『それぞれの歩み寄り』


 

「――よし、完成した!」

 

拾ってきた枝を二本、目の前の雪の塊に突き刺してスバルは額の汗を拭う。

制作時間約一時間の素人作品だが、なかなかの出来栄えに我ながら惚れ惚れする。完成した作品を目にして、見守っていた観衆からも「おお」と感嘆のどよめきが広がっていた。

 

「やっぱり、俺にはこの手の才能がある気がするな。食い扶持に困ったら、エミリアたんと一緒に雪降らして積雪のアーティストとして人間国宝になろう」

 

「もう、バカなこと言わないの。私、そんなことで雪降らせるの手伝ったりしないんだからね。……でも、すごーく上手」

 

石段に座り、スバルの作業を見守っていたエミリアが白い吐息をこぼす。

彼女の紫紺の瞳に映るのは、スバルが完成させた雪だるま――単純にそう評するのは語弊があるため、雪像とするべきかもしれないが。

 

『聖域』に残った雪を集めて、作り上げたパックの雪像がおよそ二十体。何がスバルをそこまで駆り立てたのか、それはスバル本人にもロマンとしか語れない。

とりあえず、エミリアや『聖域』の住民が喜んでるからそれでいいだろう。

 

「狙ってやってはいないのだろうけど、バルスはやっぱりバカだと思うわ」

 

そう言って、スバルを辛辣に評価する声もある。

エミリアと同じように石段に腰掛け、彼女の膝に頭を載せている少女だ。トレードマークのメイド服を脱ぎ、今は簡素な白い衣装に身を包んでいる。

制服は焼け焦げ、生死の境をさまよったのだ。その顔色は普段の色白よりもさらに青ざめて見えたが、声の調子にも毒の鋭さにも影響はない。何よりだ。

 

「二人してバカバカと繰り返し……そもそも、この騒ぎの功労者であるところの俺にもっと優しくしてくれてもいんじゃね?俺、労いが足りてないと思うよ?」

 

「うん、そうよね。私、スバルにすごーく感謝してる。でも、スバルがいない間に頑張ったのは私だから、むしろ私を労ってほしいと思うの」

 

「エミリアたん、なんか急に言うようになったよね……」

 

実際、スバルたち不在の間の『聖域』を守護したのはエミリアの功績だ。彼女の指示がなければ、墓所に入った住民たちが大兎の牙から逃れられたかはわからないし、そもそもエミリアが『試練』をクリアしなくては避難場所の確保もできていない。

スバルがその場にいても、墓所を避難所として活用するか思い浮かんだかは判然としないところだった。何せ、雪が降る前に逃げることばかり考えていたから。

 

「まぁ、青年団の人が戻ってきてくれて、エミリアたんのやる気に火がついたってのが嬉しい誤算だな。……本当に、助かったわ」

 

これまでがそうでなかったとは言えないが、今回は特に博打の場面が多すぎた。

スバル一人では足らず、周りの人に助けられてばかりだった印象だ。一番きついところを受け持つと、そう決めていたはずだったのに。

 

「そんなの当たり前じゃない。なんでもかんでもスバルにやってもらってたら、私たち何のためにいるのかわからなくなっちゃう。スバルは、ちょっと休んでてもいいくらい走り回ってるもの」

 

「いや、でもおつむも腕力も足りない俺が役立とうと思うと、これが無様に走り回るぐらいしか方法がなくってですね」

 

「でも、これからはそうじゃないんだもんね?」

 

自分を卑下するスバルを揶揄するように、膝の上のラムの頭を撫でるエミリアが含み笑いで言った。その言葉が何を指しているのかをすぐに悟り、スバルは鼻の下を指で擦りながら「ああ」と応じる。

 

色々と見落としもあったし、周りに助けられてばかりだったが、拾わなくてはならないものはおおむね拾いきった。そして、独りで悩み続けることもきっとない。

周りに頼ることをスバルはもう躊躇わないし、そうするために自分が頑張ることも怠けないし、そうするスバルの尻を蹴り上げてくれる相手もいる。

 

「――――」

 

顔を上げたスバルは、広場から墓所の方へと目を向ける、

手前の石段に座るエミリアを追い越し、視線は墓所の入口へ。今、『試練』のシステムの消えた墓所の中には、二人の人物が足を踏み入れている。

中で何を話しているのだろうか。それは気がかりであったが、

 

「ま、水入らずで過ごさせてやるぐらいの空気は俺だって読むさ」

 

話す機会なんていくらでもあったくせに、話す機会を持てずにいた二人だ。

きっと積もり積もった話なんて、山ほどあるはずだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

透明の棺を間に挟んで、長身の男と少女は向かい合っていた。

 

「お母様……」

 

棺の中を見下ろし、結晶の中で横たわる女性を見て少女が呟く。

地に足がついていないような、ふわふわと浮ついた感覚。それは戦いの昂揚感がまだ残っているからでもあり、長い時間を過ごした場所をなくした喪失感と解放感からくるものでもあり、目の前の光景に対する現実感のなさも大きく影響している。

 

まさか、こうしてまた母の姿を目にする日がくるとは思ってもいなかったから。

 

棺の中に眠る女性――魔女、エキドナの姿は記憶の中の姿と微塵も違わない。

長く美しい白い髪に、理知的でありながら柔らかさを感じさせる整った面差し。稀にではあるが、微笑みかけられた記憶も鮮やかに蘇る。

 

最後の、別れたときに告げられた指示も、言葉も、思い出せる。

 

「ベティーは、お母様との約束を……守れなかったかしら。ごめんなさい」

 

棺を指で撫ぜて、ベアトリスは四百年ぶりの再会を謝罪から始める。

別れる際、エキドナは自分の知識の蔵書を『その人』へ渡すよう、ベアトリスに言い含めて送り出した。渡された禁書庫を埋める本の数々と、未来を示す福音書。

その両方が、今のベアトリスの手元には残されていない。

 

母がベアトリスに望んだ未来を示す福音書も、母が長い時間をかけて溜め込んだ知識の全てが、何もかもを灰に帰す炎に呑まれてこの世から消えてしまったのだから。

 

「ベティーは、『その人』にも会えず……本も、焼いてしまったのよ。ごめんなさいをしなくちゃいけないことが、きっとありすぎるかしら」

 

不出来な娘だったと、ベアトリスは自分で自分を評価する。

四百年もの時間をかけて、母がくれた指示一つ守れない愚かな娘だった。そして、本来なら顔向けすらできない母に会って、心からそれを詫びなければならない場面であるというのに――、

 

「……そのわりに、すっきりした顔をしてるじゃーぁないの」

 

正面に立つ長身の男が、ベアトリスの心をあっさりと暴くようにそう呟く。

ちらと見上げる暗がりの中、浮かび上がるのは力なく唇を緩める長髪の男――ロズワールだ。見知った顔なのに、ベアトリスは彼の様子に違和感を禁じ得ない。

それは出会った頃からずっと、狂気的な目的に支配されていた男の双眸に迷うような色があることと、道化のメイクを落として素顔をさらしているからかもしれない。

 

「すっきりって意味なら、お前には負けるのよ、ロズワール。ベティーの前に化粧抜きで立つなんて、先代からの言いつけを破ったも同然かしら」

 

「道化のメイクは、私にとっては戦化粧みたいなものだったんだーぁよ。それをすることで、仮面を被るような意気込みで相手と接することができた。ただ、気付いたことがあってねーぇ」

 

「気付いたこと?」

 

「メイクのあるなしに拘らず、今の私は道化そのものじゃーぁないかね。ならば、メイクをするしないにどれほどの意味が残されているものだろーぉね?」

 

「なるほど、なのよ」

 

肩をすくめておどけるような仕草のロズワールに、ベアトリスは顎を引く。手持ち無沙汰に自身の縦ロールをいじりながら、少女は「それで」と言葉を継いだ。

 

「お前の方こそ、お母様に言いたいことがあるんじゃないのかしら。お母様との再会はお前にとって……お前の一族にとって、悲願だったはずなのよ」

 

「…………」

 

「お母様と直接の面識があった初代から、今のお前でロズワールも十代目近いはずかしら。メイザース当主は代々短命だったから、禁書庫に顔を出す奴もコロコロと変わったものだったのよ。……お前は、小さい頃からモノが違ったかしら」

 

メイザース家の歴史は、深く関わってこなかったとはいえベアトリスがもっとも身近で見届けてきた時間の流れといえるだろう。

エキドナの唯一の弟子であった初代ロズワール。魔人ヘクトールとの戦いで、その魔法的才能のほとんどを失った彼は、それでもエキドナの弟子であることを諦めなかった。

エキドナ亡き後も禁書庫に入り浸り、呆然自失のベアトリスを余所に取りつかれたように何かを追い求め、おそらくはそれを次代に引き継いで命を落とした。

それ以降、ロズワールを引き継いだ次代の当主たちはことごとく、初代に迫る魔法の力と発見を繰り返し、メイザース家を拡大させていったのだ。

 

そして、当代のロズワール――つまり、目の前にいる男。

このロズワール・L・メイザースは、それまでのロズワールの中でも最も傑出した才能を幼くして発揮し、ベアトリスすら密かに戦慄させたほどの逸材だった。

その実力は、エキドナに直接見出された初代ロズワールすら上回り、おそらくは世界最強クラスの魔法使いの名を欲しいままにしたことだろう。

 

「それほどの才能があってなお、お前すらメイザースの呪縛から逃げられなかったのよ。亡くなったお母様と再会することだけを夢見て、ただひたすらに過酷な道を歩いてきたメイザースの家系……ベティーは少し、お前たちに同情しているかしら」

 

「そうかね?だが、私たちと君とでどれだけ違う?君とて、亡くなった母親の言葉に四百年間縛られ続けたことには変わりはない。いや、代替わりしてきた私たちと違い、独りで時を過ごしてきた君の苦しみこそ誰にも共感はできないだろうさ。やるべきに邁進していた私たちと違い、ただしゃがみ続けた君の苦しみは」

 

ベアトリスの言葉に、ロズワールもまた重々しい言葉で返答する。

結局のところ、どっちもどっちなのだと思う。

 

短い寿命を重ねて想いを繋ぎ、たった一人との再会を求めたロズワールの家系も。

終わらない命を空の檻に閉じ込めて、約束が果たされる日を待ったベアトリスも。

周りの目から見れば、等しく愚かな道化であったのだ。

 

「――――」

 

しばし、沈黙したまま視線をぶつけ合う二人。

だが、その静かな拮抗も、ふいにロズワールが視線を外したことで中断される。

 

「つまらない言い合いになる。愚か者同士がお互いを指差して小馬鹿にし合うなど、無益で滑稽にもほどがあるというものだしねーぇ」

 

「……ま、確かにその通りなのよ」

 

「一つだけ、いいかね?」

 

互いのありようを皮肉げに評するロズワールが、指を一つだけ立てる。ベアトリスは無言で顎を上に向け、否定しないことで肯定の意を示した。

その少女の態度にロズワールは、棺に眠るエキドナをそっと見下ろし、

 

「スバルくんは、君の『その人』になれたのかーぁな?」

 

問いかけ。そして『その人』という単語が出たことに、ベアトリスは小さく息を呑んだ。直接、ロズワールと『その人』について語り合ったことはない。それでも、彼ならばベアトリスの知らないところで、ベアトリスのことを知っていてもおかしくないだろうとは思っていた。

そもそも、以前に禁書庫に出入りしたことがあった人々も、元をただせば先代までのロズワールが連れてきた人間だ。彼らから話を聞き、それを子孫へ伝えることも当然できただろう。

ありていにいえば、スバルすら今のロズワールが連れてきた人物であると言い換えることもできるのだから。

 

――そんなことを言えば、きっとスバル本人は認めないだろうけど。

 

「……どうして、笑う?」

 

「――あぁ。悪かったかしら。別に、ロズワールを笑ったわけじゃないのよ。ただ、思い浮かべたら面白かっただけかしら」

 

頭の中で正確に、黒髪の青年が何を言うのかがトレースできたのが面白かった。それだけ単純というべきか、それ以上のことはあまり考えたくない。

ただ、ベアトリスはロズワールの答えに首を横に振った。

 

「あの男は……スバルは、ベティーの『その人』には相応しくないのよ」

 

「……ほぅ」

 

「そもそも、スバルにはお母様の禁書庫の知識を受け継ぐだけのありとあらゆる資格が足りないかしら。教養も知識を用いる目的意識もないし、その土壌もないのよ。それに顔が格好よくないし、強さもダメダメ、魔法もてんで使えないし、足も短いかしら。ベティーが待ち続けた『その人』だなんてとてもとてもなのよ」

 

「そりゃーぁ、ずーぅいぶんと厳しい評価じゃないの」

 

「そうかしら、ベティーは厳しいのよ。だから四百年間、ことごとく機会をふいにしてきたのかしら。……ベティーの我がままに、『その人』を振り回したのよ」

 

今にして思えば、ベアトリスを禁書庫から連れ出そうとした人々に対する罪悪感のようなものがあった。彼らとて、野心や自分本位な感情ばかりでベアトリスに手を差し伸べたわけではない。中には、ベアトリスを思いやった言葉もきっとあった。

けれどベアトリスは、その差し伸べられた手をことごとく振り払ってしまった。

 

「『その人』はきっと、ベティーが選ぶべきだったかしら。声をかけてくれた一人一人に向き合って、ちゃんと答えを出すべきだったのよ。禁書庫の、エキドナの知識を受け継ぐに相応しい誰かを、ベティーが選ぶ……きっと、そういうことかしら」

 

「だが、君が選んだスバルくんは『その人』には相応しくないのでは?」

 

「そうなのよ。でも、それでいいかしら。ベティーが選んだのはスバルなのよ。『その人』じゃない。スバルを、選んだかしら」

 

ベアトリスの答えに、ロズワールが息を詰めて目を見開くのがわかった。

エキドナを慕い、尽くす彼からすれば受け入れ難い答えかもしれない。ほんの少し前まで同じ立場だったベアトリスには、痛いほどロズワールの気持ちがわかった。

わかったからこそ、言葉を尽くす必要があるだろうと思った。

 

「スバルは、『その人』になってほしいって願いを鼻で笑ったのよ。そんな顔も知らない奴よりも、自分の方がお前を幸せにできるってほざいたかしら」

 

「それは……傲慢な答えだね」

 

「でも、強引で嫌いじゃないのよ」

 

お行儀よく言葉を並べ立てて、ベアトリスにどうするべきだと言い聞かせたり、エキドナの知識を自分ならどう活かせるかと説かれるより、抜き身だった。

 

「しかし、何をどう並べてもスバルくんの一番に君はなれないだろう?それは今の彼を見ていればわかるし……私は、知ってもいる」

 

「勘違いを、しているようかしら、ロズワール」

 

「勘違い?」

 

「ベティーは別に、スバルの一番になったから禁書庫を出たわけじゃないのよ。スバルをベティーの一番にしたいから、禁書庫を出てきたかしら」

 

俺を選べと、そう言われてしまった。

お前がいなくては寂しくて生きていけないと、そう言われてしまった。

 

都合のいい言葉だと思う。耳触りのいい戯言だとも思う。

だけど、ベアトリスの心は揺れてしまった。響いてしまった。四百年間、ずっと同じ場所で固まっていた心が、揺り動かされてしまった。

 

そして、彼の手を取って禁書庫を出た瞬間の、泣きたくなるような解放感を知ってしまったら、心は止まらなかった。

 

「役目を放り出したことで、お母様の精霊としての資格を失うのだとしてもベティーは構わないのよ。ベティーはもう、契約者ナツキ・スバルの精霊かしら。それを悔いることも恥じることも……もうないかしら」

 

あるいはこれは、ロズワールにとっては裏切りなのかもしれない。

ベアトリスと同じ、エキドナの呪縛に四百年間縛り続けられている彼に、先に抜けることを宣言するそれは裏切りなのかもしれない。成就という形で抜けるのではなく、役目を投げ出す形で抜けるのだ。

母にも、ロズワールにも、顔を上げることは開き直りでしかないだろう。

 

「――――」

 

心はすでに決まっているのだ。手はすでに繋いでしまったのだ。

ベアトリスはこれからは、セピア色にならない鮮烈を焼きつけて過ごす。長い長い時間の果てに、大切なものを忘れないために、焼きつけるのだ。

だから黙って、ロズワールが何を言うのか待ち構える。

 

「そう身構える必要はないとも。私は何も、魔女エキドナの代弁者というわけじゃーぁないんだ。君がどんな答えを出したとしても、それに対して口出しするような権利を私は持ちはしない。好きに、するといい」

 

「ロズワール……」

 

「それに、君が投げ出さなかったとしても、君に対するエキドナの命令は決して果されることはなかった。私は、私の望みを優先するために君を犠牲にしようとしたのだから。裏切りというなら、その方がよほど裏切りだろうとも」

 

「――――」

 

懺悔するように、ロズワールは屋敷で起こった出来事の罪を認める。

ベアトリスも禁書庫で気付いていたように、屋敷でベアトリスの命を奪おうと画策したのはロズワールだ。それも全て、ロズワールの福音書に記された故の行いだったのだろうと睨んでいる。それが、どういう形で繋がるのかはわからないが。

 

「ロズワール。お前の、福音書はどうしたのかしら?」

 

「……焼けてしまったよ。主人に逆らう、悪いメイドの手でねーぇ。だから未来は全て灰の中。あるいは何もかも、そうなのかもしれなーぁいけどね」

 

「全部、空っぽで未来も見えない……そのわりに、お前もすっきりした顔をしているように見えるのよ」

 

「――それに関しては、どうだろーぉね」

 

先ほどのやり取りをそっくりやり返すベアトリスに、ロズワールは俯いた。それから彼は棺の中のエキドナに、触れられない指を伸ばす。

 

「求める答えに、必ず結びついている道を見失ったことは悲しく、恐ろしい。……だが、読み進めたことのない物語を読み進める喜びも、そこにあるのかもしれない。もう四百年以上も前に、感じたきりの思いだから、本物かどうかわからないが」

 

「……?」

 

微妙に違和感のある内容に、ベアトリスは眉根を寄せる。

それを見たロズワールは小さく唇を綻ばせると、疑問を浮かべるベアトリスに「本当に、私と君は言葉を交わし足りないね」と自嘲げに言った。

 

「仕方ない、では済まないことだろーぉね。盲目的でなければならなかった当初と違い、私たちには時間があったはずだ。同じ屋敷の中で過ごした時間は、それ以上にあった。だのに、私たちは同じものを見ていたのに、その見ているものの話をすることを恐がるように避け続けたからね」

 

「ロズワール、何が、言いたいのかしら」

 

「かつてのように……先生の研究室で一緒に過ごしたように、この四百年で過ごすことだってできただろうにという話だよ」

 

「せ……!?」

 

穏やかなロズワールの言葉に、ベアトリスは懐かしい響きを見つけて息を呑む。

それが何を示すのか、飲み下した少女は震える息を吐きながら、

 

「まさか、お前……ロズワール、だというの?」

 

「私はずっと、ロズワールだよ?」

 

「違っ!そうじゃなくて……わかっているはずかしら!」

 

「冗談だよ。その通り、私は――僕は、ロズワールだ、ベアトリス」

 

自称が変わった途端、ベアトリスの目にロズワールの姿がダブって見える。

藍色の長髪に長身の男の姿に、同じ髪の色をした年若い青年の姿が。それはかつてエキドナを慕い、その後ろをついて回っていた才気溢れる青年で。

 

「だと、したら……ロズワール、お前は、どういう……!?」

 

「原理は、先生が考えた不老不死探求の内の、魂の転写技術の応用さ。この『聖域』で行われた実験の内、リスクが最も低いものを採用し、自分に施した」

 

「魂の転写……空の器に、意識と記憶を転写して、主観的な不老不死を成り立たせる実験……でも、あれは魂が定着しなくて不完全な実験に終わったはずなのよ!」

 

「空の器では、転写する魂との定着率が甘くてね。一度は頓挫したが……僕はその問題を強引に解決した。器と魂との親和性が問題となったなら、その親和性を近付けてやることで問題は乗り越えられる」

 

器と魂との親和性、それが問題で頓挫した研究だ。

リューズ・メイエルを『聖域』の核とした流れで、結晶化したリューズの存在を別の実験にも流用できないかと考えたエキドナの狂気的な知識欲の結果の一つ。

だが、複製されたリューズの肉体は、他の魂を受け入れる素養を持たず、結果として実験は失敗した。それをロズワールは、器と魂を近付けることでクリアしたと。

そしてその意味を噛み砕き、目の前に立つロズワールの存在を本当の意味で解する。

 

――初代ロズワールは、存在の近しい子孫の肉体に己の魂を転写することで、自らの願いを叶える道を綿々と引き続けてきたのだ。

 

「僕を人でなしと、そう罵るかい?ベアトリス」

 

「…………」

 

「先生と再会することだけを望んで、何も知らない子孫たちを器に連ねる僕の非道を、君は人でなしとそう罵るだろうか?」

 

ロズワールの言葉が、ベアトリスに突き刺さる。

しかし、ひどく落ち着いた目でこちらを見るロズワールの態度には、まるでベアトリスからの糾弾を待つようなものさえ見え隠れして思えた。

ロズワールもまた、裁かれたいのだろうか。エキドナとの契約を破棄したことを、エキドナを求めるロズワールに報告した自分のように。

 

エキドナを知るベアトリスに、ロズワールもその行いの是非を問いたいのだろうか。四百年間も続く、彼の一途で傍迷惑な片思いの執念を。

 

「……それをどうこう言うのは、ベティーの役目じゃないのよ。こう言ったらなんだけど、ベティーはお前の子孫との関わり合いは薄かったかしら。まぁ、今にして思えばそれも全部お前だったことになるのよ。だから、お前が子孫を自分の礎にしたことには字面以上の嫌悪感はないかしら。まぁ、うわぁとは思うのよ」

 

「うわぁ、か。手厳しいねーぇ」

 

「でもまぁ、それだけかしら。それより、四百年前の知己が生きててくれたことを素直に喜びたいところなのよ」

 

「……そう、かい」

 

ベアトリスの答えに、ロズワールは瞑目した。あるいはそれは彼が求めていた答えではないのかもしれないが、ベアトリスの知ったことではない。

ベアトリスはベアトリスの感情を素直に伝える。そうしようと、禁書庫を出たときに決めたばかりなのだ。さしあたり、

 

「ロズワール。ちょっと、そこにしゃがむかしら」

 

「しゃがむ?ここにかい?」

 

足下を指差し、そう指示するベアトリスにロズワールは首を傾げる。頷くベアトリスに従って、ロズワールは目を丸くしながらその場にしゃがみ込んだ。

ロズワールがしゃがむのを見ながら、ベアトリスは右足の靴を脱ぐ。それを右手にしっかりとはめ込むと、

 

「歯を食いしばるのよ」

 

「――ぐっ!?」

 

ちょうどいい高さになった横っ面に、靴を装備した右の平手打ちが突き刺さる。

気持ちのいい音が鳴って、ロズワールの顔が横に弾かれた。赤くなった頬を押さえて、ロズワールが目を白黒させている。

その間に、ベアトリスは右手から外した靴を改めて履き直した。

 

「ベティーは気前がいいから、これで勘弁してやるかしら。……いずれにせよ、単なる結果に過ぎないのよ。スバルも、お前を許すようだし、許してやるかしら」

 

「……誰も死なずに済んだ、その結果論にすぎないと思うがね」

 

「そうなのよ。そして、死なせないよう駆けずり回ったスバルはすごいかしら。お前も、ちょっとはスバルを見習った方がいいのよ」

 

「――。は、ははは!そーぅかね!僕が、彼を見習った方がいいと!はは!これはこれは……ああ、本当に、滑稽なことじゃーぁないかい」

 

腰に手を当てるベアトリスを前に、ロズワールは最高級のジョークを聞いたように笑う。堪え切れない笑いにのけぞり、ロズワールは壁に頭をぶつける。そのまま何度か、後頭部を壁にぶつけて、「はーぁ」と深い息を吐いた。

 

「すまない。――私は何も、間違ったことはしていないつもりだがね。それだけは言わせてもらうとするよ」

 

「いらんかしら。謝るなら、ベティー以外のみんなにすることなのよ」

 

すげないベアトリスの答えに、ロズワールは「そうだね」と頷いた。

それから彼は地面に腰を下ろしたまま、棺を見上げる。

そして、

 

「ベアトリス。ここからはまた、私と君だけの相談だ」

 

「――――」

 

声をひそめるロズワールに、ベアトリスは目を細める。

腕を組み、とりあえず話してみろとベアトリスは顎をしゃくった。その仕草を見届けたロズワールが棺に手をかけて立ち上がり、中のエキドナを見つめる。

その色違いの双眸に、狂おしいほどの情熱を宿して、

 

「――先生との、本当の再会が叶うなら、君はそれに協力してくれるかい?」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「なかなか、出てこねぇな。積もる話もあるだろうけど、積もりすぎじゃね?」

 

変化が起きない状況がじれったくなり、広場で待つスバルは唇を尖らせる。

すでに、あれから追加でさらに雪だるまが十ほど。都合三十にも及ぶ、表情様々なパックの氷像に、『聖域』の住民やエミリアは釘付けだ。

ちなみに先ほどまで羨ましくもエミリアの膝を借りていたラムは、今はだいぶ回復した様子で石段にゆったりと体重を預けている。ただ、その視線は何度も墓所の方へ向いているため、中を気にしていることは間違いない。

 

開眼したベアトリスと、小康状態のロズワールだ。

何事も荒っぽいことは起きないと思うが、ラムの懸念もわからなくはない。別段、自棄になったロズワールが落ち着いたのかどうか、直接、その口から心境を確かめたわけではないのだから。

ただ、大丈夫なんじゃないかと勝手にこっちで思っただけで。

 

「まぁ、それ込みでベア子に任せたんだけどな」

 

付き合いの長さは、ラムよりもベアトリスの方が長いはずだ。墓所の中に女性の亡骸――エキドナのものだと、ベアトリスから聞かされている。

それを前にして話すのならば、かつての日々を知る二人だけの方がいいだろう。

エキドナの亡骸をどう扱うかに関しては、スバルは後で混ざればいい話題だ。

 

「それに今後の方針は、ガーフィールたちが合流してからの方が立てやすいしな」

 

屋敷から無事に彼らが脱出していてくれれば、真っ直ぐ『聖域』を目指してくれているはずだ。青年団の一人に言伝を頼み、戻ってきていた竜車の一台をアーラム村まで走らせてもらっている。遅くとも、明日の夜には合流できることだろう。

『聖域』を覆う雪や、被害の片付け。それらに費やす時間のことも考えれば、それぐらいの空き時間があった方がいい。気持ちを落ち着ける意味でも十分だ。

 

スバルも時間を忘れて雪だるまを作るのに集中したことで、気分的にはかなり落ち着いたつもりでいる。ロズワールとも、冷静に話し合いができるはずだ。

できる。できます。できるつもりです。

 

「スバル、お疲れ様……なんで、ぶんぶん腕振り回してるの?」

 

「あ、いや、別に?憎きあんにゃろうの横っ面にぶち込むためにシャドーしてるわけじゃないよ!なんか、たぶん先にやってくれてる気がするし!」

 

「そうなの?」

 

よく意味がわかっていない顔で、隣にやってきたエミリアが首を傾げる。

それから彼女はスバルの隣で、ずらりと並ぶ雪像の壮観を楽しみながら、

 

「作りも作ったり、パックの山ね。本人が見てたらきっと喜びそう」

 

「そうかな?本人なら『ボクはもっとプリチーなつもりなんだけどなぁ』って文句付ける姿が目に浮かぶんだけど」

 

「あ、今の似てるかも。パックも……あ、今は寝てるみたい」

 

スバルの答えに笑い、エミリアは懐から青い結晶を取り出して呟く。

深い青みを帯びた結晶は、その形状をある程度整えられて、今はエミリアの手の中で雪を映す陽光の反射を受けている。

その結晶の中に、エミリアとの契約を解除したパックが封じられているのだ。

 

「でも、その状態じゃ前みたいに呼び出せないんでしょ?」

 

「うん、そうなの。この結晶石じゃ、パックぐらいの強力な精霊を封じるためには純度が足りないみたい。今はパックがほとんど活動しないようにして壊れないようにしてるけど……このままじゃ、触ったり話したりはできないかな」

 

「もっとちゃんとした石がいるわけね。前の、緑のやつみたいな」

 

エミリアが首から下げていた結晶石。パックの契約解除に伴い、粉々に砕け散ったそれは相当に希少性の高い結晶石だったらしい。

もともとはパックがエミリアと契約する際、持参していたものらしく、どこで手に入るのかはエミリアにとっても未知数とのことだ。

 

「でも、いつか必ず、それに匹敵する石を手に入れてパックを取り戻す。それで……色々なことを話したいの。パックが私に黙ってただろうってことも、私がそのおかげで見つけられたことも、全部」

 

紫紺の瞳に決意を宿し、エミリアは愛おしげに結晶の表面を指で撫ぜる。

その横顔がハッとするほど美しく思えて、スバルは小さく息を呑んだ。そのスバルに気付いたエミリアが「ん?」と上目にこちらを見たので、スバルは鼻を擦る。

 

「あー、いや、その……エミリアたん、感じ変わったよね。なんつーか、可愛いのは前からだけど、ちょっと強い感じになった?」

 

「だったら、それってスバルやみんなのおかげ。私、貰いものばっかりだから。早くみんなに色んなもの、返せるようになりたいな」

 

「貰いものっつーなら、俺もそればっかな気がすんだけどなぁ」

 

スバルもエミリアも、共に無力さを痛感してきた者同士だ。

だからといって傷の舐め合いがしたいわけでもない。エミリアの今の態度に、スバルはそれを感じて頼もしくも、寂しくもある。

やっと、少しは自信を持って彼女を支える力の一つも得られたのに、肝心のエミリアはそれを必要としないぐらいまで勝手に走っていってしまう。

ずっと走っているのに、追いつけない気さえしてくるのだ。

 

「ところで、スバル……あの、ね」

 

「うん?」

 

「墓所の中の二人、遅いよね。……うん、遅い」

 

感傷にスバルが浸っていると、ふとエミリアが言葉を詰まらせながら話しかけてくる。チラチラと彼女が視線を向けるのは、相変わらず変化のない墓所だ。

ただ、それと裏腹にエミリアの方の顔色がどんどん変わる。横顔が朱に染まり、一族よりわずかに長い耳まで真っ赤に染まるのを見て、スバルは慌てる。

 

「え、エミリアたん!?なんかすごい勢いで顔が赤くなってるけど、だいじょび!?」

 

「だ、だいじょび。全然平気です。それより、その、お話があります」

 

「は、はぁ、かしこまってますね」

 

なぜか敬語のエミリアに対抗して、スバルもなんだか敬語でお答えしてしまう。

エミリアは周囲を確認し、近くに誰もいないことを確認してから赤い顔のままでじっとスバルを見つめた。より具体的には、スバルの口元を見つめていた。

 

「あの、ね……スバルがその、私のことを……す、好きだって言ってくれたでしょ?」

 

「え、あ、はい。言いました。好きです」

 

「――っ。それは、その、すごーく、すごーく嬉しいんだけど」

 

顔を赤くしたエミリアの言葉尻に、スバルは嫌な流れを感じる。

なにせ、終わりが「嬉しいんだけど」だ。これに続く言葉は、スバルの想像の中では一つしかありえない。

これは完全に、『お友達でいましょう』の流れだ。

 

「でも、前にも言ったけど、俺はエミリアたんが俺に振り向くの待つし、振り向かせるために頑張るし」

 

「そ、れは……それも、嬉しいの。だけど、やっぱり、ああやって言ってもらっても、私の中でまだ、誰かを好きになるってどういうことかよくわからなくて」

 

「…………」

 

「前の、竜車のときもそうだし、今回の墓所でのこともそう。スバルは私を好きだって言ってくれるのに、私、また何も言ってあげられない。それが、すごーく残酷なことだなって、思って……」

 

言葉が弱々しくなるのを聞きながら、スバルは安堵に胸を撫で下ろしていた。

つまりは、エミリアの答えは現状維持だ。前と変わらず、それならいい。

 

度重なるスバルのしつこい告白を受けて、嫌になったのでないなら大丈夫だ。エミリアが迷っていてくれるなら、スバルは何度でも手を差し出せる。

そんなスバルとエミリアの、お互いの想いについての若干のすれ違い。それが、次のエミリアの一言でどうでもよくなる。

 

「ただ!その、私のお腹の赤ちゃんの話はちゃんとしないといけないと思うの!」

 

「――――」

 

――――。

――――――――。

――――――――――――。

 

「ぱーどん?」

 

「男の子か女の子か、まだわからないけど、どっちでもちゃんと可愛がってあげなきゃいけないしっ!でも、私、全然そういうこと教わったことないからどうしたらいいかわからなくて……こういうことは、お父さんと話をしなきゃって」

 

「ちょ、ちょ、ちょちょ、ちょ……ま、待って、待って……」

 

赤い顔でまくし立ててくるエミリアに、スバルは思考が追いつかない。

エミリアの方も早口で息を荒くしていて、興奮状態であるのがわかる。そんな彼女と今の自分で、まともに話し合いができるわけがない。

 

「エミリアたん、まず深呼吸して、ちょっと落ち着いて。俺も、今、深呼吸しながら軽く落ち着く。あ、ちょうどいいところに雪が」

 

しゃがんで雪を拾い、それを顔面に当ててスバルは物理的に頭を冷やす。エミリアが深呼吸するのを聞きながら、努めて冷静にスバルは考え込んだ。

エミリアのお腹に赤ちゃん。そして、母親はエミリア、父親はスバル。意味がわからない。スバル、間違いなく大人の階段を上ったことはない。

 

「エミリアたん。赤ちゃんって、赤ん坊ってことだよね?」

 

「そ、そうよ。王選の最中にこんなの、大変なことだと思うけど……でも、生まれてくる赤ちゃんは悪くないし、ちゃんと幸せにしてあげたいのっ!この子が、最初に愛されるべき相手にちゃんと愛される子にしてあげたい」

 

エミリアの決心は気高く、美しいものだ。

だが、話が食い違っている。スバルはエミリアと、そういうことをしたことはない。ならばエミリアが他の誰かと。いや、それも考えたくない。

 

「エミリアたん……赤ちゃんは、コウノトリが運んでくるわけでもキャベツ畑から回収できるわけでもないよ?」

 

「でも、男の人と女の人がチューしたら赤ちゃんができるんでしょ?」

 

「――――」

 

絶句した。

エミリアの性知識のなさにも、そう勘違いしている可愛さにも絶句した。

 

「スバル?どうしたの?スバルってば」

 

何もわかっていない顔で、エミリアが黙り込んだスバルの名を呼ぶ。

その顔にはどこか、母としての自覚による強さが生まれているようにも見えた。ひょっとすると、エミリアがちょっと強い気がしたのはそのせいだったのかもしれない。だとすると、この間違いを正すことはよくないことなのだろうか。

 

――否。断じて否。そんなこと言ってる場合じゃない。このままだと、エミリアは想像妊娠したまま話が進む。日に日に、イメージの中で膨らむお腹に話しかける慈母エミリア。それはそれで可愛いが、それをそれとしたら問題だ。

 

「スバル、ひょっとしてチューしたこと後悔してるの……?」

 

「全然してないし、何回でもしたいけど!?」

 

「そ、そうなんだ……」

 

ますます誤解が深まる流れに、スバルは脊髄反射したことを後悔する。

今のはエミリアの認識的には、スバルが何回でも子作りしたいと言ったに等しい。その気持ちはあるが、それはもっと段階を踏んでからの話だろう。

 

だから今、その最初の段階として、エミリアに正しい知識を授けなくてはならない。

しかし、それをスバルがしなくてはならないのは、どういう状況なのか。

 

「う、恨むぜ、パック……っ!」

 

ここにいない、今も深く結晶石の中で眠り続ける猫の精霊に、スバルは恨み言を呟いた。

脳裏で小猫が頭に手をやって、「てへぺろ」と舌を出すのが見えた気がした。

 

――葛藤の果てに、スバルが詳しい話をするのをラムやフレデリカに任せればいいと気付いたのは、エミリアに子どもの名前を決めようとせがまれている途中だった。