『カウント・ワン』


 

――最後の言葉が風にさらわれ、ナツキ・スバルの意識は途絶える。

 

「――――」

 

皮肉と言えば皮肉な話で、今回の『死』は織り込み済みの『死』だった。

だからなのか、『死』の瞬間の胸中は落ち着いていた――わけではなく、もちろん、『死』に瀕する行いへ自ら飛び込むことへの不安と緊張はあった。

だが、これまでと違い、予期された『死』であったがために、これまで以上にやってくる『死』に対して真摯に向き合えた気がする。

 

無論、自死を選んだことが、本気でシャウラの救いになったなどとは思わない。

 

死なせたくないから、死ねと命じてくれ。

ああまでスバルを案じたシャウラが、そのスバルに目の前で身投げされたのだ。その衝撃は計り知れないし、きっと彼女の四百年待ち続けた心を盛大に砕いたはず。

だから、あれはあくまでスバルの自己満足でしかない。おまけに、その結果を自分の目では見届けないという、最悪の自己満足だ。

だが――、

 

「――だからどうした」

 

自己満足でしかないと、偽善でしかないと、そう括られたならなんだというのだ。

この世の行いは結局、最終的にどう受け止めるかは自分の秤しか持てない。為されない善行に意味はなく、偽善なんて言葉は究極的には存在しない。

 

――全員、生存。

 

シャウラとの対話を経て、スバルが掲げる最終目標はそれと決まった。

――否、正確には、最初から全員の生存が目的ではあった。ただ、そこにシャウラを含めるかどうかの審判が確定し、スバルは全員を愛すると決めた。

 

誰一人、欠けずにこの砂の塔を取り巻く事変を解決へ導く。

そのためにできることを、何でもやる。

それが――、

 

「俺が、俺である意味。――そうだろ、『ナツキ・スバル』」

 

その、決意の一瞬と共に、長い長い、『死』の淵からの目覚めがくる――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――スバル、さっきの話は確かなのか?」

 

「ああ、ここまできて疑ってくれんなよ。せっかく、俺がひでぇ目に遭ってまで回収してきた情報だ。これが活かせないと俺が浮かばれねぇ!」

 

並走する美丈夫の横顔に悪態めいた返答をし、スバルは小さな掌を引いて走る。

四層の通路を駆け抜け、目指すは二層『エレクトラ』――もどかしさを抱えながら、ベアトリスの手を引いて走るスバルを、ユリウスの黄色い瞳が横目にする。

 

「スバル、顔色が優れない。やはり、本の中の出来事は……」

 

「しんどかったことは隠してねぇだろ。まさか、大人しく緑部屋に引っ込んでろなんて言い出さねぇだろうな、お前」

 

「この状況でなければ安静にすることを勧めるところだが、生憎とてんてこ舞いでね。今は使えるものなら砂粒でも使わなくてはならない」

 

「言うに事欠いて砂粒扱いかよ……」

 

「少しの風にさらわれかねない。できれば、目の届く位置にいてほしいものだ」

 

瀟洒な物言いに目を細め、スバルは風にさらわれるとは皮肉な話だと思った。

実際、体感的にはほんの数分前のスバルの『死』は風にさらわれた。ユリウスがスバルの存在を砂粒に例えたのも、あながち間違いでもない。

 

「でも、砂粒には砂粒の意地がある」

 

「それに、その砂粒にはベティーがついてるかしら。つまり、最高に可愛いお供付きの砂粒なのよ」

 

「なんか、お前の靴の中に入ってる砂っぽいな」

 

「そういう意味じゃないかしら!」

 

頬を膨らませるベアトリスに笑いかけ、スバルは腕に力を込めてその体を引き寄せる。「ひゃっ」とベアトリスが悲鳴を上げ、軽い体がスバルの胸に収まった。

手を引いて走るのも乙なものだが、今は速度を重視したい。幸い、ベアトリスの体は天使の羽のように軽いので、抱えて走るのも楽勝だ。

 

「まぁ、天使の羽なんて持ったことないけど」

 

「そろそろ、雑談は終わりだ。――スバル、しつこいとは思うが」

 

「ああ、しつこい。安心しろとは口が裂けても言えねぇが……レイドの奴と、『暴食』が接触するのは絶対だ。それを、食い止めにいく」

 

足を止め、ユリウスが正面の、二層へと続く大階段を見据えて問うてくる。その質問を遮り、スバルは確信があると断言した。

これが嘘であるなどと、絶対にありえない。なにせ、ユリウス当人から聞かされた話なのだ。そして、これの阻止ができれば――、

 

「レイドの無茶苦茶ぶりに、一つセーブがかけられる」

 

「……いずれにせよ、この混乱の最中に彼が乱入してくることは避けたい。彼の動向を確かめるだけでも、足を運ぶ価値は十分にある」

 

大階段に足をかけ、ユリウスがスバルに頷きかけた。それに頷き返して、スバルもベアトリスを抱いたまま、階段の一段目を踏む。

そして――、

 

「――ぐ」

 

「スバル、やっぱり具合が悪そうなのよ。本の影響が出ているかしら」

 

一瞬、ぐらりと頭の揺れたスバルを見て、ベアトリスが不安げに頬に触れてくる。その小さな掌の温かみに安らぎを得ながら、スバルは「大丈夫」と首を振った。

 

「読書疲れで知恵熱ってんじゃない。それに、ユリウスにも言った通りだ。今は寝込んでる場合じゃない。――みんな、力を合わせるときだ」

 

「……本当に限界なら、そうなる前に絶対にベティーに話すのよ」

 

「……ああ、わかってる」

 

念押しするベアトリスに答えて、スバルは深く、大きな息を吐いた。

体がだるい。頭が重い。嘔吐感が絶え間なく押し寄せ、全身の血管に血の代わりにコールタールでも流し込んだような停滞感がある。

これらは全て、スバルが『コル・レオニス』でラムの不調を引き受けた結果だ。

 

「――――」

 

収穫だったのは、『死に戻り』を跨いだあとも、『コル・レオニス』の存在が継続してくれたこと。――『死』の記憶と同様に、権能も持ち越せたことだ。

そのおかげで、現時点での仲間たちの居所は把握できている。みんな、スバルの指示に従ってくれていて、それぞれがそれぞれの応戦を開始し始めていた。

その仲間の反応の中には、バルコニーでメィリィと奮戦するシャウラの存在もある。彼女は確かにそこにいて、スバルたちの――否、スバルのために戦ってくれていた。

 

「必ず、助けてやる」

 

短く呟いて、スバルは先を行くユリウスの背中を追った。

塔の一層を飛び越えて、その上の層と通じる大階段は長い。が、それに弱音を吐いている暇も、泣き言を漏らしている余裕もない。

全身が爛れ、骨が割れ砕けようとも、この状況を打破するために必要な対価だ。

そして――、

 

「――スバル、つくぞ!」

 

ユリウスの凛とした声が響いて、スバルは息を切らしながら顔を上げた。すると、最上段に到達したユリウスが半身で振り返り、スバルを手招いている。

それに従い、階段を駆け上がった瞬間、開けた空間に出迎えられた。

 

「――――」

 

丸く、フロア一杯をぶち抜いた、複数の部屋がある四層とは対極の間取り。その存在価値の全てを、『試験』に割り切った二層『エレクトラ』への到達だ。

そして、スバルとベアトリス、ユリウスの三者が到達した『エレクトラ』では、初代『剣聖』レイドと、『暴食』の大罪司教が――、

 

「――オイ、オメエ、こンなもンかよ、オメエ。冗談じゃねえぞ、オメエ。オレを楽しませにきたンじゃねえのかよ、オメエ。足りねえよ、オメエ。笑わせンな、オメエ。いや、せめてオレを笑わせろや、オメエ。面白くも何ともねえぞ、オメエ」

 

その片足を掴まれ、容赦なく床に叩き付けられる少年に、『剣聖』レイド・アストレアが延々と管を巻いている場面に出くわした。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――――」

「これは……」

 

目の前の光景を凝視して、呆然と呟いたのはユリウスだ。しかし、同じものを見るスバルの心境も、彼の呟いたそれと全く変わらない。

ならば、どんな光景を予想していたのかと言われれば難しい話だが――、

 

「ああン?なンだ、オメエら。オメエらまできやがって、ずいぶンと熱心じゃねえか。それとも、用があンのはオレじゃなく、こっちの奴の方かよ?」

 

「か、か、か……」

 

そう言って、レイドが左手で自分の胸のあたりを掻きながら、もう片方の手で足を掴んだ少年――『暴食』の大罪司教を逆さに持ち上げ、胡乱げな目をする。

前述通り、どんな光景を予想していたのかと言われれば難しい話だが、少なくとも、この光景はスバルの想定をはるかにぶっちぎっていた。

 

「レイドと『暴食』が交渉してた、って聞いてたんだが……」

 

「交渉……これが、かしら?ベティーには、交戦でもまだ手ぬるい表現に思えるのよ」

 

「ああ、同感だ。これを話し合いとは呼びづらい」

 

と、スバルの呟いた言葉に、ベアトリスとユリウスが同意に達する。が、その二人の反応はスバル的には腑に落ちない。

レイドと『暴食』の接触、これを交渉と表現したのは、前回、同じような状況を目撃したはずのユリウスから聞いた話なのだから。

ともあれ――、

 

「『暴食』が叩きのめされた現場、でいいんだよな?」

 

誰に対する問いかけというわけではないが、スバルは見たままをそう言葉にする。

 

二層『エレクトラ』の広い空間には、なるほど、おそらく『暴食』とレイドとが一戦を交えただろう痕跡が各所に残っていた。

それは踏みしめた床のひび割れや、斬撃が走ったと思われる壁の亀裂、その他にも発火した焦げ跡や、なかったはずの土塊が転がっているなど、それこそ『暴食』の本領を発揮した、あらゆる絶技のデパートとばかりの大盤振る舞いだったに違いない。

 

――その技のデパートが、レイドという天災に木端微塵に砕かれただけで。

 

「地震、雷、火事、全部レイドかよ……」

 

「で、どうすンだ、オメエらよ。『試験』やってくかよ?ちったぁマシな面構えになってやがるオメエはやってもいいぜ。けど、稚魚、オメエはダメだな。ああ、ダメだ」

 

「何故、彼は例外と?」

 

「見りゃわかンだろ。万全でも遊び相手にならねえ奴が、不全どころか穴ぼこだらけじゃねえか。そンなンでオレの前に立つンじゃねえよ。指一本で殺したくなンだろうが」

 

「ぎ、ぐぎゃあああ!!」

 

言いながら、レイドが掴んでいる『暴食』の胴体へ、左手の指を突き込む。容赦なく腹を抉られ、『暴食』の大罪司教が醜い悲鳴を上げた。

『暴食』の外見年齢がどこまであてになるかは不明だが、それでも、外見上は十三、四歳の少年が大人にいたぶられているのは見るに堪えない。

どうやら、その感覚はユリウスも同様だったようで――、

 

「レイド・アストレア、あなたにも剣士としての矜持はあるだろう。ならば、そんな少年を必要以上に痛めつける理由は……」

 

「オイ、オメエ、馬鹿言ってンなよ」

 

「――――」

 

どうあれ、仕切り直して話がしたいと申し出ようとしたユリウスへ、レイドが声の調子を変えないまま、ただ底冷えするような剣気を宿して言い放った。

レイドは足を掴んだ『暴食』の体を左右に揺すり、

 

「剣士の矜持だぁ?ご大層にそンなもン広げンなら、それこそ剣士の覚悟ってもンがあンだろうが。死ぬ覚悟もなしにケンカすンのかよ。そンな舐めた態度だってンなら、痛い思いしねえとわからねえのもしょうがねえンじゃねえか。あぁ?」

 

「――――」

 

剣士の覚悟と矜持、議論をそうした土俵に乗せられれば、分が悪いのはユリウスだ。先に矜持を掲げた以上、レイドの覚悟の話には一定の説得力がある。

それに、見え方こそ痛々しいが、

 

「『暴食』が倒れてくれるんなら、結果オーライではある……」

 

当然だが、『暴食』の大罪司教はスバルの掲げた全員生存の目標に含まれない。

スバルが救いたいのは、あくまでエミリア、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、エキドナ、ユリウス、シャウラ。それにパトラッシュとジャイアンの二頭。

『暴食』とレイドはその対象外だ。その両者が潰し合い――そう呼ぶには一方的すぎる結果だが、そうなる分にはスバルたちに利があるのだ。

 

しかし――、

 

「大体、オメエよ。こいつはオメエのお友達かよ。だったら、オメエがそンなカッカすンのもわからねえ話じゃねえが……」

 

「いいや、断じて否だ。その、『暴食』の大罪司教は私にとっても仇敵であり、最悪、戦いの果てに互いの命を奪い合うことさえあるだろう相手だ」

 

「へえ?なら、なンでそう怒ってンだ?獲物が横取りされたからかよ?」

 

「――あなたが、剣士の誇りを足蹴にするからだ」

 

真っ直ぐ、ユリウスが『剣聖』――剣の頂に立ったものへ与えられる称号、それを最初に冠した男へと、そう告げる。

その、侮辱ともつかないユリウスの断言を、レイドは眼帯に隠れていない方の青い瞳を細めて黙して聞いている。

そんな『剣聖』の静観に、ユリウスは空気を切り裂くように続けた。

 

「剣士と、戦士と、騎士と、戦いに身を置く覚悟のあるものならば、その戦いの果てに命を落とすことは承知していよう。しかし、それはあくまで戦いの果て、その死力を尽くした果ての落命であるべきだ。断じて、勝者が敗者の命を弄ぶなどあってはならない」

 

「……耳が痒くなること言いやがる。そンな話、どこの誰が聞くンだよ」

 

「青臭い理想と、綺麗事と言われても構いはしない!だが、その理想と、綺麗事を体現するのが、私の信じる騎士の在り方だ」

 

「――――」

 

そう堂々と言い切り、ユリウスが己の騎士剣を抜き放った。

聞いた話では、一度は折られた騎士剣――それは愛用していた剣ではないはずで、手に馴染んでいるかも怪しいもの。

だが、最も彼の根幹になくてはならないもの、それは揺るがない。

それはきっと、彼自身の中で、一番深いところでずっと、輝き続けているのだから。

 

その輝く何かが、ユリウスにレイドの非道を見逃させない。

たとえ、その非道の犠牲になるのが悪逆の徒である大罪司教であっても例外ではない。

 

「――騎士の在り方、ね」

 

ふと、その呟きが『エレクトラ』の空気を揺らした。

 

それは、静かな声音だった。

それは、さしたる感情を孕んだように聞こえなかった。

それは、何気ない退屈な響きの中に紛れたようにしか響かなかった。

 

――だが、それは、初代『剣聖』レイド・アストレアの噴火の合図だった。

 

「オイ、オメエ、いつまで寝てやがンだ。とっとと起きろや」

 

「ぐぎぃッ!」

 

みしみしと、掴んだ足を握り潰すような握力が手にこもり、足を潰されかける『暴食』の悲鳴が上がる。そうして、レイドは逆さの大罪司教を見下ろし、

 

「オメエ、面白えこと言ってたな。オレを喰らい尽くして、味わい尽くして、舐り尽くすって言ってたか。――それを、させてやるよ」

 

「――。ぎひ、かは、あはははッ!なんだそれッ!何それ何それ、急になんだよッ!どうして急に、そんな気になったのさ、赤毛のお兄さん!それが嫌だからって、僕たちや俺たちをこんだけ振り回してくれたくせにさァ!」

 

「気が変わったンだよ。――あぁ、そうだそうだ」

 

痛みに顔を歪めながら、調子を取り戻そうとする『暴食』をレイドが睨む。それから、ふとレイドは何かに気付いたように首を巡らせ、

 

「どうせすぐ、オメエらみてえなのが邪魔するだろうがよ」

 

ぐんと、言いながらレイドが斜めに踏み込む。

瞬間、レイドが立っていた場所に紫色の輝く結晶弾が叩き込まれた。甲高い、ガラスの割れるような音を立てて、紫矢そのものと床が砕け散る。

しかし、狙いは外した。そして、狙いをすかしたレイドは一足跳びに、今の攻撃を仕掛けたスバルたちへと距離を詰めて、

 

「――っ!スバル、マズいかし……」

 

「おらよ」

 

ベアトリスの警告も空しく、スバルの胴体へと横殴りに『暴食』が叩き付けられる。

人間を軽々と鈍器のように扱い、止めようのない威力がベアトリスを抱くスバルを容赦なく吹き飛ばした。

 

「がはっ!」

 

「躊躇なくてよかったぜ、オメエら。ケンカって意味じゃ、そっちの美人よりよっぽどマシだ。ま、実力が欠片も伴っちゃいねえがな」

 

レイドの寸評に答える余裕もなく、スバルはベアトリスを抱きかかえて転がるのが精一杯。今の一発で内臓がひっくり返り、ラムの負担と合わせてごっそりと体力と、何なら命の源のようなものまで削られた気がしてならない。

 

「スバル!ベアトリス様!く……っ」

 

そうして、吹き飛ぶスバルとベアトリスを案じながら、ユリウスが一瞬で距離を詰めたレイドへ向けて刺突を放つ。しかし、レイドはこれをゾーリを履いた足で上から踏み潰し、軸足を入れ替えてユリウスの胴へ蹴りをぶち込んだ。

それを、ユリウスはとっさに引いた騎士剣の柄で受けたが、衝撃波に貫かれるのまでは防げない。貫通力のある一発に腹を掻き回され、大きく後ろへ下がる。

そして、その間に――、

 

「そら、試してみろ。オレを食い荒らせるか、このままオレに遊ばれて死ぬか、どっちにしろ、欲しけりゃ動くしかねえ。それが人生ってもンだろ、オメエよ」

 

「――あァ、ああ、ああッ!わかった、わかったよ、わかったさ、わかったとも、わかったから、わかってるから、わかりたいから、わかっているからこそ!暴飲ッ!暴食ッ!アンタの、お望み通りにしてやるさッ!喰らわずには、いられないッ」

 

逆さのまま、顔のすぐ前に引き上げられた『暴食』がレイドに吠える。そして、『暴食』は手を伸ばすと、眼帯に覆われたレイドの左目のあたりを掴んだ。

それから大口を開け――、

 

「――レイド・アストレア」

 

ぺろりと、何かをめくるように『暴食』がレイドから手を離した。そして、その何もないはずの掌を愛おしげに見やり、舌を当てる。

そのまま、見えない何かを咀嚼し、貪るように啜る音が鳴り響いた。

そうして――、

 

「――ぁ」

 

ふっと、変化は一瞬で到来した。

それはまるで幻か何かだったかのように、レイドの姿が瞬く間に消失する。確かにいたはずの空間に長身が消えて、足を掴まれていた『暴食』が床に落ちた。そのまま、器用に手をついて反転、『暴食』は身軽に着地し、自分の掌を見る。

その瞳に去来するのは、贅を尽くした美食が皿の上から消えてしまったような虚無感、寂寥感、失望感に近いもので――、

 

「あァ、すっごいなァ。あんな味が、こんな味が、どんな味がするのか、たくさんたくさんたっくさん想像してたけど……予想以上だったッ!」

 

「レイドを、喰った……?」

 

「あァ、見てたろッ!?喰ったとも!喰ってやったとも!いいなァ、最高だなァ、これが想像だにしない味わいッ!『悪食』なんて言われてる僕たちでも、こいつの豊潤な味わいにはなるほどッ!ライの言い分がわからなくも――」

 

のけ反り、自分の鋭い犬歯に触れながら、『暴食』がレイドの味わいを賛美する。考えうる限り、人類史上最悪の食レポ――それが、中途で止まった。

邪魔が入ったわけではない。原因は、『暴食』自身にある。

 

「――んあ?あ、あ、あー、あー、ああああー?」

 

「い、いったい、今度は何を始めたのよ……」

 

「いや、あれは……」

 

自分の喉や腹に手を当てて、発声練習にも似た動きを始めた『暴食』。その様子をベアトリスが不気味がるが、スバルには異変の心当たりがあった。

もしも、今しがたのレイドと『暴食』のやり取り――あれが、ユリウスの語った『交渉』だったとしたら、

 

「ま、ま、まー、待って、ひへ、ぎひ、ぎひひッ。おかし、おかしいって、おかしいじゃないかッ!だって、こんなの……オメエ、変だろ?」

 

「――――」

 

「変なこたねえよ、オメエ。喰うか喰われるか、それが生きるっつーことだろうが」

 

自分の首を絞めながら、自問自答のような形で言葉を発する『暴食』。その口調が明らかな変化を迎え、次いで、その口調の変化に引きずられるようにして、『暴食』の肉体そのものにも変化がやってくる。

それは月の満ち欠けのように、いつの間にかという表現が適切な変化だった。

 

誓って、スバルは余所見をしていなかった。

それは胸の内にいるベアトリスも、当然、剣を構えるユリウスも同じだ。しかし、三人の視界に捉えられたまま、『暴食』はその姿を一瞬で消していた。

そして、代わりに『暴食』のいた場所に立つのは――、

 

「――ああ、やっぱ生の体は違ぇな。肉に血が通ってる感じがしやがる。一丁前に腹も減ってやがるじゃねえか。腹ごしらえぐらいしてからこいよ、マセガキが」

 

そう言って、瞬く間に選手交代を果たしたのは、ほんの数十秒だけプレアデス監視塔という舞台から退場し、すぐに舞台のど真ん中へ返り咲いた存在、レイドだ。

レイド・アストレアが、『暴食』の大罪司教の肉体を奪い、現世への復活を遂げた。

 

「これが……」

 

ユリウスによるところの、レイドと『暴食』の交渉の結果。

もちろん、この場にスバルたちが介在したことで、レイドと『暴食』の会話内容の細部は変わっただろうが、大まかには変わらなかったはずだ。

つまり――、

 

「何が交渉だよ、気取った言い方しやがって……」

 

「スバル、言ってる場合じゃないかしら。『暴食』が消えて、レイドが……」

 

前回、事情を伝えてきたユリウス風の言い回しに悪態をつくスバル。その腕の中でベアトリスがさらなる警戒を呼びかけるが、スバルはその頭を軽く撫でて、それからレイドの方を見やり、

 

「厳密には、喰った相手を再現する『暴食』の権能を逆手に取って、相手の自我を塗り潰した……だよな?」

 

「難しいこと言ってンじゃねえよ。ンなどうでもいいこと、オレが知るかよ。で、オレが知りもしねえことでえばってンじゃねえ、稚魚が。稚魚?あー、うン?オメエ……ああ?オメエ、これオメエ、あれだな、オメエ」

 

「――?」

 

精神による肉体の乗っ取りだが、その事実とは余所にレイドが顔をしかめる。彼は珍しくうんうんと唸りながら、そっと自分の眼帯に指をかけた。そしてそれをめくり、特に眼帯の必要がない、健在な青い双眸でスバルを見る。

見て、見据えて、見つめて、

 

「――オメエ、気持ち悪ぃな」

 

「――――」

 

「そンなンでよく頭おかしくなンねえな。いや、なってやがンのか?なってやがっからそンなンなのかよ。わからねえな。考えたこともねえ」

 

何を言っているのかと、スバルは本気でレイドの態度に困惑する。

困惑ついでに、全身を取り巻く悪寒と嘔吐感は臨界点に達するところだ。当然だが、ラムの負担はラムの体がボルテージを上げれば上げるほど、本来跳ね返ってくるはずのバックファイアをスバルへと叩き込んでくる。

 

今回、スバルはラムと直接顔を合わせていないから、ラムが自分の体が好調である原因がどこにあるのか、それを知る術がない。

そう考えると、前回もラムはスバルに相当配慮してくれていたらしい。

そんな、この場にいないラムの配慮に二回死んだあとで気付くが――、

 

「なるほどなるほどなるほどだ。オレにゃわからねえが、どうやらこいつらの狙いはオメエみてえじゃねえか。なら、話は早ぇ」

 

「レイド!あなたの相手は私だ!」

 

踏み込み、ユリウスが斬撃を放った。だが、それをレイドは懐から抜いた箸で受けようとする。しかし――、

 

「あン?」

 

斬撃がレイドの箸の先端を掠め、受け損ねたレイドの右腕から血が噴く。それを見て、レイドは胡乱げに、ユリウスもわずかな驚きに眉を上げた。

そして――

 

「――――」

 

それを、確かにこの目で見たことこそが、スバルにとっての収穫だ。

 

「ちっ」

 

舌打ちして、レイドが指の間でペン回しのように箸を回すと、それで器用にユリウスの騎士剣を弾いた。そのまま、踏み込み一発でユリウスとの距離を消滅させると、とっさに身を引く彼の胴体へ掌を当て、

 

「あなたの相手は私だ、っつったか?」

 

「く――」

 

「後ろにお姫様抱えてて、オレとやり合えるわきゃねえだろうが!」

 

ひねりを加えた掌底、それがユリウスの胴体で爆ぜ、血を吐きながら細い長身が後ろへ吹っ飛んだ。床に長い足をついて勢いを殺そうとするが、それでも殺し切れず、ユリウスの体は地面を跳ね、そのまま転がっていく。

 

そうして、距離の開いたユリウスとの戦闘を一時切り上げ、レイドが振り返り、

 

「しっ!」

 

スバルが、そのレイドの横顔目掛けて腰の裏の鞭を放った。しかし、体が覚えているなんて奇跡は起こらず、鞭の先端は見当違いの方向へ飛ぶ。

なくした記憶の影響は、精神だけでなく肉体の反復動作にまで影響している。それを痛感する結果に、スバルは重苦しい息を吐いた。

それと同時に――、

 

「オメエ、こンなつまらねえ小細工で……」

 

「――そのつまらない小細工が、お前を葬る最後の一押しなのよ」

 

呆れを通り越し、いっそ怒りを浮かべたレイド、その背後で大きく手を打つ音がする。見れば、それはスバルから離れ、両手を自由にしたベアトリスだ。

だが、手は離れても確かな繋がりがある。その、スバルとのパスから、ベアトリスはなけなしのMP的なものを抽出――大魔法を行使する。

 

「――ウル・シャマク」

 

ベアトリスの詠唱が完成した直後、空間に生じるのは巨大な黒い穴だ。

突如として宙に出現したそれは、どこへ続いていて、どこまで深いのかわからないような原始的な恐怖を伴う存在として顕現し、正面のレイドを呑み込もうとする。

 

「あれ、は……」

 

一目で、それが空間に作用する大魔法であるとわかる。

それは知識というより、イメージの問題だ。ベアトリスがスバルにはもったいないレベルの精霊との話は聞いていたが、実際の大魔法の迫力は桁違い。

これがあることも、スバルは知れなかった。これは、収穫だ。

その黒穴がレイドを呑み込み、彼の『剣聖』をどこへ飛ばしてしまうのか――、

 

「なンだ、空気かこりゃ。空気なンて、どこにでもあるもンでオレが止まるかよ」

 

「――――」

 

そんな絶大な魔法を、レイドは箸の一振りでいとも容易く突破する。

文字通り、空気を斬るような気軽さ――否、事実、彼にとってはそうなのだろう。彼はできることを、わざわざ迂遠に自慢するような性質ではない。

空気を斬ったから、そう説明した。それだけだ。

 

「次元斬りって、俺の知る限り、かなり上位能力のイメージだぞ……」

 

「オイオイ、カッコいい呼び方すンじゃねえよ、盛り上がンだろ。盛り上げたとこで、オメエがずんばらりってだけじゃぁ、面白くも何ともねえだろうが」

 

ひゅんと、ベアトリスの魔法を斬ったのと同じ角度で箸が振られ、次の瞬間、スバルの体が胸から腰にかけ、斜めに爆ぜた。

 

「が、ぁぁぁ!!」

 

「スバル!!」

「スバル――っ!」

 

灼熱の感覚を味わい、その場で倒れ込むスバルをベアトリスとユリウスが呼ぶ。その二人の声にスバルは奥歯を噛み、血走った目でレイドを睨んだ。

そして、駆け寄ってこようとする二人には掌を向け、その足を止めさせる。

 

「だ、いじょう、ぶ……」

 

首を横に振り、二人に自分の心配はいらないと訴えかける。もちろん、そんな言葉を伝えたところで、それで二人の納得が引き出せるはずもない。

 

胸の傷は、浅い。――否、浅くはない。浅くはないが、痛くはない。我慢できないほどではないに言い換える。とにかく、辛いが、大丈夫なのだ。二人に辛い、しんどい思いをさせるほどの価値はない。奥歯を噛みしめ、込み上げる血を――嘔吐感?どちらにせよ、それを吐き出すのを堪えろ。前を向け、レイドを睨め、奴をつぶさに観察しろ。

 

「それで、オレに届くかよ、オメエ」

 

呆れ顔で、レイドが唇の端から血を流したスバルを見ている。

そのレイドに向けて、スバルは手を突き出し、指を一本立てた。

 

「――あ、ぁ。届くぜ」

 

今でも、ここでもない、場所で。届く。

エミリアを、ベアトリスを、ラムを、レムを、メィリィを、エキドナを、ユリウスを、シャウラを、パトラッシュを、ジャイアンを、救ってみせる。

 

誰一人、欠かすことなく。

『暴食』とレイドは、例外だ。――『ナツキ・スバル』ではない、ナツキ・スバルも。

 

だから、今この瞬間に――、

 

「――これが、カウントワンだ」

 

逆襲のために必要な『死』を積み重ねて、『ナツキ・スバル』を完遂する。

最後の最後、そう宣言したスバルへと、レイドの青い瞳が鈍く閃いた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

■1カウント

・レイドと『暴食』の戦いは止められない。レイドと『暴食』の合一も阻止は困難。

・ユリウスなら、勝機はある。

・――ナツキ・スバルは、勝ち目がない。