『皇帝/商人/ナツキ・スバル』


 

――城塞都市グァラルの陥落、それがアベルの目論む次なる一手。

 

堂々と、そう宣言された内容を脳が咀嚼して、スバルはすぐに結論する。

それは、無茶な計画だと。

 

「曲がりなりにも城郭都市……四方はでかい壁に囲まれて、門の出入りは常に監視されてる有様だ。陥落なんて、気軽に言える場所じゃねぇぞ」

 

「ほう、まるで見てきたように……いや、見てきたのだったな。貴様の口から有益な内容が聞こえてこぬ故、つい失念するところだぞ」

 

「皮肉の切れ味抜群で大いに結構だよ。けど、その切れ味が通用するのは、こうやって話し合いの場に座ってくれる相手だけだ。武器を持った相手には通用しない」

 

集会場の中央、火を囲みながらスバルとアベルが睨み合う。

鬼面の向こうの感情を覗かせないアベルだが、いよいよその頭の中身まで全く推し量れない状況で、スバルは苛立ちながらも困惑していた。

今の、スバルが抱いた真っ当な懸念、それにアベルが思い至らないはずもない。

にも拘らず、彼が城郭都市の陥落などと発言したのは――、

 

「……抜け道を用いて、都市に攻め入るということですか?」

 

息を詰めるスバルの傍ら、そう静かな声音で呟いたのはレムだった。

膝を畳んで横座りにしているレムは、その薄青の瞳でアベルをじっと見つめている。睨むというより、覗き込むような眼差しだ。

それを受け、アベルは「言うまでもない」と肩をすくめる。

 

「ナツキ・スバルの言った通り、都市の正門に敷かれた検問が最初の壁だ。それを掻い潜り、市内に入り込む方策が必須となる」

 

「仮に入り込めても、都市の中には帝国兵の方々が多数いるように見えました。検問を無視できても、敵が多すぎると思います」

 

「ふん」

 

グァラル陥落のための障害を整理するアベルに、レムが理路整然と反論する。その姿勢にアベルは鼻を鳴らしたが、一方でスバルの困惑はより深まった。

原因はもちろん、アベルと真っ向から議論するレムの姿だ。

 

議論の内容的に、レムの立ち位置はグァラルへの攻撃に反対するスバル側と言える。

しかし、その視点の持ち方がいかにも適切すぎる。――まるで、グァラルに滞在した短い時間で、その点をしっかりと見極めてきたかのように。

 

「――ナツキ・スバル、貴様は戦いにおける攻守の兵力差をどう心得る?」

 

「あ?攻守の兵力差って……攻撃三倍の法則、みたいなことか?」

 

「攻撃三倍の法則……なるほど、言い得て妙だな」

 

問われ、反射的に答えたスバルにアベルが感心したように頷く。

『攻撃三倍の法則』とは、戦いにおける兵力の考え方で、攻撃する側は防衛する側に対して三倍の兵力を持っていることが望ましい、とするものだ。

これは攻守の目的意識の違いで、攻撃側は相手を倒さなくてはならない一方、防御側は相手を倒すだけでなく、追い返したり、攻撃を防ぐだけで済む点が大きい。

 

今回の例で言えば、アベル率いる『シュドラクの民』は、グァラルを手に入れるために都市を占拠しなければならないが、都市に駐屯する帝国兵や衛兵はこの攻撃を退け、究極的には街に立てこもるだけで目的を達成できる。

この目的達成率の差を埋めるのに、それだけ兵力が必要となるという考えだが――、

 

「都市の三倍の兵力なんて、とても揃えられないはずだ。ミゼルダさん、ここの集落の人たちの人数はどのぐらいなんだ?」

 

「全部で八十二人ダ。アベルやその男……フロップを入れテ、百人といったところカ」

 

「顔のいい男をどう計算してるのかわからねぇが、百人ぽっちってわけだ。でも、あの街には大雑把に見積もっても、その三倍以上の戦力がいたんじゃないか」

 

ミゼルダの計算式は脇に置いて、スバルはグァラルの戦力をそう見積もる。

都市の規模は一万人に届かないぐらいの大きさだったが、都市の治安を守る衛兵は相応の数を揃えているはずだ。その上、陣を焼かれた帝国兵が合流している。

 

――あの、トッドを含めた帝国兵たちが。

 

「――――」

 

「最低限、基礎的な知識は頭に入っているようだな。だが、貴様が口を噤んだ理由は戦力差への懸念より、別の恐れが原因と見える」

 

「……俺がビビってるのは事実でも、戦力差がヤバいのも事実だろ」

 

内心を言い当てられ、バツの悪い思いを味わいながらスバルが舌打ちする。

事実、スバルがグァラルを攻め落とすと聞いて、最初に考えつく障害がトッドだ。彼と再び相対するなどと、考えただけでも内臓が軋む。

そもそも、『攻撃三倍の法則』に則って考えるなら、お話にならない。

 

「この戦力差を覆す手段なんて、一騎当千の兵が仲間入りするか、敵の指揮官が死ぬほど無能だったパターン以外に思いつかねぇぞ」

 

「生憎と、どちらも期待できるとは思えんな。シュドラクの実力なら有象無象の兵は蹴散らせようが、それでも数で包まれれば押し負ける。その上、敵の指揮官はズィクル・オスマンと聞いている。堅実でつまらぬ打ち手だが、隙がない」

 

「ズィクル……聞いた名前だな」

 

その名前を聞いたのは、まだ関係が悪くなる前のトッドの口からだったはずだ。

すでに焼き払われた帝国の野営地だが、その作戦を指揮していたのがズィクルと呼ばれる人物だったと記憶している。

ただ、陣が焼かれた以上、その人物も討たれたものと思っていた。

 

「陣にいたのは雑兵だ。元より、軍事行動の本命の目的を隠すため、奴らに与えられた情報は最低限……森の少数部族相手に、二将が前線へ出向くことなどない」

 

「じゃあ、最初から指揮官は都市に居残ってたってことかよ」

 

「事実、何もなければそれで十分な成果が得られていたはずだ。その計画に歪みが生じたのは俺の指揮と……ああ、貴様の存在あってのことだったな、ナツキ・スバル」

 

「ぐ……」

 

底意地悪く、アベルはスバルが目を背けたがる責任と向き合わせようとする。

そのことに歯軋りしつつ、スバルは口元に手を当てた。

 

とにかく、グァラルにはそのズィクル二将とやらが駐留している可能性が高い。

帝国の階級は上から一将、二将、三将と続くという話だが、上から二番目の階級ということはかなりの実力者であることが窺い知れる。

 

「つまり何か?こっちは戦力でも負けてる上に、相手の指揮官も上から数えた方が早い実力者。しかも、俺たちが蜂の巣をつついたせいで警戒もされてるって?」

 

「そういうことだ。責任の重みが理解できたか?」

 

「俺はお話にならねぇって言ってるんだよ!」

 

ちくちくとスバルの浅慮を責めるアベルだが、問題は別個の部分にある。

これだけ勝算のない状況で、なおも戦いをやめようとしないアベルの姿勢だ。断固として、スバルは挑むだけ無駄だと言い続ける。

そもそもの話――、

 

「俺は戦うこと自体、断固反対なんだ。いったん、ここから出てったときにもはっきり言ったはずだぞ。俺は……俺は、レムと帰りたいだけなんだ」

 

「だが、それが困難であることはすでに証明された。貴様の敵がグァラルに入った帝国兵だけだと思うか?他の村や町なら安全と、そう割り切れるか?」

 

「――――」

 

「どこへいこうと、貴様の安寧はもはや買えん。それを痛感し、血に染み込ませる時間は与えたつもりだ。それとも、まだ毒が足りないか?」

 

嬲るようなアベルの視線が、スバルの惰弱な精神をついばみにかかる。

それに身を削られるような痛みを味わいながら、スバルは長く息を吐いて、忌々しくもアベルの言葉が事実であると認めざるを得なかった。

 

城郭都市で味わった苦難は、スバルの内に精神的な壁を作った。

今後、レムを連れて国外脱出を図ろうとしても、グァラル以外のどこへいっても同じような不安と警戒は薄れることはない。

スバルの慢心は、五回の死と引き換えに失われたのだ。

 

「――それならいっそ、俺がお前を敵に売り渡すってのはどうだ」

 

逃げ道を塞がれ、浅慮を罵られる経験を経て、スバルが頬を歪めてそう問いかける。

一瞬、スバルの放った言葉に集会場の空気が張り詰めた。はっきりと、隣のレムが目を見張ったのが視界の端に映り込む。

しかし、売られると言われた当のアベルは小さく笑い、

 

「ふん。ようやく、まともに頭が働いてきたと見える。だが……」

 

「それはできん相談ダ、スバル」

 

目にも止まらぬ速さで、短刀を抜いたミゼルダがスバルの首に刃を宛がった。

その早業にスバルは息を呑み、一瞬で動いた長身の族長の顔を見上げる。ミゼルダは目力の強い美貌の中、冷酷な狩猟者としての己を瞳に宿している。

 

「すでに我々ハ、アベルと共に戦うと決めタ。それが『血命の儀』の結果、同胞と認めたものの望みとあらば他はなイ」

 

「……ミゼルダさんたちの力を借りて、レムを取り戻してもらった俺が言うのは図々しいってわかってて言うよ。本当に、みんなはそれでいいのかよ」

 

断固たる決意を感じさせるミゼルダだが、スバルの問いかけは彼女を飛び越える。

族長として、『シュドラクの民』の在り方を体現しなくてはならないミゼルダは説得できない。それでも、他のシュドラクは別の意見があってもいいだろう。

この場にいるタリッタやクーナ、ホーリィたちには別の意見が。

 

「さっき、こいつも言ってただろ。戦力差は歴然で、相手も歴戦の猛将。戦ったって勝ち目がないって端からわかってて……」

 

「たぶン、スバルは勘違いしてるノー」

 

「勘違い……?」

 

他の意見を求めるスバル、その問いに最初に答えたのは意外にもホーリィだった。

集会場の端っこで、干し肉を齧りながら話を聞いていたホーリィは、身動きを封じられたスバルの方を丸い瞳で見つめながら、

 

「勝ち負けの話をするなラ、ここで引いてしまっても私たちの負けなノー。同胞のために戦えなかったラ、魂が穢れてしまうノー」

 

「魂の穢れって……誇りとか、祖霊への顔向けとか、そういう話か?」

 

「そうそウ、スバルもわかってるノー」

 

笑みさえ浮かべて、ホーリィはスバルの言葉を肯定する。

だが、それは理解し合えたことの証明ではなく、理解し合えないことの証明だった。

 

スバルにも、そうした考えがあることはわかる。

誇りや家名といった、直接肉体には寄与しない不可視の証――それを大事に思い、何よりも大切に扱う姿勢が存在するのは確かだと。

しかし、それはどこまでいっても、命より大事なものなんてないと考えるスバルとは共存できない考え方なのだ。

 

「クーナ!タリッタさん!二人も、同じ意見なのか!?」

 

「……アタイはホーリィとか族長ほド、考え極まっちゃいねーけどナ」

 

「――。姉上の決定に従いまス。それガ、私の意思だかラ」

 

「そう、かよ……」

 

水を向けた他の二人も、スバルにとって望ましい回答は返してくれない。

あるいは、シュドラクらしさと少しズレたクーナであればと思ったが、それもスバルの見込み違いであったようだ。ミゼルダに絶対服従のタリッタは、言うに及ばず。

そのまま、味方のいないスバルの首に短剣を当てたまま、膠着状態が長引くかと思われたが――、

 

「……ミゼルダさん、武器を引いてください。その人に、アベルさんを相手に引き渡すような意思はありません」

 

誰あろう、そうミゼルダに短剣を引くよう言ったのはレムだった。

彼女の視線を受け、ミゼルダがその瞳を細める。

 

「私に指図するのカ、レム。お前は『血命の儀』を受けていなイ。スバルの願いで集落にいるのは許すガ、口答えされる謂れはないゾ」

 

「では、なおさら武器を引くべきです。その人は儀式を……その『血命の儀』というものを受けて、同胞として迎えられた。それを傷付けるのは、よくないことです」

 

「ム……」

 

眼力を強め、レムを威圧しようとしたミゼルダだったが、毅然として言い返されて逆に言葉に詰まった。結局、彼女は短剣を腰の鞘に素早く収める。

そうしてスバルを解放し、レムをじっと見つめると、

 

「今はお前の言葉が正しかっタ。だガ、またアベルとスバルとで意見が割れれバ、私はアベルの側につくゾ。それを忘れるナ」

 

「それは、この人の目つきが体臭に相応しい極悪人のものだからですか」

 

「多少鋭い目つきも愛嬌があル。だガ、私は美形が好みダ」

 

一触即発の場面が沈静化するが、その最後のやり取りにしては脱力ものの会話だった。

ともあれ、スバルもあわや首を切断される状況から解放され、刃を当てられていた自分の首をそっと撫でる。そして、レムを見つめた。

 

「――。なんですか」

 

「……いや、俺を庇ってくれたことと、顔をボロクソに言われたことのどっちに反応すればいいのかわからなくて困惑してたんだよ」

 

「顔のことは言っていません。目つきの話です。あと体臭。鼻が曲がります。もっと向こうに座ってください」

 

「今さら……!?」

 

レムの態度が氷河期を迎え、座る距離を取られてスバルが傷付く。

だが、内心はもっと複雑な混乱がスバルを苛んでいた。実際、彼女がどうしてスバルを庇うような発言をしてくれたのか、その真意がわからない。

ただ、筋の通らないことを見逃すのが嫌だったのかもしれないし、あるいはそうでないのかもしれない。そう思うのは、スバルの欲目なのだろうか。

だって彼女は、グァラルの宿で荷解きしないでいたのだから――。

 

「話の腰が折られたな。だが、仮に貴様がシュドラクの目を掻い潜れたとしても、俺を相手に売り渡すという考えは無駄であろうよ」

 

「……折れた腰を継ぎ直してご苦労様だよ。ついでに聞いてやる。なんでだよ」

 

「貴様も、短時間とはいえ都市で過ごしたのだ。ならば、今の帝都がどう治められているか、耳に入れたのではないか?」

 

「帝都がどうって……ああ!そうだ、そうだった!お前……」

 

その場で膝を打って、思わずスバルは立ち上がった。そして、周囲の視線を一身に集めながら、「フロップさん!」と呼びかける。

状況の変遷についていけず、目を回していたフロップは「うん?」と振り向いて、

 

「ななな、なんだい、旦那くん。正直、今僕は困惑と混乱を極めて気持ちがハチャメチャになっているよ!話にちっともついていけないまま、色々と話題が佳境を迎えている雰囲気だけがしているからね!」

 

「置いてけぼりで悪いんだが、確認させてくれ。グァラルでフロップさんが話してた、帝都のお触れ……ってか、皇帝の声明についてだ」

 

「皇帝の声明……帝都のいざこざの話かい?」

 

指を鳴らしたフロップ、彼の理解にスバルは頷く。

直後の、トッドと六回も繰り返すことになった熾烈な攻防の印象が脳に強烈に焼き付いているが、そんな話をフロップと交わしたのもグァラルでのことだ。

そのことを回想しながら、フロップが自分の長い前髪を撫で付け、

 

「火種の燻る我らが帝国、その帝都で何やら騒ぎが起こったとのことだ。今の皇帝閣下の治世になって久しいが、内乱の兆しもなく、帝国民は穏やかな日々を甘受していたよ。しかし、そこへきて今回のことだ」

 

「帝都のいざこざの話が外に波及して、その解決に皇帝自ら乗り出すって話だったんだろ?そんなの異例の発表ってことだったけど……」

 

「そうだね。事実、現在の皇帝閣下が王座につかれてから初めてのことだ。とはいえ、これまで帝国を取り回してきた実績がある。不安はないとも!ヴォラキア帝国万歳!」

 

両手を上げて、フロップがスバルの古傷を無意識に抉ってくる。

帝国兵の陣地で散々聞かされた帝国賛美の言葉だが、今は無邪気にそれに乗っかれる心の余裕がスバルにはなかった。

ともあれ、問題はその賛美ではなく、直前に語られた皇帝の動きだ。

帝都のいざこざを鎮めるため、皇帝が直々に動き出すというのは異例の事態。まして、もしも皇帝が衆目の前で号令を発するようなことになれば――、

 

「この場にいるお前は、どういう立場の誰ってことになるんだ?お前、自分が頭のおかしいイカレ野郎じゃないって証明できるのかよ」

 

「証明だと?その必要がどこにある」

 

「なに?」

 

膝を立てた姿勢で座っているアベルが、スバルの疑いを鼻で笑う。そのまま彼は自らの胸に手を当てると、己の存在を誇示するように、

 

「敵に回った無思慮のもの共ならいざ知らず、事ここに至ってまだ俺を妄言を重ねる慮外者扱いするとしたら、貴様は置かれた状況にどう説明をつけるつもりだ?」

 

「それは……」

 

「安寧を得るためだけに、自身も騙し切れぬような安直な発想に飛びつくのをやめろ。適時、符合しない可能性を排していけば、残ったものがただの事実だ」

 

アベルの物言いは厳しいが、スバルも今の理屈が苦しい自覚はあった。

目の前の鬼面の男が皇帝を騙った偽物であり、スバルも『シュドラクの民』も全員がその虚言に謀られている。それは救いようがない展開な上、考えにくい。

事実、アベルはシュドラクの力を用い、スバルから聞き出した情報を使って帝国兵との戦いに勝利している。これは虚言癖では片付けられない事実だ。

 

「だが、だったら帝都のことはどうなる?直接指揮を執るなんて話をするなら、皇帝が人前に出てこないってことはありえないだろ」

 

「ならば出てくるのだろうよ。俺とよく似せた偽物……皇帝の不在を悟られぬため、最も出来のいい影を使う。――チシャ・ゴールドだ」

 

「チシャ……?」

 

聞き覚えのない名前だが、それがアベル――否、皇帝の影武者というわけか。

帝国主義ともいうべき弱肉強食の考えが息づく国家なら、なるほど、暗殺に備えて皇帝が影武者を用いる場面も容易に想像がつく。

だが、その影武者を敵に利用され、皇帝が立場を奪われるなど本末転倒だ。

 

「黙れ、自覚はある」

 

「そうかい、こっちはおかげでいい迷惑だ。せめて帝国が安定してれば……」

 

スバルの抱える問題は、記憶のないレムに塩対応されることだけで済んだ。

エミリアたちと合流するために、ヴォラキア帝国を苦労しながら脱出する旅を繰り広げればよかったはず。それが、何の因果かこんな状況だ。

 

「あの、あのあのだね、旦那くん」

 

と、そうして苦い顔をしたスバルを呼んだのはフロップだ。

彼は端正な面持ちの眉間に皺を寄せ、かなりの急角度に首を傾げながら、

 

「さっきから聞いていて思ったんだが、何やら村長くんと不思議な話をしているんじゃないか。正直、グァラルを陥落させるという冗談も驚いているんだが……」

 

「冗談……いや、そこはいい。ええと、フロップさん、説明する気だったんだが」

 

「ああ、ぜひ説明してもらいたいね!そうでないと、僕は聞いた話を適度に鵜呑みにしてこう結論せざるを得ない!」

 

そう言って、フロップがビシッとその指をアベルに突き付ける。

そして――、

 

「そこのお面の村長くんが、皇帝閣下ではないかというありえない発想にね!」

 

「――――」

 

「おやおやおや?そこで黙られると困った気持ちになってしまうよ、旦那くん。幸い、僕は早とちりすることには定評があってね。だから、すぐに考えを撤回することもできる柔軟さを持ち合わせているんだが……」

 

「――貴様、不誠実を絵に描いたような真似をしたものよな」

 

隠すつもりなら配慮に欠けた会話だった。

故に、傍で聞いていたフロップも自然と正しい結論へと辿り着いてしまう。そして、フロップが自力で真実に辿り着いたことに、他ならぬアベルが不快感を示した。

 

アベルが視線に侮蔑を込め、「不誠実」と罵ったのはスバルのことだ。それは、シュドラクの集落まで連れてきたフロップに、何ら事情を明かしていないことへの指摘。

だが、そのことでアベルに蔑視されるのはスバルも受け入れ難い。

 

「俺が不誠実だと?お前にそれが言えたもんかよ!第一、そうペラペラと言いふらしていいもんでないことぐらい、俺だってわかる!」

 

「ならば、見極めは連れ帰る前に済ませておけ。貴様、まだ状況の把握が足りていないらしい。グァラルで敵に追われ、考える時間は十分に与えたはずだ」

 

「――――」

 

「傍らに我が身より大事なものを置いて、何故思考に妥協する。己の横に並べるつもりがないなら、初めから連れ帰るのが誤りだ」

 

我が身より大事なもの、と言われてスバルは傍らのレムを思う。

その後に続いた言葉も、スバルには身を切るように痛いものだ。――アベルの言い分は単純明快、レムを守らなくてはならない立場で、何故手を抜くのかと言っている。

無論、スバルには手を抜いたつもりも、妥協した覚えも全くない。

しかし、スバルよりはるかに深く遠くへ思考を巡らせるアベルの目から見て、スバルの考えることなど全く足りない、及ばない、話にならない。

 

事情を打ち明ける信用を置けない相手を連れ帰るなと、そう責められている。

フロップやミディアムを巻き込めないと、そう考えたスバルの甘さを暴き立て、それが馬鹿馬鹿しい考えなのだと、アベルは冷たく切り捨てていた。

 

「俺は……」

 

「――少々、僕も話の腰を折らせてもらっていいだろうか、村長くん!」

 

言葉に詰まったスバルだが、代わりに勢いよく手を上げたのはフロップだ。

彼はずずいと前に進み出ると、その場にドカッと胡坐を掻いて、真っ向からアベルの鬼面と向かい合った。

 

「それとも、村長くんではないのだろうか。何と呼んだら?」

 

「今の俺に肩書きはない。アベルと名乗っているが、好きに呼ぶがいい」

 

「そうか!では、雰囲気があるので村長くんのままでいかせてもらおう。そちらの女性陣も構わないだろうか」

 

「あア、お前は色男ダ。何でも許せル」

 

「姉上……」

 

もはや恒例の姉妹のやり取りを余所に、フロップは「感謝する!」と笑った。そうして笑ったまま、彼は自分の両膝を強く手で打つと、

 

「延々と否定してもらえなくて怖いのだが、先ほどの先ほどの話をしたい。村長くんは僕に、都市への抜け道について聞いてくれたが……」

 

「ああ、聞いた。心当たりはあるか、商人」

 

「ある!と答えしてしまいそうになるところ、申し訳ない。それがグァラルを攻撃するために用いられるなら、お答えしかねる!」

 

正面に掌を突き出して、晴れ晴れしい顔でフロップがそう断言した。

そのきっぱりとした物言いに、隣で聞いていたスバルも目を見開く。鬼面の向こう、アベルも微かに目を細めたのではあるまいか。

それぐらい、フロップの言葉には、口調に現れない真剣さがあった。

 

「――――」

 

かなり突飛な言動の目立つフロップだが、頭が悪いわけではない。

彼も、目の前のアベルの正体がやんごとない立場の人物だと推測している。肯定も否定もされないのだから、確信に近い推測と言えるだろう。

つまり彼は、推定皇帝に対して『NO』を突き付けたということだ。

 

「……それがどんな意味を持つのか、貴様は承知しているのか?」

 

「無論だとも、何者でもない村長くんよ。僕は、戦いになるというならそれを拒否する。僕自身の知識で誰かを害することも避けたい」

 

「夢物語だな。現実、害意というものは貴様の事情など顧みずに襲いくる。その全てに掌を突き出し、引き下がるよう頼み込むのか?」

 

「必要とあらば!」

 

「実行したとて、成果はない。――ここは狼の国だ」

 

そう断言するアベルの全身から、冷たく突き刺すような鬼気が漏れた。

それは力の多寡ではなく、存在としての大小が発現する恐るべき圧迫感だ。戦えばアベルを圧倒できるだろうレムも、シュドラクたちも息を呑み、身を固くする。

当然、スバルも呼吸が危ぶまれるほど威圧された。フロップも例外ではない。

しかし、フロップはその皇帝の鬼気に中てられながら――、

 

「狼の国だとて、羊も生きている。僕は狼がお尻に噛みついてくるのなら、牛車に乗って妹と逃げる。今日までそれを繰り返してきたのだよ、村長くん」

 

「――――」

 

頬を引きつらせ、それでも笑みを失わないフロップの抗弁。

それを聞いて、アベルから放たれていた鬼気が不意にほどける。途端、集会場を席巻した圧迫感が消失し、スバルも呼吸する自由を取り戻した。

だが、息継ぎする余裕ができても、スバルに心の余裕は戻らない。

 

「ふ、フロップさん……」

 

掠れた息で呼びかけるスバルに、ちらと視線を向けるフロップの笑みが眩しい。

苦笑に近いニュアンスだが、フロップの横顔に後悔はなかった。だが、彼に後悔がなかったとしても、彼を連れてきたスバルの胸に後悔は募る一方だ。

 

なにせ、フロップは真っ向からヴォラキア皇帝に反論したのだ。

それを理由に不興を買えば、シュドラクを仕切っているアベルにはフロップの身柄をどうとでもすることができる。

しかし、そんなスバルの不安と裏腹に――、

 

「――。ふやけた物言いに反して、芯が通っていると見える。厄介な輩だな、商人」

 

「そうだろうか。これでも人好きされる顔立ちだと自認しているのだけどね!」

 

「わかル」

 

鬼気を引っ込めたアベルは、フロップにその怒りの矛先を向けなかった。

それに対してフロップも、危険な綱渡りをした自覚があるのかないのかわからないような返事をしている。ミゼルダの発言にはノーコメント。

 

「先のねぎらいは取り消しだ、ナツキ・スバル」

 

「え?」

 

先ほどから、心のゆとりを取り戻せないスバルへとアベルの言葉がかかる。

鬼面の向こう、鋭い眼光を放つ男は頑ななフロップを顎でしゃくり、

 

「貴様自身の自覚の足りなさもあるが、どうせ連れてくるなら利に聡いものを連れてくるべきだったな。その方が後腐れなく済んだ」

 

「……そんな奴だったら、そもそも俺たちに良くしてくれなかっただろうよ」

 

「ふん、その見立ては正しかろうな。腹立たしいことだ」

 

先のねぎらい、とやらがフロップを連れてきたことにかかっているなら、確かにその称賛を引っ込めたくなる頑固ぶりをフロップは発揮した。

まさか、皇帝の威光に真っ向から噛みつく――否、柳のように受け流すというべきか。そんな態度を取れる人間がいるとは思いもよらなかった。

ましてや、そんなフロップの態度をアベルが許すというのも意外だ。

 

「アベルさんは、もっと我意の強い方だと思っていました」

 

「ちょっ、レム!?」

 

スバルの胸中、それを反映したようなレムの一言に思わず目を剥く。

意外と思ったのは事実だが、それを口にしても得るものはないと思って言わなかったことだった。それがレムから語られ、アベルの鬼面が彼女を向く。

鬼と、鬼面が向かい合い、両者の間に一瞬の沈黙が生じた。

 

「――信念のある人間は厄介だ。強い根を張り、幹に力を蓄えている」

 

「……どういう、意味ですか?」

 

「伝わらぬか。いい、些事だ」

 

静かな、いささかアベルらしからぬ答えにレムが眉を顰める。そのレムの反応にいくらかの落胆を示し、アベルがゆるゆると首を横に振った。

その落胆の理由は誰にもわからなかった。ただ、スバルは薄ぼんやりと察する。

 

「……もしかして、何かの引用だったか?」

 

「ほう、意外だったな。そうそう教養があるようには見えなかったが」

 

「何となくそう思っただけだ。今のは借り物の言葉っぽいって」

 

思いがけず、俗っぽいアベルの言動を聞いた驚きがあった。

しかし、当のアベルはそう看破されたことを気にも留めず、「そうか」と短く答え、

 

「先の質問だが、意外などと見くびってくれるな。第一、お前は俺に何をしろと?」

 

「……てっきり、痛めつけて聞き出すくらいはするのではないかと」

 

アベルに問われ、そう答えるレムは心証に正直すぎた。

とはいえ、スバルも思わないでもない選択肢だ。アベルがフロップを己の意に従わせようとするなら、シュドラクに命じて拷問めいたことをしても不思議はない。

だが、アベルはその言葉に肩をすくめ、「無駄だ」と答えた。

 

「確かに、時に痛みは最上の交渉手段となるが、そうして聞き出した情報の確度は恐ろしく脆い。人間、目先の痛みから逃れるためなら平然と嘘をつく」

 

「――――」

 

「それにその場合、自分が命懸けで盾になると言わんばかりの目だな」

 

じっと、自分を見据えるレムの視線をアベルはそう評価した。

見れば、頬を硬くしたレムの横顔には、愛らしさを塗り潰しかねない悲壮さがあった。その横顔は、アベルの寸評が事実であると如実に語っている。

 

「確度の低い情報を得るために、手勢を減らす愚行は冒せん。――故に、交渉だ」

 

「交渉?」

 

「商人、貴様の持ち得る知識を買う。そのための交渉とゆこう」

 

立てた膝を下ろして、どっかりと胡坐を掻きながらアベルが言った。それを受け、目を丸くしたフロップが、笑みを湛えたままアベルと向き合う。

そして――、

 

「交渉と聞くと、商人として血が沸くのは避けられない。だが!交渉を始める前にはっきりと言っておこう。僕はとても頑固なんだ。たとえ頭をかち割られても、承服できないことは承服しない!」

 

と、そう断言したのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

「頭をかち割られても、ってのはちっとも笑えねぇ。……笑えねぇよ、フロップさん」

 

直前の、交渉合戦を始めたフロップの啖呵を思い出し、スバルは苦い顔をする。

フロップにそのつもりはなかっただろうが、実際に彼の頭がかち割られるところを何度も見たスバルにとって、それは不意打ちのような言葉だった。

 

「――――」

 

目を細め、スバルは少し離れた丘から集会場の方を眺める。

集会場の中では今も、アベルとフロップの『商談』という名の交渉が行われている。

グァラル陥落のための足掛かりが欲しいアベルと、それに通ずる知識を持ちながら明かそうとしないフロップ、そういう構図だ。

 

スバルが集会場を離れているのは、交渉の主要な立場の人間に戦力外を申し渡されたからに他ならない。つまりはアベルに。

そして、スバルがその場にとどまるだけの理由を、自分自身でも提示できなかった。

 

「抜け道を利用して市内に入って、敵将の首を真っ直ぐ狙う電撃戦……」

 

追い出され、森の臭いのする風を浴びながら述懐するスバル。

話を聞いていた限り、アベルの提案する作戦の概要はそんなところだ。

シンプルだが、戦力差を覆すにはそれ以外を考えづらい手だと言える。工夫する点があるとすれば、都市の外で陽動して注意を引き付けるだとか、敵将の守りを薄くするための小細工ぐらいのものだろう。

問題があるとすれば――、

 

「シンプルな作戦は読まれやすい、気がする。……相手にトッドがいるならなおさら」

 

それ以外に手立てがないなら、当然、相手もそれを警戒する。

そして、相手に警戒される作戦とはつまり、ど真ん中に直球のストレートを投げ込むようなものだ。待っていた相手からすれば、垂涎のチャンスボール。

それをトッドが打ち漏らすとは、スバルには到底考えられなかった。

 

「それとも、俺がビビりすぎてるだけなのか?極端にトッドを……トッド以外の一般兵もあんなのだったら、勝ち目なんかないって」

 

わからない。あまりに未知数だ。だが、そうではなくてほしい。

トッド以外にも、あんなトッドのような敵が存在するなんて考えたくない。『死に戻り』との相性が最悪だったことは、最短で最多数の死を重ねたスバルは痛感している。

あれが、ヴォラキア帝国の標準だなんて考えは――、

 

「――交渉、長引いているみたいですね」

 

「――――」

 

いつしか、スバルは自分の顔を手で覆って視界を閉ざしていた。

そんな暗闇を見つめるスバルの鼓膜に、聞き慣れた少女の声――聞き慣れてはいたが、いくらでも聞いていたくなる声が届く。

しかし、それはスバルが平時の心境でいられたときの話だ。

 

「レム……」

 

顔を覆った手を下ろして、おずおずとスバルは瞼を開く。静かに、緩やかな丘の斜面に立っているレム、杖をついた彼女の視線に射抜かれ、スバルの身が竦んだ。

今は、こうしてレムと向かい合っているのが心に応える。

 

『シュドラクの民』の集落に戻るまでの日数、スバルは自分たちを罠にかけるような真似をしたアベルへの怒りに集中していられた。

そうすることで、あえてレムとの対話を避けていたとも言える。事実、それは間違いではない。レムと言葉を交わし、彼女の真意を知るのが怖かった。

だから、嫌なものから目を背け、その場しのぎをしようと試みたのだ。

でも、そうして嫌なことから逃げ続けるのにも、限界がある。

あるから――、

 

「――――」

 

今、彼女の切実な瞳と、こうして向かい合わざるを得なくなったのだ。

 

「アベルさんは色々と条件を付けているようですけど、フロップさんの方は頑として譲らない姿勢のようです」

 

「……ああ、立派な人だよ。自分の知識で誰かを傷付ける手助けをしたくない。シュドラクの人たちに囲まれてて、そう言える度胸もすごい」

 

交渉の推移はしばらく見守ったが、フロップの頑固さは自己評価の通りだった。

話し合いの焦点はやはり、都市グァラルにおける被害――人と物、どちらに対しても、フロップは譲るつもりはないという姿勢を示した。

アベルも可能な限り人的被害を減らすと提言したが、それも決定打にならない。

 

平行線だ。

そして、頑として言い張るフロップの姿に、スバルは安堵してもいた。

 

戦いを厭い、アベルに真っ向から反論する。

そんな人間が、この場に自分以外にもいてくれた現状に。

しかし――、

 

「立派な人と、そう単純に言える状況ではないと思います」

 

「……なに?」

 

そう、フロップの態度を肯定的に捉えるスバルと裏腹に、レムは静かな、しかし強い非難を滲ませながら呟いた。

その言葉の強さに驚いて、スバルは思わずレムを見つめる。顔向けしづらいと、そう背けようとしていた視界、レムは真っ直ぐスバルを見ていた。

真っ直ぐスバルを見つめたまま、言葉を続ける。

 

「自分の知識で誰かを傷付けたくない。その気持ちはわかります。でも……フロップさん自身も含めて置かれた状況を思えば、自分の知識を明かさないことで生まれる被害はどう捉えるんですか。それも、知識が誰かを傷付けたと言えるのでは?」

 

「それは、それは屁理屈ってもんだろ。フロップさんが話さないことで生まれた被害まで、全部フロップさんにおっ被せるなんて、ただの言いがかりだ」

 

「そうですね。でも、どこまでも逃げるというのは現実的ではないと思います」

 

ここが狼の国だと告げたアベルに対して、羊は逃げると宣言したフロップ。

それが夢物語であると、レムは悲観的に――否、現実的にものを言った。彼女も、グァラルへ足を運んだ一人。帝国兵の執拗さは身に染みている。

あの過酷な追跡を、はたして今後も振り切れるだろうか。

 

漠然とした害意ではなく、明確な敵意を向けられた状況下で、フロップはミディアムと共にどこまでもどこまでも、逃げ切ることができるのか。

そして、同じ運命共同体のスバルたちも、どこまで――。

 

「待て、待てよ、レム。お前の言ってることは無茶苦茶だ。戦いは、お前も嫌だって言ったじゃないか。なのに、お前のその口ぶりは……」

 

「――――」

 

「まるで、戦うことを受け入れてるみたいな口ぶりだ」

 

喉が震えて、スバルはうまく言葉が出ない。

だが、目は口ほどに物を言うという言葉があるように、このときのスバルとレムの危うい対話は、言葉だけでなく、その眼差しも心情を語っていた。

そこに宿った悲壮な色は、アベルに対して、フロップを庇い立てするように反論したときと同じもののようにスバルには見えた。

 

「……お前がわからなくて、俺は辛いよ」

 

そのレムの態度を見て、スバルは心中に浮かんだ感情をそのまま吐き出した。

自分の信念に従おうとするフロップを非難するようなことを言い、しかし、信念を示した彼を庇ったときと同じ光を宿した瞳でスバルを見る。

アベル相手にスバルを庇ったり、でもグァラルの宿では荷解きをしなかったり、目覚めたレムとスバルのやり取りは、いつもちぐはぐで一方通行だ。

 

彼女が目覚めてくれて、心底嬉しい。

記憶が戻らないことの悲しみは、何らかの解決手段が見つかると信じている。

でも、誰も心から頼ることができない帝国の中、エミリアたちの下へ連れ帰らなくてはならないレムの非協力的な態度は、スバルの足を刃のように突き刺すのだ。

そのたびに、痛みで蹲ってしまいそうになる。

 

「……お前は、グァラルの宿屋で荷解きしてなかったよな。おかげで逃げ出すまでの時間を短縮できたけど、ずっと引っかかってた」

 

「あれは……」

 

「宿についたら、大抵の人間は体を楽にするか、荷物を片付けるもんだと思う。そりゃ、お前がそれに当てはまらない可能性だってあるさ。だけど……」

 

その先は、口にしたくなかった。

目を背けたままでいられるならそうしていたかったが、レムの不可解な態度への言及を避けられないと感じた今、目を背け続けられなかった。

だから――、

 

「だけど、お前はまた、俺から逃げようとしてたんだな」

 

「――――」

 

レムの沈黙が突き刺さり、スバルは自分の心が血を流すのを感じる。

だが、一度めくったカサブタはもう役目を果たさない。血が流れ、傷が露出することも厭わず、めくり切るしかない。痛みを、堪えて。

 

「俺を……俺を信じられないのは、いい。辛いけど、わかる。記憶が何にもない状態で、お前からは俺が許せない奴の臭いがしてて、信じろって言える根拠が何にもないんだ。俺を信じられなくて、遠ざけたい理由はわかるんだ」

 

「――――」

 

「でも、お前の帰りを待ってる……お前を大事に思ってる人がいるのは本当なんだ。俺が嫌いなら、口を利かなくてもいい。手を振り払われても我慢する。だけど、離れていこうとするのはやめてくれ」

 

「――――」

 

「頼むから俺を……俺を、お前の人生から閉め出さないでくれ」

 

そう、懇願する声は震え、瞳は浮かんだ涙で曇りそうだった。

じわりと滲む涙滴は、自分への情けなさとレムへの請願と、いったいどれが理由で浮かんできたものなのか、自分の中でも判然としない。

 

ただ、情けない限りだった。噴飯ものだ。

仮に見限られていなくても、この懇願が理由で見放されてもおかしくないぐらい。

 

――どうしようもない、情けない姿を、レムの前では晒してばかりいる。

 

エミリアやベアトリス、他の仲間たちには決して見せられない姿だ。

少なくとも、スバルはそれを意図して仲間たちに見せまいと努力してきた。実際にそれができていたかはともかく、そうしてきた。

自分が弱さを見せるのは、レムの前だけなのだと、そう決めていたから。

 

だがそれは、記憶がなく、頼りのない、異郷の地で心細い思いをしているレムに、ナツキ・スバルという重荷を背負わせたいという意味では決してない。

 

「――――」

 

みっともないスバルの懇願を聞いて、レムは何も言ってくれない。

それでも、滲んだ涙でぼやけそうになる視界、スバルは彼女から目を離さなかったし、彼女もスバルから視線を逸らそうとしなかった。

そして、しばしの沈黙が二人の間を包み――、

 

「――あなたを」

 

「――――」

 

「あなたを、見限ろうとしたわけでは、ないです」

 

そう、レムはたどたどしく、言葉を選びながら言った。

それはここまで、レムがスバルに一度として見せようとしなかった態度だった。

 

警戒すべき対象であるスバルを気遣い、傷付けまいとする発言。

それも、苦し紛れの口から出任せではないと、そう信じさせる響きがあった。あるいはそれすらも、スバルの希望でしかないのかもしれなかったけれど。

 

「お前は……」

 

そのか細い希望、縋るべきではない糸くずを頼りに、言葉を選ぼうとするスバル。

レムが何を思い、何を願い、何を信じてそれを口にしたのか。

その答えを知るべきなのか、それすらもわからないまま、ただ彼女の声をもっと聞いていたくて、スバルが言葉を続けようとする。

しかし――、

 

「あーうー!!」

「ぐおっ!?」

 

それより早く、腰のあたりを衝撃に飛びつかれ、スバルの体が横にブレる。

一切、自分の体を支えられないまま吹っ飛び、スバルは丘の上に盛大に転がった。直前の雰囲気を粉々に砕かれ、目を回したスバルが何事かと目を剥くと、

 

「ルー!スーの上に乗っかるのよくなイ!ウーは止めタ。ルーが勝手にやっタ」

 

「う、ウタカタ……?ってことは、これは……」

 

とてとてと、コミカルに思える足音を立てながら駆け込んできたのは、褐色の顔色をほんのりと染めたウタカタだった。そして、そのウタカタに袖を引かれ、スバルの胸の上に跨って座っているのは、長い金髪を頭の後ろでまとめた少女――、

 

「ルイちゃん、下りてください。その人が潰れます」

 

「うー?」

 

喜色満面の表情に疑問符を浮かべ、レムの言葉に首を傾げたのはルイだ。

ルイはスバルの胸の上に尻を乗せたまま、悪気のない顔でぺしぺしとスバルの頬を撫でている。その、悪意のない素振りがそもそもスバルの癪に障るのだが。

 

「こっちは大事な話をしてんだ。今すぐ下りろ」

 

「あー?」

 

「あーじゃない。ウタカタ、頼む」

 

「スーの頼みだから聞ク。ウー、良妻賢母」

 

言葉の意味を理解しているのか、ウタカタがルイの腕を引いてスバルの胸の上から引っ張り上げた。そうして圧迫感が消え、スバルはその場に体を起こす。

それでも、不満げなルイの顔が目の前にあって、スバルは閉口する。

 

「結局、お前が何なのかも答えは出てねぇってのに……」

 

大罪司教、邪悪なる存在、『暴食』、ルイ・アルネブ。

目の前の金髪の少女を装飾する言葉なら、悪言雑言はいくらでも思いつく。だが、その全てが当てはまる存在だった彼女は、目の前の少女と重ならない。

あの邪悪な少女は、スバルを助けたり、案じたり、無防備に笑いかけたりしなかった。

だが――、

 

「うー?」

 

首を傾げるルイの、これまでの行動がスバルの脳裏を過る。

レムに首を絞められたところを助けたり、その後もスバルの窮地に声を震わせて幾度も立ち向かった。直近では、斧を手にしたトッドにさえも。

彼の肘鉄を受け、鼻血をこぼしていた姿は記憶に新しい。

傷が残らず、ルイもその影響が全く残っていないような顔をしているのが憎たらしくも思えるが――、

 

「ルイちゃん」

「うー!」

 

そう呼びかけられ、ルイがパッと破顔してレムの下へ駆け寄る。

杖をつくレムへの飛びつき方を学んだのか、勢いのありすぎないルイの飛びつきを受け止めて、レムは彼女の頭を優しく撫でた。

レムの、今の状況の一端を担った大罪司教、その一部であるルイ・アルネブを。

 

「あなたのその目が……」

 

「あん?」

 

「あなたのこの子を見る目が、私を惑わせもします。この子は、あなたにこんなに懐いているのに、あなたは」

 

「――――」

 

ルイの小さな体を抱きながら、レムがそう呟くのにスバルは沈黙する。

それは、先の続かなかった言葉の続きなのだろうか。あのグァラルで荷解きしていなかったレム、その明かしかけた真意の続き。

だが、待てど暮らせど、レムはそれ以上の言葉を紡ごうとせず、ニコニコと笑っているルイを自分の胸に包み込んでいるだけだ。

 

「……お前は、俺にどうしてほしいんだよ」

 

そんなレムを見ながら、いよいよスバルは末期的な言葉を選んで言った。

それは、答えをレムに委ねる卑怯な物言いだったかもしれない。しかし、スバルの選んだ言葉も行動も、何もかもがレムに撥ね除けられるなら、これしかなかった。

レムが何を望み、どうしてほしいのか、それを直接聞くことだ。

 

その上で、彼女の弾き出した答えがスバルに叶えられないことなら、そのときこそ関係の隔絶なのかもしれないと、そう怯えながら聞いた。

そして、そのスバルの物言いに、彼女はしばし息を詰めて、

 

「……戦いになるのは、嫌です」

 

と、そう言った。

それ自体はスバルにも呑み込める。実際、彼女は帝国の野営地が焼かれた際も、それをスバルが主導したと考え、強い剣幕で食って掛かってきた。

レムは、戦いを望まない。好まない。それは間違いない。

 

だから、彼女の言い分は何も変わっていないと納得できた。

しかし、そうして得心しかけたスバルに、レムはさらに続ける。

それは――、

 

「でも、逃げ続けることもできないと、そう思います。フロップさんの言葉は現実的ではないと。そして……」

 

「アベルの意見も肯定できない?」

 

「……はい」

 

小さく顎を引いて、レムがスバルの問いかけに頷いた。

その、おずおずとした首肯、それは彼女自身も自分が無茶なことを言っていると自覚している証――当然だろう。

 

戦いたくないというフロップの意見を肯定しながら、戦わざるを得ないというアベルの意見にも賛同する。それは、日和見主義の権化ともいうべき思想だ。

正直、スバルだって、そんな風見鶏な意見が通るならどれほどいいかと思う。

 

戦いたくはない。だけど、戦わなくてはならない。

人の命を奪いたくない。それでも、奪わざるを得ない戦いを目前とする。

そんな、命を取り巻く二面性とぶつかり合わなくてはならないなら。

 

「あなたなら……」

 

「あ?」

 

苦々しい顔をして、レムの抱いている反目した考えに賛同するスバル。だが、そうした懊悩を抱えているスバルに、ちらとレムが視線を向けてくる。

彼女はその胸にルイの頭を抱いたまま、頼りない薄青の瞳をスバルへと向けた。

そして、息を呑むスバルに、今一度、小さく決意を固めたように――、

 

「――あなたなら、どうにかできますか?」

 

と、まるで縋るように聞いてきたのだった。

 

「――――」

 

その問いかけを受けた瞬間、スバルは稲妻に打たれたように硬直する。

それは、それはあまりにも、あまりにも無体な問いかけだった。

 

自らを卑怯と、臆病者と、そう定義したスバルと比べてもなおひどい問いかけ。

戦いたくない気持ちと、戦わざるを得ないとわかっている気持ち、そのどちらの選択肢でもない第三の答え。――それを、レムはスバルに求めている。

 

何故なのか。

何もかもを忘れ、ナツキ・スバルへの信頼と慈しみを失い、スバルの取り巻く悪臭を理由に警戒と嫌悪を抱く彼女が、何故にスバルにそれを尋ねるのか。

 

何故に、レムはスバルへと縋るような眼差しを向けてくるのか。

 

「――――」

 

その、ひどく一方的な、身勝手とも言える問いかけが、ナツキ・スバルを熱くする。

怒りを覚え、声高に罵り、彼女の甘えを糾弾したってきっと許された。

そのぐらい、レムの選んだ選択は自分本位なものだったはずだ。

 

だが、その瞬間のスバルに芽生えたのは、魂の奥底から湧き上がる使命感だった。

 

「俺は……」

 

戦わなくてはならない。

抗わなくてはならない。

今ある現実を、打ち砕かなくてはならないと、そう感じる。

 

戦いを忌避し、自らの知識の開帳を拒否したフロップ・オコーネル。

避けられぬ戦いに備え、生存を勝ち取ろうとするヴィンセント・アベルクス。

 

置かれた状況の中、必然とも言える選択肢を握った二人。

その二人と異なる答えを、道筋を、見つけ出さなくてはならないナツキ・スバル。

それは何故なのか。それは――、

 

「――俺が、レムの信じた英雄だからだ」

 

そして、諦めの悪さだけを武器に、この異世界で戦い続けてきた男だから。

たかだか、国境を跨いだぐらいで通用しなくなる哲学が、今日までのナツキ・スバルを歩ませてきたわけではない。そう信じている。

 

エミリアと出会い、彼女に救われ、彼女を救うために駆け抜けた日々が。

ベアトリスの手を握り、禁書庫から連れ出し、共にあると決めた誓いが。

 

レムを救い、救われ、愛され、その信愛に応えると自らを定義した今が。

 

――ナツキ・スバルに、この限られた状況を変えろと血を熱くする。

 

何か、何かが、何かがあるのではないか。

ルグニカ王国で過ごした日々が、ヴォラキア帝国へ飛ばされてからの日々が、出会った人々が、対峙した敵が、傍らに立つ誰かが、彼方へ構える誰かが、材料となる。

 

考えろ、思考しろ、想像し、ありえる可能性を掴み取れ。

この、ありとあらゆる全ての人間が自分より勝っている世界の中で、ナツキ・スバルに唯一残されている戦う手段――それは、生き汚さと小賢しさだけだ。

ならば、ならば、ならば、ならば――。

 

「――ぁ」

 

無力感に打たれ、敗北感に支配され、為す術なく集会場を離れたスバル。

そのスバルの脳裏に、電撃的に浮かび上がった考えがあった。

それを、悪ふざけのようなその可能性を手繰り寄せ、スバルは確かな計画へと昇華することとができるか、真剣に吟味する。

 

「――――」

 

その押し黙るスバルを、じっとレムの瞳が見つめている。

彼女は騒ぎそうになるルイの口元に手を当てて、傍らで首を傾げるウタカタが余計な言葉を漏らさぬように押さえながら、スバルを見つめる。

 

記憶がないはずの彼女が、記憶があった頃と同じような眼差しで。

ナツキ・スバルが、余人に辿り着けない回答へ辿り着くと信じているかのように。

そして――、

 

「――レム」

 

口元に手を当てたまま、そう呟いたスバルにレムが姿勢を正した。

返事はない。それを求めていないことを、どうやってか彼女も理解してくれていた。

だが、そのレムの反応に気付けないまま、スバルは静かに息を詰めて、続ける。

 

「俺だったらどうするか、その答えを見つけたよ」

 

△▼△▼△▼△

 

のしのしと、硬い土を踏みしめながら進み、集会場の扉を押し開いた。

そして、姿を見せたスバルを見やり、鬼面の男が不愉快そうに鼻を鳴らす。まるで、お呼びでないとでも言いたげな態度で。

 

「なんだ、ナツキ・スバル。建設的な意見の出せぬ貴様の出る幕はないぞ」

 

実際、お呼びではないとそう言われ、しかしスバルの足は止まらなかった。

フロップの不敬を許しても、信念を持たぬスバルの不敬を許すとは思えないアベル。集会場に残った面々の視線を浴びながら、スバルは真っ直ぐに足を進めた。

そして、そのままアベルの傍らに立って、その鬼面を間近で見下ろしながら、

 

「話に進展はあったか、傲慢野郎」

 

「――――」

 

手を伸ばし、スバルは無理やりにアベルの顔から鬼面を引き剥がす。

その躊躇いのない仕草に、ミゼルダや他のシュドラクも目を見開いた。初めてアベルの素顔を目にしたフロップも言わずもがなだ。

 

だが、それらの反応は目に入らない。

そのスバルの問いかけに、アベルは背筋に寒気さえ走る魔貌を酷薄に歪め、「いや」と小さく首を横に振ると、

 

「交渉は難航している。思いの外、この商人は身持ちが固い」

 

「そうかよ。だったら、口説くのが下手くそなお前の代わりに、俺が口説いてやる」

 

「なに?」

 

形のいい眉を顰め、そう呟いたアベルの顔を小気味いい気持ちでスバルは見下ろす。

それから、スバルはフロップの方へと向き直った。

 

断定されてないため、推定皇帝と真っ向からやり合っていたフロップは、そのスバルの表情と態度の違いに面食らいながら、「旦那くん?」とスバルを呼んだ。

そして、それぞれ違った形の疑念を浮かべる二人に対し、スバルは告げる。

その内容は――、

 

「――グァラルを無血開城させる計画がある。血の流れない戦いになら、お互いに歩み寄れる算段も成り立つんじゃないか?」