エミリア。浮かない顔ね」

「ま、本当だわ。さてはフォルトナ様を怒らせたんでしょう?夜更かしかしら」

「エミリアもお年頃だもの。色々、一人の時間が欲しいときもあるわよねー」

 

家を出て、水場へ向かう道すがら、集落のエルフたちに声をかけられる。

太い木の根に丸く囲まれるテーブルを囲み、世間話をしているのは年長者の集団。フォルトナと同年代と聞いているが、フォルトナ含めて全員がエミリアには若々しく見える。

 

「おはようございます。みんな、朝が早いのね」

 

「エミリアが遅いのよ。お父様のお仕事の手伝いもいいけど、少しは自分のために時間を使わないと若い時間がもったいないわよ」

「そうよそうよ。せっかくエミリアは可愛いんだから、その可愛い時間をうまく使って楽しまなきゃ」

「私がエミリアぐらい可愛くて若かったら、もうとっかえひっかえだわね」

 

とっかえひっかえ、という響きに首を傾げるエミリアの前で、「やだー!」と顔を見合わせて笑い合う女性たち。話の内容はイマイチわからないけれど、みんなが楽しそうなのは何よりだ。

なんとなく嬉しくなってしまい、エミリアの方も緩んでしまう。

 

「ほら、ふくれっ面をしているよりよっぽどいいわ。笑顔、笑顔、そうなさい」

 

「――うん」

 

笑ったエミリアを指差して、それから女性たちは自分の頬を指で笑顔の形に。

彼女らの言い分ももっともだと、エミリアは同じように笑顔を作って頷いた。

 

手を振って彼女たちと別れて、エミリアは水場への道のりを再開する。

うねる木の根を乗り越えて、緑の葉っぱの隙間を抜ける。そうしている間に水のせせらぎがどこかから聞こえてきて、顔を明るくしてエミリアは小走りに走り出した。

 

「とう――ちゃく!」

 

「うわ!エミリアか!?」

 

枝を持ち上げて顔を出した途端、ちょうど目の前で体を拭いていた誰かが驚く。振り返りかけた若者は、飛び出したのがエミリアと気付いて目を白黒させ――、

 

「あ」

「あー」

 

口に手を当てたエミリアの前で、足を滑らせて川にまっさかさまに転落。

水音が大きく鳴って、飛沫を上げながら若者は着水した。

 

「アーチ!大丈夫?」

 

若者が落ちた高台の上から、エミリアは眼下を見下ろして声をかける。

しばし泡だけが次から次へと湧いてくる水面に、少し遅れて金髪の青年が浮かび上がった。彼は顔を手で拭うと、自分を見下ろしているエミリアに手を上げて、

 

「こら、エミリア!人がせっかく水浴び終わるとこだったのを邪魔するんじゃない!」

 

「ごめんね。まさか人がいるなんて思わなくて……でも、アーチでよかった」

 

「どういう意味だよ!」

 

ホッと胸を撫で下ろすエミリアに、アーチは理不尽を罵るように声を上げる。

彼の叫びにエミリアは唇に指を当て、「んー」と小さく喉を鳴らした。

 

「だって、アーチなら仲良しだからきっと許してくれるもんね?」

 

「う……」

 

「私、ずっとアーチのことお兄ちゃんみたいに思ってるから……きっと、今日のことだって仕方ないなあって許してくれるに違いないと思うの」

 

「思うのってなんだ。くそ……人の気も知らないで……」

 

根拠にならない根拠に胸を張るエミリア。エミリア理論を聞かされたアーチは悔しげにうなりながら、口元を水面につけて泡を吐き続けている。

おかげで、彼の言葉の後半は泡に呑まれて聞こえなかった。

 

「それに、私も水浴びしにきたんだもん。隣に飛び込んでもいい?」

 

「は?ば、馬鹿、やめろ!水浴びって、こんな開けたところでか?ダメに決まってるだろ!もっとお前は慎みを持て!いつまで子どもでいる気なんだ!」

 

「えー」

 

「えーじゃない!」

 

「うー」

 

「うーでもない!」

 

飛び込むための準備運動を始めていたエミリアは、アーチからの水浴び禁止令に唇を尖らせる。何をあんなに慌てているのかわからないが、今日のアーチは意地悪だ。

ひょっとしたら、足を滑らせて川に落ちたのをとても怒っているのかもしれない。

 

「アーチ、ごめんなさい」

 

「お、え……ど、どうした、急にしおらしくなって」

 

「落ちたのがそんなに嫌だったのかなって。ごめんね。だから私にも水浴びさせて。じゃないとフォルトナ母様にご飯食べさせてもらえない」

 

「子どもの発想じゃないか!」

 

しゅんとしたエミリアの言葉に、アーチは頭を抱えて叫んだ。

一瞬、水を掻いていた手が止まり、アーチの体がわずかに沈む。つまり、一瞬だけエミリアから気をそらした。

 

「えいっ」

 

「あ!」

 

小さな掛け声、それから日の光が瞼を掠めたと思った直後、浮遊感。

長い銀髪が重力に引かれる体に遅れて上にたなびき、エミリアは足の爪先から勢いよく水の中に着水する。

 

足先から水に入ったエミリアの体は無駄な飛沫を一切上げずに、驚くほど静かに深く川底までを一直線に潜った。

透き通る川の水の中、目を開けるエミリアは小魚や水草が流れに揺れるのを見る。川底に足をつき、砂利の感触にくすぐったさを味わいながら急浮上。

アーチのすぐ隣から顔を出して、

 

「――ばあ」

 

「ばあ、じゃない!」

 

濡れた髪を撫でつけて、エミリアは怒鳴るアーチから背泳ぎで距離を取る。

アーチはまだ何か言いたげな顔で眉を寄せていたが、すぐにエミリアに何を言っても堪えないと悟ったのか、深々とため息をつくと泳ぐエミリアの後ろについた。

 

「気持ちいいね、アーチ」

 

「そりゃエミリアは自分から飛び込んだからそうかもしれないな。俺の方は突き落とされた上に、君が飛び込んだときの飛沫も浴びたで散々な気分だよ」

 

「そっか。アーチも楽しいみたいでよかった」

 

「エミリアは本当に前向きな子だな……」

 

褒められた気がして、エミリアは仰向けに浮く体で胸を張ってみせる。

と、アーチはそうするエミリアから顔を背けて、鼻の頭を指で掻いた。頬が赤い。水は冷たいのに、熱でもあるのだろうか。

 

「ひょっとして、体調が悪いの?それで水に落とされて怒ってる?」

 

だとしたら、自分のしたことは謝っても怒られて当然のことだ。

すぐにでもアーチを川から引き上げて、治癒魔法の一つでもかけてあげたいが。

 

「違う、気にするな。そういうわけじゃないんだ。……その、エミリア。あんまり男の前で……違う、人前でそんな風に無防備にするな。仲良しじゃない奴なんか特にな」

 

「……?私、アーチが一番仲良しよ?」

 

「仲良しな相手でもそうだ!えっと……お、俺の前でぐらいにしておけ」

 

「母様はダメ?」

 

「フォルトナ様と、俺と、あの女の人の前だ!」

 

首を傾げるエミリアに大きな声で言って、アーチはますます赤い顔で唇を噛む。それから彼は唸りながら水の中に潜り、眉をひそめるエミリアの視界から消えた。

と思うと、音を立てて川べりに浮上し、水際から岸へと体を引き上げる。

 

「ほら、エミリアもそろそろ上がれ。大体、寝起きなら水浴びじゃなくて顔を洗いにきたって話なんじゃないのか?朝から水浴びしろなんて、フォルトナ様が言うと思えない」

 

「そういえば、そうかも。……それに私、着替え持ってきないし」

 

「ますます何をしてるんだよ、君は……」

 

無防備というより無計画なエミリアの行いに、アーチは呆れた顔つきだ。

泳いで彼の元へ向かうエミリアに、林に駆け込むアーチは大きなタオルケットを持って戻ってくる。

 

「これで体を拭いて、家まで肩にかけて戻るんだ。まったく、いつになっても世話の焼ける子だな、君は」

 

「あはは、ごめんね、アーチ。ありがたくお借りします」

 

さすがのエミリアも、これには反省するしかない。

差し出された手に引かれて川から上がり、渡されたタオルケットで長い髪を拭く。銀髪は朝日を浴びてきらめき、水を吸ったそれはひどく重たい。

 

「……こんなに私、髪の毛長かったっけ?」

 

「何を言ってるんだ?ずっと前から伸ばしてるじゃないか。フォルトナ様と同じ色で綺麗だからって」

 

銀髪の水気をタオルに吸わせていると、アーチがそんな風に言ってくる。

そう言われるとそんな気もするが、その決心自体いつからしたものだったか。

 

いくらか腑に落ちないものを感じながら、エミリアはそれを些細な違和感と目をつむることにした。銀髪の水気をしっかり取って体を拭く。そうしてから川を覗き込み、当初の目的であった洗顔をしようと水に手を伸ばして、

 

「――――」

 

水面に映る自分の顔を見て、エミリアの喉が引きつった。

 

白い肌。紫紺の瞳。桃色の唇。長くきらめく銀髪。いずれも、自分の知る自分の顔のパーツそのものだ。何も変わらない、おかしなことなんてない。

 

そんなはずがない。

おかしなこと、変なこと、違ってしまったこと、それ以外の何もない。

 

「ぁ……ふ……」

 

ぺたぺたと、自分の頬に触れながらエミリアは途切れ途切れの息を吐く。

肺が痙攣したようになり、うまく呼吸ができない。内臓が絞られるような感覚がして、まるで痒いような痛いような圧迫感が全身に駆け巡っていた。

 

「エミリア、どうした?」

 

そのエミリアのただならぬ様子に気付いて、アーチが低い声を出す。

彼は水面を眺めたまま動けずにいるエミリアの肩に触れて、後ろから頭を撫でる。

 

「何か、変なものでも水の中に見つけたか?」

 

「……ちがう」

 

「急にお腹でも痛くなったか?俺は治癒魔法は使えないから、誰かのところまで連れていってやらなきゃいけないが……」

 

「そうじゃ、ないの」

 

心配してくれるアーチの声と掌を感じながら、エミリアは水面から目を離せない。

アーチはそのエミリアの視線を辿り、彼女が何を見ているのかに気付いたようだ。おずおずと、水面に映るエミリアを指差して、

 

「自分の顔が、どうかしたか?いつもと同じで、綺麗な顔をしてると思うけど」

 

「大人だ……」

 

「え?」

 

「大人の顔に、なってる。……私、自分の顔、見たことないのに」

 

知らない顔が水面に浮かんでいるのを見て、エミリアは震える声で呟いた。

これが自分のものでない可能性は、確かめるように触れる手が同じ動きをしたから否定された。この顔は、自分のものだ。見たことないはずの、自分のものだ。

 

「……私」

 

その一つの決定的な違和感に気付いてしまえば、次々と齟齬が浮き彫りになる。

 

見下ろす体は胸が膨らんでいる。髪の毛も、こんなに長くなかった。

手足は自分の記憶より長いし、アーチとの体の大きさももっと差があったはずだ。

 

エミリアを見る、みんなと交わした会話の内容も捉え方が変わってくる。

そもそもエミリアは何度、もう子どもじゃないんだからと言われただろうか。

 

その通りだ。

 

「――行かなきゃ」

 

「エミリア?」

 

立ち上がり、エミリアはわずかに頭を揺らして背後へ振り返る。

自分が通り抜けてきた森と、集落。そして、送り出されてきたフォルトナの待つ家。

 

そこに戻らなくてはならない。

まだ、何をしなくてはならないのか判然としないが、それだけは動かし難い真実。

 

「アーチ、ごめんなさい。私、フォルトナ母様のところに戻るね」

 

「あ、ああ……それはいいけど、体は大丈夫なのか?」

 

「もう大丈夫。水浴び、邪魔してごめんね。このタオルケットも、大丈夫だから」

 

肩にかけていたタオルを外して、エミリアは戸惑うアーチへと押し付ける。

アーチがそれを受け取ったのを確認して、エミリアは素足のままで駆け出した。一刻も早く、フォルトナの待つ自宅へ――その背中に、

 

「エミリア!」

 

アーチの声がした。

止まっている暇はないと心が逸っているのに、エミリアの足は止まってしまった。まるで、アーチの言葉を一つでも聞き逃してはいけないと誰かに訴えかけられたように。

 

振り返るエミリアを見て、アーチは小さく手を上げた。

 

「何があったのかわからないけど、困ったらいつでも相談しろよ!俺は……エミリア、君の兄弟みたいなものなんだから!」

 

一瞬だけ口ごもり、それでもアーチは力強い言葉をエミリアへ投げ渡してくれた。

なぜだろう、その言葉を聞いて、エミリアの胸に込み上げてくるものがある。

 

言われて嬉しい言葉だったのは間違いない。

だけれど、この胸の奥から湧き上がるそれは、ただの喜びとも違う気がして。

 

「うん……!ありがとう、お兄ちゃん!」

 

手を振って、エミリアは顔を赤くするアーチに応えて、再び走り出した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「……顔を洗いにいったはずなのに、どうしたら全身びしょ濡れで帰ってくるようなことになるの?母様はそれが不思議でならないわ」

 

頭から足先までを濡らして戻った娘を出迎えて、フォルトナは呆れた顔で嘆いていた。

 

水場から戻ったエミリアの格好は、髪と見えるところだけはタオルケットで拭いたものの、着ていた白い服は肌に張り付いているし、絞ってもいないからスカートの裾から水がぽたぽたと滴っていた。

 

「ごめんなさい、母様。ちょっと……すごーくちょっとだけ寝ぼけてて」

 

「その寝ぼけてるのを解消するために顔を洗いにいったのに、ずいぶんと元気よく解消してきたのね。ホントに、いくつになっても子どもなんだから。その格好、誰かに見られたりしてない?」

 

濡れ鼠になっているところを見られては恥ずかしい、という意味だろうか。

そういう意味なら、帰り道は奇跡的に誰ともすれ違わなかったと思う。

 

「ん、大丈夫。アーチにしか見られてないから」

 

「そう……アーチに。まあ、あの子なら……でもアーチも最近、エミリアを見る目がちょっと昔と違ってきてる気が……」

 

「母様?」

 

「ああ、うん、いいえ、なんでもないわ。とにかく、いらっしゃい」

 

目を伏せるエミリアを仕方なさそうに見て、フォルトナは娘の頭を撫でると家の中へと手を引いてくれる。ただ、今も服からは水が滴っていて。

 

「母様、お家の中が濡れちゃう」

 

「あとで拭いたらいいだけよ。それより、タオルケットがあるから、それで拭きながら部屋で着替えてらっしゃい。戻ったら、朝ご飯にするから」

 

森の木をくり抜いて作られた住居は、年長の大樹にマナの力を注いで変形させる一点物だ。エミリアとフォルトナの家もフォルトナの手製で、二人で住むにしてはかなり大きな家になっている。二階に二人のそれぞれの部屋と、一階には食事をするスペース。

贅沢な空間の使い方だと、今にしてみれば思いもする。

 

――今にしてみれば、とはおかしな感覚だった。

 

「ほら、いってらっしゃい」

 

「わふ」

 

考えごとをする顔にタオルを押し付けられて、エミリアは抗議の目をフォルトナへ向ける。が、腰に手を当てて自分を見る母の視線にあっけなく敗退。

顔に当てたタオルから香るお日様の匂いを嗅ぎながら、エミリアは二階の自分の部屋まで体を拭きながら戻った。

 

戻った自分の部屋は、簡素なものだと思う。

フォルトナもそうだが、エミリアもあまり無意味な装飾品を好みはしない。部屋には最低限の家具と、ちょっとした調度品。着替えの入った木箱があり、しゃがみ込んだエミリアは適当な服を引っ張り出すと、濡れた服を脱いでさっさと着替えてしまう。

 

部屋の内装と同じで、服飾に拘る感覚もエミリアにはない。

上下一体の、一着で済む袖の短い着衣を頭から被って着ると、下着を取り換えて部屋を出た。――意識的に、衣装箱の隣にあるものを見ないようにしながら。

 

「フォルトナ母様。濡らしたお着替えは自分で洗うから……」

 

「それはそれは、親孝行で非常に良いことだと思います」

 

「――――」

 

洗濯物を籠に入れて階下へ降りたエミリアを、男の声が出迎えた。

優しく、慈しみに満ちた声にエミリアは息を詰めて、それから食卓の方を見る。

 

フォルトナとエミリア、普段は二人だけで囲む食卓に椅子が一つ多い。それは、この家に招かれる特定の誰かがあるとき、フォルトナが家の奥から運び出してくる椅子だ。

当然、その椅子に座る人物も見知った人物で、

 

「ジュース」

 

「ええ、お久しぶりですね、エミリア様。その後、お変わりはありませんか?」

 

「私は、うん、いつも通り。ジュースの方こそ、すごーく久しぶりだわ。今日くるなんて聞いてなかったのに、どうして?」

 

「おや、そうなのですか?ちゃんと事前に、我が指先にお願いして連絡したはずですが」

 

柔和な顔立ちの男――ジュースは自分の顎に手を当てて考え込む仕草。人の好い彼は本気で悩んでいるようだが、エミリアには犯人がすぐにわかった。

ジュースの隣を抜けて、食事の準備をする調理場を覗き込むと、口元に手を当てて笑いを堪えるフォルトナの姿があった。

 

「母様、さては内緒にしてたでしょう」

 

「ふふ、どうかしらね。私も単純に、忘れていただけかもしれないじゃない」

 

「そんなはずないでしょ。ジュースの椅子だってあるし、ご飯も三人分だもの」

 

「あら、目ざとい。普段は抜けてるのに、こういうときだけ勘が働くんだから」

 

自分を睨むエミリアに片目をつむり、フォルトナは口笛を吹きながら皿を持ち上げる。それからそれをエミリアへ差し出すと、

 

「ほら、リアも食事の配膳を手伝って。自分じゃなんにも作れないんだから、後片付けぐらいは頼んでもいいわよね」

 

「むぅ……誤魔化した。それに、私がなんにも作れないのは母様が教えてくれないからじゃない」

 

「シュガーとソルテは絶対に間違えるし、まず刃物の持ち方がまともにできない子には恐くて厨房になんて立たせられないわ」

 

反論するエミリアを封じ込めて、フォルトナは次々と料理を持って食卓へ。エミリアは釈然としないながらも、すごすごとフォルトナの後ろに続いて食卓へ戻った。

テーブルの前で待つジュースが、良い香りの漂う食卓を見て口元を綻ばせる。

 

「こうしてフォルトナ様のお料理にご相伴させていただけるのは、非常に光栄なことですね。何度味わわせていただいても、喜びは色褪せません」

 

「またあなたはそういうことを簡単に言うんだから」

 

「素直な気持ちを伝えたまでですが?」

 

「それが性質が悪いって言ってるのよ」

 

料理を並べるフォルトナの横で、ジュースが困った顔を傾けている。

そんな二人のやり取りを見ていて、エミリアは思わず笑ってしまった。さっきフォルトナにやり込められたことなど、それを見ているだけで吹き飛んでしまう。

 

「そんなに母様のご飯が嬉しいなら、ジュースもここに住んだらいいのに」

 

「な、エミリア――っ」

 

野菜の盛り付けられた大皿をテーブルの真ん中に置いて、エミリアは今の話の流れに乗っかってそんなことを言ってみる。途端、フォルトナが慌てた顔で頬を赤くし、ちらちらと隣のジュースを横目にした。

 

「め、滅多なこと言うんじゃないわよ。ジュースだって色々と大変なのに、こうして忙しい合間を縫って顔を出してくれてるんだから……」

 

「大変喜ばしい申し出ですよ、エミリア様。私も、もしできるのであればそうさせていただきたいと、心から思います」

 

焦って否定しようとするフォルトナと、落ち着いて対応するジュースの様子が対照的だ。ジュースの言葉にフォルトナは勢いを殺されて、椅子に腰を落として小さくなる。

並んで座る二人を見て、エミリアもその対面に一人で腰掛けた。

 

――目の前の光景は、エミリアの目にはひどく自然なものに見えて。

 

「母様もジュースも、嫌じゃないならそうしたらいいのに。誰もそんな風になるのを邪魔したりなんてしないわ。あ……ひょっとして、私が邪魔?」

 

フォルトナとジュースの二人が、互いに相手を悪く思ってないのは見ればわかる。

それでも二人が、一定の線引き以上に寄り添おうとしないのには自分の存在があるからなのかもしれない。

しかし、そんなエミリアの不安は、

 

「それはないわ」

「そんなことありませんよ」

 

と、同時に二人が否定してくれたことで杞憂に終わった。

エミリアが目を丸くし、フォルトナとジュースは発言が被ったことに顔を見合わせ、思わず笑い出してしまう。

 

「やっぱり、二人ともすごーく仲良しじゃない」

 

「もう、いつまでもからかうんじゃないの、エミリア。ジュースも叱って」

 

「そうですよ、エミリア様。フォルトナ様は素敵なお方です。私のようなものが長居していては、よからぬ噂が立ってご迷惑になります」

 

「ふーん。でもそれって、もう遅いと思うの」

 

フォルトナを立てて、自分を低く評価しようとするジュース。彼を見るフォルトナの視線にささやかな悲しみが混じるのを見て、エミリアは指を一つ立てた。

 

「だって私、家の外に出るとみんなに言われるもの。フォルトナ母様と、ロマネコンティお父様に迷惑をかけちゃいけないよって」

 

「――――」

 

エミリアの言葉に、二人が揃って唖然とした顔をするのがなんだかおかしかった。

口に手を当てて笑いの衝動を押し殺しながら、エミリアは息を整えると、

 

「ホントのこと。昨日の夜更かしだって、私はジュースがくれた昔の本と地図との違いを埋めようって夢中になってて……みんなはお父様のお仕事手伝って偉いねって」

 

「そ、そんなこと、誰が……」

 

「向かいのテヘナさんとか、ミットさんとタンセおば様も」

 

「あの井戸端三人衆……!」

 

思い当たる三つの顔を宙に描き、フォルトナは憎々しげに唇を噛んだ。

鋭い眦がキリリと持ち上がり、ちょっと怖い顔になっている。

そんなフォルトナにエミリアは「まあまあ」となだめるように声をかけてから、

 

「とにかく、みんなはもうそんな風に思ってるの。私も、その、えっと、色々考えて、悩んでみて、うーんと、えーっと、それで……」

 

「エミリア様、何も無理にそんなに考え込まずとも」

 

「ち、違うの!いいとは思ってるのよ?ただちょっと、お母様を取られるみたいで気持ちが落ち着かないだけで!」

 

周りがこれだけ準備万端なのに、当事者二人と自分の気持ちだけが浮ついている。

もともと、こういったものはそういうものなのかもしれないが、せめて二人だけの問題ならまだしも、そこに自分の感情が邪魔として入るのは避けたかった。

だって、エミリアから見たって、二人はお似合いなのだから。

 

「私、すごーくいいと思うの。だから、二人も考えてみて」

 

「――――」

 

「森のみんなも、私も、誰も邪魔なんてしないわ。それが悪いことやダメなことだなんて、私が絶対に誰にも言わせないから!」

 

テーブルを叩いて、エミリアは熱弁を振るってしまう。

言い切ってから自分が熱くなりすぎたことに気付いて、エミリアはハッとした顔をする。自分を見る二人の視線の前で髪を撫でつけて、ゆっくりと席に座る。

 

「な、なので……あとは若い二人に任せて、どうぞ」

 

「エミリア、本当にそういうのどこから覚えてくるの?」

 

赤面するエミリアの一言に、フォルトナの見慣れた呆れの表情。けれど、その表情はすぐに堪え切れない笑いの衝動に吹き消されて。

 

「ふ、ふふふ」

 

「はは、エミリア様は……なるほど、ご成長されました。お変わりないなどと、あまりにも私の見る目のないこと」

 

「そうよ、ジュース。私の自慢の娘なんだから当然でしょう」

 

「はい、おみそれしました」

 

笑い、顔を見合わせてそんなやり取りを交わすフォルトナとジュース。

二人の間に漂う雰囲気は先ほどより柔らかく、エミリアは自分の言葉で何かが変わってくれたのだとぼんやりと感じた。

 

温かなものが、二人の間に満ちている。

向け合う視線にもきっと、それまでとは違う色が混じっている。

 

――それは、ひどく幸せな光景で。

 

「……エミリア?」

 

ふと、視線をこちらへ向けたフォルトナがエミリアの名前を呼んだ。

その声に息を呑んで、エミリアは自分の目元を手で覆う。流れ出しそうな涙を慌てて拭って、エミリアはわざとらしく「あー」と声を出した。

 

「私、目にゴミが入っちゃったかもしれない。すごーく大きいゴミ」

 

「そんなに?大丈夫?」

 

「大丈夫、拳ぐらい」

 

「だ、大丈夫なのですか?」

 

「大丈夫なの!」

 

心配する二人に応じて、エミリアは目をごしごしとやりながら立ち上がる。

それから食卓を立って、二階への階段へ足を向けた。

 

「ちょっとよく効く目薬を差してくるね。目が取れちゃうぐらいスッキリするやつ」

 

「エミリアの目は綺麗な紫紺の瞳だから、捨てちゃうようなことしないでね。兄さんそっくりの、綺麗な目なんだから」

 

「それと、母様とおんなじ綺麗な色ね」

 

そう返されるとは思っていなかったのか、エミリアの言葉にフォルトナが驚く。そのフォルトナの横顔にジュースが笑うのを見て、エミリアも笑った。

笑って階段に足をかけて、エミリアは二人に振り返り、

 

「先に食べててね。すぐ戻るから」

 

「冷めたらおいしくなくなるから、ホントにすぐ戻るのよ」

 

「うん、すぐすぐ」

 

「では、ゆっくりお待ちしておりますよ、エミリア様」

 

フォルトナとジュースの言葉に送られて、エミリアは大きく息を吸った。

それからもう一度だけ振り返り、食卓に目を落とす二人を見て、

 

「――二人とも、大好き」

 

そう言って、エミリアは自室へと戻った。

 

自室の扉を閉めて、エミリアは体の中の空気を全て吐き出す勢いで息を吐く。

ぎゅっと体の中身が絞られた感覚、それから気合いを入れるように頬を叩き、頭を振ってから部屋の隅っこへ歩き出した。

 

エミリアの服が入った木箱の隣には、薄い布のかけられた細長いものがある。

これまで、エミリアはこれに手を伸ばそうなんて思いもしなかったが、

 

「向き合わなきゃ、始まらないってことなんだよね」

 

勇気を、ください。

エミリアは自分の唇にそっと指で触れて、温もりを思い出しながら手を引いた。

 

布が落ちる。

そこにはエミリアの頭から足先まで映す、磨き上げられた姿見があり、

 

「――あるべきだった幸せの光景は、君に何を与えた?」

 

本来映るべきその場所に、白髪の魔女が立っているのが見えた。