『それはそれ、これはこれ』
――『タイゲタ』の書庫で、レイドの本がないかを探そう。
それが、この塔を攻略する上で、直近である二層攻略に必要だとスバルが提案したい事柄だった。
それを聞いた途端、車座になる面々の表情が怪訝なものとなる。
「本を?……本気なの?」
「お、エミリアちゃん、今のは本と本気がかかってたね。面白いよ」
「もうっ、スバル!」
スバルの反応に眉を立て、エミリアが可愛い頬を赤くして怒る。その愛らしさに幸福感を覚えながら、スバルは「いいか?」とみんなの顔を見回した。
「レイドの本を探す、これが俺は二層を攻略するのに一番手っ取り早い手段だと思う。みんなはそう思えないか?」
「さっきも聞いたけど、どうして?本を探すのが反対っていうんじゃないの。ただ、どうしてレイドの本を探すのかわからなくて。それに……」
「――そもそも、レイド・アストレアの本は本当にあの書庫にあるのだろうか」
スバルの提案を受け、エミリアが首を傾げると、言葉の後半をユリウスが引き継ぐ。
そのまま、皆の視線を集めたユリウスは長い睫毛に縁取られた瞳で頭上を仰ぐ。天井の向こう、その先にあるだろう二層を覗き見るように。
「信じ難いことだが、史実に名を残した英傑、レイド・アストレアは二層で『試験』と称して我々の挑戦を待っている。彼が四百年前に実在した人物であり、その同一人物であることも疑いようはないが……その死は今、私の中で疑問の余地がある」
「ああやってぴんぴんしてるのを見たら、実は死んでなかったんじゃないかって?あんまり考えなかった説だけど、その線もなくはないのか……」
実際、スバルもエミリアたちから話を聞いて、彼が数百年前の死者であるという認識を持っているだけだ。
そうした事情を知らずに彼と会えば、レイドが死者であるなどととても信じられない。そもそも、生気に溢れすぎだ。エネルギッシュに過ぎる死者である。
「とはいえ、その線はほとんど考えなくていいレベルだろ。何百年なんて長生きできるとも思えねえし、普通は死んでるはずだ。なぁ、ベアトリス」
「ベティーはこれでも四百年生きてるのよ」
「私も百年くらい、かな?」
「ボクも、生年で考えれば四百年ぐらいになるかな。起きていた時間は短いが」
「あーしも!あーしもッス、お師様!あーしも、四百年ここで待ちぼうけッス!寂しかったッス!四百年分のハグを要求するッス!」
「長生きキャラがすげぇ多いな!?エミリアちゃんも!?」
同意を求めたつもりが、思わぬ反論に口が開く。
まさか、同行メンバーの半分が長命キャラとは思わなかった。パーティーの平均年齢がシャレにならない勢いでぐっと跳ね上がる。
特に、エミリアとベアトリスの年齢には開いた口がそのまま塞がらない。
ただ、なるほど納得と思う部分もある。
「そ、そうか。エミリアちゃんはハーフエルフ……絶世の美少女なのも納得だ。ハーフエルフは美人で長生きってお約束だもんな」
「えと、うん、そうなの。……スバルは、記憶がなくてもハーフエルフは怖くない?」
「怖いか怖くないかって言ったら、その可愛さが怖い。マジで凶器。寝起きで油断してる状態で見たら目が潰れそう。今も正直しばしばする」
「……もう、バカ」
ほんのりと頬を染めたエミリアに怒られ、スバルはなんだか今のがいい雰囲気だった気がして、そんな間抜けな勘違いをしないように自分を戒める。
エミリアはとても優しいので、うっかりするとスバルに気があると思ってしまいそうだ。揺れるな俺の心、ときめくなマイハート。いや、ときめくのはいい。
「はぁ……その点、お前は実家に帰ってきたような安心感だな、ベアトリス」
「なんだか納得がいかない感じかしら。……でもまぁ、頭を撫でてるから大目に見てあげるとするのよ」
エミリアに乱された心音が、ベアトリスの頭を撫でていると落ち着いてくる。ベアトリスの機嫌も直ったようなので一挙両得。
と、そんな脱線したやり取りに、「いいかな」とエキドナが手を上げた。
「ユリウスの懸念もわからなくはないが、ボクは素直にレイドが死者である説を推したいと考える。当人と接触した、所感みたいなものだけどね」
「その心は?」
「第一に、ナツキくんの言う通り、レイド・アストレアが長命種とは考えられない。色々と規格外な人物には違いないが、それでも彼は人間だよ。第二に、彼の性格」
「性格?あの、すごーく元気なところ?」
「元気が転じて破天荒と言うべきだろうね。あんな豪快な性格の持ち主が、四百年も大人しく塔にこもっていられるとはボクには思えない。彼女……シャウラとも会わなかったということは、あの二層の一室にずっといたことになる。とても信じ難いよ。ボクの勝手な印象だが、彼なら三日で出ていくだろう」
「あー」
肩をすくめたエキドナの意見に、スバルは納得と諦観の合わさった声を漏らした。
エミリアたちも顔を見合わせ、落ち着きのないレイドの態度を思い出す。エキドナの意見の信憑性には彼女らも納得の様子だ。
それらを見て、エキドナは浅葱色の視線をユリウスに向けた。
「と、ボクからはそんな印象なんだが、ユリウスは納得してもらえるかい?」
「納得、せざるを得まいね。確かに、実際のレイド・アストレアの印象を思えば、一所に長居することを良しとする人物像ではない。それができない理由は、やはり塔の『試験』と現在の彼が紐付けられているから……と考えるべきか」
「塔と、存在が紐付けられてる、か」
エキドナとユリウスの会話を聞きながら、前回のループの終局が思い出される。
大混乱となった塔内を、レイドは自由に歩き回り、外へいくとまで豪語していた。何の気兼ねもなく二層から四層へ降り立って、スバルの後頭部を小突くことさえしたのだ。
スバルには、あれが自由を縛られているようにはとても見えなかった。
実際、最後の心残りさえなければ、彼はそのままの足で塔の外へと元気よく飛び出していったに違いない。――彼が、それをしなかったのは。
「――?なんだろうか。私に何か?」
「いや……」
「ふ。私の顔にも、目と鼻と耳と口はついていると思うが、そこに異常でも?」
「ああ、エミリアちゃんのと違って可愛くないから選考漏れだ。ともあれ……」
話が本題からズレすぎた、とスバルはユリウスから視線を外した。
そして改めて、話題を最初の『レイドの本』のことに戻す。
「じゃ、あのレイドが元気な死人って意見にまとまったところで最初の話だ。『タイゲタ』には『死者の書』がある、これも間違いないよな?」
「今のところはそういう認識ね。読んだ人間の頭に、その死者の記憶が流れ込む……そこまではバルスとユリウスが確認しているわ。生憎、その記憶も抜け落ちたようだけど」
「悪かったよ、根に持つなよ。――で、そこがこの話の焦点だ」
指を鳴らして、スバルはその先端をラムに向ける。その仕草が不愉快だったのか、向けた指をラムにひねられ、「ぐああ!」とスバルは苦痛を味わった。
そのやり取りの傍ら、ベアトリスが「あ」と小さく声を上げる。
「なるほど、そういうことかしら!」
「ベアトリス、スバルの言いたいことがわかったの?」
「わかったのよ。なるほど、そういうことかしら。――つまり、レイドの『死者の書』を、レイドを攻略するための極意書として利用するってことなのよ」
「それな」
ひねられた指を振りながら、スバルが悪い顔でベアトリスを肯定する。
その説明を聞いたエミリアも、紫紺の瞳を丸くして「そっか」と呟いた。
――『死者の書』を利用した、死者本人の攻略。
早い話、『死者の書』はその人物の生前の記録であると同時に、その人物がどうして死んだのかを克明に記録した『攻略本』とも言える。
そして、すでに四回も死んでいる『死』のベテランプレイヤーたるスバルに言わせてもらえば――死亡した原因は、簡単に回避できるものではない。
「だから、『死者の書』を読めばそいつの死因がわかる。これは立派な攻略手段だ。ひょっとすると『死者の書』は、遠回しにそのためにあるのかもしれねぇぜ?」
「それは……盲点だった。だが、言われてみれば確かに。わざわざ死者を試験官として配置しているぐらいだ。狙いはそこにあったとしてもおかしくない」
「いや、そこまで真に受けなくてもいいけど……」
目を丸くして、期待以上の感心を見せるエキドナにスバルは苦笑いする。
とはいえ、確かにそうそう実現しない状況だけに、これを攻略法と見出すか、あるいは抜け道と定義するかは難しいところではある。
「ただ、これは一つ、俺が確信を持って言えるんだが……今の記憶がない俺じゃなくて、記憶がある俺でも、この攻略手段を試そうとしたと思うんだよ」
「……それは納得かしら。こんな抜け道、スバルが試さんはずがないのよ」
「正道ではなく、邪道。バルスのやりそうなことね。ラムも納得だわ」
「ん、そうね。こういうズルっこ、スバルはすごーく得意だもの」
「ズルっこってきょうび聞かねぇな……」
「――っ!」
『ナツキ・スバル』へのぶれない評価に頬を掻くと、急にエミリアが目を輝かせた。その反応にスバルは驚くが、エミリアはすぐに自分の頬を指でつねると、
「うう、いけないいけない。一番大変なのはスバルだもの。私がしっかりしないと……」
「エミリア様、お気持ちはわかりますが、ほっぺたが赤くなります」
急に自分をイジメ出したエミリアの手を取り、ラムがその行いを注意している。
先ほどからたびたび、エミリアやベアトリスからの過敏な反応があるのだが、おそらくはそのあたりに彼女らが感じる『ナツキ・スバル』の残滓があるのだろう。
正直、申し訳ない。早く、エミリアたちに『ナツキ・スバル』を返してやりたいが。
ともあれ、エミリアたちの印象がそうであったように、昨日までのスバルが『死者の書』を使った攻略法に行き着く可能性はかなり高い。
と、そんなスバルの考えを聞いて、メィリィが「あ」と口に手を当てると、
「……そう言えば、昨日の夜、お兄さんが『タイゲタ』でたくさんの本を広げてるところを見たわあ。あれって、そういうことだったのかしらあ」
「昨晩、スバルが『タイゲタ』に?ふむ……」
「ちなみに、俺が何の本を読んでたかってのは見えなかったのか?」
「ええと……そこまではわからないわあ。ごめんなさあい」
シャウラの膝の上に乗せられ、ぐりぐりと頭を撫でられているメィリィが目を伏せる。
そんな彼女に「気にするな」と手を振り、スバルも慎重に、自分のものではない『わたし』の記憶を参照し、同じ結論を得た。
『死者の書』で確認したメィリィの記憶の中に、スバルが複数の本を広げていたところまではあっても、そこから先の詳しい内容は見られなかった。
そのため、望み薄な質問だったと落胆は大きくない。ただ、ああして『タイゲタ』の書庫にいた時点で、『ナツキ・スバル』に何らかの異変があったことは確実だ。
本を広げる前か、あるいはその少しあとに――、
「もしくは、その行為そのものが記憶を失ったことに関係があるのでは?」
「たくさん広げていた、か。……まさか、許容量を超える『死者の書』を読んだことで、記憶を入れておく場所が一杯になって溢れた、なんて話ではないだろうね?」
「ないとは思いたいけど、ないとは言い切れねぇよ。なにせ、記憶喪失!」
胸を張り、自分を指差すスバルにユリウスとエキドナが同時に嘆息した。
なかなか記憶喪失を開き直るのも板についてきたが、スバルも自分の記憶がすっぽ抜けた原因が本にあることはあまり疑っていない。
だから、仮にレイドの『死者の書』を見つけたとしても、他の誰かに読ませることは避けたいと考えていた。
読むなら、一度記憶が消えて、また消えても影響の少ないスバルが――否、今や、スバルも消えては困る記憶が多すぎる。
「――――」
前回のループの出来事、前回までのループで起きた出来事。
それに、この周回で心に決めたことや、ラムとの約束、メィリィへの誓いもある。
なんだ、たったの数日を四回繰り返しただけなのに、すでに忘れてはいけないことがこんなに腕一杯にあるのか。
だから、記憶というものは尊く、手放し難い。――忘れてはならない。
「スバル?」
「あ、あー、大丈夫大丈夫、じょぶじょぶ。えーと、おほん」
押し黙った横顔にエミリアが声をかけ、スバルは慌てて平静を取り繕った。
それから咳払いし、みんなの顔を眺めると、
「そんなわけで、『タイゲタ』に向かうのを提案する。過去の英雄とか伝説の誰々ってポジションの奴は、その偉業が後世に語り継がれるもんなんだ。代わりに、失敗談とか弱点なんかも残るわけで、そこは有名税と思って素直に突かせてもらおう」
「自信満々に、聞いてきたようなことを話すものね」
「へへっ、まさかこの攻略法が現実に使える機会がくると思わなかったからな。相手の真名がわかれば、死因と宝具も特定できる。これぞ、現代知識チート……!」
「真名?」
「宝具ってなんなのかしら……」
拳を強く固めたスバルの言葉に、エミリアとベアトリスが同時に首を傾げる。
そこは与太話なので詳しく説明しないが、レイド・アストレアがこの世界で、歴史に名を残すほど有名な人物であったことは間違いない。
「つまり、奴の敗因は有名税……これって弱点として斬新じゃない?」
「――。バルスの狙いはわかったわ。納得もした。不安がないわけではないけど」
「試す価値は十分にある、か。やれやれ。あれだけ膨大な量の本の中から、目的の一冊を見つけ出すことがどれだけ大変か、考えただけでも気が重くなってくるな」
スバルの軽口を聞き流し、ラムやエキドナが腰を上げる。彼女らにつられ、エミリアやベアトリス、メィリィとシャウラもそれに続いた。
よし、とスバルも膝を叩いて立ち上がり、それから出遅れるユリウスを見る。
「どうした。お前は反対か?」
「……いいや、他の打開策もない。君の発案であることも含め、有効であることも認めよう」
「でも、思うところがある?」
「――。これは、私自身の問題だろう。気にしないでほしい」
ゆるゆると首を横に振り、ユリウスもすっとその場に立ち上がる。
気にするな、と言われて本気で気にしないのは無理な話なので、スバルとしてはいささか以上に気掛かりではあるが――、
「いったん、置く。――ところで、『死者の書』以外だと、レイドのことってどのぐらい有名なんだ?かなりヤバい感じだが」
「よほど強烈な記憶だったようね。記憶が断片的に抜けたというわりには残っているみたいだし。……レイド・アストレアは、過去に存在した『魔女』を倒した三英傑の一人よ」
「『賢者』シャウラと、『神龍』ボルカニカと、それから『剣聖』レイド……」
「あーしじゃなくて、『賢者』はお師様のことッス」
「お前の理屈だと、俺も数百歳ってことになんの?コンビニから出て、今朝目覚めるまでの間に俺が激動の時間を過ごしすぎてるだろ……」
シャウラの言動は話半分どころか、話一割ぐらいの塩梅で聞いておいて、スバルはその三英傑として語られるレイドの伝説について深掘りする。
その話題に関して、エミリアらの視線が向くのはユリウスだ。
ユリウスはその視線を受けると、自身の前髪に指で触れながら、
「確かに、レイド・アストレアが各地に残した伝説は枚挙に暇がない。有名なもので言えば……龍を百頭斬った戦いや、剣奴孤島の闘技場で記録される六千戦無敗の戦績。鬼神と呼ばれる存在と酒を飲み比べして勝った、などという変わり種もある」
「全部馬鹿みたいな話に聞こえたけど、本人を見たあとだと……」
「誇張はない、と感じるね。その強さを知れば、彼は紛れもなく……いや」
「――?」
「私の知る限り、彼についての逸話の多くはその規格外の功績を語るものばかりだ。その人間性であったり、人間らしい失敗談や敗戦の記録、そうしたものは記憶にない」
前髪を指で払って、ユリウスは知識披露の場面をそう締めくくった。
その話を聞き終えて、スバルは敗戦の記録が残っていない事実にちょっとだけ慄く。残っていないだけならいいが、まさか負けたことがないのではなかろうか。
生涯無敗、十分にありえる話だと、スバルは身震いしておく。
「と、ついたな」
会話の一段落で、ちょうど『タイゲタ』へ通じる階段のある部屋に到着する。
そのまま上にいけば『死者の書』に埋め尽くされた書庫、三層『タイゲタ』がスバルたちを出迎えてくれるわけだが――、
「――ラム、ちょっとみんなの先導しててくれるか?俺はちょっと、ユリウスと話したいことがある」
「ユリウスと?」
足を止め、そう申し出たスバルにラムが眉を顰めた。
その言葉に驚くのはユリウスも同じだが、ひとまず彼は反論はないのか何も言わない。そんな様子にラムは薄紅の瞳を細め、スバルの黒瞳を覗き込むと、吐息をついた。
嘆息、あるいは諦念の表れのような吐息で、
「あまり長くかけないようになさい。上がってきたとき、ラムたちの記憶がバルスと同じように抜け落ちていたら収拾がつかなくなるわよ」
「怖いこと言うなよ。記憶をなくしたラムが、しおらしくてお淑やかな感じに仕上がるなら見物だけど……」
「ラムはもう、これ以上、何も忘れるつもりはない」
「……だよな。変な本、見つけても近付かないようにお願いな」
そう言い置いて、肩をすくめたラムが先頭でのしのし階段を上がっていく。
ひとまず、彼女に任せておけば判断を誤る心配はおそらくないはずだ。そういう意味での信頼は、このメンバーの中だと一番ラムを高く評価している。
そういう観点でいくと――、
「メィリィは淑女らしくしてろよ。エミリアちゃんと手でも繋いでてくれ」
「それ、すごおく心外だわあ。そんな厄介者みたいな扱いされなくても大丈夫よお。大体、裸のお姉さんにも手を掴まれてて、捕まってないのに捕まってる気分だものお」
ぶー、と頬を膨らませながら、シャウラに右手を、エミリアに左手を握られたメィリィが『タイゲタ』へ連行されていく。その背中にベアトリスが続くと、最後尾のエキドナがそっと階段に足をかけ、振り返った。
「ナツキくん」
「うん?」
「お手柔らかに頼むよ」
そう言い残したエキドナも、とっとと上階へと上がっていった。
その背中を見送り、スバルは頭を掻く。エキドナには何となく、スバルがユリウスをこの場に残した理由がお見通しだったのかもしれないと。
そうして、女性陣がそっくりその場からいなくなると、階段の前に取り残されるのはスバルとユリウスの二人だけになり、
「それで、話とは?わざわざ、エミリア様たちを遠ざけてのことだ。よほどのことだと思っても?」
「よほどのこと……まぁ、そうだな。たぶん」
「はっきりしない口振りだね」
「はっきりさせるのが難しい手合いの内容なんだよ、これが」
階段を背に、ユリウスと向き合うスバルは自分の黒髪をガシガシと掻く。
この場にユリウスを呼び止めたのは、いくつか確かめておかなければならないことがあったから。それは、さっきまでの会話で引っ掛かった部分の確認でもあるが――、
「――――」
「スバル?」
「待て。今、ちょっと頭の中を整理中だ」
思った以上に、ややこしく絡まる問題の糸をほぐし、スバルは思案する。
エミリアたちに本の捜索を任せ、ユリウスを呼び止めたのだ。その、最大の焦点は当然ながら『レイド・アストレア』であることからはブレない。
それと同時に、スバルの脳裏を過るのは前回のループ、その大混戦の一幕だ。
――自由を得たレイドが、最後の心残りとして選んだ、ユリウスとの一騎打ち。
多数の邪魔が入った状況ではあったが、あれはまさしく一騎打ちと言うべき場面だ。しかし、その実力差は、おそらく精神的な問題もあって絶対的なものだった。
その上、聞いた話ではユリウスは一度、すでにレイドと戦って敗北を喫している。そんな状況にあってなお、レイドはユリウスに何らかの執着を持っていた。
それが、ユリウスという人物のどこにあったのか、それもレイドを読み解く上での鍵となる気がしてならない。――だが、それをどう伝えるべきなのか。
「あー、お前って、レイドのことどう思ってる?好き?」
「――。その質問に、何の意味があるのだろうか」
「いや、ちょっと硬い空気をほぐそうとしただけ。本命はもうちょっとだけ言い方が違う。――本命の言い方は、お前はレイドに勝つ気があるのかってこと」
「――っ」
片目を閉じて、そう言ったスバルにユリウスが黄色い瞳を見開く。激しい動揺がその瞳を揺らしているのを見て、スバルは短い息をついた。
やはり、と感じる部分がある。だが、同時に待ってくれ、でもあるのだ。
「自覚のあるなしは置いとくけど……ビビるのも無理ねぇ状況だろうよ。負け癖ってのはつくとなかなか抜けなくなるらしいぜ」
「スバル、君は……」
「悪ぃな。本当は俺だって、できるだけ時間かけてあれこれして、お前のへっこんだ心を立て直すべきなんだと思う。思うけど、その時間が俺たちにはない。わかるだろ?」
「――――」
スバルの問いかけを受け、ユリウスが頬を硬くし、息を詰める。
スバルとユリウスとでは、『時間がない』という意味合いに対する考え方が違っているが、それでも同様の焦燥感は彼にもあるのだ。
そしてきっと、昨日までのスバルにはできなかったこと。この、傷付いて、自分の心の焦燥に気付けずいる男を気遣って、言えなかったこと。
たぶん、『ナツキ・スバル』ができなかったことを、ナツキ・スバルがしてやるのだ。
それが今、この閉塞した状況を打開する、確かな一撃になると信じて――、
「はっきり言うぜ、ユリウス。なんでかって言ったら、今の俺は無敵だからだ」
「無敵、とは……なかなか、大きく出るものだね」
「しがらみがないから大きく踏み出せる。お前が俺の面見て、エキドナの面見て、レイドの話を聞いて、縮こまってるのは見てられねぇ。俺も引きずる性質だから他人のこと言えた話じゃねぇが、そういうことは目をつむって、はっきり言うぜ」
「――聞こう」
息を呑んで、居住まいを正したユリウスがスバルを見つめる。
その真っ直ぐな視線を受け、スバルは続けた。
「それはそれ、これはこれだ」
「――は」
堂々と、そう言い放ったスバルに、ユリウスが呆気に取られた顔をした。
そんなユリウスを正面に、スバルは両手を左右へ広げると、
「お前が俺を見て、ギクシャクした感じになるのはわかる。昨日までの俺が、たぶんお前になんかやらかしたんだろう。その昨日までの俺がお前にしたことがこの世から消えるわけじゃないけど、俺の頭の中からは消えてる」
「そう、だね。その通りだ。だが、私は……」
「最後まで聞け。そんな状態だから、お前と俺の関係はまた一から作る必要がある。少なくとも、今の俺との関係はそうだ。昨日までの俺は、いったんよけとけ」
「――――」
かなり乱暴な論調に、ユリウスは先ほどから動揺の波に呑まれて戻ってこられない。
ひどく強引な理屈だ。言いたいことの百パーセントを到底伝えられてはいない。
実際、スバルが『ナツキ・スバル』のこれまでの功績――エミリアやベアトリス、ユリウスたちに対して与えた影響、そうしたものの力を借りているのは事実なのだ。
だが、今はそうした影響の、良い部分だけ借りて、悪い部分はうっちゃってしまう。
何故なら――、
「俺たちのパーティーの中で、お前が一番強い。だから、レイドとやり合うことになるのはお前だ。うまく攻略本が見つかったとしても、戦いはお前に任せることになる」
無論、レイドの執着、ユリウスとの一騎打ちを望む敵の考えもある。
しかし、スバルはここを譲るつもりはない。エミリアがすでに勝ち抜けしていることを抜きにしても、ラムやシャウラ、エキドナやメィリィ、ベアトリス、そしてスバルの誰にも、その場面を譲らせることはできないだろう。
「ビビる気持ちはわかる。戸惑ってんのもわかる。昨日までの俺がホントすいませんでしたって謝る。――それ全部込みで、切り替えて、戦ってくれ」
「……私は、すでに二度、彼に負けている」
「知ってる。でも、次は勝ってくれ」
「――――」
知っているより負けた回数が一回多かった。
だが、それはこの際、もう関係のない、余分な部分のお話だ。
「お前が勝てなきゃ計算が狂う。頭の中、色んなマッチアップ考えてんだけど、女の子たちに頑張ってもらわなきゃの前に男の俺たちが頑張らねぇと、騎士の名折れだぞ」
「――名折れ。今の私に、騎士の名折れ、か」
ぐっと拳を突き出したスバルに、ユリウスが目を伏せ、低く呟く。
驚かされ、戸惑わされ、傷付けられ、殴りつけられ、ついには乱暴に胸倉を掴まれるような理屈で以て、ユリウスはスバルの言葉に翻弄される。
それは、スバルが彼に対して抱いていた印象以上に、その優麗な表情を大きく変えさせるもので――、
「ラム女史の言う通り、君が本当に記憶をなくしているのか疑わしく思えてきたよ。あるいは君は、剣を捨てて逃げようなどと怖気づく私を止めるために、こうして記憶がないふりをしているのでは?」
「エミリアちゃんの笑顔を曇らせてまで?アホ、そんな回りくどい真似しねぇよ!大体、そんなことしなくてもお前は剣を手放さねぇし、みんなのために戦うだろ」
「それは……矛盾している。君は、今まさに私の怖気づく心を引き締めようと」
「違うね。そうじゃない。お前に足りないのは勇気じゃない。勇気はここにちゃんと詰まってる。――足りないのは勝ち気だ。負けん気だよ」
一歩、距離を詰めたスバルが突き出した拳でユリウスの胸を突く。
その言葉と拳を受けて、ユリウスが息を呑んだ。
「――――」
スバルの、今の言葉に嘘はない。
前のループ、魔獣とレイドという絶体絶命の状態にありながら、ユリウスは剣を手放すことなく、絶望に背を向けることなく、スバルに「任せる」とそう言った。
あれは裏を返せば、「ここは任せろ」以外の何の受け取り方をすればいい。
ユリウスはあの状況下で、確かに言ったのだ。
――レイド・アストレアを、自分に任せろと。
そして、そう言い切った彼を見たのが最後だった。
だから――、
「……俺は、決着を見てねぇ。昨日までの記憶もねぇ。だから、俺は、お前が、レイドに負けたところなんか、一回も知らねえ」
ユリウスは、ユリウス・ユークリウスは、負けていない。
ナツキ・スバルの前で、一度として、この騎士は、男は、負けたことがないのだ。
だから、ナツキ・スバルは、誰がなんと言おうと、決着を譲らない。
ユリウス・ユークリウスが、レイド・アストレアを打ち倒すと、期待し続ける。
「レイド・アストレアを、俺はお前に任せる。あの、一番厄介な敵を、お前が倒せ。その代わりに俺は……それ以外の全部に、また俺のやり方で手を伸ばす」
「――――」
「聞こえねぇのか、ユリウス。ダチの期待に、応えろよ」
さっきは期待を預けるように、今度は力強く希望を打つように。
スバルの拳がユリウスの胸を再び叩いた。
その一発に、ユリウスが自分の胸に触れた。
それから胸に手を当てたまま、彼は後ろに下がり、長く息を吐く。
長く長く、深く深く、息を吐いて、
「……昨日までの記憶をなくした君が、どうして私にそうまで期待できる?」
「それは……その、イメージだ。印象、見た感じ。見た目とか喋り方とか仕草とか、持ち物とか服装とか、食べ方とか歩き方とか、なんか色々そういうのの総合芸術だよ」
前回の、ループの出来事に触れられず、スバルは自分の胸を掴んで苦しい返事。
図らずも、スバルとユリウス、両者互いに胸に手を当てたまま向かい合う。そのままユリウスは、胸に手を当てたまま背筋を正して、ゆっくり腰を折った。
まるで、物語の騎士がそうするように、美しく、自然な仕草で。
「印象、か」
「そ、そうだな。お前の見え方だ。お前の全部が、俺にそう期待させる」
「そうか。……私の見栄が、そう思わせたのだね」
頭を下げたまま、ユリウスの声の調子が変わった。
それまで、どこか触れ難いものを感じさせたユリウスの声色に、ほんのわずかではあるが力が戻り、柔らかさが宿り、温かみが芽生えたように思える。
そうした印象をスバルに与えながら、ユリウスは頭を上げ、前を向いた。
そして――、
「世界に忘れられ、唯一覚えていた君にすら忘れられ、主の存在を確かめられず、私自身がどこにあるのか曖昧なものとなっていた。だが、そんな状態であっても――私が、これまで培ってきた全てが失われたわけではない。そう、言いたいのだね」
「そこまで賢くまとまってなかったけど、ニュアンスはそう」
スバルの拙く、まとまらない言葉をユリウスが賢く、洗練された形として受け取る。
伝えたいことの百パーセントは伝わらないと、さっきスバルは思ったばかりだ。だが、その百パーセントに近いものを、受け手側は選んだと、そう感じた。
「なんか、観念的な話というか、精神論ばっかりであれだった気がするが、精神的な問題が大きい雰囲気だったから、合ってたかな?」
「ふ。何故、そこで弱気になる?無敵だったはずではなかったかな?」
「いや、スター取ったマリオでも穴に落ちたら死ぬじゃん……」
通じないたとえ話にユリウスは眉を顰めたが、それ以上の追及はしてこない。
そのあたり、昨日までの『ナツキ・スバル』との付き合いで、意味のない軽口は聞き流すに限るといった認識が結ばれているようで、何とも妙な気分だ。
ともあれ――、
「少しは前向きになったか?」
「さて、どうかな。究極、君の言葉は具体性に乏しい精神論が多く、また、私の身に起きた数多くの出来事が劇的に変わったわけでもない」
「お前な……」
「ただ」
そこで言葉を切り、ユリウスはスバルを見つめる瞳を細めた。
そして、ふっと唇を緩めると、
「――それはそれ、これはこれだ」
と、らしくもない言葉で、そのやり取りの締めくくりとしたのだった。