『イタダキマス』


 

――街道を行く竜車の揺れに身を任せ、レムはただ彼のことを思っていた。

 

ふと自分の名前を呼ばれた気がして、レムは俯いていた顔をおもむろに上げる。それから日差し強さにその目をわずかに細めた。

正面、彼女の視線の先にあるのは集団を先導するいくつかの竜車であり、そこには白鯨討伐戦に参加した負傷者が何人も担ぎ込まれている。

 

全員が全員、最低限の応急処置を施されただけの状態での帰還であり、重傷者の数も少ないとはいえない。ただ、傷の痛みに顔をしかめながらも、その彼らの口元には長年の想いを遂げた達成感が刻まれている。

彼らがずっと抱え続けてきた積年の想い。それが果たされた事実に比べれば、死なないで済んだ負傷など比べるべくもない。

為すべきことを為し遂げた彼らにとり、今の王都への道筋は凱旋のようなものだ。一方でそんな彼らを視線に入れて、疼く感情を堪え切れない自分の浅ましさが自分で嫌になるところだった。

 

「浮かない顔だな、レム。やはり、心配は尽きないか」

 

「……クルシュ様」

 

声を掛けられて隣を見れば、レムのすぐ脇に腰を下ろすクルシュの姿がある。

包帯を軽装の下に巻き、浅くない負傷を感じさせないその姿勢にはレムも感服するところだが、さすがに体力の消耗は隠し切れていない。竜車に乗っているのも地竜に単独で跨ることを不安視されたのが原因であり、少なくとも王都が見える地点まではレムと同乗する取り決めになっている。

 

レムの気遣いの視線を受け、クルシュは健在を示すように肩をすくめ、「それより」とこちらへ軽く顎をしゃくると、

 

「ヴィルヘルムとフェリス。同行した討伐隊の勇士も精鋭だ。リカードら傭兵団の手助けもあろうし……なにより、アナスタシア・ホーシンがその程度のことに気が回らないとも考え難い。相手の戦力は不安要素だが、負ける要素は感じられない」

 

「それでも、心配だって思うのは身勝手なのでしょうか」

 

「不安の種はいくら潰しても尽きぬものだ。それが己を起因とするものであるのなら、自らを研鑽するなり開き直るなりでどうとでもなるだろう。だが、相手方あってのこととなるとそれも難しい。――気休めを言うのは得意ではない。許せ」

 

憂い顔を深めるレムの様子に、クルシュは自分の失言を悟って目を伏せる。途端、それまで超然としていた女性から急に格式ばったところが抜けたように思えて、レムは思わず小さく口元を微笑の形にゆるめてしまった。

その微笑みを見て、クルシュは「うむ、それでいい」と満足げに頷き、

 

「ナツキ・スバルも言っていた。レムには笑顔の方が似合う、とな。傍から聞けばとんだ惚気話と思ったものだが、存外馬鹿にしたものでもない」

 

「クルシュ様は……笑われると印象が変わりますね。普段は凛としていらっしゃるのに、そうして微笑まれているとまるで……」

 

「たまに言われることであるし、気にもしている。だからあまり人前で不用意に笑えないのだな。ますます、無愛想な女が出来上がることになる」

 

冗談と思って笑っていいのか少し迷うが、クルシュの口元がかすかに柔らかなのを見てレムもまた唇を綻ばせる。

常に勇壮で凛とした彼女の姿は、いつも自信がなくておどおどとしているレムにとっては理想の女性像のひとつだ。もちろん、レムにとっての最高の理想は姉であるラムの存在に他ならないのだが。

ともあれ、

 

「向かう先に待つのは魔女教。……エミリアの素姓を知ったときから予想されていたことではあるが、実態の見えない集団が相手となれば警戒は必須だ。ナツキ・スバルもそうだが、メイザース卿もなにがしかの対策はしているはずだろう?」

 

「主の考えの深淵まで、レムも知り得ているわけではありませんので。聞き出そうとしても、口には出せませんよ?」

 

「手厳しいな。今は同盟相手なのだから、少しは口を滑らせてもいいというのに」

 

レムの考えが悪い方へ、暗い方へ向かわないよう気遣ってくれているのだろう。実際、そうしてクルシュが話を振ってくれるおかげで、レムの思考も深みへはまっていくことなく時間を過ごせている。

クルシュの言い分はもっともであり、ロズワールならば此度の一件に対する善後策はなにか用意しているはずに違いない。スバルの行動は主のそれを助ける形になり、不運にも貶められたスバルの名誉もきっと回復する。

否、すでに白鯨討伐への協力により、名誉は回復以前により高く響くはずだ。

 

――英雄ナツキ・スバル。

 

それは彼によって心と未来を救われたレムにとって当然の評価であり、今後も彼が打ち立てていくだろう輝かしい時間の正当な評価に他ならない。

そしてその輝きの傍らに、時々振り向いてもらえる位置に自分の存在があれれば、それ以上のことをレムはなにも求めない。それだけで、満たされる。

 

スバルのことを思うとき、レムの心はいつも複雑な感情に満たされる。

温かくなって、安らいでいくような。それなのに不安でどこか苦しくなって、心配ではらはらさせられてしまうような。

そうして心に一喜一憂を絶えず与えてくれるのも、スバルだけなのだけれど。

 

口元に微笑を刻み、レムはスバルの未来と彼との未来を想像している。

その横顔に安堵を得たのか、クルシュも傍らの騎士剣の鞘に触れながら、無言で竜車の進路を真っ直ぐ見つめ――王都への道行きに思いを馳せる。

と、

 

「――む?」

「――――?」

 

クルシュが目を細めて小さくうなるのと、レムがかすかな音を聞きつけて顔を上げたのはほとんど同時のことだった。

 

クルシュの瞳が捉えた違和感は前方の竜車。そしてレムが聞きつけた異音もまたそちらの方から届いた。そして、それは同時にひとつの結果をもたらす。

 

――クルシュの視界の中で、前方の竜車が『崩壊』した。レムの耳にはその『崩壊』の前兆が、雨のような小さな音の連鎖として届いていた。

 

血霧が噴き上がり、竜車前方が突如として惨状へと変わる。

地竜も、竜車も、その中にいた負傷者たちも、一切合切が根こそぎ、まったく容赦のない圧倒的な破壊によって粉微塵にされていた。

 

「――ッ!敵襲!!」

 

驚愕に喉を鳴らす停滞を一瞬で済ませ、クルシュの警戒を促す声が上がる。即座にクルシュを始めとして、周囲にいた他の竜車でも異変を察して戦闘準備の気配。

レムもまた肉体の負傷と倦怠感を押し退けて、自身の武装である鉄球を手に取って立ち上がり――血霧の向こうに、人影を見た。

 

どんな相手が、と警戒するレムの視界に、街道上に棒立ちする人物が見える。

無手。無防備。無警戒。そして、無慈悲で無邪気で無作為な悪意――!

 

「――轢き殺せ!!」

 

クルシュが怒鳴り、御者台に乗り込みながら御者へ指示を飛ばす。それを聞いた騎士は首肯する代わりに手綱をうならせ、嘶く地竜が竜車を加速させ突撃――勢いを増した竜車の突貫は、直撃する獲物を肉塊へ変える超質量の砲弾だ。

それは狙い違わず、棒立ちする人物を真っ直ぐに捉える。相手は動く気配もない。そのまま接触し、細い体が衝撃に千切れて――。

 

「クルシュ様――!」

 

叫び、レムは真横にいたクルシュの腰を掴んで竜車から横っ跳びに飛び下りる。御者へ手を伸ばすのは間に合わず、レムは唇を噛んで地面へ着地。

そして、その直後――、

 

「まったく、やめてほしいなぁ。なにもしてないのに轢き殺せだなんて、とてもじゃないけど人間のすることだとは思えない」

 

それはまるで昼下がりの公園をのんびりと散策でもしている人物の声音のようだった。温かな日差しを浴び、これ以上ないほどリラックスした状態の声音。

それが衝突によって砕け散り、四散する竜車との接触場面でなかったとするならば、レムもここまでその異常性に戦慄することはなかったはずだ。

 

一見、なんの変哲もない人物だった。

細身の体つきに、長くも短くもなければ奇天烈に整えられたわけでもない白髪。黒を基調とした服装は特別華美でも貧相でもなく、面貌も目を引く特徴はない。いたって平凡で、どこにでもいそうでどこにでも溶け込めそうで、街中で見かければほんの十数秒で記憶から消えてしまいそうな、そんな凡庸な見た目の男だった。

 

だが事実、その男に接触した地竜は男を踏み殺そうと足を上げた体勢のまま肉体を半分に千切られており、御者の騎士も四散した竜車ごと粉砕されて木片と肉片の区別もつかない状態になっている。

そしてなにが恐ろしいかといえば、その瞬間まで一度たりとも目をそらさなかったレムにも、男がただ『立っていただけ』なのがわかってしまったことだ。

 

特別なことはなにもせず、男はただ突っ立っているだけで超重量の竜車との衝突に打ち勝ち、平然と立ち尽くしているのだ。

 

「礼を言おう、レム、助かった。だが……状況は改善されていないな」

 

目を見開くレムの腕から、抱かれていたクルシュが礼を言って立ち上がる。彼女はとっさに掴んでいた騎士剣を鞘から抜き放ち、自分の指示通りに動いて命を散らした騎士の、もはや分別もできない死に様に痛ましげに目を細めると、

 

「私の臣下をこれだけ無惨に殺しておいて、まさか無事で済むとは思っていまい。……貴様、いったい何者だ」

 

殺意に光る剣先を突きつけ、クルシュは男に鋭い声を投げる。と、それを受けた男は顎に手を当てて、自分を納得させるように頷き始めた。

 

「なるほどなるほど。君は僕のことを知らないわけだ。といっても、僕は君のことを知っている。今や王都……いや、国中で君たちのことは話題に上っているからね。なにせ次代の王様候補だ。世情に疎い僕であっても、それが途方もなく大きなものを背負おうとしているってことぐらいは想像がつくさ」

 

「ぺらぺらと無駄口を――質問に答えろ、次は斬る」

 

「ひどい言い分だなぁ。でも、それぐらい横柄でなきゃ国なんかとても背負えないのかもしれないよね。その感性は僕には欠片も理解できないけど、好き好んで王様なんて重すぎる責任がある立場を目指そうって人の精神性なんてわかるはずもないか。あぁ、理解できないからって否定したりしないよ。僕の方こそ、そんな横柄に振舞うようなつもりは微塵もない。僕は君と違って……」

 

長々と、クルシュの要求を無視して男がよく滑る舌を回し続ける。

だが、

 

「――次はないと、そう言った」

 

クルシュが冷酷に言い切るのと、彼女の腕が風の刃を振るったのは同時だった。

クルシュの風の魔法と剣技を合わせた見えない斬撃――『百人一太刀』で有名な超射程の超級斬撃、それが斜め上から男の胴体を撫で切り、斬られた本人にすらその斬撃がどこからきたのか、誰が放ったのかわからないまま絶命させる。

 

かつてカルステン領で魔獣『大兎』が出現した際に、大兎の配下に当たる魔獣を平原にて殲滅。初陣を凄まじい戦果で飾ったことからついた戦場の異名が、クルシュ・カルステン公爵の『百人一太刀』だ。

 

白鯨の固い皮膚すら切り裂き、その巨躯を落とすのに大きく貢献した斬撃の威力。あの魔獣の質量と比較すれば話にならない矮躯で、耐えられるはずもない。

なのに、

 

「……人が気持ちよく喋ってる最中に攻撃だなんて、どんな教育を受けたの?」

 

首を傾げて、斬撃を受けた体を軽くはたいて見せる男がそこにいた。

彼の存在は白鯨を切り裂く剣撃を前に微動だにせず、その肉体には――否、肉体どころかその衣服にすらその剣の形跡が残っていない。

斬撃が防がれたのとは、またまったく違う未知の現象。

 

クルシュが息を呑み、レムもまた常識の埒外の存在に身を固くする。その二人の前で男は初めて小さく息をつき、「あのさぁ」と苛立たしげに声を低くすると、

 

「僕が喋ってるわけ。喋ってたでしょ?それを邪魔するっていうのはさ、ちょっと違うんじゃないかな。間違ってると思わない?喋る権利が、だなんてものを主張したくはないけどさぁ、それでも喋ってる人がいたらそれを邪魔しないなんてことは一種の暗黙の了解ってものじゃない。それを真剣に聞くか聞かないかはそっちの自由だから文句は言わないけど、言わせないって判断するのはどうなのかなぁ」

 

早口に言いながら、男は足で地面を叩いて不機嫌の意思を露わにする。そのまま彼は不気味さに押し黙る二人に指を突きつけ、

 

「今度はダンマリ、それもどうなのかなぁ。聞いてるじゃん。聞いたわけじゃん。質問したじゃない。されたら答えるでしょ、そういうものでしょ。それもしない。したくない。ああ、自由さ。それは君の、君たちの自由だとも。君たちからすれば僕は勝手に喋って斬られて、勝手に質問して無視されて、そういう風に見えるわけだ。それが君たちの自由の使い方なわけだ。いいよ、そうしなよ。でもさ、その考えってつまりこういうことだよね?」

 

前のめりになって二人に首を傾げ、男はその瞳の眼力を強くして二人を射抜き、それから押し殺した声で言った。

 

「それは僕の権利を――数少ない私産を、蔑ろにするってことだよねぇ?」

 

悪寒が、レムの背中を駆け上がった次の瞬間、男が一歩前に踏み込む。だらりと無造作に下げられた腕が下から真上へ振られて、かすかな風が巻き起こる。

直後、男の腕の直線上――大地が、大気が、世界が割れた。

 

くるくる、くるくると、肩で切断されたクルシュの左腕が宙を舞う。

鞘を握ったままだった腕が血飛沫をまき散らして地面に落ち、衝撃に吹き飛ぶクルシュの体が地面に倒れ込んで、激しい痛みと出血に痙攣が始まる。

 

「クルシュ、様――」

 

数秒、呆気にとられたレムは即座に飛び退くと倒れたクルシュの下へ。なけなしのマナを振り絞ってクルシュの傷口に手を当て、止血と治療を全力で施し始める。

クルシュの切断された腕の傷口は惚れ惚れするほどの鮮やかさでもって、彼女の左腕の肉、骨、神経、血管に至るまでを完璧に断ち切っていた。いっそ芸術的なまでのその攻撃の鋭さに、レムは戦慄よりも場違いな感嘆を覚える。

 

「フェリ、ス……う、ああ、う?」

 

治療するレムの腕の中で、クルシュは焦点の合わない視線をさまよわせながらうわ言を口にしている。残った右腕がレムの足を掴み、尋常でない握力がその膝の骨を軋ませていた。生きるための力が、まだ残っている証だ。

クルシュのそれに歯を噛んで耐え、レムは眼前の男の凶行に目を光らせる。

 

攻撃を防いだ手段も、今の一撃の正体もまったくわからない。予備動作をひとつも見落とさず、クルシュを連れて回避するより他に手立てがない。

そも、おかしいのはこの状況だ。レムとクルシュの二人を残し、どうして他の面々はこの異常者の前に飛び出してこないのか。主君がこうして致命的な傷を負わされた場面で、あの白鯨と向き合った勇士たちが何故――。

 

「あァ、まったく……いっくら食べても喰い足りないッ!これだから俺たちは生きることをやめられないんだ。食って、食んで、噛んで、齧って、喰らって、喰らいついて、噛み千切って、噛み砕いて、舐めて、啜って、吸って、舐め尽くして、しゃぶり尽くして、暴飲!暴食!あァ――ゴチソウサマでしたッ!」

 

それは突然、背後から届いた甲高い少年の声だった。

眼前の男と同質の悪寒を背に感じ、レムは全身を緊張で固くしたまま振り返る。そして背後、停車した竜車の群れの中心で、背をそらして哄笑する血塗れの人物の存在を捉えた。

 

濃い茶色の髪を膝下まで伸ばした、背丈の低い少年だ。身長はレムと同じか低いぐらいで、年齢も二つか三つ下――屋敷の近くの村の子どもたちより、ほんの少しだけ年上なぐらいに思える。

その長い髪の下、細い体をボロキレのような薄汚れた布でくるんだだけの服装をしており、かすかに覗く肌色は至るところが血で赤く染まっている。

 

もちろん彼自身の血ではなく、その足下に倒れる騎士たちのものに相違ない。

前方の敵と相対するクルシュとレムとはまた別に、騎士たちも後方に出現した敵と対峙していたのだ。そしてその結果は、レムにその戦闘の気配を悟らせることすらできずに破れ去るというものだった――。

 

「あなた、たちは……」

 

声を震わせ、レムは前と後ろ――それぞれの相手を視界に入れられる位置にまで後ずさる。クルシュから滴る血が街道に朱を刻み、恐怖に追い立てられる彼女を嘲笑うように空気が冷え込んでいく。

 

その質問を投げかけられて、男と少年は互いに顔を見合わせた。

それから示し合わせたように頷き合うと、どちらもひどく親しげで暴力的で悪魔のような笑みを浮かべて、名乗った。

 

「魔女教大罪司教『強欲』担当、レグルス・コルニアス」

 

「魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「僕たちのペットがやられた気配を感じたから見にきてみたら、あァ――こりゃ豊作ってもんじゃないかッ。いいね、いいよ、いいさ、いいな、いいかも、いいとも、いいじゃないか、いいだろうともさ!執念!愛!憎悪!義侠心!色んな悲喜こもごもがあった!それでこそ、それでこそ、喰らい甲斐があるってもんさ!」

 

魔女教――それも大罪司教。

その単語を耳にしたレムが凍りつくのを前に、興奮した様子で少年――ライ・バテンカイトスと名乗った人物が地面を踏んで奇声を上げる。

彼はその場で踊るようにくるくると回り、倒れる騎士たちを腕で示しながら愛おしげにその姿を眺めて、

 

「やっぱりいいよなァ、こうして手ずから食べにくるっていうのもさ。特に最近はこういう気骨に満ちた喰いでのある奴らと会う機会がなかったから、久々に俺たちも飢餓が満たされるのを感じるッ」

 

「君のそういうところが僕には理解できないなぁ、バテンカイトス。飢餓がどうとか実際に飢えるわけじゃあるまいし、満たされるっていってもそれは君自身のものでもない。どうして、今の自分に満足するってことができないのかね。いいかい?人は二本の腕で持てる数、自分の掌に収まるものしか持てないんだよ?それが理解できていれば、自ずと我欲を律することもできるようになるんじゃないの?」

 

「説教は僕たちにはいらないし俺たちは嫌いだ。あんたの言うことが間違ってるだなんて否定もしないけど、興味もない。あァ――本当に、僕たち俺たちはこの空腹感を満たすこと以外はどーォだっていいんだよ」

 

『暴食』のバテンカイトスが狂気的に笑い、『強欲』のレグルスがつまらなそうに肩をすくめる。

大罪司教が同じ場所に同時に居合わせるという事態を前に、レムは停止しそうになる頭を回転させて、どうにか状況を打開しようと考えていた。

 

戦力的に、この場でこの二人を叩き潰すのは不可能だ。

クルシュの血は止めたが、依然として容体は危険な状態にある。騎士たちも死亡しているのか負傷しているのか判断できず、少なくとも戦力には数えられない。

レム自身、なけなしのマナは今の治療に費やしてしまった。鬼化して戦うのならそれでも多少はもつはずだが――この二人を前に、勝てるビジョンが浮かばない。

 

片や攻防において付け入る隙をまったく見せつけない『強欲』。個人戦闘力では都市ひとつを落としたという噂もある立場であり、底が知れない。そしてもう片方もまたその異質さに底が見えない『暴食』。戦闘力は不明だが、歴戦の騎士たちをほんの数十秒の間にまとめてなぎ倒した実力者。これも、打倒する未来は見えない。

 

ちらと周囲をうかがえば、ライガーの群れが引いていた竜車が見当たらない。獣人傭兵団の帰還者と負傷者――そして、持ち出すことに成功した白鯨の頭部のみを積載していたものだ。

おそらくは騒ぎに乗じて逃走、王都の方へ全力で向かっているはずだ。そちらの指揮をしているのは傭兵団の副長でもあるヘータローだろう。利発的かつ常識的な判断力の持ち主だったはずなので、時間を稼げば援軍を率いて戻るかもしれない。

だが、それも――レムが二人に抗している間に間に合うとは思えなかった。

 

「白鯨を……」

 

「おや?」

「あァ?」

 

レムの呟きを聞きつけて、大罪司教が同時に首を傾げる。

いくらか、時間稼ぎのための話の取っ掛かりは得たとレムはわずかに息を止め、その興味が薄れるのを避けるように口早に、

 

「白鯨を、取り戻しに追ってきたんですか?切り出した頭を、レムたちが王都へ持ち帰ろうとしていたから」

 

「頭ァ?あァ、なんでか変な臭いだと思ったらそんなことになってたのか。別に頭なんていらないし、死んだの持って帰ってもしょうがないからいいよォ。俺たちなら作ろうと思えばまた作れるし……まァ、育つのに同じだけ時間はかかるだろうけど」

 

聞き逃せないことをあっさりと言ってのけて、バテンカイトスは首の骨を鳴らす。それから彼はかちかちと歯を鳴らして「それよりッ」と強く言い切り、

 

「僕たちが興味あったのは、白鯨が死んだことより白鯨を殺した奴らの方だ。曲がりなりにも四百年、たらたらとやってきたこいつを殺したんだ。さぞ、熟れた食べ頃の奴ら揃いだと期待してたんだけど……あァ、これが想像以上だったッ!」

 

頭を上下に振り、長い長い髪を振り乱しながら唾を飛ばして少年は笑う。その間もかちかちかちかちと、やけに犬歯の長い歯を噛み合わせながら、

 

「愛!義侠心!憎悪!執念!達成感!長々と延々と溜め込んで溜め込んでぐっつぐつに煮込んで煮えたぎったそれが喉を通る満足感ッ!これに勝る美食がこの世に存在するかァ!?ないね、ないな、ないよ、ないさ、ないとも、ないだろうさ、ないだろうとも、ないだろうからこそ!暴飲!暴食!こんなにも!僕たちの心は、俺たちの胃袋は、喜びと満腹感に震えてるんだからッ」

 

言っている意味がわからない。

タガが外れたような様子で、バテンカイトスは甲高い少年の声で笑い続ける。引きつったような声が響く中、レムが無言で視線を移せば、その先にいたレグルスは視線に対して手を振り、

 

「生憎、僕はそこの彼とは全然違うよ?僕がここにいるのはたまたまの偶然で、全然能動的に行動した結果じゃぁないんだ。当然だよね。僕は彼のように飢餓とか渇望っていうの?そういう、下種な我欲ってものは持ち合わせてないんだ。満たされない空腹感に常に苛まれてる腹ペコな彼と違って、僕はほら、今の自分ってものに限りなく満足をしているから」

 

両手を広げて、レグルスはレムの前で晴れやかな顔をする。

クルシュの腕を切り落としたのと、同じだけのことができる両腕を大きく回して、彼は自分の存在を強く顕示するような仕草をし、

 

「争いとかさ、嫌なんだよね、僕としては。僕はこう、平々凡々とただただひたすら穏やかで安寧とした日々を享受できればそれで十分、それ以上は望まない。平穏無事で変わらない時間と自分、それが最善。僕の手はちっぽけで力もない。僕には僕という個人、そんな私財を守るのが精いっぱいのか弱い存在なんだから」

 

拳を握り固めて力説するレグルス。その拳の動かし方ひとつで、地竜と複数の命を、ひとりの女性を切り落としておいてなんという言い草なのだろうか。

狂ったように笑い続けるバテンカイトスも、身勝手な持論を並べ立てて自己満足に浸るレグルスも、総じて異常者だ。やはり、こいつらは魔女教なのだ。

 

沸々と怒りが湧き立つ。

レムは死んだように深い呼吸に陥るクルシュを草原に寝かせると、震える足を酷使して立ち上がった。手には鉄球、そしてなけなしのマナを振り絞って氷柱を体の周りに浮遊させる。

それを見て、バテンカイトスとレグルスの表情が変わる。

 

「人の話、聞いてた?僕はやりたくないって言ったんだぜ?それを聞いててその態度だっていうんなら、それはもう、僕の意見を無視するってことだ。僕の権利を侵害するってことだ。僕の僕に許されたちっぽけな僕という自我を、私財を、僕から奪おうってことだ。――それは、いかに無欲な僕でも許せないなぁ」

 

「言いたいことはそれで十分ですか、魔女教」

 

首をもたげるレグルスに、レムは毅然とした態度のまま言い放つ。その様子に鼻白むレグルスに対し、鉄球の鎖を鳴らして威嚇しながらレムは、

 

「いずれ、必ずあなたたちを打ち滅ぼしてくれる英雄が現れます。あなたたちがどれほど身勝手で、どれほどの自己満足で不幸を生み出してきたのか、その人がきっと思い知らせてくれるでしょう。レムの愛する、たったひとりの英雄が」

 

「へェ、英雄。そいつぁ、俺たちも楽しみだ。そんだけ信じられてるってことは、さぞやそいつも僕たちにとって美味なんだろうしさッ」

 

手を叩き、上体を屈めるバテンカイトスが舌を伸ばしてレムを品定めする。

それは敵を見る目でも、ましてや女を見る目でもない。その視線に宿る光はまさしく、食材に舌舐めずりする餓鬼のものに他ならなかった。

 

背後、バテンカイトスの後ろに倒れている人物たちのことがおぼろげになる。

彼の存在が、彼らの立場がなんだったのか、今のレムには理解できない。彼らはどうしてあそこに倒れているのか、誰だったのか、自分とどういう関係だったのか。

 

白鯨の霧は、浴びた存在を存在ごと消失させる悪夢の顕現だった。ならば、それを従えていたという『暴食』の持つ権能は果たして――、

 

「ロズワール・L・メイザース辺境伯が使用人筆頭、レム」

 

自らの立場のあとに名乗ろうとして、レムは首を横に振った。

今この瞬間だけは、本当に名乗りたいとそう願う名前を――。

 

「今はただのひとりの愛しい人。――いずれ英雄となる我が最愛の人、ナツキ・スバルの介添え人、レム」

 

白い角が額から突き出し、大気に満ちるマナをかき集めてレムに活力を与える。

全身に力がみなぎり、鉄球を握る腕が蠕動し、氷柱が今か今かと呼び声を待つ。

目を見開き、世界を認識し、大気を感じて、ただただ脳裏に彼を描いた。

 

「覚悟をしろ、大罪司教。――レムの英雄が、必ずお前たちを裁きにくる!!」

 

鉄球を振り上げ、氷柱が打ち出されるのと同時にレムの体が弾けるように飛ぶ。

それを迎え撃つように、バテンカイトスはその牙だらけの口を大きく開き、

 

「あァ、いい気概だ――じゃァ、イタダキマスッ!」

 

ぶつかる、ぶつかる、そしてその瞬間、思う。

 

願わくば、自分が失われたことを知ったとき、彼の心にさざ波が起きますよう。

 

――それだけが、レムの最後の瞬間の願いだった。