『血肉と臓物まで愛して』


目の前を過ぎる緑の尾に牙を突き立て、無我夢中で食い破る。

紫色の体液が飛び散り、おびただしい量の鮮血が顔面を濡らすが構わない。すでに、左目はとっくのとうに毒液を浴びて塞がっている。

 

焼けるような痛みを咆哮を上げて誤魔化し、腕を叩きつけて双頭蛇を絶命させる。死骸を蹴りつけ、正面を牽制しながら後ろに下がり、背筋を駆け上がる寒気に反応して即座にのけ反る。

 

顎先を掠めるように、禍々しい形の刃が薙ぎ払われた。

刃の斜線上にあった魔獣の肉体のことごとくが、その獣の牙じみた刃の餌食になる。肉が裂かれ、鮮血がぶちまけられ、散乱する内臓のカーテンを突貫してぶち破り、その惨状を開いた女の胴体目掛けて引いた両腕を叩き込む。

 

「――――!」

 

右の盾が女の胸を、左の盾が女の脇腹を、それぞれ骨と肉のひしゃげる音を立てて貫いたのを感じる。

耳元、目の前、上下左右、問わず錯綜する獣の声、絶叫、自分の咆哮、衝撃音、鋼と鋼の軋り合う音、入り混じりすぎて音では世界を正しく認識できない。

 

構わない。目の前にある、右目に映る世界だけが本物だ。

 

豊満な女の胸がねじくれて凹み、内臓を絞り出される打撃の威力に盛大な喀血。血の色をした唇をさらにどす黒い血に染めながら、命を脅かされる激痛の中にあっても女の表情からは愉悦が消えない。

あるいは戦闘力よりも、戦闘継続力よりも、その精神性こそが最も厄介な代物であるかもしれなかった。

 

「――しぃ!」

 

「がァァァッ!!」

 

短い呼気と、応戦する咆哮。

女の左腕が後ろから前に振られて、甲高い音が自分の背後で連鎖する。壁を反射し、天井を跳ね返り、床を打って後頭部を狙ってくる斬撃だ。

 

「――――」

 

背後に意識を払い、それを回避にかかる選択肢は脳裏から消える。

眼前、左手を振った女は右腕を引き絞り、獣の牙を備えた黒刃を放つ姿勢に入っている。背後の刃をかわせば、右の致命傷がこちらの頭部を、あるいは喉を掻っ切るだろう。

 

身を斜めに傾け、後頭部に突き刺さる刃の軌道から強引に頭を外す。

鈍い音が右の肩甲骨あたりから響き、骨の隙間に反射する刃の先端が噛み合ったのを感じて舌打ち――関節部分に刃が入り、右腕の動きが一瞬止まる。

 

「り、ぃぃぃ――!」

 

「しゃァ――ッ!」

 

音すら掻き消えるほどの暴力性を伴い、引き絞られた刃が放たれる。

手加減抜きの刃の一撃は、斬撃というよりも刃の形をした恐ろしく鋭い打撃だ。

直撃すれば頭部は吹き飛び、原型すら残るまいという威力――とっさに掲げた左腕を軌道に割り込ませるが、体勢も悪ければ右肩に受けたダメージも流し切れていない。

 

金属が獣に噛みつかれる音が刹那だけ軋り、掲げた腕があっさりと弾かれる。

そのまま、黒刃はわずかな速度の減退をしたままこちらの頭部への再進撃。頭蓋を半分吹き飛ばすには十分な威力が、瞬きの間に届く。

それを、

 

「――――!?」

 

蹴り上げ、側頭部と刃の間に割り込ませたのは死骸になった魔獣の体だ。

皮の固い野菜を頬に当てるような異物感と、触れた肌に火傷のような炎症を引き起こす毒の体液。それを浴びるリスクを冒しても、致命傷を避けるメリットを拾う。

 

刃が魔獣の死骸に食らいつき、そのまま打撃力が死骸越しに横っ面を突き抜ける。

左から右へ、顔面を殴打される衝撃に身が回り、回りながら一歩、二歩、意思の力を込めて床を踏み、背後へ飛ぶ。

 

『地霊の加護』が発動し、踏んだ床がこちらの意図に従って弾け飛ぶように爆ぜた。

体がその爆発力で後ろへ飛び、背を向ける形になった女にその体勢のまま圧し掛かる。――右肩には、女の振るった白刃の刃を突き立てたままだ。

 

「――っ」

 

刃が接触する瞬間、女がわずかに身を引いた。

己の体に触れるのが峰側であるとわかっていても、とっさのこちらの動きに判断を過たされたのだ。

右肩を女の体に当てたまま、スタンスを広げて重心を落とす。

その挙動に女が一歩、足を後ろへ下げて距離を開けようとした瞬間、低い軌道から伸びる左腕が女の顔面を鷲掴みにした。

 

「――部分獣化ァ!」

 

叫んだ直後、女の顔面を掴む左腕に変化が生じる。

筋肉が膨張して左腕が爆発的に発達――金色の体毛がみるみるうちに生え揃い、丸太ほどもある獣の左腕へと変貌する。

当然、その腕の先端には獣特有の刃のような爪があり、

 

「き、ぁぁぁ――ッ!」

 

分厚い爪先が女の顔面を抉り、血をまきちらしてのけ反らさせる。

頭部の外から内側へ、五指の刃に刻まれたも同然の傷と痛みだ。さしもの女も顔を押さえて後ずさり、天井を仰いで悲鳴を上げる。

 

「るァ!!」

 

その胴体に、直蹴りが突き刺さって背後へと吹き飛ぶ。

胴の真ん中を捉えた威力は、砕けていた胸骨と内側の内臓をさらに破裂させて掻き混ぜるのに十分な破壊力。

倒れ込む女は武器を取り落とし、真っ赤な鮮血を吐き出しながら途切れ途切れの笑い声を上げる。

 

それがひどく耳触りで、中断させてやろうと飛び込もうとするが、

 

「ちィ!次からッ次へとよォ!」

 

追撃をかけようとするガーフィール目掛け、攻防の隙間を縫って魔獣が殺到する。

黒い翼を生やした鼠が、怒りに比例してその体を膨張させる袋鼠が、屋敷中から掻き集められた斑王犬が、そして復活の巨躯――岩豚が押し寄せてくる。

 

群がる黒翼鼠を爪で切り裂き、膨張する袋鼠を踏み込み一発で消し飛ばし、食らいつこうとする斑王犬の首を蹴り折り、ガーフィールは突進する岩豚と真っ向から向き合う。

 

「ぺっしゃんこになっちゃあえ!!」

 

「なァってたまるかよォ、馬ッ鹿野郎がァ!!」

 

数トンの質量が、爆発的な突進力を伴って迫るのだ。

それは獣の打撃力というよりも、建物が空から降ってくるに等しい質量弾。

 

いかなガーフィールといえど、真正面からそれを受け止めては無事では済まない。一瞬を堪えることすらできず、吹き飛ばされて轢き潰されるのが関の山だ。

しかし、

 

「だァから、おもしれェ――ッ!」

 

両足を踏ん張り、『地霊の加護』を最大限に解放する。

足裏から伝わる大地の加護と、全身の筋肉が盛り上がる躍動感。

金色の瞳が好戦的な光に濡れそぼり、牙を剥くガーフィールは凶悪に笑って、己の内側に潜む血を爆発させる。

 

「――ォォォォォッ!!」

 

絞るような咆哮は、外への呼びかけではなく己の内側へと呼びかけるものだ。

全身に巡る、どこか受け入れ難い、決して好んではこなかった自分の中の血統。普段は身をひそめているそれに呼びかけ、肌が粟立つような感覚を味わいながら魂を震わす。

 

女の顔面を引き裂いた左腕と同じように、右腕が爆発的に肥大する。

両腕を起点に、肩が、胴体が、首が、頭部が音を立てて骨格が変貌し、ガーフィールの顔は人間のものから猫科の猛獣――大虎のものへと形を変える。

 

胴が、腰が、脚部が肥大するに従い、衣服が内側からの圧迫感に耐えかねて弾ける。布切れを引っ掛けただけの姿、両腕に装備されていた盾は膨張した両腕の手首をかろうじて止める腕輪のような状態――その体躯だけならば、迫る岩豚にも引けを取らない猛獣がその場に顕現する。

 

「――――ッ!!」

 

床が軋み、踏ん張る足元が大きく陥没する。

二体の巨獣の相対に、強固に作られていたはずの屋敷の耐久量が追いつかない。通路に収まりきらない巨躯が壁を粉砕し、背を擦る天井の装飾品が音を立てて落ちる。

 

「――ワッグピッグ!!」

 

ガーフィールの変貌に、魔獣の背に乗る少女が甲高い声を上げる。

叫び声は、魔獣の名前を呼ぶものか。背に乗る主の呼び掛けに応じて、岩豚は岩をすり潰すような雄叫びを上げ、石臼のような歯の並ぶ口腔を開けて飛びかかってくる。

 

後ろ脚に体重をかけ、前足を浮かせて踏み潰そうと迫る魔獣。

金色の瞳を煌々と光らせる猛虎は、それに際して後ろ脚を爆発させ、巨躯の踏みつけが激突する直前に割り込み、分厚い岩のような皮膚へと爪を突き立てる。

 

刃物を岩盤に突き立てる音が響き、猛虎の爪が根本から引き剥がされる。岩肌は刃を通さず、突進力そのままに先制攻撃を空振りした猛虎へ巨獣の前足がぶち当たる。

真上から、猛虎の両肩を押し潰すような踏みつけ。上半身を床に押し付けられ、容赦のない質量の衝撃に虎の喉が絶叫を上げる。

 

「ワッグピッグ、止まったらだあめ!!」

 

骨が砕け散り、肉がすり潰される音を聞いても魔獣の主は油断をしない。

主の泣くような声を聞き、岩豚は咆哮を上げながら再び両の前足を跳ね上げ、二発目の踏みつけで大虎の頭部を踏み砕きにかかる。

だが、

 

「――――ッ!!」

 

爪が届かず防がれたのならば、猛虎の選ぶ武器はたった一つだ。

 

首をもたげ、両肩を踏み潰された猛虎は背筋を使って体を起こし、前足を浮かせて腹を見せる岩豚に対して牙を剥く。

全身を岩のような肌で覆う魔獣であっても、全身がまったく同じ硬度であるはずがない。腕や背に比べれば、急所と呼ばれる部位は間違いなく防護は薄い。

故に、猛虎は前足を浮かせる岩豚の、そのがら空きの腹部に鋭い牙を突き立てた。

 

「岩豚ちゃん!?」

 

「――ぐるゥゥゥ!!」

 

大虎の顎は、人間一人を丸呑みできるほどに大きく、岩豚の広い腹部であっても半分近くの範囲を口腔に収める。

一瞬、岩豚の肌は猛虎の牙を通すまいと抵抗するが、刃の先端が果実を破るように、尖った先端が薄皮を破った瞬間に易々と貫通してみせる。

 

岩豚の絶叫は、食らいついた猛虎が床を蹴って横回転する勢いと絡み合っていた。

牙を食らいつかせたまま、獲物の肉を引き千切るために身を回す挙動――川べりに住む水竜と呼ばれる亜竜の一種が行う捕食行動だ。

もしもナツキ・スバルがそれを見ていれば、それがこの世界には存在しないワニと呼ばれる生物のデス・ロールという行動に近いものと判断したことだろう。

 

後ろ足で床を叩き、横回転と前進の移動力を稼ぎながら岩豚の胴体を噛み千切る。

分厚い皮膚の内側、魔獣の巨躯はその質量に等しい莫大な量の内臓と血を孕んでおり、牙の傷跡からそれが容赦なく屋敷の通路へとぶちまけられた。

 

「――――ォ」

 

白目を剥き、岩豚の体が弱々しい断末魔を上げて崩れ落ちる。

猛虎は食い破った岩豚の血肉を吐き捨て、後ろ足で巨躯を蹴りつけて横倒しに倒す。激突の瞬間に魔獣の背から降りていた少女は、自分の操る魔獣の壮絶な死を目の当たりにして言葉もない様子だ。

 

「う、そ……信じらんなあい……」

 

後ずさり、少女は背後を振り返って自分の残りの手勢を見やる。

彼女の呼び笛に従って、この場に続々と集まってきている多数の魔獣。しかし、それらは小型と中型の群れであり、岩豚のような大型の魔獣は打ち止めだ。

 

「もお!なんてことなの!エルザ!エルザ!何とかしてよお!」

 

「……人使いの、荒いことだこと」

 

自分の不利を悟り、理不尽を罵りながら少女が仲間の名前を呼ぶ。その声に応じて、ゆっくりと闇から這い出てくるのは漆黒の女だ。

抉られた顔を再生し、鮮血に濡れた三つ編みを煩わしげに弄っている。

 

「女の顔を躊躇いなく抉るなんて、やっぱり素敵だわ、あなた」

 

「――ァォッ!ォォッ!ォォッ!」

 

血に濡れた凶相で笑う女に、両肩を砕かれた大虎が興奮気味に唸る。

巨躯を震わせ、倒れ伏した岩豚の体に頭を打ち付け、嘔吐する。

苦しげに唸り続ける猛虎は、やがてその巨体を少しずつ失い、肥大した肉体が元の人型を取り始める。数秒の後、抜け落ちた金色の体毛を振り払い、立ち上がる半裸の少年が立ち尽くしていた。

 

「あァ……クソ、戻ったぜ。頭ッが痛ェ……」

 

「なるほど……半獣というわけね。人間にしては目つきが悪いと思っていたのよ」

 

「その理屈が通るってんなら、うちの大将も人間じゃねェってこッとになんだがな」

 

頭を振り、ガーフィールは人型に戻った体の感触を確かめる。

骨格が人型に舞い戻る過程で、砕かれた両肩も動く程度には骨が接がれている。とはいえ、動かすたびに軋む痛みが走り、思考が白熱するのがわかった。

 

長くは万全に動かせない。

だが、それはもはや相手も同じはずだ。

 

「てめェに代わって、頼みの魔獣の腸ァぶちまけッてやったぜ。喜んで、その血の海で泳いでも構わねェんだぜ?」

 

「遠慮しておくわ。獣の腸は、よほど飢えているときでなければ代わりにもならないもの。腸は、人のお腹を切り開くから美しいのよ」

 

「その美学、意味わッかんねェなァ」

 

耳に小指を突っ込み、乱暴に掻きながら呆れを吐息に乗せる。

ガーフィールの眼前、エルザは圧倒的に不利な立場でありながらその姿勢を崩そうとしない。

 

――エルザの不死体質、その終わりがくるまで多く見積もって五回。

 

そう判断してから、すでにガーフィールは致命傷を四度浴びせている。先の顔面を抉った一撃を含めれば五度。そろそろ、再生力にも限界が見える頃合いのはずだ。

つまり、エルザの命のストックはもはや尽きているも同然。ガーフィールの方も負傷はしているが、それでも戦闘で後れをとるつもりはない。

メィリィからの魔獣の援護も望めない以上、互いの喉元に刃を突き付け合っているに等しい状況――なのに、その泰然とした振舞いはなんなのか。

 

「別に、何か特別な理由があるわけじゃないわ。そんなに怯えなくて大丈夫よ」

 

訝しげに眉根を寄せるガーフィールを見て、エルザが幼子をあやすように言った。

その言葉に鼻面に皺を寄せ、ガーフィールは獣の唸り声を上げる。

心に生じたささやかな戸惑いを、看破されたことを誤魔化すように。

 

「ッざッけんじゃァねェ。てめェ、見透かしたような口利いてんじゃァねェぞ」

 

「見ていればわかるわ。誰かのお腹を切り開くってことは、お腹を切り開かれる前の誰かと向かい合うってことだもの。あなたの顔も、見慣れた顔だわ」

 

「――――」

 

「異常者を、理解できないでいる顔」

 

喉を塞がれたような錯覚、言葉を見失うガーフィールに、エルザは口に手を当てて笑う。うっすらと微笑む彼女は、その首を傾けて、

 

「いいのよ、それで。誰かに理解されることなんて望んでいないわ。私の幸せは、誰かの命を踏みつけにして得られる私のもの。生きることは、死を踏みつけることだもの」

 

「……まともッに聞いてッたら、頭ァおかしくなるってのァわかったよ」

 

両腕を持ち上げ、盾同士を打ち合わせて理解を放棄する。

相手の事情に気を回す余裕があるわけではない。気紛れに意識を回す理由も、今の言葉でなくなったも同然だ。

 

「一応、聞いッてやるがよォ……金輪際悪さしねェって誓って逃げんなら、見逃してやらねェこともねェ」

 

「あなた、本当に可愛い子だわ」

 

最後に見せた慈悲を、笑って振り払うのが激突の合図だった。

 

踏み込みが爆発し、ガーフィールの体が真っ直ぐに飛ぶ。それを迎え撃つ白刃が縦に振られて、天井を打ち、床を打ち、回転する刃が反射しながらガーフィールに迫る。

エルザの握る身幅の厚い白刃は、幾重もの刃が重なり合って連なったものだ。互い違いに両端を刃が継ぎ、まるで蛇の骨のような波打つ刃が通路を縦横無尽に跳ね回る。

 

上か、下か、視認速度をはるかに超える刃が白光となって飛び回り、ガーフィールは頭部を覆うように両の盾を構えて回避を放棄。上から跳ねた刃が左腕の二の腕に突き立ち、骨を叩き割られる痛みを味わいながら前進を続行する。

 

「私の生まれた北国のグステコは、とてもとても寒い土地だったわ」

 

刹那の攻防が繰り広げられる戦場で、歌うような女の声はなぜか滑らかにガーフィールの鼓膜へと忍び込んできた。

聞こえるわけがない。意識が灼熱し、死を伴う一撃を交換し合う一瞬の中に、そんな声が割り込む隙間などどこにもない。

そのはずなのに、女の声はガーフィールの意識をするりと掻い潜って忍び込む。

 

「貧富の差が激しい国柄で、貧困層では捨て子なんて珍しくもない。私もそんな子どもの中の一人で、物心ついたときには親もなく、泥水を啜って生きていたの」

 

「――らァァッ!!」

 

「物を盗んだり、人を脅したり、そういうことでどうにか日々を過ごしていて、周りの顔ぶれが変わることもしょっちゅう。何のために生きているのか、幸せってなんのことなのか……そんなことを考える暇もない日々だったわ」

 

拳を振り抜き、エルザの顔面を吹き飛ばしにかかる。

しかし、大振りのそれは身を傾ける動きに回避され、真下から振り上げられる黒刃がガーフィールの胴を斜めに浅く抉った。

獣の牙に肉を持っていかれ、噴き出す鮮血を浴びるエルザが舌舐めずりをする。

 

「あの日は、特に寒い日だったわ」

 

「ッるッせェ!聞いちゃァいねェよォ!!」

 

「高い山々から吹き付ける風は強く冷たくて、町中が凍りついていた日。吐いた息も凍りそうな極寒の中で、盗みを働いた私は商店の店主に取り押さえられたの」

 

熱のこもった吐息をこぼし、エルザは陶然とした面持ちで語る。

振り回される死の刃の勢いは増し、左の防護が追いつかないガーフィールの体に次々と切り傷が増え始めた。

 

「殺されても文句の言えない環境だったけど、私は女だったから。下品に笑って、私の服を引き剥がそうとしたその男の顔が今でも思い出せるわ」

 

「が、ァ……ッ」

 

「寒い風が吹いている中で、上着を脱がされて、下着も奪われて……何をされるのかよりも、凍えて死ぬ方が先じゃないかって思ったとき、私はたまたまガラス片を拾ったの」

 

長い足が側頭部を狙って伸び上がるのを、ガーフィールはあえて頭突きで撃墜。脳髄に響くような衝撃にのけ反るが、エルザの足の甲も砕けたはずだ。

足を引き、下がるエルザ。だが、その表情は恍惚のものから変わっていない。

 

「何か考えて、そうしたわけじゃないわ。ただ、拾ったガラス片を、圧し掛かってきたお腹に突き立てて、動かして、切り開いただけ」

 

「――――」

 

「その男の悲鳴も、誰かの命を奪ったことの感慨も、何も感じなかった。ただ、私は冷たい風の中で、思ったのよ」

 

息を止めるガーフィールの前で、エルザはうっとりと笑った。

 

「血と臓物は、なんて温かいんだろう――」

 

刃が振り上げられ、ガーフィールの頭蓋を叩き割りに迫る。真横に身を滑らせ、壁を蹴りつけてエルザの後ろへ回り込み、背骨を砕きに蹴りを放つが、身を回すエルザの刃の峰に脛を叩かれて軌道がそれる。

蹴り砕かれた壁が噴煙を上げ、ガーフィールは舌打ちしながら飛びずさった。

 

「この世に幸せがあるとしたら、寒さを忘れさせる温かさと美しさがそう。産まれ落ちて何もなかった私が得た、初めての幸せの確かな形。――理解は、できないでしょう?」

 

「したくもねェ」

 

「それでいいわ。共感してほしいなんて思っていないから」

 

「なら、なんでそんな話、俺様に聞かせたんだ、胸ッ糞悪ィ」

 

「なんでかしらね?」

 

敵意を宿したガーフィールに、エルザは不思議そうな顔で首を傾げた。

それから淫靡に瞳を細めると、その唇を赤い舌で艶めかしくなぞり、

 

「きっと、あなたが本当に愛おしいからだわ」

 

「……悪ィが、俺様ァ惚れた女がいる。頭のいかれたクソ女に付き合ってる暇ァねェ」

 

「つれないのね。でもいいわ。私が用があるのは、あなたの中身だけだから」

 

話は通じているようで、根本から通じていない。

女とのここまでのやり取りで、ガーフィールはようやくそれを理解する。

 

エルザの身の上話には、興味も同情も何もない。

そうなる下地のあった奴が、そういう経験を経て、こういう化け物になっただけだ。

 

ガーフィールの盾は、守るべきものをとうに選んでいる。

 

「――殺すぜ、エルザ・グランヒルテ」

 

「殺してから初めて、あなたを愛すわ。ガーフィール・ティンゼル」

 

名乗り合った互いの名を呼び合い、半獣と殺人鬼が暴力を振り上げる。

 

白刃が通路の闇を白光となって切り裂き、引き絞られる黒刃がガーフィールの体を縦に引き裂かんと放たれる。

視界の端を、上下左右を問わず跳ね回る刃。防ぐ手立てのない攻撃に対して、ガーフィールは回避の選択肢をまたしても捨てる。だが、これを受け切れずに突進力を殺されれば二の轍を踏むだけの愚行だ。

 

「――――」

 

音を切り裂き、通路を跳躍する刃。

その先端が見えないのならば、放たれる始点を狙う他にない。

 

左腕を突き出し、ガーフィールは結びを緩めていた盾を投擲する。

打ち合わせる際に緩められていたそれが投じられ、目を見開くエルザの左手を正面から直撃――砕け散る音がして、彼女の指がひしゃげて白刃を取り落とすのが見えた。

 

跳ね回る刃が操り手を失い、天井に突き刺さって動きが止まる。

深まる黒い笑みと、突き上がる咆哮。死を運ぶ刃が大気を殺しながら振り下ろされ、真っ直ぐに直進するガーフィールの体に叩きつけられる。

 

右腕を頭の真上に置き、唐竹割りに落ちてくる黒刃の直撃を受ける。

盾を突き抜け、頭部を豪快に揺らす衝撃波。目が回り、前のめりに倒れ込みそうになるのを、踏み込む足でかろうじて支える。

耐え切った――直後、跳ね上がる女の膝が下を向くガーフィールの鼻面を叩き潰す。

 

「防いだ、と思って油断したらダメよ」

 

含み笑いの声が聞こえて、のけ反るガーフィールにエルザが足を振り上げる。

ガーフィールの鼻面を砕いた膝を高々と上げ、振り下ろされる彼女の靴の踵からは仕込まれた刃物の鈍い輝き――その先端が、ガーフィールの喉へと突き刺さり、

 

「てめェの方こそ、俺様の武器を見落としてんじゃァねェ――」

 

開かれた口が、振り下ろされる踵を刃ごと呑み込み、その細い足を噛み砕く。

刃ごと足首までの骨を食い破られて、エルザは目を丸くした。

 

「あら」

 

驚きの声を上げ、エルザはふらつきながらその場にバランスを崩して座り込む。

右足はくるぶしから下を粉砕されて機能せず、両腕も自らの攻撃力の反動でひしゃげて使い物にならない。左足を支えに、エルザは唯一無事な首から上でガーフィールを眺めて、

 

「――あぁ」

 

息を吸い、エルザは恋する乙女のように頬を赤らめた。

吐息が色づくほどに熱を持ち、濡れた瞳は拭いきれない熱情で満たされる。

 

――エルザの眼前で、ガーフィールが岩豚の巨躯を担ぎ上げ、放り投げる。

 

放物線を描く質量弾に押し潰される未来を知りながら、エルザは影に呑まれる瞬間までガーフィールから目を離さない。

荒い息を吐き、牙を剥く金髪の少年に愛を込めて――、

 

「ぞくぞくしちゃう」

 

すさまじい重量が殺人鬼を、吸血鬼を、腸狩りを、完膚無きまでに押し潰した。

 

肉のひしゃげる音、魔獣の体液に混じって流れ出す鮮血。

死の臭いを嗅ぎ取り、ガーフィールは咆哮する。

 

雄叫びが高く、高く、燃え落ちる屋敷に轟き渡る。

 

――聖域の盾ガーフィール・ティンゼルと、腸狩りエルザ・グランヒルテの戦い、ここに決着。