『虎』


 

無防備な態勢。両手をだらりと下げた自然体で立つガーフィール。

こちらの道を塞ぐ位置に立つ彼を見て、スバルはとっさに周囲に警戒の目を向ける。彼以外のものが伏せている可能性を案じたのだ。

もっとも、相手がガーフィールの時点でその警戒は無用のものだろうと半ば判断してもいた。――彼がくるとすれば、必ず一人でくるはずだろうから。

 

案の定、彼の周りにはスバルの感じ取れる範囲内に誰ぞの姿はない。杞憂に過ぎないそれを確認し終えたところでスバルは吐息をこぼし、未だ警戒態勢を解かないパトラッシュの首裏を手で撫でつけながら、

 

「伏線なしで出張ってきたかと思いきや、早々に人の相棒を口説かねぇんでほしんだが」

 

「嘘も世辞も言えねェ性質なんでなァ。思ったことは素直に口に出しちまう。それでババアやラムに小言もらうことも多いけどよォ」

 

牽制の軽口にガーフィールが牙を鳴らし、それから笑みの気配を消してこちらを見上げた。隻眼でその眼光と向き合うスバルは指を一つ立てて、

 

「お前がここにいるのが不自然でしょうがないんだけど、説明してもらっていいか?」

 

「大っした話じゃねェよ。俺様ァこの『聖域』の牙で、てめェらは『聖域』の目から逃げらんなかった。それだっけの話だ。まァ、残念賞ってとこだなァ」

 

軽く手を振ってそう口にするガーフィールにスバルは眉根を寄せる。

彼が『目』と呼んだものがスバルの想像通りに『草』などの隠語を意味するものであるなら、『目』はそのまま監視者のような意味合いだろう。だが、

 

「そんなもんが『聖域』にいるなんて話、ラムからだって聞いちゃいねぇぞ……」

 

「『聖域』のこと全ッ部、『聖域』の外にいる連中が知ってるとでも思ってんのかよ。ロズワールの野郎が知らねェことだって山ほどあんだぜ。その中の一つってだけの話じゃァねェか。……てめェはどうだか知らねェけどよォ」

 

口惜しさに言葉を濁らせるスバルへ、ガーフィールの言葉は容赦がない。彼は押し黙るスバルに鼻を鳴らし、それから背後の竜車の列にまで目を向けると、

 

「……そこにいる連中で、避難する奴らは全員っかよ」

 

「あ、ああ、そうだ。なあ、ガーフィール。黙って出てきたのは悪ぃとは思うが、ここは一つ素直に見逃しちゃくれねぇか。お前にとっても悪い話じゃないだろ?」

 

「あァ?」

 

険のある瞳で睨みつけられるが、スバルは構わず背後を手で示し、

 

「今、人質になってたこの人たちを『聖域』から逃がすのは、中でこれ以上に争いごとが起きる可能性を回避するためだ。もうちょいちょい小競り合いが発生しちまってるとは聞いてるが、それが本格化する前に手を打とうって趣旨なんだぜ?」

 

「――――」

 

「お前の立場は、リューズさんと同じで『聖域』の解放を望む側だろ?火種が中に残ったままにしておくのは都合が悪いはずだ。見逃す方がメリットがある」

 

声を静かに、スバルはどうにかガーフィールを説得しようと試みる。そも、スバルが口にした内容はその場しのぎというわけでもない。実際、ガーフィールのスタンスからすればこの避難は利する部分の多い行いであるはずだ。

黙って、秘密裏に実行したという部分を除けば――、

 

「性格的にお前がそれを許容できるかは別として、この場だけは呑み込んで……」

 

「オイ、なんかてめェ、勘違いしちゃァいねェかよ」

 

「勘違い?」

 

「俺様が頭っからてめェらを邪魔しにきたとばっかり思い込んでっけどなァ。てめェの言うとおり、俺様にはこの避難を邪魔する理由がねェんだ。その言い訳やら口車やらは全部まとめて無駄だっつってんだよォ」

 

言葉を重ねようとするスバルを遮り、ガーフィールはこちらの思い込みを小馬鹿にするように鼻を鳴らした。その彼の返答にスバルは閉口。彼の出現に嫌な予感だけが先行して話を進めていたが、論理的に考えて彼の発言は正しい。が、

 

「それならそれで、お前はいったいなにしにここに……」

 

「見送りみてェなもんだろが。てめェらが出てっくのは勝手だがよォ、『聖域』の誰かがきっちり見届けてやんなきゃ夜逃げと変わんねェぜ。俺様がいなくなるのを見届けたって言えりゃァ、他の連中を黙らせてやっこともできんだからよ」

 

「……お前、想像以上に色々ともの考えてんのな」

 

筋の通った理屈でこちらを納得させる思考と知力があったことに半ば驚きながら、スバルはガーフィールの言い分に納得。彼はスバルの若干失礼な物言いに対して腕を組んで頷きながら、

 

「ったり前だろが。俺様ぐれェになっと強ェだけじゃなく色々と気遣いまでできちまう……俺様、やべェな」

 

「あ、その返しはちょっと安心したわ。ホッとしたついでにあれだ。この右目のことは特別に言及しないでおいてやる」

 

「あァ?あァ、そうか。目隠し外しちまったから気付いちまったのか。余計なことをしやがる奴がいるもんだぜ。なァ、オイ」

 

自賛するガーフィールに己の右目を指差すスバル。彼は失われたスバルの目に言及しつつ、スバルを助け出したオットーの方へ水を向けた。背後の竜車で御者台に座るオットーが首をすくめて、その鋭い視線から少しでも身を隠そうとする。

その弱気な姿勢に首の骨を鳴らし、「にしてもよォ」とガーフィールは続け、

 

「片目、なくなったわりにゃァずいぶんと落ち着いてやがるじゃねェか。正直、俺様ァ恨み言と報復されるぐらいのことは覚悟してたぜ?」

 

「恨み言始めると夜が明けるぐらい言いたいことがあるけど時間がねぇし、報復したくても殴りかかったら左目も潰されるのがオチだ。そんな天丼はご免被る」

 

「なんだそりゃ。――気に入らねェなァ、オイ」

 

スバルの受け答えに不満げなガーフィール。だが、スバルはそれ以上のやり取りは不要と判断して、右目を掌でそっと撫でつけると、

 

「このままお前をスルーして、みんなは村に戻しても構わないんだよな?」

 

「黙って出てかれて体裁が悪ィ、ってのを解消してェだけだっかんな。好きにしろや」

 

「それじゃ、お言葉に甘えて……」

 

「――ただし」

 

そのまま竜車の列を出発させようとした声に割り込み、ガーフィールはわずかに上体を前に屈める。そうして斜め下から、パトラッシュにまたがるスバルを鋭い視線で睥睨し、

 

「てめェはダメだ、居残れ。人質連中は通す。やっかましい兄ちゃんも通す。ラムも……まァ通してやらァ。だが、てめェはダメだ」

 

「……その心は?」

 

「エミリア様の『試練』に対するやる気に関わるっつーのもあっけどなァ、一番の問題はてめェの存在だ。こんだっけ魔女臭ェ野郎、あっさり外に出してやれっはずもねェだろがよ」

 

「またそれなのかよ……」

 

鼻を指で弾きながら、金髪の青年はスバルを威嚇する。そろそろ聞き慣れた彼の難癖にスバルは辟易しつつ、それが条件ならばと頷きを送り、

 

「条件は俺の『聖域』残留。異論はないよな?」

 

「素直で話がわかるってェのはいいことだぜ。あんまっし長い話にされても、俺様の頭じゃ理解も覚えもやり切れねェかんな」

 

「いっそ、潔いなお前……わかった。後ろのみんなに伝えてくるから、待っててくれ」

 

本題に切り込めば交渉はあっさりと終了。もっとも、交渉というほどの内容でもない。スバルは彼の言葉をそのまま飲み込むと、振り返って主立った面々――御者陣とオットー、それにラムを加えた面子に話を通す。

 

「そんなわけで、俺が居残りすれば無事に通してもらえるって寸法だ。ごねてやり合うのも馬鹿らしい話だし、素直に提案に乗っちまおうと思うんだが……」

 

「素通りできるんなら素晴らしい条件だ、って言いたいところなんですが、それで後ろの方々が納得してもらえますかね。そもそも、ナツキさんがいなきゃ脱出するのを拒否するとまで意固地になってた方々なんですが」

 

「あー、確かにその説得は骨が折れるか。……いや、でもここまで移動が始まって、このまま村で戻れるって期待をみんなしてんだ。俺が途中で抜けるぐらいのアクシデントなら、期待の方が勝って飲み下してくれると思うんだよな」

 

オットーの懸念に対し、スバルは顎に手を当てながらそう思案。

実際、避難者たちも村に戻りたい気持ちはなにより強いはずだ。その気持ちとスバルの安否を天秤にかけてくれるのは嬉しいが、事がここまで進んだ今となっては釣り合いが取れるかどうかは難しいところだと思う。

 

「ナツキさん……」

 

「ま、そんな感じの考えがあるから、説得は難しくはないと思う。けど、これはさすがに俺が話さなきゃマズイだろな。ちょっくらいってくるから、みんなはすぐに竜車で動き出せるように準備を……」

 

「気に入らないわね」

 

と、テキパキと指示を出そうとしたスバルをラムが唐突に遮る。

気遣わしげなオットーの視線も相まって、スバルは出鼻をくじかれたような気持ちで彼女に視線を送り、「あのなぁ」と頭を掻きながら、

 

「ガーフィールにも言われたばっかだけど、あんましそうやって人の気力を削ぐようなことばっかり言ってんじゃ……」

 

「バルス、自分で気付いていないの?今、自分がなにを口にしているのかを」

 

「なにを言ってるか?」

 

ラムの言葉にスバルは首を傾げるが、思い悩んでも思い当たる節がない。彼女がなにを言いたいのか、それこそわからずに困惑が眉根に出る。

それを見たラムは失望したような吐息をこぼすと、

 

「わからないのなら、いいわ。ロズワール様の仰りようもわかるというものね。そうなった場合、ラムの行いも全ては無駄になってしまうのかしら」

 

「待て、さっきからお前こそなにを言ってやがる。やっぱりお前もなにか知ってやがんのか。知ってて、この場にこうして……」

 

「今のバルスにはなんの意味もないことだわ。時間の無駄よ」

 

「お前……っ」

 

訳知り顔で上から目線のラムにスバルが歯ぎしり。そのまま剣呑な雰囲気になりかける二人に、「まあまあまあ!」とオットーが割り込むと、

 

「お二人が言い争うのはやめましょう。まさしく、ラムさんが言ったとおり、時間の無駄です。時間の無駄、つまりお金を稼ぐチャンスの無駄です。ここは一つ、僕の顔に免じて収めましょう。そうしましょう、はい決まり!」

 

「ちっ。とにかく、説明してくる」

 

「ちっ。ラムから言いたいことはもうないわ」

 

「二人して僕に向かって舌打ちしながら言うのやめてくれませんかねえ!?」

 

相変わらずの扱いに不満を垂れるオットーだが、それが彼の役割なのだから仕方ない。オットーのおかげでどうにか割れずに済んだ一行、スバルはそれぞれの竜車に顔出すと、先のやり取りをそのまま説明。

アーラム村の人々は誰もが、スバルの残留が条件であることに渋い顔を見せたが、スバル自身が納得していることと、戻れば避難生活が長引くことを引き合いに出すと仕方なくではあるが了承してくれた。

 

惜しんでくれる彼らの気持ちをありがたく思いながら、スバルは全員の説得を完了。戻ってきて先の面子にそれを告げると、今度はパトラッシュにまたがってガーフィールと向き合い、

 

「こっちの話し合いは終了だ。お前の条件でいい。全員、通してもらうぞ」

 

「てめェ以外は、な。とっとと行かせろや。その地竜は、残んのか」

 

「徒歩で戻るのは体力的に厳しいとこがあるしな。パトラッシュにはちょっと、窮屈な思いを長引かせることになるけど」

 

付き合わせる羽目になる相方の背に手を置くと、身を震わせるパトラッシュはまるで「気にすることないわよっ、もうっ」みたいな感じで首を背ける。

相方の動きをそんな風に解釈しながら、スバルはガーフィールと並んで続々と『聖域』を抜ける道を進む竜車を見送る。竜車の窓からスバルを見下ろし、物言いたげな顔つきでいる村人たちに苦笑して手を振りながら、

 

「オットー、村に戻ったら屋敷には顔を出すな。できればそのまま戻ってこい」

 

「……?わけわからない指示ですけど、なんでです?フレデリカさんにはこのあたりのこと、報告するの必須だと思うんですが」

 

「なんでも、だ。村に帰りつくのは、たぶん明日の朝になると思うけど……念には念を入れて、最悪でも昼過ぎまでは顔を出すな」

 

スバルの指示にオットーは無理解を顔で表現。その彼の疑念に対する答えを明瞭に口にできないまま、スバルは「いけよ」と顎をしゃくって示す。

今夜が運命を分ける五日目の夜――つまり、屋敷に対してエルザからのアクションが起こる最終デッドラインだ。初回の内容を踏襲すれば、時間的にすでに事が起こっていることは間違いない。

エルザの見境なさとはいえ、村にまで降りてきて村人虐殺――とまではやらないだろう。屋敷に入りさえしなければ、オットーらに危険は及ばないはず。

 

もちろんそれは屋敷にいるフレデリカやペトラ。ベアトリスに、レムの身の安全を放棄するということに他ならないが。

 

「……今回は、『聖域』でなにが起こるのか見極めるのに全振りする。そう、決めたはずだ。欲張ってなにも得られないじゃ、なんのために見過ごすのかわかりゃしねぇ」

 

自分の胸中に浮かぶ、最悪の事態を見過ごすことへの罪悪感。それを使命感と義務感で無理やりにねじ伏せて、スバルは己の残酷な心のありようを叱咤する。

鋼だ。鋼の心になるのだ。最善の未来を掴むために、でき得る方策は全て使う。途上の犠牲を許容し、受け入れることで、心の摩耗をどれほど費やそうと。

 

「最後に笑えるようになれば、俺の……俺たちの勝ちだ」

 

だから犠牲を前に、揺れる心など押し殺してしまえばいい。

いずれ取り戻せる全てのために、その布石を打つことを躊躇ってはならない。惜しむべきものなど、今は何一つないはずなのだから。

 

「――――」

 

全員の竜車が行き過ぎ、森の奥へ消えたのを見送ってスバルは吐息。

これで、『聖域』にもともとの住民たちとロズワール邸の関係者しか残っていない状態は作り出すことができた。あとはこのまま明日の朝を待ち、『聖域』になにが起こるのかを見極めれば今回のループの目的は達成できると考えていいだろう。

 

「いつまでも残ってても虫さされがひどくなるだけだし、戻ろうぜ。お前の監視にあってんのもいい気分じゃねぇし」

 

「俺様に指図するんじゃァねェよ。……そういや、エミリア様の今夜の『試練』に関して、てめェなんにも聞きやがらねェんだな」

 

「お前がここにいるのがそのまま答え、って俺は受け取ったけどな。それに今回は厳しいんじゃないかって、思ってなかったといえば嘘になる」

 

少なくとも、人質たちと同じでスバルの安否をモチベーションにしてはダメなのだ。エミリアが『試練』に打ち勝つにはもっと根本的な部分の変化が必要になる。あるいはそれは『聖域』の問題の解決を急ぐ現状、どうにもならない可能性もある。

 

「それの見極めのためにも、だな。エミリアの『試練』突破を待てるのかどうか、なにが起こるのかを確かめた上じゃないと検討もできねぇし」

 

次回を見据えての施行錯誤、三度目の世界でスバルは自身に残された可能性を思う。

最大で四度、スバルが一度のループの間に死亡した回数だ。五度目の世界での突破を狙うのであれば、あと一度しか死ぬことはできない。

 

「確かめたいことが山ほどあるのにな……」

 

――すでに自分の『死』すらも、その突破のための足がかりとしか思っていない。

自分自身のその発言の歪みに気付かないスバル。『聖域』に戻ろうとパトラッシュに指示を出すスバルを、その背後から見上げていたガーフィールが、

 

「……なんもかんもわかったような口利きやがって。てめェがどれほど、ものを知ってるってんだよ」

 

「ガーフィール?」

 

はっきり聞こえなかった呟きの先を求めて、スバルが竜上で振り返る。そのスバルの目の前で、それは唐突に起こっていた。

 

跳躍したガーフィールがパトラッシュの上のスバル目掛けて、横薙ぎに振る手刀で首をはねにかかる。

 

空気を裂きながら迫る指の先端を目に焼きつけながら、スバルは実感のない『死』が突然に目前に迫ったことに声を殺して驚愕していた。

ガーフィールが攻撃をしてくる可能性を失念していたわけではなかったが、まさかここで直接的な危害を加えてくるとまでは思っておらず、

 

「――――っ!」

 

刃の振られるような鋭い音がして、肉の裂ける痛みが出血を伴ってスバルを襲う。思わず苦鳴の漏れる喉に手を当てれば、喉仏の下あたりを薄く爪先に抉られているのがわかった。

押さえた掌の隙間から血が滴るのを感じながら、スバルはとっさに手綱を操ってパトラッシュに指示を出しつつ、

 

「ガーフィール!なにを……!」

 

「てめェが邪魔しやがんのかよ。いったい、どういう了見だ、あァ?」

 

竜上で突然の凶行に声を上げるスバルだが、着地したガーフィールが血に濡れる指先を振って怒鳴りつけたのは別の方向だ。

痛みに顔をしかめながらそちらを見れば、そこに立つのは小さな杖を手にした一人の少女――桃髪を揺らし、厳しい目つきでガーフィールを睨むラムだ。

 

「ラム!?」

 

「嫌な予感がして残ってみれば、思ったとおりの展開になったわね。バルスは今、首と胴がつながっていることをラムに感謝するがいいわ」

 

「風で狙いがそれなきゃ、首が弾けてたはずなんだがなァ」

 

押しつけがましいラムの発言を、首を振るガーフィールが肯定してみせる。そのやり取りに声を失いかけながら、スバルは傷の痛みに思考を加熱させ、

 

「どういう、つもりだ、ガーフィール!今、俺を殺す気だったのか!?」

 

「しくじっちまったけどなァ。なにをする気だったのかって聞かれっちまえば、そういうことだとしか答えようがねェな」

 

あっけらかんと己の殺意を肯定するガーフィール。その言葉にスバルは隻眼を見開きながら、理解できない彼の行いに唇を震わせる。なぜなら、

 

「それなら、お前はいつでも俺を殺せたはずだろうが。監禁してるときに、いやその前にだって、治療なんかしないで放っておけば俺は死んだはずだぞ!?」

 

「それやったら中にいた人質連中が爆発しかねねェだろが。あいつらがいなくなって初めて、俺様ァてめェをぶち殺す順序が整ったんだよ」

 

「そんなのは……!」

 

思考が真っ赤に染まるのを感じながら、ガーフィールの言葉に打ちのめされる。

彼が虎視眈々と、スバルを仕留めてもなんら問題が生じない場面を探っていたのだとしたら、この場の見送りに関しても辻褄が合うのだ。だが、それでは不自然なことが他にもある。それは――、

 

「俺をこの場で殺したら、エミリアの『試練』はどうなる。あの子のモチベーションの要が俺な以上、俺が死んだら自惚れ抜きで『試練』は終わらなくなるぞ」

 

それは『聖域』解放を望むリューズ陣営にとって、この上ない不都合のはずだ。

仮にガーフィールがスバルの魔女の臭いを発端とするなにがしかを疑っていたのだとしても、目をつぶれないほどの大きな理由。

怒りに我を忘れた、というのなら彼らしい理由である気もするが、会話の成立する今の彼を見ていれば、我を忘れるほど冷静さを損なっていないのは自明の理だ。

 

つまりガーフィールは今、冷静な計算の上でスバルへ襲撃を行ったということになる。それはいったい、どんな意味を持つのか――。

 

「俺様ァな……」

 

「言い分を聞くだけ無駄だし、説得を試みるだけ無意味よ、バルス」

 

だが、なにかを口にしようとしたガーフィールの言葉に被せて、彼とスバルの間に割り込むラムが鋭く言い放つ。舌打ちするガーフィールに向けて彼女は杖の先端を向けながら、

 

「もっともらしい理屈で本音を隠すのはやめなさい、ガーフ。らしくもない」

 

「お、おい、ラム」

 

「下がりなさい、ラムが話をするわ。――いずれにせよ、ガーフはバルスを殺す気でいるようだから」

 

他人の殺意を肯定するラムに、スバルは口をつぐむより他にない。

彼女は油断ない目でガーフィールを睨みつけたままこちらへ歩み寄ると、伸ばした手でそっとパトラッシュの首下を指でなぞり、

 

「いい子ね。なすべきことをなしなさい。あなたの上にいるご主人様は、ひどく自分にも他人にも鈍いようだから」

 

「――――」

 

穏やかで、どこか優しげなラムの言葉にパトラッシュは無言の応答。差し出される指先を舌で舐めるだけで応じ、パトラッシュは頭を低くしながらのっそりと、スバルの指示を受けずに木々の方へと足を向けて、

 

「ちょ、待て。お前ら、なにを揃って……」

 

「手綱だけは放さないようにしなさい。それだけ守っていれば、その地竜はバルスを守ろうと全力を尽くすでしょう。男冥利に尽きる話ね」

 

「聞けよ!いや、聞かせろよ!なにを知っててお前らはこんなことを!」

 

「話す暇はないし、話しても無駄。言ったとおりよ、バルス。――ラムが一分は稼いであげるから、その隙に逃げられるだけ逃げなさい。それだけがラムがやってあげられる、唯一の抗いのようだから」

 

最後まで要領を得ないラムの応答、だが今度こそそれを問い質す時間がない。

ラムの言葉の最後を聞き届けるよりも先に、パトラッシュが小さく嘶いて駆け出す方が早かった。竜上で勢いに揺られるスバルは『風除け』の加護の展開を感じながら、木々の群れに突っ込む背中にしがみつき、

 

「ラム――!」

 

叫ぶ。しかし、答えはない。

木々の群れに視界を遮られながら、スバルは自分を置き去りに動き出す状況に唇を噛みしめて、ただ振り回されるしかなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

スバルを乗せたパトラッシュが森の中を突き進み、邪魔ものがいなくなった空間で二人が向き合っている。

 

杖を構えたまま身じろぎ一つしないラムを見据えて、ガーフィールはスバルの消えていった森の方を指差すと、

 

「余計なこと言いやがって。追っかけんのが億劫になったじゃねェか」

 

「行かせると思うの?」

 

「止められると思ってんのかよ?昔と俺様との力関係が変わってねェと思ってんならそりゃ大間違いだぜ。惚れてることと、ねじ伏せねェことは一緒じゃねェんだ」

 

指の骨を鳴らしながら再度の威嚇。もっとも、それで物怖じするような少女でないことはガーフィールも知っていた。事実、顔色一つ変えないラム。ガーフィールはその短い金髪を乱暴に掻き毟りながら、

 

「ラムよォ、てめェはなにを考えてやがんだ。こんなことしてなにっになるってんだ。俺様ァ聞いちゃいねェぞ。こうするように、ロズワールから命令されたってかァ?」

 

「……残念だけどガーフ。ラムがここにいるのはラムの意思であって、ロズワール様のご命令は関係ないわ。少なくとも、今はご指示を仰ぐ必要がないから」

 

毅然としたラムの物言い。そしてガーフィールの質問はスバルのしたそれと疑問の発端を同じくするものだ。彼女の答えに眉根を寄せ、無理解を示すのも同じ。

ガーフィールはますます顔色を苦いものにしながら、

 

「わっかんねェよ、ラム。てめェがロズワールの指示に従ってねェならなおさら、こんな真似した理由が浮かばねェ」

 

「本当に?」

 

「あァ――?」

 

「本当に、ラムがどうしてこんなことをしているのか……わからないの、ガーフ?」

 

その問いかけは静かで、放ったラムの表情や声音も普段と変わったところはない。だが、それを聞き、その視線を受けたガーフィールの表情が変わる。

不可解。疑念。驚愕。そして、憤怒に。

 

「てめェ……」

 

一歩、踏み出したガーフィールの足が地を荒々しく踏みにじる。堪え難い怒りを牙を噛み鳴らすことで表しながら、彼はラムを瞳孔の細まる目で睨みつけ、

 

「まさか、たァ思うがよォ。こんな真似してやがんのは……」

 

「――フレデリカと、ガーフのため」

 

「あの裏切り者の名前なんざ、お前の口から出すんじゃァねェよ!!」

 

吠え猛り、足を振り下ろされた地面が陥没、轟音を上げて踏み砕かれる。

噴煙が立ち上り、付近の木々が傾くほどの威力。森が怯え、空気すらも彼を刺激することを恐れて音を失うほどの怒気。

だが、その憤怒そのものを真っ向からぶつけられたラムは涼しい顔つきのまま、

 

「そうやって意地を張って、子どもじみた癇癪で力を示せば誰もが従うとでも?ガーフ、いつまで狭い森の中を駆け回っているの」

 

「知ったような口を利くんじゃァねェよ!てめェに……てめェやフレデリカに、『聖域』を捨ててった奴らにどれだけのことがわかるってんだ、あァ!?」

 

まるで幼子に言い含めるようなラムの言葉は、激昂するガーフィールには届かない。彼は先ほどの踏み込みとは違い、威力を伴わない足の上下で土を抉りながら、

 

「俺様のため?俺様のためだ?てめェが……それこそ、信じる余地がねェ。今さらどの面ァ下げて、俺様にそれを言いやがるんだ……っ」

 

「ガーフ……」

 

「憐れみも同情も、俺様がいつしてくれなんて頼んだんだよ。どれだけ上から目線で見下しやがんだよ。俺様もババアたちも、憐れまれることなんざ望んじゃいねェ」

 

掌で顔を覆い、ガーフィールは息を荒げながら絞り出すように言い切る。

そのどこか悲壮な姿は、背丈以上に見るものに彼の姿を小さく見せるものだった。

 

深呼吸を繰り返し、ガーフィールは己の顔から手を除けると、

 

「もういい。なにも聞きたかァねェ。今すぐ後ろ向いて、『聖域』に戻れ。そうすりゃァ今回のこたァ見逃してやる。俺様ァ、あの野郎を追っかけるがな」

 

「断るわ、ガーフ。譲るなら、ラムではなくガーフの方だわ。戻ったところで近づく破綻を避けられない。それはわかっているでしょう?」

 

「いいっから戻れ。もう二度は言わねェ。戻って、『試練』が片付くまで待て」

 

「いいえ、戻らないし待たないわ。立ち止まって得られるものはない。その場で停滞していて掌に残るのは、手に入れたと思っていたものの残滓だけ。そんな弱々しくて曖昧なものにどうして……」

 

「それっでも!なにも残らねェよりずっとマシだろうがァ!」

 

言葉を続けようとするラムを遮り、吠えるガーフィールが顔を上げる。その表情に刻まれているのは怒りであり、羨望であり、悲哀であり、

 

「破綻?それっがどうした。俺様が全部、どうにかしてやらァ。今度っこそ、俺様ァ全部、そうして全部……」

 

「ガーフ、昔から言っているでしょう。――あなたのそれは、代償行為よ」

 

感情を爆発させるガーフィールに対して、ラムはただひたすらに冷静に応じる。

二人の意見は平行線であり、互いの譲歩は互いの意見に真っ向から反発し合った。そしてそれが譲り合う場面もまた、訪れない。

それを悟ったのだろう。目を伏せ、ガーフィールはその瞼を閉じると、

 

「戻れ、ラム。俺様の、最後の頼みだ。ずっとずっと、お前に言ってきた感情の全部で、頼む。だから……」

 

「それなら、ガーフ。――ラム以外の全てを、諦めてくれるの?」

 

「――――」

 

苦渋に満ちたガーフィールの最後の嘆願、その返答はひどく簡潔で、それなのに聞くものの心に耐え難いほどの圧迫感をもたらすものだった。

 

相対するガーフィールの表情が強張り、唇が震える。

そんな彼を見ながら、ラムはその目を軽く伏せて、

 

「この世界にあるあらゆる全ての中からラムを選んで、ラムだけを見つめて、ラムだけを愛して、ラムだけに尽くして、ラムだけに愛されて、ラムだけに許されて、ラムだけに全てを捧げて――それができる?」

 

「お、俺様は……」

 

「ラムは、できるわ」

 

己の胸に手を当てて、口ごもるガーフィールにラムははっきり断言する。

静かに、絶対に揺るがない意思。それだけを言葉に込めて、彼女は顔を上げ、

 

「――ラムは、できるわ」

 

そしてそれが、ラムにとってのガーフィールへの最後通牒だった。

 

それを理解したのだろう。ガーフィールの表情から覇気が一瞬だけ失われる。その刹那に浮かんだ表情がどんなものだったのか、それは見届けたラムしかわからない。

彼は即座に首を振って、その垣間見せた弱さを押し隠すと牙を剥き、

 

「昔から知ってっが、この強情っ張りがァ」

 

「お互い様だわ。――本当に自分の中の大事な一つにしてくれないのなら、ラムはガーフになびかない。ラムは誰のものにもならないわ」

 

「そう、かよ」

 

互いに顔を見合わせ、二人の視線が交錯する。

結論をぶつけ合い、譲れないことを確認した両者。そして二人は静かな声で、

 

「さよなら、ガーフ」

 

「あばよ、ラム」

 

それが二人にとって、交わした最後の言葉で、親愛だった。

 

――森が震える。

そして、雄叫びが響き渡った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「パトラッシュ!止まれ!止まれって、言ってんだろ!!」

 

竜上で手綱を必死に引きながら、スバルは森を駆け抜けるパトラッシュに懸命に声を投げかけていた。

しかし、地竜は騎手の言葉に耳を傾ける様子もなく、ただひたすらに荒れた道を踏破してぐんぐんと鉄火場から距離を遠のかせている。

 

驚きや恐怖で恐慌状態に入り、騎手の言うことを聞かなくなる馬などの話は聞いたことがあったが、今のパトラッシュの状態はそれらと符合しない。

彼の地竜の様子は普段と変わらないままで、彼女は理性的なままでスバルの指示を意識的に無視しているのだ。

それはつまり、彼女がスバルのことを指示を仰ぐに足る存在だと認めていない証拠であり、

 

「ここまで言うことを聞いてくれてたのは、お前の厚意だったってことかよ」

 

「――――」

 

言うことを聞かず、さりとて気に入らない主人を振り落とすでもない。パトラッシュの振る舞いは一から十までスバルに対する配慮に満ち溢れたもので、その背中で揺られるばかりのスバルにとってはありがたさと情けなさで涙が出そうになる。

地竜を御しきれていない、などとかわいらしい話ではない。地竜にすら気遣われていて、それにすら気付いていなかった自分の間抜けぶりに愛想が尽きそうだ。

そしてそれら含めて現在進行形でスバルが己に失望するのは、

 

「ラムがやばい!ガーフィールがラムに乱暴な真似すると思いたくねぇが……今は!」

 

スバルを殺そうと、そう判断する程度にはガーフィールの思考が結論を向いている。そこにラムが立ちはだかったことは彼の誤算だろうが、その誤算に対してどんな解決策を見出すのか――想像するだけで恐ろしい。

 

屋敷の面々は救えないと、スバルは今回のループにおける犠牲の許容を半ば認めていた。だが、そこにラムが入ってくるのは話が違う。許容すると決めていた範囲を逸脱してしまえば、覚悟の足りないスバルの心は割れ砕けて醜態をさらす。

 

「俺が、傷付くのは……嫌だけど、取り返しがつくんだよ。だから……!」

 

泣き言のような縋る声。しかし、パトラッシュは取り付く島もない。

風になる地竜の速度は緩まず、スバルの嘆願に耳を傾ける様子もない。遠ざかるラムとガーフィール。手の届かない場所で起きる悲劇。

それを思い、スバルの心は再び打ちのめされる。どうして、自分の心はこんなにもやわで、いつまでたっても強くあれないのか。

 

――そうして、己の内側にばかり目を向けることで過ちを繰り返してきたのに、スバルはまたしてもその失敗を繰り返した。

 

「――え?」

 

急激に視界が開けたのは、乱立する木々の隙間をパトラッシュが通り抜け切ったからだ。そして、障害物だらけの中を彼女にしがみつくことで乗り越えたスバルは、その開けた視界に映った光景を前に口をポカンと開ける。

 

「ど、どうしたんですか、ナツキさん。そんな急いで」

 

そう言ってスバルと同じように、その表情に驚きを浮かべているのはオットーだ。

先にいったはずの避難組。その彼らの列に、横合いから追いついた形になる。森に入って目的地も定めずに走っていたとばかり思っていたスバルにとって、パトラッシュのこの行いは想定外の一言だった。

 

「通れないはずでは?ガーフィールはどうしたんです?」

 

「お、俺もよくわからねぇんだが……ラムとパトラッシュが……」

 

荒れた息を整えながらオットーに応じようとして、スバルは額の汗を手の甲で拭った。

――すさまじい咆哮が森中を震わせたのは、次の瞬間だった。

 

「な――!?」

「ひぁ!?」

 

喉の詰まる驚きに目を見開き、スバルとオットーは同時に声のした方へ振り返る。

轟いた雄叫びは大気を、そして人心を震わせ、なにより地竜たちにすら恐慌の兆しを浮かべさせるほどの圧倒的なものだった。

この場で動揺していないものがいたとすれば、それはスバルを背に乗せるパトラッシュだけだったろう。

 

故に、この場の誰よりも早く決断したのもまた彼女だった。

 

「あ、ナツキさん!?」

 

「おい、パトラッシュ!」

 

首を即座に竜車の列の先端へ向けると、パトラッシュが地を蹴って走り出す。彼女が向かうのは先頭車両――ですらなく、その先。つまりは道の先であり、『聖域』の出口へと迷うことなく突っ切る形だ。

オットーの呼び声を置き去りに、走り出したパトラッシュの上で再び加護を受けるスバル。彼女の行いの理由がわからない。どうにか止めようと声をさらに上げようとしたところで、

 

「――――ッ!!」

 

衝撃が地を震わせ、後ろから悲鳴が届くのがスバルには聞こえた。

思わず息を呑んで首を後ろに傾け、オットーらがいた方向に目を凝らす。

 

左片方だけになった視界に、暗がりの森がぼんやりと浮かび、スバルは見た。

 

弾け飛ぶ竜車。地竜ごと荒々しい衝撃に呑まれたそれは、中に乗せていた避難者たちを空へと撒き散らし、悲鳴と血が森の空を赤く悲痛に染めていく。

 

「――ぁ」

 

その惨状を見るスバルは、空に浮かぶ竜車の残骸の下、そこに一頭の獣を見た。

 

――全身を金色の体毛で覆い尽くすそれは、スバルには巨大な虎に見えた。