『名前』


 

「ホント、スバルってすごーく頑張り屋さんよね」

 

「え、そう?」

 

と、銀鈴の声音に称賛され、スバルは小鼻を膨らませた。

バケツの水から引き上げた雑巾を絞り、熱心に床を拭いていたところだ。客室の清掃中だが、そこへひょいと顔を見せたのが、件の声の主、エミリアである。

彼女は自身の長い銀髪を手で撫で付けながら、「うん」と何気なく頷いて、

 

「魔獣のことであんな騒ぎがあったばっかりなのに、病み上がりですぐお仕事を始めてるんだもの。ビックリしちゃう」

 

「へへ、それほどでも……あれ!?これ、もしかして病み上がりの奴が無茶すんなってお説教されてる!?」

 

「え、そんなつもりなかったんだけど……でも、言われてみたらそうかも。ダメよ、スバル。もうちょっと安静にしてないと」

 

「げえ、藪蛇」

 

素直に褒められておけばよかったと、スバルは自分の深読みを後悔する。

しかし、そんな反省をするスバルの前、エミリアの肩のあたりで「ふっふっふ」という第三者の声がし始める。

それはもぞもぞと、エミリアの銀髪の中から這い出てくる灰色の小猫だ。

 

「かかったね、スバル。リアに素直に褒めさせたら、その裏を読もうとして深みに嵌まると考えたボクの思惑通りに」

 

「パック、お前……なんて迂遠な手口を!目的はなんだ!」

 

「ふっ、決まってるじゃないか。ボクは気紛れな猫精霊だもの。その可愛さと毛深さで人の心を惑わすみたいに、これも悪戯心……にゃんにゃんにゃん」

 

「もう、パックったらまた変なこと言って。スバルを困らせちゃダメじゃない」

 

悪い顔をした小猫の精霊が、悪事の告白中に耳を摘まれて敗北する。それをしたエミリアは片手にパックをぶら下げたまま、スバルに「ごめんね」と謝った。

 

「勉強も一段落して、ちょっと屋敷の中を歩いてたところだったの。そしたら、パックがスバルを見つけたって言うから……」

 

「いやいや、全然いいって。俺としちゃ、一日に一秒でも多くエミリアたんと一緒にいたいんだ。むしろ、ここは企てたパックに感謝しなくちゃだぜ」

 

「そう?よくわからないけど、怒ってないんならよかった。ホッとしちゃった」

 

「わかんなかったかなぁ!恥ずかしいぐらいストレートに伝えたのに!?」

 

微笑んだエミリアが、スバルの訴えに形のいい眉を顰め、首を傾げる。

わりと直接的な好意の表現だったのだが、悲しいかな、エミリアにはうまく届いてくれなかった模様。これ以上となると、もはや直接的な言葉しかないが。

 

「それは伝えるシチュエーションとかムード、吉日を選びたいのが男子の心意気……」

 

「あとは夜をおススメするね。ボクが起きてる時間だと、絶対邪魔するから」

 

「いっそ潔いぐらいの父性を発揮してくるな」

 

娘の交際を許さないのは世の父親の常だが、それが異世界で毛むくじゃらであったとしても変わらない、というのがパックを見ているとよくわかる。

そんなパックをじと目で見ると、猫精霊はエミリアの肩でぐっと胸を張り、

 

「当然だよ。リアの可愛さを思えば、寄り付いてくる虫は尋常じゃない数いるからね。ボクが張り切って追い払わないとキリがないでしょ?」

 

「いやいや、ここは早めに虫を一匹選んでおくのも手かと」

 

「目つきの悪い虫なんてお断りだよ。それに、リアに虫を近付けるなんて変でしょ。ちゃんとリアに似合いの子を、千年くらいかけて探すよ」

 

「神話レベルのスケール!」

 

親バカここに極まれりだが、問題なのはハーフエルフと精霊の組み合わせだと、本気で千年ぐらい待ててしまう可能性があることだ。

生憎と、スバルは人間なのでそこまでのスケール感には太刀打ちできない。

 

「めちゃくちゃ頑張って、百二十くらいが限度じゃねぇかな……」

 

「――?さっきから何の話なの?」

 

「ああ、今のは俺の寿命の話だよ」

 

「寿命って……やだ、スバル、変なの。まだまだ子どもなんだから、そんなこと心配するのは早すぎるじゃない」

 

「うーん、認識の差がある……」

 

くすくすと口元に手を当て、エミリアがとびっきりのジョークを聞いた風に笑う。

そんなエミリアの笑みに苦笑いしつつ、しかし、意中の女の子の笑顔が見れて嬉しい男心。実に複雑なところだが、まずは意識してもらうところからだ。

 

「少なくとも、お子様扱いされてる間は土俵に上がれてねぇと」

 

「いい心掛けだね、スバル。そうだね、まずは一人前になるところからだ。でなきゃ、うちの敷居は跨がせないよ」

 

「ここ、ロズワールのお屋敷でしょ?敷居って?」

 

スバルの静かな決意を聞いて、短い腕を組んだパックにエミリアが疑問符。

とはいえ、スバルの方はそれを聞いても挫けない。やるべきことが定まったなら、あとは目標に向かって一直線だ。

 

「へ、見てろよ、パック。俺はな、コツコツと同じことを毎日続けるのを苦にしないタイプなんだぜ。ゲームのレベル上げとかな!」

 

「ふははは、愚かなりニンゲン。ならば、君が口先だけの若造でないことを証明してみせるがいい。城の最奥で、姫と共に待っておるぞ。ゆけい、姫!」

 

「姫って私のこと?もう、私が目指してるのはお姫様じゃなくて王様なのに」

 

勝手に盛り上がるスバルとパック、その二人と温度差のある対応をしながら、エミリアは涸れ果てるまで雑巾を絞っているスバルに微笑みかけ、

 

「でも、お仕事は頑張ってね。一生懸命やってれば、きっと誰かが見ててくれるから」

 

「誰かじゃなくて、エミリアたんに見ててほしいんだけど……」

 

「はいはい、わかりました。ずっとは見てられないけど、たまにならちゃんと見にくるから。それに……」

 

ほんのりと眉尻を下げ、エミリアがそこで一度言葉を切る。

そして、彼女は言葉の先を待っているスバルに向け、見惚れる微笑を作ると、

 

「頑張ってる自分のこと、一番見てるのは自分でしょう?だから、自分をガッカリさせないためにも頑張らなくっちゃ」

 

と、そう努力の本質を突いて、スバルを惚れ直させたのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

「と、エミリアたんに惚れ直したエピソードを思い出したものの……やっぱり、しんどいもんはしんどいわな」

 

そうこぼしながら、スバルは荒れ放題のテント内を眺めて頭を掻いた。

ヴォラキア帝国の軍人たちが野営している陣地、そこに拾われ、町への補給隊がくるまでの間、雑用係として働かされているスバル。

動けないレムと、無駄飯喰らいのルイに代わって『働かざるもの食うべからず』を実践するスバルにとって、寝床に食事、ケガの治療までしてくれたトッドら帝国人の手伝いをするのは吝かではない心境だ。

ただし――、

 

「こういうことされると、結構応えるんだよなぁ」

 

そうこぼしながら、スバルは地面に散らばっている備蓄品の数々を袋に詰め直す。

無論、いくら帝国人がずぼらな乱暴者だったとしても、自分たちの前線生活を支える物資をここまで適当かつ乱雑に保管するはずもない。

そもそも、このテントの備蓄品は昨日、スバルがえっちらおっちら片したばかり。それがこうまで荒れ放題となっている理由は一つだ。

 

「性格悪い奴からの嫌がらせ……」

 

「あー」

 

「ああ、あとは夜中にお前がこっそり荒らしてたって可能性があるか。いよいよ、その邪悪な本性を現す気になったのか、大罪司教?」

 

「うー?」

 

散らばる資材を片付けながら、隣でこちらの手元を覗き込んでいるルイを睨む。

が、ルイはそのスバルの問いかけに、自分の指を噛みながら曖昧に応じるばかり。どうやら、まだその馬脚を露すつもりはないらしい。

いっそこのまま、永遠に馬脚を隠したままでいてくれればスバルも助かるが。

 

「……昨日のレムの話、俺はどう考えりゃいいんだか」

 

今朝も、起きてからずっとスバルによちよちとついてくるルイ。

足のリハビリのため、別行動中のレムからの険しい視線が思い出されるが、こうしてついてこられて迷惑しているのはスバルの方なので理不尽。

ともあれ、昨日と比べてスバルが彼女を扱いかねる理由が一個増えたのは、まさしくレムから告げられた情報――ルイから、魔女の残り香を感じないという証言だ。

 

「――――」

 

これまで深く考えたことがなかったが、まさか魔女の残り香がスバルの専売特許ということはないだろう。

実際、レムは以前にも魔女教徒相手にそれらの言葉を使っていた覚えがある。ペテルギウスや、奴の率いる魔女教徒に対しても反応していたはずだ。

その点、『死に戻り』するたびに瘴気の濃度を増していくスバルは、こちらに好意的だった頃のレムから見ても異様だったようだが。

 

「ウルガルムに白鯨戦と……定期的に瘴気の力には厄介になってるんだが、やっぱり基本的にはこいつは余計な災難を招き寄せる要素なんだよな」

 

これまでに役立った場面があったことは事実でも、今この瞬間にレムから嫌われる理由となっているだけで、スバル的には瘴気への印象は最低オブ最低だ。

そして、どれだけ考えてみたところで――、

 

「魔女教の関係者……それも、大罪司教が瘴気と無関係なんてありえねぇ」

 

と、そうスバルは結論付ける。

瘴気の発生原因や、具体的な詳細についてわからない以上、これも机上の空論と言われればその通りなのだが、それでも譲り難きことはあった。

大罪司教と『魔女』との繋がりは明白、それが邪悪の顕現たる魔女教徒。

しかし――、

 

「逆説的に、瘴気を漂わせてない奴は魔女教の関係者じゃないって考えられるのか?こいつが目の前にいるってのに、本気で?」

 

「あおー?」

 

思い悩むスバルの横で、ルイはとぼけた顔と声で唸っているだけだ。

そのことに嘆息しつつ、スバルはぐっと体を起こし、散らかされたテントの中の片付けを再開することにした。

立てかけた道具は倒され、並べ直した包みはほどかれて中身をばら撒かれた。

まるっきり子どもの仕業レベルの状況だが。

 

「まぁ、普通に嫌がらせだろうな……」

 

整頓したての天幕が散らかされているのはルイの暗躍ではなく、陣地にいる誰かしらの嫌がらせや横槍という線が濃厚だろう。

帝国人の陣地にいる以上は当然だが、トッド以外の人間とも接点はある。そして、彼らの態度は大抵の場合、こちらに友好的とは言いづらい。

その点はトッド自身、自分は変わり種だと話していた通りなのだろう。

 

「とはいえ、いきなりぶん殴られたり、靴食わされたりするよりずっとマシだけども」

 

幸せや平常運転の基準が下がっていると言われれば否定できないが、実際、そうした手痛い歓迎を受けていない分だけ状況は楽と言える。

 

こう言ってはなんだが、遠巻きにされたり煙たがられるのにスバルは慣れていた。

伊達に高校生活のデビュー戦で躓いて、以降二年近くもずっと浮いていたわけではないのだ。積極的なイジメこそなかったが、苦い空気扱いならば百戦錬磨。

そう考えると、高校時代の同級生たちは気のいい善人揃いだったのだろう。

スバルのことを空気のようには扱っても、わざわざ空気に嫌がらせしたり、痛めつけて愉しんだりしようとは考えなかったのだから。

 

「そんな心優しいみんなが、向こうで大成してくれてることを祈るぜ。わざわざ俺のところにプリント届けてくれた稲畠くんとか、ビッグになってくれてるといいな」

 

もはや顔も薄ぼんやりな同級生を思い出し、スバルは昨日よりかは短時間で、昨日と同じぐらいまではテント内の整頓を完了する。

とはいえ、掘った穴を埋められてそれをまた掘り返したみたいな話なので、今日の仕事の収支としてはマイナスへ振り切った状態だ。

頑張りは誰かが、少なくとも自分が見ているとは以前、エミリアに言われた言葉で、スバルもそれを支えにしたいところだったが。

 

「現状、見てるのがお前ってんじゃやる気の足しにもならねぇ。せめて、レムが見ててくれるんなら俺の気分もだいぶ違うんだが……」

 

「おー、うあー」

 

怒られて少しは学んだのか、今日のルイはひとまずスバルの仕事の邪魔はしなかった。それだけでも助かると、スバルは次のテントへ移るために外へ出て――、

 

「――うお!?」

 

ちょうど天幕を出たところで何かに足を引っかけ、盛大にすっ転んだ。

思わずとっさに地面に手をつくが、右手はともかく、左手はわずかに痛む。治りかけとはいえ、治りきっていないのがレムの残した爪痕だ。

そのため、「ぐ……っ」と呻きながら、スバルが後ろを見ると、

 

「よお、腰抜け。みっともなく地面に這いつくばってどうした?」

 

「あんたは……」

 

目を丸くしたスバルの眼前、天幕の入口のすぐ脇に立つのは野卑な印象の男だ。

右目を覆う眼帯と浮いた無精髭、荒くれという言葉がそのまま具現化したような風貌の人物で、この陣地でスバルに靴を食わせた張本人。

確か、トッドの口からは――、

 

「ジャマルって、そう呼ばれて……がぁっ!?」

 

「ジャマルさん、だ。連れの女共々、躾のなってやがらねえ奴だな、オイ」

 

呼び捨てたとそう判断した瞬間、男――ジャマルが直接的な行動に出た。

ジャマルは転んで地べたに倒れるスバルの左手、添え木と包帯を巻いたままの指を踏みつけにして、じりじりと踵で躙ってきたのだ。

ギリギリと、踏まれる指が痛みを再発する。それに、スバルが喉の奥で悲鳴を押し殺しながら耐えていると、

 

「あーうー!」

「ああ?」

 

その、スバルの手を踏みつけにするジャマルの足に、喚きながらルイがしがみついた。少女の体重は軽く、鍛えられた体格のジャマルは小揺るぎもしない。

そのまま、しがみつくルイの長い髪を掴み、無理やり引き剥がす。

 

「おい、子どもだぞ!」

 

それを見て、思わずカッとなって口走るスバル。

その訴えを聞いたジャマルは不愉快そうに口の端を歪め、ルイの髪を掴んだ手をぐっと引き上げ、少女に「あー!」と悲鳴を上げさせた。

 

「ガキだからなんだってんだ?大体、聞いた話じゃ、てめえはこのガキにはやけに冷たく当たってるってな?それがいきなり宗旨替えか?」

 

「ちが……そいつを刺激しすぎると、あんたの方が後悔することになるぞ」

 

「言うに事欠いてくだらねえ。もっとマシな言い訳を作れよ」

 

鼻を鳴らし、ジャマルが腕を振るってルイを地べたに投げ飛ばす。転がったルイは掴まれた髪を引き寄せ、頭を抱えて「うーっ」と涙目でジャマルを睨んでいた。

正直、ジャマルの暴挙が引き金となって、ルイが元に戻らないとも限らない。スバルが口走った苦し紛れの発言も、完全に出任せというわけではなかった。

幸いというべきか、その痛みと怒りが原因で元のルイの性格が覚醒する様子はない。この場合、誰にとって幸いだったのかは判断に困るが。

 

「躾のなってねえガキだ。いいや、ガキに限った話じゃねえ。てめえも、もう一人のあの女も、一人残らず気に入らねえよ!」

 

「ぐおっ!」

 

喋りながら怒りが込み上げたのか、ジャマルがスバルの横っ面を蹴り飛ばす。思わぬ一発に口を開けていて、歯で盛大に口内が切れた。血が、ぼたぼたと溢れ出す。

一瞬で鉄錆臭い味わいが舌の上に広がる中、スバルはジャマルを見上げ、

 

「んべっ……一応、俺たちはトッドさんに身元は保証されてるっつーか、ここで過ごしていいって言われてるんだが……」

 

「は、トッドさんね。ずいぶんと懐いてるじゃねえか。それが頼みの綱か?」

 

「――――」

 

「生憎、あいつより俺の方が階級は上だ。頼み事を聞いてやらないわけじゃねえが、言いなりにならなきゃならねえ理由なんかねえよ」

 

荒々しい声で言って、ジャマルがスバルへ再び踏み込む。とっさに体を丸めて頭を守ったが、今度の蹴りはスバルの腹へねじ込まれた。

爪先に胃袋を掻き混ぜられ、衝撃に呻くスバルへ、執拗に蹴りが及ぶ。

 

「最初、川べりじゃてめえの女に部下が二人もやられてんだ。使い物にならなくなったあいつらは送り返さなきゃならねえ。とんだケチがついた。この落とし前は付けてもらわなきゃならねえってのに……トッドの野郎、余計なモノ見つけやがって」

 

「――ッ」

 

「てめえがあのナイフを持ち歩いてなきゃ、八つ裂きにしてそれでしまいだった。軍人ってのは辛いぜ、なぁ?」

 

執拗な蹴りと、こちらの神経を逆撫でする発言。

見下ろしてくるジャマルの隻眼を見上げるまでもなく、相手の狙いは明白だ。

 

ジャマルの狙いはスバルを痛めつけることではない。その先にある。

大方、スバルを挑発して反撃させ、無礼討ちにでもするのが目的なのだろう。

トッドの言葉になど耳を貸さないと言ったジャマルだが、完全にそれを無視できない関係なのは、最初に靴を食わされたときのやり取りからも窺えた。

だから、ジャマルは理由が欲しいのだ。スバルを殺せる理由を。

 

ひいてはそれは、レムに対して報復を行うための理由でもある。

だったら、スバルは挑発に乗ってなどやらない。

ジャマルの下種な悪意をレムに向かせないためならば、スバルの左手の指が再び折られても、残りの指が折られたとしても、スバルの勝ちだ。

そのためにも、耐えて耐えて耐えて、耐えて――、

 

「――おい、そこで何してる?」

 

「ちっ」

 

そうしてスバルが耐え忍ぶのを続ける最中、ジャマルとは別の声が飛んでくる。途端、舌打ちしたジャマルが足を引いて、ゆっくりと後ずさった。

すると、そこへ足音を立てながらやってきたのは、橙色の髪の青年だ。

 

「用もないのにこっちに向かったって聞いてきてみたら、やっぱりお前さんか」

 

「トッドか。やけに過保護じゃねえか。帝都所縁の短剣がそんなにお気に入りか?こんな腰抜けに媚び売ってまで、よ」

 

「……ジャマル」

 

目を細め、ジャマルを睨みつけるトッド。両者の間にいくらか険悪な雰囲気が流れ、しかし、その雰囲気は「やめだ」とジャマルが言うことで断ち切られる。

一方的に空気を割ったジャマルは、直前まで足蹴にしていたスバルを見下ろし、

 

「これに懲りたら、俺の目の届く範囲じゃ足下に気を付けるんだな。また、今みたいにすっ転んでも知らんぜ?はははは」

 

そう、スバルへ振るった暴力などなかったと念押しし、トッドの横を抜けていく。

スバルも、それを止める言葉を持たない。ここで被害を訴えれば、それはジャマルの挑発に乗ったのと同じことだ。

そのまま、ジャマルの背中が完全に見えなくなってからスバルは体を起こした。

 

「ああ、クソ……痛ぇな……。あの野郎、女の腐った奴みたいな性根しやがって。やることが陰湿なんだよ……」

 

レムへの恨み節満載といった風情だが、ようは性格が悪いのだ。

そもそも、最初にレムにやられたというのも、どうせジャマルが高圧的に、あの調子でレムを挑発したのが理由ではないのか。

無論、記憶のないレムが早とちりから手を出した可能性はあるが。

 

「それは、レムは何もわからないんだからしょうがない」

 

と、レムにダダ甘な判断を下しながら、スバルは口の中の血が混じった唾を吐き出し、その場にゆっくりと立ち上がった。

 

「お前さん、平気か?ジャマルに絡まれて災難だったな」

 

ふらふら状態のスバルに、トッドが顔をしかめながら声をかけてくる。彼がきてくれなければ、なおもジャマルの暴行は続いていただろう。

それを中断させてくれて感謝だ。だが、それよりも――、

 

「俺はいい。それより、レムの方を……」

 

「あの嬢ちゃんなら、炊事を手伝ってるよ。椅子に座らせておけば手際はいい。ジャマルも、人目があるとこでは何もしない……はずだ」

 

確証に欠けた物言いでは、スバルを安心させることはできない。

口元の血を拭い、スバルは自分の左手を見た。添え木が外れ、包帯が解けている。一時は治りかけたはずの指は、再び嫌な色に変色し始めていた。

 

「あちゃ……それだと、また手当てしなきゃダメそうだ。まったく、ジャマルめ」

 

「……あいつ、どんな奴なんだ?」

 

「ジャマルか?俺とは軍人になった同期で、出世頭だよ。下級貴族の出で、三将への昇格も夢じゃないって……あー、三将ってわかるか?」

 

「いや、知らない。階級?」

 

スバルが首を横に振ると、トッドが「そうだ」と指を立てて頷いた。

彼の説明によると、ヴォラキア帝国の軍人には『将』と呼ばれる階級制度があるとのことだ。兵卒、上等兵、三将、二将と上がり――、

 

「一将となると、帝国にも九人しかいない別格。皇帝直属の武人で、『九神将』って呼ばれてる。まぁ、そこまでいくともう家柄とか功績の問題じゃない」

 

「才能ってことか」

 

「そういうことだ。だから、俺たちみたいな凡人は三将あたりを目指すのさ」

 

悲惨さのないトッドの話を聞いて、スバルは先のジャマルの態度を思い返す。

『将』とはつまり、軍隊における士官の役割を果たす立場だと思われるが、ジャマルにその器があるとはとても思えなかった。

自分本位で共感性が低い。わかりやすい、無能な上官タイプだ。

 

「戦場だと、後ろから流れ矢に当たって死ぬ兵士が結構いるらしいって、トッドさんの口からあいつに伝えておいてくれ」

 

「おっかないことを。それで、手当てはどうする?」

 

「お願いできるか?……先に、レムの顔を見てからで」

 

「やれやれ、べた惚れだねえ。……こっちの嬢ちゃんは可哀想に」

 

指の痛みを押してでも、レムの無事の確認が最優先。そんなスバルの姿勢に、肩をすくめたトッドが水を向けたのは、テント前で丸まっているルイだ。

ジャマルに引っ張られた髪の毛を指に絡め、獣みたいに低く唸っている。

 

「やられっ放しは性に合わないって顔だ。負けん気の強い子は好きだね」

 

「あー!うー、あー!」

 

トッドの笑みを向けられ、それに応えるみたいにルイが吠える。

気に入ったなら、いっそ引き取ってくれないかと口にしかけ、それがレムに伝わってまた怒られるのは御免だと、スバルはお口にチャックした。

 

△▼△▼△▼△

 

「――その臭い、またケガを増やしたんですか?」

 

「う……わかる?」

 

「わかります。子どもが見てるんですから、弁えた行動を心がけてください」

 

とは、昼食時に同じテーブルを囲んだレムの忠告だった。

その内容には頷けない部分がありつつも、逆らうメリットがないので頷いておく。そのスバルの横で、それを真似したルイが頷いていた。

 

ジャマルの陰湿なイジメを受け、トッドの厚意で治療を受けたあとのことだ。

一度、レムが無事であることを確かめたあと、治療用テントで手当てを受けたスバル――治療の担当者にはまたきたのかと呆れられたが、それを済ませたあと、別の天幕の片付けを終えて、昼食時に合流した形だ。

 

陣地での昼食は配給制に近いもので、配給所から受け取った人間から適当な集まりを作り、順次片付けていくシステムとなっていた。

レムがその食事の準備と給仕を手伝っていたのと、余所者の遠慮ということで、スバルたちは最後の方、ほとんど残り物をいただく形だった。

 

「まぁ、贅沢は言えた立場じゃない。食えるもんがあるだけ御の字御の字」

 

と、スバルは自分とレムの分を持ってきて、端っこの小さなテーブルにそれを並べる。ルイも、生意気にスバルと同じように自分の分は確保していた。

そうしてそれぞれ不本意な三人で食卓を囲み、遅めの昼食をいただくとする。

 

「昼までどうしてた?なんか苦労はなかったか?」

 

「特にはありません。足のことも気遣っていただきましたし……私がお手伝いしたことなんて、ちょっとした炊事のことだけです。それも教わりながらですし」

 

「教わりながら……こう、体が覚えてたりとかは?」

 

「――――」

 

矢継ぎ早なスバルの質問に、レムが薄青の瞳を細めて唇を結ぶ。

その反応に突っ込みすぎたかとスバルは焦ったが、レムはすぐに吐息をつくと、

 

「……それを期待していなかったと言えば、嘘になります」

 

「レム……」

 

「あれこれと試してみれば、何かしら手に馴染むものがあるかもしれないと思っていました。でも、そんなの都合が良すぎましたね」

 

そっと自分の手を見下ろして、レムが自分の浅慮を恥じるように呟く。

だが、レムの抱いた期待を浅慮なものと、いったいどこの誰に罵れるだろうか。自分を構成する要素が思い出せない状況で、答えに縋るレムの姿勢を、誰が。

 

「……どうしてあなたの方が辛そうな顔をするんです」

 

「どうしてって、それは……」

 

「――。あなたは、以前の私を知っている。それはわかります。疑うまでもない」

 

目を伏せたスバルを見つめて、そう言ったレムに驚かされる。

ここまで、散々スバルに対して否定的な意見ばかりを述べてきたレムが、初めて見せたに等しい歩み寄りだ。

わかってくれたのかと、スバルの胸に希望が芽生える。

しかし――、

 

「ただ、あなたに何度、『レム』と呼びかけられても、それが私の名前であると受け入れることができません。それは何を言われても、でしょう」

 

「あ……」

 

「もしかしたら、この子が話してくれるなら別かもしれませんが」

 

言いながら、目尻を下げたレムが傍らのルイの頭を撫でる。ルイは撫でられるがまま、目の前の自分の取り分の食事を片付けるのに夢中だ。

その薄情な姿勢もだが、生憎とルイにまともな自意識があったとしても、彼女の口からレムのことが語られることはない。仮に語る口があったとしても、スバルが語らせない。どうあっても、消えない敵意がそうさせる。

 

「なんだなんだ、しかめっ面して。湿っぽい食卓じゃないか」

 

そんな三人の食事の席へ、気安い調子でトッドが割り込んでくる。

気まずい沈黙が落ちかけたところの乱入だ。空気を変えてくれる雰囲気に安堵し、スバルは「トッドさんか」と隣に腰掛ける男を見やる。

さっきのジャマルの件といい、この気のいい男には助けられっ放しだ。

 

「気にかけてくれるのはすげぇありがたいけど、仲間と食わなくていいのか?」

 

「うん?まぁ、付き合いの長い連中だし、今さら一日二日、一緒に飯食わなかったぐらいで関係は変わらんよ。それより、お前さんたちに顔を売っておくさ」

 

「売られても持ち合わせがないんだよなぁ」

 

「そこは出来高、もしくは出世払いって考え方だよ。先行投資と思っておけばいいさ」

 

軽妙な語り口のトッドが、狙っているのかいないのか雰囲気を変えてくれた。そして、トッドは「それにしても」と、ぐっと腕をスバルの肩に回してくる。

そのまま驚くスバルを引き寄せ、彼はスバルの耳元で、

 

「昨日と比べたらちゃんと話せてるみたいじゃないか。仲直りできたのか?」

 

「仲直り……どうだろ。俺の誠意がちょっとは届いたと思いたいけど」

 

「――。聞こえていますよ。打ち解けたと思っているなら勘違いです」

「うー!」

 

つんとした様子で、男二人の会話に不満を表明するレム。ルイもレムの味方のつもりなのか、口を拭いてくれる彼女に協調している様子だ。レムのすげない答えと、彼女に受け入れられているルイの相乗効果で、スバルの胸はずっしりと重みを増していく。

それが肩を組んでいるトッドには伝わったらしく、彼は「おいおい」と回したままの腕でスバルの肩を軽く叩き、

 

「そう落ち込まんことだ。こうして喋れる距離と場所にいてくれる。それだけで、俺と比べたらずっと上等ってもんだろう」

 

「あー、そういやトッドさん、婚約者と離れ離れって言ってたっけ」

 

「ああ。婚約者は帝都住まいでね。この任務を片付けなきゃならんのもそうだが、そもそも別離の時間が長すぎる。いやはや、寂しくて困ったもんだ。なぁ?」

 

「その寂しさが、俺らに構ってくれてる理由ってこと?」

 

「そういうことだ。だから、せいぜい俺に利用されてくれ。拾った甲斐がある」

 

こちらに気負わせないためか、トッドの気遣いにスバルは内心で感謝する。直接、礼を言うのも無粋な話だろう。彼も、それを汲んでくれた様子だ。

そんな調子で、四人での食事が進むのだが――、

 

「実際、俺たちは補給隊の車に乗せてもらえるって話だったけど、トッドさんたちは任務にどのぐらいかかりそうなんだ?」

 

「言っただろ?森に隠れてる『シュドラクの民』を見つけるまで……それが見つからなきゃ何年だって置いとかれる可能性がある。宮仕えも楽じゃないのさ」

 

「『シュドラクの民』……」

 

木の匙をくわえ、渋い顔で答えたトッドにスバルは思案する。

『シュドラクの民』――最初、この陣地でトッドに話を聞かれたとき、スバルはそう呼ばれている相手が森で出会った覆面の男ではないかと推察した。

彼にはナイフを譲ってもらった恩義がある。だから、トッドにもその存在を伝えなかったのだが、今になってそれが不義理にも思えてきた。

 

恩義という意味では、覆面男に負けないぐらいトッドにも助けられている。

ならば、覆面男に仁義を通し、トッドの方に通さない理由はなんだろうか。

 

「トッドさんたちは、その『シュドラクの民』を見つけて、どうする気なんだ?こうやって陣地を張ってるくらいだし、戦う……のか?」

 

「――――」

 

できるだけ、何気ない雰囲気を装って問いを発する。しかし、それでも隠し切れない緊迫感のようなものは声に宿ってしまった。

事実、話題には入ってこないものの、その話を聞いたレムの表情にも反応がある。意識しないようにしても、『戦い』という単語を忌避する反応が。

そして、問いかけられたトッドはそんなスバルの言葉に片目をつむり、

 

「いや、できれば戦いたくないってのが『将』たちの考えみたいだ。俺も詳しいことは知らないんだが、『シュドラクの民』ってのはなかなか強力な部族らしくてな。戦いになったら苦戦は必至、今回も交渉が目的らしい」

 

「交渉?森の部族と、何の交渉を?」

 

「あんまり下っ端にあれこれ聞くなよ!?……よくわからんが、たぶん帝都とか、ひいては皇帝閣下への臣従を誓えって話じゃないか?」

 

「『シュドラクの民』は、ヴォラキア帝国の皇帝に従ってないってことか?」

 

「従わないのもいる。それも、ヴォラキア流だろ?」

 

武人らしい笑みを浮かべ、そう言ったトッドにスバルは眉を上げた。それから静かに「ヴォラキア万歳」とだけ応じ、今のやり取りを受け止める。

トッドの言葉を信じれば、『シュドラクの民』への攻撃は帝国軍も避けたいと考えているようだ。ならば、むしろスバルの方から情報を提供した方が、かえって無用な流血や衝突を避けられる可能性もあるのではないか。

とはいえ、スバルが持っている情報も大した情報ではないし、それを隠していた事情を明かそうとすると、素性を偽ったことも話さなくてはならないのだが。

 

「うぐぐ、難しい。あちらを立てればこちらが立たず……」

 

「……なんだか、いつ見ても眉間に皺を寄せていますね。ただでさえあまりいい人相とは言えないんですから、せめて笑っていた方がいいんじゃありませんか?」

 

「手痛い指摘!……俺がいつもニコニコ笑顔で話しかけたら、もうちょっと優しく朗らかに応対してくれるか?」

 

「はぁ?」

 

本気で怪訝そうなレムの応答にスバルの心が早々と折られた。

ひくついた笑顔での応対を投げ出し、肩を落としたスバルにトッドが笑う。

 

「まぁ、長い道のりも歩き出さなきゃ始まるまいて。俺はお前さんの健気な努力を見てるから安心してな」

 

「ありがとよ、トッドさん。……婚約者に会えない身の上の本音は?」

 

「ははは、いい感じだ、苦しめ苦しめ」

 

「どちくしょう!」

 

慰めてくれているのかからかっているのか。

いずれにせよ、トッドのこうした対応に救われているのは事実。この非常事態で、あまり重くなりすぎないでいられるのも、紛れもなく彼のおかげだ。

だからこそ、せめて彼らの目的が早々に果たされることを望みたいが。

 

「実際の森の攻略はどれぐらいから始めるんだ?」

 

「他の陣地の展開が済んだら、一斉に取り掛かるって話だな。森は大きいし深い。一日かけても進める量はたかが知れてるが……」

 

「そうか。まぁ、サクサクと進めるわけにもいかないよな。森の中に何があるかわからないし、でかい魔獣もうろついてるような場所だ」

 

スバルが『シュドラクの民』ではないかと疑っている覆面男。あるいは、こっちが『シュドラクの民』の可能性もある狩人。そして、狩人との遭遇戦の最中に出くわした巨大な蛇の魔獣、あの辺りにはレムが仕掛けた罠も残されている。

そう考えると、今後森に入っていくトッドたちの苦労は推して知るべしだ。

事情を話せないまでも、レムの仕掛けた罠についてぐらいは話しておかないと、無用な混乱が生まれかねない気が――、

 

「――魔獣?」

 

しかし、そう考えるスバルの横で、水を飲んでいたトッドが目を見開いた。彼は口の端を伝う水を袖で拭い、驚いた目でスバルを見つめる。

その驚きの意味がわからず、スバルは「え?」と同じように目を丸くした。

 

「今、魔獣って言ったのか?あの森に魔獣がいるって?」

 

「いや、えっと、そう言ったけど……俺、なんか変なこと言った?」

 

「それはそうだろ。魔獣なんて、そうそう出くわすもんじゃない。魔獣大国のルグニカならともかく、王国との国境線でもないところなんだぞ」

 

「――――」

 

「冗談じゃ、ないのか。おい、嬢ちゃん」

 

真剣味を増したトッドの言葉に、スバルは困惑したまま何も言えない。すると、トッドは質問の矛先をレムの方へと変えた。

水を向けられたレムは、トッドの問いかけに「はい」と答えると、

 

「答えてくれ。嬢ちゃんも、魔獣を見たのか?このバドハイムの密林で」

 

「その魔獣、というのが何なのか私には判然としませんが……それが、緑色の大きな生き物のことでしたら、見ました」

 

「頭に角は?」

 

「角ですか?……確か、白くて歪なものが」

 

その答えを聞いた途端、頬を硬くしたトッドがその場に立ち上がった。彼は今一度スバルの方を見ると、

 

「どんな魔獣だった?姿かたちは?」

 

「へ、蛇だ。でかい蛇。十メートル近くある、どでかい奴が一匹」

 

「一匹、一匹か……クソ、このでかい森だと本当に一匹かわからんじゃないか。だが、嘘をついてる風でもない。事情が変わった!」

 

ガシガシと乱暴に自分の頭を掻いて、血相を変えたトッドがスバルたちに背を向ける。そのまま遠ざかりかけ、途中で彼は「あ」と何かに気付いた声を上げると、ぐるっと回ってスバルたちの方へ戻ってきて、

 

「貴重な情報だった。それがなきゃヤバいことになってたかもしれん。助かった」

 

「――ぉ」

 

座っているスバルとレム、二人の頭をトッドがぐいぐいと乱暴に撫でる。思わず反応が遅れて瞠目するスバルたちだが、彼は意に介さず、再び背を向けた。

そして、それぞれに昼食を囲んでいる面々の方へ向かいながら、

 

「部隊長たちは集合!『将』のところにいく!大事な話だ!」

 

そう手を叩いて仲間を集め、どやどやと陣地を騒がしくしながら奥の天幕――おそらくは軍議などが行われる、重要なテントへと向かっていった。

その猛烈な勢いを、半ば呆然としながら見送って、

 

「……ずいぶんな反応でしたね。あの生き物……魔獣がそんなに重要なんですか?もちろん、危険な生き物なのはわかりますが」

 

「――。いや、実は俺もあんまり正しくそれを認識できてなかったかもしれねぇ」

 

「はぁ……」

 

胡乱げ、という表現が相応しいレムの反応だが、スバルもまだ頭の中身をきっちりと整理し切れていない。

それぐらい、スバルにとっては寝耳に水の反応だった。

 

「帝国じゃ、魔獣が珍しい……」

 

それは完全に想定外というか、想像もしたことのない事情だった。

そも、スバルにとって異世界生活と魔獣の存在は切っても切り離せない繋がりだ。召喚初日の王都はともかく、以降の出来事の大部分には魔獣の存在があった。

 

メィリィがやらかした魔獣騒動ではウルガルムが、ヴィルヘルムが悲願を成し遂げるために必要だった白鯨戦、そして『聖域』を喰らい尽くさんとした大兎。

プリステラでは魔獣の存在こそなかったものの、その問題解決のために向かったアウグリア砂丘とプレアデス監視塔は、魔獣の総本山と言っても過言ではない。

もちろん、スバルにとって最も思い出深い魔獣は、『紅蠍』ということになるが。

 

「……ちょっとしんみりしちまったが、とにかくだ。そんな調子できたもんだから、魔獣が珍しいなんて発想、そもそも持ちようがなかった」

 

てっきり、テレビゲームのRPGに登場するモンスターのように、世界中のどこにいても出没するのが魔獣だと思っていた。だが、そうではないらしい。

考えてみれば、元の世界だって世界中のどこにでもライオンやキリンがいるわけではないのだから、ある意味では当然だったのかもしれないが。

 

「ルグニカが魔獣大国とか呼ばれてるのも初めて知ったぜ……」

 

強大な存在とはいえ、魔獣が一匹出ただけでトッドが血相を変えたのだ。その常識に照らし合わせれば、ルグニカが魔獣大国と呼ばれても不思議はない。

メィリィなんて、もはやおとぎ話の存在みたいなものだろう。

 

「じゃあ、あいつってもしかして、魔獣があんまりいない国とか地方にいったら、普通の子みたいに暮らせんのかな……」

 

「あの、すみません」

 

はぐれてしまったメィリィ、彼女の将来のことを考えていると、ふと思案する横顔にレムの声がかけられた。

何事か、とそちらを見ると、彼女はテーブルの上を手で示す。するとそこには、自分の食事を空っぽにして、テーブルで寝息を立てているルイの姿があった。

 

「どうやらお腹いっぱいになったみたいで、眠ってしまいました。業腹ですが、運ぶのをお願いできませんか?」

 

「業腹とまで言うか……」

 

レムの物言いに苦笑しつつ、スバルはやれやれと首をひねった。片付けを忘れたトッドの分含め、四人分の食事を片付けると、嫌々ルイの体を抱き上げる。

たまにしがみついてくるのでわかるが、軽い。見た目はただの少女だ。本当に、見た目だけはただの少女なのだ。

 

「レムは大丈夫なのか?俺の背中が空いてるけど……」

 

「どんな不格好を要求するんですか。あなたの手を借りる必要はありません。自分の面倒くらい、自分で……」

 

そう言って、レムが手に取ったのはテーブルに立てかけていた木製の杖――とは名ばかりの、どこかで拾ったような樹木の太い枝だ。

持ち手の部分に布を巻いて、ささくれが刺さらないようにしている。簡易で即席な杖といった塩梅だろう。それをついて、レムが立ち上がった。

その足取りはまだいくらか頼りないが――、

 

「――大丈夫、です」

 

「……本当にそうか?意地張らないで、困ったら頼ってくれても」

 

「頼りません。このぐらい平気です。あなたはその子を落とさないように」

 

「はぁ、わかったよ。でも、これだけは覚えておいてくれ。俺がこいつをこうして抱き上げてるのは、俺がこうしたいからじゃなく、お前のためなんだってことを」

 

「いったい、何がそこまであなたに言わせてるんですか……」

 

どうしても自発的にルイに良くしたと思われたくないスバル、その発言に呆れながら、レムが杖をついて、たどたどしい足取りでスバルへついてくる。

ひとまず、レムとルイを貸し出されているテントへ戻し、スバルは天幕の片付けを続けることとなるだろう。――トッドたちがどうするか、気にはなるが。

 

「――。あの方たちが気掛かりなんですか?」

 

「……え?あ、ああ、そんな感じ。いや、我ながら恩人相手に不義理な真似をしてるって自覚はあるからさ。魔獣の話も不用意だったかもだし」

 

「――恩人、ですか」

 

自分が嘘ばかりついている悪党に思えてきて、何となく沈んだ気持ちになっていくスバル。しかし、そんなスバルの話を聞きながら、レムはどこか意味深に呟いた。

恩人、とそこだけ抜き出した呟き、それに込められた感情は読み取りづらい。だが、決してポジティブな感情だったようには思われなくて。

 

「レム?」

 

「――。いえ、何でもありません。気にしないでください」

 

「いや、今の流れで気にするなは無理じゃねぇかな……」

 

「そうですか。では、話しかけないでください」

 

「もっと距離が遠ざかってる!言いかけたんなら言えよ!気になる!」

 

レムに合わせて歩いているので、二人の進みは遅々としたものだ。そうして歩調を合わされていることへの苛立ちもあるのか、レムは小さく吐息をついた。

そして、なおも引こうとしないスバルの意識を感じ、ゆるゆると首を横に振ると、

 

「あの、トッドさんでしたか。……私は、あまりいい印象を抱いていません」

 

「は?なんでだよ。何の頼りもない俺たちを陣地に置いててくれて、意地の悪い怪人『靴食わせ』からも守ってくれてる。これに恩を感じないのはいくら何でも」

 

「恩を感じないとは言いません。感謝はもちろんしています。ただ……」

 

「ただ?」

 

そこで言葉を切ったレムが、先を促すスバルにわずかな躊躇いを見せる。しかし、生じた沈黙はほんの二秒、彼女は深く息を吐くのと合わせ、言った。

 

「――相手の名前を聞こうとしない人を、信用するのは難しいと思います」

 

「――――」

 

そうレムに言われ、スバルは思わず息を詰めた。

そして、何を言っているのかと言い返そうとして、ふとこれまでのことを振り返る。

 

――相手の名前を聞こうとしない、とレムはそう言った。

 

そのことを念頭に振り返ると、確かにそうだ。

トッドはこれまで一度も、スバルのことを名前で呼んだことがない。ずっと『お前さん』と呼び続けている。名前を知らなければ、それも当然だろう。

だが――、

 

「た、たまたまじゃないか?レムだって、俺のことを名前で呼んじゃ――」

 

「――ナツキ・スバルでしょう。知っていて呼ばないのと、最初から知ろうとしていないのとでは意味が違うと思います。ただ、それだけですよ」

 

「――――」

 

「私の意見は以上です。どのみち、あの方たちに頼るしかありませんから」

 

そう言いながら、レムは足を止めたスバルを追い越し、前を行く。

そのままちょっとずつ先に進むレムの背を見て、スバルは何も言えなくなっていた。

 

残念ながら、レムの頑なな心を解きほぐす術がスバルにはない。

魔獣の一件で明らかになった通り、スバルはこの世界の常識にあまりに疎い。王国も満足ではないのに、帝国なんて未知の土地もいいところだ。

ひょっとしたら、帝国では相手の名前を聞く聞かないということに特別な意味合いがあるのかもしれない。名乗る前に尋ねるのは失礼なことだとか。

でも、そんなルールがあったとしても、スバルはそれをレムに語れないのだ。自分の無知と無教養が、どこまでも嫌になる。

 

「……いつまで立ち止まってるんですか」

 

「あ……」

 

ふと、声に顔を上げれば、レムが少し先で振り返っていた。

彼女はわずかに焦れた顔をしながら、杖に両手を乗せてスバルを睨んでいる。その、スバルを待ってくれている様子を見た途端、胸が詰まる感覚があった。

思わず、その場に膝を屈しそうになってしまう。

 

「ぐ……っ」

 

「な……ど、どうしたんですか!?まさか、指が……」

 

「いや、レムが俺を待ってくれてると思って、つい……」

 

「……何とは言いませんが、損しました」

 

白けた顔と声で言って、レムが今度こそスバルに背を向ける。

その背を慌てて追いかけながら、スバルはレムへの謝罪と、彼女が直前に話してくれた言葉を思い返し、目を細める。

 

レムの考えすぎだろうと、そう自分に問いかけながら。

 

△▼△▼△▼△

 

――そうして、スバルの胸の奥でわだかまった疑問、その解消は翌日となった。

 

昼食のあと別れたトッドは、そのまま陣地の『将』とやらとの話し合いに臨み、軍議は長々と夜遅くまでかかったらしかった。

結局、レムとルイをテントへ送り届けたスバルは、もやもやとしたものを抱えたまま、任された仕事に従事するしかなく、おまけに夜は前の日以上にレムからすげない対応をされて、何とも居場所のない思いだった。

しかし――、

 

「――おい、起きろ起きろ。いつまで寝てんだ、お前さんよ」

 

「んあ?」

 

肩を揺すられ、眠っていたスバルが誰かに揺り起こされる。

寝起きの良さはスバルの数少ない美点の一つだが、自力で起きたときと、誰かに起こされたときとではやはり勝手が違う。いくらか鈍い思考を動かしながら目を開けると、地べたに寝そべるスバルの視界、映り込んだのはトッドの顔だった。

 

「……トッドさん?」

 

「ああ、お疲れみたいだな。慣れない仕事をさせられてりゃ無理もないか。ともあれ、お前さんのおかげで……」

 

「――ナツキ・スバル」

 

「うん?」

 

ゆっくりと体を起こしたスバルに、早口に話しかけてくるトッド。その彼が、急に自分の名前を名乗ったスバルに目を丸くする。

一瞬、彼はそれが何を意味するものなのかわからない様子だったが。

 

「ナツキ・スバル、それが俺の名前だ」

 

「ん……あー、もしかして、お前さんって呼ばれるの気にしてたのか?」

 

「あいや、気にしてたってほどでもないんだけど……名乗ってなかったから、ものすごい失礼なことしてたかもって」

 

「はは、そりゃ考えすぎだ。けど、ナツキ・スバルな、覚えた覚えた」

 

小さく笑い、気まずさに目を伏せるスバルの肩をトッドが叩いた。その調子が変わらないのを見て、スバルはいくらか安堵を覚える。

どうやら、昨日のレムの懸念は考えすぎで、スバルのもやもやも杞憂だったようだ。

トッドは本気でそこが抜けていたらしく、「失敗失敗」と呟いてから、

 

「とと、その話も大事なんだが、もっと大事な話があるんだよ。昨日のお前さんの話のおかげで、『将』たちの方針が変わったんだ」

 

「方針が変わった……って、森の攻略の?」

 

「そうそう。なんせ、未知の森の開拓に加えて、魔獣まで生息してるとなると、話がだいぶ違ってくるからな。こっちの犠牲も馬鹿にならない。だから」

 

そこで言葉を切り、トッドはにんまりと満面の笑みを浮かべた。そして、まだ意識の目覚め切っていないスバルの顔を両手で挟むと、

 

「さくっと作戦を切り上げることになったんだよ」

 

「さくっと?じゃあ、もしかしてトッドさん、婚約者のとこ戻れるってことか?」

 

「はは、そうなんだよ!」

 

大きく頷いたトッドに、スバルも「おおー!」と喜びを共有する。

年単位での出兵計画が変更され、地元に帰れるとなればトッドの喜びも一入だろう。大喜びの彼と手を合わせ、二人で一緒にテントの中で踊る。

すると、当然ながら――、

 

「……あの、もうちょっと静かにしてくれませんか」

 

「あ、悪い、レム」

 

自分の寝床から体を起こし、不機嫌な顔をしたレムに男二人で睨まれる。

何も、寝起きだから不機嫌なわけではないだろう。彼女の不機嫌の理由は、夢を男二人のステップに邪魔されたからに他ならない。

それから、彼女は軽く頭を振り、「まったく……」と呟いたあと、

 

「――?なんだか、変な臭いがしませんか?」

 

「臭い?」

 

「はい。あなたの体臭とは別に」

 

すんすんと鼻を鳴らして、レムが臭いものを払うみたいにスバルに手振りする。その仕草にいくらか傷付くスバルだが、すぐにトッドが「悪い悪い」と謝罪した。

 

「距離があるから大丈夫だと思ったんだが、鼻がいいとわかるよな。けど、決まったことはさっさとやらないと据わりが悪いだろ?」

 

「トッドさん?」

 

そう言いながら、トッドはスバルたちの天幕の入口を開く。そして、スバルたちに出てくるよう手招きした。

なので、スバルはレムと顔を見合わせ、彼女に杖を手渡して入口へ。

それからトッドの横に並んで、見た。

 

「――へ?」

 

それは、朦々とすさまじい勢いで噴き上がる黒煙と、強烈な焦げ臭い香り。

そして見渡す限りの視界、遠目に右も左も埋め尽くすようだった大密林――『バドハイム密林』が、真っ赤な炎に包まれ、燃え盛っている光景だった。

 

「これは……」

 

立ち尽くすスバルの隣、同じ光景を目の当たりにしたレムが絶句する。

スバルとレムの二人は棒立ちになり、まるで悪夢のように赤々と燃えていく森を、焼き尽くされる密林を、終わっていく世界を、見つめていた。

 

「魔獣が潜んでるとなると、いったいどれだけこっち側に被害が出るか知れたもんじゃない。そう主張したら、指揮してるズィクル二将もわかってくれたよ」

 

「――――」

 

「お前さんがくれた情報のおかげで、味方の被害が出ないで済んだ。大助かりさ」

 

そう言って笑い、トッドがスバルの背中を掌で叩いた。その気安い衝撃に打たれ、スバルは唇を震わせた。肺が震え、喉が震え、声も震える。

この、トッドの変わらぬ友好的な態度に、スバルの震える声が紡ぐのは――、

 

「な、なんで……?」

 

「なんでって、何が?」

 

「だって、森の『シュドラクの民』とは戦いたくないって、言ってたよ、な?」

 

戦いになれば苦戦は必至、皇帝への臣従を誓わせるために交渉が望みだと。

昨日、食事の席でトッドはスバルにそう話してくれた。

だったら戦いは起こらないのだと、スバルは内心でそう安堵していたのに。

 

「これじゃ、戦う以上に……っ」

 

「ああ、戦いたくなかったよ。こっちに犠牲がいくら出るかわからない。俺も死ぬかもしれなかったしな。けど、『将』の説得材料ができたおかげで問題は片付けられた。『シュドラクの民』も、皇帝閣下に敵対できなくなる」

 

「――ッ」

 

「俺も早く婚約者のところに帰れるしな。いやいや、お前さんは拾い物だったよ。ちゃんと『将』にも話してあるから、きっと褒章がもらえるぞ」

 

二本目の短剣がもらえるかもな、なんて冗談めかして言ってから、トッドはもう一度スバルの背中を叩いた。

そして、彼は「おっと」と何か思い出したように呟いて、

 

「お前さんに戦果を見せてやったら戻れって言われてたんだった。すまんが、朝飯はちょっと遅れるかもしれん。でも、もう天幕の片付けもしなくていいぞ。しばらくしたら、陣地は引き払うことになるからな」

 

「――ぁ、え?」

 

「やれやれ、しっかりしてくれ。――嬢ちゃんを不安がらせるなよ」

 

最後の言葉は耳打ちする形で、本当に善意の笑みを残してトッドがその場を去る。

結局、遠ざかる背中にスバルは何も言えず、押し黙っているしかなかった。

 

「――――」

 

だが、スバルが黙っていようと、心中の混乱に苛まれていようと、遠く、目の前で燃え盛る森の光景が変わることはない。

燃え上がる炎は何もかもを呑み込み、あの地で生きる全てを焼き尽くすだろう。

それはあの大蛇の魔獣も、あるいは森の中で過ごす覆面男や、スバルたちをつけ狙った狩人も例外ではない。――何もかも、灰燼と帰す。

 

「――っ」

 

ふと、その衝撃に歯を噛んだスバルの隣で、レムの体がふらついた。

とっさにその細い体を手で支えると、触れた途端にレムの体が強張った。そして、スバルを見上げるレムの表情に恐怖と、拒絶感が溢れ出す。

 

「あ……」

 

「あなたが、悪いわけじゃない……それは、わかってます。でも」

 

「――――」

 

「触らないで、ください」

 

一瞬、自身を呑み込みかけた恐怖を噛み殺し、レムがスバルの手をゆっくり押しのける。振り払うでも、へし折るでもなく、押しのけた。

彼女の言葉は本音なのだろう。スバルが狙って引き起こした事態ではないと、レムもわかってくれてはいる。しかし、それがもたらす慰めは些少だ。

こうして、実際に起きてしまった出来事を前にしては、あまりにも些少――。

 

「……あの子が、起きたみたいですね」

 

そう言って、レムはスバルから視線を逸らし、燃え盛る森から視線を逸らし、見たくないものから視線を逸らすように、テントの中のルイの方へ振り向く。

 

そのレムの背中に、スバルはとっさに声をかけられない。

スバルの中でも、起きてしまった出来事の整理がつかない。何を言っても正解ではない選択肢しか、今はスバルの頭に浮かんでいなかった。

だから、たどたどしく、赤子が這うような速度で離れるレムを止められない。

止めることができなくて――、

 

「――ぉ?」

 

唇を噛み、拒絶されたレムの小さな背中を見つめるスバル。それがふと、背中に当たった小さな感触に気付いて声を漏らした。

何があったと後ろを振り向くと、しかし、そこにスバルの背に触れたものや人は見当たらない。ただ、振り向いた瞬間、視界の端を何かが掠めたのは見えた。

それはまるで、振り向くスバルに合わせて後ろに回り込んだみたいに――、

 

「うーっ!!」

 

直後、子どもが癇癪を爆発させたみたいに、テントの中のルイが声を上げた。

起きた途端にやかましい大罪司教だが、今は幼児同然の大罪司教よりも、もっと優先すべき事態が目の前にある。もっとも、何ができるわけでもないのだが。

 

「うあ、あーあー!!」

 

「――っ、うるせぇな!今、大変なんだよ!お前に構ってる暇は」

 

ない、と喚き散らすルイへ怒鳴ろうとして、スバルは眉を寄せた。

地べたに座り、ジタバタと身をよじるルイを後ろから抱いているレム、彼女の表情がまた激変していたからだ。

先ほどの恐怖や拒絶感とは異なる、純粋な何故という驚愕。見開かれた青い瞳が見つめているのは、スバル――否、正確にはスバルではなく、

 

「……背中?」

 

微妙な視線の角度から、スバルは彼女の視線が注視する対象を見極める。それに倣って首をひねり、スバルは自分の背中を覗き込んだ。

そして、遅れて気付く。――先ほど、スバルの背中に回り込んだモノの正体を。

 

「――矢羽根」

 

それが、スバルの視界を掠めたものの正体だ。

そして当然だが、矢羽根には矢本体が付属していて、それがスバルの背中で揺れているということは――、

 

「――ぁ」

 

放たれた矢が、スバルの背中に命中しているということに他ならない。

 

「――――」

 

ぐらっと頭が揺れて、スバルは立っていられなくなり、その場にひっくり返る。とっさに手がテントの入口を掴み、倒れる勢いで天幕が傾いた。

だが、それを気にする余裕もなく、スバルの体はどうと横倒しになった。

 

「きゃああああ――っ!」

 

それを見て、レムが甲高い悲鳴を上げる。

ぐるぐると思考が回り、レムの普通の悲鳴なんて初めて聞いたと、そんな益体もない場違いな感想が頭の中に溢れ、耳からこぼれ落ちていく。

 

「あー、うあー!」

 

どたどたと四つん這いで、ルイが倒れるスバルへ近寄ってくる。そのまま乱暴にスバルの体を揺すってくるが、それを咎める声も、抵抗する力も出ない。

矢の一本で、なんて様なのか。

 

「誰か!誰かきてください!……こんな、こんなの、大丈夫ですよ!だって、こんな浅い、矢傷くらいで……っ」

 

杖を捨てて、倒れ込むようにして近付いてきたレムが、スバルの背中の傷を見ながらそう必死に呼びかけてくる。

ああ、レムは本当に優しいなと思った。瘴気のせいでスバルのことを信じられなくても、不用意な一言であんな燃える世界を生み出しても、それでも目の前でスバルが倒れていたのなら、こうして助けようと声を上げてくれる。

 

このレムの前で、弱いところを見せたくないなと思う。

矢傷くらいなんだと、余裕綽々に立ち上がって見せたらどうだ、ナツキ・スバル。

よく大河ドラマや時代劇を見るとき、あんな細い矢が刺さったくらいで死ぬとか動けなくなるなんて、根性が足りないとか思っていたじゃないか。

まぁ、でかい矢で胸をぶち抜かれたりした場合は話は別にしても、レムの言う通り、背中に刺さった矢は大した威力じゃなかった。実際、あんまり柔らかく当たったもんだから背中を撫でられたのかと思ったぐらいだった。

それが、どうしてこんな風に――、

 

「――げっ、ぶ、うえぇっ」

 

「――っ、まさか、毒?」

 

込み上げてくる灼熱感を吐き出したところで、レムがスバルと同じ結論に達した。

矢の、威力で殺されるわけじゃない。矢に塗られた毒が、蝕んでいるのだ。

 

手足が動かなくなり、まるで高熱に魘されているみたいに頭が働かない。目から鼻から耳からだくだくと何かが溢れ、スバルの全身がガタガタと震え始めた。

ガンガンと、耳鳴りがうるさくなり始め、スバルを心配するレムの声が聞こえない。ルイの、耳障りな喚き声も聞こえない。聞こえなくなる。

 

毒、毒が、毒を、誰が、どうして、矢が、狩人、森の、焼けて、燃えて燃えて、スバルが不用意に、魔獣を、トッド、燃えて、レム、レム、レム――。

 

意識が混迷を極め、スバルはブクブクと血泡を噴きながら呻き声を漏らす。そして、血走った目を見開いて、どうにかレムの顔を見ようとして、気付く。

 

――それはテントから三十メートルほどの距離、走れば十秒とかからない位置からこちらを睨みつけている、小さな、小さな人影だった。

 

「――――」

 

子どもだ。ルイと、そう変わらないような小さな子ども。

目つきの悪い小さな子どもだった。――否、違う。目つきが悪いのではない。スバルを睨んでいるのだ。憎悪に濁った瞳で、殺意を込めてスバルを睨んでいるのだ。

 

髪や顔を煤で汚して、憎悪に濁った瞳で半弓のようなものを握った少女だ。

それが、あの指で、手で、意思で、スバルを毒矢で射ったのだろう。

 

「――――」

 

憎まれるのも当然だった。

殺したいと思われるのも当然だった。

 

スバルがもたらした結果が、少女を憎悪へと駆り立てる運命へと誘った。

ならばこれは、スバルの下に訪れた報いは――、

 

「――ダメ!待って!待ってください。待って……」

 

必死で、耳元で声が聞こえる。

待ってやりたい。立ち止まってやりたい。手を引いて、笑いかけてやりたい。

 

その何一つ、できない。

その何一つ、できないまま。

 

ブクブク、ブクブクと血泡を噴いて、痙攣して、白目を剥いて、失禁して嘔吐してグズグズに溶けた内臓を吐き出しながら、闇へ落ちる。

 

「待ってぇ……っ」

 

無様で汚い、考えなしの愚か者が、闇の中へ落ちていく。

落ちてい――、