『幼馴染の女に頭が上がらない』
自分の中から、何か大切なものが抜け落ちていく感覚があった。
音を立てて軋み、その存在の終幕を見届けたゲートとは違う。
それとは全く別の、異なる何かがスバルの体の内側に蠢いていた。
熱いのか冷たいのか、わからない熱を持ち。
形があるのかないのか、それすらわからない不定形さで。
黒い澱みともいうべきそれはナツキ・スバルの体を駆け回り、外に飛び出させる喜びに喝采しながら、その力を発揮して霧散した。
だが、名残はスバルの中に今もたゆたい続けている。
その異質な感覚に、スバルは言い知れぬものを覚える。見知ったものでも、感じたことのあるものでもない。なのに、スバルはそれを認識として知っている。
故に、『なぜ』『どうして』の疑問はあっても、『何が』『何のために』の疑問はない。
それがいったいなんであるのかは悩む必要もない。問い質すべきは『なぜ』ではあるが、それを問い質せるような相手には今は声が届かない。
だから、スバルが考えるべきことは一つだ。
『不可視の一撃』『見えざる掌』『知覚外の衝撃』
いずれも聞こえが悪いか二番煎じか、スタイリッシュさに欠ける。
漆黒の、スバル以外には見ることの叶わない腕。
スバル以外には操ることのできない、それを――。
※※※※※※※※※※※※※
「『不可視なる神の意志』……インビジブル・プロヴィデンスと呼ぼう……」
「……え、今、なんて言ったの?」
薄目を開けて、曖昧な意識のままでスバルは思考の一部が唇から漏れ出す。
途端、それを聞いて目を丸くしたのは、すぐ眼前にある銀髪の美貌だ。
何度か瞬きして、スバルは自分が無意識の世界から現実へ舞い戻ったことを知覚。すぐに頭の下の柔らかい感触と、至近にあるエミリアの姿の関連性に気付いた。
「あ……また俺、エミリアたんに膝枕されてんだ」
「そう。もう何回目?意識がないスバルにこうやって、膝を貸してあげるの」
「諸々の条件考えると三回目かな。大一番を突破しないと辿り着けない楽園だから」
「す、すごーく頭しゃっきりしてるんだ……気絶する前のこと、覚えてる?」
「そりゃもうハッキリと。こうやって喋ってエミリアたんの顔見てる間にゆっくりと思い出して……」
軽口を叩きながら、スバルはわずかに重い頭の中身を押しのけて整理する。そして、意識がなくなる前に浴びた強烈な衝撃の数々を回想し、理解した。
すぐにスバルは自分の顔に両手で触れて、頬をこねながらエミリアを見上げる。
「やべぇ。そういえばしこたま殴られた気がする。エミリアたん、大丈夫かな。俺の顔、二目と見られないぐらい酷い状態になってない?」
「大丈夫。そんなに変じゃないから」
「悪気ないときの返事だこれ!」
エミリアが不思議そうな顔で首を傾げるのを見ながら、スバルは顔から手を離して軽く関節の各部を確認。肩や下半身、首あたりに引きつる感覚とかすかな痺れがある。ただ、外傷の大半は塞がり、癒された後のようだ。
「スバル。あんまり膝の上で動かれるとくすぐったい」
「あ、ごめん。違うよ!全然いやらしい気持ちでやったわけじゃないよ!やったわけじゃないんだけど、念のためにもう一回ちゃんと確かめていい?」
「ダメ。そんなこと言ってると、すぐに膝から突き落としちゃうんだから。そんな猪口才なことばっかり言ってないの」
「猪口才ってきょうび聞かねぇな……」
エミリアの視線が厳しくなるのに苦笑して、スバルは彼女の膝から体を起こす。名残惜しい気持ちはあったが、いつまでも甘えているわけにもいかない。
体の状態は完調のときの六割前後――万全とは到底言い難いが、エミリアの治療に感謝だ。
「治してくれてありがとな。パック、いなくても治療できたんだ?」
「パックとの契約が切れても、微精霊の子たちとの契約は切れてないもの。それに……こう言ったらなんだけど、私も魔法が使えないわけじゃないから」
「そうなの?魔法使いと精霊使いって、確かマナを扱う仕組みから違うって聞いてたから……てっきり、両立はできないもんかと」
以前に、屋敷でパックやロズワールからの講釈を受けた際に聞いた覚えがある。
体内のマナの貯蔵分だけしか魔法を使えない魔法使いに対し、精霊使いは大気中のマナを無尽蔵に使えるため、精霊との意思疎通という段階を乗り越えれば魔法を行使したい放題、というような内容だったはずだ。
それだけに、エミリアが魔法を使えるというのは微妙に認識と違ったのだが。
そのスバルの質問に、エミリアはかすかに目を伏せた。
おかしな反応だ、とスバルが眉を寄せると、彼女は小さく吐息し、
「私も、できないと思ってたんだけど……記憶、戻り始めてるって言ったでしょう?その中に、自然と魔法の使い方の知識もあって……これも、封印してたみたい」
「エミリアの記憶が、自分が魔法を使えることを封印してた?」
「そう」
頷く彼女の態度の歯切れの悪さは、それの意味するところが見えないのが原因だろう。スバルにも、彼女が自分が魔法を使えることを記憶の奥底に封じ込めた理由はわからない。推測も、今の情報量では立てることはできそうになかった。
ともあれ、彼女が使えるようになった魔法でスバルを癒してくれたことには違いない。
「事情はどうあれ、それで治療ができたんなら大助かりだ。他の……」
連中は、と口にしかけて、スバルは自分がこんなところで安穏としている場合ではなかったことに思い至る。
そもそも、意識をなくした原因を思い出した時点で、その問題にも気付くべきだった。
スバルと相対したガーフィールや、そのガーフィールとスバル以前に相対していたらしいオットーやラム。彼らの安否はいったい――。
「物騒なことにはなってねぇと思うけど、森の肥やしにならないうちに助けに……」
「心配してくれるのはいいんですが、そんな最悪の状況まで想定されなくても平気ですよ」
「っと」
ふらつく体に活を入れて立ち上がり、墓所の前から森の中へ走り出そうとするスバル。そのスバルを、どこか呆れたような青年の声が引き止めた。つんのめりそうになりながら足を止めて振り向くと、墓所の石段に腰掛ける人物――オットーが手を上げていた。
「おお、おおお!?」
「驚いていただけて何よりですよ。ご心配おかけしましたが、そこはお互い様でしょうから言いっこなしってことで……」
「おらぁ――!」
「ぎゃふ――!?」
お互いの安否を確認し、なんか満足そうな笑みを浮かべていたオットーに突撃。スバルはそのまま勢いを殺さず跳躍し、フライングドロップをお見舞いする。
石段とスバルの間に挟まれて、悲鳴を上げるオットー。
「痛ッ!痛い!階段に後頭部が削られて……痛い!は、ハゲる!ハゲる痛さだ!ちょ、ナツキさん何をしでかすんですかねえ!?」
「うっせ、バーカ!お前、格好つけてんじゃねぇよ。何、やってやりましたねみたいな感じの雰囲気醸し出してんだよ。誰がお前に時間稼ぎ以上のことまでやれなんて頼んだんだよ。おかげで俺の計画が完全にパーになるとこだったじゃねぇか。でもお前のアシストがなかったらガーフィール撃破まで辿り着けなかった気がするから、感謝してないでもないんだからね!」
「もう何言ってんだかわかんねえ!!」
石段の上でもみ合いになりながら、素直に感謝が伝えられないスバルをオットーが蹴っ飛ばす。石段から転がり落ちて、尻餅をついたスバルは「いたた……」と立ち上がり、
「なんにせよ、無事でよかったぜ。お前は死ぬと、枕元に立ってうるさそうだ」
「わけわかんない風習の話されても困るんですが……っていうか、なんで最初に素直にその感想が出てこないんですかねえ」
「褒めるなよ、俺だぜ!?」
「知ってますけどねえ!」
悪びれないスバルに、いい加減に付き合いきれない顔のオットー。彼は額に手を当てると、黙って二人のやり取りを見ていたエミリアに気付いた顔をする。
「ああ、エミリア様。すみません、そっちのけにしてしまって。何もかも、ナツキさんが悪いんですが」
「うん、それは見てたから私もわかってる。大丈夫」
「味方いねぇ……いや、味方だらけだったからこんなことになってんのはわかってんだけど。――ところで、お前が無事ってことはラムも大丈夫なんだよな?」
顔を見合わせて頷き合うエミリアとオットーに舌を出し、それからスバルは姿の見えないもう一人の協力者の安否を問い質す。その質問にオットーは「もちろん」と頷いた。
「気絶から立ち直ってラムさんを見つけたとき、状態が状態だったのでかなり肝が冷えましたけどね……見た目ほど、ひどい状態でなかったのが幸いでした。背負ってこっちに合流する途中で目を覚まして、かなり毒を吐かれましたが……」
「心中察するよ。あいつは本当に身内以外には口が厳しいからな。……よく、あいつのこと口説き落とせたな?どうやったんだ」
「それをナツキさんに話さないのが、協力していただくための条件の一つなので」
口に手を当てて、喋らないという姿勢を示すオットー。
スバルはその態度に物言いたげに唇を曲げたが、この手のことでオットーが意思を曲げることはないだろうと、すぐに追及を断念する。
少し厳しく問い詰めたぐらいで口を割るような性格ならば、自分の命を懸けてまで妄言に等しいスバルの思惑に付き合ったりするはずがない。
まったく、厄介で頑固で、いい友人だ。
「ちくせう」
「痛い!なんで今、僕殴られたんですかねえ!?」
「うるせぇ」
肩を小突かれたオットーの非難に耳を貸さず、スバルはエミリアを振り返る。と、彼女の傍らにはいつの間にか大きな体を揺するパトラッシュが現れており、その鼻先をエミリアの銀髪に押し付けて、笑みの彼女と触れ合っているところだった。
「あれれ?エミリアたんとパトラッシュ、いつからそんな仲良くなったの?」
「スバルが寝てる間に、ちょっと色々あって……それで、この子に助けられちゃった。すごーく、いい子ね」
「だしょだしょ?俺の自慢の相棒だよ、実際。なぁ、パトラッシュ」
近寄り、その背中を撫でてやろうと手を伸ばす。が、地竜はスバルの指先が触れる直前に体をくねらせ、こちらの手を避けると、
「おぶ!?」
「――――」
振られた尾がスバルの尻を直撃し、叩かれた痛みに半泣きになるスバルが跳ねる。何を、と抗議の目をパトラッシュに向けると、地竜は鋭い瞳をより鋭くして、首を低くしながら不機嫌そうな唸り声を吐き出していた。
「通訳、いりますか?」
「いや、これはさすがの俺でも通訳されなくてもわかるよ」
背後のオットーの気遣いに首を横に振り、スバルは小さく息を吐いた。
「――心配させないでよ、だろ」
「ついでに、調子に乗らないで。次はないんだから。こっちの身にもなって。が追加で入ってもいい感じの怒り具合ですよ」
「マジお前のヒロイン力どうなってんの?ヒロインレースに名乗り上げてくんの?」
苦笑してスバルが手を伸ばすと、今度こそパトラッシュの固い地肌に指が触れる。目をつむる地竜は仕方なく受け入れた様子で、寛容な彼女には感謝が絶えない。
対ガーフィールにおいて、決定打となったパトラッシュの協力も、彼女が一も二もなく従ってくれる信頼を見せてくれたおかげだ。
相変わらずの力足らずな自分は、一つの山を乗り越えようとするたびに色んな人に借りを作っていかなくてはならない。いずれ、全部の借りを精算できる日はくるだろうか。
自信はないが、やるしかあるまい。
「んで、そうやって借金こさえてまで突破した山であるとこの、ガーフィールは?」
「ガーフィールなら、治療して今はあっち。だけど、邪魔しない方がいいかも」
「邪魔っつーと?」
首を傾げるスバルに、エミリアは唇に指を当てて、
「今、ラムが見ててあげてるから――ね」
※※※※※※※※※※※※※
「起きた?ガーフ」
ガーフィールが目覚めたとき、目の前にあったのは見慣れた少女の顔だった。
目覚めて最初に見たかったような、見たくなかったような、複雑な気持ちだ。
かすかに胸が高鳴ったことだけは否定できないので、ガーフィールは一度、喉を鳴らしてから、
「あァ……目ェ、覚めた」
「そう。なら、とっととどきなさい。いい加減、足が痺れたわ」
「あでッ!」
意思疎通が叶った途端、ガーフィールは柔らかな感触から解放されて地面に頭を落とす。優しい対応を期待していたわけではないが、こうもすげなくされると傷付くものだ。
それも、プライドが傷付いているときに、意中の相手からされればなおのこと。
地面に打ち付けた頭をさすり、ガーフィールは恨めしげな目でラムを睨む。草原に横座りになるラムは、つい今までガーフィールの頭を乗せていた腿のあたりを払い、ガーフィールの視線に対して「なに」と不機嫌な声を出した。
「べッつに何でもねェけどよォ……相ッ変わらず、優しさの欠片もねェ女だな」
「優しくする価値のある相手に、優しくしてあげなきゃいけない場面ならラムだってそうするわ。そうしてないということは、そうでない場面ということよ」
「……俺様に、その価値はねェか」
「それでなんて言って欲しいのか透けて見えるようだわ。だからガーフはバルスと一緒でダメなのよ。女の本音が聞きたいなら、もっと工夫しなさい」
目を伏せる額を、ラムのデコピンで強烈に弾かれる。
刺激の走った場所は、ガーフィールが何事かあると触れてしまう白い傷跡の上だ。額に残る傷跡に指を触れて、ガーフィールは吐息をこぼす。
「思い起こすと……この傷も、お前に付けられッたんだったよなァ」
「――。ガーフのおいたを鎮めるために、ラムも必死だったのよ。石畳に顔面を叩きつけるなんて荒療治、ラムが好んでやっていたと思うの?」
「今日、俺様をタコ殴りにしたときとおんなじで、すげェ笑ってッた気がするんだが……」
「ラムにはラムの限られた人生がある。嫌々やるぐらいなら、笑って楽しいことだと自分に言い聞かせた方が有意義だわ。苦肉の策ね」
「そッれで笑いながら額割られる方の心の傷はどうなんだ、オイ」
ガーフィールの言葉に、ラムはなおも退屈そうな顔でため息をつくばかり。
当然だ。彼女は自分が間違っているとは絶対に認めないし、強固な精神性を曲げるようなことは絶対にしない。誇り高く、気高く、堅固で、強靭だ。
だからこそガーフィールは、彼女の存在に憧れて、強くそれを欲するのだから。
「……ラムは、体に傷とか残ってねェか?」
「どうかしらね。とりあえず、目立った傷はエミリア様に治療していただいたけど、傷がまったく残らないのは無理かもしれないわね。傷物にした責任、どうする気?」
「俺様が嫁にもらって……」
「もらわれない。それ以外の方法で返しなさい。――そもそも、ガーフのくせに生意気なのよ。よくも、負けた側を放っといていったわね」
「…………」
ラムの厳しい追及の視線にガーフィールは押し黙る。
彼女の視線の怒りが示すのは、戦いの最後に手心を加えたガーフィールへの糾弾だ。
倒れるラムと、茂みに逆さに突っ込んでいたオットーにトドメを刺さなかったのは、確かにガーフィールの判断であり、戦いにおける誇りを汚したのかもしれない。
だがそれでもガーフィールは、意識をなくした彼女に爪を振るうことなどできなかった。想い人であることや、もっと別の様々な要因を排除しても、きっとできなかった。
だって自分には、戦士としてもっとも重要な勇気がないからだ。
「最後の最後……ラムの仕掛けた魔法を、よく避けたわね」
「……べッつに、狙ってやったわけじゃァねェよ。ただ、やられ倒しで獣化から戻りかけてたとッこに、嫌な予感がしたんだ。したら、考えるより先に体が動いた。そんだけだ」
ラムとオットーが仕掛けた、最後の起死回生の一撃。
森のマナが収束したところを見計らい、最大級の風の魔法が発動した瞬間、ガーフィールは頭で考えるよりも生存本能の全てに身を委ねて風の刃を回避した。
目に見えない暴風を、肌の数ミリを掠める感覚を頼りに避け切り、視界に入る範囲の木々の全てを薙ぎ倒すような範囲攻撃を、曲芸じみた回避を続けながら射程から逃れる。
それをやってのけて戻ってみれば、そこに倒れるラムとオットーの姿があった。
ガーフィールが真に戦士であれば、命を拾ったことを誇って二人の命を奪ったろう。しかし、命を奪う工程を自分の中の獣の血に委ねなければ乗り越えられないガーフィールにとって、それを実行することは不可能だった。
「だッから、俺様ァ……」
「――――」
自分は戦士ではない。戦士のふりをして、虚勢を張っていただけの偽物だ。
そんな偽物でも、力さえあれば全てをねじ伏せ、命を奪わずとも守りたいものを守ることができると頑なに信じてきた。
しかし、その考えも半ば否定されたようなものだ。
外の世界の人間が、大挙して押し寄せてきても負けない力があると信じていた。
だが、現実のガーフィールはたったの三人――地竜を加えても、三人と一匹に負けた。それも、三人はそれぞれの理由でほとんど非戦闘員のような面子にも関わらずだ。
これで戦士が敵意を持って『聖域』を訪れれば、ガーフィールなどもっと容易く破られてしまう。『聖域』の結界などと、偉そうな口を叩いてこれなのか。
――足りない頭で、たくさん、たくさん、色々なことを考えてきた。
戦いの最中も、戦っていないときも、決して血の巡りの良くない頭を常に使ってきた。
最善策はどこにあるのか。どうするのが一番、みんなのためになるのか。誰も傷付かない選択肢はないのか。傷付くとしても、自分だけで済むならそれでいい。
そう信じて頑張ってきた日々は、弱さを隠すだけの薄っぺらなものでしかなかった。
「ガーフ」
「…………」
「一つだけ、ラムから助言してあげるわ。よく聞きなさい」
「……あァ」
もはや何かを主張できる気力もなく、ガーフィールは俯いたまま顎を引いた。
ラムから、想い人から、どんな言葉を浴びせられるものか。普段から厳しい言葉を投げかけてくる少女だが、本当の意味で突き放されたことはなかったかもしれない。
それは彼女が本心から身内に対しては甘い性格で、曲がりなりにも付き合いの長いガーフィールを、その身内の範疇に含んでくれていたからだ。
しかし今回、ガーフィールとはっきり敵対したラム。そうなった以上、もうそのくくりの中に自分は残っていないことだろう。
だから、これから告げられる言葉が、ラムからガーフィールへの本当の決別で――。
「ガーフ……あなた、馬鹿なんだから考えるだけ無駄よ。時間の無駄。つまり、人生の無駄だわ」
「……ァ?」
「自分でも言ったでしょう。ガーフ、何も考えずに動いたらラムの魔法も回避できたって。あれ、その通りよ。ガーフは気付いてなかったみたいだけど、何も考えないで戦ってるときの方がよっぽどガーフは強いわ。馬鹿丸出しの方が、よっぽど」
立て続けに何を言われているのかわからず、ガーフィールは目を剥く。
まさかダメ出しされるにしても、もっと別な部分を指摘されると思っていたのに。
「理性投げ出して獣化しろ、って言ってるわけじゃないわ。言っておくけど、獣化すると考えるより弱さが増すわよ。的が大きくなるし、動きはとろいしでいい獲物だわ。人の姿のままで、しっかり相手を見据えて、何も考えずに戦いなさい」
「な、なんだァそりゃ!?俺様がいつ、そんな話を……」
「大事な話よ。――だってガーフはこれから、ラムやエミリア様の味方として、色んな場面で戦ってもらわなきゃならないんだから」
「――ッ!!」
投げかけられた言葉に、ガーフィールの喉が激情に塞がる。
顔を真っ赤にして、ガーフィールは鋭い犬歯を噛み鳴らしながら、
「ッざっけんな!こんだッけやらかして、敵対して、こっちの思惑踏みにじりやがっておいて……それでも、俺様を許して、俺様に許せってェのかよ!?」
「馬鹿言わないで。許さないから尽くせって言ってるのよ。許してお互いの立場を五分五分にしたら、力を貸してってお願いしなきゃならないじゃない。ふざけないで。ラムたちが勝者でガーフが敗者。そしてラムはガーフを許さないから命令する。わかる?」
「めちゃッくちゃだァ!」
声を上げ、ガーフィールは牙を剥きながら立ち上がる。
一瞬、体はふらついたが、ほとんどの負傷は癒えていて問題はない。治療された、その事実に思い至り、さらなる屈辱感が彼の胸中を掻き毟る。
「負けたのァ認める!それァ事実だ!けどなァ、下るのとそれァまた話が別だ!負けた、やられた、理解した!でも、俺様ァ今も生きてるしピンピンしてる!本気で俺様抜きで話が進めたいってんなら、それこそてめェらが俺様を殺してるべきだったんだよォ!それができなかった時点で、足元すくわれんのァてめェらも一緒だ!」
「それじゃ本末転倒じゃない。ガーフの力も必要なのにガーフを死なせてたんじゃ、目的も何もあべこべになるわ」
「……だァから、俺様ァ!!」
「つべこべうるさい!」
怒鳴ろうとしたガーフィールに先んじて、立ち上がったラムが吠える。
彼女は薄赤の瞳を怒らせて、真下からガーフィールを睨みつけた。
その剣幕に、とっさにガーフィールは気圧されて口を閉じてしまう。
「負けたでしょう、負けたんでしょう。なら、敗者は敗者らしく勝者に従いなさい。いつまでもウダウダと女々しい負け犬根性さらして、好きな女の前でどれだけ惨めになれば気が済むの、ガーフ。他罰的だったのが負けた途端に自罰的になって、吠える方向が内か外かが変わっただけじゃない、馬鹿馬鹿しい」
「う……ァ」
畳みかけられるそれが正鵠を射すぎていて、ガーフィールは二の句が継げない。
戦う前は他人に押し付けていた問題を、負けた途端に自分の弱さに押し付ける。それは結局、弱いと思う方向に吠える浅ましさが何も変わっていない証拠だ。
弱いと思っていた外に吠えるのをやめて、弱いと認めざるを得ない自分の内に吠える方向を変えただけで。
「でも、どうすりゃァいい!へらへら笑って、てめェらの列に並べってのかよォ!その方がよっぽどできるわけがねェ!負けたのは認めッけどなァ……てめェらの言葉が正しいかどうかを認めたわけじゃァねェんだ……!」
それは、言い逃れでも何でもないガーフィールの本音だ。
負けたことは認める。相手の方が数が多かったことなど、お話にならない。負けた理由の追及など言い出せば切りがない。
ただ問題なのは、ガーフィールの心の奥底に、相対したスバルの主張を信じる確固たるものが芽生えていないことだ。
究極的に、これまでわだかまって凝り固まってきた自分の考えが変わっていないのに、轡を並べて一緒に戦えなどと言われても、「はいそうですか」とは頷けない。
「どうすりゃァ、俺様は、こんな半端な状況から……」
「半端に留まってることが嫌なら、立ち止まっていないことを証明すればいいわ」
「……なん、だと?」
荒い息のまま、ガーフィールは目の前のラムを見やる。
彼女はその表情を常の冷静なものに戻し、真っ直ぐにこちらを見上げていた。
その瞳に映る、弱々しい自分の表情。
そこから目を逸らしたいのに、ラムの視線がそれをガーフィールに許さない。
「バルスがなんて言ったかは知らないけど、おおよそ想像はつくわ。だったら、ガーフ……自分で確かめてみたらいいわ」
「俺様が、自分で確かめる……何を」
「ガーフが変われるのか、それとも蹲ったまま動けない小さな子どものままなのか」
何を言われているのか、ガーフィールはようやく悟った。
そしてその意味を理解した途端、これまでにない鼓動の早さがガーフィールを襲う。
背中に冷たい背が流れ、それが一瞬でべったりと体中に蔓延する。
動悸が荒くなり、やまない耳鳴りが延々と頭蓋の中で反響し始めた。
体の各部に異常をきたすほどに、ガーフィールの心を棘つきの鎖で縛りつけるトラウマ。
ぞっと、寒気を感じて振り返る眼前に、墓所の威容は変わらず佇んでいる。
――確かめる。あの場所で、何を。
仮に入ったところで、何が確かめられる。
見たくない過去を見せられて、あのときと、どんな違う答えをラムは期待している。
何も変わらない、変わるはずがない。
なのに、そうわかっていて、どうして自分は、『行かない』の断言ではなく、『行く』か『行かない』かを迷っているのだろうか。
「……入って、何がわかる」
乗せられている。完全に。
何が変わるとも思えていないのに、確かめたいと思っている自分がいる。
体は恐怖で強張り、心は拒絶に泣き叫んでいても、ガーフィールの魂が吠えている。
確かめたい。確かめなくてはならない。
ガーフィールの前に立ちはだかり、血を吐きながら絶叫した少年の、ナツキ・スバルの主張が正しいものであったのかどうかを。
自分のこれまでの時間が、間違ったものだったのかどうかを。
「覚悟、決まった顔をしているわね」
気付けば歯の震えは、心臓の鼓動は落ち着いていた。
あれほど全身を濡らした冷や汗の気配も消えて、ガーフィールは無言でラムを振り向く。
彼女が発破をかけて、ガーフィールに何を期待しているのかはわからない。
本当のところ、ラムはガーフィールが味方に付くかどうかの部分は重要視していないのではないだろうか。
長い付き合いだから、ぼんやりとわかることもある。
ラムは本音の部分では、ガーフィールが並び立つことを求めているわけではない。
もっと手前の部分で、ガーフィールが生き方を選ぶ結論を出すことを求めている。その後のことは、二の次だ。
なんてありがたくて、いい女なのだろうと思う。
「まあ、大丈夫よ、ガーフ」
押し黙るガーフィールの沈黙を不安とでも思ったのか、ラムは珍しく声音に温かみを覗かせながら、むき出しのガーフィールの肩を軽く叩いて、
「泣くほど恐い目にあったら、ラムが慰めてあげるから。――古い付き合いの好で、ね」