『死者たちの塔』


 

階段を、上へ続く階段を、ナツキ・スバルはゆっくりと踏みしめ、上がっていく。

片手にナイフを、その胸に憎悪を、瞳に狂気を漲らせ、上へと歩む。

 

「殺す、殺す、殺してやる。絶対に、殺して、やる……っ」

 

軋るような囁きは、尽きることのない呪いの言葉だ。

言霊に力が宿るならば、吐き出される呪詛の数々が、スバルの行為を後押しする。

 

殺すと、一つ明確に言葉にするたび、ナイフに宿る力が増して思えた。

 

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」

 

呟きながら、進む視界が時たまぼやける。

心労と、何時間も砂漠の地下を這いずり回った疲労感があるのだろう。妙に頭が重く感じられる瞬間があり、スバルは何度も首を横に振った。

 

今、こんなところで倒れている場合ではない。

この場所は、スバルにとって危険な奴らが揃い踏みしている環境なのだ。誰が味方で、誰が敵なのかもわからない環境。それはもはや、敵の巣窟も同然だ。

 

身を守るために、殺さなくてはならない。

そうしなくては、奴らの方がスバルを殺しにくるのだ。

 

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」

 

殺したいのではなく、殺さなければならない。

もし仮に、言霊が正しく言葉を使うことを条件とするなら、おそらく、スバルの口にする『殺す』という言葉は誤りだ。

真にスバルの心情を反映するなら、この場合に相応しい言葉は『殺す』ではない。

 

――死にたくない、の方が正確だ。

 

だから、一番最初に、目の前に現れた奴を、殺してやると、そう心に決めて。

ナツキ・スバルは四層に辿り着く。

そして、それを目にした。

 

「――は」

 

息が漏れた。

甲高い音を立てて、手にしたナイフが硬い床の上に落ちる。指が強張り、動かない。ただ、ゆるゆると首を横に振り、スバルは後ずさった。

 

溢れ返る血臭と、身も凍るような激しい戦闘の痕跡。

石造りの壁や床が砕かれ、割られ、何か強大な存在が暴れ回ったとしか思えない、そんな破壊の余韻が残る空間に、スバルは立ち尽くす。

立ち尽くしながら、それを見た。

 

――頭の潰れたシャウラが、見るも無残な姿で床に倒れ伏していた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

シャウラの亡骸は、目を覆いたくなるほどに凄惨な状態だった。

 

まとめられていた長い黒髪はほつれ、床を埋めるように広がっている。手足は力なく投げ出されているが、両腕が肘と手首とで切断され、先が見当たらない。

白い、健康的な肌には無数の裂傷が刻まれ、おびただしい量の血が辺りにぶちまけられていた。その血の跡は、彼女の終端となったこの場所以外、通路の奥の方にも続いており、戦いが長く、幾度も場所を変えて続いたことを証明している。

そして、おそらくは命を奪う最後の一撃となった、頭部の外傷――傷なんて言葉では生易しすぎるそれは、命を蹂躙する致命的な穴だ。

 

寝そべった相手の頭に、大きなハンマーを振り下ろしたとでもいえばいいのか。

頭を叩き潰し、四散させ、その中身を周囲にぶちまける野蛮な方法など、それ以外には到底思いつかない。何か、恐ろしく巨大な衝撃が、その頭を叩き潰している。

 

潰れ、消滅してしまったシャウラの頭部。

短い間だが、彼女が躊躇いなく距離を詰め、あけすけな笑みを向けてきたことが思い出され――、

 

「――ぶ」

 

呆然と、愕然と、悄然と、亡骸を眺めていたスバルはその場に膝をつく。

そして、堪え切れない嘔吐感のままに、胃袋の中身を一気に床に吐き出した。胃液と混ざり、ドロドロになった内容物が、酸っぱい臭いと共に体外へ溢れる。

それは床に潰れるシャウラの亡骸にもかかり、恐ろしい死に方をした彼女を、死後さらに辱めることに一役買った。

 

「うえ!おええっ、ごえっ、うぶ……」

 

しかし、蹲り、嘔吐を続けるスバルにはそんな死者の冒涜に気を向ける余裕がない。

胃が絞られる痛みと、途絶えることなく湧き上がる嘔吐感に、可能な限り喉を開いて、込み上げる灼熱感を吐き出すことに腐心するだけだ。

 

やがて、胃の中身が空っぽになるまで吐いたところで、スバルは体を床に投げ出す。両手を広げて大の字になり、天井を睨みつけ、顔を覆った。

 

――人の、死を、初めて目の当たりにした。

 

「――――」

 

人の死体との対面は、スバルにとっては初めてのことだった。

多くの場合、人生で最初に相対する死体とは、年配の親類であると考えられる。だが、スバルはこれまで、母方も父方も祖父母は健在で、葬式に出た経験もなかった。

それ以外の場面で、誰か、人の死に出くわしたことも一度もない。

 

だから、スバルにとって、初めて目にした他者の死は衝撃的だった。

その上、その死に様が明らかに常軌を逸したものとなれば、なおさらだ。

 

人とは、こんなにも残酷に、命を奪われることがあるものなのだと。

 

「俺も、か」

 

腕で顔を覆っていたスバルは、そう呟いて体を起こした。

口元にこびりつく吐瀉物を袖で拭い、耳鳴りのうるさい頭を振って、壁を頼りにゆっくりと立ち上がる。

 

背中を突き飛ばされ、はるか階下へと叩き落とされたスバル。

その亡骸も、きっと二目と見られないほどぐずぐずの肉塊へと変わったはずだ。自分で自分の死体を見る経験ができなくて、そのことにはわずかに安堵する。

 

仮に、自分の目で自分の死を見るようなことがあれば、正気でなどいられまい。

 

自分が死んだのだと、その事実を理解しただけでも、心は張り裂けそうなほどの衝撃に見舞われ、粉々に砕け散ったというのに。

 

「とに、かく……」

 

思索を中断し、スバルは傍らに転がるシャウラ、その亡骸を視界に入れないよう苦心しつつ、彼女の死という事実から確信を得た。

 

この塔内には、やはり恐ろしい内患が潜んでいるのだという事実を、だ。

そして同時に、その内患の狙いはスバルだけではなく、塔の中の他のものにも及んでいるのだとはっきりとわかった。

 

「――――」

 

死んだシャウラには悪いが、これは今のスバルには朗報とも言えた。

スバルを殺した人物がわからない今、容疑者全員を消さない限り、スバル自身の安息は手に入らない。だが、彼女が死んだことで、容疑者は七名から一人消えてくれた。

それと同時に、スバルを殺した人間が、スバル以外の誰かとも敵対関係にある――あるいは、塔内の全員を消そうとしている危険人物だと、確信が持てたのだ。

 

つまり、スバル以外の誰かが、スバルを殺した犯人を殺してくれる可能性がある。

あとはスバルが、生き残った全員を殺せばいい。それで、安心できる。

 

殺そうとしてくる犯人を殺して、殺そうとしてくるかもしれない候補者を殺せば、塔の中に残ったスバルだけが、安寧を貪ることができるはず。

 

「そういう意味だと……邪魔なのは、ラムと、エキドナか。ユリウスの奴も、死んでくれてると楽だな……」

 

子どもであるベアトリスとメィリィは、殺しやすさでは難しく考える必要はない。

エミリアと、死んでしまったがシャウラも、スバルに対して警戒心がないという意味では、隙を衝いて殺すことは容易だったはずだ。

だが、スバルに対して反抗的なラムと、小賢しいエキドナの存在は邪魔臭い。隙を衝いて殺すにしても、この二人が最も狙いづらい、そんな印象があった。

 

ユリウスに関しては何とも言えないが、彼の場合、スバル以外の唯一の男という点で、純粋な警戒に値する。安っぽいとはいえ、腰に剣を差していたのも問題だ。

しかし、逆を言えば、あの剣を奪えば一方的に追い詰められる可能性もある。スバルは剣道をやっていたから、剣を奪えば優位は確実ともいえよう。

あとは――、

 

「上にいる、あの、クソ野郎」

 

試験官という名目で、塔の上階に居座っている赤毛の男――その排除に考えを巡らせ、即座にスバルは首を横に振った。

あれの排除など、不可能だ。あれは常外の理に生きる、手出し無用の超越者。

ナツキ・スバルの常識では、あれに勝つことなど決して不可能だ。

 

殺せない、ものもいる。

唯一、救いがあるとすれば、あれがスバルを突き飛ばした存在とは考えにくいこと。あれならば、あんなつまらない方法で殺そうとはしない、そんな負の信頼があった。

 

「――――」

 

落ちたナイフを拾い上げ、スバルはシャウラの亡骸を跨いで、奥へと向かう。

一瞬、シャウラの亡骸を調べるか迷ったが、薄着の彼女が役立つものを持っているとも考えづらく、同時に、死者をこれ以上に辱めることを良心が咎めた。

 

彼女は死んだのだ。死んだものは、スバルにとってもう敵ではない。

彼女はただ、運がなかった。――ただ、それだけなのだから。

 

手を合わせる、なんて殊勝なことまではしない。

スバルはシャウラをその場に捨て置くと、塔の中をゆっくりと奥へ、破壊の痕跡を辿るように、四層の通路を忍び歩きで進んだ。

 

塔内は、物音一つ聞こえないぐらいに静まり返り、静寂がかえってうるさく思える。

 

甲高い耳鳴りが脳を掻き毟り、自分の体内を巡る血の音が聞こえる気がした。しかし、不思議なことに拍動は緩やかに、最初の興奮が嘘のように落ち着いている。

 

四層へ上がっていく途中、どす黒く煮詰めた憎悪は、今も胸中に汚れのようにこびりついて剥がれない。

今も、自身の生存のために、殺戮を実行する覚悟は萎えないままあるのだ。

最初に目についた相手を、突き刺し、抉り、命を奪う。その覚悟がある。

それなのに――、

 

――角を曲がった先、体を斜めに断ち切られたエキドナの死体を見つけて、スバルは自分の覚悟が、この地獄でどれほど役立つものか、何もわからなくなった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

エキドナの亡骸は、右肩から左脇にかけて、何か大きな刃物でバッサリと斬られたような傷を負い、崩れ落ちていた。

 

「――――」

 

大きな刃物、と想像した際、最初に思い浮かぶのはユリウスの持っていた剣だ。

安っぽい、いかにも量産品といった塩梅の剣だったが、エキドナぐらい華奢な女の体を斬るには十分に機能することだろう。

問題は、ユリウスにエキドナを斬る理由があるのか、わからないこと。

 

紹介された話では、エキドナとユリウスとは主人と従者の関係――そこにはもっと、ややこしい事情があったと聞くが、とにかく、その関係性に近かったはずだ。

無論、ユリウスが塔内の全員の命を狙った猟奇的な殺人鬼であれば、そんな事情など何の意味も持たないのかもしれないが。

 

「う、ぶ……はぁ、はぁ……」

 

壁に寄りかかり、再び、胃袋の訴えに敗北したスバルが顔を上げる。

死体の状況は、最初のシャウラに比べれば幾分かマシだ。それでも、まじまじと見るには勇気が必要な光景だが、その死に様は、シャウラとは大きく印象が異なった。

 

倒れ伏したシャウラが、いかにも殺して捨て置かれたという印象を覚えるのに対し、このエキドナの亡骸には、死者への敬意が残されている。

有体に言えば、彼女の死体には白い布がかけられ、瞼も閉じられていたのだ。

 

「――――」

 

殺害方法の違いを思えば、死者の弔い方にも大きく違いがある。

この場合、どちらがより平常なのか、考えるだけでも気がおかしくなりそうだった。

 

「エキドナも、消えた……」

 

呼吸が震え、声が掠れ、手足が小刻みに痙攣するのを堪えられないまま、スバルは目の前の事実だけを記憶に書き留め、なおも塔の奥へ、殺すべき生存者を求めてゆく。

あるいはすでに、求めるものが生者なのか死者なのか、何のために求めるのか、その理由さえも曖昧になりながら、スバルは歩む。

 

――廊下の奥で、背後から胴体を吹き飛ばされたラムを見つけた。

 

胴体は胸下と腰までの間に大穴が空き、ほとんど千切れかけている無惨な状態だ。その傷跡が、スバルには砂漠のミミズを殺したそれと同じもののようにも見えた。

廊下を駆け抜け、どこかへ向かおうとした背中を狙い撃たれたのだろう。唇を噛んで、無念を残した死に顔には、怨念めいた呪詛が感じられた。

 

嘔吐をした。

 

――朝の事情説明と、食事をした広間には、ユリウスとメィリィの死体があった。

 

ユリウスの死に様は、これまでで最も壮絶なものだった。体中に殴打の痕跡と、圧倒的な切れ味に負わされた裂傷が存在する。肘から吹き飛んだ左腕の傷には、マントの切れ端が乱暴に巻かれ、処置されていた。直接の、これという死因は見つからない。体中のそれが死因であるなら、おそらくは血を失いすぎたことが彼の死因だ。

そして、彼がそうまで必死に抗ったのは、背後に頽れる少女のためだったのか。

 

嘔吐をした。

 

壁に背を預け、腹に手を当てたメィリィは、唯一、穏やかな顔で死んでいた。

小さな掌が触れる腹部には、真っ赤な血で濡れた傷が確かに存在する。彼女の死因も失血死だろう。傷を負い、この場所で救いを待つうちに、命を落とした。

それなのに、亡骸の表情が安らかに思えることが、一切の理解を拒ませていた。

 

嘔吐をした。

 

「――――」

 

死体、死体、死体、死体、死体だ。

死体があった。死体ばかりがあった。死体ばかりが、転がっていた。

 

どうなっているのか、理解が及ばない。

どうなっているのか、現実がおぼつかない。

 

理想を言えば、スバル以外の全員が死んでくれることが、安息のための条件だった。

だがしかし、スバルの存在を欠いたところで、全員が死んでいるのは理解ができない。

 

頭を潰され、全身を切り刻まれた無惨なシャウラ。

肩から脇までを叩き切られ、凄惨な一撃に倒れたエキドナ。

背後から胴体を吹き飛ばされ、無念と呪詛を残して死んだラム。

体中に激しい戦いを繰り広げた痕跡を残し、ついには命を落としたユリウス。

ただ、腹に負った傷から血を失い、緩やかな死を安らかに甘受して死んだメィリィ。

 

何があれば、こんなことになるのか。

誰が犯人ならば、この事態を受け入れることができるのか。

 

「エミリアと、ベアトリス……」

 

見つけた死体は五つ、見つからない容疑者は二人。

その二人のどちらかが、あるいはその二人が共謀して、この事態を引き起こしたのか。

一番最初に、記憶をなくして目覚めたスバルを気遣っていてくれた二人が、その態度の裏側に殺意と狂気を宿して、この凶行を成し遂げたのか。

 

死体は五つ、白い布は四枚、シャウラ以外の四人に、それぞれ掛けられていた。

シャウラ以外の四人の死体は床に丁寧に寝かされ、瞼まで閉じられていた。そこには死者への敬意がある。シャウラの死体にだけ、それがない。

そもそも、この殺戮はいったい、どのタイミングで起きていたのだろうか。

 

「血は……」

 

乾いていた、と思う。

ふらふらと、塔内にまだ見つけていない、エミリアとベアトリスの存在を探し回るスバルは、それぞれの死体の状況を思い浮かべ、考える。

 

むせ返る血臭と、死体の状況が鮮明に蘇る。

それが脳髄に突き刺さり、胃袋が痛みと共に蠕動するが、内容物の底は尽きている。口内の吐瀉物の残滓を吐き出す唾液も出ない涸れ方で、冷や汗一つ浮かばない。

スバルの体はからからに渇き切っていた。同じく、彼らの血も、乾いていた。

 

血が水よりも乾きにくかったとしても、あれだけの量だ。

乾くのに必要な数時間、あるいは十数時間が、すでに惨劇から経過していると考えられる。スバル自身、自分がどのぐらい、砂漠の地下で彷徨っていたのかわからないが、それに足る時間は流れているのか、否か、自信がない。

 

混乱と、混沌がある。

不自由な意識の束縛が、ままならない現況をどうにかしろと訴えかけてくる。

安息を買わなければ、見つけなければ、そのためには、容疑者を減らさなければ。

 

あと二人の、この状況を作り出した犯人のいずれかが死ねば、解放される。

 

「――――」

 

――緑色の部屋に入った。黒いトカゲが、スバルを見つけて嘶いた。

 

生きている存在を見つけたのは、この塔に戻って以来、初めてだった。

 

「は。トカゲが、なんだよ」

 

トカゲの生存を目にして、スバルは渇いた笑みをこぼした。

誰か、できるなら死体との対面が望ましかったが、この期に及んで出くわした生存者がトカゲとは、いったい何の足しになるのだ。

舌打ちし、すぐに背中を向けて部屋を出る。トカゲ以外にいない部屋など、何の用事もない。しかし――、

 

「ついてくんな!」

 

「――――」

 

部屋を出たスバルの後ろを、その巨躯を縮めた黒いトカゲがついてこようとした。

立ち上がると意外なほど大きいトカゲは、まさしく馬と変わらない大きさだ。それがのしのしと、鋭い爪を備えた足を動かし、スバルの後ろをついてくる。

その圧迫感に耐えかね、スバルは腕を振るい、唾を飛ばして威嚇した。

 

「俺は、お前と遊んでる暇なんかねぇんだよ!この塔で、生き残ってる奴をぶっ殺さなきゃならねぇんだ!お前が邪魔するなら……」

 

手にしたナイフを構え、スバルはトカゲを正面から睨みつける。

鋭い面貌のトカゲは、スバルが手にした大振りのナイフを見て、しかし、すぐに視線をナイフではなくスバルへ戻した。

 

「う……」

 

ナイフの存在を無視して、こちらを注視する姿勢にスバルの喉が震える。

まるで、スバルの殺意を物ともしていない。それがひどく不愉快で、居心地が悪く、胸の奥で燻っていた敵意を触発するものだから――、

 

「――てめぇ、ふざけるんじゃねぇ!!」

 

叫ぶのと同時に、スバルはナイフを振りかぶり、対峙するトカゲへ叩きつけた。

ナイフの先端が、漆黒の鱗へと突き刺さる。最初、わずかな抵抗感があったが、それは抵抗を容易に破り、ずぐりと嫌な手応えと共に、深々とトカゲの体に突き立った。

まんじりと、動かずにいたトカゲ、その左脇のあたりにナイフが刺さっている。刃は根本までトカゲの体内に潜り込み、明らかな深手に鮮血がこぼれた。

 

「これで……」

 

どうだ、と続けようとしたスバルの喉が、か細く裏返った吐息をこぼした。

初めて、生き物を殺そうと、殺すための行動を実行した。そのことへの興奮と、激しい動悸がそれを引き起こしたのだが、言葉が続かなかったのには別の要因がある。

 

「――――」

 

「ぁ、う……」

 

ナイフを突き立てられたトカゲが、微動だにせず、スバルを見ていた。

深々と、刃を刺されたことへの反応はない。痛みにも驚きにも、一切の反応をしない。ただトカゲの鋭い瞳は、ナツキ・スバルの行いを見ていた。

その、感情の読み取れないトカゲの瞳が、ナツキ・スバルを糾弾している。

 

「クソ……クソ、クソクソクソ!なんなんだ、なんなんだよ!」

 

頭を掻き毟り、スバルは耐え切れなくなって激発する。

喚くスバルは、トカゲの体に刺したナイフを取り返すことも忘れ、後ろに下がった。

――否、あのナイフに、触れる勇気がない。トカゲの目が、恐ろしい。

 

「お前も、お前以外の奴らも……死体も!生きてる奴も!生きてるんだか死んでるんだかわからない奴らも!いったい、何考えて、どうしたいんだよ!?」

 

言っても無駄とわかっていながら、スバルは目の前のトカゲにぶちまける。

塔内を彷徨いながら、何も見えない地下の暗闇を彷徨いながら、右も左もわからない、こんな世界に投げ出された事実に苦しみながら、鬱屈と溜め込んだ感情を。

 

「俺を殺そうとする奴は、どいつもこいつも殺してやる!俺を頼ろうとする奴は、どいつもこいつも突き放してやる!勘違いすんな!調子に乗んな!勝手に、馴れ馴れしくしてきやがって……冗談じゃねぇ!」

 

「――――」

 

「お前らのことなんか、一人も知るもんかよ!お前らが何を思ってるかなんて、一つ残らず知ったことかよ!みんながみんな、自分の事情を押し付けやがって……!お前らが自分のことで手一杯なら!俺だって、俺のことで手一杯なんだよ!」

 

怒鳴り、喚き散らし、スバルはいつしか涙を流して、その場に膝をついていた。

正面、トカゲは何も語らず、肩を揺すって荒い息をつくスバルを見ている。スバルはそんなトカゲを正面から見られず、蹲り、床に額を押し付けた。

 

「俺のことなんか、放っといてくれよ……一人ぼっちで、見捨てていてくれよ……」

 

喉から絞り出すように、スバルの涙声が静かな通路に空しく響く。

そのまま、どのぐらいの時間が過ぎただろうか。十数秒、数十秒、数分か。身動きの取れないスバルは、床に這いつくばるスバルは、ふと気付く。

 

微かな、本当に微かな震動が、床を通じてこちらへ迫ってくることを――。

 

「あ」

 

「――――ッッ」

 

瞬間、スバルは顔を上げ、目の前にくわっと開かれるトカゲの口腔を見る。

鋭い牙が並んだトカゲの口、それがスバルの方へ迫ってくる。そのまま、頭を噛み砕かれて死ぬのだろうかと、ひどく、他人事のような心地でそれを見て――、

 

「う――!?」

 

トカゲの大口が、スバルの左肩をくわえると、そのまま一気に走り出した。

体が浮かび上がり、強引に地面から引っ張り上げられる。トカゲの鋭い牙が肩口に食い込み、肉の抉られる痛みに思わず悲鳴が漏れた。

 

「ぎ、ぁ!ひ、ひぃっ!」

 

殺そうとしたのだ。殺されるかもしれない、そんな考えはあった。

だが、実際に肩に牙を立てられた今、生じた痛みへの恐怖は安っぽい覚悟を簡単に塗り潰す。肩を食われ、体中を食われ、咀嚼されて、死ぬのか。

生き物に食われて死ぬなんて、想像し得る中でも最悪に近い死に方だ。

その予感に、スバルの全身が怖気に震えた直後――、

 

「――――」

 

寸前までスバルがいた通路が、おびただしい量の黒い靄によって真下から吹き飛ぶ。

それは激しい衝撃音を粉塵をばら撒いて、通路の床と壁、天井を蹂躙し、なおも獲物を求めるように、スバルたちへと矛先を向けた。

――それが、スバルには黒い、黒い影でできた、腕のようにも見えて。

 

「影の、腕……」

 

脳裏を、階段でスバルを苦しめた女の姿が過る。

黒いヴェールで顔を隠した影の女は、スバルの心臓を徹底的にいたぶり、恐怖を刻み込んだ。その、女の纏った影に、目の前で溢れ出す影はよく似ていた。

 

それが、塔の通路を好き放題に蹂躙し、スバルと――逃げるトカゲを追ってくる。

 

「お前……ッ!」

 

トカゲは答えず、スバルをくわえたまま、猛烈な速度で通路を駆け抜けた。

進路と逆方向を向かされるスバルには、トカゲが懸命に逃げようとする先が見えない。代わりに、追ってくる影の猛威だけは直視できて、全身の血が凍り付いた。

 

あれに、あの影に呑まれることは、あるいは死よりも恐ろしい末路を迎えることだ。

 

直感的にそれを悟り、スバルは肩に食い込むトカゲの牙をより深く押し込む。痛みに喉が震えたが、振り落とされればおしまいの状況だ。

事ここに至って、トカゲへの嫌悪感など、何の役にも立たない執着でしかない。

 

「――――ッッ」

 

正面、通路が爆ぜる音がして、影がこちらの進路を塞いだ。

瞬間、とっさの判断でトカゲは道を切り返し、影に呑まれる寸前の横道へ飛び込み、濁流のような勢いで押し寄せる影を振り切らんと疾走する。

しかし、そうして影から逃れんと走り続け、飛び出した空間は――、

 

「――っ!螺旋階段……っ!」

 

四層と、五層とを繋ぐ巨大な螺旋階段、その空間へと飛び出してスバルは絶句する。

無論、それは四層の高みから、はるか下である五層が見える事実――一度は自分が転落死した景色を目の当たりにする恐怖もあったが、それだけではない。

 

眼下、五層から四層へと上がってくる階段が、黒い影に呑まれ、沈んでいく。

つまりは塔全体、その下半分を、膨大な量の影が包み込み、沈めようとしていたのだ。

 

「下には逃げられない……だってのに、後ろも……」

 

塔の下はすでに影の手中にあり、逃げてきた通路の奥からも黒い濁流が迫ってくる。

万事休す、完全に追い詰められた状況だ。

あとは影に呑まれるか、それ以外の方法で死ぬかの、理不尽な選択肢しか。

 

「――――」

 

一瞬、自死の可能性が頭を過った。

あの影に呑まれるぐらいなら、自ら死を選んだ方がマシではないか。そして、ひょっとするとスバルには、死んでも可能性が残されるかもしれないのだ。

 

「あ、ひ」

 

自死を強く意識した途端、スバルの全身ががくがくと震え始める。

万一、自死を選んで、それで終わったらどうする。今の自分がやり直した結果であると漠然と考えているが、それが事実だという保証があるのか。

あるいは最初に考えた通り、予知夢でなかったとどうしていえる。前回までは痛みを伴う予知夢であり、今回が最後の一回だとしたら、それで終わりだ。

 

そもそも、何故、自分が死ななければならない。

何も悪いことなんてしていない。この状況で、命を支払うのが、何故自分なのだ。

 

「嫌だ……死にたくない!!」

 

恥も外聞もなく、スバルは泣き叫んだ。

それを聞き届ける人間は、塔内に一人もいない。死人と、行方不明者しかいない。

だから、それを聞き届けたのは、人間でなかった、漆黒のトカゲだけだった。

 

「――――ッ!」

 

牙にスバルを捉えたまま、トカゲが喉の奥で咆哮を爆発させる。

直後、トカゲは凄まじい加速を得て、背後から迫る濁流を逃れるように、一気に螺旋階段の空白へと身を躍らせた。

 

「――――」

 

当然、どれほど勢いのついた跳躍であろうと、いずれは勢いを失い、重力に捕まり、自由落下のままに、眼下の影へと呑み込まれる。

しかし、トカゲはその絶体絶命の状況を、事態の変化と驚くべき方法で打開する。

 

「――――ッ」

 

トカゲの二本の足、その鋭い先端が塔の壁に突き刺さる。無論、壁に取り付いたところでいずれは落下は免れない。――その壁が、垂直であったなら。

 

喉を奮起させ、トカゲが壁をひた走る。

根本から影に呑まれることで、巨大な塔はわずかに傾き始めていた。ほぼ、垂直に等しいその壁を、斜めに傾いだその壁を、トカゲは強引に踏みつけ、踏破する。

 

「う、そだろ……っ」

 

何が起きているのか、振り回されるスバルには全体像が把握できない。

ただ、この黒いトカゲが生存のために、持てる力の全てを費やし、邁進していることははっきりと伝わってきた。

 

「お前――」

 

直後、トカゲが踏み切った場所を、黒い濁流が覆い尽くす。濁流は、呑み込むはずだった獲物の存在を探し、それが壁に取り付いて走るのを悟ると、その場所へと迸った。

瞬間、トカゲが身を翻し、押し寄せる濁流の攻撃をかろうじて避ける。激しい衝撃と颶風が生まれ、トカゲが避けた塔の壁に大穴が開いた。

 

「――――ッ」

 

一も二もなく、壁に空いた大穴へと、トカゲが身を滑り込ませる。

激しく左右へ揺すられ、スバルの三半規管は平衡感覚を失い、もはやまともに世界を捉えきれない。ただ、そんな中でも、トカゲの強引なその動きが、影の攻撃をスバルに当てないための配慮であるのと、自分自身の体を影に削られることへの配慮が全くされていないことは、わかった。

 

大穴を抜ける。直後、砂を孕んだ風に迎えられ、スバルの視界を黒が焼いた。

外気を浴びている。まさか、塔の外へと飛び出したのか。なおも、トカゲは傾いた塔の壁を駆け上り、影から逃れんと必死に、必死に――、

 

「――う、ぁ!?」

 

大きく、トカゲの細い首がたわめられ、次の瞬間、風を強く浴びる。

左肩に食い込むトカゲの牙が抜かれて、肉が削ぎ取られる痛みが目の奥で白い明滅を生んだ。しかし、その痛みと風の感覚に遅れ、全身が硬い感触にぶつけられる。

ぶつけられ、転がり、投げ出されて、息を吐く。目を開けた。

 

ちかちかと明滅する正面に、黒い夜空が垣間見えた。

 

「あ、え……?」

 

その想像の外にあった光景に、スバルは慌てて体を起こした。

周りを見る。それは、塔と同じ材質の空間でありながら、確かに外の空間であり――バルコニーのような、塔の外壁に付随するスペースであると見て取れる。

壁の穴を抜けて、壁を駆け上がり、この空間へとスバルを投げ込んで――、

 

「トカゲ……っ!」

 

戦慄に、スバルは自分が転がってきた方角へ駆け寄り、下を覗き込む。

そして、自分をその場所へ投げ込んだトカゲ、その末路を目にした。

 

――落下していくトカゲが、その鱗よりなお黒い影に呑まれ、消える。

 

理不尽な怒りにナイフを刺され、自分自身の痛みと恐怖を顧みず、スバルをこのバルコニーまで投げ込んで、そのまま、トカゲは、影に。

死よりも恐ろしい末路が待つ、影に、呑まれた。

 

「なん、なんだ」

 

なんなんだ。なんなんだ。なんなのか。

スバルには、もう、何もかもがわからない。

 

「――――」

 

バルコニーから、影に呑み込まれていく塔の下部を眺めるスバル。ふと、そのスバルの傍ら、バルコニーの外縁に一羽の白い鳥が止まった。

感情のない眼差しで、スバルを見ている白い鳥――大きな鳥の存在に、スバルは「は」と息をこぼした。

 

死んだ容疑者、姿の見えない容疑者、命懸けで助けてくれるトカゲ、この状況で突如として現れる白い鳥――少しずつ、少しずつ、影に呑まれ、消えていく塔。

 

「――――」

 

終わりが迫ってくる感覚を味わいながら、スバルは脱力して座り込む。

ああも必死に、トカゲがスバルを助けようとしてくれたのは、わかる。わかるが、その想いは無駄になる。――ほんの少しだけ、死に逝く時間が延長されただけで。

 

「――――」

 

へたり込むスバルは、ふと顔を上げた。

背後に、不意の気配があった。鳥でもなく、トカゲでもなく、影でもない。

 

生きた、何者かの気配が、立った。

 

「……お前は、なんだよ」

 

振り返る余力もないままに、スバルは弱々しい声で問いかけた。

その声に、微かに喉を震わし、背後に立った誰かが笑った。聞いたことのない声で。

 

「――次、当ててみなよ、英雄」

 

瞬間、風音がして、スバルの視界が高々と跳ね上がり、くるくると回転する。

ひどく、自分の体が軽い。鳥のように空を上がり、気付いた。

 

誰かが後ろから、スバルの首を刎ね――、

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――スバル!ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

 

刎ねられたはずの首の接続と、意識の切り替えは一瞬の出来事だった。

柔軟な感触の蔦のベッドの上、目を覚ましたスバルを出迎えたのは、どれだけ懸命に探しても見つからなかった、銀鈴の声音と、その持ち主だ。

 

「えみ、りあ……」

 

「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」

 

うっすらと、瞼を開けたスバルの前に少女――エミリアの安堵の表情がある。彼女は目を覚ましたスバルの様子に胸を撫で下ろし、その唇に微笑を刻んでいた。

 

「――――」

 

その、エミリアを見ていて、細く美しい首がやけに目に眩しい。

スバルはどこか渇いた感覚のままに、そっとエミリアの細い首に両手を伸ばした。細い首は容易く、スバルの両手の中に収まりきる。

 

「スバル?どうしたの?」

 

きょとんと、スバルに首を握られるエミリアが目を丸くする。

スバルの仕草に驚いてはいるが、それを拒否しようという動きはしていない。その気になれば、スバルが全力を込めるだけで、きっとこの首は簡単に折れてしまう。

命を握られているのに、エミリアの反応はやけに鈍くて、いっそ――、

 

「エミリア、どうやらスバルは寝惚けているみたいかしら。ベティーたちに心配をかけたわりに、悠長なことなのよ」

 

「――っ」

 

途端、すぐ傍らからかけられた声に、スバルはエミリアの首から手を離した。

見れば、ベッド脇で短い腕を組み、呆れた様子で鼻を鳴らすベアトリスと目が合う。彼女の言葉に、エミリアは「そうね」と苦笑して、

 

「でも、寝惚けてるくらいなら全然いいの。もっと、大変なことになってたらどうしようって……倒れてるスバルを見つけたとき、ベアトリスも泣きそうだったんだから」

 

「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」

 

ベアトリスが顔を赤くして、悪気のないエミリアの発言にぷんすかと怒る。

そのやり取りを交わす二人は、今しがた、スバルがどんな衝動に囚われていたか、全く理解していない。それ以前に、危険な状況であることへの自覚がない。

スバルへの態度にも、それは如実に表れていて――、

 

「――つまり、ここは」

 

また、スバルが、『ナツキ・スバル』が記憶をなくした直後――言い換えれば、ナツキ・スバルが異世界召喚されたと認識できた瞬間、その場所へと舞い戻ってきたのだ。

そして、それは同時に――、

 

「――――ッ」

 

「――!お前……っ」

 

微かな嘶きと息遣いに、スバルは慌てて振り返り、その姿を視界に入れる。

緑色の部屋の片隅に、お行儀よく座り込んでいる黒い巨躯――影に呑まれる寸前まで、スバルのために奔走してくれたトカゲが、そこに悠然と佇んでいて。

 

「……なんだか、釈然としないのよ。スバルを見つけたのは、ベティーとエミリアの手柄のはずかしら」

 

「ふふっ、拗ねないの。いいじゃない。スバルとパトラッシュ、すごーく仲良しで」

 

背後、そんなエミリアとベアトリスの会話が聞こえてくる。

しかし、スバルはその二人の会話に反応もできずに、ただ、目の前のトカゲの大きな体に抱き着いて、その存在がここにあることに感謝した。

 

――あの場所で、唯一、スバルを傷付けなかった存在に、感謝していた。