『配られたカード』


 

広間には沈黙が、そして張り詰めた緊張感が満たされていた。

 

その緊張感を肌で味わいながら、スバルは渇いた唇を舌で湿らせ、まずは状況の第一段階を整えられた行動の結実に拳を握る。

前提条件として、今この場に参ずる面子が揃うことが今のスバルには肝要だった。

 

力もない。知恵も足りない。能力も人脈も欠けている自分にできることがあるとすれば、それはこれまでの死を無駄にしないことだけなのだから。

 

「ようやく、夕餉を遅らせて集められた趣旨が理解できそうだな」

 

座椅子に腰掛け、膝の上で手を組んだ男装の麗人――クルシュ・カルステンがその沈黙を破り、凛々しい面持ちに理解の色を浮かべてそう呟いた。

その彼女の隣に立つ一の騎士は主の言葉にわずかに目を細め、その愛らしい頬を軽く膨らませると、

 

「そうですかぁ?フェリちゃんは正直まだ眉唾にゃんですけどネ。あれだけへたれてた男の子が、急にどうしたらあんな目をするようににゃるのかなって」

 

口調と顔つきこそ冗談まじりを装っているが、言いながらスバルを見る彼――フェリスの視線には油断がない。実力足りずとも、主を危機から遠ざけようという彼の気概だけは十分にそこから伝わってくる。

 

「――――」

 

依然、主従の会話に混ざらずに沈黙を守るのはフェリスの反対、クルシュの左隣で背筋を伸ばすヴィルヘルムである。

腰に帯剣し、瞑目する姿からは研ぎ澄まされた剣気だけが漂ってきており、戻ったスバルとレムを出迎えてくれた際の好々爺めいた雰囲気は微塵も残っていない。今は公人として、主であるクルシュが持つ一振りの剣の役割に没頭しているのだ。

 

場所は王都貴族街の中でも上層、そこに構えるカルステン家の王都滞在時に利用される別邸。主の意向に沿って極力、華美な装飾が控えられた邸内にあって、来客を出迎えるために相応の飾り立てが為された応接用の広間だ。

その場に前述の三人、屋敷の関係者が並び合っているのは当然の流れ。そして、彼女らを除いた広間の中にいる顔ぶれといえば、

 

「出戻りとはいささか居心地が悪いものです。スバル殿にはこの居心地の悪さを払拭するような、そんなお話を期待させていただきますよ」

 

それとなく全員の顔に目を走らせていることに気付いたのだろう。スバルの横目を受けてそう笑うのは、くすんだ金髪にお洒落顎ヒゲが特徴的な優男。――王都の商業の算盤を弾く辣腕家、ラッセル・フェローだ。

そんなラッセルの牽制ともいえる話の振り方にスバルは肩をすくめ、

 

「今、レムがもうひとりを呼びにいってるんで、もうちょっと待っててくれ。きてくれるか確実じゃないが……勝算は、ある」

 

「お早い到着をお待ちしておりますよ。ちなみに、勝算の根拠をお伺いしても?」

 

おおよそ、スバルの待ち人の素姓に目星が付いているのだろう。

ラッセルの問いかけにスバルは「簡単な話さ」と首を横に振ってから、

 

「金の臭いには敏感だ、って自分で発言してたからな。それが本当なら必ず顔を出してくる。ラッセルさんもその口だろ?」

 

「これはこれは……痛いところを突かれました」

 

額に手を当てて、丸め込まれたとでも言いたげに振舞うラッセル。もちろん、お互いの手札がある程度透けているのを見越してのやり取りだ。

額面通りの安心感など虚実に過ぎないだろうし、そもそもスバルの方にはそんな腹芸ができるほどの技術も余裕もありはしない。

スバルを支えるのは今はただ、借り物の勇気それだけなのだから。

 

「皆様、大変お待たせしました」

 

それからほんの数分後、広間の扉を開いて姿を見せたのは青い髪の給仕服の少女――レムだ。彼女は室内にいる全員に見えるよう頭を下げ、それからスバルの方へ視線を送ると、

 

「おーけーです」

 

右手の指で小さく丸を作ってそう言って、レムはスバルの隣へ歩み寄るとわずかに背伸びしてこちらの耳へ、

 

「少し到着は遅れるそうですが、必ずきていただけると」

 

「そうか。よし、よくやってくれたぜ、レム」

 

その報告に指を鳴らし、スバルは次善の状況を最善に変える手立てを得たと頷く。それから待ちわびる面々を見渡し、

 

「最後の参加者は少し到着が遅れるって話だけど、とりあえず役者は揃ってる。これ以上待たせるのもなんだ。――始めようか」

 

スバルのその宣言に、各々が状況が変わるのを察してそれぞれの反応を見せる。

 

クルシュがかすかに笑い、フェリスは固く唇を引き結ぶ。ヴィルヘルムはひたすらに沈黙に徹して表情を変えず、ラッセルはゆったりと椅子に腰を沈めた。

その彼らの視線を一身に浴びながら、スバルはひとつ高く足を踏み鳴らし、己の気を高く引き締める。

 

心臓が高く、強く鳴るのを感じる。

血が全身にめぐり、同時に大きな不安が首をもたげては目の前が暗くなりそうだ。

だが、

 

「スバルくん」

 

そっと、隣に立つレムが不安でいるスバルを安心させるように袖に触れる。

直接肌に触れず、衣服を介しての接触――なのにスバルはまるで、万の助勢を受けたかのような安心感をそれに抱いた。

 

レムが見ている。格好の悪い真似など、それこそできるはずがない。

不敵に笑い、恐怖をその笑みの裏に隠して、スバルは最初の壁に挑む。

 

針の穴を通すような条件を掻い潜り、ハッピーエンドを紡ぐために。

自分を好きだと言ってくれた女の子が信じる、英雄に一歩でも近づくために。

 

「ひとつ、確認したいところがある、ナツキ・スバル」

 

気合いを入れて前を向くスバルに、指をひとつ立てたクルシュの声がかかった。彼女はその立てた指を左右に振り、スバルの視線を受け止めると、

 

「この集りの趣旨を。――卿の口から、な」

 

肘掛けに腕を立て、その手の上に頬を預けてスバルを見やる怜悧な眼差し。

すでに理解しているだろうに、スバルの口からそれを語らせる彼女の姿勢には一貫して甘さがない。

話の始め方ひとつにとっても、すでに勝負は始まっているのだ。

そのことが今、失敗を続けてきた今だからこそ、わかる。

 

「そら、もちろん――」

 

だからスバルは大きく腕を振り、クルシュの突き刺すような視線に呑まれないように己を維持しつつ、かつての失敗を繰り返さないように強気に笑うと、

 

「エミリア陣営とクルシュ陣営の、対等な条件での同盟――そのための、交渉の場面だ」

 

立ちはだかるいくつもの壁――それらの障害を乗り越えるための最初の挑戦が、始まろうとしていた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――王都正門前でのレムとのやり取りで、スバルは己を改めて始め直すことを心に決めた。

 

それが心の内の全てをさらけ出し、それでもなおスバルを信じるといってくれた少女への、誠実なあり方であると考えることができたからだ。

 

「それを踏まえて、乗り越えなきゃならねぇ壁が多すぎるな……」

 

改めて立ちはだかる壁の数々を思えば、折れそうになった先ほどまでの自分の心の弱音も理解できる。状況は変わらず、詰みの一歩手前にあるようにしか思えない。

それでも、

 

「なんとかしなきゃ、だよな。手、貸してもらうぜ?レム」

 

「はい、スバルくんの言うことならなんなりと」

 

頭を掻き、思考をまとめる前に声をかけると、レムはあっさりそう頷く。

こちらを熱っぽい瞳で見つめるレムからは変わらない信頼が注がれており、スバルの胸の内に勇気と義務感の二つを湧かせる。

その瞳の眦が、わずかに赤いことをあえて指摘することはしなかった。

 

場所を正門前から下層区の一角に移し、雑踏の壁に背を預けて二人はいる。

振り返って正門前のやり取りを思い出すと、あの場でそれ以上の会話を続けるのは躊躇われた。なにせ、半泣き上等で己のコンプレックスからなにまで全部さらけ出してやったのだ。それに応じるレムの心まで暴いてしまったとなれば、聞き耳を立てていた野次馬たちの視線にあれ以上さらされ続けるのは心の耐久力を振り切る。

 

レムを胸に抱いたまま生温かい視線を通り越し、ようやく野次馬の目が届かない場所まで辿り着いて一息だ。ともあれ、

 

「時間のロスには間違いないからな。小一時間とはいえ……今は惜しい」

 

以前にも検証した通り、屋敷での圧倒的な惨劇が起こるまでのリミットは五日間。――正味、四日半程度の時間なのが現実だ。

その間の二日近くを移動に費やすとなると、実質的に使える時間は二日間。

 

「で、越えなきゃならない壁ってのが、ひのふのみの、いっぱいだわな」

 

突破しなければならない関門は多く、その質も以前までのものと段違い。

それぞれだけで独立して絶望的なものを、複合して襲いかかるのだからもはや筆舌に尽くし難い難題と化していた。

 

ひとつ目は当然の魔女教。

ペテルギウス率いる狂信者たちをどうにかして止めなければ、屋敷はもちろん村の住人は誰ひとりとして助からない。

 

二つ目は手を変え品を変え、しかし必ず訪れるレムの死だ。

スバルと同行しても、仮に彼女だけが先行したとしても、至る運命の結末は死に収束している。目の届かないところで死なれた一度目。そして、目の前で失った二度目と三度目の絶望感――それらが与えた衝撃が、スバルに諦めの道を走らせたといっても過言ではない。

 

そして三つ目は、エミリアの死が引き金となるだろう、前提条件からしてクリアしないことの考えられない壁――大精霊パックによる、無差別の復讐行為だ。

思い返せば今回のループでのスバルの死因は、どうやら全てパックの手による凍結で締めくくられているらしい。

取りも直さずそれは、いずれの世界でもエミリアの死に瀕するような状況にスバルが一度も間に合わなかった、という状況証拠を生み出していた。

 

いずれの壁も、ひとつとして取り落とせない条件だ。

どれかひとつでも取りこぼすことがあれば、その後の世界はナツキ・スバルの望む未来ではなく、レムの信じる英雄像を裏切ることにもなる。

 

「――いくつか」

 

ぽつり、と問題点を洗い出していたスバルが呟く。

正面、黙考するスバルを見守るレムは、今の呟きに声を応じることはない。そのスバルの呟きが、返事を欲してのことでないのが彼女にはわかっているからだ。

 

最愛の英雄に、最善の判断を期待し、最大の貢献をすること。

それが今の彼女の心の保ち方であり、それが今の彼女にできる最大限の愛情の示し方であるのだから。

 

レムに見守られたまま、スバルは限られた時間の中、限られた時間の枠を飛び越えた記憶を再生して、ひと欠片のとっかかりを求めて思考を走らせる。

この一見、どうしようもないように思える詰まれた状況を、ほんのわずかでも動かす可能性がどこかに眠っていると信じて。

 

――頭をひねれ、心を燃やせ。

体が、能力が、今は理想に追いつかないのだから。ならばせめて、この程度を為せなければ英雄の一歩すらも笑い話だ。

 

――思い出せ、思考しろ。

三度の自分の死を無駄にするな。三度死なせた少女の意思を無駄にするな。三度終わった世界の全てが、スバルの肩に重く圧し掛かる――。

 

出会った人々、交わした会話。決別、遭遇、怒り、狂気、悲しみ、魔女。

そして――、

 

「可能性はある……か?」

 

ふいに脳裏を過ったのは、一握の可能性に過ぎない。

ひとつひとつの糸はか細く弱く、無理やりに繋げたそれはいつ千切れてしまうかも定かではない。全てを預けるには頼りなさすぎる。

 

だからこそ、『オールイン』する価値がある。

 

「レム。話さなきゃいけないことと、聞きたいことが何個かある」

 

「はい」

 

思いついたばかりの草案をまとめるために、スバルはレムの協力を欲する。

さて、と彼女に情報を開示し始めるより前に、まず魔女の呪いに抵触しないだろう情報だけを選別し――、

 

「エミリアが王選に参戦するって話が周知されたのが原因で、魔女教が動き出す条件が整っちまった。奴らはわけのわからない理由でエミリアを……屋敷や村を狙って暴れようとしてるはずだ。俺はそれを止めたい」

 

「魔女教……」

 

一瞬、その単語を耳にしたレムの瞳に剣呑な感情が浮かび上がる。

が、彼女は自制心でその感情を抑制すると、スバルの言葉にかすかに顎を引き、

 

「魔女教が動く可能性、それについてはロズワール様も検討されていました。レムも詳細は知らされていませんが、対策は考えられているはずだと」

 

「でも、それだけじゃ足りない」

 

事実として、ロズワールが魔女教に対してなんの備えをしていたのかは不明だ。

それが不発に終わったのか、あるいは発動しても届くに至らなかったのかは定かではない。が、結果的にその事前策が実を結ばず、白い地獄は展開される。

その未来を知っている以上、スバルがするべきはロズワールに頼らない形での自衛力の確保であり、ひいては屋敷と村の人々の命を守り切る手段だ。

 

「魔女教は短期決戦を仕掛けてくるはずだ。レム、屋敷の戦力は?」

 

「……言い難いことなんですけれど、今、ロズワール様はお屋敷におられない状況の可能性が高いんです。王都から戻られたあと、すぐに領内の有力者のところに足を運んでいる予定になっていたので」

 

言いづらそうに言葉を濁しつつレムが言うのは、前回スバルを愕然とさせたロズワール不在の報だ。それを聞き、やはり屋敷にはエミリアとラム。そしてベアトリスしかいないであろう事実を確認する。

たったの三人、それもベアトリスの非協力的な態度を考えると、彼女が魔女教との戦いに参戦してくれるかは非常に怪しい。

 

前回、ほんの短い間ではあったが、ベアトリスと交わした会話が思い出される。

殺してくれと頼んだスバルに、まるで期待を裏切られた幼子のような目を向けていた彼女のことを――。

 

「悪ぃが、今はそれは後回しだ」

 

泣きそうな眼差しを置き去りにするのに心を痛めながら、スバルは言葉を待つレムに「じゃあ」と前置きして、

 

「戦えるのは二人。俺とレムが戻っても、焼け石に水だな」

 

「本邸の戦力の大半は、ロズワール様個人の能力に依存している点が否めません。フレデリカが残ってくれていたら、まだ話は違ったかもしれませんけれど」

 

悔しげなレムに頷き返し、スバルは前準備の時点でのレムとの情報の乖離が発生しないよう細かな部分を詰める。

魔女教と、屋敷の保有戦力に関してはこれ以上はないだろう。

ならば、次なる話題が本題だ。

 

居住まいを正し、スバルは真っ直ぐにレムの瞳を見つめる。

そして、空気が変わったことを察したレムが顔を持ち上げるのを見やり、

 

「――レム、お前が王都でやるようにロズワールから命令されてること。それを俺に全部、教えてくれ」

 

「――――」

 

怪訝な表情を、あるいは虚を突かれて驚きを宿すとスバルは思っていた。

しかし、その言葉を聞いたレムの反応はスバルの予想をことごとく裏切った。

 

「――はい。仰せの通りに」

 

彼女はスバルの言葉に頷き、なにより心から嬉しそうな微笑を浮かべ、涙をひとつ、眦からこぼしたのだった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「同盟……か」

 

全員の視線を一身に受け、会談の目的を告げたスバルにクルシュがそう呟く。

彼女は考え込むようにわずかに顎を引き、それからちらとレムの方へ視線を送る。その探るような眼差しの意味を静かに察し、レムはゆるゆると首を横に振ると、

 

「ロズワール様の言いつけ通り、レムはなにも申し上げていません。――全てはスバルくんが、自分で辿り着いたことです」

 

「卿の忠義を疑うわけではない。だが、そうか……」

 

納得、というより合点がいったというべき形で理解を示すクルシュ。彼女はその理解を浮かべた瞳を今度はスバルに向け、

 

「ならば、此度の交渉役はレムから卿――ナツキ・スバルに権限を委譲されたということだな?」

 

「ああ、そうなる。ロズワール……うちの主人も、底意地の悪い真似してくれたもんだと思うけどな」

 

大仰に吐息を漏らすアクションを入れて、スバルは脳裏に浮かぶ藍色の髪の人物の嫌らしい笑みに舌を鳴らしてやる。

スバルには話さず、内々にレムにだけ下されていた王都での行動方針。そして、それはスバルが自ら気付かない限り、決してレムの口からはスバルに漏れ伝わらないように厳命されていて、

 

「最初から引っかかるところがなかったわけじゃないんだよ。そもそも、うちの陣営が慢性的な人手不足なのは自明の理なわけだしな」

 

スバルの知る限り、エミリアを擁するロズワール陣営の人手不足は致命的だ。

なにせ本邸の時点でラムとレムの姉妹とロズワール、あとは数に入れていいかも悩まされるベアトリスしか人員がいないのだ。時折、名前を耳にする別の関係者がいるようではあるが、見知っていないそれらをかき集めてもどれほどになるか。

そんな状況下で、限定的な条件であるとはいえ、王都に残るスバルの下にレムを一緒に残したことは常に頭のどこかで違和感となって引っかかっていた。

 

もちろん建前としては、自領の危機を救ったスバルに対し、治療とその他の形の賠償で報いるためにも、王都にひとり残すような無礼はできなかったと考えられるが。

 

「あの変態がそんな慈悲心満載な理由だけで、レムを手放しておくとも思えない。なにかしら裏があるに違いない、と考えを詰めてけば……」

 

「自然、もっとも会見の機会があった当家に白羽の矢が立つ、か」

 

足を組み替えて、クルシュはスバルの言葉を引き継いで結論を述べる。その言葉を肯定するように頷き、スバルは「それに」と前置きして、

 

「夜な夜な、レムとクルシュさんが密会してるらしいのは聞いてたからな。なんの話をしてるのかまで、頭が回ってなかった自分がアホ過ぎて嫌になるけど」

 

どれだけ自分のことしか見えていなかったのだろうか、と自嘲しか浮かばない。レムが本当にそれとなく、スバルが隠された意図に気付くようにヒントをばらまいていたことが、世界を四度まで見直してようやく気付ける鈍感さなのだから。

 

「毎夜の会談の内容は同盟締結について。こっちから差し出してる条件に関しては……一通り、レムから聞いてる」

 

「エリオール大森林の魔鉱石、その採掘権の分譲が主な取引き材料だな」

 

隠すことでもないとばかりに、うっすら匂わすだけで済まそうとしていたスバルの言葉にクルシュが被せる。

途端、それを耳にして目を輝かせたのは他でもない。

 

「それはそれは、聞き逃せないお話ですね」

 

クルシュ同様に座椅子――客人用の皮張りの椅子に腰を沈めていたラッセルが、その瞳を輝かせながらわずかに前のめりになり、

 

「魔鉱石の採掘権はまさに、鉱石の需要が高まりつつある現状ではこれまで以上の価値がある。ましてやそれが、いまだ手つかずの地のものであるならば当然です」

 

予想以上の商人の食いつきに、スバルは内心で驚きを隠せない。

レムから最初にこの話を聞いた時点では、スバルは「ダメなら条件を見直すべきかもしれない」と危機感を抱いたほどだったのだが。

 

「鉱石の需要が高まりつつある、ってのは?」

 

「季節がこれから赤日を終えて黄日、そして青日に入ります。今年は特に水のマナの影響が強く見込まれていますから、暖房設備への利用目的で需要が多いはず」

 

指を立てて、スバルの質問に朗々と応じるラッセル。

彼の口にした青日や赤日というのは、この世界での春夏秋冬を差す言葉だ。聞いた通りに赤日が『夏』で青日が『冬』。黄日が『秋』で緑日は『春』といったところだろうか。いずれにせよ、冬を前に暖房器具が売れ出すという理解でいいらしい。

 

「魔鉱石自体はマナを含有した純粋な魔力の結晶体。その後の加工次第で属性の指向性を付加し、用途に応じて使い分けることが可能となる。強度に優れ、使い方を誤らなければ耐用年数にも信頼が置ける。これほど扱いやすい商品もないでしょう」

 

「その代わりに絶対量が少ない。一度、指向性を付加したあとでのやり直しも利かない。採掘場の多くは土地自体を王国に管理されていて、鉱石はかなりの部分が公共事業の方へと流されている。市井に振舞われるのは極々微量、もっとわかりやすい言葉を使えば、国と富裕層にしか出回っていない」

 

魔鉱石の価値の良い点を列挙したラッセルに対し、クルシュがその価値の使われ方の悪い点を列挙して潰しにかかる。

が、ラッセルはそれにもめげずに「だからこそ」と首を振り、

 

「手つかずの採掘場の発見には飛びつかずにはおれませんよ。それが魔鉱石の出土と取引きで財を為したメイザース卿の使い――付け加えれば王選の候補者であるエミリア様の騎士の言葉です。信憑性、並びに信用は非常に高い」

 

熱のこもった口調で言いながら、ラッセルはスバルを横目にそう語る。

その態度には採掘権に飛びつく浅ましさを装った上で、スバルに対しての牽制が強い意味で含まれているのは明白だった。

つまり彼は、自分がいる場でその材料を持ち出したからには、もはやあとに引くことはできないとこちらの退路を断っているのだ。

もっとも、

 

「ああ、そこは信用してもらって構わない。これから長いことかかる王選の中で、最初に手ぇ組もうって相手にブラフかますほど外れちゃいないはずだ」

 

条件としてロズワールが提示した以上、そこにスバルの意思が介在する部分はない。それは不安が介入する余地がないという意味でもあり、有体に言ってしまえば領主としてのロズワールへの信用があった。とても本人には言えないが。

 

ともあれ、そのスバルの返答にラッセルは「なるほど」と納得を宿した瞳で頷きを入れて、

 

「どうやら、交渉役としての気構えについては心配は不要のようですね。試すような物言い、非礼をお詫びいたします」

 

「いや、いいよ。こっちもこれからの話し合いで、ラッセルさんの口出しにはガンガン力貸してもらうつもりだから」

 

元より、ラッセルのスバルへの印象が高いことへの期待は欠片もない。

三度目の世界で初遭遇した時点で、彼はスバルが王選の場で披露したその醜態を知っていた人物だ。当然、会談の場でのスバルの能力に関しても疑問を抱き、その点を確かめにくる機会があるだろうとは踏んでいた。

突っ込みやすい話題を用意し、本題の場面での突っ込みを回避しようと画策してはいたものの、回避し易い場面で食いついてくれたことには安堵を隠せない。

 

もっとも、その安堵があっさりと顔に出てしまうようではお眼鏡に適うまいと、彼の謝罪を受けた上でも大物ぶった返答をせざるを得ないのだが。

 

「とはいえ、こうやって謝ってもらえたからには、一回や二回の失言は見逃してもらいたいとこですけどね?」

 

「それを期待してのラッセル・フェローの参加、というわけか。存外、卿も食えない判断をするものだな」

 

スバルの愛想笑いにそうこぼし、クルシュなりに今のスバルと商人のやり取りを採点したらしい。会談が打ち切られていない以上、赤点ギリギリといったところか。

そんな判断を下しながら、スバルは愛想笑いを継続したまま頭に手をやり、

 

「儲け話ちらつかせた上でアドバイザー確保、ってのももちろん目的ではあるんだが……ラッセルさん呼んだのは、本題の方に関係があるからさ」

 

「ほう、本題か――」

 

その頭を掻きながらのスバルの言葉に、室内の空気が一変する。

それまであくまで会談の場を見定める体でいたクルシュが姿勢を正し、一度だけ静かに目を閉じると、ゆっくりとその鋭い眼光をスバルに浴びせたのだ。

 

風が吹いた、と錯覚するほどの威圧を前に、しかしスバルは怯まず抗う。

暴力的な威圧感にならば、嫌になるほど触れさせられた。それに比べればクルシュの眼光には、こちらを怯え竦ませるような負の感情の一切がない。あるのは背筋を正させ、弛んだ思考を引き締めさせるような威光だけだ。

 

「認めよう、ナツキ・スバル。卿がメイザース卿の名代、並びにエミリアからの正式な使者であると。この交渉の場において、卿と私の間で交わした内容は、そのままエミリアと私の間で交わされたものであると」

 

正面に立って臨むだけで、これほど人間は圧迫されるものなのだ。

クルシュは今、狙ってスバルを威圧しているわけではない。彼女は純粋に、それまでの私人としてのクルシュから、公人としてのクルシュ・カルステンへと意識を切り替えただけのこと。つまり、カルステン公爵家の当主が放つ威圧そのものが、これほどの力を持っていることの証左である。

 

これが、このルグニカ王国で今もっとも、王座に近い女傑の姿――。

 

鳥肌が浮かぶような感嘆の中、佇むスバルの方へと手を差し伸べ、クルシュは始まりを告げた交渉の火蓋を自ら切ってみせる。

 

「すでに聞いているはずだが、改めて問うておこう。私とそちらの従者……レムとの間での交渉は、採掘権の分譲などを含めた上で合意には至っていない。その点は重々、承知しているはずだな?」

 

「……ああ」

 

交渉が難航し、任されている権限だけでは合意に至っていないのはレムの口から聞いている。自分の力のなさを嘆くレムの姿が浮かぶ反面、そんな彼女の苦悩にまるで気付かずにいた自分の見る目のなさにも嘆きが半分。

嘆き二つ合わせて後悔とし、スバルは未来の後悔を先に得るという幸いを存分に利用させてもらう。そのための、前回までとの展開の違いだ。

 

「こっちも確かめておきたいが、実際、これまでの条件じゃ足りないわけだよな?互いの陣営への過干渉なしに、エリオール大森林の採掘権の分譲。付け加えて採掘された魔鉱石自体の取り扱いの協定とかのまとめに関しても」

 

「草案はレムの方から提示されている。さすがはメイザース辺境伯、というべきだろうな。自陣の十分な利益を確保した上で、こちらに十二分の恩恵が流れる。常ならば飛びつき、すぐにでも同意の書状を用意するところだが……」

 

そのあたりの数字のやり取りに関して、スバルから口出しできることはない。

追い詰められたら「じゃあ、採掘権は全部やるよ!」とか飛び出しかねないので、細かい話が出てこないことを祈るばかりだ。

 

「今回の場合は取引き相手の側への懸念が大きい。わかるな?」

 

そんな祈りが通じたわけではないだろうが、言葉を切ったクルシュが口にしたのはその不安とは別の内容であった。

とはいえ、歓迎すべき内容でないことは確かであり、

 

「ロズワールが信用できない……って、話じゃないんだろうな」

 

それは希望的な見方でしかない。仮にロズワールの素行が問題であるならば、今後は清く正しい生活を送るよう強制していく次第だが、クルシュが問題点として挙げているのはそちらではない。

それは避けることができず、エミリアに延々と付きまとう問題であり、

 

「王選の対立候補。ましてやハーフエルフ……半魔の誹りを受けるエミリアとの取引きだ。後々のことを考えても、慎重にならざるを得ない」

 

低い声でそう述べる彼女に、スバルは意外なものを感じて落胆する。

スバルがクルシュに対して抱いていた印象は、言葉にすれば『威風堂々』と『誠実』といったあたりが相応しい。

王選の場面ではまさしくその単語を体現するような姿勢と、発言を貫き通しただけに、今の彼女の風評を気にするような姿には違和感が――。

 

「まさか、断りを入れる建前、か……?」

 

「スバルきゅーん?大事な交渉の場面で、ポロっとそゆことこぼすのフェリちゃん良くにゃいにゃーなんて思ったり?思ったり?」

 

笑顔ながらも額に青筋を浮かべるフェリス。笑顔がおっかない部分に変な男性らしさを感じつつ、スバルが慌てて口を塞いで頭を下げる。

と、そのやり取りを見ていたクルシュがかすかに口の端をゆるめて、

 

「あまりはっきり返されると、建前で応じた私の方が恥ずべき側に思えるな。これは勉強させてもらった。普段から接しているものばかりだと、こうした機会に恵まれることも稀だ」

 

などと、スバルにはわかり辛い論法でもって今の無礼は見逃された。

とはいえ、温情に縋ってばかりいるのは貸しを作るばかりになって、結果的にこちらの不利を招きかねない。

スバルは小さく頷き、

 

「つまり建前は建前で……本音の部分では、クルシュさんはエミリアと同盟を結ぶこと自体への忌避感はないって考えても?」

 

「ナツキ・スバル、ひとつ考えを正そう」

 

指を立てて、クルシュはその立てた指をこちらに突きつけると、

 

「そのものの価値は、魂の在り様と輝かせ方で決まるのだ。出自と環境がそのものの本質を定める決定的な要因にはならない」

 

もちろん、それが間接的な要因になることを認めないほど、彼女も世間がわかっていないわけではないだろう。

エミリアの環境が、ハーフエルフである現実が彼女にどれだけ理不尽な過酷さを強いてきたのか、思いを巡らせる想像力がないわけでも当然ない。

故にクルシュはひとつ頷き、

 

「あの王選の場で、エミリアが語った言葉に虚実はなかった。そこに確かな覚悟と誇りがあったればこそ、私はエミリアを対立候補の一角であると認めている」

 

「ややこしいな、つまり?」

 

「芝居がかっているのは私の好みの問題だ、許せ」

 

自分の大仰な物言いに自覚があったらしく、クルシュは小さく唇を綻ばせると、それから一度の瞬きのあとに表情を引き締め、

 

「エミリアがハーフエルフである、という点を私が同盟締結を断る根拠とすることはない。むしろ政策的に敵対しているわけでもないエミリアの存在は、私にとっては積極的に相対する必要のない相手であるともいえる。同盟も、吝かではない」

 

「それなら……」

 

「答えを焦るなよ、ナツキ・スバル。卿の申し出を受けるかどうかは、このあとの卿の答えに左右されるといっても過言ではないのだからな」

 

好感触の返答に前のめりになるスバルを制し、クルシュは改めてこちらへ問う。

つまりは、交渉権を譲られたスバルがなにを持ち出すのかを、だ。

 

「エリオール大森林の採掘権、大いにこちらに実りがある。だがその反面、私は王選の事態を急ぎ進める必要もないのでは、と感じている。期限は三年だ。あまり状況を動かすのを早めすぎるのも、後々に禍根を残すこととなろう」

 

「エミリアと同盟を結ぶことのメリットが、そのデメリットに届かないと?」

 

「少し違うな。現状、メリットとデメリットは打ち消し合っている。当家の考えとしては、あと一歩、押し出す口実が欲しいといったところだ」

 

クルシュ自身の意思としては、同盟の締結には乗り気でいるように見える。

一方、彼女の意向で全てが思うままに動かせるほど単純でないのが、公爵家という大きくなりすぎた立場のしがらみでもあるのだろう。

 

だから彼女は求めているのだ。

状況を動かし、周囲の声を黙らせるほどの『なにか』が、もたらされることを。

 

「――――」

 

言葉を吐き出そうとして、スバルは己の喉が詰まるような感覚にわずかに驚く。

緊張と不安が胸中で膨らみ、踏み出そうとするスバルの喉を塞いだのだ。

 

一度、息を吸い、改めてこれから口にしようとしている内容を反芻する。

誰に確実性を確かめたわけでもない。見当違いの的外れ、そんな言葉である可能性すら否めない。

だが、彼女は乗ってくる、とスバルは己の考えを信じる。

 

「同盟締結に向けて、うちから差し出すのは採掘権と……情報だ」

 

「――情報」

 

それを耳にして、クルシュは自身の長い髪に触れながら言葉の先を促す。

まだ、判断はされていない。ここからが、正念場。

 

「ああ、そうだ。俺が差し出せるのは、とある情報ってことになる」

 

「聞かせてもらおう。卿の口にするそれが、はたしてこちらを動かせるものか」

 

髪に触れていた手をこちらへ差し出し、クルシュはスバルの言葉を待つ。

自然、足と指にかすかな震えが生じた。だが、それはかすかに肘あたりに感じる温もりが打ち消してくれる。

レムがスバルの腕に指を添えて、借り物の勇気に火をつけてくれたから、

 

息を吸い、一息にスバルはそれを口にする。

 

「――白鯨の出現場所と時間、それが俺が切れるカードだ」