『魔女の企みと提案』
息苦しさに喘ぎながら、スバルは自分が緑の草原に手をついているのだと遅まきに気付いた。
四肢を着く地面から、濃い草の匂いが鼻孔を掠める。雨上がりに日を浴びた草原のように、むせ返るような自然の大気がスバルの全身を淡く包み込んでいた。
首をめぐらせ、スバルは正面にいるエキドナを見る。
彼女はいつものように、草原の中の小高い丘に、テーブルと椅子を並べて茶会の準備を整えながら客人を――スバルを待っている。
いつものように。――そう、いつものように、だ。
「色々と言いたいこと、聞きたいことがあると思うけど……まずは座って、お茶の一杯でも飲み干してからでどうかな?」
「……お前は、自分が今、俺にしたことを振り返って、それでも俺が友好的にその席に腰掛けると思うか?ましてや、茶会に応じてやるとでも?」
「応じるとも。君は怒り狂って我を忘れる本能よりも、打算的に冷徹を装える理性の方を優先できる人間だ。今、ボクとの話し合いを遠ざけてしまうより、ボクと有意義な話し合いをした方がメリットが多い……そう、内心で判断できているだろう?」
「――――」
怒りに声を押し殺すスバルを前に、エキドナは余裕の態度を崩さない。
上から、まるで種が見え見えの小細工を弄そうとするスバルを嘲笑うような言葉に、図星を突かれるスバルは肯定も否定も態度を選べない。
ただ、唯々諾々とその言葉に従ってやるほど、踏みにじられたものは安くない。
「エキドナ……本意じゃなかったと、そう言え」
「うん?」
「さっきの……色欲の魔女とのやり取りは、お前にとって本意じゃなかったんだと、そう言え。そう言って、悪かったって一言、そう言ってくれ」
「…………」
「あれは仕方なかったんだと。予想外のことで、ああなるはずじゃなかったんだって。そう言ってくれ。そう言ってくれれば……俺は、お前を責め抜くことはしない」
エキドナの言は正しい。
スバルが先に進むためには、彼女の知識が、協力が必要だ。
だが、許せないことは許せない。エキドナが色欲の魔女を使って、スバルの決して侵してはならない大切な場所を――スバルの『聖域』を踏みにじったのは確かなのだ。
だから、エキドナを許して、彼女の言う有意義な話し合いに応じるために、それはスバルにとって必要な要求だった。
「……何を言い出すかと思えば」
そして今の一瞬で、スバルの内心の弱さと頑なさを理解したのだろう。
思わず、といった具合でエキドナは呟き、それから唇を噛みながら返答を待っているスバルを見やる。ゆっくり、己の白髪の先端を指でいじりながら、
「君の願う通り、あれは色欲の魔女であるカーミラの暴走だよ。ボクは止めたんだが、彼女が言うことを聞かなくてね。それで、『試練』にかこつけて君を籠絡しようと、君にとってもっとも触れてほしくない部分を暴いて、溺れさせようとしたんだ」
「――――」
「危うく、術中にかかるところを君は自力で脱した。そして、籠絡に失敗したカーミラの気が緩んだ隙に、主導権を奪い返してボクの城へ君を招き寄せた。今、こうしてお互いに顔を合わせられたのは、僥倖だったといえるだろうね」
「――――」
「……と、ボクがそう言ったのなら、満足なのかな?」
早口に、スバルの望む返事を並べ立てて、最後にそれを裏切るエキドナ。
スバルは無言で視線を上へ向け、問いを発したエキドナの顔から視界を外す。
「……何のつもりで、お前はあんな風に魔女をけしかけたんだ」
「カーミラが言っていなかったかな?『試練』に挑み、その心を擦り切れさせてしまいそうな君を、救い出してあげたかったからだと」
「あれは、あれは色欲の魔女の本心なんかじゃないだろ。あいつの言葉が正しいってんなら、あれは俺がレムに言ってほしいと勝手に思ってた弱さそのものだ。色欲の魔女が俺に好意的にする理由がねぇ。……お前の、指示だろ」
「少ない発言内容からよくもそこまで……そうなると、言い訳は通じないだろうね」
あっさりと、エキドナは言い繕いをやめて肩をすくめてみせる。それからエキドナはテーブルの上、自分の分のカップを口元に運んで傾けながら、
「君の考えた通り、カーミラを差し向けたのも、彼女に君の心の中にいる女の子を装わせたのもボクの指示だ。なりきり不足で見破られたことに関しては、ボクがというよりカーミラの問題ではあるけどね」
「……なんで、そんな真似を」
「端的に言ってしまえば君は怒るだろうけどね。――それが一番効率的で、何より可能性が高い手段だったから、だよ」
悪びれもせず、エキドナは表情の消えるスバルの前で続ける。
「第二の『試練』に、君がこのタイミングで取り込まれることはボクにとっても予想外だった。何より、その内容がここまで君に深々と突き刺さるということも、正直なところ、実際の状態を見るまでは想定していなかったと言ってもいい」
「――――」
「おっと、『試練』を覗き見ていたことに関しては目をつむってもらいたいな。第一の『試練』のときにも断っておいたと思うけど、これは魔女が用意した『試練』なんだぜ?性格の悪いオチがついてることを、とやかく言われるのは好かないな」
「……続けろ」
「ともあれ、横から『試練』に臨む君を見ていて思ったんだよ。――この状態のまま一人きりで『試練』に挑ませ続けたら、遠からず君は擦り切れてしまう……とね」
それは大げさな意見でもなんでもなく、事実としてそうだったろう。
それを否定できるほど、スバルは自分自身の足下が見えていないわけではない。
第二の『試練』――ありうべからざる今――それと向き合わされて、見せつけられたいくつもの場面、出来事、悲劇。それは、スバルの強がりと意固地と勘違いを、根こそぎへし折って余りあるものだった。
「だから介入した。擦り切れてしまうのも、結果の一つではある。ボクはあらゆることに試行錯誤する、実験をする。それは、ボクの中で飽きることなく結論を求める好奇心が産声を上げ続けるからだ。その満たされない強欲を満たすために、ボクはあらゆる結果を求める。――君が『試練』に挑み、折れるという結果も例外じゃない」
「それなら、それこそどうして介入したんだ。俺が折れるのも、結果っていうお前が求めるものの一つなら、放置しておいたって構わなかったはずだ。俺がしょせん、そこまでの奴なんだって結果が得られれば、お前はそれで満足なんだろ?」
「それも一つの結果だと、受け止める視野はもちろんあるさ。……あるけれど、求める結果を出すために何もしない、という意味じゃないんだよ、それは」
「なに……?」
スバルの追及に、声の調子を落としたエキドナの返答。
それを聞いて、スバルは初めて、この場面で怒り以外の理由で眉根を寄せた。
彼女の言葉の意味を飲み込み、それが確かな形となるのならばそれは、
「俺が擦り切れて、消えてなくなる結果を拒否するために……お前は、あの状況を用意したって、そういうことか?」
「……それが結果として、君の大事な領域を侵したことに関しては言い訳のしようがない。だからこそ、君がボクに罵声を浴びせるというのなら、甘んじて受けよう。君の怒りは正しく、ボクのわがままは間違っている。それだけの話さ」
カップをテーブルに置き、エキドナが真っ直ぐ、丘の下にいるスバルを見つめる。
そこには先ほどまでの、そしてこれまでに見せた茶目っ気や戯れの感情はないに等しく、強欲の魔女は尽くせる誠意を全て込めて、スバルに相対していた。
その態度に、姿勢に、言葉に、圧倒される。
さっきまで胸中を占めていた、エキドナに対する言葉にし難い怒りや不信感といったものが、ひどく身勝手で利己的なものだったように思えてくる。
事実として、エキドナの助け――先の状況を、そうだったと言葉にすることへの抵抗感はいまだ根強く残っているが、それがなければスバルの心はどうなっていたか。
墓所の冷たい床の上で、心を砕かれて、すり潰されて、暗闇の中でかすかな光さえも見えなくなって、掻き消えてしまったことは想像に難くない。
感謝の言葉を伝えることなどできない。だが、怒りや罵声を浴びせるべき相手であるなどとは思えない。――それが、感情の落としどころだった。
「――――」
無言で立ち上がり、体についた草を払い落としながらスバルは丘の上へ。
椅子に腰かけるエキドナが、近づいてくるスバルを見ながらかすかに表情に痛ましげな色を走らせる。歩み寄るスバルがどんな言葉を投げてくるつもりでいるのか、何百年もの時間を過ごしてきた魔女であっても、読み切れずにいるらしい。
知識欲の権化。『強欲の魔女』。そんな相手に、そんな風に表情を歪めることができたという事実が、今は少しだけ心に安らぎを与えてくれた。
「――あ」
驚きに小さな声を上げるエキドナの前で、椅子を引いたスバルが対面に腰掛ける。
カップを口に運ぶことはしないが、話し合いのテーブルにつくという意思表示だ。不安げな目でこちらを見るエキドナに、スバルは頬杖をついて顔を背けながら、
「ドナ茶を飲む気はしねぇ。……お前と、有意義な話し合いはさせてもらうけどな」
と、堪え難い感情を飲み込んで、応じる度量を示したのだった。
※※※※※※※※※※※※※
「結局、第二の『試練』ってやつはどういうもんだったんだ?」
頬杖をついたまま、スバルはエキドナの方を見ないで問いかける。
それを受け、正面のエキドナはスバルの視界に入ろうとするように、椅子をずらして斜め前に移動しながら、
「君は、どういったものだったと考えているのかな?」
「煙に巻こうと……してるわけじゃねぇのか。いきなり答えを聞こうとするのは、虫が良すぎるってことかよ」
「そう意地悪な考えをしているわけでもない。君を怒らせるようなことをしてしまったからね。友好的に話ができる確認をする意味でも、もうちょっと君の声を聞いていたいと、そう思っているだけだよ」
それは強く、会話する相手の胸の内をこそばゆくくすぐる言葉だった。
スバルが平常心で、何の気負いもなくこの会話に臨んでいたのなら、きっと動揺して言葉を詰まらせる類の反応があったことだろう。
ただ、現状のスバルの心境で彼女の望んだ反応を返してやることなどできるはずもなく、スバルは小さな嘆息だけで短く応じ、
「『試練』の出だしは『ありうべからざる今を見ろ』だった。その枕詞で、見せられた光景があの内容だ。……ありうべからざる今ってのは、俺がこうしてここに至るまでの間に、今の状況を形作るのとは別の選択をした『今』ってことだろ」
考え方としては、ビジュアルノベルといったゲーム形式と同じものだ。
プレイヤーが要所要所で選択肢を選ぶことで、物語の内容と可能性を分岐していくゲーム。大仰な考え方をすれば、人生すらもその形式で繰り広げられる壮大なゲームであるといっても間違いではない。
人が何かの選択に直面し、自分の意思で物事を選択する――結果、可能性が分岐した世界の先が望まれるというのなら、それは正しく『人生』そのものだ。
「本来なら見れないはずの世界。ひょっとしたら、それは本当の『今』よりずっと幸せな世界で、ああしておけばよかったと後悔するのかもしれない。もしかしたら、それは本当の『今』よりもずっと不幸な世界で、今ここにある自分に感謝するのかもしれない。――本来の第二の『試練』は、そういった『今』と異なる『今』を目にすることで、正しくあるべき『今』を肯定できるか、といったところだった」
スバルの言葉を継ぎ、エキドナが第二の『試練』の概要を簡略的に語る。
それはスバルの想像した、『試練』の内容とほとんど相違がない。ただ一つ、その内容がスバルにとってのみ、深く鋭く突き刺さるものであったことを除けば。
「――俺が見た、違う『今』ってのは、本当にあることなのか?」
「…………」
「俺は、死んだらその場で『死に戻り』してきた。だから、自分の死後のことなんて見たこともない。……それ以前に俺は、自分が死んだ後に世界が続いてるだなんて、そんな風に考えたこともなかった。……違う、考えないようにしてきた」
だって、そうだろう。
スバルが『死に戻り』するのは、世界がどうしようもない手詰まりに陥ったからだ。その状況を打開し、大切な人たちを救い出し、スバルもまた最善の未来に至るために『死に戻り』はあったのだと、そう肯定することで命を費やす感覚に耐え忍んできた。
死後の世界の存在は、スバルのその前提を根底部分から覆してしまう。
心の安定のためにも、何より『置き去りにしてきた世界などない』と信じることで、あるかもしれない『置き去りの世界』の人々をスバルは救ってきたのだ。
だから、
「俺が死んだ後も、世界は続いてる……のか?俺の選択で世界は分岐して、俺がしくじって何もかもを取りこぼした世界には、守れなかったみんながいたのか……?」
「――――」
「どうなんだ、エキドナ。……答えてくれ」
顔を背ける選択肢を失い、スバルは斜め前に座るエキドナに懇願の視線を向ける。
エキドナは無言で、スバルからの注視を浴びながら、考え込むように己の顎に触れて、それから一度、目をつむった。
「『試練』について、一つだけ説明しておかなくちゃならない」
「…………」
「第二の『試練』である『今』は、あくまで仮想世界の光景を見せただけの現象なんだ。『試練』を受ける挑戦者……今回の場合は君だね。君の記憶の細部までを投影し、その上で『世界の記憶』が君の周りを形作る関係者、世界、大気、マナまでをも抽出し、過去・現在・未来の必要な情報を組み立てて、あの『今』を生み出す」
「…………」
「つまり、あれはどこまでもよくできた『非現実』だよ。勝手な想像や妄想とはまた別次元の再現度だし、仮の事実として『そういうこと』は起こり得る。ただ、あくまで『作り物の非現実』だ。本当にあったのか、という答えには頷けはしない」
「な、なら……」
「ただし」
エキドナの説明に、希望を見出してスバルは顔を上げる。しかし、光明の見えかけたスバルにエキドナは掌を差し出し、言葉を遮りながら、
「君の『死に戻り』の原理の、詳細のところは不明だ。君の『死に戻り』が『嫉妬の魔女』の手によるものであることは間違いないだろうが、『嫉妬の魔女』が君をどうやって『死に戻り』させているのかは疑問が尽きない。それは君の『死』を切っ掛けに世界を丸ごと巻き戻す力かもしれない。あるいは、存在するかどうかわからない別の世界という並行世界、そこにいる別の君に『君』を上書きする形なのかもしれない」
「あ……」
「もしも後者の原理を採用しているのだとすれば、並行世界なる世界は存在し、その世界では君の死後も、『君』のいない世界がああして続いているということになる」
「た、確かめる手段は……」
「――ない」
言葉を震わせるスバルに、エキドナは無情にも断言して首を横に振る。
目を見開き、口をぽかんと開けて絶句するスバル。エキドナはそんなスバルに同情するような目を向け、指先でテーブルの端を叩く。
「確かめる方法が一つだけあるとするなら、それは『嫉妬の魔女』本人から聞き出すことだ。しかし、それが難しいことは君自身、すでに実感したろう?」
エキドナが言っているのは、スバルが実際に『嫉妬の魔女』と対面したときの記憶のことか。お茶会の終わりに、墓所の外へ出たスバルを出迎えた『嫉妬の魔女』。
エミリアの肉体を奪い、ガーフィールを八つ裂きにし、『聖域』そのものを影で呑み込んだ真正の怪物。――ふいに、その存在の発露と経緯への疑問を思い出す。
「そう、だ……エキドナ。前に、この茶会が終わった後……外で、『聖域』で魔女を見たんだ。あれは、何だった?何だったんだ?」
「わかりきったことだけど、あれが『嫉妬の魔女』だ。もっとも、本物のアレには程遠い紛い物だったけれどね。器に選んだ肉体が未成熟で、何より封印が一つも外れていないんだ。魔女因子の欠けた状態で、全盛期の力が発揮できるはずもない」
「あれで、全盛期から程遠い……っ?」
獣化したガーフィールすら意に介さず、かすり傷一つ負わずに全てを殺し切った化け物であっても、本物の『嫉妬の魔女』とは比べ物にならないという。
四百年前、あの魔女が実際に闊歩していた時代は、どれほど地獄だったというのか。
「想像している通り、外に出てきた切っ掛けはこの茶会だよ。ここではタブーで君を縛り付けることがアレですらできない。故に嫉妬に狂い、中で晴らせない鬱憤を外で晴らそうと、癇癪を起こして大暴れしていたというわけだ」
「そうなるって、お前はわかってやがったのかよ」
「わかってはいなかったとも。初めてのことだ。実際にそうなってみて、初めてそういうことだったんだろう、と仮説を立てるに至る。実際に目にするまで結論というものに辿り着けないのは、強欲の魔女であるボクであっても君たちと変わらないよ」
「――――」
あくまで、傍観者のスタンスを崩そうとしないエキドナにスバルは言葉を見失う。彼女を責めても何にもなりはしない。そうわかっていても、歯がゆいものがある。
彼女がその気になれば、スバルに協力してくれる気になれば、あるいは――。
「器に君の思い人を選んだことにも、さしたる理由はないんじゃないかな。同じハーフエルフの身の上だから、多少馴染みやすいというのもあったかもしれないけど、大きな理由としては『嫉妬』以外の何物でもないと思うね」
「嫉妬……?」
「君の思いを独り占めしたい魔女からすれば、君があれほど熱心に思いを傾ける相手なんて、憎くて滅ぼしたくて、そう思ってなんの不思議があるんだい?」
狂的に誰かを愛するということは、誰かに同じだけ愛されることも望むということだ。そしてその誰かの愛が自分に向いていないとなれば、矛先を自分に向けるために狂気に走ることも、『愛』という劇物は起こし得る。
だから『嫉妬の魔女』は、その化身とでもいうべき振舞いをし続けるのか。
「君の思い悩む全ては、『嫉妬の魔女』のみが知るといったところだ」
「――――」
「思いをいくら巡らせても、正直なところ、答えには辿り着けないだろう。君を追い詰めたあの情景も、何より『あるかわからない今』のことも、結論は出ない」
「そん、なことって……」
あまりにも、それはスバルにとって酷な現実としか言いようがなかった。
はっきりと否定してほしかった。スバルが見てきた、死後の世界などないと。
駄目ならば断言してほしかった。お前の独りよがりは、多くを犠牲にしてきたのだと。
どちらが答えてあったとしても、スバルはきっと出た答えを戒めに、楔に、忘れないようにして、歯を食いしばり、血の涙を流し、魂で慟哭しながらも足を踏み出せたはずだ。
――それなのに、答えが存在しないなんて答えは、あまりに残酷ではないか。
肯定も否定もされないまま、世界のことを宙ぶらりんにしたまま、生きろというのか。
踏みにじったものを踏みにじったかもわからないまま。見捨ててきたものを、捨てた自覚すら抱かせないまま。罪を罪だと、自覚させないことがスバルへの罰なのか。
ナツキ・スバルはそれほどまでに、誰にも許されない罪を犯したのか。
誰にも、スバルを裁けない。糾弾もできない。そんなことはわかっていた。
――だけれど、スバル自身にすらも、それをさせてはくれないのか。
「酷なことだとは思う。けれど、ボクは割り切るしかないと、そう思うよ」
打ちのめされ、言葉のないスバルに、エキドナはそんな言葉をかけてくる。
緩慢な動きで首をもたげ、スバルはそう口にしたエキドナを空っぽの瞳で見る。
エキドナはそんなスバルの視線を受け、息を呑んでから真剣な面差しで、
「第二の『試練』は、極論を言えば『今』を『今しかないもの』と受け入れて、『今』以外の『今』を決して手の届かない別世界のものと割り切るものだ」
「――――」
「現実として、それがあるかもしれないものだと、他の挑戦者よりも強く意識させられる理由のある君には厳しいものがあるだろう。それでも、切り替えるんだ」
「切り替え……?」
「君の選択には、確かに多くの犠牲が付きまとっていたのかもしれない。これまでに君が置き去りにしてきたものの中には、取り戻せないものが多くあったことだろう。でも、残してきたものを、なくしてきたものを数えるばかりでいるのは悲しいことだ。空しいことだ。辛いことだと、そうは思えないかい?」
「単なる精神論なら、お呼びじゃねぇよ。……ありきたりなカウンセリングで、言っちゃなんだがどうにかできる体験か、おい?」
エキドナの言葉は耳心地のいい、慰めのようなものだ。
それは傷口が浅くて、犯した罪科が軽くて、もっとおおらかに思える出来事に対するものだったなら、効果の一つでもあったかもしれない。
あるいは救われたような気になって、それこそ『切り替え』ができたかもしれない。
だが、
「俺がやらかしてきたことの、そのツケがどうにもならないものだって、現実はどこも変わらねぇ。俺が費やしてきたことの全てが、ないものと、消せたものと思い違いしてた犠牲の上に成り立ってたもんだって、そういうあり得る現実は変わらねぇ」
「……その通りだ」
「その状況で、どうすれば自分を肯定できる?何をすれば、自分を許せる?お前が差し伸べようとした、救いすら俺は跳ねのけたんだ。紛い物のレムに救われることを、俺は望まない。本物のレムは、いずれ俺が取り返す――でも」
息を継ぎ、スバルは顔をぐしゃぐしゃに歪めて、
「――俺がいつか取り戻すレムは、本当に俺が救いたいと思ってるレムなのか?」
「――――」
「その答えが出ない内は、俺の心の八方ふさがりは変わらねぇ。……お前は、それすらどうにかできるって、割り切れって、そう言うのかよ」
「――――」
「救えなかったものを数えるより、救えたものを数えて生きていけって……お前は、俺にそう言うのかよ」
エキドナがスバルにかけたい言葉の、その先はある種の希望だ。
スバルにとっても、きっと希望になったかもしれない言葉。
――ただ、それを希望と思えるほど、スバルが落ち込んだ闇が浅くないだけで。
「そんなありきたりな精神論で、お前は俺に……抗えって、そう言うのかよ……っ」
「――そう言うよ」
「――――」
「ボクは、君に、そう言う」
慰めの言葉を振り切って、絶望の淵で声を上げるスバルに、エキドナは言った。
ゆっくりと、噛み含めるように、エキドナはスバルを真っ直ぐ見て、言った。
「救えなかったかもしれない多くを数えるより、君は君が救えた多くを数えるべきだ。今、君がこうしてここに辿り着けた道のりの中で、ボクはそれを見ている」
「俺が、何を……お前に、俺の何を……」
「ここに至るまで、君は君なりの全力で、全霊で、生き抜いてきたことをボクは見ている。だからボクは言える。言えるとも」
「――――」
「君がこれまで歩いてきた道のりに、無駄なことなんて一つもなかった。君の全霊を『足りなかった』だなんて、誰に口出しする権利もない。君は君のできる全てを投げ打って、この瞬間まで歩いてきた。――それは、誇るべきことだ」
エキドナの真摯な言葉が、スバルの空っぽの胸を打つ。がらんどうの内側に、何かを響かせる。――だが、足りない。そんな言葉で、立ち上がれはしない。
誇るべきことといわれはしても、スバルが多くを取りこぼしてきたのは事実だ。どうにかできたはずなのだ。スバルでない誰かなら、同じ条件でもっとうまくやった。それなのにこの場にいたのがスバルだったから、多くを救えなかった。
それはスバルの罪だ。スバルの罪科だ。スバルが認め、購うべき罪なのだ。
「誰にも俺は許せない」
「ボクが許そう。それを知っている、ボクが」
「誰にも俺は裁けない」
「ボクが裁こう。君の罪を知る、このボクが」
「――誰にも、俺を肯定はできない」
「君が君を肯定できないのなら、ボクが君の許せない君自身を否定しよう」
「――――」
「君が君の罪を肯定するのなら、ボクが君の罪を否定する」
スバルの言葉のことごとくを、食い下がるエキドナが振り払おうとする。
なぜ、この魔女はこんなにも強く、スバルの罪を否定するのだろうか。
なぜ、この魔女はこんなにも繰り返し、スバルの心の闇を払おうとするのだろうか。
「お前は、どうして……そんなに俺を、どうにかしようとしてくれるんだ?」
「……それを、女の子の口から言わせるのは、少し意地が悪すぎるな」
それまで一度も口ごもらなかったエキドナが、初めてそこでわずかに言葉を濁す。
そして、わずかに赤い顔のまま、エキドナは咳払いして、
「――契約を、ボクと交わしてはくれないだろうか、ナツキ・スバル」
静かな、しかし強い意志を感じさせる声だった。
その言葉に、スバルは目を瞬かせ、脳に浸透させて理解するまでに時間が必要だった。
「けい、やく……?」
「そう、契約だ。『強欲の魔女』との、正式な契約――それを、結ばないだろうか」
「それを交わして……交わしたとして、何がある?」
「単純な話だよ。――今後、君が何かどうしようもない障害にぶつかったとき、その壁に対してボクは君と一緒に頭を悩ませよう。誰かの言葉が欲しいと君が望んだとき、君が望む言葉を返せるようにボクは努力しよう。君が自分の罪に押し潰されそうなとき、潰されそうな罪を一緒にはねのけてあげよう」
一息に言って、エキドナははにかんだような笑みを浮かべた。
「そんな契約を、交わしてはくれないだろうか」
「……お前は死者で、それで、現実には干渉できないんじゃなかったのか?」
「死者の領分は、越えてしまうだろうね。今さらと言えば今さらの話だし、それも悪くないと今は思う。……君が、それを許してくれるのなら」
己の胸の手を当てて、俯くエキドナの言葉がスバルの鼓膜を震わせる。震えは体内に伝導し、次第に熱を帯びて血の巡りを伝って全身へと行き渡った。
痺れるような感覚を訴えていた手先に、触覚が戻る。
からからに乾いていた舌先がかすかな潤いに動きを取り戻し、瞬きを忘れていた瞳も渇きを忘れるようにじわりと熱いものに満たされる。
差し出される手に、申し出に、提案に、助力の言葉に、どう応じるべきか惑う。
足掻き続けることを誓い、その意味を見失いかけ、それを支えてくれると、魔女はスバルにそう言ってくれている。
「自慢じゃないが、ボクは知識量には自信がある。直面する大概の問題には対処法を用意できるつもりだし、どんな荒唐無稽な事情が君に降りかかろうと、君の周囲と違って説得などに必要な労力はない。何より、君の『死に戻り』をボクは理解できる」
「早口に、まさかセールスポイントを教えてくれてんのか?」
「ボクと契約を結んでくれた場合の、メリットを話しておくのは求める側として当然の態度だと思うけどね。こうして、君の心の平穏を少しでも買うことができるのであれば、それもメリットといえるんじゃないかな」
スバルの言葉にかこつけて、それすらも自身の売り出し文句にしてしまうエキドナ。そんな魔女の、これまでにない姿に思わずスバルは頬をゆるめる。
ふっと、空気が肺の中から安らかに抜けるのを感じて、「ああ」と嘆息する。
草原の風をうなじに浴びながら、背もたれに身を預けて空を見上げた。
作り物の青空の中を、白い雲が泳いでいるのが見える。
行き詰まったとき、答えが見えなくなったとき、困難に直面したとき。
――こうして、また青空の中で、結論を求めて言葉を交わし合えるのなら。
「それも、いいのかもしれないな……」
「――ということは?」
音を立てて椅子から立ち上がり、思わずといった様子で拳を固めてしまったエキドナがスバルを見下ろしている。背もたれに寄りかかったまま自分を見るスバルの視線に、そうした行為に及んだことを恥じるようにエキドナは顔色を変えて、
「あ、いや……うん、君がどうしてもというのなら、そういう契約を結んでも……」
「取り繕っても今さら遅ぇ。っていうか、俺から求めたんじゃなくて、お前から……いや、この場合、それを言い出すのは野暮すぎるのか」
エキドナからの申し出でこそあるが、それはあくまでスバルの心を救うためだ。
はっきり言ってしまえば、これは魔女の温情。それをスバルが縋る形にしないのも、魔女がスバルに対しての配慮の念を欠かしていないからに他ならない。
どこまでも、誰をしても、こうして助けられてしまうのか。
背もたれから体を起こす反動で前のめりになり、スバルは立ち上がる。
手を伸ばせば届く距離に立つエキドナが、目線でわずかに高くなったスバルを上目に見て、不安げな表情をしていた。
いちいち、細かな動作があざとい魔女だと思う。
それに救われてしまっている以上、何も言えない立場には間違いない。
「契約は、どうやって結ぶもんなんだ?」
「――正式な契約を結ぶのであれば、ボクと君との間にパスを繋ごう。細かい段取りはボクの方でつけるとして……とりあえずは、掌を」
エキドナが右手を持ち上げ、白い掌をスバルの方へ向ける。
その掌に、同じように掌を重ねろ、という意味だろう。
スバルは正面で、微妙に嬉しさを隠せずに口元がにやつきかけている魔女を見て、毒気を抜かれるような気分になりながら、「は」と小さく息を吐き、
「これで、風向きが少しは変わってくれるのかね……」
そう、未来への期待を少なからず込めて、彼女の掌に自分の掌を合わせ――。
衝撃。
立ち割れる音が響き、スバルの真横でカップの載った白いテーブルが爆ぜる。
テーブルを割った衝撃はそのまま地を伝い、地面に破壊のクレーターを生み、地鳴りと地震が足下を激しく揺らすのにスバルは思わず驚きの声を上げ、
「――その契約、待ったをかけるわ」
地面に拳を叩きつけ、威風堂々と言い放つ、金髪碧眼の少女。
――『憤怒の魔女』が、二人を強い怒りを込めて、睨みつけていた。