『名前喰らいの美食家』


 

――水門都市プリステラで始まった、魔女教との総力戦はいよいよ大詰めに差し掛かろうとしていた。

 

都市の東では一つの教会が氷漬けになり、見上げるほどの氷柱が突き立った。

都市の北では水路が一斉に燃え上がり、白熱する石塔が轟音を上げて倒壊。

都市の西では水路の一部が破壊され、大量の水が地下へ流れ込み氾濫が起きる。

都市の中央では都市機能の中枢とされた庁舎が、土台を失って形を失っていた。

 

各地で開かれた戦端は甚大な被害を生み、魔女教という存在の脅威を都市に刻み込んでいく。だが、その上で抗う者たちは悪意を退け、限られた戦力での防衛戦、その目的を果たさんとしていた。

そうして、からくも水門都市の窮地を乗り越えんとする最中、旗色の悪い戦場があるとすればどこか。それは、おそらくこの戦場のことであろう。

 

――そう。突発的に勃発した、魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトスとの遭遇戦である。

 

「はっはァ!そォんなんじゃ、ダメダメダメダメダメダメダーぁメーぇ!どうなの、どうしたの、どうしたいの、どうしちゃうの、どうしちゃったの!?」

 

細く、入り組んだ水路に囲まれる通称『水路街』。

その水路街の中央にある大広場で、哄笑を上げる小柄な影が俊敏に跳ね回る。

 

短い手足を目いっぱい使い、長くざんばらに伸ばした焦げ茶の髪を振り乱しているのはまだ年若い少年だ。いいところ十代半ばの少年は、その身に一枚のボロ切れを羽織るばかりで、浮浪児と見間違われてもおかしくない格好をしている。

ただ、外見的特徴だけならともかく、実物を目の当たりにして、その印象を抱き続けることは難しいと言わざるを得ない。

 

それほど、高笑いするその少年の存在は異質で歪で忌むべきものだった。

一目でわかる、その全身から放たれる常軌を逸した圧迫感。それは日常生活の中で人間が削ぎ落としてきた、本能の部分に呼びかける致命的な狂気だ。

 

誰しも、それだけで彼の存在の異常性に気付ける。

それは人の域を踏み越え、人の願いを踏みにじり、人の世を踏み荒らす冒涜者。

人心と人倫を足蹴にして嗤う邪悪、魔女教の大罪司教であるのだと。

 

「相手はたった一人のガキだ!囲んで逃がすな!仕留めろ!」

 

「そォそォ、たった一人のガキだよ!捕まえて、八つ裂きにしてごらんよォ!」

 

野太い声の号令に、けらけらと笑う少年の声が重なる。

『暴食』のライ・バテンカイトスは、自らに迫る男たちを睥睨しながら、下がるどころかむしろ気軽に踏み込んで距離を縮めていく。

 

「――っ」

 

もはや声も上げず、白装束の男たちはバテンカイトスへ飛びかかった。

全員が白い衣をまとう面々は、キリタカの残した傭兵『白竜の鱗』の構成員だ。その手に揃いの小刀を握り、四方から『暴食』に刃が叩きつけられる。

一糸乱れぬ連携、その同時攻撃に対してバテンカイトスは、

 

「ほつれがあるよ、ダメだなァ」

 

『一糸乱れぬ』の間隙に身を滑り込ませ、四つの刃を最低限の動きで回避する。

身をかわして刃を避け、右腕に括り付けた短剣で一刀を流し、一人の胴体を蹴りつけて囲みを突破する。その正面、両腕を交差する巨躯が立ちはだかった。

 

「う、おおお!こうなりゃ自棄だ、おらぁ!」

 

フェルトの従者であるガストンだ。彼はその体格でバテンカイトスに突っ込み、大罪司教の短剣の一本を奪った秘技のままぶつかろうとする。

その姿に目を丸くしたバテンカイトスは、直後ににっこりと微笑んだ。歳相応の笑みだが、その口にはやや鋭すぎる犬歯が覗いており、一抹の不安を過らせる。

 

「元気だね、オジサン。嫌いじゃァないよ!」

 

「オレはまだオジサンなんて呼ばれる歳じゃね……ぼぁ!?」

 

突っ込むガストンの横っ面に、跳ね上がるバテンカイトスの右足が突き刺さる。足刀の一撃を頬に浴びるガストン、だが彼は怯まずバテンカイトスを見下ろした。

短剣の一撃同様、ガストンに今の一撃は通っていない。原理は不明だが、ガストンの体は打撃、斬撃の威力を完全に殺していた。

そのまま、ガストンの腕が伸び、ちょこまかと動く『暴食』を掴んで――、

 

「拳王の掌――」

 

足を上げたまま、バテンカイトスが何事か囁いた。その掌がガストンの胴体に接触する。蹴りに比べれば何の威力も速度もない、触れただけの一動作。

しかし、軽く掌が押し込まれた直後、ガストンの体がくの字に折れる。

 

「お、ごぇ!?」

 

膝をつき、ガストンが溢れ返る胃液をこぼして苦鳴を上げた。前のめりに倒れ込む体の横を抜けて、囲みを突破したバテンカイトスは振り返って首を傾げる。

こんなものか?とでも言いたげなその仕草に、『白竜の鱗』は自尊心を傷付けられる一方、戦慄と驚嘆を隠しきれない。

 

「化け物め……!」

 

誰かがこぼしたその言葉が、バテンカイトスの能力の端的な証明だ。

その苦しげな声に、かすかに羨望が混ざっていたのは、あるいは聞き間違いであったのかもしれないが。

 

「……予想以上に、決定打に欠けますね」

 

拮抗、などとはひいき目に見ても言えない戦況を眺めやりながら、オットーは乾いた唇を舐めて必死に頭を回転させていた。

『暴食』との接近遭遇戦において、相対するこちらの戦力はどこまでも頼りない――無論、全員が懸命なのは事実だが、それでも足りないのが現実だ。

 

キリタカの残した『白竜の鱗』が七人、フェルトがガストンを連れた二人で、オットーが単独戦力、これで合計が十人。

ここにたまたまの偶然、他の戦いを早々に片付けた誰かが合流してくれて、一気に形勢がひっくり返って大逆転――理想といえば理想だが、

 

「そんな幸運が訪れると期待するほど、僕は僕の運を信用しちゃいませんのでね」

 

オットー・スーウェンの人生は、それはもう不幸と理不尽と隣り合わせだ。オットーは常に、幸運なんてものは存在せず、結果は自分の努力と準備と行いで引き寄せるしかないと思っている。

自分にとって幸運は、厄介な加護持ちでありながら理解ある家に生まれたことと、大罪司教に殺されかかった命をスバルに救われたこと。

それで使い切ったと思っているから、必要以上に不運を悲観することもない。

 

「兄ちゃんが連れてきた、あの水竜はもう使えねーんだよな?」

 

考え込むオットーの傍らで、同じく状況を見守るフェルトが呼びかけてくる。

彼女の紅の瞳が睨むのは、剣戟を打ち合う『暴食』たちの向こう――石畳の上に投げ出され、瀕死の状態で長い首を痙攣させる水竜の姿だ。

オットーがけしかけ、バテンカイトスに蹴散らされた哀れな水竜たちは、残念ながら戦線復帰は望めそうもない。

 

「生憎、これ以上の無理はさせられないでしょうね。ここにくるまでに話せた水竜はあれで全部……別の水竜に話ができれば同じこともできるかもしれませんが、ここから逃がしていただけるんですか?」

 

「冗談キツイな。あの歌姫狂いを逃がすだけでも、うちの切り札一枚切ってんだぜ。二枚目切るにゃぁ、それこそ準備がいんだよ」

 

言いながらフェルトが見るのは、その小さな体で抱きしめる細長い包みだ。

白い布に包まれたそれは、彼女が従者に持たされていたという『切り札』の魔法器であるらしい。ラインハルトですら回避できないとお墨付きらしいが、使用には少しばかり厄介な手順が必要であり、それを満たすまでは使えない。

 

「それに歌姫狂いはともかく、兄ちゃんやアタシは逃げようとしても逃がしてもらえねーだろうよ。あの野郎の標的に、きっかり入っちまったみてーだかんな」

 

「正直、それが一番勘弁してほしいんですが」

 

鼻を鳴らすフェルトの言葉に、オットーはげんなりと肩を落とす。

ただ、その言葉を否定することができないのは、激しい戦いの合間にもこちらへ投げかけられる、熱を帯びた瞳の力を確かに感じるからだ。

 

バテンカイトスは熱い吐息を漏らし、潤んだ瞳と紅潮した頬で、頻繁にオットーたちへ視線を向けてきている。そこだけ切り取れば色めいた意味合いにも取られかねない視線だが、その真意は飢えた獰猛な獣の食欲が潜んでいるだけだ。

猛獣のお眼鏡に、血の滴る上等な肉として適っただけの話。まったく光栄ではないが、バテンカイトスの審美眼に適ったのはこの場で三人。

 

オットーとフェルト、それに『白竜の鱗』を指揮する無精ヒゲの男だ。彼もまた部下に指示を出し、バテンカイトスとぶつけながらこちらへ駆け寄ってくる。

頷きかけてきた精悍な顔つきの男は、戦況を気にしながら早口で、

 

「ダイナスだ。さっきはうちの若様を逃がすのに協力してもらって助かった」

 

「それに関してはフェルト様方の功績ですよ。それにキリタカさんを逃がすことは、僕らの勝ち筋を残すためにも意味があることでした。これで……」

 

この場を離脱したキリタカが、オットーの指示通りに動いてくれていれば、あるいは別の可能性も見えてくる。生憎、確証のない願掛けのようなものだが、いずれにせよ悪い方向へは転がらないはずだ。

勝つため、儲かるための手段はいくらでもあっていい。最終的にそのいずれかの手に乗せれば、勝ちが転がり込んでくるだけの話なのだから。

 

「――――」

 

押し黙り、めまぐるしく頭を回すオットーを見て、男性――ダイナスが驚いたような顔をして、それからすぐに頷く。そこには納得の色があった。

 

「なるほど、聞いていた通りらしいな。さすが、魔女教の第一人者であるエミリア様のところの筆頭内政官殿だ。その調子で大罪司教の料理法に関しても、期待させてもらって構わなそうだな」

 

「過大評価と誇大広告ありがとうございます。あの、すみません、ところで皆さん、内政官って何する仕事か知ってますか?なんか、僕の知ってるやつとちょっとすれ違いがある気がしてならないんですが……?」

 

「ビビりも謙遜もすんなっつの。それにうちの内政官だって、でっけー体で棍棒振り回したりすんだぜ。内政官ってそういう仕事なんじゃねーの?」

 

内政官という役職への風評被害がすごい。

この一年で、内政官と呼ばれることへの諦めはすでについているつもりだが、その意味が変質することまでは受け入れていない。

何が原因だ。天災のような状況に、こうして何度も遭遇していることだろうか。スバルが悪い。無事に戻ったら必ず、一発引っ叩こう。そう決めた。

 

「では――」

 

戦後のことに頭を割くのは後回しにして、この状況に集中するとしよう。

 

オットーの視線の先、バテンカイトスは『白竜の鱗』やガストンと幾度も交錯し、その異常な戦闘力を遺憾なく発揮して薙ぎ倒していく。

ただ、不可解なのは右腕の短剣を振るおうとしないことだ。

 

「いい大人が寄ってたかってこォんなガキ一人捕まえらんないの!?ダメだ、ダメだよ、ダメだろう、ダメじゃない、ダメでしかない!」

 

牙を剥き出し、バテンカイトスは足捌きだけで男たちをかわしていく。緩急自在な動きと、奇抜に揺らめく上体に翻弄され、小刀はいずれも空を切るばかり。

下半身と上半身とで、まったく技術体系の異なる動きだ。オットーの目にも奇異に映るそれを見て、ダイナスが喉の奥で思わずうなる。

 

「ダイナスさん?」

 

「ああ、いや……すまん。奴の動きが少しばかり……うお!?」

 

「でかい図体してビビッてんじゃねーよ!」

 

口ごもり、自分の頭に浮かんだ考えを否定しようとするダイナス。その尻を、後ろに回ったフェルトが蹴り上げた。

振り返るダイナスに、フェルトはぷりぷりと頬を赤くし、その目をつり上げる。

 

「相手の懐に手ぇ突っ込んだら、あとはブツが盗れようが盗れまいがやるっきゃねーんだ。どうせ追っかけ回されるなら、ブツが盗れるように使えるもんはなんでも使うんだよ。わかんだろ?」

 

「なんで盗っ人目線なんです?」

 

フェルトの助言にオットーが首を傾げるが、その隣でダイナスが首を横に振った。彼はフェルトを見つめ返すと、「そうだな」と前置きし、

 

「このお嬢ちゃんの言う通りだ。思いついたことはなんでも口に出して、打開策を見つけてかなきゃならん。ひとまず、俺の感じた違和感だが……」

 

お嬢ちゃん、とフェルトのことを呼ぶダイナスは、どうやら彼女の素性が王選候補者であると気付いていない様子だ。が、この場では些事と判断し、オットーはそれに言及しない。その上で、ダイナスの言葉に耳を傾ける。

 

「あの大罪司教……見た目はガキだが、戦い方といい動きといい、いくらなんでも上手すぎる。身体能力任せ……とも、また違うぞ」

 

「――?そりゃ、生まれつき戦い方が異様にうめー奴だっているんじゃねーの?ラインハルトとかもその類の馬鹿だろ?」

 

「比較対象としてラインハルトさんが成立する時点で、白旗上げたいんですが」

 

フェルトの騎士にして、王国最強の剣であるラインハルト。

今はスバルに同行し、『強欲』の攻略戦に挑んでいるはずの彼であるが、その強さは護身術程度しか嗜んでいないオットーにも、肌で感じられるだけのものがあった。

傍らにいるだけで、絶対の安心感と同時に畏怖の念が沸き立つ。王国最強の名は伊達ではない。あるいは、地上最強の呼び声すらも間違っていないだろう。

 

一方で、バテンカイトスにも接するだけで沸き立つ嫌悪感や不快感はある。が、それはラインハルトに感じるそれとは質の異なるものだ。

無論、その卓越した戦闘技法については否定の余地はないが。

 

「そういうのとも違うんだ。俺も生きてきて、それなりに修羅場はくぐったもんだが……あのガキの戦い方は、才能で説明できるもんじゃない。あれは何年も何年も、積んでなきゃできない奴の動きだ」

 

ダイナスのその発言に、オットーとフェルトは改めてバテンカイトスを見る。

ちょうど、バテンカイトスは小刀の一撃を掲げた腕で受け止めたところだ。剣撃を打ち込む男の手首を掴み、バテンカイトスは身を回して懐に飛び込むと、そのまま男を背負うようにして地面へと投げつける。

さらに追撃を仕掛けてくる男たちへ、『暴食』の足は石畳を円を描くように滑り、ゆらりと手足を駆使し、バランスを崩させて転ばせる。

 

確かにその流麗な動きには、バテンカイトスのまとう暴力的な雰囲気と一線を画す清涼な力があった。ある種の武術体系に則った技術、それを修めている。

見た目十四、五歳の少年が、何年もかかる技法を完璧に――?

 

「ひょっとすると、武術の天才なんて呼ばれる奴はそれもできるのかもしれないが……あのガキにその才能が振る舞われたとは思いたくないところだ」

 

ダイナスにそうまで言わしめる、それほどのものをバテンカイトスは修めている。同時にオットーは、『暴食』と戦う白装束の一人が漏らした呟き、そこに込められた羨望の意味にようやく気付いた。戦う彼らはオットーたちより早く、その事実に気付いていたのだ。だから、彼らは――。

 

「短剣の扱い、無手の戦い方、完璧な武術技法……?」

 

そこまで口にして、オットーは自分の推論に疑問を覚えた。浮かび上がった考えは純粋に、『そこまでのことが可能なのか?』の一言だ。

 

「――――」

 

南のヴォラキア帝国などでは、幼くしてコロシアムの剣奴となった存在に、戦い方を仕込んで教育するという話も聞く。バテンカイトスがそうした環境にあったのであれば、あるいは今の年齢でこれだけの技量を身につけることも不可能ではないかもしれないが、そういった実戦的な技術とも違うのだ。

それを修める方法は、しっかりとした師につき、技法を学んでいくこと。

あるいは――、

 

「盗み取る……いや、食らって糧にすること?」

 

『暴食』が相手の『名前』と『記憶』を食らう存在であることは、すでにオットーはスバルの口から聞かされている。実際、そのどちらも食われて、誰の記憶にも残っていない状態になった少女、その姿はオットーも知っているのだ。

信じ難いが、目に見えぬものを食らう存在であることは疑っていない。だがこれまで、食ったものがどうなるかまでは考えたことがなかった。

 

万が一、『暴食』が食らった相手の記憶を蓄積し、扱えるのだとすれば。

十年以上も修練を積んだ武道家の技法、あるいは戦場を渡り歩いてきた戦士の戦い方を、そしてスバルを傍らで支えていた少女の攻撃を真似ることも――。

 

「魔法がきます!!」

「ガストン!」

 

「――エル・ヒューマ」

 

電撃的に衝撃が走り、オットーが叫んだのとバテンカイトスの詠唱は同時だ。

大気が音を立てて凍り付き、生み出される氷の塊が、その魔法攻撃を予想していなかった『白竜の鱗』の面々を横殴りにする。

しかし、その氷塊の雨に両手を広げてガストンが立ちはだかった。大男は相変わらずの防御力で、叩きつけられる氷の塊を全身に浴びる。その背後に『白竜の鱗』が飛び込み、被害を軽減する形だ。だが、それでもダメージは防ぎきれない。

 

「お兄さんの判断がよかった。思ったより、不意打ちにならなかったね」

 

魔法を行使したバテンカイトスが、その惨状を見ながら口の端をつり上げる。

壁役に立ったガストンは荒い息をつき、その背中に隠れた『白竜の鱗』の六人、こちらは負傷者が出ている。血を流し、うずくまる一人に、足をやられた二人。残った三人も決して、無傷とはいかない。戦力は半減し、その上――、

 

「今の言葉が出るってことは、僕たちの種は割れちゃったのかなァ?」

 

「……さあ、どうでしょうかね」

 

「お兄さん、騙し討ちには向いてないよ。痛い目を見る前に、商人なんかやめた方がいいんじゃァないかなァ」

 

苦し紛れのオットーにそう応じて、次の瞬間にバテンカイトスの姿が消える。

否、消えたと思うほど、素早く自然な動きで踏み込んだのだ。その小柄な体躯がガストンの横をすり抜け、動けなくなった『白竜の鱗』の傍らへ。

とっさに、動ける三人はそこから飛び退くが、負傷した三人は引っ張れない。

 

「アスタ。ルックフェルト。ヒックス」

 

囁くように漏らして、バテンカイトスはその三人の肩をそっと撫でた。

何事か、と目を剥く全員の前で、バテンカイトスに触れられた三者の体が跳ねる。そしてバテンカイトスは振り返ると、彼らに触れた左手を掲げ、

 

「ぺろり」

 

と、その何もない左の掌を舐めた。途端に、オットーは違和感に呑まれる。

何が起きたのか、何かが起きたことは違いない。だが、それが何かわからない。そして、わからないのはそれだけではない。

 

「彼の足下に倒れているのは……誰ですか?」

 

オットーが指差すのは、舌を長く伸ばしてみせるバテンカイトスの足下だ。

その少年の形をした悪意の足下に、三人の白い服の人物が倒れている。倒れているのだが、その素性がわからない。おそらく、背格好から『白竜の鱗』の構成員であると予想はつくのだが、彼らはいつ現れ、いつやられてしまったのか。

 

「悲しい、悲しいね、悲しいよ、悲しいさ、悲しいとも、悲しいからこそ。俺たちは一方的な再会だったとしても、満たされずにはいられないのさァ」

 

「ダイナスさん!あの三人は!?」

 

「わからん!見たこともない顔だ!だが――!」

 

同じ揃いの服装で、知らない相手だなどといわれても説得力はない。ないが、ダイナスの声に誤魔化す意図も余裕もない。飛ぶように駆け出し、彼は二刀を両手に振りかざしてバテンカイトスへ切りかかった。

 

「やめなよ、ダイナス。古い付き合いだ。故郷の浄化もあと一歩だってのに、こんな風に仲間で切り合うなんて馬鹿らしい」

 

「――!?お前、どこでそのことを!」

 

ダイナスの事情を不用意に踏みつけ、バテンカイトスは右の刃を振り上げる。小刀の二撃を一本の短剣で軽やかに受け流し、『暴食』は突き上げた膝でダイナスの胸を打つと、そのままの勢いで一気に後方へ飛びずさった。

胸を押さえるダイナスは咳き込むが、倒れる見知らぬ三人は確保する。そんなダイナスの姿に、バテンカイトスはこれ見よがしにため息をついた。

 

「器に固執するなよ。大切なのは心と中身だろ?その人をその人たらしめるのは外側じゃない、中身さ。僕たちはお前の努力を知ってるよ、ダイナス。ミリアンもメィリィも、守れなかったのはお前のせいじゃない。運が悪かったのさ」

 

「黙れ黙れ黙れ黙れぇ!お前が俺の何を!何を知っている!勝手なことを口にするな!この腐れ外道がぁ!」

 

怒声を張り上げ、ダイナスが打撃の痛みも忘れて再び吶喊する。二刀が翻ってバテンカイトスを狙うが、それは見知った一撃を振る舞われたような顔のバテンカイトスに容易く避けられた。そのまま、ダイナスの背にバテンカイトスの手が伸びる。

 

「っと?」

 

「いつまでも人を無視すんじゃ」

「ねーってんだよ、バーカ!」

 

バテンカイトスの細い腰に、真後ろからガストンが組み付いた。その鼻面にバテンカイトスの肘が叩き込まれるが、打撃の威力にガストンは下がらない。

さらにガストンが抑え込むバテンカイトスへ、駆け込むフェルトが躍りかかる。彼女は両手に抱えていた細長い包みを、その無防備な後頭部へ叩きつけた。

 

「馬鹿だなんて傷付くなァ。たぶん僕たち、君よりは色々知ってるはずだぜ?」

「ぬが!」

 

が、そのフェルトの一撃を、バテンカイトスは前屈みになり、さらに掲げた右腕の短剣で受け流す。勢いの乗った打撃は軋る音を立てながら、しかし狙いを大きく外してかえってフェルトの姿勢が無防備になった。

ダイナスとフェルトが揃って隙を見せ、ガストンにも手が届く状況――バテンカイトスの魔の手が、そのまま三人に、

 

「やらせませんけどねえ!」

 

届く寸前、投げ込まれた魔石が赤熱しながらバテンカイトスの足下へ。それを見取った瞬間、バテンカイトスの動きが止まり、フェルトとダイナスが緊急離脱。

 

「離すな、ガストン!」

「覚えてろ、この悪魔娘……!」

 

組み付いたままのガストンが、魔石の効果範囲からバテンカイトスを逃がさない。赤熱する魔石の光が増し、直後の石畳が剥げるほどの威力で爆発が上がった。

赤と白の光が上り、爆風にフェルトがこっちへ転がってくる。それをオットーはどうにか受け止め、爆発の範囲を見た。

 

オットーが常に持ち歩いている、『念のため』の魔石だ。『聖域』でのガーフィールとの戦い以降、身の安全を守るためにある程度の常備は欠かしていない。

財布には痛い手段だが、それでも効果は馬鹿にできたものではない。

 

「お連れの方は大丈夫なんですか!?」

 

「へっ、うちの大男を舐めてくれんなよ。アタシの鎧役なんだ。ちょっとやそっとの攻撃じゃ突き通せねーよ。ただ……」

 

そこまで口にしたところで、かすかな土煙を破って巨体が飛び出してくる。ガストンだ。彼は体を煤だらけにしながら、必死に顔を叩いて、

 

「ぐあああ!熱っ!熱い!熱い熱い!死ぬ!」

 

「爆風とか殴られるのは大丈夫でも、熱いとか寒いとかは防げねーから」

 

高熱に悶える従者の姿に、フェルトがそう嘆息する。火の魔石の威力を間近で浴びたのだが、ひとまずガストンの命に別状はないらしい。

それだけ確かめて、オットーは煙の中に目を凝らす。立ち上る黒煙はそこそこの規模で、中心にいたバテンカイトスに防ぐ手段はないはずだ。黒煙の向こうにはダイナスの姿もあり、片膝をついた彼も無事ではあるらしい。

そして、

 

「ベネット。カルシフス。アウグスト」

 

「――!?」

 

囁くような声がして、爆心地とは離れた場所へ視線が向いた。

そこには倒れる白装束が三人と、健在な状態でいるバテンカイトスの姿が。少年は左手の掌を、またしても「ぺろり」と口にしながら舐めた。

 

直後にやってくる無理解。またしても現れる、見知らぬ三名の白装束。

爆心地から逃れた方法も、唐突な三人の犠牲者も、何もかもが理解の外側だ。

 

「クソ!なんだアイツら!どっから……いや、いつの間に……?」

 

オットーの横で、フェルトが乱暴に美しい金髪を掻き毟る。彼女もまた、自分の見ているものの意味がわからなくなっている。

何について大急ぎで考察しなくてはならないのか、それすらも今のフェルトにはわからない有様だ。だが、オットーは理解した。この、不可思議な事態を。

 

「これが、『名前』を食べられるってことの意味――!」

 

誰の記憶からも姿が消えて、スバルの中にしか残っていない『レム』という少女。それと同じ現象が、今まさに目の前で起きているのだ。

おそらく、倒れている『白竜の鱗』と思しき男たちは、バテンカイトスに名前を食われたのだ。その結果、オットーたちの頭から『いた』という記憶が消えた。

だから突然現れたように見えるし、誰なのかもわからない。

 

「――――」

 

怖気が立った。改めて、目の前にいる規格外の化け物の悪辣さを理解する。

『暴食』ライ・バテンカイトスの手にかかれば、あるいはここでオットーたちが全滅したとしても、戦いの形跡どころか存在すらも跡形もなく消える。

抗った記憶はもちろん、ここにいたという事実そのものも。

 

自分がいなくなり、それを思い返す人すらも消える可能性――それはあるいはこの世のあらゆる恐怖に勝る恐怖ではないのか。

 

蒼白になるオットー。同じ結論には至っていないまでも、フェルトやダイナスの顔色も相応に悪い。想像以上の分の悪さに、今さらながら無謀を悟った。

本当に選ぶべきは、形振り構わぬ逃亡だったのではないかと思わせるほど――。

 

「チクショウ、ムカつく奴だ。もう一回、おんなじやり方でいけっか……?」

 

「――――」

 

弱気が差し込むオットーの隣で、フェルトが包みを握りしめてそうこぼす。思わずオットーは、その横顔に唖然とした目を向けてしまった。

フェルトの顔色は、異常事態を前に困惑している。しかし、整った横顔は悲嘆していない。折れないと、そう強く心に固めているように。

 

水を浴びせられた気分で、オットーは自分の頬を叩いた。

いったい、何を弱気になっているのか。破産して、首を括るまで負けとは言えない。今はまだ、首に縄をかけられるかどうかといったところだ。まだ目はある。

 

その二人の姿に、ダイナスとガストンまでも覚悟を決めた顔で立ち上がった。そして四人の戦意が折れないと見ると、バテンカイトスは満足げに頷いて、

 

「いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいかも、いいじゃない、いいじゃないか、いいだろうからこそ!暴飲ッ!暴食ッ!君らは食卓に相応しい!前菜の中でも上等な部類に格上げするよォ、ガストン。それにフェルトとダイナスは、ちゃァんと味わってやるさァ」

 

手を叩きながら、バテンカイトスが嬉しくない評価を三人に下した。それから『暴食』はゆっくりと、その目でオットーの方を眺める。首を傾げる冒涜者は、そのままの流れでオットーの品評を始めるかと思いきや、不満げな顔だ。

 

「賢そうで、諦めが悪くて、芳醇そうなお兄さん……なのになァ」

 

「何を……いや」

 

そこまで言って、オットーはバテンカイトスの不満の理由に勘付いた。

フェルトたちの名前を、愛でるように優しく呼んだバテンカイトス。彼の『名前』を食らうという特性と、その発言の内容がそれを知らしめる。

 

バテンカイトスは、『名前』を知らない相手の『名前』は食らえないのだ。

故に『暴食』は、ここまで一度も名前を呼ばれていないオットーの『名前』を食らうことができない。そのための、不満だ。

 

「お三方にお願いです。絶対に今後、僕の名前を呼ばないでください」

 

名前が呼ばれなければ、少なくともバテンカイトスの目的は達せない。

あるいはここまでのバテンカイトスの、手抜きとも思えるぬるい攻撃の数々すら、実はこちらの名前を知るための手段だったのではないだろうか。

オットーたちに会議する時間を許したのも、互いに名前で呼び合うことを待ち、食事の準備を整えるための――。

 

「悪ぃ、兄ちゃん」

 

そのオットーの推論から飛び出す発言に、フェルトが申し訳なさそうに呟く。

彼女はその横顔に、これまでにない気まずそうな色を宿して、

 

「アタシ、そもそも兄ちゃんの名前とか知らねーし……」

 

「すまんな、筆頭内政官殿。俺も役職はともかく、名前は失念して……」

 

「はいはいそうですよねえ!別に僕、そんな皆さんと親しくないですし、重要人物でもないですもんねえ!やったぁ、チクショウ」

 

もちろん、ガストンも知らない顔で肩をすくめている。

嬉しいような悲しいようなで複雑だが、少なくともこれでバテンカイトスに名前が割れる心配は大きく減った。そのことは間違いない。

 

「ダイナスはともかく、そっちの二人はお兄さんを庇ってるんじゃァないかな。そうでないならまァ……聞き出すのが厄介になるんだよなァ」

 

「今日のところは諦めて引き下がる、というのも一つの手ではないですか?後日、日を改めて……そうですね。ラインハルトさんでも同席しているときにきていただければ歓待する準備も」

 

「御馳走を前に回れ右なんて、そんなご無体なことしてくれないでよォ。小腹が満たされたぐらいじゃァ、僕たちは俺たちは帰れない。ルイに怒られちゃうからさァ」

 

当然、バテンカイトスの説得も無理。では、戦闘は避けられない。

 

「ガストン、次は絶対に離すな」

 

「自分は痛くないからって、好き勝手……」

 

「次はちゃんと、アタシも付き合ってやるよ」

 

命令に不服を言おうとしたガストンが、そのフェルトの言葉に目を丸くする。それからガストンは荒っぽく笑うと、フェルトの頭を乱暴に撫でて、髪を乱した。

 

「冗談言わんでくれや。ご主人様に無茶させたなんて知れたら、あのジジイにどんな目に遭わされるかわかったもんじゃねえ」

 

「アタシの頭に触んな。それやっていいのロム爺だけだ」

 

「だからやってやったんだよ」

 

髪を乱された状態で、鼻を鳴らしたフェルトの隣にガストンが立つ。その横でダイナスが二刀を構えて、オットーも袖の中に仕込んだ魔石の数を数えた。

左の袖に三つと、右に二つ。合計五つ、大事に使わなくては。

 

「左手で触って、食う感じです。触られたら終わりと思ってください」

 

「それ、聞いただけで馬鹿な難易度じゃねーの?」

 

「剣で急所を斬られても一太刀で終わりだ。当たったら負けなことに大差ないな」

 

「言われてみりゃそーか」

 

フェルトが納得したように呟いて、それでこちらの準備は完了だ。

ご丁寧に、その準備が終わるのを見届けるバテンカイトス。その行儀のいい態度にオットーが目を細めると、その意を察した冒涜者が笑う。

 

「配膳が済むのを待つのは礼儀じゃァないの?悪食のロイならともかく、僕たちは美食家だからさァ。食事には色々こだわってるのさァ」

 

それだけ言うと、バテンカイトスはかしこまった仕草で一礼する。

気取ったようにも見えるそれは、やけに慣れ親しんだ仕草にも見えた。

 

「じゃァ、改めて。魔女教大罪司教、『暴食』担当のライ・バテンカイトス」

 

「…………」

 

「名乗られたら名乗り返すのって、礼儀じゃァない?」

 

「ここまでの会話で、てめーに名乗り返す馬鹿なんかいねーってんだよ」

 

戦士同士の慣例に従えば、名乗られれば名乗り返すのが通例だ。

あるいはバテンカイトスはその方式を利用して、これまで幾人もの人間の名前を聞き出し、皿に並べて食らい尽くしてきたのかもしれない。

その慣例に従う理由はこちらにはない。そう突っぱねると、『暴食』は笑い、

 

「そりゃそうだ。――じゃァ、イタダキマス!」

 

食事の合図と同時に、小柄な体躯が一足跳びに距離を縮めてきた。その動きはこれまでに見せていたものと異なり、吹き抜ける風のようだ。

ここまで、足捌きや身躱しだけで攻防を乗り越えていたバテンカイトスが、本気で相手を狩るための実力を発揮する。

 

非戦闘員のオットーにはその動きが捉えきれず、とっさに反応できない。

ただ、他の三人は違う。

 

「かけっこで、アタシに勝てると思うんじゃねーよ」

 

風のように駆けるバテンカイトスの速度に、フェルトだけは楽々追いつく。軽やかに石畳を蹴った直後、彼女の体は風に運ばれるように一気に移動した。

さすがにその動きには驚いたようで、バテンカイトスの初撃が空振りする。

 

「――っ!」

 

そこに、ガストンとダイナスが同時に攻撃を仕掛けた。

ダイナスの二刀と、ガストンの手にも拾った小刀が握られている。その斬撃に対して、無防備をさらすバテンカイトスは足を開いて姿勢を落とした。

両手を地面につき、バテンカイトスの体が足を伸ばしたまま回る。水面蹴りが二人の男の足を払い、ダイナスたちがバランスを崩した。

そこへ――、

 

「うあああ――!」

 

「はァ?」

 

声を上げながら、四番手のオットーが掴みかかった。

ここへきて、オットーが接近戦を仕掛けることは予想外だったのか、バテンカイトスは呆気に取られた声を上げ、オットーはその体に組み付くことに成功する。

このまま拘束して――という思考の直後、突き上げる痛みがオットーの腹を襲った。バテンカイトスの左の拳が突き刺さり、オットーの体がゴロゴロと転がる。

 

「ぐえっ、ごほっ!」

 

「適材適所、濃い味と薄味のメニューがあるみたいに、出るべき場所は弁えないといけないよォ、お兄さん。ちゃァんと、あとで相手を……」

 

口走ったバテンカイトスの前で、体勢を崩した二人が動く。

ダイナスが転がるオットーを抱え込み、さらに二人を庇う位置にガストンだ。その隊形にバテンカイトスは首を傾げ、自分のまとうボロ切れを見下ろして気付く。

 

――オットーが組み付いた位置に、光る魔石が二つぶら下がっている。

 

「ありゃりゃァ」

 

外そうとする動きは遅い。

バテンカイトスが魔石に気付いた次の瞬間、二つの魔石が一気に破裂する。

 

火の魔鉱石と、水の魔鉱石の共演だ。

赤く黄色い光と、青く白い光が同時に膨れ上がり、バテンカイトスの体がその光に包み込まれて衝撃が突き抜ける。

 

「――っ!!」

 

間近で光の直撃を受けて、オットーたちにもその被害はあった。

大半は壁を引き受けるガストンが浴びるが、それでも衝撃と熱量はオットーへと襲い掛かってくる。肌が炙られ、あるいは冷気に焼かれる。

その衝撃の波が引いたあと、見れば二つ目の爆心地はひどい有様だ。石畳が抉れて土が剥き出しになり、焼け焦げたボロ切れが千切れて落ちている。

 

「あァ、まったくひどいなァ。一張羅が台無しだ」

 

そして、爆心地から離れた地点に、またしてもバテンカイトスは移動している。

だが、今回はさすがに無傷とはいかなかったらしい。少年は長い髪に爆風の余波を浴びながら、どこか不機嫌そうな声でそう漏らした。

どうやら爆心地に落ちたボロ切れは、少年がまとっていたそれで間違いないらしい。これまで全身を包んでいたボロを失い、その下の肌が露わになっている。

 

「――う」

 

バテンカイトスのその姿を見て、思わず呻いたのはオットーだ。

ガストンやダイナスも声をなくし、同じものを見て眉をひそめている。

 

――剥き出しになった少年の肌、その見える範囲の全てには大量の傷跡があった。

 

鞭の痕が、焼きごての痕が、刃物で刻まれた痕が、荒く削られた痕が、抉られた痕が、獣の牙の痕が、青黒くなるまで殴られた痕が、無数の傷痕があった。

 

ボロ切れの下、腰巻きだけを巻いた少年は傷だらけの体で振り返り、眉をひそめるオットーたちに気付くと、不満げな顔をした。

 

「無理やり子どもの服を引っぺがして、それでその反応って傷付くなァ。大人ってこういうの好きなんじゃァないの?」

 

「……君の身近な大人がどうかは知りませんが、普通はそれを嫌がりますよ」

 

「ふーん。じゃァ、また同情とかしちゃうわけだ。コロコロと態度が変わって、そういうとこがお前たちは信用ならないんだよォ!」

 

傷だらけの体を見せつけるように腕を広げ、バテンカイトスがそう怒鳴る。

その言葉にオットーは顔をしかめ、ダイナスも気分悪そうな顔だ。ただ、フェルトとガストンの二人の表情は揺らがない。

彼女らはしかめ面のオットーたちを見やると、ため息をついた。

 

「おいおい、おかしなこと考えんなって。あんなのはどこにでもいるさ。アンタでもアタシでもなかっただけで、どこにでもな」

 

包みを手の中で回しながら、フェルトが酷薄にそう言ってのける。彼女の瞳には同情など一欠片もない。無論、オットーも憐憫になど値しない相手だとわかってはいるが、大罪司教とて生まれつき狂っているわけではない。

少なくとも、バテンカイトスの体を見ればそう思えてしまうのも――。

 

「――つまらない想像はするだけ無駄なのよ。いらん後悔が募るだけかしら」

 

「――――」

 

ふいに、大広場にこれまでいなかったはずの人物の声が響いた。

とっさに顔を上げたのは、バテンカイトスも含めた全員だ。

五人の視線が向いたのは、大広場を囲った水路の一本――そこから軽やかに宙を舞い、一人の少女が降り立つ。

 

ふわりと広がるフリル付きのドレスに、くるりと巻かれたクリーム色の髪。つんと澄ました顔は見慣れたもので、丸く大きな瞳で彼女は状況を眺める。

そしてオットーに目を留めると、仕方なさそうに嘆息した。

 

「性根と詰めが甘いのはスバルだけで十分なのよ。ベティーが手助けしてあげるのもスバルだけ……今回は、あくまで特別措置かしら」

 

「ええ、すみません、お手数おかけします。けど、ありがとうございます」

 

少女の厳しく聞こえる発言に、しかしオットーは脱力してへたり込みたいぐらいの安堵感を味わう。

その少女の存在こそ、オットーが張った『勝ち筋』の中の一つ。

 

「さて、こんな騒ぎとっとと片付けて、スバルに抱っこしてもらいにいくのよ」

 

けだるげな顔で言いながら、持ち上げた手を振って見せる少女。

否、精霊。それも、精霊の中の大精霊。

 

ナツキ・スバルの契約精霊、ベアトリス――援軍としてついに参戦。