『罪の在り処』
この世界に降りて以来、スバルは幾度も、幾重もの死を経験してきた。
大半の生き物にとって、人生が一度っきりの一発勝負であることを考えれば、すでに十度目の挑戦権を得ているスバルは『死』に関してはちょっとしたベテランだ。
そうして死に強制的に、こちらの意思とは無関係に親しんできた仲であるスバルだけが感じ取れる研ぎ澄まされた感覚がある。
――目前に迫った明確な『死』を、はっきりと嗅ぎ取る神経だ。
『揃いも揃って、好きにやってくれたものだね』
底冷えするような圧力を伴うその声は、空から地上へと降り注いでいる。
見上げた空を覆うように氷柱が鋭い先端を下に向けて浮かび、凍てつく刃を従えているのは小さな小さな影だ。
目を凝らし、意識して初めて、それが灰色の体毛をした猫のような生き物であることがわかる。
ただし二足歩行するように上体を起こし、短い腕をめいいっぱいに伸ばして組み、異様に長い尾を揺すって、ピンク色の鼻をした珍しい存在であるが。
人語を操るその存在を前に、ペテルギウスを始めとした魔女教は言葉を失う。そして同じくその場で倒れ伏すスバルもまた、彼らとは別の衝撃に喉を塞がれた。
その存在が、精霊が、こうして怒りを露わに振舞うのを目にしたのが初めてであったからだ。そしてその怒りの余波だけで、世界が死んでいくのがわかる。
「……パック」
浮遊する精霊――パックの周囲の空気が白く靄がかり、付近一帯の森の姿がひび割れるような音を立てて変質していく。木々は緑を白に染め上げ、葉は枝は幹は表面を凍てつかせ、マナを吸い上げられて枯れ落ちてゆく。
大地にも同じだけの影響が表れ始め、最初に草木が死に、やがて土が、そしてその土に身を置くスバルや魔女教にまでその魔手を伸ばし始めた。
肌がひりつき、火傷のような痛みが全身を刺激する。体の奥から徐々に脱力感がこみ上げ、呼吸すら億劫になり意識が茫洋とし始めた。
マナの徴収――スバルにも身に覚えのあるそれは、精霊による強制的なマナの奪取による虚脱感。かつてスバルに対してのみ行われたそれを、怒れるパックは世界規模で実行しているのだ。
事実、呻きを堪えるスバルの視界、ペテルギウスが脂汗を額に浮かべて後ずさり、跪く魔女教徒たちも酸素を求める魚のように口を喘がせている。
パックはそんな彼らの状態を見下ろし、その愛らしい鼻を「ふん」と鳴らし、
『魔女教か。――四百年経っても、お前たちはなにも変わらないな。いつの時代でもお前たちは、ボクのもっとも悲しむことをする』
言って、その黒目を動かし、パックの視線は森の一点へ。
つられて視線でそちらを追えば、そこにはゆいいつ、パックのマナドレインの影響を受けていない空間が残されているのがわかった。
周囲一帯が凍てつき、枯れ始めている中で、そこだけぽっかりと緑が残された空間がある。――細い木々の根に身を預け、倒れるエミリアの肉体がある場所だ。
『ああ、可哀想なリア。……なにもわからないまま、死んでしまったんだね』
努めて抑揚の消されていた声に、ふと隠し切れない悲嘆の色がまじった。
パックは寂しげに、悲しげにエミリアを見つめたあとで、ゆっくりとその瞳をその場に参ずる生存者たちに向けると、
『ボクの娘の命を失わせた罪は重い。誰ひとり、生きては帰れないものと思え』
「精霊風情がなにを、なにをなにをなにをにをにをにをにをぉ、語る!?試練に破れた半魔なぞ、薄汚いだけの雑じり者デス!その痴れ者を守れずいる、アナタの『怠惰』こそ責められるべきデス!あぁ!あぁ!あああぁ!脳が、震え、るるるぅぅぅぅぅ!!」
恫喝するパックに対し、空を見上げて両手を伸ばすペテルギウスが唾を飛ばす。狂乱に血走る目を左右非対称にめぐらせ、ペテルギウスの殺意が膨れ上がった。
敵対する精霊の力が強大なのをわかった上で、ペテルギウスは抗うことを決める。それは彼が勇敢であるから選べた選択ではない。彼のものにとって、力の強弱などまったくの無意味であるからだ。
なぜなら、
「あまねく事象は、起こり得る事象は全て福音に記されるのデス!魔女様はワタシを愛してくださるのデス!故にこそ、ワタシの愛に報いる勤勉さの前に!怠惰なるアナタ方の抗う術はないのデスから!!」
――愛死愛去れ。
ペテルギウスにとって魔女への信仰は愛に報いる行為に他ならず、魔女への愛を行動で示すことだけが世界における絶対性であると信じてやまない。
魔女への愛を示す行いは全てに優先され、その行いを邪魔する輩は誰であれ、愛の前に破れ去る。――魔女への愛は、なににも勝るのだから。
「半魔は死に!アナタもまた怠惰の報いを受けるのデス!魔女の寵愛に!心を打ち震わす愛に!殉じるが良いデス!」
腕を振り、喚き散らし、ペテルギウスは足を踏み鳴らす。
地に立つペテルギウスの狂態を、見下ろすパックの瞳はどこまでも冷たい。それは哀れむでも怒れるでもない、対象に価値を見出していないが故の透徹した眼差しだ。
そして、その視線を浴びながら、ペテルギウスが頭上に手を伸ばし、大仰な素振りで気を引く背後、跪く黒装束たちに動きが――、
『死ね』
――降り注ぐ氷刃が容赦なく黒装束たちの背中に突き立ち、腹から飛び出してその身を地に串刺しにして打ち止めた。
標本に張りつけにされる昆虫のように胴体、そして手足を穿たれて地に繋ぎ止められ、黒装束たちは一様に苦鳴も上げられずに絶命する。貫かれた肉体は傷口を埋める氷杭から一気に氷結の浸食が進み、おかしな体勢の氷像が森の中に列を為した。
予備動作なしに一瞬で二十に迫る命を奪い、パックは視線ひとつ揺らしていない。が、それを横目に頭に手をやるペテルギウスもそれは同様だ。
彼は自らの指示で動き、文字通りに捨て石となった信徒たちには目もくれず、パックの意識が自分から外れた刹那の時間を利用して、
「――脳が、震、える」
唇が陰惨に歪んだのを見て取った直後、ペテルギウスの影が爆発したように広がるのをスバルは見た。
倒れ、九十度傾いた視界の中、ペテルギウスの影から黒い掌が幾重にも飛び出し、宙に浮かぶパックを目掛けて殺到する。
彼の実力ならば決して避けられないはずのない黒い掌。しかし、腕を組むパックはその脅威の接近をまるで意に介していない。――見えないのだ。
「パック――ッ」
『黙っていなよ、スバル。――君だけは、別だ』
危険を知らせようとうなるスバルに、パックが静かな声で告げる。その声に遮られ、スバルの警告は精霊に届かず、迫る掌がその小さな体を包むように握り込んだ。
『むぐ?』
パックの小さな体は、大人の掌ひとつで覆い隠せる程度のものだ。
そこに黒い掌が七も届けば、彼の肉体はスバルからはもうまったく見えない。なにより、その掌はひとつで人体を易々と引き千切るだけの力がある。
精霊であるとはいえ、その物理的な力を受けてどうなるものか――ましてやその黒い掌の持ち主は、魔女教の狂信者ペテルギウスなのだ。
「油断!怠慢!即ち怠惰!アナタはワタシを即座に仕留めるべきだったのデス!その力がありながら、アナタは為すべきことをしなかったのデス。それがこの結果を生んだのデス!デス!デス!デスデスデスデスデェェェッス!!」
スバルにのみ見える『見えざる手』が、包み込んだパックの体を押し潰す。
密集し、ひとつの黒い塊となったその内部で、精霊の体が悪意の力によってかき消されて――、
『くだらない』
次の瞬間、黒い靄が一瞬にして吹き飛び、スバルは見た。
『この程度で魔女の名前を借りるなんて、四百年早い。本気でボクを殺すつもりだというのなら――』
木々が過重に耐えかねてへし折れ、倒木に紛れて長い尾が振られる。氷像と化していた黒装束たちの遺骸が木っ端微塵に砕け散り、それを為した前足は突き立つ地面を絶対零度の世界へと誘いゆく。
静かな吐息はそれだけで吹雪に匹敵し、白い靄の中に煌々と輝く金色の瞳が、死んでいく地上を容赦ない光で睥睨する。
そこにいたのは、
『サテラの半分、千は影を伸ばして見せろ』
灰色の体毛を持つ、森をまたぐような体躯を誇る猫型の四足獣。
いつかの世界で屋敷を崩壊させ、スバルを死に追いやった氷結の主――その、堂々たる顕現であった。
※ ※※※※※※※※※※※※
見上げるほどの巨躯へと姿を変え、本当の意味で世界を見下す灰色の獣。
寒気はその獣の出現と同時にその強さを一気に増し、視界が白く染まり始めた低温の中では瞼を開けていることにすら痛みを伴う。
「――――」
そのかすかな痛みを受けながら、しかしスバルの意識はすでにそこにない。
呆然と、あるいは凝然と、信じられないものを見たような気持ちで、それこそ見上げる以外に視界に収めようのないその獣を声もなく見るだけだ。
「なに、を……」
震える声が、その極寒の世界にふいに響く。
声が震えているのは肌を刺すような冷気が原因ではあるまい。声を発した当人もまた、スバルと同じく寒さなど意識に置いておく余裕があるはずないのだから。
「なにを、連れてきたというのデスか、アナタは!?」
叫び、こちらを振り仰いで頭を振るのはペテルギウスだ。
渇いた唇が今の絶叫で縦に裂け、そこから赤い血がわずかににじむが――それすらも、ほんの瞬きの間に凍りついて止血される。
瞬きに瞼を閉じれば、もう二度と目が開かないのではと思わせる風が吹きつける中、スバルは今のペテルギウスの叫びを反芻し、改めて獣を見上げる。
何度考え抜いても、今のペテルギウスの言葉への答えはひとつだけだ。
つまり、
「パック、なのか……?」
『見ればわかるだろう?というのは、意地悪な話か』
掠れたスバルの問いかけに、灰色の獣が大きすぎる口を動かして応じる。
言葉のひとつに暴風を伴い、笑うでもなく皮肉を告げる巨獣はスバルの疑問を肯定した。
同時に、スバルはひとつの納得を得ていた。
――前回の最後に、どうして自分が死ぬような目に遭ったのかを。
「ありえ、ない」
押し黙るスバルを余所に、ペテルギウスが絞り出すようにそう呟く。
彼は自分の右手の指を順番に口に入れると、その先端を躊躇いなく噛み潰し、まるで冷気に遠のく意識を強引に繋ぎ止めようとでもするように、
「ありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないのデス!ただの!精霊が!精霊風情が!このような……このような力を持つなどありえないのデス!このような力は……」
『――エキドナ』
「――――」
唇の端から血泡をこぼし、目を見開いていたペテルギウスの動きが止まる。
狂人の拒絶の言葉に割り込んだのは、パックが囁いたなにかの単語だ。人名に聞こえたそれを耳に入れた途端、ペテルギウスはその口を閉ざす。
『魔女教なら、今の名前の意味がわかるだろう?』
その黙ったペテルギウスの思考を進めるように、パックが問いを投げかける。それに対するペテルギウスの反応は劇的だった。
固いものが砕ける音がして、ペテルギウスがなにかを吐き出す。吐き出されたそれは白い破片――噛みしめ過ぎて、折れ砕けた奥歯だ。そして、
「汚らわしい……!!」
血走った目でパックを睨みつけ、ペテルギウスは口から血をだらだらとこぼし、顎と法衣の首下を真っ赤に染めながら、
「その名を口にすることすらおぞましい!あぁ!恐れを知らない愚かで哀れな怠惰なるものよ!ワタシの!ワタシたち魔女教の前で!嫉妬の魔女、サテラ以外の堕ちたる魔女の名を呼ぶなど……!!」
毛細血管が破れたのか、血に染まるペテルギウスの双眸は真紅を描いている。目尻から血の涙を流し、狂人は血泡を飛ばしながら指先の欠損した手をパックへ向け、
「ワタシたちの信仰を、愛を!捧げてきた時間を侮辱しているに他ならないのデス!」
『――たかだか生まれて数十年の人間が、精霊相手に時間を語るな』
地団太を踏むペテルギウスに冷たく言いのけ、パックはその金色の瞳を輝かせる。
それだけで、狂乱に身震いしていたペテルギウスの動きが止まった。否、意識的に止めたのではない。強制的に、足先から凍結させられていっているのだ。
横たわり、白くけぶる視界の中で、スバルは仇敵が死に瀕していくのを見届ける。
凍らされていくペテルギウスもまた、自身の死期が間近に迫っているのに気付いているのだろう。彼はその死を前に、ぎらつく双眸でパックを見上げ、
「信仰の深さに時間など関係ないのデス!無限に等しい時間を持つが故に、その時間の大半を無為に消費する、アナタ方のような怠け者と一緒にしないでもらいたいものデス!あああぁぁぁぁぁ、脳が、震えるえるえるえるるるるるるっ」
自らの終焉を眼前にしてなお、ペテルギウスの狂信には一切の揺らぎがない。
『死』という絶対の事象の恐ろしさをこれ以上ないほど知っているスバルにとって、そのペテルギウスの態度はまさしく常軌を逸していた。
死を前にしてそれでも己の有り様をああまで貫ける――それはまさしく、純粋なまでの狂人性の証左であった。
『死が罰にすらならない。――だから、ボクはお前たちが嫌いなんだ』
「試練は果たされたのデス!いずれワタシの身は、尊き魔女の身許へ辿り着いて傘下へ加わる。……嗚呼、そのときが、楽しみ、デス……ね!」
両手を広げて空を見上げ、ペテルギウスがケタケタと哄笑を上げる。
吹雪が勢いを増し、吹きつける風がその痩身を白く染め、次第に声が、動きが緩慢になり、遠のき始める。
それでもなお、ペテルギウスは嗤うことをやめず、そして哄笑が途切れるそのときまで、その表情は晴れやかなまでの狂気を宿したままだった。
『――勝ち逃げされたな』
呟き、灰色の獣が前足を振るってペテルギウスの氷像を砕く。
一撃に上半身と下半身を分かたれ、地に落ちて欠ける上体を上からの荷重が叩き潰した。残った下腹部も、先に砕け散った黒装束たちの破片の中に紛れており、その絶命は疑いようもない。
――パックの言葉通り、死してなお、その意思を挫くことができなかったことも。
憎むべき相手が砕け散り、その命を無残に潰えさせたのを眼前にしながら、しかしスバルの胸中を占めていたのは圧倒的な空しさだけであった。
あれほど憎悪し、殺したいと思った男だ。彼の存在が事の発端であり、全ての問題の渦中にあるとばかり信じていた。その男さえ殺すことができれば、なにもかもがうまくいくに違いないのだ、と。
だが、結果はどうだろうか。
ペテルギウスが倒れ、魔女教の脅威は取り払われたといっていい。
しかし、その喜ぶべき結果を共有するはずだったレムの存在は世界から消失し、朗報を土産に和解できるはずだったエミリアはスバルが自ら死なせた。
スバル自身は二人の死を前に責任を放棄し、命を投げ出そうとしたところでそれすらできず、仇は別の復讐者の手で討たれ――その心を折ることは叶わなかった。
けっきょく、なにもできなかった。それだけが、此度の結果だ。
『さて――』
スバルが己の無力さに打ちひしがれる中、静かにペテルギウスの最期を見届けたパックがスバルを見下ろす。
改めて、その巨獣がパックなのだと意識すると、その強大さが身にしみてわかる。以前、王城でパックを目にした騎士団や賢人会が恐れ慄いていたのを、スバルはまるで他人事であるかのように思って見ていたが、
『話を、しようか』
――今は、その彼らの気持ちが痛いほどわかるのだった。
寒さのあまり、意識は朦朧としている。
すでにあれほど荒れ狂っていた体内の痛みの兆候はどこへなりと消え去り、痛めた背骨やへし折れた肋骨、骨の破片が突き刺さった内臓などの感覚がない。
間近に迫る死の足音を聞いているのだ。その静かで暗い足音の前には、痛覚のようなささやかな感覚がどこぞへと遠ざかってしまう。
だが、
『そうやってさらりと消えられると思ったら大間違いだ』
「――っぁ!!」
冷気の中、包み込むような眠気に誘われて閉じかけた瞼が、遠ざかっていたはずの痛覚がすさまじい熱に焼かれることで覚醒する。
喉が激痛に塞がり、痛みを訴えかける患部に目を向けたスバルは、自分の右足の膝から下が細い氷の針によって、滅多刺しにされているのを見た。
視覚から受け取った傷口の情報が脳に伝わり、過敏に働く脳が正しく痛覚を全身へと伝播する。目の奥で血が爆発し、視界が真っ赤に染まる。痛い、痛い、痛いなんて話ではない。痛みすら超越したそれは、自分の体に発生した地獄だ。
『スバル、君の罪は三つある』
痛みに悶え苦しみ、絶叫するスバルを見下ろしながら、灰色の獣は何事もないかのように言葉を続ける。
巨大化し、鋭い牙をいくつも備えた口を動かし、声音すらも変わってしまった存在であるのに、その口調だけが変わらないことが逆に恐ろしい。
苦痛をまぎらわすために、益体のない思考を走らせて精神を誤魔化そうとするスバルに、パックはその長い尾を振って凍てつく木々をなぎ倒し、
『ひとつは、リアとの契約に背いたこと。精霊術師にとって、結ばれた約束がどれほど重いのか、君は理解が足りないらしい。軽はずみに契約を破り、それがどれほどリアの心を傷付けたのか……君は知りもしないだろうね』
言葉の語尾が言い切られるのと同時、左足の先端が今度は串刺しにされる。
足裏から侵入した氷柱の先端が膝から突き出し、さらに氷杭はスバルの体内に潜り込んだ状態のまま、枝分かれして筋繊維と神経を掻き回し、内側から桃色の肉を弾けさせて飛び出した。
――痛みが、脳を支配する。
見えない、聞こえない、わからない、知りたくもない。いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたたたたたたたた。
『二つ目は、リアのお願いを無視して戻ってきたこと。それがなければ魔女教はもう少し様子を見ただろうし、霧が出るのにも猶予があったはず。それがなければあるいは、間に合っていたものもあったかもしれない』
黒装束たちと同様に、大の字になるスバルの両手が真上から氷柱で縫い止められる。そのまま氷漬けにされた彼らと違うのは、鋭い断面を覗かせる氷柱が、手の甲を貫いた状態のまま肘の方へ移動――手首から二の腕あたりまでの腕の真ん中が、綺麗に肉と骨と血管と神経が分断され、空気にさらされる。
『そして三つ目は、リアを死なせたことだ』
全ての傷口が一斉に凍りつき、それまでスバルの魂を鑢で削るようにすり減らしていった痛みが一気に遠のく。
神経がマグマに浸されるような真っ赤な痛みが唐突に奪われ、呼吸の仕方すら忘れたスバルは肺と喉を痙攣させて必死に酸素を求めた。
しばらく喘ぎ、ようやく呼吸の仕方のコツを掴む。
肺が膨らみ、全身と脳に酸素が行き渡るにつれて、ようよう意識が戻り始めた。
苦痛と絶望、痛みが『死』よりも低いものなどと先ほどまでは考えていたが、今はその考えはもはやどこにもない。
『痛み』も『死』も『恐怖』も、人間が忌避するそれらは全て、平等にナツキ・スバルという弱い人間を挫く力を持っているのだ。
眦に浮かんだ涙が即座に氷の滴へと変わる世界で、スバルは自分の四肢がすでに取り返しのつかない状況になっていることを把握する。
傷口ごと氷結したそれはすでに地面と一体化していて、無理に動かせば肩や腿あたりからあっさりともげてしまうことだろう。
事実上、手足が繋がっているように見えるだけで、ダルマのような状態にされていることは今の自分にも明らかだった。
『――契約に従い、ボクはこれからこの国を滅ぼす』
緩慢な意識で、死を理解し始めていたスバルにパックは告げる。
それはこの場に怒りを担って現れた彼が初めて、明確に怒りと差別化した感情を垣間見せた瞬間だった。
『全てを氷と雪の下に埋もれさせて、リアへの餞とさせてもらう』
「……そん、な、もん」
『あの子が喜ぶかどうかじゃない。決めたことは、約束は破れない。たとえそれが、己と交わした契約でも』
言葉にならないスバルの声に応じて、パックは『だが』と言葉を継ぎ、
『果たせずに終わるだろうことはわかっている。ボクとリアが暮らした森のように、氷の世界を広げて全土を覆い尽くそうとしても――必ずラインハルトが、剣聖が立ちはだかる。ボクはそれに打ち勝つことはできない』
赤毛の英雄の名を口にして、パックは彼我の実力差を嘆くように呟いた。
その言葉が、意味が、スバルには信じられない。これほど強大で、圧倒的な力を発するパックであってすら、彼の剣聖には勝算がないと断言している。
それを理解していながらも、途中で討たれるとわかっていながらも、それをやめようとしない頑なさを抱いたまま。
「どう、し……て」
『――リアは、エミリアはボクの存在理由だ』
スバルの疑問にパックが答える。
鼻先を地面に擦りつけて、その大きな顔をスバルの視界から隠そうとでもするように身をよじり、パックはどこかしら寂しげな声で、
『あの子がいない世界に、ボクがいる意味はない。それならボクの八つ当たりで、世界なんて消えてしまえ。――ボクの全ては、あの子が死んだときに終わったんだ』
首を振り、パックがそう言葉を締めくくると、風の勢いがふいに増す。
風はその冷たさを著しく高め、肌を刺し、瞼を凍らせ、体内に巡る血液すらも凍らせ始めた。――終わりが、近い。
『手足の指先から、徐々に徐々に凍らせていった場合、人はどこで死ぬのかな。興味はあるかい、スバル』
「――――」
『無言は肯定と受け取るよ。そしてその答えは、自分で確かめてみるといい』
ゆっくりゆっくりと、氷結の浸食が肉体を蝕み始めた。
すでに凍てついていた四肢のさらに先、肩口や大腿部が凍りつき始め、それまで四肢が味わったのと同等の破壊が、激痛と絶望を引き連れてやってくる。
『――霧が出てきたか。死ぬ前に、厄介な奴を呼び寄せてくれたみたいだね』
痛みで狂うことができるのなら、もう早くこの正気を打ち砕いてくれ。
引き裂いて、ぶち破って、心なんてバラバラにしてほしい。さもないと、
『暴食……ああ、今は白鯨だなんて呼び名か。あれを呼び、リアを死なせ、自分も命を落として……本当に、どうしようもないね、君』
聞こえない。誰かの声が遠く、自分の悲鳴だけがいつまでも響き渡っている。
次第に悲鳴は消え、笑い声が、哄笑が聞こえる。
ケタケタ、ケタケタと。
聞き覚えのある笑い声だ。死ぬほど憎んだ男の声だ。
どこから聞こえるのか、どうしてもそれを確かめないといけない気がして、笑い声の発信源を求めて意識を錯綜させる。
そして、気付いた。
ケタケタと、堪え切れない笑い声を上げる、自分の口に。
痛みがわからなくなり、快楽が脳を支配し始めた。
狂気の世界が広がり、心地よいぐらいに歪み切った景色に足を踏み入れる。
哄笑が止まらない。
それは自分を嘲笑する笑い声だった。
レムを死なせ、エミリアを殺し、自分すらも犬死。
ああ、まさに、なんとも、まあ。
『――怠惰だね、スバル』
ぷつり、と音を立てて意識が切れた。
そして切れたのはきっと、意識や命だなんてものだけではない。
――もっと、ずっと、どうにか繋ぎ止めてきたなにかが今、音を立てて切れたのだ。
ぷつりと、音を立てて、切れたのだ。