『次はきっとお茶会を』


――未来を見た。

 

『――がなければ、剣も振れぬか。盗人がァ!!』

 

『ほら、見よ。また、妾の勝ちじゃ』

 

『スバルもエミリア姉様も、疲れちゃったよね。ごめんね。なのに私まで、重荷になっちゃう。ごめんね。ずっとずっと、足りないお礼を言い続けてあげたかった……』

 

――色とりどりの光は、触れるたびにエミリアに違う未来を見せ続ける。

 

『これほど殺したいと思った相手が優しい人だったなんて、とんでもない悪夢だわ』

 

『口にしてはならない、想いもある。それを明かした結果が、これなら満足なのか?』

 

『これで、約束を果たした気でいるんですか?だとしたら……だとしたら、僕はあのとき、あの竪穴で簀巻きになって死んでいればよかったんだ!こんな……こんな夜明けを見るぐらいなら、終わっておくべきだった!畜生、畜生!』

 

『ごめんなぁ。俺が弱いせいで、ごめんなぁ。殺してやれなくて、ごめんなぁ。これでもうずっと、――は永遠に一人だ。俺が、弱くて、ごめんなぁ……』

 

――慟哭が、怒号が、終焉が、再生が、別れが、出会いが、様々な形で提示される。

 

『うむ、うむ……儂の、自慢の孫は……良い子に、育ったじゃろう……』

 

『断じて、呪いなどというわけのわからないものに殺されるのではない!』

 

『ただ、気付いただけだよ。……これまでの日々、一人で歩いてきたわけじゃーぁなかったということに』

 

『どうして……魂が宿らないのぉ!?』

 

――未来には、絶望しかないのだろうか。悲しみと、苦しみ以外には何もないのか。

 

『約束通り、殺しッてやらァ!あァ!?ナツキ・スバルぅぅぅッ!!』

 

『そんなにウチが欲張りなん?贅沢なこと言ってる?誰も死ぬな、誰も泣くな……何が、そんなに難しいん?』

 

『所詮、わたくしたちは血の一滴まで、贖いのために流し尽くさなくてはなりませんのね』

 

『善悪も好悪も良いも悪いもくだらねーよ。アンタはそこで足踏みしてろ。アタシは……アタシらは、魔女だろーが龍だろーが、道を塞ぐんならぶっ潰す』

 

――ならば、この道は間違っているのか?願うことは、誤りなのか。

 

『――お願いをするために祈るのは傲慢だと思うんです。祈るのは、許しを得るとき』

 

――最後の光の世界で、目覚めて喋るところを見たことがない少女がそう言っていた。

 

彼女とはちゃんと、言葉を交わしたいなと思った。

全てを否定するのを拒むのに、その気持ちだけで十分だった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

視界が開けたとき、エミリアは自分が風そよぐ草原にいることに気付いた。

 

小高い丘に白いテーブル。自分の体もまた白い椅子の上にあり、瞬きの数瞬前に何があったのかが思い出せない。ただ、まだ自分が夢の世界にいることはわかった。

 

「エキドナ?」

 

こうして『試練』終わりに自分を出迎えるとしたら、それは監督者であるエキドナ以外にありえない。彼女の姿を探して、エミリアは周囲に視線を送る。

しかし、どこまでも続く草原は地平線まで見えているのに、人の気配らしいものや遮蔽物はどこまでいっても見当たらない。仮にこの場所を離れて歩き出してしまえば、二度とこの白いテーブルを見つけ出すことができなくなってしまいそうなほど。

 

「…………」

 

自分の体が確かにここにあるのに、地平線の彼方へ落ちてしまいそうな不思議な感覚。エミリアは落ち着くために深呼吸して、誰もいないのであれば動こうと判断する。

ひょっとしたら、どこかに出口があるのかもしれない。それを見つけ出し、ここを出よう。ここで無為に時間を過ごしても、何も得るものはない。

と、

 

「昔っからなんだけさ、はぁ。どうしてこういう場合は、ふぅ。御鉢があたしに回ってくるのかね、はぁ。そこのところ、どう思うさね、ふぅ」

 

「……ぁ」

 

テーブルの対面に突如として現れた毛玉を見て、エミリアの動きが止まった。

立ち上がりかけていた姿勢のまま、愕然と目の前の存在を凝視する。

 

思わず、息を呑んだ。

 

「うん……わかりやすい反応さね、はぁ。それが正しい反応ってやつだろうね、ふぅ。あの坊やが、ちょいっとばかり鈍感だっただけさね、はぁ」

 

「――――」

 

言葉を作るごとに陰鬱なため息をこぼす人物。

赤紫の髪を膨大な量に伸ばし、着たきりの黒いローブを羽織った気だるげな女性だ。言葉にも棘がなく、あくまで自然体の様子。

 

――それなのに、エミリアは喉笛を握られているような圧迫感を味わっていた。

 

何か一つ、相手が気紛れを起こせば即座に首から上が消えてなくなる。

自身の過去を取り戻し、一人の肉体には収まり切らない莫大なマナを操れるようになったエミリア。単独戦力として以前と比較にならないほど飛躍的に能力を上げたエミリアの目から見ても、目の前の人物と自分ではお話にもならない。

小蠅を払うような容易さで、エミリアは殺される――それがわかった。

 

「そう、警戒する必要はないさね、ふぅ。あたしは危害を加える気も、加えられる気もないのさ、はぁ。そういうの、面倒だからね、ふぅ。だってのにエキドナの奴が、どうしても顔を合わせたくないって押しつけて、はぁ。きたわけさね、ふぅ」

 

「そ、そうなの……」

 

おずおずと、女性の言葉にエミリアは顎を引く。

今も、女性を取り巻く圧倒的な気配は失われていない。容易く自分を打ち滅ぼせる存在であることは変わっていない。だが、その気になれば殺されることに代わりがないのであれば、怯えていてもいなくても同じことだ。

深呼吸、息を止めて、吐く。そして、エミリアは自分を無理やり落ち着かせた。

 

「それで、エキドナの代わりってことは……あなたも、魔女なの?」

 

「――。なるほど、はぁ。思ったよりは肝が据わってるわけさね、ふぅ。いざって場面で物怖じしないとこは、はぁ。母親に似てるかもしれないさね、ふぅ」

 

「私の母様のこと、知ってるの?」

 

「言えないけど、知ってるさね、はぁ」

 

思わぬ繋がりにエミリアは息を呑むが、女性はきっぱりとそう言って疲れ切った顔だ。追及しても、おそらくは引き出すことはできないだろう。

いずれ、という気持ちこそあれ、エミリアはひとまず母親の問題を棚上げする。過去を見て、ありえない今を見て、フォルトナとジュースの輝きが今、胸にある。

今は、とりあえずそれだけで十分だ。

 

「エキドナの代わりのあなたのこと、なんて呼んだらいいの?」

 

「駄々をこねない子は好きさね、ふぅ。テュフォンにも見習わせたいとこだよ、はぁ。あたしの名前はセクメト、ふぅ。お察しの通り、怠惰の魔女って奴さね、はぁ」

 

テーブルの体を預けて、顔だけ立てたセクメトは薄く微笑む。

目の下の隈や、不健康そうな顔色などが気になるが、整った顔立ちの綺麗な女性だ。それでも、『魔女』という単語と放たれる鬼気から並々ならぬ人物であることは想像がつく。

 

「今の世で、ふぅ。あたしら魔女の名前がどんな風に伝わってるかなんて、はぁ。興味がないからどうでもいいさね、ふぅ。あたしはただ、頼まれ事をとっとと片付けてまた自堕落な眠りに、はぁ。落ち着きたいだけなのさ、ふぅ」

 

「あの、そんなに億劫なら……他の人じゃダメだったの?エキドナが嫌なら、エキドナじゃなくてもいいんだけど……他の、魔女もいるんじゃ?」

 

「他の連中だと、はぁ。会話にならないのさ、ふぅ。こういうとき、まともに会話が成立しそうなミネルヴァは、はぁ。あんたと合わせる顔がないってきてる、ふぅ」

 

「ミネルヴァ……」

 

会話の合間合間でため息が入るため、テンポが悪いセクメトの言葉。ただ、そんな彼女でも他の魔女より会話になるという話なのだから、他の魔女の性格を想像すると恐い。

そんな感想も、聞かされたミネルヴァという単語への感慨で塗り替えられる。

 

「ミネルヴァ……」

 

もう一度、口の中だけでエミリアは呟き、その響きに首を傾げた。

なんでか、それがひどく懐かしい記憶を刺激するような気がしたのだ。かといって、これまでの思い出の中にも、蘇った記憶の中にもそれを聞いた覚えがない。

でもひどく、親しくしていた誰かを思い起こさせるような不思議な名前だった。

 

「まあ、ここにいない人間の話をしててもしょうがないさね、はぁ。ともあれ、あたしはエキドナからの言伝を渡すだけ、ふぅ。それを聞いて、『試練』を終えるかどうかの結論はそっちに委ねることとする、はぁ。使われるのも楽じゃないさね、ふぅ」

 

「えっと、お疲れ様……?」

 

「気遣いだけ受け取っておくことにするよ、はぁ。じゃ、心してききな、ふぅ」

 

考え込んでいたエミリアを呼び戻し、セクメトはテーブルの上で頭を反対に倒す。それからじと目でエミリアを見つめて、ため息まじりに右手をテーブルに乗せた。

 

「三つ目の『試練』で、はぁ。あんたは未来を見たはずさね、ふぅ。その未来は、あんたがこの墓所を越えると、はぁ。そう決めた未来で、起こり得る可能性の未来、ふぅ」

 

「可能性の、未来」

 

「全てを見る可能性もある、はぁ。逆に一つも見ない可能性もある、ふぅ。ただ、目にした未来が良くない未来だったことは、はぁ。エキドナの性格からして間違いないだろうってのはあたしにもわかるさね、ふぅ」

 

エキドナが他の魔女にどう思われているのか、少なくともセクメトはエキドナが意地悪な性格だと判断しているらしい。エミリアからは、あまり何も言えない。

 

実際にはセクメトはエミリアの想像より、もう少し悪しざまにエキドナのことを評価しているのだが、エキドナを『意地悪な魔女』と判断しているエミリアに、それ以上の悪い評価を求めるのは難しい話だった。

 

「未来は無限に分岐し、可能性は派生するもんさ、はぁ。それでも、今しがた見た未来は実現する可能性が濃い悲劇の種ってわけ、ふぅ。それが芽を吹き、蕾をつけて、どんな大輪の花を咲かせるか……はぁ。みんなを不幸にするかもしれない毒花を咲かす道を、わざわざ望んで歩く覚悟は、あるのかい……ふぅ」

 

「――――」

 

押し黙り、エミリアは真剣な目でセクメトを見ている。

セクメトは長台詞を喋ったことに疲労を感じた顔をしていたが、エミリアの視線に気付くと眉を寄せた。

 

「……あたしはもう、質問は投げかけたと思ったんだけどね、はぁ」

 

「え、あれ?今のが質問なの?それに答えたら、『試練』は終わり?」

 

「そういうことになるさね、ふぅ。……確かに、あんたの目的を思えば、ここまでこれた時点で『試練』自体は終わっているようなもんだったね、はぁ」

 

消化試合の雰囲気を漂わせるセクメトに、エミリアは苦笑する。

悪気があったわけではない。ただ、あまりにも呆気ない出題だったものだから驚いただけだ。だってその問いかけに、エミリアがどう答えるかなんて決まっているだろう。

 

「みんなが悲劇で終わる世界。それを見る覚悟なんて、ないわ」

 

胸を引き裂かれるような、心を掻き毟られるような、そんな記憶が思い出される。

暗闇の世界で、色とりどりの光の中で、感情の慟哭をエミリアは何度も聞いた。

 

「みんなが、悲しい結末を迎えるかもしれない未来。この一つ前の真っ暗な世界で、私もそれをたくさん見た。みんな泣いてたし、苦しんでたし、怒ってた。何が起きたのか、細かいことはわからないけど、あんな未来は見たくないと思ったわ」

 

「……でも、このままの道を選ぶなら、ふぅ。そうなる可能性が高いってのは太鼓判を押してもらえるもんさ、はぁ。嫌なら、逃げるかい?ふぅ」

 

「違うわよ。嫌だから、立ち向かうの」

 

首を横に振って、エミリアは目を細めるセクメトに胸を張った。

圧倒的な鬼気に呑まれそうになりながら、エミリアの気勢は折れることはない。

後ろにへこたれそうになれば、母と父の思い出が支えてくれる。そして諦めて下を向きそうになれば、そうならないように声をかけてくれる人がいる。

 

「悲しい未来があるんなら、走っていって避けちゃうの。それでもダメそうになったら、勢いをつけて飛び越える。落っこちてる人がいるなら、頑張って引っ張り上げる。それを繰り返していけば、さっきの涙も全部きっと拭ってあげられる」

 

「ずいぶんと、自信ありげに無鉄砲を語るもんさね、はぁ。口先だけの好都合、調子いいこと言って失敗があったらすぐ折れる、ふぅ。そうなるんじゃ、ないさね、はぁ」

 

「一人だけだったら、そうなったかもしれないわ」

 

小馬鹿にするようなセクメトの言葉に、エミリアは怖じずに応じる。

ある意味、他人を頼りにするという他力本願な姿勢。だがそれは、エミリアにとって何よりも難しく、これまでの一度も自ら選ぶことができずにいた選択肢だ。

 

「――――」

 

それを受け、セクメトは一度、ポカンとした顔をする。

それからすぐに顔を俯かせ、テーブルと髪の毛で表情を隠しながら、

 

「ぷ、くふ……はっ、はははは!あぁ、そうさね!そういうさね!そうだろう、そうだろう、今のあんたならそう答えるだろうさね!ああ、おかしい!」

 

「そんなに面白い答えだったかな?」

 

「あたしにとっては痛快さね、はぁ。いいかい?ふぅ。エキドナの奴はね、はぁ。この『試練』ってものに挑んで、挑んだ奴が一人で過去や今や未来に悩み苦しんで、ふぅ。どんな答えを出すのかってことに楽しみを見出す、はぁ。死んでからも度し難い変態だったのさ、ふぅ。その目論見の崩れる日が、こんな形で……はぁ。痛快じゃないさね、ふぅ」

 

セクメトは大きな声を上げて笑い、苦しげに息をしながら上機嫌に語る。顔を上げて体を起こし、背もたれに体を預けながらだが正面からエミリアを見た。

その瞳に懐かしげな光を宿し、セクメトは笑みのまま、

 

「一人で受けること前提の『試練』に、はぁ。一人で挑まないのがあんたの答えってわけさね、ふぅ。――エキドナの奴が聞いたら、真顔で負け惜しみを言うさね、はぁ」

 

「そう。そんな答えが返せたんだ。……うん、その顔は私も、すごーく見たいと思うの」

 

「あれは負け惜しむ女だから、その顔はあんたには見れそうにないさね、ふぅ。それに関しちゃあたしら夢の住人だけの特権とさせてもらうよ、はぁ」

 

「ずるいわね」

 

エミリアが唇を尖らせると、セクメトはますます楽しげな顔をした。

それはまるで、十年来の古い付き合いのある友人同士が言葉を交わしているような、そんな和やかな喜びに満ちた姿に、傍目からは見えたかもしれない。

 

「ただ、その代わりと言っちゃなんだが、あたしの裁量で『試練』の結果を与えてやるさね、はぁ。もちろん、文句どころか花丸つけて合格ってやつだけどね、ふぅ」

 

「そんなに簡単に、いいの?」

 

「まごついた答えやら、大仰な演出が欲しかったかい、はぁ。それなら、残念だけどあたしに期待するのは間違ってるってもんさね、ふぅ。いずれにせよ、今の監督者はあたしさね、あたしの答えが答えさ、はぁ。……『試練』は、無事に終わりだよ、ふぅ」

 

長い息をつきながら、セクメトが軽く指を鳴らす。一度では綺麗に鳴らず、二度、三度と繰り返してようやくそれなりの音が鳴ると、エミリアの背後から風が吹いた。

銀髪を揺らされるエミリアが振り返ると、丘を下ったところに扉が一つ現れている。どこに繋がっているようにも見えないその扉が、夢の世界の外に繋がるものだとエミリアには直感的にわかった。

 

「あのドアから外に出たら、『試練』は終わり……ってことなの?」

 

「そうさね、はぁ。おめでとう、ふぅ。四百年間、はぁ。墓所が作られて、エキドナの『試練』が機能するようになって以来、誰も踏破できなかった『試練』さね、ふぅ。まあ、そもそも挑戦者自体がほとんどいなかったわけだけどね、はぁ」

 

「……そうよね。『聖域』に入る人もあんまりいないし、『聖域』に入って閉じ込められる人の条件って、意外と厳しいもの」

 

「それもあるが……ああ、まあいいさね、ふぅ。どっちにしろ、終わりなんだから、はぁ」

 

微妙に言葉を濁したセクメトが気にかかったが、エミリアはそれを追及しない。それよりも、『試練』が終わりと聞いたことの高揚感の方が上だ。

正直なところ、達成感じみたものはまだない。実感が湧かないのだ。第一の過去の『試練』であれほど躓き、一時は無理だと自暴自棄にすらなりかけた『試練』。

 

負けない、と強い覚悟を固めてきたつもりではあったが、それにしても。

 

「納得いってない顔、してるさね、ふぅ」

 

「えっと、すごーくちょっとだけ。気になるかなって」

 

「なんだかんだで、エキドナも解けない問題は出さないさね、はぁ。それだけって言ったら違う話だが、それだけみたいなもんだよ、ふぅ」

 

魔女が、同じ魔女がそう言うのならそういうものなのだろう。

エミリアは不承不承、顎を引いて納得の構え。セクメトはちらとそんなエミリアを窺った後で、テーブルの上に差し出した右手を小さく振った。

 

「後ろの扉から、はぁ。外に出たら、夢の城からはおさらばさね、ふぅ。それはつまり『試練』の終わりを意味する、はぁ。墓所で今、『試練』を受けた部屋の奥の、ふぅ。扉の中を臨む資格を得るってことでもあるさね、はぁ」

 

「小部屋の中の、扉。うん、あった。あの中に入れる……あの中には何があるの?」

 

「墓所の機能を維持する機構があるのさ、ふぅ。それを止めて初めて、はぁ。『聖域』はその役割を終えることになる、ふぅ。止め方は、入ればわかるよ、はぁ」

 

「墓所の機能を止めて、『聖域』の役割を終える。結界が、消えるのね」

 

その結界が消滅すれば、エミリアはもちろん、『聖域』で暮らす住人たちも森の外へ出ることができるようになる。

結界が開かれたとき、どれだけの人が外の世界に出てくれるのかはわからない。外で暮らすことが、本当の意味で彼らのためになるのかどうかも。

 

でも、もう閉じこもっていることはできないのだ。

スバルがガーフィールを説き伏せたように、エミリアもまた彼らに言わなくてはならない。時が止まった場所に、ずっとこもっていられる時間は終わりなのだ。

動き出した時間の中で、どう自分の生きる場所を作っていくか。

 

できるなら、エミリアも出せていないその答えを、一緒に探してほしい。

手を引くことも、背中を押すことも難しくても、隣を歩くことはできる。

頼りなく、根拠のない、始まったばかりの王道の示し方だけれど。

 

「それでいいさね」

 

セクメトが、エミリアのそんな内心を見透かしたように言った。

その一言には、彼女特有の疲れた吐息が混じっていなかった。真っ直ぐ自分を見つめて言ってくれたセクメトに、エミリアは小さく息を呑んだ。

それから、微笑みかける。

 

「うん、ありがとう。私も、そうしていきたいと思ってるの」

 

答えて、エミリアはセクメトの前で立ち上がる。

銀髪を掻き上げて、見送る姿勢のセクメトに対して頭を下げた。

 

どうしてそうしたのかはよくわからない。

ただ、なぜか別れの言葉を告げるだけでは足りない気がした。そこに感謝の気持ちがあったのがどうしてなのか。セクメトはきっと、語ってくれないだろう。

 

引いた椅子をテーブルに戻し、エミリアは丘を下って扉へ向かう。

草原にぽつんと立ちつくす扉はどこか儚げで、エミリアはこの夢の城を離れることにちょっとした寂しさを感じている自分に気付いていた。

 

白いテーブルに、涼やかな風。うららかな日差しに、絶好の日和。

あのテーブルを囲んで、お茶会なんてしたらきっと楽しかっただろうに。

 

「セクメトさん。エキドナに伝えてもらっていい?」

 

「……言ってみるさね、はぁ」

 

「もしもまた顔を合わせる機会があったら、きっとお茶会をしましょう。私、夢の中に化けて出てきても、きっと歓迎するから」

 

「――ああ、それはいいさね。そう、伝えておくとするよ」

 

ドアノブに手をかけ、首だけ振り返るエミリアの言葉にセクメトが笑う。

エミリアもまた笑い返し、扉を開いた。

 

暗闇が広がっている、扉の向こう。

でもなぜか、そこに踏み出すことに迷いも躊躇いもない。それがどこに繋がっているのか、エミリアにはもうちゃんとわかっている。

 

それは『過去』を越えて、『今』を選び、そして『未来』へ続く扉なのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――息苦しさを感じながら、エミリアは固い地べたの上で体を起こした。

 

『試練』の意識喪失からの復活は、睡眠からの目覚めとは違う。

体が眠りに入っていたというよりは、体から意識だけが別の場所へ導かれていたというような形に近い。肉体と魂が別の場所にあるのだから、魂が眠っていたわけではないため眠りと違う形になるのは当然だ。

 

もしもこれが眠りと変わらない目覚めになる場合、寝起きの弱いエミリアは復活までにかなりの時間を取られることになる。以前ならパックが起こしてくれていたが、それに頼れない今はとてもとても時間を食うだろう。

今後はそういう状況にも、一人で対応できるようにならなくてはいけない。

 

「――あ、いけない」

 

ぼんやりと、その時点で寝惚けているような感想が出ていたエミリア。

頭を振って、壁に手を触れながら立ち上がる。体調は特に問題はない。『試練』を乗り越えた、という実感に薄いのも同じだ。

ただ、夢の城でセクメトの語ってくれた内容が本当ならば――、

 

「部屋の奥の、あの扉が開けられるはず」

 

視線を奥へ向けると、小部屋の向かい側にある石扉が目に入った。

以前は押しても引いてもびくともしなかった扉だが、エミリアの目にはうっすらと淡く輝く墓所の壁と同様に、ほんのりと光をまとっているように見える。

 

開錠、のような意味合いだろうか。

エミリアは靴音を立てながら扉へ向かい、その正面に立つと小さく息を詰める。

 

この向こう側に、『聖域』を解放するための何かがある。

セクメトは見ればどうすればいいかわかると言っていたが、わからなかった場合が正直なところ少しだけ不安だ。エミリアはあまり、自分の頭に自信がない。

誰かを連れてきてもダメなのだろうか。ここまで入れる人が少ない上に、そもそも自分以外の人がいたら扉も開かないような気がする。

 

とんとん拍子に進んだせいか、目の前の問題に対して疑心暗鬼が消えないエミリア。

担がれているのでは、と疑うあたり、以前より用心深いというべきだが、これもエキドナ関連限定の用心深さである。仕掛けた相手の性格がわかっているからこその、エミリアの警戒といえた。

 

「とにかく、部屋の中に入ってみなきゃ。よし、いきます」

 

小さく拳を固めて気合いを入れると、扉に手をかけようとする。押すべきか引くべきか、そんなことを考えながら扉に指先が届こうとした瞬間、

 

――音を立てて、石の扉が横にスライドしてエミリアへ道を作った。

 

「……あ、なんだかエキドナが悪そうな顔で笑ってる気がする」

 

出鼻を挫かれた形になるエミリアが、不満げに唇を尖らせてこぼす。

何となく、この扉のギミックがエキドナの細やかな嫌がらせな気がして、エミリアは少しだけ緊張感が薄れた。

吐息をこぼして、改めて気分一新して部屋に踏み込む。

 

扉の奥にあった部屋は、『試練』の間よりも一回り以上小さな部屋だった。

小部屋よりもさらに小さな部屋で、ロズワール邸の大きなベッドが二つ並んだらそれだけですっかり足の踏み場がなくなってしまう。

思ったよりも手狭な部屋の出迎えに目を丸くし、さらに部屋の奥にあるものを見てエミリアは驚いて口に手を当てた。

 

――部屋の奥に透明の棺のようなものがあり、その中に一人の女性が横たわっている。

 

眠っているのかと、そう思うほどにその女性は美しいまま時が凍結していた。

棺は魔鉱石を加工して作られたもののようで、純度は指先が触れたエミリアが驚くほどに高く、これほど高密度の結晶はパックの依り代になっていたものすら凌駕している。

 

パックほどの大精霊を封じ込める以上のことが可能な魔鉱石に、封じられている一人の女性。――当然、息はない。生命力は感じられず、これはすでに命の抜け殻だ。

 

長くつややかな、雪のように白い髪。頬や首筋、見える限りの肌は処女雪を思わせる美しさで、思わず吐息が震えそうになる美貌。

その美しい体を包むのは、余計な彩色が一切されていない漆黒の衣で、ドレスのようなそれは彼女のために誂えられた奇跡的な調和が保たれている。

 

白と黒、たった二色で表現することが可能な、美しい女性。

本物の美というものは、余計な装飾をまったく必要としないということが、その白と黒だけの美貌を前にすれば、恐怖のような感覚と共に実感することができるだろう。

 

「綺麗な人……」

 

思わず、エミリアの唇からも感嘆の息が漏れた。

鏡を見れば、自身もまた絶世の美貌を持つ一人であるのだが、エミリアの感動にはそれらの感慨は欠片も含まれていない。

ただただ、目の前にあるものの美しさに酔い痴れる、一つの感性の純然たる感動だ。

 

白と黒の、美しい女性。

それは夢の城で出会い、言葉を何度も交わした『強欲の魔女』。

墓所の最奥、『強欲の魔女』の試練を乗り越えた先で待っていたのは、

 

「エキドナに似てるけど……誰だろう?」

 

知識欲の権化を思わせる出で立ちでありながら、エミリアの見知らぬ女性であった。